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〜5000HIT記念リクエスト小説<るる☆さまへ>〜

真夏のエピソード:カスターニェ篇


その夜、イングリドは自室で研究書の執筆に没頭していた。
ザールブルグ・アカデミーの研究棟の一室。ランプの黄色い灯りに照らされた机に、羽ペンが走るかすかな音だけが室内の沈黙を破っている。
初夏の晩で、窓を開ければ涼しい夜風が入ってくるはずだが、イングリドはそうしようとしない。
緑が豊かなアカデミーの中庭には、虫やヘビが多く生息している。都会育ちのイングリドはヘビが苦手で、開いた窓から入ってくるのを恐れているのだ。

実験器具や参考書の山に囲まれ、イングリドの筆は休むことなく走りつづける。
もう半月もすれば、アカデミーは学年末のコンテストの準備にかかる。そうなると、イングリドをはじめとするアカデミーの講師陣も、試験範囲の検討、課題の作成、採点、受験生のランク付けと、1ヶ月あまりに渡って忙殺されることになる。
その前に、執筆中の錬金術の研究書を一段落させておきたい、という気持ちで、イングリドはここのところ毎晩、夜中過ぎまで研究室にこもっているのだった。

ふと、羽ペンの動きが止まる。
かすかなノックの音が聞こえたのだ。
ペンを置くと、ケントニス人独特の青みがかった銀髪をかきあげ、イングリドはそっと立ち上がる。
時刻はすでに真夜中を回っているが、いぶかることもなく、低いがよく通る声で返事をする。
「お入りなさい」

ドアがそっと開き、錬金術服に身を包んだ少年が姿を現す。整った知的な顔立ちの中でも、明晰な頭脳を感じさせる茶色の瞳が目立つ。
しかし、今はその瞳にはかげりが見え、目の下にもかすかなくまができている。
「イングリド先生・・・」
かつてはアカデミー主席の座を3年連続で守っていたこともある少年の声は、かすかに震えている。
「ノルディス。お掛けなさい」
イングリドは落ち着いた口調で、マイスターランク1年目の弟子を椅子に掛けさせ、自分も向かい合って腰を下ろす。
そして、黙って、弟子のノルディス・フーバーが口を開くのを待つ。
当のノルディスは、目を伏せたまま、しばらく気持ちを整理するかのように身を固くしたまま動かない。
逆に、イングリドはリラックスし、いつまででも待とうという表情だ。
かすかに揺れるランプの灯りに照らし出された二人の影が書架に映り、無言の会話を交わしているかのように見える。

ノルディスが顔を上げる。
彼の茶色の瞳と、イングリドの左右の色が違う瞳がぶつかり合う。
「先生・・・。許可をください。ケントニスに行く許可を・・・」
ノルディスが、絞り出すような声で言う。
イングリドは思案するように腕組みをして、ノルディスを見つめる。ノルディスは、師の言葉を待ちうけるように、すがるような表情を漂わせている。

「そう・・・。そんなに、あの娘たちに会いたいのかしら。大切なエリキシル剤の研究を放り出してまで」
イングリドの口から出た言葉は冷たい。
あの娘たち、というのは、ノルディスと同じマイスターランクに在籍しているエルフィール・トラウムとアイゼル・ワイマールのことだ。ノルディスの友人でもあるふたりは今、アカデミー間の交流研究生に選抜され、はるか西の大陸エル・バドールにあるケントニス・アカデミーに行っている。そして、選抜にもれたノルディスは、ザールブルグ・アカデミーに残り、自らが選んだ課題、あらゆる怪我や病気を治してしまうという究極の薬エリキシル剤の調合に取り組んでいたのだ。
イングリドの言葉に、ノルディスは激しく首を振り、答える。
「違います! ぼくは、そんなつもりで言っているんじゃありません! ただ、ぼくは・・・」

「ここのところ、あなたが研究に行き詰まっていたことは、私も知っています。だからといって、逃げ出そうというの?」
「そうじゃない!・・・確かに、ぼくは今、行き詰まっています。図書館の蔵書すべてを読んで、ありとあらゆる材料を試し、ブレンド調合もきめこまかく実験してきました。でも、満足のいく出来のものが、どうしても完成しないんです」
ノルディスは、いつもの物静かな彼からは想像もつかないような強い口調で、吐き捨てるように言う。
「いったい何が悪いのか、どうしてもわからない・・・。材料なのか、やり方なのか、それともぼく自身の考え方なのか。このまま、ここで実験を続けていても答えは見つかりそうにありません」
イングリドは、黙って小さくうなずきながら、先を促す。
「ケントニスへ行くことが、正解なのかどうかはわかりません。でも、エリーもアイゼルも、ケントニスに行って、一回り成長して帰ってきました。今のぼくに答えが見つかるとすれば、それはケントニスにしかないと思うんです」
ノルディスは言葉を切り、大きく息をつくと、言葉を続ける。
「ですから、お願いです、イングリド先生。ケントニスへ行く許可をください。エリキシル剤の研究は続けると約束します。ですから・・・」
最後には椅子から立ち上がり、師の肩に手を掛けんばかりにして、ノルディスは頼んだ。

イングリドは相変わらずの落ち着いた口調のまま、
「ノルディス・・・あなた、アカデミーの校則を覚えていないのですか」
「え・・・」
くちごもるノルディス。追い討ちをかけるように、無表情に続けるイングリド。
「ザールブルグ・アカデミー校則 第8条 アカデミー生徒は、師の許可なく他の魔法学院、研究所に赴いて研究をおこなってはならない。ただし・・・」
ここで、イングリドは微笑を浮かべ、
「・・・ただし、マイスターランク在籍者は、この限りではない」
まだ怪訝そうなノルディスに、
「ノルディス、あなたは、私の許可を得ることなく、いつでも自由にケントニス・アカデミーへ行って良いのですよ。・・・でも、あなたらしいわね。錬金術のことは何でも知っているようでいて、その他の知識は一般生徒以下なのですもの。ほほほほほ。その点では、エルフィールも同じだけれどもね」

イングリドも立ち上がり、ノルディスと向き合う。ふたりの身長は、ほぼ同じだ。
「ノルディス、私は、あなたがそう言ってくるのを待っていたのですよ。遅すぎたくらいだわ。あなたは、知識と理論は誰にも負けないけれど、なにかに挑戦するという気持ちや冒険心ではエルフィールにかないません。だから、私も交流研究生にあの娘を選んだのよ。あなたが、このことにいつ気付いてくれるかと思ってね」
ノルディスは、言うべき言葉がなかった。黙って深々と礼をし、師の部屋を出ようとする。
その後ろ姿に、イングリドは声をかける。
「でも、これだけは命令です。今夜は安眠香を焚いてぐっすり眠ること。いいですね」
続く言葉は、イングリドの心の中でだけつぶやかれた。
(それから、顔も洗った方がいいわね。涙の跡が残っていては、具合が悪いでしょう。ほほほほほ)

ノルディスが立ち去った後、イングリドは窓辺に歩み寄ると、中庭の木々の間に見え隠れする月の姿を目で追った。夜明けが近付き、下弦の月は西に向かって傾いていく。イングリドの故郷でもある錬金術発祥の地、ケントニスはその方角にあるのだ。
ふっ、とひとつため息をもらすと、イングリドは机に戻り、羽ペンを走らせ始める。


その日は、暑い1日になりそうだった。
真夏の太陽は容赦なく照り付け、朝は吹いていた浜風も、陽が高くなるにつれて弱まっていった。空は雲ひとつなく、吸い込まれそうなほどにどこまでも蒼く広がっていた。
海辺に暮らす漁師は、空の色には敏感だ。
魚の群れがどこにいるのか、嵐がいつ襲って来そうか・・・。自分の生活や、時には命さえも、空と海の色を見る眼力にかかっているのだから、当然とも言える。
ここカスターニェの漁師の中でも、ユーリカ・イェーダの勘と判断力は抜群だった。まだ20歳になったばかりで、海のベテラン揃いの漁師仲間のうちでは小娘と言ってもいいくらいだが、彼女は物心ついた時から父親と一緒に海で過ごし、その父が亡くなった15の時から、一人前の漁師として母や小さな弟、妹を養ってきたのだ。

しかし、今日のユーリカには、空を見上げている余裕などなかった。
息をはずませ、熱く焼けた砂の上を走る。
皮製の薄いサンダル越しに、砂の熱さが彼女の素足に伝わってくる。褐色の髪の生え際から、陽に焼けた額に汗がしたたり落ち、頬をつたう。汗が目に入ったのか、青い目をしばたたかせながらも、ユーリカは足をゆるめることなく、砂丘を駆け上がる。
千年亀温泉の脇を過ぎると、砂地は石畳の道に変わる。港町カスターニェの中心部を抜ける本通りだ。右に行けば港の桟橋に出るが、ユーリカは反対方向に曲がった。そちらの方向には何軒かの商店が並び、その先には乗り合い馬車の停車場がある。
ユーリカは並んでいる商店のうち、最初の店へ向かった。
店の看板には『シュマックの武器屋』と書かれている。

「ごめんよ!!」
走って来た勢いのまま扉を押し開けたユーリカは、そのまま店内に飛び込んだ。勢い余って、カウンターの前に立っていた若者と衝突しそうになる。
ユーリカと同じように日焼けした、精悍な顔立ちの若者は、ひょいと身をかわすと、ようやく立ち止まったユーリカに向き直る。
「おっと、早い到着だな。そんなにあわてなくても、ブツは逃げやしないぜ」
ユーリカは息を切らせ、肩で大きく息をしていたが、若者の肩をつかみ、ゆすぶるようにして叫ぶ。顔つきは真剣そのものだ。
「オットー!! 薬が届いたんだって!? あたしは、あんたからの知らせを聞いてすっ飛んで来たんだよ。これで、いつもの冗談だなんて言ったら、許さないからね!」
ユーリカの幼なじみで、雑貨屋を経営しているオットー・ホルバインは、興奮するユーリカをなだめるように、彼女の両腕を押さえ、
「おいおい、いくら何でも、こんな大事なことで俺が冗談なんか言うかよ。それより、冗談だなんて言ったら、それこそシュマックの旦那に悪いぜ」
と、カウンターの中で微笑んでいる、口髭をたくわえた小太りの男に目をやる。

「いやいや、オットー、あんたは幼なじみだからそんなことも言えるんだろうが、ユーリカの気持ちも考えてやらなきゃな。・・・ほら、これだよ」
と、カスターニェ唯一の武器屋の主人、シュマック・ホルテンは、中に黒っぽい液体が入った小さなガラス壜を振って見せた。
「ちょうど、わしの故郷ドムハイトの商人が珍しくカスターニェに立ち寄ったんでな、尋ねてみたんだ。ドムハイトの近辺には、まだ危険な魔物がうろついてるからな。そうしたら、たまたま一壜だけ薬を持ってるって言うじゃないか。すぐに譲ってもらったよ。それが、これさ」
ユーリカは、オットーの手を振り払うようにシュマックに向き直る。
カウンター越しにガラス壜を受け取ると、宝石のように押しいただく。

「あ、ありがとう・・・。なんてお礼を言ったらいいか・・・」
「礼なんかいいって。困った時はお互い様じゃないか」
シュマックは、人の良さそうな笑顔を浮かべる。
オットーは、しわくちゃになった自分のハンカチを差し出し、そっぽを向いて言う。
「おい、ユーリカ、目から汗が出てるぜ」
「な、なに言ってんだよ・・・」
それでも、ユーリカは照れくさそうに目をごしごしこする。
「さ、早くおふくろさんに飲ませてやれよ」
オットーが促す。
「ありがとう。それじゃ」
薬壜を大切そうに握りしめ、店を出て行こうとするユーリカに、シュマックが声をかける。
「あ、そうだ、言い忘れてた。その薬はよく効くが、そうとう苦いそうだ。飲ませる時は、気を付けるんだよ」

バタン、と扉が閉まる。
オットーとシュマックは、顔を見合わせる。
「・・・それにしても、運が悪かったよな、ユーリカのおふくろさんは」
「そうだとも。あんな、町はずれの砂浜に魔物が出るなんて、誰も思ってもみなかったことさ」
「フラウ・シュトライトが退治されて、海が平和になったから、自警団も油断してたのかもな」
「狼ならともかく、あんな悪魔みたいな魔物に襲われるなんて・・・」
「それでも、命があっただけでも儲けもんだぜ」
「けど、傷から毒が入って、1週間苦しみ続けていたんだし、なんとか薬が手に入って良かったよ」
「そう。放っておけば命にも関わる毒らしいしな」
「おふくろさんもだけど、俺はユーリカの方が心配だったよ。毎日毎夜の看病で、ほとんど寝てなかったものな」

そのような会話が交わされているのを知ってか知らずか・・・。
ユーリカは母親の命を救ってくれる薬壜を抱いて、石畳の道を踏みしめて走った。
ここからは、海岸の砂地を行くより、本通りを抜けて停車場から坂道を降りる方が早い。
行く手に、カスターニェ随一の宿屋兼酒場である『船首像』が見えてくる。ユーリカは、武器屋を出る時にシュマックに言われた言葉を思い出した。
(その薬はよく効くが、そうとう苦いそうだ・・・)
「そうだ、甘いハチミツ酒をお湯で割って、それに混ぜて飲ませれば・・・」
ハチミツ酒なら、『船首像』で分けてもらえばいい。亭主のボルトも、彼女の母親のことを随分と心配してくれていた。
ユーリカは、そう決心すると、『船首像』に足を向けた。


「はあ、あと1週間ですか」
ノルディスは、力なく肩を落とした。
つい先ほど、ザールブルグからの乗り合い馬車で、このカスターニェに着いたばかりである。
馬車で過ごした17日間も、ノルディスにとっては心休まる日々ではなかった。自分の錬金術師としての将来に不安ばかりがつのる。
この宿屋兼酒場『船首像』のことは、エリーやアイゼルから聞かされていた。そこで、カスターニェに着くととるものもとりあえず、亭主のボルト・ルクスの元を訪れたのだが、ボルトは涼しい顔で、ケントニスへの定期船の日程を告げたのだった。

とにかくケントニスに行かなければ・・・。ノルディスは焦っていた。
このあたりでは錬金術師は珍しいのだろう、酒場にたむろしている賭博師や荒くれ男たちが無遠慮な視線を向ける。普段ならおじけてしまうノルディスだが、心の悩みが大きすぎて、周囲に目が行き届かない。
「ま、部屋は空いてるからよ。船が出るまで温泉にでも入ってのんびりしたらどうだい。あんた、随分と疲れた顔してるぜ」
ボルトに勧められるままに2階に部屋を取ったノルディスは、しばらくベッドに腰掛けてぼんやりしていた。
だが、このままじっとしていてもどうにもならない、と思い直す。
(町を少し歩いてみようか・・・。そうすれば、気が紛れるかもしれない。それに、なにか珍しい材料が手に入るかも・・・)
階下に下り、出口に向かう。
外に出ようとした時・・・。

「あっ!!」

勢いよく駆け込んできた若い女性と正面衝突してしまった。
女性の手からガラス壜が飛び、床に落ちて乾いた音を立て、砕ける。中の液体が、板張りの床に黒い染みを作っていく。
ノルディスは倒れて腰を打ったが、すぐに起き上がる。
「大丈夫ですか?」
相手の女性は大人っぽく見えるが、ノルディスとそう歳は違わないようだ。褐色の長い髪を三つ編みにして束ね、後ろに垂らしている。青い大きな瞳が日焼けした肌によく映えている。

女性は、ぶつかった衝撃でうずくまったまま、顔を上げて呆然と目を見開いている。何が起こったのか、わからないでいるらしい。
が、やがて青い目に光が戻ってくる。空の両手を見つめ、あわててあたりを見回す。
「薬は・・・?」
「ガラス壜ですか? あ、あの、すみません。ぶつかった拍子に、割れてしまったみたいで・・・」
ノルディスが、床に散ったガラス片と染みを指す。
「え・・・」
女性の目が、ノルディスの指差す先に向けられる。その瞳が、大きく見開かれる。
「ごめんなさい」
ノルディスは、すまなそうに頭を下げる。この場合、不意に飛び込んできた相手の方が悪いはずだが、そこがノルディスのいいところでもあり、弱点でもあるのだろう。
だが、次の瞬間。

バチン!!

大きな音が、『船首像』に響き渡った。
何が起きたのかわからず、呆然とするノルディス。その左の頬が、みるみる赤く腫れていく。
漁で鍛えたユーリカの平手打ちをまともにくったのだ。
「なんて・・・なんてことを・・・」
ユーリカの声は震えている。
「あ、あの・・・」
じんじんとしびれる頬を左手で押さえ、ノルディスはなんとか事態を把握しようとする。

と、たくましいユーリカの手がノルディスの胸ぐらを捕らえ、引きずり起こす。無抵抗のノルディスは、何度も揺さぶられ、カウンターに叩き付けられる。
「なんてことをしてくれたんだい!! 薬が・・・大切な薬が・・・。母さんの、命を救ってくれる薬だったのに・・・。ああ・・・これじゃ、母さんは・・・」
ユーリカは、身を引き裂かれるような声音で、途切れ途切れに叫ぶ。その勢いと剣幕に、誰も止めに入る者はない。
「あんたのせいだ!! 母さんが死んじまったら、あたし、あんたを許さない・・・!!」
ノルディスの意識が朦朧としはじめた頃、不意にユーリカは手を放した。
あらためて、床に散ったガラスの破片と薬の染みを見つめる。

そして、『船首像』に居合わせた人々は、予想もしなかったものを見た。
いつも元気いっぱいで、海竜に襲われて暗く沈んでいたカスターニェの人々を元気付けてくれていた気丈な娘ユーリカが、床に身を投げ出して、号泣する姿を・・・。


「どうだった?」
カウンターの中でグラスを拭きながら、ボルトが尋ねる。
「ああ、ようやく眠ったよ。近所のおかみさんたちが、交替でついててくれるそうだ」
外から戻ってきたオットーが、答える。騒ぎを聞きつけてきて、取り乱したユーリカをなだめ、家まで連れて帰ったのはオットーだった。
「ごくろうだったな。ま、一杯やってくれ。俺のおごりだ」
と、ボルトは酒のグラスをカウンターに滑らす。
右手で器用にグラスをすくい上げると、オットーはカウンターを離れ、酒場の隅のテーブルへ歩いていく。テーブルの脇には、ボルト自慢の大きな水槽が置かれ、カスターニェ近海で獲れる様々な魚が泳ぎ回っている。

先ほどから、ノルディスはそこのテーブルに掛けたまま、泳ぎ回るイワシやアジの群れを、ぼんやりと目で追っていた。ボルトが出してくれたお茶も、手付かずのまますっかり冷めてしまっている。
オットーは、同じテーブルに付くと、椅子をノルディスのそばに引き寄せて座った。
「あんたも災難だったな。ユーリカのやつ、いったん荒れはじめたら、超大型の台風並みだからな。俺も、ガキの頃から何度もやられてる」
ノルディスの返事を待たず、グラスを傾けて、続ける。
「とは言え、面倒なことになっちまったもんだよな。シュマックの旦那に聞いたが、当分、あの薬が手に入るあてはないそうだ。このままじゃ、ユーリカのおふくろさんは、長く保たないかも知れねえ・・・」
「はい・・・事情は、ボルトさんから聞きました」
ぽつり、とノルディスが言う。表情は冴えず、疲労の色が濃い。

「ぼくのせいで、とんでもないことに・・・」
「おいおい、責任を感じるのはわかるけどよ、あれは出会い頭の事故だったんだぜ。そんなに気に病んでも、どうにもならないだろうよ」
「はい、でも・・・」
ノルディスの声は、消え入るようだ。オットーが続ける。
「そりゃ、俺だってユーリカの気持ちは痛いほどわかるし、あいつのおふくろさんにも随分と世話になってる。なんとか助けてやりたいけどな。だが、あの薬の材料はドムハイトでしか採れない薬草だっていうし・・・」
オットーは言葉を切ると、テーブルをどん、と叩いた。
「くそ、俺だって、なんとかしてやりてえよ!」

新しく熱いお茶を入れなおしてきたボルトが、カップをノルディスの前に置きながら言う。
「そういえば、あんた、錬金術師なんだろう? 代わりに、別のよく効く薬をさっと作るわけにはいかないのかい?」
ノルディスは、はっと顔を上げる。しかし、すぐに肩を落とす。
「でも、今のぼくには・・・」
「へ? すると、なにかい? そのごたいそうな服装も、金バッジも、お飾りだってことかい?」
いつのまにか2杯目のグラスを空けていたオットーが、辛辣な口調で言い返す。
「おい、オットー、言い過ぎだぞ」
たしなめるボルトを無視して、酔いが回ってきたオットーは無遠慮に続ける。
「言い過ぎなもんか。人ひとりの命も救えなくて、何が錬金術師だ。この町を救ってくれた、あの錬金術師とはえらい違いだぜ。あの娘、エリーは、命懸けでフラウ・シュトライトを退治してくれたんだ。あれ以来、俺は、錬金術ってのは、なんかこう、すばらしい物だって思いはじめたんだよ・・・。なのに、ここにいるのは、錬金術師の格好をした、ただの木偶の坊じゃないか」

ガタン!と椅子が音を立てる。
ノルディスは無言で立ち上がると、マントをひるがえして階段を駆け上っていった。
「お、おい・・・」
ボルトの声も無視される。
「やれやれ・・・」
ボルトは肩をすくめると、まだぶつぶつ独り言を言っているオットーに背を向け、夜の分の仕込みにかかる。


その晩遅く・・・。
深夜も近くなり、『船首像』は閉店時刻を迎えていた。
客の姿もまばらとなり、ボルトは後片付けを始めている。
オットーはあれからずっと飲みつづけ、すっかり酔いつぶれて隅のテーブルで眠り込んでいる。
(あいつもあいつなりに、ユーリカのことが心配で仕方がないんだな・・・。無理もないか)
ボルトは冷たい水のグラスを手に、オットーを揺り起こした。
「こら、もう看板だぞ。お前も、早く帰らないと、明日に差し支えるぞ」
「ん・・・。ああ・・・」
ぼんやりと目を開けたオットーは、グラスの水を一気に飲みほす。
「ああ、ありがてえ。しゃっきりしたぜ」

その時、薄暗い階段を静かに降りてきた人影があった。昼間と同じ、錬金術服に身を固めている。
「どうした、眠れないのか」
ボルトは声をかけたが、ランプの灯りに照らし出された表情を見て、口をつぐむ。
ノルディスの口元は固く引き結ばれ、茶色の瞳には、昼間にはなかった輝きが宿っている。
「ボルトさん・・・。オットーさんにも、お願いがあります」
ノルディスは、1枚の紙をふたりに示した。
「ここに書いてある材料は、手に入るでしょうか」
すっかり酔いが覚めたオットーが、メモに目を通す。
「なになに・・・。ガッシュの枝、ミスティカ、シャリオミルク・・・ああ、明日1日あれば、揃うと思うぜ」

「では、お願いします。なるべく早く、用意してください。それから、ボルトさん・・・」
驚いたように自分を見つめている亭主を振り向き、
「2階の寝室をひと部屋、作業場として使わせてください」
「あ、ああ、そりゃあ、いつも空いてる部屋だし、かまやしないが・・・」
「ありがとうございます。さっそく準備にかかります」
「それはそうと、いったい、何をする気なんだい?」
「薬を、調合します。エリキシル剤を・・・」
ノルディスはきっぱり言うと、言葉もなく見送るふたりに背を向けてすたすたと階段を上り、寝室に消えた。


翌日の午後、オットーが頼まれた材料を揃え、『船首像』の2階に行くと、その部屋はすっかり錬金術の実験室に変わっていた。
部屋の奥に置かれたテーブルには、乳鉢やガラス器具、天秤などの道具が並び、何冊かの参考書が開かれて置かれている。床には、様々な材料やアイテムが入った採取かごが置かれている。
すべて、ノルディスがザールブルグの研究室から持参してきた道具やアイテムだ。
「こいつは・・・すげえな」
材料を入れたふくろをノルディスに手渡しながら、オットーは感心したように言う。
「いえ、十分な環境とは言えません。でも、今回は、失敗するわけには行かないんです。なんとしても、成功させなければ・・・」
「ああ、そうだな・・・。それから、昨日は悪かったな。酔いにまかせて、好き勝手なこと言っちまって・・・」
「いえ、ああ言っていただいたおかげで、目が覚めたんです。お礼を言うのは、ぼくの方です」
たしかに、それがノルディスの実感だったのだ。

オットーが去り、ひとりになると、ノルディスは材料を吟味し、基礎調合にかかる。
機械的に手を動かしながら、ノルディスは様々なことを思い返していた。
自分が、何のために錬金術師になることを決心したのか・・・。

薬草医だった父親は、病気や薬草に関する知識は深く、本を読んで研究もしていた。だが、幼いノルディスは、自分の手に負えない病気や怪我に出会っては、悩み、くやしがる父親の姿を何度も見てきた。
薬草の勉強をするだけでは、大勢の人の命を救うことはできない・・・。そう考えたノルディスは、新しい知識である魔法を加えることで、父の手助けをしようと決心し、アカデミーに入学したのだった。
だが、主席としてアカデミーに入り、エリーやアイゼルと研究の日々を過ごすうちに、当初の決意はいつのまにか薄らいできてしまっていた。エリーに主席を奪われては落ち込み、マイスターランクに進んだものの、本人の気付かないところで、惰性に流されはじめてしまっていたのだった。

しかし、今のノルディスは違う。
彼の両肩にかかっているのは、ひとりの人の命。
まだ見たことも、会ったこともない、ただの通りすがりの町で、ほんの偶然から関わった命。
そして、彼の手でしか救えない命・・・。
その命が失われたならば、ユーリカの、あの青い瞳も輝きを失ってしまうかもしれない。
ノルディスは、雑念を忘れ去った。

ただ無心に、材料を砕き、すりつぶし、計量する。
溶かし、混ぜ合わせ、暖め、冷やす。
ランプの炎が踊り、遠心分離器がうなる。
材料に薬品が加わるたびに、フラスコの中身は泡立ち、湯気を立て、色彩を変える。それを見すえるノルディスの茶色の瞳に、不安やためらいの色はない。
日に3度、ボルトが部屋の外に置いていってくれる食事に手を付けるほかは、ほんのわずかの仮眠を取るだけで、ノルディスは働きつづけた。

そして、5日目の朝。
ためらいがちなノックの音が、ノルディスの作業場に響いた。
ノルディスがドアを開けると、そこにはユーリカが立っていた。いささか決まり悪そうに、落ち着かなげな 様子である。
「待っていましたよ。入ってください」
ノルディスにうながされ、ユーリカは作業場に足を踏み入れる。そして、意を決したように、ノルディスに向き直る。

「あのさ・・・。この前はごめんよ、いきなり殴っちまって。あたしも、あの時は我を忘れちまっててさ。でも、あんたが代わりに薬を作ってくれてるってオットーに聞いて・・・。もっと早く来ようと思ったんだけど、どんな顔して来たらいいのかわからなくて。母さんの看病も続けなけりゃならなかったし。だけど、あんたが呼んでるって聞いてさ・・・薬、できたのかい?」
最後の言葉には、期待と不安が入り混じっている。
ノルディスは、疲労と睡眠不足でやつれた顔をしていたが、ユーリカを安心させるように微笑を浮かべた。
「あの時のことは、気にしないでください。それよりも、お母さんの具合は?」
「ああ、変わっていない。良くなってもいないけど、悪くなってもいないみたいだ。でも、高熱が続いているから、徐々に身体は弱っているんじゃないかと・・・」
「では、急ぎましょう。これから、最後の調合に入ります。ぜひ、ユーリカさんに手伝ってもらいたいんです」
ノルディスの言葉を聞いて、ユーリカは驚いたように後ずさる。

「ちょ、ちょっと待ってよ。あたし、錬金術のれの字も知らないんだよ。なんだって・・・」
「少し、ぼくの話を聞いてください。ぼくは、ザールブルグのアカデミーで、ずっとエリキシル剤の調合に取り組んでいました。でも、何回繰り返しても失敗ばかりで、その原因すらわかりませんでした。材料は厳選していたし、手順も参考書の通りやっているのに、出来上がるのは不良品ばかり・・・」
これを聞いて、ユーリカが不安そうに身じろぎする。結局、失敗の言い訳を聞くために、ここに呼ばれたのだろうか?
ノルディスは続ける。
「でも、ここへ来て、ぼくは気付いたんです。足りなかったのは、気持ちなんじゃないかと・・・。錬金術は、人を幸せにするために存在するはずなんだ。誰かを助けたい、誰かを幸せにしてあげたい・・・そういう想いが、最近のぼくには欠けていた。それで、形だけの調合を繰り返していたから、ちゃんとした出来のものができなかったんだと、そう思ったんだ。非科学的だけれど、そうとしか考えられない」
そして、ユーリカの青い瞳をまっすぐに見つめ、
「だから、最後の調合を、一緒にやってほしいんだ。ぼくだけの想いじゃ、足りないかもしれない。お母さんを助けたいという想いを、一緒にこめてほしい」
ノルディスの熱意は、ユーリカにも伝わったようだった。
青い瞳が輝き、大きくうなづく。
「わかったよ。何をすればいいんだい? 教えておくれよ」

ノルディスは、ユーリカを作業台の方へ導く。
そこには、4種類の薬品が入ったフラスコと試験管が置かれていた。
「さあ、まずはこれとこれを混ぜ合わせるんだ。一緒に、持って」
ノルディスが、濃い緑の液体が入った試験管を取り上げる。その上から、ユーリカが右手を添える。
「よし、始めるよ」
試験管を傾け、乳白色の液体が溜まったフラスコに中身をそっと注いでいく。
ふたりは、ぴったりと寄り添うようにしながら、慎重に作業を進めていった。ひとつひとつの作業に、想いを、願いをこめながら・・・。

「さあ、最後だ」
ノルディスがつぶやき、中和剤を入れた試験管を右手でつかむ。それを、日焼けしたユーリカの右手がおおう。
最後の作業。
中和剤は、傾けた試験管を流れくだり、ゆっくりとフラスコの中に注がれていく。最後の薬品を受け入れた材料は、いっとき揺らめき、きらめき、清澄な輝きを放ったかに見えた。それまで、ノルディスがアカデミーの研究室で行ってきた実験では見られなかった反応である。
そして、願いをこめて見つめるノルディスとユーリカの目の前で・・・。
フラスコの液体は、限りなく澄み切った透明なそれに変化していた。

「う・・・うまくいったのかい?」
かすれた声で、ユーリカが言う。
「できた・・・。まちがいないよ。エリキシル剤だ・・・」
ノルディスの声も、震えている。
が、すぐにノルディスはフラスコの中身を小壜に移し、ユーリカに差し出す。
「さあ、早く、お母さんに!」
ユーリカも、はっと我に返る。
「あ。ああ、わかった。・・・ありがとう、恩に着るよ!!」

薬壜を大切そうに握りしめ、脱兎のごとく部屋を飛び出していくユーリカ。
それを見送ったノルディスは、ゆっくりとベッドに歩み寄り、腰を下ろす。
横になり、目を閉じる前に、ノルディスはそっと目をぬぐった。


翌日の晩。
その日は、カスターニェの夏祭に当たっていた。
砂浜にはやぐらが作られ、大きなかがり火が焚かれ、住民たちは思い思いの楽器を手に集まる。
月明かりに照らされた砂浜で、子供たちが走り回り、大人たちは酒を酌み交わす。太鼓を叩き、笛を吹き鳴らし、手ぶらの者は手拍子で合わせる。晴天を祈り、大漁を願う素朴な歌が唱和され、歌に合わせて踊りが始まる。
時おり爆竹が鳴らされ、花火が打ち上げられる。花火が夜空を焦がすたびに、子供たちの歓声が響き渡る。

そこから、少し離れた小高い砂丘の上。
ノルディスとユーリカが並んで腰を下ろし、にぎやかな浜辺の夏祭を見下ろしていた。
ふたりが力を合わせて調合したエリキシル剤はよく効いた。ユーリカの母親は熱も下がり、ベッドに起き上がって簡単な食事もとれるようになったという。
そして、ユーリカは夏祭にノルディスを誘ったのだった。

「こんなところにいていいのかい? 向こうへ行って、みんなと混ざった方が・・・」
ノルディスが振り向いて言う。
ユーリカはかがり火を見つめながら、首を振った。
「いや、今は、この方がいいんだ。ちょっと疲れちゃったからね、にぎやかなのは、頭が痛くなるよ」
「そうか・・・。なら、いいけど」
再び、ふたりは黙りこくって、浜辺を見下ろす。
「明日だよね、ケントニス行きの船が出るのは・・・」
ユーリカが、ぽつりと言う。
「うん・・・」
「行かなきゃいけないのかい?」
ユーリカの言葉に、ノルディスははっとする。
そっと、盗み見るようにユーリカを見やる。
ユーリカは、まっすぐ前方を見つめたまま、左手で砂をかきまぜている。
ノルディスは、答えにつまり、大きく夜空をあおいだ。

七色の宝石をばらまいたような、満天の星。
(そう言えば、ケントニスに行こうと思ったのは、エリキシル剤を完成させるためだった・・・。だけど、エリキシル剤は、できあがってしまった・・・。今さら、ケントニスに行く必要はあるんだろうか)
思いにふけっていたノルディスの肩に、暖かくやわらかなものが寄りかかってきた。
潮の香りのする、ユーリカの褐色の髪が、ノルディスの肩にかかる。
驚いて注意を戻すと、ユーリカの穏やかな寝息を感じた。
疲れがたまっていたのだろう、ユーリカは体重をノルディスに預け、ぐっすりと眠り込んでいる。
その重みは、ノルディスには心地よかった。
パン!!と音がし、夜空に大輪の花が咲く。
カスターニェの夏祭も、そろそろ終わりに近づいているようだ。

(少しの間、ここにいてもいいかな・・・)
ノルディスは心の中でつぶやき、自分もそっと目を閉じた。

<おわり>


○にのあとがき>

いや〜、長かったです!(エリー役の声優 長沢美樹さんのおまけのセリフ)
ダンジョンの5000HIT記念小説のリクエストをるる☆さんにいただいてから、出来上がるまでに1ヶ月半もかかってしまいました。

いただいたお題は、「ノルディス&ユーリカ」。
ううむ、アイゼル様がいるのに、ノルに浮気をさせていいものだろうか・・・と、夜も眠れないほど悩みました。
・・・「でも、ちゃんと昼寝してたじゃない」
余計なこと言うな、ピコりん。

ま、難産の末、なんとか書き上げました。でも、あんまりラブラブな雰囲気ではないなあ・・・。
それに、プロットは何気に「夜明けのアイゼル」によく似てるし。
ま、いいか。オットーやシュマックも初登場させることができたし・・・。

実は、その頃ケントニスでは、エリーとアイゼルが、マリーの特製育毛剤の実験台にされていたわけです。(^^;
ノルがそこに行き合わせていたら、どうなったことか・・・。


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