ここは、アカデミーの寮棟。
時刻は真夜中を過ぎ、あたりはしん・・・と静まり返っている。
ところどころに設けられた窓から、月明かりが差し込む長い廊下。そのいちばん端に、ただひとつ、ドアの隙間からかすかな光が漏れる部屋がある。中からは、ガラス器具のふれあう音、液体をかきまぜる音などが時折聞こえるほかは、しわぶきひとつしない。
部屋の中では、錬金術の世界でも最高レベルの調合が、今やクライマックスを迎えようとしているのだ。
作業台に向かっているのは、錬金術師の服に身を包んだ少女である。意志の強そうな口許はへの字に結ばれ、顔の高さに掲げた試験管の中身を見つめる瞳は真剣そのものだ。床には材料のかけらやごみが散らばり、数限りない失敗のなごりが黒い染みや焦げ跡となって残っている。頭の後ろで束ねた長い髪がくしゃくしゃに乱れていることからも、彼女がかなりの期間にわたって満足な睡眠もとらずに作業に取り組んできたことがうかがえる。
作業台の上には、少女が過去数週間、苦労に苦労を重ねて取り揃えてきた材料が並べられている。すべて最高の季節に採取した材料を用い、ブレンド調合を繰り返し、失敗を重ねながら品質を限界まで高めてきた薬剤やアイテムだ。それらを慎重にすりつぶし、量り、溶かし、暖め、混ぜ合わせる。
ランプの炎に暖められたフラスコの中の液体は、材料がひとつ加えられるたびに、色を変え、泡立ち、生き物のように息づいて見える。少女は、それらの反応を逐一追いながら、無意識のうちに眉をひそめたり、大きくうなずいたりしていた。
そして、最後の材料を取る。試験管の中の中和剤と混ぜ合わせ、反応を確かめる。少女はひとつ大きく息をつき、意を決したように試験管の液体をフラスコに流しいれた。
息を詰め、フラスコを見守る。最後の材料を受け入れた液体は、いっとき渦巻き、七色にきらめいたかに見えた。が、次の瞬間、すべての色は存在をやめ、フラスコの中には限りなく清冽な輝きをもった透明な液体が静かにたゆたっていた。
しばらくの間、時が止ったかのように、少女は身じろぎせず自分の調合の結果を見つめていた。
やがて、ほうっと大きなため息をつく。目にはかすかに光るものがあった。
「できた・・・とうとう。あのエリキシル剤が・・・」
少女は、どんな病気でもたちどころに治してしまう究極の薬、エリキシル剤の調合に成功したのだ。
「そうだ、先生に知らせなきゃ」
彼女は完成品の一部を小びんに移すと、それをしっかりと握りしめ、部屋を出た。
もう夜が明けてきたらしく、早起き鳥のさえずりがかすかに聞こえてくる。だが、まだアカデミーの大部分は寝静まっているようだ。
しかし、少女は自分の師が早起きなのを知っている。
少女は小走りに廊下を進み、研究棟の階段を駆け上がる。師の研究室は、2階の中央だ。
息をはずませてドアの前に立ち、そっとノックする。
一瞬の間をおいて、
「お入り」
と、師の落ち着いた声が応える。
少女は、喜びにほころびそうになる表情を引き締めようと努力しながら、ドアを開けた。
「先生、わたし、エリキシル剤の・・・」
(作成に成功しました!)
と、喉元まで出かかっていた言葉が凍りつく。
部屋には先客がいたのだ。
自分がもっとも会いたくなかった相手が。
彼女と同じ年格好の少女。やはり錬金術師のいでたちをしている。大きな椅子に腰掛けている師に向かい、落ち着いた表情で微笑んでいる。
しかも、その手に握られている小びんの中身は、エリキシル剤に違いない。
(またしても・・・)
彼女は血が出るほど強くくちびるをかみしめた。
(先を越された。今度こそ、勝ったと思ったのに・・・)
そんな彼女の心を知ってか知らずか、師は椅子から腰を浮かせ、大きく両手を広げて少女を迎えた。
「おお、きみもか、ヘルミーナ。たった今、イングリドも報告に来てくれたところだよ。いや、素晴らしい。ふたり揃って、その若さでエリキシル剤の調合に成功するとはな。さすがに、わたしが見込んだだけのことはある」
二人の少女の師匠であり、エル・バドール大陸最高の錬金術師としてケントニス・アカデミーの筆頭講師をつとめるドルニエは、素直に喜びを表わし、祝福のことばをかけた。
イングリドが振り向き、そっと右手を差し出す。
「おめでとう、ヘルミーナ。お互い、がんばったわよね」
ヘルミーナはその右手を無視した。眼光鋭い瞳でイングリドをひたとにらみすえ、ドルニエに一礼すると、無言できびすを返し、足早に部屋を出た。
「待ちなさい、ヘルミーナ。いったいどうしたんだ」
という師の言葉も耳に入らなかった。
走って自分の部屋に戻ったヘルミーナは、ドアに内側から鍵をかけた。ゆっくりと作業台の方を振り向く。だが、視線は定まらず、行き場をなくしたかのように宙をさまよっている。
ふと、右手に目を落とす。今はじめて気付いたかのように、右手に握りしめられたエリキシル剤の小びんに目をやる。口許に、苦笑とも自嘲ともつかない笑みが一瞬浮かんだが、すぐにくちびるはきつく引き結ばれる。瞳に炎が戻ってくる。
次の瞬間、ヘルミーナは右手を振り上げ、小びんを床に叩きつけていた。
鋭い音がして、びんが砕ける。貴重な薬品が、小さな染みとなって床に広がる。
ヘルミーナはそのままソファに倒れこんだ。
うつ伏せになった両肩が小刻みに震える。熱い涙がとめどなくあふれ出てくる。隣人たちに聞かれまいと必死にこらえても、鳴咽がこみ上げてくる。
(イングリドに・・・。またしても、イングリドに・・・)
師の部屋にいたライバルの姿が、心の中に浮かんで離れない。あの時、イングリドは祝福するかのように手を差し出したが、その目には勝ち誇ったような光が浮かんではいなかったろうか。
最初から、二人は競い合う運命だったのか。
アカデミーの入学試験。ヘルミーナは満点の成績で、主席合格間違いなしと思っていた。だが、同じく満点で主席を分け合った少女がいた。それがイングリドだった。その時から、ヘルミーナにとってイングリドは終生のライバル、いや、目の上のこぶとなった。
1年目のコンテストで、ヘルミーナは調合試験でわずかなミスを犯した。普通ならば問題にならないミスだったが、相手がイングリドでは致命的だった。ヘルミーナは学年2位に終わった。
2年目の終わりに、筆頭講師であるドルニエが、二人を自ら指導すると宣言した。ドルニエは、真に自分の後継者となれるだけの素質と才能を、二人に見出したのだ。ここでも、最初に研究室に呼ばれたのはイングリドだった。それはドルニエの使いが呼びに来た時、たまたまヘルミーナが調合中で返事をしなかったから、というだけのことなのだが。
そして今日だ。卒業まで1年を残すのみとなって、ドルニエから与えられた課題は、エリキシル剤を調合すること。彼女の作業は完璧だった。しかし、結果は・・・
(同じことをしていたのでは、イングリドには勝てない・・・)
ヘルミーナの肩の震えが止った。ゆっくりと体を起こす。額にかかった髪をかき上げ、室内を見回す。
「ふふふ・・・」
口許から、しのびやかな笑いが漏れてきた。
その日を境に、ヘルミーナの姿はアカデミーから消えた。
2年後・・・
アカデミーの研究棟では、イングリドが自室で基礎知識試験の採点をしていた。
ふと筆を休め、思いにふける。
1年前にアカデミーを主席で卒業したイングリドは、ドルニエの一番弟子として研究にあたるかたわら、自ら教室を持ち、講師として生徒たちを指導していた。充実した生活と言えば言えるが、どこか物足りなかった。
アカデミーの生徒として自分を鍛えていた頃の、身の引き締まるような緊張感と、心踊るような充実感。あれは、どこへ消えてしまったのだろうか。
心の片隅では、イングリドはその理由がわかっていた。
ヘルミーナ・・・あの強力なライバルがいないせいだ。
書き置きも残さずにアカデミーを出奔したヘルミーナは、卒業式にも現れなかった。ドルニエはなにか知っているのかもしれないが、教えてくれようとしない。
ノックの音がして、イングリドは物思いから引き戻された。
「お入りなさい」
ドアが開いて、1年生の女生徒がおずおずと入ってくる。イングリドの顔が思わずほころぶ。年も5歳と違わないので、生徒というより妹のように思えるのだ。生徒の方からすれば「恐いイングリド先生」となるのだが。
「あのう、先生宛てに、お手紙が届いてました」
「そう。ごくろうさま」
生徒が退室すると、イングリドは残りの採点を急いで済ませた。
さきほど届いた手紙を手に取り、あらためた。ふと、眉をひそめる。
差出人のない封筒には、宛名とともに「果たし状」と書かれていた。
ケントニスの町は、エル・バドール大陸の東にある。町の東は広い海に面し、西は山並みが町のすぐそばまで迫っている。というよりも、大陸からそのまま海に落ち込んでいる山のふもとにひっそりと固まっているのがケントニスの家並みだという方が正しい。
アカデミーは、町の北側の丘の中腹に、町を見下ろすような形で建てられている。その北西には深い森におおわれた険しい山々が連なり、町の人間もほとんど足を踏み入れようとしない。
その深森を抜け、はだかでごつごつした岩山が更に高く続くあたりに、わずかな平地があり、小さな湖がひっそりと、澄んだ水をたたえている。十数年前のがけ崩れで沢がふさがれてできたこの湖はケント湖と呼ばれ、かつて罠猟師が寝泊まりした丸太小屋が、そのほとりに建っている。
だが、この一帯は今は怪物が出るとの噂もあり、人々からすっかり忘れ去られていた。
しかし、今、その小屋からは煮炊きの煙が上がり、人が忙しそうに立ち働く物音が響いてくる。
日は西の山の端に傾き、黄昏時が迫っていた。
と、小屋の扉が開き、手に木桶をさげた魔女のような背の高い姿が歩み出てきた。少女らしさは薄れていたが、鋭い眼光と引き締まった口許は、少しも変っていない。
ヘルミーナは、丸2年をここで独りで過ごしていた。
皆と同じようにアカデミーで暮らしていたのでは、イングリドに勝る力を身に付けることはできない・・・そう決意した彼女は、この山にこもり、独自の錬金術修行を続けていたのだ。
この山でなら、調合の材料は、鉱物も薬草もふんだんに手に入る。気を煩わされる隣人もいない。時々、怪物が現れるが、ヘルミーナの魔力と爆弾の敵ではなかった。
ヘルミーナは夕暮れの薄明かりの中をゆっくりと歩いて行き、湖のほとりの岩に腰かけた。
ふところから奇妙な形の笛を取り出し、そっとくちびるに当てる。
静かな、しかしどこか心を騒がせるような不思議な旋律が、ヘルミーナの笛から流れ、湖上へと漂っていく。高く、低く・・・。ヘルミーナは目を閉じ、音をつむぎ続ける。
それまで鏡のようだった湖面が不意にうねった。うねりは波紋となり、無数の水の筋となって、ヘルミーナのいる岸辺に向かって進んでくる。
目のいい者ならば、水面にわずかに突き出た三角形をした無数の頭を見ることができただろう。
足もひれもない体を器用にくねらせ、驚くほどの速さで水面を滑ってくるのは、ヘビの群れだった。
ケントの水蛇・・・この付近の沢や湖にしか生息しない小型のヘビだ。育ってもせいぜい1メートル程度の長さで、毒はないが性質は荒い。
ヘルミーナは吹き続けながら目を開け、水面を見やる。そして、満足そうにうなずくと、笛を持ち直し、別の旋律を吹きはじめた。すると、集まってきた水蛇はあっという間に散っていった。
さらに曲は流れ続ける。
と、今度は先ほどよりも大きなうねりが湖の底の方から湧き上がってきた。そして、水音とともに大きなかま首が水面から持ち上がった。
人間の赤ん坊ほどもある頭、長さ10メートルを越そうかという胴・・・怪物という名にふさわしい大蛇だ。色と形からすれば、ケントの水蛇には違いない。しかし大きさが桁違いなのだ。気の弱い人間なら・・・いや、並の人間なら、ひと目見ただけで腰を抜かすか悲鳴を上げて逃げ出してしまうだろう。
だがヘルミーナは笛を口から離し、大蛇に向かって艶然と微笑んで見せた。
「来たわね。わたしの貴婦人さん。さあ、食事の時間よ」
そして、木桶の中の魚を次々に大蛇に与えはじめた。
ヘルミーナが与えている餌は、この湖や近くの沢で捕れる普通の魚だが、ひとつだけ違うところがあった。これらの魚には、ヘルミーナ特製の強化栄養剤がたっぷりと仕込んであったのだ。
ヘルミーナは、こうして薬品を使うことで、本来は小型の蛇であるケントの水蛇を、10倍の大きさに育てることに成功したのだ。そして、これも彼女が独自で調合した笛を使って、蛇たちを自在に操ることもできるようになったのである。
そうすることに、特別の目的があったわけではない。ただ、他の誰にもできないことをやる・・・そのことだけが、ヘルミーナにとって重要だったのだ。また、もしかすると、彼女自身も気付かないところで、蛇たちとの交流に孤独を癒すよすがを求めていたのかもしれない。
日課を終えると、ヘルミーナは大蛇が去って静まり返った湖面を見つめながら、物思いにふけった。
(明日こそ・・・)
決着を着ける日だ。手紙を受け取れば、イングリドは必ずやってくるだろう。
今度こそ、完膚なきまでに叩きのめす。錬金術師としての実力の差を、はっきりと思い知らせてやるのだ。
「ふふふふ・・・ふふふふふ」
ヘルミーナの押し殺した笑い声は、夜のしじまと木々のざわめきの中に吸い込まれていった。
「さあ、次は何をして遊ぶのかしら」
イングリドの不敵な声が響く。
「そうね。お遊びはこれくらいにして、そろそろわたしの実力をたっぷりと味わってもらおうじゃないの」
ヘルミーナも言い返す。
「へええ。ぜひ見せてもらいたいものね。あなたの実力とやらを」
「ふふふふふ・・・」
「ほほほほ・・・」
ヘルミーナの予想通り、イングリドは翌日の朝、この湖のほとりにやってきた。そして、二人はすぐさまヘルミーナが果たし状に記したルールに従って、対決を開始したのだ。
シャリオ山羊を実験台にした、薬剤の効力比べは、全くの五分だった。眠らされたり、麻痺させられたり、一時的に死んだり、山羊こそいい迷惑だったろう。
続いて、中身を傷つけずに樽だけを破壊する魔力比べも、二人とも完璧だった。
いつのまにか、日は傾きかけている。
「そろそろ決着をつけましょう。方法は、あれよ」
ヘルミーナは、森のはずれに転がっている、2個の大岩を指した。小さな家ほどもある岩の固まりである。イングリドがいぶかしそうな目を向ける。
「何をしようというの? まさかあなた・・・」
「そう・・・。そのまさかよ。あれを、どちらが粉々に破壊できるか・・・。一発勝負で決めましょう」
イングリドは一瞬、眉を吊り上げたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「ふうん、いかにもあなたが考え付きそうなことね。錬金術は破壊のためにあるのではないのだけれど、いいわ。こんなこともあろうかと、究極の爆弾を、わざわざ調合してきたのよ」
「ふふふ。どんな爆弾かは知らないけれど、わたしのオリジナル調合を甘く見ないことね。本当の、究極の爆弾がどんなものか、思い知らせてあげるわ。・・・でも、その前に」
と、ヘルミーナは言葉を続けた。
「少し休憩にしないこと? 素敵なメロディを聞かせてあげるわ。あなたにはとても真似のできないような曲よ」
いぶかしげな表情になるイングリド。だが、ヘルミーナは構わず笛を取り出すと、岩に腰掛けておもむろに吹きはじめた。
心をくすぐるような不思議な旋律が流れる。最初は疑わしそうにあたりを見回していたイングリドも、岸辺の岩にもたれ、腕組みをして耳を傾けている。
イングリドのすぐそばの湖面に、さざ波が立った。気配を感じたイングリドが振り返る。そして、イングリドは、水面から伸び上がったケントの大水蛇の頭とまともに向かい合う格好になった。
一瞬の間。
「いやあああああ!」
イングリドの悲鳴は、ヘルミーナも驚いて笛を取り落としそうになるほど大きかった。しりもちをつき、後ずさりしながら逃げようともがく姿は、普段の冷静沈着なイングリドからは想像もつかない。
事態を引き起こしたヘルミーナの方が、あっけにとられている。ヘルミーナとしては、最後の決戦を前に笛を吹いて心を落ち着けたかったのと、ケントの大蛇を目にしてイングリドが少しでも動揺してくれれば戦いが有利になると思っただけなのだ。
都会育ちのイングリドが蛇を大の苦手としていることを、ヘルミーナは知らなかった。
「やめて! お願い、あっちへ行って!」
「イングリド・・・」
ヘルミーナが近寄ろうとしたが、その前に、パニックにとらえられたイングリドは、ふところから爆弾を取り出し、夢中で大蛇に投げつけた。
「イングリド! 何をするの!」
だが、手許が狂い、イングリドが作り出した究極の爆弾は、ヘルミーナの小屋に向かって一直線に飛んでいった。
すさまじい轟音があたりを揺るがす。火柱とともに、小屋の半分が跡形もなく吹き飛んだ。
それだけでは終わらなかった。
小屋の中には、ヘルミーナが調合した強力な爆弾が貯蔵されていたのだ。それが一度に誘爆した。
閃光とともに、台地が揺らぐ。ヘルミーナもイングリドも爆風にとらえられ、草むらに叩き付けられる。その上に、吹き飛んだ岩や木のかけらが降り注ぐ。
しかし、最大の悲劇はその後に起こった。2度にわたる大爆発で地盤が緩んだのか、ケント湖を支えていた岩盤に亀裂が走り、次の瞬間、崩壊した。底が抜けた湖の水は、岩や土砂を混えて濁流となり、海に向かって斜面をなだれ落ちていった。
やがて、土埃がおさまり、土砂崩れの響きも遠くなった。
あたりは、折れ飛んだ木の枝や岩のかけらで覆いつくされていた。そのがれきの山の隙間から、一本の腕が突き出された。しばらくあたりを探るようにしていたが、やがてもう一方の手と頭が現れる。もがくようにしてやっと立ち上がったヘルミーナは、呆然とあたりを見回した。小屋は完全に消えてなくなり、ケント湖があったはずの場所は、ただの険しい断崖になってしまっている。
「わたしの楽園が・・・」
「まったく、とんでもないことをしてくれたものね」
あきれたような、半分うんざりしたような声が背後から響く。振り向くと、倒れた大木にイングリドがもたれかかっている。すでに、いつもの冷静さを取り戻しているようだ。
イングリドは、服のあちこちが破れ、焼け焦げ、顔と腕は擦り傷だらけだ。顔も髪も土埃にまみれ、年老いた魔女のように見える。自分も同じようなものだろう、とヘルミーナは思った。
「こんなことがドルニエ先生に知れたら、どうなることか・・・」
「何を言っているのよ、イングリド。あなたがあんなところで爆弾なんか投げるから、こんなことになったんじゃないの」
「その原因を作ったのは誰よ。あんな怪物を手なづけているなんて・・・。まあ、あの怪物もさっきの爆発で吹っ飛んでしまったでしょうけれどね」
「ふ、残念だわ。とてもわたしになついていたのに・・・。まあ、あなたの爆弾も悪くはなかったわね。今回の勝負は引き分けということにしておいてあげるわ」
「あら、そう。引き分けねえ。世の中には、都合のいい言葉があるものねえ」
しばし、二人はにらみ合った。
やがて、どちらからともなく、口許がほころび、低い笑いが漏れてきた。
「ふふふふ・・・ふふふふふ」
「ほほほほほ・・・」
イングリドとヘルミーナ・・・二人の笑い声は、廃墟の上を吹きわたる風に乗って、どこまでも運ばれて行った。
幸いなことに、土石流はケントニスの街をそれ、無人の斜面を流れ下って海に注いだ。人々は、この事件をまれに起こる天変地異だと考え、エル・バドールの年代記に書き記した。真相を知っているのは、当事者ふたりと、師のドルニエだけだった。
イングリドとヘルミーナが独自に調合した究極の爆弾は、あまりに危険過ぎると判断したドルニエの命令により、すべての文献から抹消され、封印されることとなった。
ヘルミーナはアカデミーに戻り、イングリドと隣り合わせの研究室で錬金術の研究を続けている。しばらくはおとなしくしているつもりのようだ。
だが、ヘルミーナは知らない。彼女が育てたケントの大水蛇が土石流の中を生き延びて、海に下ったことを。
そして、強化栄養剤を大量に摂取していた“彼女”が大海原を回遊するうちに限りなく成長し、後に巨大な海竜となって対岸のカスターニェの住民をおびやかすことを・・・。
<おわり>
<付録>
−<へび使いの笛・レシピ>− | ||
疾風の竹笛 | 1.0 | |
魅了の粉 | 3.0 | |
研磨剤 | 1.0 | |
中和剤(青) | 1.0 | |
細工道具を使用 | ||
−−−「禁書:ヘルミーナ文書」より |
<○にのあとがき>
これは、エリーやアイゼルがまだ生まれるか生まれないかの時代のお話です。
今は「先生」と呼ばれるイングリドやヘルミーナにも、アカデミーの生徒だった時代があるはずなのです。ふたりが宿命のライバルと言われるようになった「なれそめの記」を書こうと思ったわけですが・・・。
わはは・・
「へび女先生」の面目躍如、といった感じになってしまいましたね。
もうひとつ、錬金術の持つ黒魔術的な側面を、ヘルミーナを主役にすることで描いてみようと思ったのですが、どうだったでしょうか。
封印された「究極の爆弾」というのは、アレとアレのことです(ネタバレ防止のため、伏せ字)。たぶん、ヘルミーナが調合したやつが、より強力な方でしょう。
イングリドがヘビが苦手、というのは、作者の勝手な設定です。でも、だからこそ、イングリドはヘルミーナが苦手なんじゃないかと・・・
このふたりの対決は、また書いてみたいですね。