[安房落ち]平家物語(長門本)
三浦の人々は主にははなれぬ、親にはおくれぬ、舟ながしたる心地して、安房の北方にり
う島にぞ着にける、暫くやすらふ程に、はるかの沖に雲井に見えて、船こそ一艘みえたり
けれ、此人々申けるは、あれにみゆる船こそあやしけれ、此ほどの大風大浪にあま舟つり
舟商人船などはあらじ、あはれ兵衛佐殿の御船にてや有らん、また敵の船にてや有らんと
て、弓の弦しめして用心して有けるが、船は次第に近附、是を見れば誠に兵衛佐殿の御船
なりと笠印を見付て、三浦の船よりも笠印をぞさし上げたる、猶用心して兵衛佐殿をば打
板の下に隠し奉て、其上に殿原並居たり、三浦の人々はいつしか心もとなくて、御船に押
合せける、和田の太郎申けるは、いかに佐殿は渡らせ給はぬか、岡崎申けるは、我等も御
行衛を知まいらせぬ間、尋参らせて行なりといふ、三浦は大介がいひし事ども語りてなく、
岡崎は余一が討れし事はとてなく、昨日一昨日の軍の物語をぞしける、兵衛佐は打板の下
にて是を聞給ひて、あはれ世に有て、是等に恩をせばやとぞさまざまに思はれける、いた
く隠れて是等に恨みられじとて、頼朝は爰に有ばとて、うち板の下より出給ひたりければ、
三浦の人々是を見奉て、各悦てなき合ひけり、和田の小太郎申けるは、父も死ね、子孫も
死ね、只今君を見奉れば、それに過たる悦はなし、今は本意を遂ん事疑ひ有べからず、君
今は只侍共に国々をばわけ給へ、義盛には侍所別当をたふべし、上総権の守忠清が、平家
より八ヶ国の侍別当を給てもてなされ候しが、浦山しく候しにとぞ申ける、兵衛佐殿安房
の国安戸新八幡大菩薩に参詣して、千返の禮杯奉て、
みなもとはおなじ流れぞいは清水
せきあけ給へ雲のうへまで
其夜の夢想に御宝殿より
ちひろまでふかくもたのめいは清水
只せきあげん雲のうへまで