[木曽義仲死す]平家物語(長門本)
 
 
 
 今粟田口に打出にければ其勢七騎也、まして中有のたびのそら、思ひやるこそかなしけれ、
七騎が中一騎は女鞆繪といふ美女也、紫格子のちやうの直垂に、萌黄の腹巻に、重籐に弓
うすべうの二十四さしたる矢負ひて、白蘆毛なる馬のふとく逞しきに、二どもゑすりたる
貝鞍置てぞ乗たりける、ここには誰とは知らず武者二騎追かけたり、ともゑ叶はじとや思
ひけん、馬をひかへて待処に、左右よりつとよる、その時左右の手をさし出して二人が冑
のわたがみをとて、左右の脇にかいはさみて、一しめしめてすてたりければ、二人ながら
首ひしげて死ににけり、よはひ三十二にぞなりける、此ともゑはいかが思ひけん、逢坂よ
りうせにけり...........
(略)

粟津の辺にては主従五騎にて落にけり、手塚別当、同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次
郎家包と云者つづきたり、(略)あれに見え候松のもとへ打よらせ給て、しづかに念佛申
させ給ひて御自害候べし、射残して候矢七八候、防矢仕候べしと申て、粟津の松のもとへ
はせ寄けり、去程に勢多の方より武者三十騎計り出来る、是を見て殿ははや松中へ入せ給
へ、兼平はこの荒手に打向ひて、死なば力及ばず、いきば帰り参らん、兼平が行衛を御ら
んじ果て、御自害候へとて、かけんとする ........(略)

ここに相模国の住人石田小太郎為久といふ者追かけて、大将軍とこそ見参らせ候へ、きた
なしや、源氏の名をりに返し合せ給へといひければ、木曽射残したる矢一ありけるをとて
つがひて、おしひらいて射たりければ、石田が馬のふと腹にのすくなく立たりけり、石田
はまさかさまに落にけり、木曽は松の方へ落行、頃は元暦元年正月二十日の事なれば、粟
津の下のひろなはての、馬の頭もうづもれる程の深田に、氷のはりたりけるを、はせ渡ら
んと打入たりければ、馬もよわりて働かず、ぬしも疲れて身もひかず、さりとも今井はつ
づくらんと思ひて、うしろを見かへりけるを、為久よひいて射たりければ、木曽が内甲に
射つけたり、甲のまかうを馬の頭にあてて、うつぶしに伏たり、為久が郎等二人馬より飛
びおりて、木曽が頸を取る、今井は木曽討れぬと見て、あら手にむかひ命を惜まず戦ひけ
り...(略)...見習や八ヶ国のとのばらとて、太刀をぬきてきつ先をくはへて、馬
よりまへに落て、つらぬかれてこそ死にけれ。