[厨川の合戦]陸奥話記
 
 

同十四日に厨川の柵に向かう。十五日酉の刻に到着す。厨川嫗戸の二柵を囲み、相去るこ
と七八町ばかりなり。陣を結び翼を張り、終夜これを守る。件の柵、西北に大澤、二面河
に阻む。河岸三丈有余にして、壁立ち途無し。その内に柵を築き自ずと固む。柵上に楼櫓
を構え、鋭卒これに居す。河と柵との間に亦隍を堀り、隍の底に刃を倒立し、地上に鐵を
蒔く。また遠きは弩を発しこれを射る。近きは石を投げこれを打つ。偶々柵下に到らば、
沸湯を建てこれを沃し、利刃を振るいこれを殺す。十六日卯の時より攻め戦う。終日通夜
積弩乱発す。矢石雨の如く、城中固く守りこれを抜かれず。官軍の死者数百人なり。十七
日未の時、将軍士卒に命じて曰く、各々村落に入って屋舎を壊し運び、この城の隍を填め、
また人毎に萱草を苅り、これを河岸に積めと。これに於いて壊し運び苅り積む。須く更に
山の如し。

(中略)
則ち自ら火を把なち、神火と称しこれを投げる。(略) 官軍射る所の矢、柵の楼頭に立
つ。なお蓑毛の如し。飛焔風に随い矢羽に着き、楼櫓屋舎一時に火起こる。城中の男女数
千人、同音に悲泣す。賊徒潰乱し、或いは身を碧潭に投げ、或いは首を白刃に刎ぬ。官軍
水を渡り攻め戦う。この時賊中敢えて死者数百人なり。

(中略)
これに於いて経清を生虜る。(略) 将軍深くこれを悪み、殊更に鈍刀を以てその首を漸
斬す。これ経清の痛苦を久しくせんと欲するなり。貞任劔を抜いて官軍を斬る。官軍鋒を
以てこれを刺す。大楯に載せ六人にてこれを舁き、将軍の前に置く。その長六尺有余、腰
周り七尺四寸、容貌魁偉、皮膚肥白なり。将軍罪を責め、貞任一面に死す。また弟重任(字、
北浦の六郎)を斬る。但し宗任自ら深泥に投じ逃げ脱しをはんぬ。貞任の子童十三歳、名
は千代童子と曰う。容貌美麗、甲を被り柵外に出て、よく戦い、驍勇祖風有り。将軍哀憐
し、これを宥めんと欲す。武則進みて曰く、小義を思い巨害を忘れること莫れと。将軍頷
いて遂に斬る。(貞任年三十四死去)

その後幾ばくならず、貞任が伯父安部の為元(字、赤村の介)、貞任が弟家任帰降す。ま
た数日を経て宗任等九人帰降す。