[奈須の余一、扇を射る]平家物語(長門本)
 
 
 
 (前略)
去程に日もくれほどになりて、尋常にかざりたる船一艘、渚に向ひて船を平付に直す。是
は何船やらんと見る所に、紅のはかまに、やなぎの五衣きたる女房の、よはひ十八九計り
と見えたるが、紅の扇をくしにはさみて、船の舳さきにさし上げて是をいよとぞ叩きたる。
判官是をみて、いかがはすべき、射ざらんも無下なるべし、射はづしたらんも不覚也、い
つべき物やあると尋ね給けるに、後藤兵衛申けるは、下野国の住人奈須の太郎助高が子に、
奈須の余一惟宗こそ、かけ鳥なんどを三かひなに二かひなは仕る者にて候へ、小兵にてこ
そ候へども、余一を召て仕らせ給へとぞ申ける。

余一仰せを承りて、褐衣の鎧ひたたれに、くろかはをどしの鎧きて、きかはらげなる馬に
のりて、渚に向ひてあゆませけり、馬の太腹つかるまで打入て見れば、馬はしきりにすす
みけるを、小手綱にゆらへて引き拘たれば、扇立てたる所は七たんばかりぞ見えたりける。
かぶら矢打くはせてみるに、扇は風に吹けて座敷にたまらず、くるりくるりとぞめぐりけ
る。まことに射にくげなり。余一矢をはづして目を塞ぎて、帰命頂禮吾国の佛神、取りわ
けては日光の大権現、宇都宮の大明神、この矢はづしつる物ならば、再び我が国へ帰るべ
からず。ただ今腹かき切りてすなはち海に沈むべし、願くは此矢はづさせ給ふなと祈念し
て、目を見あげたれば、扇の座敷ぞ定めたり。矢束は十二束、飽まで引てしばしかためて
放ちたれば、弓はつよし、海の面に長なりして、あやまたずかなめ所を一寸ばかりあげて、
ひいはたと射たり。扇は空にさっと上る。紅の扇の夕日にかがやきて、空にしばしひらめ
きたるぞ面白き、海のおもてにさと落て、白波にこそ浮びたれ、龍田河の紅葉の、河瀬の
波に散まよふに異ならず、月出したる扇の、浪の上にただよひたるが面白さに、陸には箙
をたたきてどよむ、海にはふなばたをたたきて感じけり。

此の興に入て、黒皮威の鎧を着たる武士の五十余ばかりなるが、扇立たる所にさし出て、
三時ばかり舞ひたりけり。奈須の余一中指をとてつがひて、首の骨をひゃうと射きりけれ
ば、海へ逆さまにこそまろび入けれ、こんどはにがりて音もせず、色もなういたりと云人
もあり、手全く射たりと云者もあり。彼扇たてたる女房は、もとは建春門院の雑仕に参て、
玉虫と召されけるが、當時は平大納言時忠の卿の中愛の前とぞ申ける。