[墨俣合戦]平家物語(長門本)
 
 
 
知盛、重衡、惟盛以下の追討の使、去ぬる二月二十日、美濃の国杭瀬河まで下りたりける
が、源氏の大勢、尾張の国まで向ふと聞えければ、平家の軍兵、墨俣河の南の端に陣を取
て、源氏を相待つ所に、三月十一日の曙に、東の河原に武者千騎計り馳せ来る、すなはち
東の河端に陣を取る、是兵衛佐には伯父、十郎蔵人行家と名乗る、又千騎計り馳せ来る、
是は兵衛佐の弟、鳥羽の卿公圓全と云僧なり、常磐が腹の子、九郎一腹一姓の兄なり、十
郎蔵人に力を付んとて、兵衛佐、千騎の勢を付てさし上りたりけるなり、十郎蔵人が陣に
二町計り隔てて陣を取る、平家は西の河端に七千騎、源氏は東の河端に二千騎、河を隔て
て陣を取る、明る卯の刻に東西の矢合せと聞ゆ、行家と圓全と互に先を心にかけたり..
(中略)

卿公は、十郎蔵人に先を懸られては、兵衛佐に面を合すべきかと思ひければ、明日の矢合
せを待けるが、余りに心もとなさに、人一人も召し具せず、只一人馬に乗て陣より二町計
り歩せ上て、烏森といふ所をするりとわたして、敵陣の前岸の陰にぞ扣へたる、十郎蔵人
は夜の明ぼのに、余波をつくりて河を渡さんと聞くより、圓全今日の大将軍と名乗懸んと
おもひて、東やしらむ、夜や明ると待懸たり。

平家の勢十騎計、松明をてに灯して河ばたを巡りたるに、峯の陰に馬を引立て、其側に人
こそ立たりけれ、是をみて、爰なる者は敵か御方かと問ひたりければ、これを聞きて圓全
すこしもさわがず、御方の者の馬かひひやし候と答へたり、御方ならばかぶとをぬぎて名
乗れといひければ、馬にひたとのりて陸へ打あがり、兵衛佐頼朝が舎弟、鳥羽卿公圓全と
いふ者なりと名乗て、十騎が中へかけ入、十騎の者共中をさとわけて通しけり、圓全は三
騎を打とりて二騎の手を負せて、残五騎に取籠められて討れにけり。

十郎蔵人是を知らずして、卿公が陣を見せけるに、大将軍見え給はずと申ければ、されば
こそとて、十郎蔵人打立にけり、千騎の勢をば陣に置きて、二百騎を相具して、稲葉河の
瀬を歩ませて、河を西へさと渡して、平家の中へぞ馳入ける、去程に夜の明がたに成けれ
ば、平家敵の大勢にて夜討に寄たりとさわぎけるが、火を出して見れば、わづかに二百騎
計なり、無勢にて有けるものをとて、七千騎にて差向ひたり、十郎蔵人大勢の中にかけ入
りて、時をうつす迄戦ふに、大勢に取こめられて、手取足取に捕はれし程に、二百騎わづ
かに二騎に打なされて、河を東へ引退く。.........
(中略)

尾張源氏泉太郎重光百騎の勢にて、きのふより搦手に向ひたりけるが、大手の鬨の声を聞
て、平家の大勢の中へ馳せ入けり、是も取こめられて、半分は討れて残りは引退く、大将
軍泉太郎も討れにけり。........
(中略)

平家七千騎を、五手に分て戦ひければ、十郎蔵人心計は猛く思へども、こらへずして小熊
引退く、折津宿に陣を取る、折津の宿をもおひ落されて熱田へ引退く、熱田にて在家をこ
ぼちて、かいだてを構へ、爰にて暫く支へたりけれども、熱田をも追落されて、三河の国
矢作河の東の峯に、かいだてを構へてささへたり、平家頓て矢作へ追かくる、河より西に
扣へたり、額田郡の平共走り来て、源氏について戦けれども、叶ふべくもなかりければ、
十郎蔵人謀をして、雑色三人旅人の體の装束せさせて、笠簑持せて平家の方へ遣はす、何
と聞く事あらば、兵衛佐東国の大勢、只今矢作に着て候時に、今落ち候つるげんじは、其
勢と一つに候ぬらんといひて遣しけり、案のごとく平家聞ければ、教のごとく申ければ、
聞ゆる東国の大勢にとり籠られてはいかがせんとて、平家取物も取あへず、思ひ思ひに逃
ふためきて、二十七日に都へかへり上りにけり。