間をへだて彌太郎一騎進み出で申しけるは、「これは白印にておはしまし候は誰にて渡ら
せ給候ぞ。本名実名を確かに承り候へと鎌倉殿の仰せにて候」と申しければ、其中に二十
四五ばかりなる男の色白く、尋常なるが、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧金物打ちたるを着、
白星の五枚兜に鍬形打って猪頸に着、大中黒の矢負ひ、重籐の弓持ちて、黒き馬の太く逞
しきに乗りたるが歩ませ出でて、「鎌倉殿も知召されて候。童が名は牛若丸と申し候ひし
が、近年奥州に下向仕り候て居候ひつるが、御謀反の様承り、夜を日に継ぎて馳せ参じて
候。見参に入れて賜び候へ」と仰せられければ、堀彌太郎、さては御兄弟にてましましけ
りと馬より飛んで下り、御曹司の乳母子佐藤三郎を呼び出して、色代有り。彌太郎一町ば
かり馬を引かせけり。
かくて佐殿の御前に参り、此由を申しければ、佐殿は善悪に騒がぬ人にておはしけるが、
今度は殊の外に嬉しげにて、「さらばこれへおはしまし候へ。見参せん」との給へば、彌
太郎やがて参り、御曹司に此由を申す。御曹司も大に悦び、いそぎ参り給ふ。佐藤三郎、
同四郎、伊勢三郎これ等三騎召連れて参らるる。
佐殿御陣と申すは、大幕百八十町引きたりければ、その内は八ヶ国の大名小名のみ居たり。
各々敷皮にて有りける。佐殿御座敷には畳一畳敷きたれ共、佐殿も敷皮にぞおはしける。
御曹司は兜を脱ぎて童に着せ、弓取り直して、幕の際に畏ってぞおはしける。その時佐殿
敷皮を去り、わが身は畳にぞ直られける。「それへそれへ」とぞ仰せらるる。御曹司しば
らく辞退して敷皮にぞ直られける。
佐殿御曹司をつくづくと御覧じてまづ涙にぞ咽ばれける。御曹司もその色は知らね共、共
に涙に咽び給ふ。互にこころの行く程泣きて後、佐殿涙を抑へて、「扨も頭殿に後れ奉り
て、その後は御行方を承り候はず、幼少におはし候時、見奉りしばかり也。頼朝池の尼の
宥められしによりて、伊豆の配所にて伊東、北條に守護せられ、こころに任せぬ身にて候
ひし程に奥州へ御下向の由はかすかに承って候ひしかども、音信だにも申さず候。兄弟あ
りと思召し忘れ候はで、取敢へず御上り候事、申盡し難く悦び入り候。これ御覧候へ。斯
かる大功をこそ思ひ企てて候へ、八ヶ国の人々を始として候へども、みな他人なれば身の
一大事を申合する人もなし。みな平家に相従ひたる人々なれば、頼朝が弱げを守り給ふら
んと思へば、夜も夜もすがら平家の事のみ思ひ、又ある時は平家の討手上せばやと思へど
も、身は一人なり。頼朝自身進み候へば、東国覚束なし。代官上せんとすれば、こころや
すき兄弟なし。他人を上せんとすれば、平家と一つに成りて、返って東国をや攻めんと存
ずる間、それも叶ひがたし。いま御辺を待ち付けて候へば、故左馬頭殿生き返れせ給ひた
る様にこそ存じ候へ。われ等が先祖八幡殿の後三年の合戦にむなうの城を攻められしに、
多勢みな亡ぼされて、無勢になりて、廚河のはたにおり下りて、幣帛を捧げて王城を伏拝
み、「南無八幡大菩薩御覚えを改めず、今度の寿命を助けて本意を遂げさせて給べ」と祈
誓せられければ、誠に八幡大菩薩の感応にやありけん、都におはする御弟刑部丞内裏に候
ひけるが、俄に内裏を紛れ出で、奥州の覚束なきとて、二百余騎にて下られける。路次に
て勢打加はり、三千余騎にて廚河に馳せ来って、八幡殿と一つになりて終に奥州を従へ給
ひける。その時の御こころも、頼朝御辺を待ち得参らせたる心も、如何でかこれに勝るべ
き、今日より後は魚と水のごとくにして、先祖の恥をすすぎ、亡魂の憤りを休めんとは思
召されずや。後同心も候はば、尤然るべし」との給ひも敢へず、涙を流し給ひけり。
御曹司兎角の御返事もなくして、袂をぞ絞られける。これを見て大名小名互ひの心の中推
量られて、みな袖をぞ濡らされける。暫く有りて、御曹司申されけるは、「仰せのごとく、
幼少の時御目にかかりて候けるやらん。配所へ御下りの後は、義経も山科に候ひしが、七
歳も時鞍馬へ参り、十六まで形のごとく学問を仕り、さては都の候ひしが、内々平家方便
を作る由承り候し間、奥州へ下向仕りて、秀衡を恃み候ひつるが、御謀反の由承りて、取
敢ず馳せ参る。今は君を見奉り候へば、故頭殿の御見参に入り候心地してこそ存じ候へ。
命をば故頭殿に参らせ候。身をば君に参らする上は、如何仰せに従ひ参らせでは候べき」
と申しも敢えず。又涙を流し給ひけるこそ哀れなれ。さてこそ此御曹司を大将軍にて上せ
給ひけり。