[高倉の宮]平家物語(長門本)
 
 
 
一院第二の御子もちひとの王と申は、御母はかヾの大納言すゑなり卿の御娘とかや、三條
高倉の御所にましましければ、高倉の宮とぞ申ける。去永萬元年十二月十六日、御とし十
五と申しに、太皇太后宮の近衛河原の御所にて御元服ありしが、今年は三十にならせ給ひ
ぬれども、いまだ親王のせん旨をだにかうむらせ給はず、ちんりんしてぞ渡らせ給ひける。
(中略)

卯月九日ひそかに夜うち更るほどに、源三位入道頼政忍て彼宮の御所に参りて、勤め申け
る事こそ恐しけれ、君は天照大神四十九世の御苗裔、太上法皇第二の皇子なり、太子にも
立せ給ひ、帝位にもつかせ給うべき御身の、親王のせんじをだにもゆるされおはしまさず
して、すでに三十にならせおはしましぬる事、心うしとはおぼし召されずや、平家世をと
て二十余年になりぬ、何事もかぎりある事なれば、悪行とし久くなりて栄華たちまちに盡
なんとす、君この時いかなる御はからひもなくては、いつを期しさせおはしますべきぞ、
とくとくおぼし召し立て、源氏におほせて、平家を追討せらるべし、慎しみすごさせ給ふ
とも、終にあんをんにて果てさせおはしまさん事ありがたし、君さやうにもおぼし召し立
ば、入道七十に余り候へども、子ども一両人候へば、などか御共仕候はざるべき、世のあ
りさまを見候に、うへこそしたがひたる様に候へども、内々は平家をそねまぬものやは候、
就中ほうげん平治以降ほろびうせたりとは申候へども、その外の源氏どもこそさずが多く
候へとて.........(後略)

 
(補注)
     以仁王は後白河皇子で、高倉上皇の庶兄。 安徳天皇は高倉上皇の子。
     源頼政は頼光五代の孫で、平治の乱には初め義朝に属したが後帰順し、
     清盛の奏請により三位になった。