[土左房、義経を襲う]義経記
 
 
 
土佐が勢百騎、白川の印地五十人相語らひ、京の案内者として、十月十七日の丑の刻許り
に六條堀河に押寄せたり。判官の御宿所には、今宵は夜も更け、何事もあるまじきと各々
宿に帰る。武蔵坊、片岡六條なる宿へ行きてなし。佐藤四郎、伊勢三郎室町なる女の許へ
行きてなし。根尾、鷲尾堀川の宿へ行きてなし。その夜は下部に喜三太ばかりぞ候ひける。
判官も其夜は更くるまで酒盛して、東西をも知らず臥し給ひける。斯かるところに押寄せ、
鬨をつくる。され共御内には人音もせず。静敵の鯨波の声に驚き、判官殿を引動かし奉り、
(中略)

喜三太櫓に上りて、大音あげて申しけるは、「六條殿に夜討入りたり。御内の人々は無き
か。在京の人は無きか。今夜参らぬ輩は、明日は謀叛の與党たるべし」と呼ばはりける。
爰に聞きつけ、彼処に聞きつけ、京白川一になりて騒動す。判官殿の侍どもを始めとして、
此処彼処より馳せ来る。土佐が勢を中に取籠めて散々に攻む。片岡八郎、土佐が勢の中に
駆け入りて、首二つ、生捕り三人して見参に入る。伊勢三郎、生捕り二人、首三つ取りて
参らする。亀井六郎、備前平四郎二人討ちて参る。彼等を始めとして、生捕り分捕思ひ思
ひにぞしける。その中にも軍の哀れなりしは、江田源三にて止めたり。宵には御不審にて
京極にありけるが、堀河殿に軍ありと聞きて、馳せ参り、敵二人が首取りて、「武蔵坊、
明日見参に入れて賜び候へ」と言ひて、又軍の陣に出でけるが、土佐が射る矢に首の骨箆
中責めてぞ射られける。
(中略)

昌俊は味方の討たれ、或は落ち行く見て、我は太郎、五郎を捕られて、生きて何かせんと
や思ひけん、その勢十七騎にて思ひ切って戦ひけるが、叶はじとや思ひけん。徒武者駆け
散らして、六條河原まで打って出で、十七騎が十騎は落ちて、七騎になる。賀茂河を上り
に鞍馬を指して落ち行く。別當は判官殿の御師匠、衆徒は契深くおはしければ、後は知ら
ず。判官の思召すところもあれとて、鞍馬百坊起って、追手と一つになりて尋ねけり。
(略)  土佐は腹をも切らで、武蔵坊にのさのさと捕られける。さて鞍馬へ具して行き、
東光坊より大衆五十人附けてぞ送られける。
(中略)

判官聞召して、「土佐は剛の者にてありけるや。さてこそ鎌倉殿の頼み給ふらめ。大事の
召人を切るべきやらん、斬るまじきやらん、それ武蔵計らへ」と仰せられければ、「大力
を獄屋に籠めて、獄屋踏み破られて詮なし。やがて斬れ」とて、喜三太に尻綱取らせて、
六條河原に引出し、駿河次郎が斬手にて斬らせけり。相模八郎、同太郎は十九、伊方五郎
は三十三にて斬られける。討ち漏らされたる者ども、下りて鎌倉殿に参りて、「土佐は仕
損じて、判官殿に斬られ参らせ候ひぬ」と申せば、「頼朝が代官に参らせる者を、押へ斬
るこそ遺恨なれ」と仰せられければ、侍ども「斬り給ふこそ理よ、現在の討手なれば」と
ぞ申しける。