[宇治平等院の合戦]平家物語(長門本)
 
 
 
御方には三位入道の勢並びに寺の悪僧彼是三百余騎にて、醍醐路より南都へおもむかせた
まひけるが、御馬にがうごせさせ給はで、寺と宇治との間にて六度まで御落馬あり世の人
桃尻とぞ申ける、此ほど御しんもならでねぶり落させたまふにこそとて、宇治橋を中三間
ばかりひきて暫く平等院に立入せ給ひて御休みあり、平家是を聞て軍兵をさしつかはして
是を追伐せらる、則
左兵衛の督知盛、蔵人頭重衡朝臣、新少将資盛朝臣、権亮少将惟盛、中宮亮通盛、左少将
清経朝臣、左馬頭行盛、三河守知度、薩摩守忠度、侍には上総介忠清、飛騨守かげ家、河
内守安つな、飛騨の判官景高、上総の太郎ただつな、武蔵の三郎左衛門尉有国、以上三万
余騎木幡山をはせ越て、平等院へぞ向ひける、軍兵すでに雲霞の如くにて、馳来るといふ
ほどこそあれ、平等院にかたきありと見てければ、馬のはなをならべてときを作る事三ヶ
度也、三位入道もとより思ひまうけたる事なれば、少しもさわがず、三百余騎にてときを
ぞ合わせける、...........
(中略)

三万余騎の大勢一度に河に打入たりければ大勢にせかれて水流れやらず、暫くよどみてぞ
見えける、下の瀬を渡る雑人などは腹巻のくさずりもぬらさでわたり着く、乗かへ郎等な
どの河の案内もしらぬ者共の、むまや人やとひざよりをのづからはづむ水に、なにもたま
らずながれけり、かれ是八百余騎は流れにけり、その外は皆渡り着にけり、三万余騎の勢
大略渡りたりければ、宮の御方の兵三百余騎を中にとりこめて戦ふ。

三位入道頼政は、ちゃうけんの直垂にしながはをどしの鎧を着、今日を限りと思はれけれ
ば、わざとかぶとをば着ざりけり、子息伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に黒革をどしの鎧
きて、是も矢束をながくひかんがためにかぶとをば着ざりけり、舎弟源大夫判官かね綱は、
萌黄のすずしの直垂に、緋威の鎧に白星のかぶとを着て、白あしげなる馬にぞのりたりけ
る。六條蔵人父子渡邊の郎等共、我も我もと命を惜まず戦ひけり。

此間に宮はのびさせたまひけるを、平家の大勢せめかかりければ、兼綱父をのばさんと返
合て戦ひけるほどに、兼綱大事の手負ひてぶちをあげて、奈良路をさして落けるを、上総
の太郎判官忠綱、七百騎にて追かけて、此先へ落たまふは源大夫判官殿をこそ見えたれ、
いかでうたてくも源氏の名折に、鎧のうしろをば敵に見せ給ふぞ、きたなしや、返し合せ
よやといひてせめかかりければ、是は宮の御ともに参るぞと答へけれども、敵無下に責よ
りたりければ、今はかなはじとや思ひけん、我身相具してただ十一騎ぞありける、馬のは
な引返して、十文字にかけ入たりければ、中をあけてさつととほす、一人もくむものなか
りければ、立さま横さまにさんざんにぞかけたりける、忠綱これをみてよくひきていたり
ければ、兼つな内かぶとをいさせて、少しひるむやうにしける所を、忠つなわらは次郎丸
すぐれたる大りきなりけるが、おしならべて組で落ちぬ、取ておさへたりけれども、暫く
首をかかざりけるを、忠つなが郎等落ち合ひて鎧の草ずりをたたみあげて、二刀さしたり
ければ、内かぶともいた手にてよわりたりけるうへ、かくさされてければ、はたらかざり
けるを、首をかき切てけり。三位入道是をも知らず、兼つなが引返すを見て、同く引返て
平家の大勢をたびたび河ばたへ追返して、敵数多討取り、手おはせてさいごのかつせんと
ぞはげまれける。

此入道わかくてはゆゆしき精兵と聞しかども、七十にあまりて、今は弓の力もことの外に
おとり、矢つかもみじかく成りたりけれども、なべての人にはにざりけり、矢おもての物
ども、うらかかせずといふ事なし、矢だね皆つくして太刀をぬいて走りまはりける程に、
右のひざぶしすねあてのはづれをいさせて、あぶみをふまざりければ、郎等のかたにかか
りて、平等院のつりどのへぞ入にける、伊豆守も父のもとに同く引籠りぬ、鎧ぬぎける所
へ六條蔵人仲家、三位入道のもとへ使をたてて申けるは、御やくそくたがへ参らせで、防
ぎ矢をばよくよく仕候ぞ、源大夫判官どのもすでに討れたまひぬ、しづかに御念仏申させ
たまへ、やがて御とも仕るべく候と申つかはしたりければ、その時三位入道今はかうござ
んなれと思ひて、郎等どもにふせぎ矢いさせてじがいせんとしけるが、箙の中より小硯を
とりいだして、つりどののはしらにかくぞ書付られける、
    むもれ木の花さく事もなかりしに
          身のなりはてぞ哀なりける

此時など歌よむべしとも覚えね共、かやうの時もせられけるにこそとあはれなり、さてわ
たなべの丁七となふをよびて首をうてといふ、主の首うたん事さすがにかはゆく覚えて、
御自害候べしとて、太刀をさしやりたりければ、入道太刀をぬきて、伊豆どの自害ばしわ
ろくすな、是を本にしたまへとて、念仏百へんばかり申て太刀の先をはらにあてヽたふれ
かヽり死にけり、その後下総国住人下河邊籐三郎よりて首をとり、直垂の袖に包みて、板
敷のかべ板をつきやぶりて、かくしてけり、伊豆守是をみていなばの国住人彌太郎もりか
ねといふものを召して、我首をば入道どのの首といっしょにおけとて、はらかき切りてふ
しにけり、盛兼首をとって、平等院の後戸の壁板をはなちてなげ入たり、人是を知ず。
(中略)

宮は平等院をおちさせたまひて、男山をふしをがませ給ひて、二井の池もすぎさせ給ひに
けり、.........(略)  光明山の前にぞかヽらせ給ひける、飛騨の判官かげたか、宮
は先立せたまひぬと見てければ、平等院の軍をばうち捨てて、宮の御あとにつきて追奉り
けるほどに、光明山の鳥居の前にて追ひ付き奉けり、郎等ども、遠矢に射るほどに、流矢
宮の御そば腹に中りて、御馬よりさかさまに落させ給ひぬ、御目も御覧じあげられず、..
(略) ......... 御息たえにけり。