この坂は、新井城が北條氏により危うくなったので、道寸の側室が戦火を逃れてきた場所
です。側室はこの坂の小川に架かる橋までたどりつきましたが、身重だったので死産して
しまい、その子を橋のたもとに埋め、自分も自害したと伝えられています。
(三浦半島の文化 第七号より)
相模国風土記稿によれば、「土橋小渠に架す。なもうた橋(下中央の写真、土橋跡)と唱う。
三浦道寸妾自殺せし所と云う。産後に渡れば殃有り。」とあります。