朝盛塚は相州三浦郡初声村に在り、和田朝盛終焉の地として相伝う。按ずるに朝盛、義盛の
嫡孫なり。国風を善くし、武道に通じ、将軍実朝に近侍として仕う。義盛の動兵に朝盛その
非を知る。而るに輟めるべからず。将軍に謁し、詠歌にて意を陳ず。将軍嘆賞して封を加う。
朝盛謂く、忠せんと欲すれば孝ならず、孝せんと欲すれば忠ならず。即ち剃髪し実阿弥と号
し去り、京師に赴く。義盛人を使い跡を追う。以て還り事に従う。兵敗れるに及んで韜晦し
時を待つ。承久の役に慨然義を唱え、副将軍に任じ、濃尾に転戦す。利あらず阿波に潜んで
後、士川名、加藤、金崎、鈴木、青木、小林、根岸、米本、長澤等16人を従え、旧領の塔
の台に来って、父祖の冥福を修す。士皆帰農するを以て、朝盛また一宇を構え、高円坊と称
す。山野を拓き、耕織を励ます。 (碑文より)
明治42年、塔の台に日枝神社が建設されました。台地の南面に在った朝盛始め先祖の墓は、
大正10年神社の前の公園に移され、朝盛の顕彰碑が建てられました。戦後公園は畑にされ
たため、朝盛塚は再度西の隅に移され、今は参詣の道はありません。