第三新東京市立第壱高等学校、この学校も早朝の登校風景はどこにでもある高校と何ら変わらない。学校への道すがら友と話す未来への不安を感じさせない屈託のない笑顔、早朝当番に遅れまいとその列の横を駆けて少女等々。
 朝の清々しい空気の中、鈴原トウジと相田ケンスケも肩を並べながら、通学路を歩いていく。ただ他の生徒達と違うのはトウジが上下ジャージ姿で、松葉杖を付いていることだ。彼はエヴァンゲリオン三号機のパイロットとして起動試験中に暴走事故を起こし、破壊された時に重傷を負った。内臓破裂という瀕死の状態から一年近い闘病生活を送った後、左足を失った以外は普段通りの生活を送れるまでに回復した。
 第壱高等学校の二年A組は、第壱中学校のA組の生徒がそのまま進学したクラスだ。個人の学力差も関係なく全員がこの高校へ編入出来たのは、このクラスの生徒が政府の監視下にあることを物語る。エヴァンゲリオンのパイロットは、今もこのクラスの生徒の中から選出されているのだ。
 始業前の賑やかな教室で一人皆から離れて窓の外を惣流・アスカ・ラングレーが眺めている。今の彼女は中学時代の少女の面影は薄くなり、大人へ脱皮をしかかる女の姿に成長していた。エヴァンゲリオンは現在弐号機のみが待機しており、現在パイロットとして認定されているのはアスカ一人だけだ。
 教室にトウジとケンスケが入って来た。窓際一番後ろのアスカの席の隣がトウジの席だ。彼は学生鞄を机の横に引っかけると、松葉杖を後ろの壁に凭れさせた。トウジが他の生徒と違ってジャージ姿での通学が認められているのは、松葉杖での移動にはその方が動きやすいからだ。それはエヴァの事故に対する学校から彼に対しての僅かな計らいだった。
 トウジは席に付くと、ふと物思いに耽るアスカの方を見た。そして、
「何や、また悩み事かいな」と、関西弁訛の口調で尋ねた。
 アスカは何も答えず、不機嫌そうな表情で外を見続けている。
「シンジと綾波がおらんようになったことは、ワイも寂しいと思っとる。特にシンジにはワシがこんな風になったのは、あいつのせいやないって言ってやりたかったわ」
 エヴァンゲリオン三号機を破壊したのはシンジの乗った初号機だった。友人の命を奪っていてもおかしくなかったこの事件をシンジは気に病み、その後エヴァに乗ること拒否し続けた。それはシンジの心に大きな傷を植え付ける出来事だった。
 ふとアスカはトウジの方を振り向いた。干渉するなと言いたげな、不機嫌そうな表情は相変わらずだ。
「この馬鹿! 何言っているのよ。あの二人がいなくなってあたしはせいせいしてるんだから」
 心の中を見透かされたようなきまりの悪さを隠すように、アスカは怒気を帯びた口調で怒鳴った。
「そうかい。ワシは寂しいけれどな」ぽつりとトウジが呟いた。
 アスカは表情を隠すように再び視線を窓の外へ向けた。”あたしもよ・・・・・・”アスカは外を眺めながら心の中で呟いた。

 ミサトのマンションは相変わらず彼女の自堕落さを証明するように、散らかし放題でゴミが溢れている。本人は仕事が忙しいからと言い訳を続けているが、この乱雑さは彼女の性格から来ている以外あり得ない。シンジがこまめに後片づけをしていた頃は、比較的綺麗さを保っていたこの部屋も、彼がいなくなってからの荒廃ぶりは目に余る。
 そんなミサトが料理などするわけもなく、毎日コンビニの弁当や総菜で済ませる非健康的な摂食状況で、料理が得意だったシンジに戻ってきて欲しいと一番願っているのは、実はミサトなのかも知れない。
 今夜もミサトはTシャツと短パン姿というラフな格好でキッチンテーブルの前に胡座をかき、ペンペン相手にエビチャンビールを飲んでいる。ペンペンは新種のペンギンで温泉ペンギンと呼ばれ、外観は動物園の皇帝ペンギンと酷似している。しかし酒と風呂が好きという、とてもペンギンとは思えない不思議な性格を有している。
 温泉ペンギンはセカンドインパクトでほぼ絶滅し、このペンペンも実験動物として処分されたそうになっていたところをミサトに保護され、ここに居着いている。構わない適当な性格のミサトと、ペンペンは良い関係を保っていた。
 テーブルの上にはスーパーの袋が置かれ、トレイに入った幾つかの食材が乱雑に並べられている。ペンペンがコップに入ったビールをストローで美味しそうに飲み、続けてツマミのポテトをモグモグと食べている。
 缶ビールを口に運びながら、ふとミサトの目がアスカの部屋のドアに移る。引き戸の扉は閉まったままだ。
 アスカは中学の時にドイツからエヴァンゲリオン弐号機のパイロットとして来日し、そのままミサトのマンションに住み着いている。当初はシンジと同居していたが、彼がいなくなってからもここで暮らしている。
 ”まだあの子、二人のことを気にしているのかしら?”
「アスカ、スーパーの作り物だけれど、ご飯にしない?」ミサトがアスカの部屋に向けて声を発した。しかし中から返事はない。
「明日はエヴァの起動実験日でしょう。何か食べておかなきゃ駄目よ」
 しばらくしてドアが開き、元気無く俯くアスカがキッチンに入ってきた。彼女の姿を見てミサトがやっと安堵の表情を浮かべた。
「一往レンジで温めておいたから」
 アスカは席に付くと片膝を曲げたまま椅子に座った。全く行儀の悪い姿勢だが、それをミサトに咎める権利はない。アスカは気怠そうに頬杖を付くと、ポテトサラダのトレイに被ったラップを片手でバリバリと剥がした。そしてスプーンで掬うと口に運んだ。その様子は味わうという物ではなく、単に栄養を補給するという生体維持行為に他ならない。
「ねえ優等生が戻って来たって本当?」アスカがか細い声で尋ねた。
「優等生って?」
「綾波レイよ。ミサトも知ってるでしょ」
「え・・・・・・?」ミサトの飲みかけの缶ビールが止まった。何故、アスカがそのことを知っているのだ?
「あたしもここに来てどれだけ経つと思っているの。色々な情報網があるのよ」アスカが答えた。
 情報網? それは困ったもんだと、弱り顔でミサトは残りのビールを飲み干した。
「誰に聞いたかは知らないけれども、人に言っちゃ駄目よ」ミサトは弱った表情をすると、そう釘を差した。
「分かっているわよ。でもやっぱりそうなのね。それで今はどこにいるの?」
「会いたかった?」
「別に・・・・・・」アスカは感情を押し殺してそう答えた。
「あなたの気持ちは分かるわ。でももう帰ったの」
「帰った・・・・・・」疑念を込めた目付きでアスカはミサトを見つめた。
 アスカはまた自分が無視されたと思った。そうすると無性に虚しさを感じ、怒りさえ込み上げてくる。
「退屈! 退屈! 馬鹿シンジと、優等生がいなくなってからもう三年も敵が来ないのよ。いつもチェックばっかり。いい加減にしてよ」棘のある口調でアスカは不満を口にした。
「いいんじゃない。敵の来ない穏やかな日々を願って、私らは働いているんだから、むしろ感謝するべきことなのよ」ミサトはそう言ってアスカを宥めようとした。
「でもそれじゃ困るのよ。敵が出てきてくれないと・・・・・・」
 アスカの言う通り、この三年間神人は発生していない。その為エヴァンゲリオンが発進することはなく、ネルフ内の訓練施設で週一回弐号機の機動チェックをする程度の任務しかない。
「シンジくんとレイがどこにいるのかはあたしも知らない。これは極秘事項でネルフの中でもごく一部の者しか知らないの」
「三佐になっても教えてもらえないわけ?」
「そう、あたしには知る権利さえ与えられていない」
「どこか別の国で戦っているんじゃないの? あたしには隠したままで」
「そんな馬鹿なことがあるわけないでしょう!」
 遂にミサトも切れてしまい、アスカに怒鳴ってしまった。驚いた顔をしてペンペンがミサトの顔を見上げている。
「もう寝る」
 アスカは不服な表情をして乱暴に立ち上がり、部屋に入ると勢い良くドアを閉めた。その音がキッチンに響く。
 ”アスカが不機嫌になるのも分かる。エヴァのパイロット三人の内二人までが突然消えてしまったのだから。でも別次元にいるなんて話を彼女に出来るわけがないじゃない”
 ミサトは弱り顔をして次の缶ビールを手にすると、リップを開けた。飲み過ぎだとペンペンが目で訴えている。
「分かってるわよ。でも今は飲みたいの」ミサトはペンペンに八つ当たりをするように言い放った。哀れなペンペンは寂しそうに肩をすぼめるしかなかった。

 アスカは暗闇の中、ベッドで毛布に丸まりながら寝付けずにいた。苛ついて色々なことを考えていると、不安で胸が締め付けられる。
 ”あの二人は新しい任務に就いたに違いない。またあたしはのけ者にされた。親の七光りのバカシンジと、優等生なんかよりあたしのほうが、ずっと優秀なのに、悔しい・・・・・・”
 アスカの瞳から堪えきれない涙が枕に伝い落ちる。
 ”訓練でどれだけ良い成績を収めても何の意味もないのよ。エヴァで戦うことだけがあたしの存在意義なの。だから神人が出て来てくれないと、あたしの存在意義がなくなるのよ。このままじゃあたし、お払い箱になってしまうわ。お願い、あたしに戦わせて・・・・・・。お願い・・・・・・”
 アスカは必死に祈り続け、次第に眠りに落ちていった。彼女のベッドサイドのデジタル時計が十一時五分を表示していた。