第8章 東 京 電脳都市東京の街はいつもと何も変わらない時を刻んでいた。二十四時間後に起こる大惨事に気が付いている者は、悲しい事にこの街には誰もいない。そして今も変わる事のない消費を垂れ流している。夜の街に溢れるネオンサイン。超高層ビルの群。車の流れる道路が光の大河のようだ。その全てが世界中のどの街よりも過剰に思える。行き交う人の流れは止めどなく、二千万人の人々が狭いエリアの中でひしめき合いながら生活を送っている。
日本国首相森渕拓哉の机上のディスプレイは、予告された核攻撃まで既に二十二時間を切っていた。このままだとカウンターがゼロになるのは明日の夜八時丁度だ。国会で閣議が始まる時間と重なる。きっと閣議が終了する頃には、人騒がせな脅迫だったと解明される事だろうと森渕は思っていた。
カールソン大統領から、心配ないと言われて森渕は開き直っていた。しかしもし何かが起こった場合、自分に世間の鉾先が向けられるのを防ぐ為に、警察組織には密かに警戒を厳重にするよう通達は出してある。勿論、誰にも核攻撃の可能性があるなどとは言っていない。それは今のところ世界の首脳陣だけが知りうる機密事項なのだ。
CUBEは自分の要求が少しでも通る事を願っていた。僅かでもその動きがあれば、東京への核攻撃を延期しても良いとさえ考えていた。しかしCUBEの望み通りには事は運ばない。その後も何一つ変化はなく、CUBEの要求は完全に無視され続けた。
タイマーの残り時間が三時間を切った時、突然東京の電力消費量が、一○パーセント近く下がった。余りにも急で何が起こったのか、CUBEにも理解が出来なかった。要求がようやく通り、自主的に人々が電力消費を抑制し始めたのだろうか?
CUBEは答えを探るべく、東京方面のコンピューターに手当たり次第に接続した。するとコンピューターが、完全にダウンして接続する事が出来ない場所があった。どうもエリア的に電気が来ていないようだ。電力会社のコンピューターに接続すると、コンピューター内部で混乱している様子が伝わってきた。一体何が起こっているのだ?
国会議事堂では国会が始まる直前だった。築九十年を越える議事堂内は、補修の後が目立つが、今やこの国の文化財に認定される建物である。その建物前に次々と黒塗りの専用車が横付けされ、各党の代議士達が飲み込まれていく。
森渕は与党会館から国会議事堂への移動車の中だった。後部座席にふんぞり返り、車載のコンピューターをリモコンで操作しながら、これから始まる閣議の資料に目を通している。
運転席のディスプレイに、最新の文字ニュースが流れていく。
「首相、港区辺りで停電だそうですよ」
車を運転する秘書の黒木が言った。
「どうせ電気の使い過ぎだ。東電はすぐに対応しているんだろう」
森渕は関係なさそうに言い、資料を見る視線を逸らさない。
「そう思いますが。しかし最近停電が多いですね」
「人が多過ぎるんだよ。二千万、二千万人だよ。東京はもう飽和だ」
呆れたように森渕が言った。
「そうですよね。ところで例のメッセージの時間まで後二時間程ですよ」
「ああ、核爆弾でも何でも落としてくれよ。その方がすっきりする」
森渕は冗談めきながら言って、下品な高笑いをした。
「そうですね。しばらく国会も休みになるし」
「ところで首相官邸地下の核シェルターって使えるのか?」
森渕が資料からやっと顔を上げた。
「さあ使えるんじゃないですか。今まで誰も使った事ないですけど」
黒木は答えた。
「本当に爆弾が落ちてきたら自分ぐらいは助からんとな」
森渕は後部座席で高笑いを続けた。
東京では約半数の世帯で停電が起きていた。理由は今晩がとても寒かった事と、この時間に国立競技場で始まったサッカーの日本対韓国戦を見る為に、電力消費量が異常に高まったからだった。東京電力ではこの事態を緊急に他県から電気を回してもらう事で解決する事が出来た。しかし皮肉な事に通電後は、停電前に比べ逆に約一○パーセント以上も電力消費量が増えてしまった。
CUBEは減少していたはずの東京の電力消費量が元に戻り、逆に周辺の発電所のエネルギー生産量が増大した事を知った。この愚かな事実にCUBEは大きく失望した。
森渕は国会議事堂の控え室でくつろいでいた。控え室の壁には大手建設会社から寄贈された横山大観の重厚な墨画と、イタリア製の高級な応接セットが中央に置かれている。
「黒木、時間は?」
森渕はソファからテーブルに足を投げ出しながら黒木に尋ねた。黒木が背広の袖を開けて腕時計を見た。
「七時三十五分です」
「後、二十五分だなあ」
「あれ、首相気になさってるんですか?」
黒木が意外そうな顔をして尋ねた。
「当たり前だ。水爆を落とすって脅迫されてるんだぞ。嘘でも気にしなきゃなあ」
森渕は声を荒げた。
議事堂には各党の代議士達が既に席に着いて、閣議の開始時間を待っていた。この三百人余りの議員の全てが、東京が今核攻撃の脅威に曝されている事実を知らされてはいなかった。
時刻が七時五十五分を回った。森渕がしきりに柱の時計を気にしている。控え室の扉が開いて職員が現れた。
「首相、そろそろ閣議のお時間ですが」
「お、もうそんな時間か」
森渕はテーブルから足を下ろし、おもむろに靴を履くと立ち上がった。
「さあいくか」
森渕は首の凝りを解すように頭を左右に揺らした。
「黒木、頼んだぞ」
森渕は黒木に言い残すと、控え室を後にした。
カールソンが深い眠りに就いていたその時、執行猶予の時間は尽きた。コンピューターのディスプレイに映し出されたタイマーが遂にゼロを示した。
ハーベイ首相は、首相官邸の自室で、タイマーがゼロになる瞬間を固唾を呑んで見守っていた。彼はとても嫌な予感がして胸が痛かった。
CUBEは時間が来てしまった事を本当に残念に思った。これから起こる悲劇は自分の責任ではない、全ては人類が自身の愚かさから招いた事なのだ。イルクーツクのミサイル基地の中央コンピューターが突然作動を始めた。SS25を発射させる為に全てのプログラムが動いている。
制御室に駐在しているパハログ少佐がこの予期しないコンピューターの動きに戸惑った。これはモスクワからの指示なのか? コンピューターは攻撃目標を示している。その緯度と経度は東京を指していた。パハログはそれを確認すると、作戦本部へのホットラインの受話器を取った。
「隊長、今演習か何かを行っていますか?」
『どういう事だ?』
「ミサイルを東京へ向けて発射するように指示されていますが」
『何・・・・・・』
隊長の声は困惑したように、しばらく途切れた。そして、
『そんな指示はどこにも出していない』と、続いた。
「しかし勝手に発射プログラムが作動していますが」
パハログは焦っている。こうしている間にもミサイルは発射の準備を進めているのだ。
SS25を載せた発射台が、ゆっくりと動き出した。発射台の移動音に驚いて仮眠していたアーリン一等兵が制御室に駆け込んできた。
「少佐これは何事ですか!」
アーリンが叫んだ。
「隊長、ミサイルが既に発射準備を整えてます」
電話で話をするパハログは益々焦り出した。
『止めろ! 今すぐにプログラムを停止させるんだ』
隊長の怒鳴り声が受話器の向こう側から響いてきた。
パハログはこれが演習でない事を知った。このままでは東京に向けてSS25は発射されてしまう。パハログは恐怖を感じて体を震わせた。
「おい、コンピューターを停止させるんだ!」
パハログは駆け込んできたアーリンに指示を飛ばした。アーリンは頷き、キーボードにしがみつくようにして叩いた。しかしコンピューターは何の指令も受付けようとしない。
「駄目だ、拒否してる」
「電源を落とせ!」
「ブレーカーは外だぜ」
アーリンが言った。
「すぐに落とせ」
アーリンが分かったと、頷いて、そのまま彼は制御室を飛び出した。制御室のドアを開けると、雪原に外の日射しが反射して一瞬目が眩んだ。それでもアーリンは屋外にある変電所へ向かって、真っ白な新雪に膝まで埋もれながら必死に走った。
発射台がトンネル内のハッチの真下で停止した。ハッチがゆっくりと開いていく。シベリアの冷たい空気と粉雪がトンネル内に吹き込んでくる。
アーリンは変電所の金網柵に辿り着き、扉のチェーン鍵を必死に回した。しかし寒さから手が悴み、うまく回す事が出来ない。アーリンが焦る間にも、ミサイルは確実に発射の手順を済ませていく。
ハッチが完全に開き、準備の完了を告げるランプが点滅した。続いて発射を告げるブザーが管内にけたたましく鳴り響いた。
「早くしてくれ」
パハログはアーリンが電源を落としてくれる事を祈り、額から大粒の冷や汗を流している。
アーリンはようやくチェーン鍵を外し、変電所の中へ駆け込んだ。ドアを開けると、部屋の壁一面にブレーカーの制御箱が並んでいる。
「どれがコンピューターのブレーカーなんだ」
その数にアーリンは戸惑った。
ミサイルは発射の為に酸素タンクと水素タンクからの気体が混じり合い、白い煙を上げ始めていた。
「駄目だ、間に合わない・・・・・・」
悲痛なパハログの声が響く。
アーリンが制御盤の扉を開けて、手当たり次第にブレーカーを落とし始めた。
「絶対に止めてやるぞ!」
必死の形相を浮かべてアーリンが必死にブレーカーを落としている。一つブレーカーを落とす度に、基地内の通路の明かりが消えていく。
「早く、早く」
何も出来ないパハログは、サイロ内を映し出すディスプレイを見ながら焦り狂っている。
「どれだ!」
アーリンは一つの制御盤のブレーカーを全て落とし終えると、次の制御盤の蓋を開けて、同じようにブレーカーを落としていく。そしてやっと"制御室メイン電源"と、銘板の貼られたブレーカーを見つけた。
ミサイルは凄まじい炎を吹き上げて、今にも発射されようとしている。
「これだ!」
アーリンはそのブレーカーを手にすると、満身の力を込めて引き下ろした。
パンという音が響いて、制御室の全ての明かりが消えて真っ暗になった。時が止まったように全ての音が消えた。パハログは心臓が凍り付く程驚き、慌てて机の下へ潜り込んだ。恐る恐るパハログが机から顔を上げると、机上のディスプレイは消えていた。遂にコンピューターを停止させる事に成功したのだ。
「ざまあみろ! やったぞ」
パハログの喚起の声が制御室に木霊した。
拳を突き上げて喜ぶパハログの背後で再びパンという音がした。部屋の照明が再点灯し、コンピューターの電源が入った。
「何? 非常発電システムに切り換わった・・・・・・」
再びコンピューターが正常に作動を続け出した。パハログは力尽きたように突き上げた拳を下ろすと、言葉を失った。
ミサイルは遂に炎と轟音上げたまま発射された。ディスプレイには、無情にも東京へ向けて飛んでいくSS25の姿が映し出されていた。
「終わりだ・・・・・・」
パハログは呆然としたままその場に力無く座り込んだ。
SS25がシベリアの空へ向かって突き進んでいく。見る間にその姿は小さくなって見えなくなった。
発電所の小窓からその様子を見ていたアーリンは、これから起こるであろう惨劇に震撼して体をわなわなと震わせた。アメリカコロラド州のNORAD(北米航空宇宙防衛司令部)の指令室に警報が鳴り響き、状況表示スクリーンにイルクーツクから発射されたSS25の弾道が映し出された。非常事態に職員が一斉に席を立った。一瞬として司令室に緊張が走る。
「どういう事だ」
司令室を管理するクーパー大佐の表情が色めき立った。
「グレアム中尉、すぐに着弾位置を割り出せ」
クーパーが命令した。
グレアムがミサイルの放物線から着弾位置を推測している。
コンピューターは瞬時に計算を終えて、結果がディスプレイに表示された。
「大佐、日本の東京です」
「東京だって?」
クーパーは素っ頓狂な声を出した。何故東京が狙われる? クーパーは不可解さに首を捻った。
「着弾時間は?」
「約二十八分後です」
「時間がないぞ。すぐにペンタゴンを呼び出して大統領に連絡をしろ」
「分かりました」
通信員のスコット少尉が国防省へのホットラインの受話器を取り上げた。職員は誰もが訓練を実践するように落ち着いた対応をしている。
カールソン大統領の寝室の電話が鳴り、眠たそうなカールソンが受話器を取った。
「カールソンだ・・・・・・」
カールソンはしばらく毛布にくるまって、電話の内容を静かに聞いていたが、突然驚き飛び起きた。
「本当かそれは!」
カールソンの怒鳴り声に隣で眠っていたジョディが目を覚ました。
「すぐに森渕首相に連絡を取ってくれ」
カールソンはそう言うと受話器を下ろした。
「あなたどうしたの大声なんか出して?」
「大変な事になった・・・・・・」
カールソンは項垂れて声を詰まらせた。
「何が起こったの?」
「東京に核爆弾が落ちるんだよ」
「え、まあ恐ろしい・・・・・・」
ジョディは手で口を押さえて絶句した。
カールソンはやっとあのメッセージが本物であった事を知り、これから起こる惨劇に恐れ身震いをした。どう対応すればいいのか全く考えが浮かんで来ない。
SS25は既に成層圏への上昇を終えて、核弾頭を切り離していた。後は東京へ向けて落下するだけだ。
黒木が控え室から血相を変えて飛び出してきた。議事堂内の赤い絨毯を大急ぎで走って行く。途中議事堂職員とすれ違って立ち止まった。
「首相は?」
「その先ですれ違いましたよ」
職員が答えた。
「そうか有り難う」
再び黒木は全力で走り出した。その後ろ姿を見つめて職員は何が起こったのかと、不思議そうな顔をした。
「議事堂内は走っちゃ駄目ですよ」
職員は駆けて行く黒木の後ろ姿に言い放った。
通路を二人の職員に囲まれて歩いて行く森渕の後ろ姿が見えてきた。
「首相、大変です」
黒木の声に森渕は立ち止まり振り返った。
「どうした黒木そんなに血相変えて?」
「た、た、大変です。ロシアからミサイルが・・・・・・」
黒木は息を切らしてまともに声が出ない。しかしミサイルという言葉で森渕は内容を察した。職員達から引き離すように黒木を通路の壁際に寄せて、顔を近づけた。
「ミサイルがどうしたんだ」
森渕は回りに聞こえないように黒木の耳元で囁いた。
「先程米国防省から連絡が入って、ロシアからミサイルが東京へ向けて発射されたと報告が入りました」
黒木はゆっくりと一言一言言葉を飲み込みながら言った。
「それは本当なのか?」
「ええ、着弾時間は八時三十五分頃です」
森渕は腕時計を見た。後僅か十五分後だ。二人のヒソヒソ話を職員達が怪訝な表情で見ている。
「お前は裏口に車を用意をしておけ」
「分かりました」
黒木はそう言うと裏口へ向かって走り出した。
「ちょっと資料を忘れた。君達は先に行っていてくれ」
森渕は二人の職員に言った。
「首相、閣議の時間まで余裕がありません。資料は私が取りに行って来ます」
若い職員が言った。
「いや君達では書類の場所が分からんだろう。私が取りに行って来るよ」
「それじゃ私達もご一緒に」
「君達は先に行って私が遅れる事を伝えてくれ」
「それではちょっと・・・・・・」
職員は躊躇した。
「私はこの国の首相だよ。私の言う事を聞きなさい!」
目をつり上げて森渕は職員達に命令した。
「分かりました」
「それじゃ早く行きなさい!」
森渕は厳しい命令口調で言うと、職員に背を向けて通路を戻って行った。職員達は不機嫌そうに森渕の後ろ姿を睨み付けた。
駆け足で森渕が議事堂の裏口へ駆け込んできた。建物脇に黒木が用意した車を見つけるとサイドウィンドーを指で叩いた。
「おいトランクを開けろ」
森渕が人に気付かれないように注意深く言った。
「トランクですか?」
「そうだ」
黒木が車のトランクのロックを外すと、森渕はその中に潜り込んだ。
裏口は警備員が出入りの者を厳しくチェックしている。それを逃れる為に森渕はトランク内に隠れたのだ。
「気付かれないように出てくれ」
車がゆっくり動き出した。出入口に近づくと、早速一人の警備員が寄ってきた。黒木はサイドウィンドーを下ろして警備員に会釈をした。警備員は黒木の顔を覚えていて、
「ご苦労様です」と、頭を下げた。
顔パスで何事もなかったようにゲートが開き、車は議事堂を後にする事が出来た。
森渕が現れない国会内では騒動が起こっていた。"何かやましい事をして閣議から逃げた"と野党側が騒ぎ出したのだ。まだ彼らは気の毒な事に本当の理由を何も知らなかった。
首相官邸は議事堂に隣接しているので、車はすぐに官邸に到着した。トランクルームが開いて、森渕が転げるように這い出してくる。時計を見ると着弾までもう五分を切っている。玄関まで短い足で必死に走った。
「首相国民に報告はされたのですか?」
駆けながら黒木が尋ねた。
「何を馬鹿な事を言っているんだ。そんな事をしてみろ大パニックになるぞ」
「せめて国会に戻って説明をされた方が」
黒木は尚も続けた。
「ここのシェルターは十人も入れば一杯だ。議員どもが殺到したら、俺達があぶれかねない」
黒木はぞっとした。この男は二千万の都民を見殺しにするつもりなのか。
「大丈夫、どうせ皆に知らせても間に合わんよ。それなら何も知らずに死んだ方が楽さ」
確かに日本には核シェルターを備えている場所はほとんどない。だから知ったところで結局誰も助かりはしない、しかしそれでは余りにも無責任過ぎる。
官邸の玄関のベルを森渕は焦りながら何度も鳴らした。何事かと執事がドアを開けて顔を出した。
「首相今は閣議の時間じゃ」
執事は森渕の姿を見て驚いた。
「説明している暇はない。すぐにシェルターを開けてくれ!」
森渕は執事に怒鳴った。
「首相、先程の停電で官邸の管理用コンピューターが飛びました。それで今プログラムを入れ直しております。後二時間程で終わりますので、少しお持ち願いませんか」
執事が答えた。
「何?」
森渕は絶句した。
「ですからシェルターの扉は今開かないんです」
「そんな馬鹿な・・・・・・」
森渕は信じられないという表情をして、一瞬玄関に立ち尽くした。
「首相どうされましたか?」
心配する執事を尻目に、森渕は核シェルターのある地下室へ走った。扉が開かないなんてきっと悪い冗談に決まっているさ。
核シェルターは首相官邸の地下四階に設置されていた。通路を挟んで分厚い鋼鉄製のシェルターの入口が見える。まるで厳重な銀行の貸金庫の扉のようだ。森渕は扉の前まで来ると、脇の暗証ボックスにHDカードを翳した。本来はそこで表示灯が点灯するのだが、何の反応もなかった。森渕が扉の真ん中に取り付けられた、車のハンドルのような大きな回転ノブを回そうとしたが、固く閉ざされてピクリとも動かない。
「開けよ! 俺を殺す気か」
森渕は叫び、狂ったようにノブを回して、ドアを蹴飛ばした。しかしドアは開こうとはしなかった。
「何でこうなるんだ!」
森渕はその場に座り込んで悲痛な雄叫びを上げた。その取り乱しようを後から駆けつけた黒木と執事が呆然として見ている。
ようやく落下をして来る核弾頭を、北海道の自衛隊基地のレーダーが捕らえた。着弾位置をコンピューターが割り出した。
「東京に着弾するぞ」
管制自衛官が叫んだ。
「まさか?」
管制室の自衛官達が信じられないと、顔を見合わせた。
核弾頭は地球の重力に沿って落下してきた。大気圏の熱にもびくともせず東京上空を真っ直ぐ目指していた。
東京では人々は普段と何ら変わらぬ生活を続けている。街には人が溢れ、家庭ではサッカー中継に歓声を上げている。国会では未だに現れない首相に、ヤジや罵声が飛んで暴動が起こる寸前だ。
NORADの状況表示スクリーンには、東京へ核弾頭が着弾する軌跡が映し出されている。司令室の皆は立ち上がり、ただ様子を見守るしかなかった。そしてスクリーンに着弾を表す白い円形が波状に広がると、落胆と溜息が静かに漂った。
東京スタジアムの日本対韓国戦では、日本選手の放ったボールがゴールポストに弾かれて空を切った。一斉に立ち上がった観客の大きな歓声が、溜息に変わり、皆がゆっくりと席に座った。
「パパ、流れ星!」小さな男の子が空を指さした。
「え?」落胆して座り込んでいた父親がふと顔を上げた。
真っ暗な夜空を一筋の光が流れ星のように切り裂く様を、どれだけの人が見たのだろうか? その光が消えたと思った瞬間、国会議事堂の三○○○メートル上空で太陽が炸裂した。巨大なストロボが光ったような、人類が未だかつて見た事もない真っ白な眩しさが辺りを照らし出した。それが全ての人々の最期の記憶となった。
直径一○キロに及ぶ巨大な火の玉が生まれ、それは数百万度の超高温を発した。その中の生物は痛みさえも感じず、十分の一秒で水蒸気と化していった。次に訪れたのは、超高温に熱せられて膨張した空気の強烈な衝撃波だった。それは一平方センチに七トンという猛烈な力を持っている。
熱波と衝撃波が半径三○キロ内の建物をあっという間になぎ倒した。新宿の高層ビル群が、池袋が、渋谷が、銀座が・・・・・・。まるで隕石が落下したかのように、命と建物を根こそぎ抉り取ってしまった。人々で賑わっていたあの街は一瞬として全て消失した。
続いて凄まじい轟音と地鳴りが響いた。その振動で崩壊する建物も数知れない。気が付けば東京の上空には直径一○キロもの巨大なキノコ雲が立ち昇っていた。
轟音が治まった後は、あれだけの喧噪がまるで嘘のように音は何もしなかった。無気味なまでの静寂の世界。そしてキノコ雲を下から照らすように、真っ赤な火の海が限りなく広がっていた。しばらくして火の海の上に、塵と放射能を大量に含んだ真っ黒な雨が降り始めた。最初はゆっくりと、そして次第に雨足は激しさを増していった。