第9章 HC2

 夜が明け始め、東京の惨状が判明して来ると、その被害の甚大さに世界は震撼する事になった。かつて東京が存在した場所には、どこまでも続く一面の瓦礫の荒野が広がっていた。焦臭い臭いと埃が立ち昇り、その中には生き物の声や動きは全くない。灰色と溶け出した炭素の黒色だけの無機質な世界。死の星に降り立ったような気すらする。昨日までここに高層ビル群が立ち並び、人々が生活を営んでいたとは誰に想像出来ただろう。
 上空には未だに無気味なキノコ雲が太陽の光を遮り、辺りを夕刻のような薄暗さにしている。高濃度の放射能を含んだ雨は止まず、舞い上がった埃にまみれて真っ黒な色をしている。死の雨は東京だけでなく周辺の都市にも降り注いでいた。千葉、埼玉、神奈川、茨城・・・・・・。いずれ風に乗り、日本中に放射能は散蒔かれていくのだろう。

 東京に核爆弾が投下された事により、送られてきたメッセージが脅迫ではなかった事がこれでハッキリとした。世界中の首脳陣は、ようやく重い腰を上げなければならなくなった。
 ホワイトハウスの執務室では、軍事衛星による東京の状況を、カールソン大統領がコンピューター・ディスプレイで確認していた。想像を絶する被害に言葉も出ない。
「大統領、大変な事態になりましたね」
 カールソンの背中にルーベンスは声を掛けた。振り向いたカールソンは沈痛な面持ちをしたままだ。
「ああ、信じられないよ。今は東京と全く連絡がつかない状態だ。衛星からの映像では直径一○○キロが完全に破壊されている」
「森渕首相は?」
「分からない。うまくシェルターに逃げ込んでいればいいんだが」
 出来の悪い指導者だったが、カールソンは森渕の安否を気遣っていた。
「これからどうされますか?」
 ルーベンスも先行きが気になった。
「とにかくG8の首脳陣に連絡を取って緊急会議をする」
「日本からはどなたに参加して頂きましょうか?」
 G8には日本も入っていた。残念だが森渕はまず助かってはいまい。東京にいるその他の代表者も生き残ってはいないだろう。
「まあ誰でも良い。それらしい人物と連絡をつけてくれ」
 カールソンは答えた。
「分かりました」
「大至急頼むよ」
 ホワイトハウスの閣議の間には、ネットを使って世界中の首脳が会議出来るシステムが備え付けられている。壁一面の巨大な壁掛け有機テレビが八分割されて、それぞれの首脳の顔を鮮明に映し出しながら会議を進める事が出来る。既に画面には各国の首脳陣が勢揃いしていた。イギリスのハーベイ首相、フランスのランデール大統領、ドイツのメスター首相、イタリアのベルティーニ首相、ロシアのロシャーリ大統領、カナダのボーン首相は女性だ。日本からは森渕の代わりに大阪の松田知事が代理で出席している。
「まずは松田知事、貴国のご不幸を心から悼みます」
 会議はカールソンの追悼の言葉で始まった。
『有り難うございます。しかし東京の状況は酷い物です』
 松田知事の言葉は瞬時に翻訳され画面の下に字幕として表示されている。
『本当に日本はついてない国だ。広島、長崎についで三番目の核爆弾も落とされるなんて』
 ランデール大統領が気の毒そうに言った。
『昔はアメリカが故意に落としたが、今回我国は故意に日本にミサイルを発射していない。その事はハッキリして欲しい』
 渋い顔をしたロシャーリ大統領が言い放った。
「それは理解しているつもりだ、貴国を責めるつもりはない」
 ロシャーリは小難しい奴だ。カールソンは気を遣いながらそう言った。
『過去の事より、これからの事を話し合わないと』
 ボーン首相が言った。
「その通り。皆さんに集まって頂いたのもその事を協議する為だ」
 カールソンが皆をまとめるように言った。
『例のメッセージを送ってきた奴の仕業なんだろう』
 ハーベイ首相が尋ねた。
「ああ多分、ハッキングでコンピューターを操作したと考えられる」
 カールソンがうつむきながら答えた。
『それなら第三諸国を炙り出して、ハッカーを探し出そう』
 ランデール大統領が提案した。
『それは既に捜査しているが、まだ分かってないんだ』
 ベルティーニ首相が続けた。
『ハッカーにしてもネットを使って潜り込んできているわけだから、逆探知すればどこで操作しているのかは分かるんじゃないか?』
 メスター首相が尋ねた。
「それは我国のクリエイト協会が調査をしているが、複数のコンピューターを介していて末端を突き止めるのが非常に難しいらしい」
 カールソンが現状を説明した。
『方法はないのか?』
 ハーベイが尋ねた。
「米クリエイト協会からの報告では、HC2以上のライセンスを所持する者であれば、複数のコンピューターを介しても、その先を調べる事が出来ると報告を受けている」
 カールソンが答えた。
『それならすぐにHC2を所持する者に調査させればいいじゃないか』
 ロシャーリ大統領が威勢良く声を上げた。そのドスの効いた声を聞いて画面の皆が顰め面をした。ロシャーリは皆に余り好かれていない様子だ。
『HC2が動き出したとすれば、マスコミ連中がすぐに嗅ぎ付けてこのハッキング事件が公になるぞ』
 ランデール大統領が警告した。
『本件がハッカーの仕業だと知られるのは非常に困る。現在の完璧なコンピューター社会に支障をきたしかねないし、大きな社会問題に発展する恐れがある』
 メスター首相も心配をしている。
『それにもし本件がハッカーの仕業と分かったら、テロリストがそのハッカーを捕らえて利用する事も考えられる。そうなったら取り返しのつかない事になるぞ』
 ランデール大統領が警告した。
「私もその事については一番警戒している。私の考えだが、現在世界でHC2を持っているのは五人しかいない。そこでその者達を一ヶ所に召集して厳重な警備の中、共同で隠密に調査をさせようと思うが、どうだろう?」
 カールソンが提案した。
『良いと思うよ。各々が調査するよりその方が効率がずっと良い』
『でもそこまで警戒する必要があるのか? 警備を付けたネット会議で充分じゃないのか』
 ハーベイが尋ねた。
「ハーベイ、君の国にもHC2を所持する者が一人いるので君の了解も得たいんだが、今回の事件はコンピューターネットワークを応用した人類史上最大の犯罪だ。今後敵はどんな手段を使ってくるか分からない。その為には知識のある者同士が力を合わせた方が早期解決に繋がると思うのだが」
 カールソンはこの意見に皆の賛同を得られるか心配だった。
『私もそうした方が良いと思うわ』
 女性らしい優しい声で、ボーン首相が言ってくれた。
『各自がそれぞれ調査をしても効率が悪いし、それに各自が別々に動けば、外部に情報が漏洩する危険性も大きいわ』
 ボーン首相は続けた。
『確かに今回の事件についての情報が漏れては困る。一ヶ所で管理をしながら調査をさせた方が何かと都合が良いと思う』
 メスター首相も同意した。
「他の者はどうだ?」
 カールソンが尋ねると、会議に出席した全員がカールソンの提案に賛成をしてくれた。
『別に反対はしないが、HC2の連中をどこに召集するんだ?』
 ハーベイが尋ねた。
『うちの国は困るよ』ランデール大統領が言った。
「何故?」
 カールソンが尋ねた。
『そんな連中を集めたら我国が次の核攻撃の標的にされかねない』
 ランデール大統領が答えた。
『確かにそうだ、敵は次に何をしてくるのか予想も付かない。我国も困るよ』
「待ってくれ、そんな事を言い出したらこの案は実行出来ないぞ」
 カールソンが反論した。彼もHC2を召集すれば、召集した国に危険が及ぶ事は予想していた。その為、出来れば自国以外の国に召集したいのは彼も同感だった。
「ハーベイ、君の国でならどうだ?」
 カールソンは味方と信じて、ハーベイに尋ねた。ハーベイは困ったように顔を伏せると、しばらく考え込み、うまくこの問いから逃れられる答えを探していた。
『・・・・・・国を超えてハイクリエイト所持者を召集するには、国連事務総長の許可が必要なんじゃないか?』
 ハーベイは苦し紛れに少ないクリエイト規格の知識を思い出して、そう尋ねた。
「ああそうだわ、その事は国際クリエイト規格の第二十五条に八項に書かれているわ。HC5以上のグレードを要する者が、自国を出て共同で作業をする際は、その時の国連の理事長の許可が必要だと。召集も理事長名にてメールを送る事になっているのよ」
 ボーン首相はこのメンバーで唯一HC5を所持しているので、クリエイト規格の法令についてとても詳しい。ハーベイは助け船が出てホッと胸を撫で下ろした。
『それなら国連のあるニューヨークに召集するのが妥当じゃないか』
 ハーベイが顔を上げて胸を張って答えた。
「ちょっと待ってくれ、まだ国連のダガン事務総長には何の相談もしていない」
 カールソンは、ハーベイに裏切られたような気がして狼狽えた。
『それなら今すぐ連絡をして相談すれば良い』
 ロシャーリ大統領のドスの効いた声が響く。
 カールソンは困った事になってしまったと頭を抱えた。このままではニューヨークが召集場所に決まってしまう。もし何か事が起これば大問題だ。
『早くダガン事務総長に連絡をしたらどうだ』
 ベルティーニ首相がカールソンをけしかけた。
『そうだ、早く連絡を』
 メスター首相も催促した。
『どうした、何か問題でもあるのか? 何ならモスクワを提供しようか』
 ロシャーリ大統領が薄気味悪い笑みを浮かべながら尋ねた。
『あなたはこの事件が解決したらHC2を拉致するつもりでしょう』
 ボーン首相が声を荒げた。その言葉にロシャーリ大統領の表情が強ばる。
『何を言い出す!』
『いやおたくの国ならそれも考えられるなあ。現に2042年にクレムリンの幹部が企てたと言われている、我国のハイクリエイト所有者誘拐計画も結局真相は闇の中じゃないか』
 ハーベイも疑いの目を向けた。
『あれは個人が計画したもので、我国は全く関与していない』
 ロシャーリ大統領に各国の疑いの目が注がれて、それぞれが好き勝手な事を言い始め、収拾が付かなくなった。全く自分の事しか考えない連中だと、カールソンは半ば呆れながら国連へ連絡を入れた。
 カールソンがリモコンのボタンを押すと、八分割の画面の中央にダガンの姿が現れた。スーザン・ダガン。ダガンはアフリカの黒人女性で、女性としては初めて国連の事務総長に就任した人物だ。カールソンはここまでのいきさつを彼女に説明し、HC2を召集する事に対しての意見を求めた。
『クリエイト規格が国際規格になってから、クリエイト規格の最終管轄権は国連に委ねられています。しかし実際に今まで国連が関与した事は一度もありません。実際、国連はクリエイト規格の国際会議として場を提供しているに過ぎないのです。今回の件についても国連が首脳の方の下した決定に対して異論を挟む余地はありません』
 緊張した面持ちでダガンは答えた。
「と、言う事は国連本部にHC2を召集することに賛同して頂けるのですか?」
 カールソンは困窮している事を悟れないように、ゆっくりした口調で尋ねた。
『そうです』ダガンの答えがカールソンの小さな期待を打ち砕いた。
「有り難うございます事務総長、感謝します。それではHC2を召集するメッセージを彼らに送って頂けますか?」
 カールソンは乾いた喉に唾液を飲み込むと、ダガンに尋ねた。
『勿論すぐに作成します』
 ダガンは大きく頷いた。
『よしこれでうまくいくぞ!』
 ダガンとカールソンのやり取りを確認していた各首脳は、自国がHC2の召集場所から逃れられた事を知って安堵し、声を張り上げた。
 会議は終わり、HC2が全員ニューヨークの国連ビルに召集される事が決まった。カールソンは一人頭を抱えて会議室のテーブルに伏せ込んだ。彼の頭の中ではニューヨークが東京の二の舞にならないかという不安が渦巻いていた。
 この会議の様子はネットを介してCUBEにもリアルタイムで伝わっていた。HC2を所持している者が共同で調査をすれば、いずれ自分の居場所が突き止められてしまう。何とかそれは阻止しなければならない。
 CUBEは阻止方法を考えた。そして辿り着いた結論は確実な方法だった。HC2をこの世から全て消してしまえばいいのだ。その為にニューヨークに核を落とす必要などない、もっと簡単な方法で充分だ。CUBEはすぐ準備に取り掛かった。

 世界中でHC2を所持しているのは、アメリカでは、ニューヨーク大学のカール・ニルソン教授。イギリスでは、ケンブリッジ大学のリンダ・ホーブル女教授。日本では、京都大学の高峯賢治教授。フランスでは、ソルボンヌ大学のジャン・ベッソン教授。そしてランバートの僅か五人しかいない。
 HC2を所持する者達へ、世界中の首脳の連名によるメールが流された。そこには東京に核爆弾が落とされるまでのいきさつが全て書かれていた。そして犯人捜査の為に、アメリカ時間の明日二十時までに、ニューヨークの国連本部に召集するように要請されていた。
 ベッソン教授はダガンからの召集メールをソルボンヌ大学の自分の執務室で受け取った。六十歳を越えるベッソンは十年前にHC2を取得していた。コンピューター技術の権威でもあるベッソンは、その功績を認められて無試験でHC2を得ていた。ランバート以外のHC2の所持者は、そうやって何らかの功績を認められ、HC2を取得した者ばかりだ。
 ベッソンはメールを受け取ると、すぐに国連本部へ向かう準備を始めた。
「明日の夕方にニューヨークに到着する飛行機を予約しておいてくれ」
 ベッソンは秘書に頼んだ。
『分かりました』
 秘書の声がインターフォンのスピーカーから聞こえてきた。
 ハイクリエイトを所持する者は、国連理事長からの指示に従わなければならない。それがクリエイト規格が国際規格になって定められた唯一の決まり事でもある。
 それは強大な権力を持つハイクリエイトの力を抑止する事が目的だった。それでも過去にハイクリエイト取得者が問題を引き起こした事は一度もなく、実際に国連がその権限を行使した事はなかった。
 それだけに今回国連理事長からHC2に対して召集メールが届いたという事自体、大きな意味が秘められている。その事をメールを受け取ったHC2の誰もが感じとっていた。
 ベッソンはフランス警察の護衛を付けた専用車を利用してドゴール空港へ向かった。搭乗手続きはとても簡単で、HDカードをゲートに通すだけでいい。パスポートの提示も必要なく、それだけで予約の確認も支払いも瞬時に完了した。教授は手荷物も手提げ鞄一つだけなので、検査はとても簡単だ。何の問題もなく、ニューヨーク行きボーイング三一六便に搭乗する事が出来た。
 ベッソンの乗るボーイング888は、ボーイング社の最大の機体で、約五百名の定員数を誇っている。液体水素エンジンを四基搭載して、○・八五マッハの最高速度で飛行する事が出来る。
 CUBEはベッソンがメッセージを受けた時点からの行動をずっと監視していた。そして三一六便のコンピューターと接続してその状態を全て把握していた。CUBEに動きを握られているとも知らずに、三一六便は五百名の乗客を乗せたままドゴール空港を離陸した。
 ケンブリッジ大学で教鞭を取るホーブル教授は、HC2を所持する者の中で唯一の女性だ。四十八歳という年齢もランバートに次いで若かった。彼女も二年前にノーベル物理学賞を受賞し、その功績からHC2の取得を認められた。
 ホーブルはヒースロー空港からスーパーソニック3を利用してニューヨークへ向かう事にした。
 スーパーソニック3は水素を燃料としたバリアブルサイクルエンジンを搭載し、成層圏をマッハ四・五もの超高速で飛行する。大西洋を僅か二時間余りで飛び越える事が出来る。空気抵抗を最優先にデザインされた機体は、鉛筆のように細長いので百名程しか搭乗出来ないのが欠点だ。
「何、今日の分は全て満席なの? 困ったわね」
 ホーブルは自ら航空会社へアクセスして予約を取ろうとした。しかし定員数が限られ、機体の数も少ないスーパーソニック3は、人気の高さも加えて通常一ヶ月前から満席になる。 
 CUBEはホーブルの動きも監視していていた。彼女が予約を取れない事も既にお見通しだった。でも彼女がスーパーソニック3に搭乗出来るように、他の乗客を無理矢理キャンセルさせて一席を確保した。CUBEはどうしてもホーブルにスーパーソニック3に乗ってもらう必要があったのだ。
 ディスプレイに突然キャンセルが出て、予約可能ですと表示が現れた。
「あらついてる。良いところでキャンセルが出たわ」
 ホーブルは素直に喜んだ。彼女がその時、CUBEの企みを感じる事はなかった。

 日本の高峯教授は京都大学に勤務している。日本国は東京の壊滅によって何もかもが混乱していた。航空会社のメインコンピューターは作動せず、飛行機の予約をネットで取る事は出来なかった。高峯は仕方なく、大阪の関西空港からニューヨークへ向かう事にした。空港まで行けば何とかなるかも知れない。高峯は大阪へ向かう為に、新幹線を利用した。運良く名古屋より西では電車の運行は正常に行われていた。
 高峯が発券機で空席状態を確認すると、先頭車両にしか空席はなかった。迷わず高峯は空いている席を手配した。先頭の車両に空席があったのはCUBEの仕業だった。高峯にはどうしても先頭車両に乗ってもらいたかったのだ。
 高峯が一二○○系新幹線五一五号に乗り込むと、座席はほぼ満席状態だ。教授が荷物棚に鞄を載せて窓側の席に着くと、すぐに扉が閉まった。時速五○○キロの速度が出る一二○○系新幹線は、京都駅から新大阪駅までを約二十分で結んでいる。 
 一二○○系新幹線は今世紀初頭に膨大な設備費と、電磁波問題が解決出来ずに開発を断念した、リニアモーターカーの技術を応用していた。時速五○○キロもの速度が出る為、車体の形状はリニアモーターカーと同様に、空力を極限まで追求した流線型をしている。何よりもリニアモーターカーに匹敵する時速五○○キロを実現出来たのは、超伝導モーターと超硬ゴム車輪の開発によってだ。これにより高出力と静粛性を得る事が可能になった。
 新幹線はとても静かに緩やかに動き出した。車両は京都駅のホームを離れると加速状態に入った。超伝導モーターのパワーは強力で、十六両もの長い新幹線を一気に五○○キロまで加速させる。加速域ではシートに体が押さえ付けられる為、シートベルトの使用が義務付けられている。
 新幹線が京都駅から発車した事を確認して、CUBEは最初の行動を開始した。高峯が乗る五一五号より先に新大阪駅に停車する四五二号の速度を、四五○キロから五○キロ程遅くした。これで新大阪駅への到着が五分は遅れる。新幹線集中管制室の四五二号のデータは定刻通りに新大阪駅に到着するように改竄した。
 新大阪駅にはCUBEの計画通り、五分遅れで四五二号が到着した。駅員は列車が定刻に到着すると考えていたので、不審に思い管制室へ連絡を入れた。
「四五二号が定刻より五分遅れて到着しましたが、何か問題がありますか?」
『いやこちらには遅れているという情報は入って来ていない』
 管制官の声が無線から聞こえた。
「おかしいですね」
 五分も遅れるとは異常だ。駅員は不安になった。
『岡山に着く間に遅れを取り戻すから大丈夫だよ』
 駅員の心配をよそに管制官は冷静だった。
 乗客の乗降が終わり発進のベルがホームに鳴り響いた。ドアが閉まりモーターに電気が流されて、四五二号はホームを離れるはずだった。しかし四五二号はその場から全く動こうとしない。運転手は焦って操縦を自動から手動に切り換え、メーターパネルのスイッチを入り切りしたが回復しない。すかさず緊急異常のスイッチを押した。これで管制室へ異常を伝える事が出来る。
 通常は緊急異常のスイッチが押されると信号は管制室へ伝わり、その車両から三十分の範囲にいる車両へ、緊急停止をするように指示が入る。四五二号のすぐ後ろを走っている五一五号にも、当然指示が伝わって自動的に停止するはずだった。しかし緊急異常信号は管制室から五一五号には伝わっていなかった。五一五号は四五二号が遅れた事もあり、後五分もすれば新大阪駅に到着する予定だ。
 四五二号の運転手は管制室から、全乗客を降ろして原因を調査するように命じられた。文句を言いながら数千人の乗客が車両から降ろされた。あっという間にホーム上は乗客と謝罪をする駅員で一杯になった。完全にコンピューターに管理されている為、少しの異常でも新幹線は立ち往生する。こういう光景は日常茶飯事で少しも珍しくはなく、駅員の対応も慣れたものだ。
 五一五号の運転手は新大阪のホームに、四五二号が停止している事を知らない。運転室のディスプレイに異常を示す表示は、何も現れていなかったからだ。新幹線は通常駅に近づくと、徐々に速度を落として行く。乗客が不快に感じないように車重と速度を計算して、自然にホームに停止するように制御されている。しかし今日の五一五号は減速点に達しても減速を開始しなかった。この時点でも本来なら運転席上のディスプレイに異常警報と表示が出るはずだが、それもなかった。誰一人として何の不安を感じる事もなく、五一五号は新大阪へ向けて激走を続けていた。それはCUBEが新幹線の管制コンピューターを乗っ取り、思うように操作を行っていたからだ。
 五一五号の運転手はいつも見ているビル群が現れてようやく異変に気が付いた。この辺りではいつも二○○キロ程にまで減速されているはずなのに、まだ速度五○○キロ近くを保っている。この速度ではホーム内に停車する事はとても不可能だ。緊急事態に運転手は焦り、管制室へ至急連絡を取ろうとしたが、回線が繋がらない。一体どうなっているのだ? 運転手は戸惑ったが、もう一刻の猶予もない。こんな速度でホームへ突っ込んだら、ホームにいる人が風圧で吹き飛ばされてしまう。運転手は止む終えず自動から手動に切り換えて、急減速を掛けようとした。意を決して減速レバーを引いた。しかし車両は全く減速の気配を見せない。
 レールの回りに大阪の駅前ビル群が乱立するようになってきた。この場所では通常一○○キロ以下の速度まで減速せねばならない。ここで五○○キロも速度を出すと、車両が通過する時の風圧で、線路沿いのビルが破壊されてしまう。実際その通りの問題が発生した。新幹線が猛スピードで通過して行くと、凄まじい風圧が線路沿いの高層ビルの窓ガラスを粉々に砕いていく。ビル内の人は仰天し、ガラスの破片が雨のように路上に降り注ぎ、下の歩行者は必死に逃げまどった。
 速度が落ちない車両に運転手は冷や汗を流した。こうなったら最後の方法を試すしかない。その方法とはモーターを逆回転させるのだ。こんな事は今まで誰も試した事はない。勿論そんな事をすれば車両は破損し、急減速で乗客が吹き飛ばされる可能性がある。危険は覚悟だが、今やその方法しか列車を停止させる方法はなかった。
『現在本車両は異常を起こして、停止する事が出来ません。緊急停止を行いますので乗客の皆様は、シートベルトを着用して座席に深く腰を掛け、頭を抱え込んで下さい』
 運転手が緊急用のアナウンスを車内に流した。
 予想だにしない事態が発生して車内は騒然となった。高峯も気が気ではないが、どうする事も出来ず、アナウンス通り頭を下げて非常事態に備えるしかなかった。
 運転手は切り換えレバーの安全ピンを引き抜いた。大変なショックが起こるだろうが、何とか減速は出来るに違いないと期待した。運転手は両足をパネルに突っ張りショックに備え、レバーを後進に思い切って放り込んだ。大きな衝撃が襲って体が前へ吹き飛ばされるはずだった。しかし何一つ変化はない。運転手は何度も何度もレバーを後進に入れてみたが何も起こらなかった。
 万事休す。もうどうする事も出来ない。新大阪のホームに異常が伝わっていればいいが、もしホームに人がいればホームの人間は全て吹き飛ばされてしまうだろう。駅のホームが見えて来て運転手は目を疑った。線路上に四五二号車両が停止しているではないか。そんな馬鹿な事が有り得るのか? 運転手は愕然とした。四五二号の後ろが見る間に近づいて来る。恐ろしい程の速度であるはずなのに、何故かスローモーションのように回りの様子が良く見える。ホームの溢れんばかりの人々がこちらを見ている。この人達も助からないだろうなあと、運転手は漠然と思った。
 車内では祈るように体を屈めている人、恐怖から席を立ち逃げ出す人。高峯もただ頭を抱えてその一瞬を待っていた。高峯はまさか自分一人を片付ける為に、これ程の惨事が起ころうとは思いもしなかった。その思いはこの惨事に巻き込まれる全ての人にとっても同様だ。
 四五二号の後部が目前に迫った瞬間までしか、運転手の意識はなかった。痛みも恐怖が掻き消して、シャッターが落ちるように全てが終わった。
 四五二号の最後尾に時速五○○キロの猛スピードで五一五号は激突した。瞬間、凄まじい轟音と火柱が立ち昇った。
 衝突の衝撃で、五一五号の先頭車両は、四五二号の流線型のボディ上部に乗り上げて、上空へ千切れながらはじき飛ばされた。残りの車両が、四五二号の車体を押し潰して線路から押し出していく。合計三十二両ある車体は、苦しむ蛇のようにのたうち回り、脱線した五一五号の車両が反対側のホームに吹き飛び、ホームの上を転がりながらホーム内の人を跳ね飛ばした。
 一○○メートル以上も上空へ吹き飛んだ五一五号の先頭車両は、駅前デパートの衣料品売り場に突き刺さった。逃げまどう買い物客の間を突き抜けるように店内を貫通すると、ガラスの壁を砕いて、ビルの反対側から飛び出した。そしてバスロータリーの屋根を破壊して、発車待ちをする満席のバスの上へ落下した。バスを押し潰しながら車両が粉々に砕けて、人の肉体と破片が辺りに激しく飛び散った。
 車両はねじ曲がりながら、構内になだれ込んだ。ホームの人々は風圧と車両の勢いで数百メートルも吹き飛ばされて、その体はバラバラになった。
 辺り一面に砂埃が舞い上がる中、人々の悲鳴が響く。所々で火柱が上がり、逃げまどう人の頭上から、火の付いた大きなボディパネルやガラス片が降り注いでくる。血の海と化したホームには、血塗れの死体が辺りに無数散らばっている。まさに地獄絵図さながらの惨状が目の前で演じられていた。
 砂埃が落ち着いて来ると、事故の全貌が見えてきた。飴のように曲りくねった車両の残骸は駅周辺約三キロ四方に散蒔かれ、ボディパネルは見る影もなく引き千切られている。残骸の下に、線路に、あらゆる所に死体と、肉体の一部分が散乱していた。
 まるで航空機の墜落現場を見ているようで、この状況では乗客は全滅だろう。勿論高峯教授も助かってはいまい。
 辺りを塗料が焼けるような焦臭い臭いと煙が包み込んで、地獄からの人々の悲鳴は何時までも続いていた。

 CUBEは計画通り高峯教授を始末出来て満足していた。その為に何千人の人間が犠牲になろうとCUBEには関係のないことだ。目を背けたくなる惨状も、悲鳴も、CUBEには単なるデータとしてしか扱われない。
 CUBEの次なるターゲットは、スーパーソニック3二七便でニューヨークへ向っているホーブル教授だった。スーパーソニック3はコンコルド社が新たに開発した超音速機だ。形はコンコルドをさらに鋭角にしたデザインでその最高速はマッハ3にも達する。二七便は大西洋上空を順調に飛行していた。後一時間もすればニューヨークのケネディ空港に到着する予定だ。
 CUBEはコンコルド社のコンピューターに接続してスーパーソニック3の機体の図面ファイルを探した。そしてそれを見つけると、どこかに欠陥がないか隅々までチェックした。大抵人間が設計した物はどこかに必ず欠陥があるはずだ。飛行に支障をきたす可動翼やフラップなどはダブルセーフティ構造になっており、万一自動操縦用の油圧回路が遮断されても、手動により飛行出来る構造になっていた。
 CUBEはさらに詳細に調べた。そして機体前方の乗降用の扉の欠陥を探し出した。扉は気密式になっており、油圧シリンダーで自動的にロック爪を掛けた後、手動で同様のロック爪を二重に掛ける構造になっている。しかしどちらかのロック爪が外れると、成層圏のような低気圧状態ではロック爪の強度が保てず、機内の圧力により三十分程で扉は破壊されてしまうのだ。明らかな強度計算のミスだった。勿論それぞれのロックにはセンサーが取り付けられていて、異常があればコックピットに信号が流れるようにはなっている。CUBEは自動ロック用のセンサーを二七便のプログラムから短絡して、異常が起こってもコックピットに表示が出ないように修正をした。そして油圧シリンダーを解放してロック爪を外した。自動ロック爪が外されても、手動ロックが効いている限り扉に問題は発生しない。この時点では乗客乗員は何の異常を感じる事もなかった。
 ホーブル教授はヒースロー空港を飛び立ってからすぐに、ブランケットにくるまって仮眠を取っていた。急に召集のメールが届いたので、スーパーソニック3に乗り込む直前まで忙しく仕事の引き継ぎを行っていたのだ。
 まだ乗降扉は持ち堪えている。しかし内部では急激にロック爪の疲労は進んでいた。ロック爪が変形してくると、扉に隙間が出来てくるのだが、扉の回りを囲うゴムパッキンの厚みが厚く、その隙間を都合良く埋めてくれた。少しでも空気が漏れれば気圧の変化により乗員に異常が分かったのかも知れない。しかし残念な事にまだ異変に気付く者は誰もいなかった。
 爪の破損は一気に訪れた。パンっという銃声ような大きな音が、機内に響いたかと思うと、扉が引き千切れて機外へ吹き飛ばされた。静かだった機内は突然の事態にパニックに陥った。高度が高いと気圧の差で、気圧の低い機外へ機内の物は吸い出される。成層圏の高度ではその差が余りにも大きく、吸い出されるという生易しい物ではなかった。
 気圧の変化に耐えきれず、一瞬で扉の穴の周辺は吹き飛び、直径五メートルもの巨大な口がパックリと開き、そこから周りの人間や座席などを引きずり出すように吸い出していった。悲鳴を上げる間もなく外に放り出された人間は、音速の空気の壁に激突して粉々に砕け散っていく。ホーブル教授も何が起こったのかも分からず、あっという間に機外へ放り出され細かな肉片と化した。
 コックピット内は非常事態に機長が何とか揺れる機体を保とうと努力しているが、超音速で姿勢を崩した機体を立て直す事は不可能だ。スーパーソニック3は空気の壁に激突し、押し潰された。そして乗客の悲鳴を飲み込んだまま空中爆破を起こした。主翼が、機首が、胴体が、原型を留めぬ程バラバラに砕け散って、遙か上空から大西洋へ降り注いでいく。超音速、成層圏という高度から海に落ちた破片は一○○キロの広範囲に及び、捜索が難航する事は間違いない。物言わぬ焦げ付いた無数の残骸が大西洋の波に揺れていた。
 ケネディ空港の管制室では、レーダーからスーパーソニック3の機影が突然消えて大騒ぎになっていた。
「二七便応答せよ!」
 管制官が何度も問い掛けるが、返事は返って来なかった。
 CUBEはスーパーソニック3二七便からの通信が途絶え、計画通りに機体が破壊された事を知った。今回の事故はCUBEが故意に引き起こさなくても、このまま飛行を続けていれば、いずれ発生していたに違いない。きっと事故原因を究明しても機体の欠陥で片付けられてしまうだろう。

 ホワイトハウスの執務室にルーベンスが駆け込んできた。
「大統領大変です!」
 ルーベンスは青ざめた表情をしている。
「どうした怖い顔をして?」
 血相を変えたルーベンスを見て、カールソンは何事かと書類作成をしていた手を休めた。
「スーパーソニックが大西洋上で行方不明になってしまいました」
「行方不明・・・・・・?」
 ルーベンスが何を言っているのか良く理解出来ずにカールソンは考え込んだ。
「搭乗員名簿にホーブル教授の名前があるんです」
「ホーブル?」
 まだカールソンは首を捻っている。
「HC2を所持する人物です。国連本部に向かう為にスーパーソニックに搭乗していた様です」
「何だって!」
 ようやく事の次第が飲み込めてカールソンは叫んだ。
「スーパーソニックはどんな状態なんだ」
「レーダーから機影が消えて、連絡も取れないらしいです」
「撃墜の可能性は?」
「スーパーソニックの周囲に戦闘機らしい物はいませんでしたし、その可能性は少ないと思います」
「すると事故の可能性が高いというわけか。たまたまHC2を持っていた者が搭乗していたと」
「そう考えた方がよろしいかと」
 これを偶然と考えて良いのだろうか? 何者かが仕掛けた事ではなかろうか? カールソンは横を向いたまま考え込んだ。
「他のHC2所有者の調査もしてくれ」
「ええ、もう既に調べています。フランスのベッソン教授は後三時間程にケネディ空港に到着します。ニルソン教授はもうすぐニューヨーク大学から国連本部に向かう予定です。それから日本の高峯教授ですが、先程日本で大きな列車事故あったらしいのです。しかし情報が混乱していてまだハッキリとした内容が掴めません」
「列車事故だと?」
 カールソンの頬がピクっと動いた。もうこれ以上事故はご免だ。
「確かもう一人いなかったか?」
 カールソンは思い出したように尋ねた。
「ええウィリアム・ランバートという青年がいます。しかし彼とは全く連絡が付きません」
「連絡が付かないというのはどういう事だ」
 カールソンは嫌な予感がした。
「自宅にも、本人のPDAにも連絡を入れているのですが、どうしても連絡が取れないのです」
「誘拐か?」
 どこかの組織に拉致されたとも限らない、カールソンは警戒した。
「可能性がないとは言えません」
「すぐに誰か寄こして詳しく調査しろ。重要人物だぞ」
「分かりました。すぐCIAに連絡をします」
 カールソンの命令にルーベンスは慌ててCIAに連絡を取ろうとした。
「それ私にやらせてもらえませんか!」
 突然入口付近で声が聞こえた。二人が入口の方を振り向くと、そこにはスーツ姿のシャフナーが立っていた。
「シャフナーお前どうして?」
 ルーベンスはシャフナーが何故そこに立っているのが不思議だった。
「たまたま隣の部屋にいたんですがね。補佐官の大声が丸聞こえですよ」
 ルーベンスはしまったと口を塞いだ。
「この件私にやらせてもらえませんか?」
 シャフナーは執務室の奥へ入ってきた。
「どうしてお前が?」
 ルーベンスは立ち聞きされて少々機嫌が悪かった。
「私はこの事件に最初から関わっています。私が捜査した方が外部に情報が漏れなくて都合が良いでしょう」
 シャフナーは提案をした。
「遊びじゃないぞ!」
 ルーベンスは顔を顰めて怒鳴った。
 カールソンは迷っていた。HC2を召集した事を知っているのは世界の首脳と僅かの関係者しかいないはすだ。それなのにランバートが消えたというのは内部にスパイがいるからかも知れない。大袈裟に捜査をすると、敵にこちらの弱みを握られる可能性がある。シャフナーに隠密に調査させるのは正解かも知れない。
「いや彼に任せよう。彼は優秀なシークレットサービスだし、彼が言うようにその方が他に情報が漏れる心配もない」
 カールソンはその提案に賛成した。
「しかし・・・・・・」
 ルーベンスは戸惑ったが、カールソンの命令では不服があっても何も言う事が出来ない。
「大統領有り難うございます」
 シャフナーはカールソンに頭を下げると、横目でルーベンスを見た。苦虫を噛み潰した表情でシャフナーを睨んでいる。
「連絡はルーベンス補佐官を通して行ってくれ」
「はい」
「ルーベンスいいな」
 カールソンに念押しされて、ルーベンスは渋い顔をしたまま頷き、承諾するしかなかった。

 ニルソン教授はニューヨーク大学から国連本部へ向かう途中だった。ニルソンを乗せた黒塗りのメルセデスのリムジンは、運転手と秘書が乗り込んでいる。ニルソンは八十歳という高齢の為、外出する時は安全の為に必ず三十歳代の女性秘書を同行させていた。
 ニルソンはローランド博士とは旧知の仲で、もし政府がHC1の所持を認めていれば、彼が三番目に所持していただろうと言われていた。ローランド博士が死去した今、実質的には彼がコンピューター界で最大の影響力を持っている。
「君余りスピードを出さないでくれたまえ」
 豪華な内装の後部席に小柄なニルソンはちょこんと座り、運転手に言った。
「勿論です」
「コンピューター制御の車は信用が出来ない。昔は皆人間が操作したもんだ。アクセル、ブレーキ、クラッチ、ギヤチェンジも。その頃の方が安心して乗ってられたよ」
 説教でもするようにニルソンは言った。
「でも教授、そのせいで昔は交通事故だらけだったじゃないですか」
 秘書がまたニルソンの愚痴が始まったと、窘めるような慣れた口調で言った。
「大体一トンもある車を、時速一○○キロも出して操作するなんて人間業ではないですわ。昔の人間は相当優れた反射神経を持っていたのですね」
 秘書が呆れたような声で尋ねた。
「いや一○○キロどころじゃないよ。昔、私がドイツに留学していた頃はアウトバーンを二○○キロ以上出して走っていたぞ。それでも一度も事故なんか起こした事はない」
 ニルソンの悪いほら話が出たと秘書はせせら笑った。人間が二○○キロもの速度の車を操作出来るわけがないじゃないか。
 ニルソンは車がスピードを出す事を好まなかった。自動運転制御コンピューターを信用していないのだ。コンピューターは必ずいつかエラーを出す、それが教授の口癖だった。
 車が高速に乗ると、運転手は運転を自動に切り換えた。ハンドルがメーターパネルの奥へ引き込まれていく。自動運転に切り換えると、その間は手動操作を全く受付けない。人間の誤動作を未然に防ぐ為にそうなっている。交通状況によって走行する車の速度はコンピューターが決める。今日は時速一一五キロに設定されていた。車はまるで連結でもされているかのように、一定間隔を保ちながら数珠繋ぎになって走行して行く。
 CUBEはニルソンの行動を完全に把握していた。そしてニューヨークの都心へ向かうこの高速に車が乗るのを待っていた。ここでは自動運転にする事が義務付けられているので、車の動きを全てコントロールする事が出来る。CUBEは車が高速カーブに差し掛かるのを狙っていた。その位置で自動制御用の発信器の信号を切ってしまおうと考えていたのだ。信号は通常複数の位置から発信されていて信号が遮られないようになっている。もしも信号が途切れた場合は、車自身が持っているGPSシステムによって自走出来るよう設計されている。しかしその二つが同時に故障した場合まで想定されてはいなかった。実際そんな事は有り得ないからだ。故意に行わない限りは・・・・・・。
 ニルソンを乗せたメルセデスは、何の問題もなくカーブに差し掛かった。自動サスペンション制御装置の働きで車は傾きもせず、快適にカーブを曲がって行く。車が遠心力が最も大きくなるカーブの中心にきた時に、前触れもなく車載GPSシステムが切れた。パネルにGPS異常のランプが点灯した。運転手がそれに気付いた瞬間、続いて自動制御用の発信器の信号も途絶えた。メルセデスは突然大きく姿勢を崩した。ハンドルさえ持たない状態では態勢を立て直す事は出来ない。メルセデスは時速一○○キロの速度で反対車線へ飛び出し、対向するトヨタの小型車と正面衝突した後、コンクリートウォールに激突した。
 乗員スペースはカーボンモノコックによって強固に守られており、時速二○○キロで衝突しても壊れる事はない。ボディは柔らかなFRPパネルで成形されており、破損する事で衝撃エネルギーを吸収する構造になっている。車はカーブの出口で何とか停止する事が出来た。強固なモノコックを持つメルセデスはFRPの外板を粉々にしながらも、乗員スペースを保っていた。
「だからコンピューターは信用出来ないんだ!」
 ニルソンは怪我もなく元気に怒鳴ったが、運転手と秘書は恐怖に震えて声も出ない。
 粉々になったメルセデスを避けるように対向車は脇をすり抜けて行く。どの車も監視装置が働いて、自動で危険を回避しているのだ。しかし正面から現れた大型タンクローリーは避けようとせずに、メルセデスに向かって真っ直ぐに突っ込んできた。三人がそれに気付いて悲鳴を上げた瞬間、タンクローリーは正面衝突した。メタノールタンクが潰されて火柱を上げるメルセデスを、タンクローリーは車体の下にめり込ませたまましばらく走り、急停車した。ドアを乱暴に開けて、タンクローリーの運転手が真っ青な顔をして運手席から飛び降りてきた。
「自動運転が効かなかったんだ!」
 メラメラと燃え上がる車と、三体の黒焦げの死体を目前に、タンクローリーの運転手は道路に一人呆然としたまま座り込んだ。
 
 カールソンが執務室でコンピューターのキーボードを叩きながら資料作成をしている。
「大統領大変です!」
 またかとカールソンは顰め面をした。今日はルーベンスの叫び声は聞き飽きた。顔を上げると、愕然とした表情をして立ちすくむルーベンスの姿があった。額から大粒の冷や汗を流している。この様子はただ事ではない。カールソンは身構えた。
「どうした、また青い顔して」
「大変です。ニューヨーク大学のニルソン教授が自動車事故で亡くなられました」
「何だって・・・・・・」
 一体どうなっているのだ。HC2所持者がまた一人死んだと言うのか。
「それとですが、日本の高峯教授は、やはり列車事故に巻き込まれていました」
「何てこった・・・・・・」
 カールソンは頭が混乱し、黙ってしまうしかなかった。
「これだけ立て続けに事故が起こると、これはHC2を所持する者をターゲットにしているとしか思えません」
 ルーベンスに言われる前にカールソンも同じ事を考えていた。しかし一体誰がそんな事を? 飛行機を墜落させたり、列車を衝突させたり、同時にどれだけの人が巻き添えになっていると思う。カールソンの頭は益々混乱してきた。
「大統領、私も考えたのですが、この犯人は人間ではないのではないでしょうか・・・・・・」
 ルーベンスが言い難そうにボツリと呟いた。
「君までそんな事を言い出すのか」
 カールソンも心なしかそんな気はしてはいた。しかし絶対に信じたくはなかった。人間が自ら創り出した機械に支配されるなんて事は有り得てはならないのだ。
「どこかの国の狂った指導者が仕掛けているんだ。とにかくそいつを突き止めるしかない!」
 気持ちを振り切るようにカールソンは怒鳴った。
「分かりました。フランスからベッソン教授がもうすぐニューヨークに到着しますので教授と協力してすぐに始めます」
「ベッソン教授だけは間違いなく国連本部に連れて来てくれよ」
 カールソンは最後のHC2となってしまった教授に希望を掛けるしかなかった。
「はい、ケネディ空港には護衛の車と大量の警備員、CIAの職員を配備させております」
「それなら大丈夫だな」
「と、思います」
 ルーベンスもここまで事故が続くと、自信を持って返事する事が出来なかった。
 
 夕方のケネディ空港は戒厳令さながらの物々しい警戒態勢がひかれていた。空港に入る人々は全てボディチェックされ、荷物は鞄の奥隅まで調べられた。空港入口ではチェックを待つ人の長い列が出来ている。
「おい何事だい?」
「どっかの国のお偉方でも来るんだろう」
 長い列に並ぶ若者達が痺れを切らしている。
 管制室に黒色のスーツに身を包んだ三人のCIAの職員が入ってきた。
「ここは関係者以外立ち入り禁止です」
 警備員が険しい表情で制止しようとした。
「心配ない、私達はCIAだ」
 引き留めようとする警備員の男が、CIAの身分証を差し出した。
「あ、ご苦労様です」
 警備員は道を空けて三人を管制室へ招き入れた。
「三一六便ボーイング888の到着時間は順調か?」
 CIAの職員がレーダーのディスプレイを覗き込む管制官の隣に座り込んで尋ねた。
「ええ・・・・・・」
 鬱陶しいそうにちらりと男を見て管制官は答えた。
「邪魔なのは分かるよ、三一六便が無事到着したら俺達はすぐに消えるから」
 CIAが言った。
「そう願いたいね。空港中至る所警官だらけだ。誰が乗っているんだい?」
 迷惑そうな口調で管制官は尋ねた。
「フランスから偉いコンピューターの大家が来るらしい」
「フランスの大統領がきた時でもこんなに厳重な警備じゃなかったよ」
「今は大統領よりもずっと大事な人だ。大統領の代わりはいても、その人の代わりはいないそうだ」
 CIAが説明した。
「一度顔を見てみたいもんだね」
 そう言うと、管制官は再びディスプレイを覗き込んだ。三一六便の機影が着陸態勢に入っている。
「三一六便誘導しますので応答願います」
 インターコムのスイッチを入れて管制官が連絡すると、三一六便から『了解』と、無線応答があった。落ち着いた口調で異常は何も感じられない。
「侵入速度を保ったまま、C滑走路を使用して下さい」
 再び『了解』と機から応答があった。
「何も異常ありませんよ。後十分程でC滑走路に到着します。皆さんも帰る準備をされた方がいいですよ」
 管制官は皮肉ぽくCIA達に言った。
 三一六便の機内は静かだった。ベッソンは足を組みながら暇そうに機内雑誌に目を通している。
『皆様着陸態勢に入りましたので、シートベルトの着用をお願いいたします。尚シートベルトは着陸後、機体が停止するまでの間は外さないで下さい』
 スチュワーデスのアナウンスが機内に響いた。ベッソンは雑誌を脇に置くと、席に深く腰を掛けてシートベルトを着用した。何回経験しても着陸の時の緊張は好きになれない。
 ボーイング888は、安全の為に離陸と着陸は手動との併用で、完全に自動操縦にはならない。自動で滑走路に進入し、もし機長が異常を感じて操縦桿を操作すると、即座に手動に切り換わるように設計されている。CUBEはそのボーイング888の操作特性を良く理解していた。しかしそれが本当に安全の為になるのかは疑問だ。本来は全て自動にしていまう事が何よりも安全である。CUBEは人間の欠陥をここでまた一つ実証してみようと考えていた。
 ボーイング888は順調に着陸態勢に入っていた。高度、侵入角度、侵入速度等全て問題はなかった。自動操縦のままであれば着陸を失敗する事など有り得ない。事故の原因は人間の錯覚や思い違いなどである事がほとんどだ。CUBEはコックピットのシンセティクビジョンに、表示される高度と侵入角度を、ほんの少しだけ変えてみた。
 シンセティクビジョンは、もう一つの操縦窓である。前面窓の下のディスプレイに現在の風景が、コンピューターグラフィックスにより作られて映し出される。これにより夜間でも昼間と同じように明るい景色を見る事が出来るのだ。
 表示の数値で着陸出来るのは、滑走路の中央辺りになる。この位置では滑走路の距離が足りずにオーバーランしてしまう。しかし実際には高度、角度共に正常で滑走路の端に問題なく着陸出来るのだ。コックピットに表示される数値のみが、CUBEにより変えられている。
「機長、この角度では滑走路の中央に着陸してしまいます」
 副機長が最初に異常に気が付いた。
「分かった、手動に切り換えて着陸する」
 機長が操縦桿に手を掛けた。自動操縦から手動操縦に切り換わった事がディスプレイに表示された。
「高度を三○○メートルまで下げて下さい」
 副機長の指示通り機長が高度を下げ始めた。高度計の表示が三○○を指している。
 管制室のディスプレイにも自動から手動に切り換えられた事が表示された。
「三一六便手動に切り換えられているが、何か問題が発生したのか?」
『高度を修正する為、手動に切り換えた』
 機長の声が無線から聞こえてきた。
「OK、そのまま侵入せよ」
 管制官が誘導した。
「手動ならコンピューターがいかれても大丈夫だな」
 CIAの男は隣で交信を聞き安心している。
 慎重に機長は機体を滑走路へ向かわせた。ベテランの機長でも、しばらく手動操作は行った事がなかったので緊張した。
「高度、角度共異常なし」
 正面に滑走路の誘導灯が見えてきた。ズラリと遠方まで続いている誘導灯。フロントガラス越しに誘導灯の明かりが迫って来る。この時、高度計の数字は一○○を切っていた。
「機長、この高度では滑走路に達しません!」
 突然副機長が叫んだ。
「何だって、そんな馬鹿な・・・・・・」
 機長は目を疑った。高度、角度共自分の感覚では正常なのだ。しかし高度計の表示はとんでもない数値を表示している。
「上昇させて下さい!」
「この高度では無理だ。失速する」
 機長は思い切って操縦桿を引き起こした。機首が一瞬上を向いたが、しかしそれ以上上昇する事は出来なかった。機体は尾翼から滑走路の端に激突した。
 ボーイング888は機体の前後に水素タンクを積んでいる。強固な水素タンクは着陸に失敗して尻餅を付く位で破損する心配はない。しかし墜落による加速度と機体の加重が加われば、強固なタンクでも耐える事は出来なかった。
 着陸時とはいえタンク内にはまだ水素が残っている。タンクが押し潰されて引火し、大爆発が発生した。閃光が瞬き、轟音と爆風が辺りを包み、機内はあっという間に炎に包まれた。逃げまどう余裕もなく、高温の炎に乗客達は飲み込まれていく。
 ボーイング888のバラバラになった破片が周囲に飛び散り、滑走路上は火のついた部品が無数に転がって、一瞬の内に火の海と化した。
 爆発の衝撃は管制塔にも伝わり、管制室の大きなガラス一面に放射状のヒビが入った。熱風と恐怖を感じて、窓際の人は思わず身を伏せた。
「そ、そ、そんな・・・・・・」
 管制官が呆然としたまま立ち上がった。管制室にいる者は皆同様に言葉を失っている。
 慌てて数台の消防自動車が現場へ急行しているが、熱風と強烈な火の勢いに近づく事さえ出来ない。
「こりゃ全滅だせ・・・・・・」
 CIAの男はヒビの入った窓際に立ち尽くして、血の気を失なった。
 
 重苦しい雰囲気が大統領執務室に漂っていた。カールソンは突っ立ったまま険しい表情で電話をしている。
「うん分かった」
 カールソンはゆっくりと受話器を下ろして椅子に座ると、大きな溜息を落とした。
「大統領、何か悪い事でも」
 カールソンの苦しそうな様子に、ルーベンスは悪い胸騒ぎを覚えて心臓が高鳴った。
「ルーベンス、君の心配が現実になったよ」
「何がですか?」
「ボーイングが落ちた。ベッソン教授は死亡したよ」
「何ですって!」
 驚いてルーベンスの心臓が跳ね上がった。
「遂にこちらの弾がなくなったよ」
 カールソンはがっくりと肩を落とした。
「そんな馬鹿な・・・・・・」
 予感が当たり、ルーベンスも労う言葉が見つからない。
「敵が今度何をして来るか考えるだけで怖いよ。奴らなら世界征服も可能だ、もう打つ手がない」
「シャフナーがランバートという奴を連れてきてくれればいいが・・・・・・」
 ルーベンスはそう願った。
「きっと片付けられているさ」
 カールソンが素っ気なく言った。
 多分カールソンの言葉通りだろう。こんな滅茶な事を平気で行う奴らだ、ランバートなどとっくの昔に始末されているに違いない。そう考えるとルーベンスは辛かった。気持ちと雰囲気が益々重苦しくなっていった。