第14章 第二要求(1) 暗黒の宇宙から一条の光が地球の裏側から射し込み、北米大陸に朝が訪れた。
CUBEは昨夜ストーンの屋敷で起こった出来事を早く調査したかった。夜では細部まで調べる事が出来ない為に、朝が訪れるのを待っていたのだ。
CUBEは国防総省のコンピューターに侵入すると、軍事衛星を操り情報を収集し始めた。北米の東部を通過する偵察衛星の軌道をクリーブランド上空に修正して、ストーンの屋敷を写すように操作をした。衛星のカメラはズームアップを繰り返して、屋敷の敷地を隈なく調べた。地面に落ちているナットの形状まで判断出来るという高精度なカメラは、屋敷の様子を鮮明に伝えてきた。焼け落ちた屋敷、庭に倒れる人影、燃え尽きた車等。それは壮絶な戦いが昨夜ここで繰り広げられた事を物語っていた。
CUBEはデジタル処理をして、さらにズームアップを続けた。庭に倒れている人影は、顔写真のデータからジェームスとサリーである事が判明した。玄関脇で倒れている者はバナナとオレンジである。しかし求めるランバートの遺体を探す事が出来ない。焼け落ちた屋敷の中にも遺体があるようだ。しかし損傷が激しく、それが誰なのかは判断出来ない。屋敷前の通りには青いトヨタが停車している。シャフナーがここまで乗って来た車だ。まだ車があるという事は、シャフナーもランバートも、屋敷の中で死んだという証拠だろう。何しろ屋敷は酷く焼け落ちて、その下に遺体があっても宇宙からは調べる事は出来ない。この状況では二人共ここで死亡したと考えても間違いないだろう。
CUBEは自分に危害を与える人間が、これで全ていなくなった事を知り喜んだ。これで自分と人類が生き長らえられる、新しい要求を突き付ける事が出来る。
カールソンはホワイトハウスの執務室で苛ついていた。全米エネルギー協会からの報告を待っていたのだ。今日は全米のエネルギー消費量の統計が発表される日だ。
「ルーベンス、報告は遅れているのか?」
カールソンはコンピューターのディスプレイが結果を映し出すのを、今か今かと待ちわびていた。
「九時発表だと聞いておりますが・・・・・・」
ルーベンスが腕時計を見ると、既に九時を過ぎている。
「こんな大切な報告が遅れるとは、何を考えているんだ」
カールソンは待ちきれず憤慨した。
突然、ディスプレイにデータが転送されて来た。カールソンは思わず身を乗り出して画面を凝視した。画面に表示されては、流れて行く棒グラフや円グラフ、複雑な公式や、数値が現れては消えて行く。そのスピードは凄まじく、とても目が付いていかない。十秒間程その状態が続いた後、画面が停止した。アメリカ全土の二十四時間前のエネルギー使用量と四十八時間前の使用量がグラフと数値で表されている。
「みろ、やったぞ!」
カールソンが勝ち誇ったように拳を突き上げた。
画面上では二十四時間前と四十八時間前では五二・六パーセントの差があった。それはエネルギー使用量が四七・四パーセントまで下がった事を意味し、CUBEが要求した半分のエネルギー量を達成したという事を証明していた。
「俺達の勝ちだ。きっと敵も仰天しているだろうなあ。まさか本当に要求を達成出来るとは思ってなかっただろう」
カールソンは浮かれ立ってほくそ笑んだ。
「大統領、余り舞い上がってもらっては困りますよ。この数字をこれから維持するのが大変なのですから」
浮かれるカールソンをルーベンスが宥めた。
「大丈夫だ、すぐシャフナーがランバートって奴を連れて来てくれるのだろう。それで敵の居場所が突き止められる」
「それが彼を見つけたという連絡の後、全く音沙汰がないんです」
言いにくそうにルーベンスは言葉を詰まらせた。
「何、まだ身柄を確保していないだと! すぐに状況を調べろ」
カールソンの表情が豹変して、激が飛んだ。
「はい!」
ルーベンスはシャフナーへ何度か連絡を入れていたのだが、シャフナーはランバートの助言で車に乗ってからPDAの電源を切っていた。シャフナーのPDAが繋がると、それだけで敵に自分達の位置が知られてしまう可能性があるのだ。屋敷内でのPDA使用を後悔してからシャフナーはより慎重になっていた。CUBEもエネルギー協会のデータを入手していた。各国のエネルギー使用量は、CUBEの要求した値を何とかクリアしていた。指定した七日間の最終日とはいえ、人類もその気になればやれるではないか。CUBEは感心し、これからの要求も達成可能だろうと期待した。
CUBEが新しく要求したのは、
@エネルギー使用量をさらに現在の半分にする事。
A大気の浄化を進める為、石炭、天然ガスを使用した火力発電の完全停止。
B全ての森林伐採の禁止。
C化学物質製造プラントの稼働禁止。
Dバイオテクノロジー開発の凍結。
の五項目であった。
猶予は今日から七日間で、もし要求が達成出来なかった場合、達成不可な国の主要都市を、人口密度の高い順番で核兵器により破壊する。攻撃は要求が達成されるまで継続される。CUBEは人類を脅迫するには、核攻撃という言葉が一番効力を発揮する事を知っていた。人類は自分達が創り上げた武器を最も恐れているのだ。この事実はCUBEにとって理解し難い事の一つだった。
このCUBEの新しい要求は、ネットを通して世界中の首脳達に再び配信された。最初の要求を達成した事で胸を撫で下ろしていた各国の首脳にとって、この要求はまさに晴天の霹靂であった。その内容も今回の方が遙かに達成不可能な事ばかりである。
カールソンはこの要求を読んだ時、背筋に寒気が走った。先程までの威勢は一瞬にして吹き飛び、重苦しい深刻さが執務室に漂った。
「こいつはやっぱり気狂いだ。こんな不可能な要求を出す馬鹿がいるか? これじゃ人類は絶滅だ」
カールソンは机に伏せて、手にしたボールペンを握りしめた。ペキという音がして、ボールペンは真ん中から折れた。腕を震わせて、やり場のない怒りを自らに叩き付けているようだ。
「世界の首脳の方とご相談をされた方がよろしいのではないでしょうか?」
提案をするルーベンスの声も沈痛で辛そうだ。
「そうだな・・・・・・」
カールソンは落胆したままか細い声で呟いた。
ホワイトハウスの閣議の間のディスプレイに各国の首脳の姿が映っている。皆不服そうな表情をしてカールソンを睨み付けている。
『カールソン大統領、あのメッセージは一体どういう事だ』
ロシアのロシャーリ大統領が憤慨しながら問い掛けた。
「あんな要求が再度送られて来るとは予想していなかったんだ」
苦し紛れの答弁をカールソンはした。
『貴国に我国は全面的に協力してきた。それがこのような状況になってアメリカは今後どうされるつもりですか?』
ドイツのメスター首相も憤慨している。
『こんな実現不可能な要求を突き付けられては今更どうしようもありませんよ』
イタリアのベルティーニ首相が吐き捨てるように言った。
『こんな事ならアメリカに任せずに、我国の諜報部に対応させれば良かったよ』
ロシャーリ大統領は馬鹿にしたような態度をとった。
カールソンは自分が悪事を働いたかのように、皆に言われて腹が立ってきた。が、今はただ耐えるしかなかった。
『とにかく時間もない事だから、世界が力を合わせて犯人を追及するしかないでしょう』
イギリスのハーベイ首相が皆の怒りを抑えるように提案した。
『我国は独自に調査をするよ。アメリカにはもう任せておけない』
フランスのランデール首相はあくまでも否定的だった。
『私の所もそうだ。アメリカは今まで調査したデータを全て渡してもらいたい』
ベルティーニ首相も同感だ。
『そうだ、私の所にもデータを渡して欲しいね。少なくともアメリカがどこまで調査を進めているのかを知りたいものだ』
カナダのボーン首相は隣国として気を遣いながらも不満を持っていた。
「分かった。君達の言う通りにしよう」
カールソンには各国の意見をまとめる力はもうなかった。
ランバートという奴は一体どこにいるんだ。カールソンはこんなに自分が苦しんでいるのに、何の役にも立たないシャフナーの不甲斐なさに腹が立ってきた。奴に任せるのではなかったと後悔したが、今更遅かった。
テレビ会議が終わった後、カールソンは完全に敗北感を味わっていた。電気を消した薄暗い閣議の間で椅子に深く座り込み、両手で顔を覆い隠した。国民からの信頼感の欠落。先進諸国からの誹謗中傷。何故、自分の在期中にこんな問題が発生してしまったのか? 自分の味方はどこにいるのだろうか? このまま世界はどうなってしまうのだろうか? 不安が立て続けに訪れて胸を締め付けた。
「大統領大丈夫ですか?」
ルーベンスがドアを開けて問い掛けた事にさえ気が付かない。気遣ったルーベンスは部屋に進み入ると、カールソンの隣に立ち肩に手を置いた。
「ああ、君か・・・・・・」
カールソンはまだ手で顔を覆ったままだ。
「シャフナーから何か連絡はあったか?」
「いいえ。まだ何も・・・・・・」
心痛なカールソンの様子に、ルーベンスの声も力少なげだ。
「そうか・・・・・・」
「大統領、少し横になられてはいかがですか?」
心配してルーベンスは尋ねた。
「いや、大丈夫だ」
カールソンは顔を覆った手をどけた。疲れ果てて憔悴した表情が痛々しい。
「なあルーベンス、私の努力は足りないのだろうか?」
「は・・・・・・?」
カールソンから思いがけず弱気な質問をされて、ルーベンスは戸惑った。
「いえ死力を尽くされておられると思いますが・・・・・・」
ルーベンスは在り来たりの返事しか思い付かなかった。
「そうか、でも敵は本当に人類を滅ぼすつもりでいるのだろうか?」
カールソンは正体さえ分からない相手を呪った。
「私には分かりません。もう神に祈るしかないのではないのでしょうか」
「神か・・・・・・」
行き場を失ったカールソンは天井を見上げて祈るように瞳を閉じた。身を切るような寒さの中、コルベットは疾走していた。枯葉の積もる山道は、自動運転の効かない旧式の車ではとても滑り易く、ハンドルを握るシャフナーは、何度もヒヤリとさせられた。助手席のランバートは、昨晩の出来事に大きな衝撃を受けたらしく、車に乗ってからずっと眠り続けている。無理もない、自分の目の前で多くの人が死に、自らも死の恐怖と向き合ったのだから。シャフナーは死体が転がるようは危険な状況には慣れてるが、素人のランバートには大変なショックだったに違いない。シャフナーは出来るだけランバートを休ませてあげようと、眠り続ける彼を起こそうとはしなかった。
ランバートは夢を見ていた。それはあのローランド博士との、遠い昔の日の想い出だった。苦しくも充実していたHC1所得の為の教育。まだ元気な頃の背広姿の博士の姿が見える。
「ランバート忘れるな、もしもコンピューターが反乱を起こしたら、君は逃げるんだ。コンピューターの手から逃れられる場所へ・・・・・・」
まるで訴え掛けるような博士の悲しい表情が思い浮かぶ。
近い将来に博士は、今回のようなコンピューター反乱が起きる事を予期して、それを気に病んでいた。
「これから登場して来る最新コンピューターは、我々の想像を絶した高性能の機械になる。コンピューターネットワークを縦横無尽に操り、我々の動きを絶えず監視する。クリエイト規格によってネットワークは飛躍的に普及したが、それが反対にコンピューター達に人類の全ての情報を与える事になってしまった。もう既にこの世界はコンピューターに牛耳られているんだよ。ただ皆はそれに気が付いていないだけなんだ」
忘れる事の出来ない博士の言葉だった。
「私はあの日君のデータを完全に抹消したのではない。ただデータを移動させただけだ。勿論その後は完全に抹消したがね。このメッセージの最後に君のHC1のデータを添付してある。それをクリエイト協会のコンピューターに転送すれば、君はHC1に登録される。コピーを済ませたら、このメッセージは完全に抹消してくれ。さてそろそろ私は君の両親が待つ所へ行く事にするよ。後は頼んだぞ、ランバート君・・・・・・」
博士が残した最期のメッセージが思い起こされる。しかし思ってもいなかった、こんなにも早く博士の遺言を託されるとは・・・・・・。
忘れもしない、悪夢の始まりはあの一通のメールからだった。
あの日いつものようにランバートは、深夜の買い出しから帰宅した。包みをダイニングテーブルに置いてコートを脱ぎ、鼻歌を歌いながらコンピューターに残された新しいメールを確認した。"HC2を取得する各位殿。
本日東京で起こった悲劇はご存じだと思います。この事件はある人物がコンピューターネットワークに入り込んで、人類史上最悪の大殺戮を行ったのです。この異常な犯人は、今後も世界を破滅すべく行動を起こそうとしています。この事態を解消すべくHC2を所持される貴君の力をお借りしたい。明日米国東部時間午後九時までに、ニューヨーク国連本部までご集合されたし。
"国際連合理事総長 スーザン・ダガン "
このメールを見た瞬間、ランバートの体に悪寒が走った。"まさか"と、疑い、そしてすぐに"逃げなければ"と焦った。"反射的にランバートの脳裏に、ローランド博士の忠告が思い起こされた。ここにいても奴は自分を見つけるに違いない。"どこへ、どこへ逃げればいい・・・・・・"狼狽して思考を失いかけた。落ち着けと、自分に言い聞かせて、とりあえずコートを着込んだ。どこにも行く当てはなかったが、早くここを出なければと思った。焦りながら一人部屋をウロウロして、コートのポケットに手を入れた時、何かが指先に触れた。ハッとしてそれを取り出してみると、それは一枚の白い紙切れだった。ランバートの脳裏にリリアンからそのメモを受け取った時のやり取りが、走馬燈のように思い出された。
「良かったら連絡ちょうだい」
リリアンが手帳に電話番号を書いて破り、瞳を輝かせながらランバートに渡した。
「ああ有り難う」
ランバートはメモを受け取り、軽く会釈をした。その記憶が鮮明に甦る。
今になって考えればこのタイミングの良さは、まさに神が彼を救う為に、あの時リリアンと自分を引き合わせたかのように思える。運命的な物を感じて、次の瞬間には無意識にメモの番号に電話を掛けていた。しばらくの呼び出し音の後、有機ディスプレイにリリアンの顔が現れた。
『え、あなたなの。嬉しいわ。ハイクリエイトを持っているようなエリートから連絡もらえるなんて・・・・・・』
リリアンの弾んだ声がテレビ電話から聞こえてきた。
「あの今って暇かな?」
ランバートは戸惑いながらも尋ねた。
『え?』と、言ったきりしばらくの沈黙があった。
ランバートはいきなり彼女を誘うような言葉を発した事を後悔した。余りにストレート過ぎて断られると不安になったのだ。
『ええいいわよ。時間あるわ』
リリアンの返事に、ランバートはホッとして胸を撫で下ろした。
「どこに住んでるの?」
ランバートは尋ねた。
『ビーコンヒルだけれども』
ビーコンヒルか、金持ちの集まる都心の高級住宅街じゃないか。あの辺りは自分に関係ないので余り馴染みがない。さてどこで待ち合わせをしようか。ランバートは考えた。
「一時間後にフランクリン像の前じゃどうかな?」
そんな観光名所しか浮かんで来なかった。
『いいわよ。あなたが車で来る?』
「ご免、今僕の車は故障中なんだ。僕は電車で行くよ」
『分かったわ、それじゃ私が車で迎えに行くわ』
「じゃ一時間後にね」
リリアンとの電話は切れた。
ランバートは車が故障中と嘘をついた事を気にしたが、今は自分の車を使うわけにはいかない。そんな事をすれば、車載コンピューターから、敵に自分の居場所が知られてしまうからだ。
ランバートはクローゼットからディパックを取り出すと、机を開いて、財布や、HDカードといった貴重品を無造作に詰め込んだ。そしてそれを背負うと、急いで外へ飛び出して行こうとした。玄関の扉に手を掛けた時"後は頼んだぞランバート君"とローランド博士の声が聞こえたような気がした。ランバートは急に大切な事を思い出し、踵を返してコンピューターの置かれた部屋へ戻った。ランバートは机の下の引き出しに入っている、メモリーケースを取り出した。ケースを開くと、百個以上のメモリーカードが並んでいる。それを一つ一つ出してタイトルを調べた。そしてその中にHC1と書かれたメモリーカードを見つけた。
「これこれ、これを忘れちゃいけない」
そのメモリーカードを引き抜くと、ジーンズの腰のポケットにねじ込んだ。そして部屋の電気を全て消灯させると、部屋から飛び出していった。地下鉄のメディアパーク駅に着くと、ランバートは都心のサウス駅までの切符を買おうとした。普段はHDカードを利用して購入するのだが、それだと自分の行き先がコンピューター上に残ってしまう。自分の痕跡から敵に居場所を突き止められるのを防ぐ為に、現金で切符を購入する事にした。
「すみません。切符を現金で買いたいのですが」
ランバートは券発機に取り付けられているインターフォンに向かって話し掛けた。
『はあ。HDカードを使ってよ』
インターフォンの向こうから面倒くさそうな男の声が聞こえた。
「HDカードを紛失したので」
ランバートは嘘をついた。しばらくすると裏口から駅員が現れた。髪をオレンジ色に染めた新米ぽい駅員だった。
「あんたがHDカードなくしたって人?」
ぶっきら棒に駅員は尋ねた。
「そうです」
「それじゃここに住所と名前と電話番号を書いて」
威圧的に駅員は書類を差し出した。ランバートは自分の名前を書くわけにいかないので、友人のストックのデータを書き残した。駅員はその電話番号からデータが偽りでないか確認した。そして間違いない事が分かると駅員は一人で頷いた。
「ストックさんいいですよ。どこまでいかれます?」
「サウス駅まで」
ランバートは答えた。駅員が手持ちの発券機で切符を発行してくれた。
「二ドル二十五セントです」
ランバートは言われるままに現金を支払って、ようやく切符を手に入れる事が出来た。HDカードを使わないと、世間からはまるで犯罪者のように見られて、切符一枚買うのも一苦労する。ランバートは閉口した。
ランバートの住むメディアパークからは距離で二○キロ、三十分程で都心に到着する。地下鉄はオートパイロット式で運転手は存在しない。全て自動で発進、停車が制御されている。
電車内は向かい合わせの席になっていた。空いた席に座り、ランバートの目に入ったのは、向かいの小さな女の子を抱きかかえた婦人や、時間外勤務のサラリーマンの姿。正面の席の目の痩けた老人にぼんやりと見つめられると、彼が自分を狙うハンターのように思える。既にランバートは見えない相手に怯えているようだ。
サウス駅に着いてから、待ち合わせのフランクリン像までは街の中心街を五分間程歩かねばならない。ランバートは都心の高層ビルと古い町並みが混在する通りを抜けながら、待ち合わせの場所を目指した。急いでいるのに、行き交う人達が妙にゆっくり移動しているのように感じられて焦った。この中に自分を付け狙う者がいるような不安な気持ちになって、何度も後ろを振り返った。勿論そんな者はいるはずないのだが。
ランバートがフランクリン像の前に到着すると、約束の時間にはまだ十五分間も余裕があった。勿論辺りを見渡しても彼女の姿は見えない。ランバートは寒さからダッフルコートのフードを立てた。
この時期のボストンはとても寒い。向かいのビルにはめ込まれた温度計はマイナス三度を示している。少しでも温まるように足を震わせ、手袋をした手をポケットに入れた。余りの寒さに待ち合わせのメッカといわれるこの場所でも、待ち合わせをしている者は数人しかいない。この人数なら彼女は自分を簡単に見つけられるだろう。ただ本当に来てくれるのかが問題だ。ランバートは不安を背負いながら待ち続けた。
時計を見ると約束の時間は過ぎている。ランバートは不安そうに辺りを何度も見渡した。それでも彼女が現れる気配はない。やはり来ないのか。そりゃそうだ見ず知らずの男から電話で呼び出されて、ノコノコと出て来るような都合の良い女はいない。あの時のメモもきっと遊びのつもりだったんだと、ランバートは諦め掛けた。
目の前の道路に一台の車が停車した。銀色の大きなBMWだ。ドアが開いて中から女性が降り立った。毛皮のコートに、革のロングスカート、手首には金色のロレックス。胸もとで鈍く光るアンテークな金の十字架。趣味の悪い金持ち女、それはランバートの好みのタイプではなかったが、その顔付きは間違いなく彼女だった。ランバートの記憶は良い方なので、リリアンのような美人を忘れるわけはない。でも派手な服装には少々面食らった。自分を探すように辺りを見渡す彼女の方へランバートは駆け出した。
「ウィリアム・ランバートです。すみません急に呼び出してしまって」
ランバートは彼女に挨拶をした。
「いえ、いいんですよ。丁度暇でしたから。リリアン・ストーンです」
ランバートが寒さで震えているのを見て、
「御免なさい、寒いですわね車に乗って下さい」と、リリアンは言った。
「いいんですか?」
「どうぞ、どうぞ」
リリアンが助手席のドアのロックを解除すると、ランバートは待ちかねたように車に乗り込んだ。ヒーターの効いた車内は天国のような温かさだ。凍えた体が生き返るような気がする。リリアンが車に乗り込んで来ると、ほのかな香水の香りが漂った。
「どこへ行きますか?」
リリアンが尋ねた。
「この辺りのお店は余り知らないのでお任せします。出来れば空いてるお店がいいけれど」
ランバートは言った。
「大丈夫よ、この時間ならどこでも空いているわ。それじゃ"ボイル"ってお店にしましょうか」
ボイルって名の店はランバートも良く知っていた。昔懐かしいアメリカの家庭料理を出して評判の良い店だ。確か全米チェーン店になっているはずだ。
「いいですね」
ランバートはそう言うと、手袋を外して手をさすった。
「外、寒かったでしょう。大分お待ちになられましたか?」
申し訳なさそうにリリアンが尋ねた。
「いえ、それ程は」
ランバートは痩せ我慢をした。
「ロング埠頭のボイルをお願い」
リリアンがナビゲーションに音声入力をした。コンピューターが検索をし、車は自動運転で走り出した。
「まさか本当に連絡があるとは思いませんでしたわ」
リリアンはメモを渡した数ヶ月前の事を思い出していた。
「何故あの時、あなたは僕に連絡先を教えてくれたのですか?」
ランバートは思い切って尋ねてみた。
「さあ、私にも分からない。ただ感心があったの。ハイクリエイトを持っている人がどんな人なのかって。私でも話が通じる人なのかなって思ったんです」
「僕は自分を普通の人間と思ってますが」
リリアンの言葉にランバートは素っ気なく答えた。
「そうかしら。ハイクリエイトって、私には雲の上の人ってイメージがありますよ。あなたが持っているグレードは幾つですか?」
ランバートは回答に迷った。リリアンはハイクリエイトの信者だ。こんな人にHC2なんて言っていいものだろうか? しかし嘘を付くわけにはいかない。これから彼女に助けてもらわなければならないのだから。
「HC2です」
ランバートは返答した。
「はあ?」
リリアンは驚くと思ったが、意外に落ち着いていた。
「冗談は止めてもらえませんか? HC2って世界で五人しかいないんですよ。私でもその位は知っていますよ」
彼女はただランバートの言う事を信じていなかっただけなのだ。
「一応その五人の内の一人ですけれど・・・・・・」
謙遜するようにランバートは、小さく呟いた。
次の瞬間、悲鳴のような叫びが車内に響いた。その金切り声はランバートの想像を遙かに超えていた。やっぱりHC4と言っておくんだったと後悔したがもう遅い。
「本当にHC2なの? 信じられない!」
どうも驚きが大き過ぎてリリアンの思考回路が変わってしまったらしい。さっきまでの敬語が友達語になっている。ランバートは言葉に詰まってしまった。今更違うとも言えないし。
「確かHC2って今一番グレードが高いんじゃなかったかしら」
リリアンはクリエイト規格の事を妙に良く知っている。これは付き合い難い相手だと、ランバートは困惑した。
「でも楽しいお話が出来そう」
全てを信じたリリアンは、ランバートの不安をよそにとても陽気そうだった。ボイルにはすぐ到着した。カントリー風の古いアメリカの木造住宅を真似た外観。店内も木造のテーブルや椅子が置かれて、どこか懐かしさを感じさせる。窓の外から店内を見ると、数組の客が食事をしているのが確認出来た。リリアンがランバートを引き連れて店内に入って来ると、若いボーイが入口で待ち構えていてドアを開けた。
「いらっしゃませ」
ボーイは深々とお辞儀をして顔を上げた。そしてリリアンと視線が合って仰天した。
「せ、専務、どうしてこんなお時間に」
若いボーイは声を詰まらせた。
「専務だって!」
ランバートもボーイの言葉に耳を疑った。
「ええ、ここは私のお店なの」
さらりとリリアンは言った。
ボーイがすぐ店長に連絡すると、店長が飛んできた。恰幅の良い紳士だ。
「こ、これは専務、お久しぶりです。今日はご視察ですか?」
低姿勢で彼女の腹を探るように店長が尋ねた。
「ええ、みんなが怠けていないかと思って」
急にリリアンは女性経営者の顔になって嫌味ぽく言った。
「大丈夫です。売り上げも順調に伸びていますし・・・・・・」
リリアンの脱いだ毛皮のコートを店長は受け取り、奴隷のように彼女の後ろに付いて店内を案内した。
「こちらはとても有名なお方ですので粗相がないように。個室をすぐに用意してもらえない?」
リリアンがランバートをそう紹介した。
「分かりました、すぐに」
店長が血相を変えて個室の状況を調べにいった。
「君って偉いんだ・・・・・・」
ランバートは驚き感心した。
「父の仕事を手伝っているだけ。肩書きは専務だけれども、私は別に何もしていないわ。経営なんて何も分からないから」
店長が戻って来て、個室の方へ二人を案内をした。白い壁に囲まれた部屋の真ん中に、長方形のテーブルと椅子が四脚置かれている。
「椅子は二つでいいのよ」
ツンとした口調でリリアンが言った。
「申し訳御座いません。すぐ片付けますので」
店長はリリアンを前に緊張し、とても気を遣っている。額から汗を流す姿が痛々しい。
「いいのよ。これで」
「はい」
店長はリリアンが座り易いように椅子を下げた。
「料理は何にいたしましょうか?」
店長が尋ねた。
リリアンは一応メニューに目を通したが、すぐにメニューを閉じた。
「任せるわ」
そう言ってメニューを店長に返した。
「はい、分かりました」
店長が恐縮したように頭を下げて、メニューを受け取った。
「ワインを出して、四五年物を」
「はい、すぐに」
店長はそう言うとすぐに部屋を後にした。ランバートはリリアンのような小娘に、好きなようにこき使われる店長が気の毒に思えてならなかった。
「みんな私の前では媚び諂うけれども、裏じゃ何言ってるか分かったもんじゃないわ。どうせ私なんか親の七光りだから、どこへ行ってもお荷物なのよ」
吐き捨てるようにリリアンはそう言った。
その悲しげな表情をランバートは見逃さなかった。金持ちには金持ちの悩みがあるのだと、その時ランバートは思った。リリアンの胸もとで揺れる十字架のネックレスもやけに寂しげに見えた。
すぐに赤ワインが運ばれて来て、二人は乾杯をした。その後もチキン料理や、豆料理など手間の掛かった料理が何品も運ばれてきた。最近ではレトルト食品で済ます家庭が多く、こういった手間の掛かる料理を作らなくなった。この店が繁盛しているのはそういった懐かしい味を手早く、尚リーズナブルな値段で提供しているからだろう。彼女の父親は良いところに目を付けたものだ。
「ねえハイクリエイトってどうすれば取れるの?」
興味津々な目を輝かせてリリアンが尋ねた。彼女は本当は僕からこれを聞きたかったんだと、ランバートは直感した。
「そうだね、難しいよ」
素っ気なくランバートは答えた。
今日は彼女とデートする為に会ったのではない。何とか助けてもらう為に彼女に連絡したのだ。それを考えると答えもぶっきら棒になってしまった。
「難しいじゃ分からないわ」
リリアンが拗ねたような表情をした。気まずい雰囲気にランバートは失敗したと思った。自分は彼女に助けを求めていても、彼女はただ自分とデートする為だけにここに来ている。少しは彼女のペースに乗らなければ。
「ご免、ご免、ハイクリエイトの試験は一般常識がメインだから、常識的な人間だったら受かるんじゃないかなあ」
ランバートは謝り、彼女の興味を惹くように話し始めた。
「一般常識って、コンピューターの試験でしょ」
リリアンは益々感心を持って問い掛けた。
「そうなんだ、コンピューター知識はハイクリエイトには余り必要ないんだ。用はそれを所持する人の影響が強いから人間性を判断するんだ」
「へえ、何か難しくって私じゃ分からないわ。やっぱり無理みたい」
リリアンは屈託ない笑顔で微笑んだ。
「あなたってどんな仕事をしているの?」
リリアンが続けて尋ねた。
彼女は自分の事を一流企業の役員とでも思っているだろう。ムービーメーカーなんて言ったら馬鹿にされるだろうか? ランバートは返答を躊躇った。でも嘘を言っても仕方ない、本当の事を話そう。
「ムービーメーカーなんだ」
ランバートは答えた。
「へえ本当なの。凄いじゃない」
ランバートの心配とは裏腹にリリアンは喜んでくれた。
「これでも私ね、大学で演劇を学んでいたのよ」
リリアンが自慢げに言った。彼女が女優を目指していたとは意外だった。何しろ今や仮想映像が主で、俳優の仕事なんてほとんどないから。
「あなたの作品って誰が出てるの?」
「マリリン・モンローなんだ」
リリアンの問いにランバートは答えた。
「凄い、私もマリリンは大好き。彼女って可愛いものね。それでどんな作品なの?」
リリアンは映画ファンなのか目を輝かせながら尋ねた。
「西部劇なんだ」
「『帰らざる河』みたいなの?」
「どちらかというと『荒馬と女』かな」
ランバートは咄嗟にアーサー・ミラーが脚本を手がけたこの作品の名前を出した。実際作っているのは単純なアクション西部劇だが、この方が高尚な感じがしたからだ。
「アーサー・ミラーの作品ね。私ね学校でミラーの『セールスマンの死』をやったのよ」
その後リリアンとは映画の話で、とても盛り上がった。ランバート自身こんなに人と話をしたのは久しぶりだ。しかし肝心の匿ってもらう話を打ち明ける機会は逃してばかりで、気が付けば二時間も時間が過ぎていた。そしてランバートは再びリリアンのBMWの助手席に座っていた。
「家へ送るわ」
リリアンの言葉でランバートは夢のようにふわふわとした状態から抜け出した。
「どちらなの、あなたの家は?」
続けてリリアンが尋ねた。ランバートは言葉に詰まった。ここで自宅に戻ってしまっては元も子もない。今こそ本当の事を言わなければ。
「実は・・・・・・」
胸がドキドキして次の言葉が出て来ない。本当の事を言って彼女に信じてもらえるのか? きっと気狂い扱いされて車から放り出されるのが関の山だろう。しかし真剣に訴えれば理解してもらえるかも知れない。
「信じてもらえるのかどうかは分からないけれども、僕の話を聞いてもらえないだろうか」
ランバートは緊張しながら話を切り出した。
「何を勿体振っているの?」
リリアンが不機嫌な表情をした。
「聞いてもらえるかい」
「ええ」
「僕は今得体の知れない者に追われているんだ」
ランバートは切り出した。
「え!」
思った通りリリアンは顔を大きく顰めた。マズいこのままでは偏執狂と間違えられてしまう。ランバートは焦った。
「昨日東京に核爆弾が落とされたのは知ってるよね」
気持ちを落ち着かせるようにランバートは続けた。
「酷いわね。あれは人間のする事じゃないわ」
リリアンは暗い表情をした。
「あれはね、人間がやった事じゃないんだ」
「何を言い出すの、人間じゃなかったら誰なのよ。宇宙人とでも言うつもりなの」
リリアンは不機嫌そうに声を荒げた。
「分かるよ、でも聞いて欲しい。犯人は狂ったコンピューターなんだ」
「あなたはコンピューターが爆弾を落としたって言うわけ。SF映画でも作り過ぎたんじゃないの?」
不審感を募らせて軽蔑でもするような視線をリリアンは投げ掛けた。この車から放り出す機会を伺っているようにも感じられる。
「奴は間違いなく次にHC2を所持する者を狙ってくるよ」
「どうしてHC2の人が狙われるのよ」
「HC2は奴を探し出せる唯一の資格だからさ。奴は自分の居場所を知られたくない。居場所がバレたら破壊されかねないからね。だからHC2を片付けたいんだ」
「それであなたが殺されるとでも言うの? コンピューターが拳銃を持ってあなたを殺しに来るってわけ? コンピューターは手も足もないのよ」
馬鹿にしたように呆れ果てて、リリアンは信じようとしなかった。
「例えばこの車。完全にコンピューター制御になっているだろう。もし奴がこの車のコンピューターを乗っ取って暴走させたらどうなる。時速二○○キロでガードレールに突っ込ます事だって出来るんだよ」
ランバートは彼女に納得させようと必死に説明を続けた。
「怖い事言わないでよ」
「いや現実的に可能さ。車だけじゃない。飛行機を墜落させたり、船を沈めたりする事だって出来る」
「でもそのコンピューターにはあなたがどこにいるかなんて分からないじゃないの」
「全てお見通しさ。僕達が電話を使っても、車を使っても、ネットを介して奴にはすぐに分かってしまうんだ」
「それじゃ今あなたがここにいる事も知られているの。私まだ死にたくないわよ!」
納得させるどころかリリアンは取り乱しそうだ。
「多分まだ大丈夫だと思う。僕はここに来るまで一度もコンピューターを利用していないから」
リリアンを落ち着かせるようにランバートは言った。
「あなたの言う事が本当なら私は隣に爆弾を載せているような物ね」
「僕をここで降ろす?」
ランバートは冷や冷やしながら問い掛けた。
「そんな話を聞いた後じゃ放り出すわけには行かないでしょう。とにかく私の家へ行きましょう。それから考えるわ」
どこまでリリアンが信じてくれたのかは分からなかったが、とりあえずランバートは自宅へ戻らなくても良くなった。でもいつまで彼女は自分を匿ってくれるだろうか? 不安は当分消えそうになかった。