トントントン・・・・・・
遠くから聞こえるリズムカルに何かを刻む音。パタパタという軽やかな足音。
鼻腔に届くのは香ばしい焼きたてのパンの香り。
幸せを感じさせる朝の音、朝の匂い。
−−ああ、なんて懐かしいのだろう−−
心地よいまどろみの中、夢うつつに彼は思った。
−−こんな音、こんな雰囲気がこの世に有ったことなど、俺は今まで忘れていた−−
今まで味わっていた幸せな夢の名残を惜しむかのように、ゆっくりとレイヴはまぶたを開く。
目覚めたばかりのぼんやりとした視界がだんだんとはっきりしてきて、彼がいる部屋の様子を映し出した。
白い明るい朝の光が射し込む見慣れた部屋の風景。乱れた−−夕べの幸せの名残を残している−−ベッドのシーツ。
目の前のそれらをしばらくぼんやりと眺めていたが、腕の中にしっかりと抱いていたはずの存在がいないことに気付き、レイヴはぎょっとして飛び起きた。
慌てて彼女の姿を求め室内を見回しかけたが、すぐに彼は夢うつつに聞こえていた階下からの音に改めて気付いて、ホッと強ばっていた肩の力を抜く。
が、それでもやはり安心できず、ベッドから降りベッドの下に脱ぎ捨ててあったガウンを裸身に纏い急ぎ足で部屋を飛び出して階段を下りる。
1階に下りるとさらにはっきりとその音が聞こえてきた。
先ほどから聞こえていたパタパタと軽やかな足音。
カチャカチャと食器同士がふれあう音。
寝室まで届く香ばしいパンの香りに混ざり漂う食欲をそそる温かなスープとオムレツの香り。
それらに導かれるようにレイヴは真っ直ぐに台所に向かう。
だが、台所に続くドアを開けて中の光景を一目見た瞬間・・・・・・レイヴはその場に硬直した。
「きゃぁっ!・・・・・・あ、レ、レイヴッ!?・・・・・・おっ、お、おはようございます・・・・・・」
寝起きの空腹を刺激する温かな良い香りが立ちこめる台所。その中で忙しそうに動き回っていたのは昨日迎えたばかりの黒い巻き毛と金茶の瞳の新妻−−元は天空に住まう天使であったミッシェル。
彼女はレイヴが台所のドアを開けた瞬間、驚いたように小さく悲鳴を上げてビクリと飛び上がる。そして慌てて振り返り、入り口に立つ彼の姿を認めるとパッと顔を恥ずかしそうに真っ赤に染め、しどろもどろに彼に向かって朝の挨拶をした。
だが、ミッシェルの挨拶に対してレイヴは驚きで固まったまま挨拶を返すことが出来ない。
その目の前の光景に対する衝撃のために……
朝のまばゆい光あふれる台所に立つ最愛の新妻。それはいい、だがその姿が問題だった。
彼女が身につけている物、それは真っ白に輝くエプロンただ一枚のみ。
そう、俗に言う『裸エプロン』という姿である。
「そ、その姿は一体!!」
「その姿って・・・・・・あの、『しきたり』どおりの格好なのですが・・・・・・ど、どこか間違ってますか?」
数瞬後、ようやく硬直の説けたレイヴの問いかけに対し、ミッシェルはこの人は一体何を言っているのだろうと言うような不思議そうな顔をして問い返した。
「『しきたり』?何の?」
ミッシェルはさすがにエプロン一枚だけという自分の姿に恥ずかしそうにもじもじと身じろぎしながら、上目遣いでレイヴの顔を見上げる。
「だ、だってシーヴァスが・・・・・・」
「シーヴァス?」
思いがけずに出た昔なじみの友人の名にレイヴは眉をひそめる。
「し、新婚の新妻は朝、こ、こういう姿で夫を迎える『しきたり』があるって・・・・・・」
彼女にとっては思いがけないレイヴの態度に、ミッシェルは不安げに、消え入りそうな声でそう答える。
「そう教えてもらって・・・・・・このエプロンも昨日シーヴァスから頂いたんです」
ミッシェルのその言葉に、思わず頭を抱えそうになりながらもレイヴは昨日の出来事を思い出していた。
彼のために地上に残ることを約束してくれた天使ミッシェルと二人きりで挙げた結婚式。
王国が誇る騎士団の団長の結婚式としては、それはあまりにもささやかなものだったのだが、一体どうやってそれを知ったのか(何しろレイヴは呼んだ覚えも教えた覚えもなかったのだ)幼なじみで、そして同じ天使の勇者をつとめていたシーヴァスが駆けつけて祝福をしてくれた。
そしてそのささやかすぎる式の後、シーヴァスは『結婚祝いの贈り物』と称してミッシェルを呼び寄せ、きれいにラッピングされた包みを手渡していた。それを受け取り恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに微笑みながら礼を言う彼女に、シーヴァスは何事かを囁きかけ、それに対してミッシェルは真っ赤に顔を染めながらも真剣な顔で頷いていた。その二人の様子にレイヴは国一番のプレーボーイとして名高いシーヴァスが彼の妻になったばかりのミッシェルと一体何を話していたのか恐ろしく気になっていたのだが、その疑問が今ようやく解けた。
(−−あいつは一体ミッシェルに何を吹き込んだんだ!!)
天界では優等生だったらしいが、地上のことに関しては全くの世間知らずで、そして疑うと言うことを知らない元天使のミッシェル。その彼女に一体どのように説明したかは解らないが、それでもいかにももっともらしくシーヴァスが語った『しきたり』とやらを素直に信じて実行してしまったのだろう。
だが……
(か、かわいい・・・・・・)
改めて目の前に立つミッシェルの姿を見て、レイヴは思った。
一目で名のある工芸品とわかる繊細なレースで縁取られている上質のシルクで作られた真っ白いエプロン。
その生地の白さと滑らかさは彼女の肌の美しさを引き立て、また、そのデザインは彼女の見事なプロポーションを余すことなく強調させている。
すっきりとあらわになっている形の良い肩としなやかな腕。短い裾の部分から伸びているむき出しのすらりとした足。
さすがに恥ずかしいのだろう。頬ばかりか全身をほんのりと桜色に染めて、もじもじと恥じらいながら彼の前に立っている彼女のその姿にはいやらしさは全くなく、むしろミッシェルの持つ美しさ、清らかさを強く感じさせていた。
そんな彼女のエプロン姿は正に男の夢、男の憧れな理想の「裸エプロン」の姿そのものであった。(ちなみに今まで女性に対してほとんど無縁な生活を送っていたレイヴも決して例外ではなかった)
(−−さすがだ、シーヴァス!!)
思わずレイヴは心の中で女性を知り尽くしている友人に対して賞賛の声を贈っていた。
一方、ミッシェルの方はといえばようやく間違いに気付いたらしい。
さぁっと一瞬にして彼女の顔から血の気が引いていき、次の瞬間改めて実感した自分の姿に、ぼっとほとんど全身が羞恥に真っ赤に染まった。
「わ、私、着替えてきますっっ!!」
恥ずかしさに泣きそうになりながらも、慌てて身を翻して部屋を飛び出そうとしたミッシェルの体をレイヴは太く逞しい腕で素早く抱き留めた。
「このままで良い・・・・・・」
「レ、レイヴ・・・・・・!?」
ほとんど全裸に近い姿でレイヴの腕に抱きしめられた事により、ミッシェルの顔がさらに赤くなる。
身をよじり慌ててその腕の中から逃れようとするミッシェルの体をさらに強く抱きしめ、レイヴは己の唇を彼女の唇に押し当てる。
「んっ・・・・・だ、ダメです!レイヴ、こ、こんな所で・・・・・・・朝ご飯が・・・・・・あっ!」
−−間−−
そして二人がようやく食事を始めたのは、もう「朝食」と呼ぶのが憚られるほどに日が高く昇ってしまった頃。
すっかり冷たくなってしまったパンと、少々しなびてしまったサラダ、温めなおしたおかげで少し煮詰まってしまったスープと、冷えて堅くなってしまったオムレツ。
夫婦になってからは初めての二人だけの朝食。
「たまには・・・・・・」
食事をしながら、レイヴはちらりと向かいに座るミッシェルの顔を見る。
「これからもたまにあの姿になってくれると嬉しいのだが・・・・・・」
その言葉にミッシェルの顔がたちまち真っ赤に染まる。
「だ、ダメです!恥ずかしいし、第一食事の支度が出来ませんっ!」
「ダメか?」
「・・・・・・ダメだけど・・・・・・でも、食事の用意の時以外なら・・・・・・良いです・・・・・・」
消え入りそうなその言葉に、レイヴはニッコリと笑った。
二人の幸せな新婚生活はまだ始まったばかり……
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