聖痕 〜stigmata〜
 必ず戻って来てくれると約束したとはいえ、実際に再びその姿を目にした時、夢ではないかと己の目を疑った。
 自分の屋敷の庭園、咲き乱れる花々の間で微笑む輝くような金髪と紫碧の瞳を持つ少女。10年もの長い時間の間ずっと側にいてくれた誰よりも愛しい人。だが、最後に目にした時、確かにその背にあったはずの見慣れた白い大きな翼が今はない。
「シーヴァス・・・・・・」
 甘く優しい声で彼の名を呼びながら、元天使−−ルシフェルは一歩彼の方に足を踏み出した。だが不意にその体がぐらりと揺れてバランスを崩す。慌ててシーヴァスは側に駆け寄り、倒れそうになった彼女の体を抱き留めた。
「ごめんなさい、シーヴァス・・・・・・まだ翼がないことに慣れなくて、たまにバランスがとれないんです」
 彼の腕の中で恥ずかしげにルシフェルは笑った。抱きしめた己の腕の中、確かに感じる彼女の存在感。天使の時には希薄にしか感じられなかったその感触に、確かにこれは夢ではないと認識する。
「シーヴァス?」
 黙っている彼を見上げ、腕の中のルシフェルは不思議そうに名を呼ぶ。それを遮るかのように、シーヴァスは彼女の唇に口付けた。初めはそっと、存在を確かめるように。次第にその口付けは深くなる。
「ルシフェル・・・・・・天使であった君にこんなことを望むのは罪な事なのかもしれない。だが、私は今すぐ君が欲しい」
 唇が離れきつく抱きしめられ、耳元で囁かれた言葉。
 その言葉の意味を理解しルシフェルの頬が赤く染まる。だが、ためらったのはほんの一瞬。恥ずかしげに俯いたまま彼女はそっとシーヴァスの体に手を回した。

 圧倒的に情熱的で幸福な時間。その余韻に浸りながら飽きることなくシーヴァスは傍らに横たわる少女の姿を見つめた。
 いつの間にか日は落ち、代わりに昇った月が二人がいる部屋の中を蒼い光で淡く照らしている。その月光に包まれ、甘く安らかな吐息を立てて彼女は眠っている。
 シーツの上に伸ばされた細くしなやかな手足。先刻の名残を残し、火照りを残しほんのりと桜色に染まった肌。月光を受けて微かな蒼みをおびて見える金色の髪。そして、微かに幸せそうな笑みを浮かべて見える安心しきった無防備な寝顔。
 天使であった時の彼女は神の気ともいうべき、一種の神々しさを身にまとっており、そのために人とは違う大人びた侵しがたい印象を持っていた。だが翼のない今、彼女の寝顔はどこかあどけない幼さを感じさせて、それがまた愛おしく、いくら眺めても見飽きることはなかった。
 彼にとって女性の寝顔を見ることは別に初めての事ではなく、それどころか今まで数知れない女性達と一夜を共にし、その寝顔を目にしてきた、だが、その全ての彼女達の寝顔に対して今まで何の感情も感慨も感じたことはなかった。しかし今、傍らに眠る彼女の寝顔を見ているだけで圧倒的な幸福感と充実感が彼の体を満たしていく。
(我ながら信じられないな・・・・・・)
 微かに口元に苦笑が浮かぶ。
(まさかこの私がこんなに一人の女性に夢中になってしまうとは・・・・・・)
 自嘲的な笑みとは裏腹に、眠る彼女を見つめる眼差しは限りなく優しい。
 時折、起こさないようにそっと髪を撫で頬に触れてみる。確かに彼女が彼の傍らにいることを確認するかのように・・・・・・
「ん・・・・・・」
 眠るルシフェルが小さく寝返りを打ち無意識にシーヴァスの方にすり寄る。その体をそっと抱きしめて滑らかな白磁のような頬に軽く口付ける。身じろぎした際に彼女の髪が滑り落ち、彼女の滑らかな背中があらわになった。
「・・・・・・?」
 薄明かりの中、その背中に何かを見たような気がしてシーヴァスは小さく眉をひそめた。それを確認しようと身を起こしかけた時、ベッドが小さな軋みを立てその音に彼女が目を開ける。
「・・・・・・シーヴァス?」
「ああ、すまん。起こしてしまったか?」
 優しく笑いかけ、見上げてくる顔に軽く口付ける。ルシフェルは一瞬自分がいる場所が理解できず不思議そうな表情を見せたが、たちまち先刻までの出来事を思い出たのか、その白磁のように滑らかな頬が桜色に染まる。
「ずっと起きていたのですか?」
「ああ、ずっと君の寝顔を見ていた・・・・・・あまりにも君の寝顔が綺麗だったから。それに目を離したすきに君が消えてしまったらと考えると不安で眠れなくてね」
 顔をのぞき込み笑いかける。その言葉にルシフェルの顔がさらに赤く染まった。その様子が愛おしくて、シーヴァスは強く彼女を抱きしめ口付ける。おずおずと白くしなやかな腕が彼の体にまわされ、優しく抱きかえす。
「私は・・・・・・私は消えたりしません。これからはずっとあなたの側にいます・・・・・・」
 頬を染めルシフェルは自分を抱きしめる恋人の瞳を見つめ微笑んだ。腕の中に感じる彼女の存在。触れ合った肌から伝わる確かなぬくもり。それをもっと感じたくて、再び二人は唇を重ね合わせた。淡い月光の中、お互いが確かにそこにいることを確認しあう。

「ルシフェル・・・・・・聞きたいことがあるのだが・・・・・・」
 長い長い口付けの後、ルシフェルの顔を見つめながら躊躇いがちにシーヴァスは口を開いた。
「何でしょうか?」
「君の・・・・・・君の背中にあるのは・・・・・・あれは傷跡か?」
 ほんの一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐに彼女は柔らかく微笑んだ。
「ええ、翼の痕です」
「こういうことを聞くのは何だが・・・・・・痛くはないのか」
「大丈夫です、もう痛くありません」
 あっさりとした彼女の言葉にシーヴァスの方が驚いた。
「痛くない・・・・・・と言うことは、やはり翼を無くすというのは辛いことなのか?」
「それは痛いです。だって自分の体の一部である翼を取るのですから・・・・・・・」
 そう言って、驚き自分を見つめているシーヴァスを困ったようにちらりと見上げ、すこし躊躇うと再び口を開いた。
「天使がインフォスに降りることは禁じられてはいないのですが、それでも決して奨められていることではないのです」
 言ってそっと悲しげに瞼を伏せる。
「何故なら、人の世で生きていくことが出来ずに堕天使になってしまう天使というのが存在するからです。いくら自分で選び決意したとはいえ、天界で生きてきた天使にとって人の世で生きるということはあまりにもつらいことであるから・・・・・・だから、その決意を確かめるために翼を無くす痛みが存在します。自分にとってそれが本当に正しいのか、その体を引き裂かれるほどの苦しみを乗り越えてまで地上に降りる意味があるのか・・・・・・それを再び自分自身に問うための試練という意味でもあるのです」
「君は・・・・・・?」
 彼女の語った内容に思わずシーヴァスは問いかけた。
「君は、迷ったり後悔したりしなかったのか?君も知っての通り、私は数知れない女性と浮き名を流してきた男だ。こんな男のために地上に降りることを躊躇ったりはしなかったのか?」
「決して迷わなかった、と言えば嘘になります。でも・・・・・・」
 言いかけ、真剣な眼差しで自分を見つめるシーヴァスの顔を見上げて柔らかな笑みを浮かべる。人となっても変わることのない美しく清らかな天使の微笑み。
「でも、シーヴァスは誓ってくれました。あの時、騎士として天使の勇者として私のことを愛してくれると・・・・・・あの時のあなたの言葉は決して偽りではない真実だと思ったから・・・・・・もし仮にあなたの言葉が一時の真実だったとしても、それでも私があなたを愛していたという事は間違いのない真実で、そしてその事を私は決して後悔しないと思ったから・・・・・・だから私は翼を捨てました」
 わずかの迷いも躊躇いも感じられないきっぱりとした言葉と表情。シーヴァスはしばらくの間無言で彼女の顔を見つめた後口を開いた。
「ルシフェル・・・・・・君の背中、改めて見せてもらえないだろうか?」
 すこし躊躇い小さく頷くと、ルシフェルは身を起こしシーヴァスに向かって背を向けた。身に巻き付けていたシーツを落とし、背を覆う髪を掻き上げる。
 蒼く淡い月光を受けてくっきりと浮かび上がるほっそりと形の良い白く滑らかな背中。その背中の中央近く、うっすらと薄く平行に残っている二筋の亀裂のような跡。人の世で生きるために、神の眷属の証である翼を無くした代償としてその身に受けた聖痕。 
「シーヴァス!?」
 不意に背後よりきつく抱きしめられ、ルシフェルは驚き振り返ろうとした。だが、それに構わず、まるで聖なる物に触れるかのように彼女の背中の傷跡にそっと口付け、シーヴァスはさらにきつく彼女の体を抱きしめる。
「ルシフェル・・・・・・」
 ぎゅっと強く抱きしめたまま囁きかける。
「なら私は再び誓う。君の無くした翼とこの代償である傷跡にかけて、君を決して不幸にしたりしないと・・・・・・君だけを永久に愛し、君を決して堕天使に決して落としたりしないと誓う」
「はい・・・・・・シーヴァス・・・・・・」
 頷いた頬に涙がこぼれ落ちる。月光の中、誓いを交わすかのように二人はそっと唇を重ねた。

 −−新たな物語の始まりの夜−−
 
実はフェイバの創作の中で一番初めに思いついていた物
もっと色々なエピソードが盛り込まれていた話のハズだったのですが、
削りに削った結果これに落ち着きました
削ったエピソードも気に入っているので、またそのうち形に出来たら嬉しいです