夢 見 草
 
 まるであの日の桜の花のようだ――
 地に仰向けに横たわり空を仰ぎ見ながら、薄れゆく意識の片隅で彼は思った。
 混沌とした世界。見上げる天空の彼方から、あとからあとから止めどなく白い羽根が舞い落ちる。
 ―― 愛しています―― 誰よりも―― この世の誰よりも愛しています――
 天空の彼方より伝わる声。誰よりも大切な彼女の・・・・・・
 唇には、まだ彼女の唇の感触が残っている。唇が離れた瞬間、確かに見た涙に濡れた彼女の顔。彼の頬に落ちた涙の滴。
 ―― 愛しています―― 許されないことだけど―― 愛しています――
 白い羽根の1枚1枚に込められた彼女の思い。天空の彼方より舞い落ちる羽根が彼の体に触れるたび彼女の声が伝わってくる。
  ―― 愛しています―― 本当に―― 本当に誰よりも愛しています――
 約束したのに、何故行ってしまうのか。
 手を伸ばして引き留めなければと思う。早く、早く引き留めなければ彼女は行ってしまう。
 必死の思いで空に手を伸ばし、彼女を求めようとするが、体はまるで鉛のように重く腕を持ち上げることも、指を動かすことすら出来ない。動かない体のもどかしさ、焦燥感が胸を焦がす。
 だが、いくら心が焦っても体は全く動かない。
「 ―― ・・・・・・・!!」
 せめて声を出し呼び止めようと、彼女の名を叫ぼうとするが唇がわずかに動いたきりで声を出すことすらもかなわない。必死で藻掻き彼女の姿を求めるが、彼の目に映るのはただ天空の彼方より舞い落ち、降り注ぐ無数の白い羽根のみ。
「 ―― !!」
 もどかしさに気が狂いそうになる。だが、彼に出来ることはただ降り注ぐ羽根を見つめることのみだった・・・・・

 バサッ!
 手にしていた書が滑り落ちる感触に、シーヴァスははっと目を覚ました。
 一瞬自分のいる場所が理解できず辺りを見回す。
 程良い光度の光が射し込むように設計された自分の屋敷の執務室。目の前の机の上に並べられているのは現在処理中の書類。
「眠っていたのか、私は・・・・・」
 軽く頭を振ると片手で髪を掻き上げ、大きくため息をつきながら椅子の背に寄りかかった。最近、何故か決まって同じ夢を見ているような気がした。夢の内容は目を覚ました瞬間に淡雪のように消えてゆき、一体どんな内容なのか全く覚えていない。だが、その夢を見た直後は、決まって狂おしいほどに何かを求める焦燥感が胸を焦がし、そしてそれを遙かに越える喪失感にいても立ってもいられなくなる。
 ―― 何か、何かを忘れている ―― 大切な―― 何よりも大切な――
「疲れているのか、私は・・・・・」
 再び頭を振り、体内に残る夢の残滓を振り払うと、卓上に置かれた鈴を鳴らしメイドを呼び気分を変える為の茶を運ばせる。そして再び仕事に没頭し始めた時には先刻の夢の残滓はきれいに彼の中から消えていた・・・・・・。

 きらびやかに飾られた広間の中は、更に華やかに着飾った貴婦人達で溢れていた。
 広間のあちらこちらに人の輪が出来、賑やかに笑いさざめく声が響く。軽やかなワルツのメロディ。その調べに乗り、着飾った男女が楽しげにステップを踏む。
 だがシーヴァスは人の溢れる広間から離れ、人気の無いバルコニーで庭園を眺めながら一人ワイングラスを片手に佇んでいた。
 夜会に出るのは久しぶりだった。以前は毎晩毎日夜会やお茶会に出向き、そこにいる貴婦人や令嬢達と、ゲームのような恋の駆け引きや一時の逢瀬を楽しんでいたというのに。
 一体何時からなのだろう、そういったことに興味が全くもてなくなったのは・・・・・
 今の彼にとってここはただ退屈なだけの場所だった。貴婦人達との会話も、一時の恋の駆け引きも今の彼には何の魅力も感じられなかった。
 庭園を眺めていた視線が無意識のうちに夜空に向けられる。一瞬何かを探すように視線が空をさまよう。
「あら、シーヴァス様? こんな所にお一人でいらっしゃるなんて、一体何を考えていらっしゃいますの?」
 バルコニーにいる彼を目ざとく見つけた美しく着飾った令嬢の一人が、甘い声で語りかけながら近寄ってきた。
「最近のシーヴァス様ってばちっとも夜会にいらっしゃらないんですもの。わたくし、お会いしたいとずっと思っていたんですのよ?それなのにこんな所にいらっしゃるなんて」
 甘えるように、拗ねたように、いかに異性に対して愛らしく見えるのか計算されつくされた表情で、にっこりと彼女はシーヴァスに笑いかける。
「ああ・・・・・最近忙しくてね」
 以前の彼だったらこのような場合、彼女に対して気の利いた言葉を返し、そこから始まるほんの一時の恋愛を楽しんでいた。だが今は全くそんな気が起こらず、彼女に対しても何の感情も興味もわかなかった。
「ねえシーヴァス様、今度わたくしをエスコートしてくださるというお約束、覚えていらっしゃいます?」
「ああ・・・・・・そうだったかな?」
 ほとんど上の空でシーヴァスは答える。その自分に対し全くの興味を示さない彼の様子に、彼女の顔に苛立ちの表情が浮かぶが、一瞬にしてそれを消すと、自分に絶対の自信を持つ者だけが見せる笑みを浮かべ、再びシーヴァスの気を引こうと今度は彼の腕にすがりつき、顔をのぞき込んだ。
「わたくし、ずっと待っていますのに。ねえシーヴァス様、来週の公爵家の夜会、ぜひご一緒していただきたいですわ」
「ああ・・・・・・」
 相変わらず上の空で答えながら、シーヴァスは無意識に再び空を見上げる。
 彼の興味が全く自分に向けられない事に、とうとう彼女の方がキレた。
「シーヴァス様!! わたくしの話を聞いていらっしゃいますの!?」
 ヒステリックに叫ぶ彼女の声に、シーヴァスは我に返った。そして初めてそこに令嬢がいることに気づいたような顔で彼女を見る。その視線は彼女のプライドを激しく傷つけた。
 たおやかな外見からは信じられないほどの激しい視線で彼を睨み付けると、つんと顔を背け荒々しく靴音を響かせ彼女は立ち去って行く。
 激しく怒り狂った令嬢の立ち去る後ろ姿を無感情で見送りながら、シーヴァスは小さく息を付いた。ふと、意識の片隅に何かがよぎる。
 ・・・・・・以前もこんな出来事がなかっただろうか? あれは・・・・・・
「シーヴァス?」
 バルコニーの下の方から誰に名を呼ばれ、思考が中断される。見下ろすと薄明かりに照らされた庭園の中、彼の方を見上げる人影が見える。その姿には覚えがあった。
「レイヴか? 久しぶりだな。 お前も来ていたのか?」
「ああ……もっとも今帰る所だが」
「待ってろ、今そちらに行く」
 ひらりと手すりを飛び越え、シーヴァスはレイヴの居る庭に降り立つ。
「お前が夜会に来ているとはめずらしいな」
「その言葉、そっくり今のお前に返そう。俺の所まで最近のお前の噂は聞こえているぞ」
 レイヴの言葉に、シーヴァスは苦笑を浮かべた。
「私としては別に変わったつもりはないのだが・・・・・・ただ最近は政治の方が興味があってな」
 レイヴは内心驚きながらも旧知の友人を見つめた。
 少し前まで、このたぐいまれな容貌を持つ貴公子であるシーヴァスの噂と言えば、ほとんどが女性関係の華やかで、それでいて芳しくない噂ばかりだった。そのような噂に対しほとんど無縁のレイヴの所にまで彼の行状は伝わっており、実際、レイヴ自身がさまざまな女性達と浮き名を流すシーヴァスに対し忠告したこともあった。
 だが、何時からだろう。それがすっかり影を潜め、代わりに政治の面でシーヴァスの噂を耳にするようになったのは。
「政治家としてのフォルクガング候はかなりの辣腕家だと聞いているぞ?」
「まだまださ。さすがに今までさぼっていた分、憶えなければならん事が多く苦労が絶えん」
 そう言いながらも、シーヴァスは楽しそうに笑った。
「だが、実際やってみると結構面白くてな、こんな所に出て無意味な時を過ごすよりかも遙かに楽しい」
「無意味?ははっ、お前の口からまさかそんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった」
 シーヴァスの言葉にレイヴは思わず吹き出した。
「しかし……そうか・・・・・・俺はてっきりお前にも誰か大切な人が出来たのかと思ったが」
「フッ、一体何を言うのかと思ったら・・・・・・」
 そう言いかけた時、ふいに背後で鳥の羽ばたきが聞こえた。
 その羽音にシーヴァスはハッとして空を見上げる。目に映るのは夜空に向かって飛び去る黒い鳥の影。
「ああ、なんだカラスのようだな」
 シーヴァスの視線を追って空を見上げたレイヴはつぶやいた。
「一体どうしたんだ? カラスに驚くとはおまえらしくない」
「いや・・・・・・驚いたわけではないのだが・・・・・ただ、カラスではなくもっと別の・・・・・」
 言いかけ、言葉にならず黙り込む。
 私が知るのは   
 何かが心に引っかかっている。
 何か大切なことを忘れている。
 何よりも    何よりも大切な何かが   
「シーヴァス、何をぼんやりしている?」
 空を見上げたまま急に黙り込んだシーヴァスに驚き、レイヴは問いかけた。その声にはっと我に返る。
「心ここにあらずと言った感じだな。疲れているのか? 仕事熱心なのはよいが程々にしなければ体を壊すぞ」
 その言葉に、シーヴァスは苦笑した。
「お前にだけはそういうことを言われたくないな。だが・・・・・・そうだな疲れているのかもしれん」
「まあ、苦労はわかるが無理をしないことだな」
 また飲みにでも行こうと言い残し、レイヴは軽く手を振りその場から立ち去っていく。
 だが、レイヴが去った後もシーヴァスはしばらくその場に立ちつくしていた。
 先刻の出来事が何か記憶の底に引っかかっている。大切な何かを忘れている。
 鳥の羽ばたき、空を打つ翼の音。
 私が知るのは・・・・・・?

 ―― 愛して―― 愛しています―― 誰よりも――
 自分の体がまるで鉛のように重く感じていた。
 唇に触れる柔らかな感触に、必死の思いで重い瞼を持ち上げる。
 開けた視界に映るのは自分をのぞき込む涙に濡れる少女の顔。悲しみに満ちた瞳で彼を見つめたまま、大きな翼を羽ばたかせ、彼女の姿はゆっくりと天へ舞い上がっていく。
 ―― 愛しています―― 誰よりも―― 許されることではないけれど――
 天空の彼方より降り注ぐ無数の白い羽根。
 全身が激しく傷つき、傷の痛みとそれをさらに上回る疲労感で指一本すら動かすことが出来ない。仰向けに横たわる彼の目に映るのは、暗く沈んだ虚無の世界。そしてその天空の彼方より、まるで世界を清めようとするかのように数限りなく降り注ぐ白い羽根。
 それは彼女の穢れ無き翼の・・・・・・。
 ―― 愛しています―― 叶うのなら側に居たい―― でもそれは許されない――
 羽根が一つ彼の上に落ちるたび、傷が一つ癒されていく。一つの羽根がふれるたび彼女の言葉か彼の心に響く。
 ―― 愛しています―― 誰よりも―― 狂おしいほどに―― あなただけを――
 行かないでくれ!!
 彼は叫んだ。叫ぼうとした。だが声はのどに張り付き、唇がただわずかに動いたのみ。 
 約束したではないか! 突然にいなくなったりしないと! ずっと私の側にいると!
 狂おしいほどの焦燥感が胸を灼く。身を捩り全身全霊の力を込め、必死の思いで彼女の居る天空に向かって手を伸ばそうとするが、いくら試みても、どんなに藻掻いてもまるで自分の物ではないかのように体を動かすことが出来ない。
 動かない体に気が狂いそうになる。それでも、彼に出来るのはただ天空を見つめることのみ。
 ―― 愛しています―― 愛しています―― あなただけを――
 天空から降り注ぐ無数の羽根。切ないほどに伝わる彼女の言葉。
 私も愛している。君だけを。だから、だから行かないでくれ!!
 声なき声で叫びながらも、なすすべもなく彼はただ天空を見つめ続けた。
 こめかみを伝わる冷たい滴。
 動くことも声を出すことも叶わない体なのに、涙が溢れて止まらなかった・・・・・・

「・・・・・・っっ!!」
 こめかみを伝わる冷たい感触にシーヴァスは目を開いた。
 目の前に見えるのは見慣れた寝室の天井。窓の外からは夜明けを告げる薄明かりが差し込んできている。
 横たわったまま大きくため息をつき顔にかかる髪を掻き上げた。顔に手を当てて初めて自分が泣いていたことに気く。胸に残る喪失感。なにか大切な物を求める焦りに似た感情。
「またか・・・・・・くそっ、一体なんだって言うんだ!!」
 起きあがり、苛ただしさに髪をかきむしる。しかし、いくら試みても夢の内容は思い出せない。
 だが心に残る感情に居ても立っても居られず気が狂いそうになる。
 結局再び眠ることが出来そうもなく、シーヴァスはガウンを羽織るとベットから出た。
 テラスに面した窓を開け表に出る。
 夜明けの清涼な空気が彼の体から眠りの残滓を払っていく。その爽快さに誘われるようにシーヴァスはテラスから降り庭園の中を歩き出した。だが、心に残る不明確な感情は一向に晴れる気配がない。庭園の中に咲き乱れる美しい花々の間を歩きながらも、記憶に残っていない夢の事が頭から離れる事はなかった。
 ぼんやりと思考に気を取られていた目の前を白い物が横切りシーヴァスは我に返った。
 驚き頭上を見上げるとそこには満開に花を付けた桜の木。いつの間にか屋敷のはずれの方まで歩いてきていたらしい。
 しばらくそこに佇み、シーヴァスは桜の木を見つめる。
 ただぼんやりと桜を見上げる彼の脳裏に、ふいに誰かの言葉がよぎった。
 ―― わあ! 見て、シーヴァス桜ですよ、なんて綺麗!!
 満開の桜の下、その花の見事さに少女がはしゃいだ声を上げる。
 ―― 夢見草というそうだ。
 彼は傍らに立つ少女にそう教えた。 
 ―― 夢見草? 桜という名ではないのですか?
 不思議そうに傍らに立つ少女が尋ねる。
 ―― 別名をそう言うそうだ。桜の木にとっての1年というのは花が散ってから始まり、花を咲かせるため夏に葉を茂らせ、冬に眠りにつき春を夢見る。そして最後に花を咲かせる。故にそう呼ばれたらしい。
 ―― 素敵な名ですね。ならこの木に例えれば、今のよどんだ時間というのは、きっと未来を夢見る時間なのでしょうね。
 舞い落ちる薄紅の花びらの中、そう言って少女は笑った。
 記憶にない風景。交わした覚えのない言葉。彼の傍らに立っていた少女、あれは一体誰なのだろう。思い出せないもどかしさに胸が苦しい。
 不意に強い風が吹き彼の髪を吹き乱した。風はそのまま頭上の桜の枝を大きく揺らし、大量の花びらをさらっていく。その風に枝にとまっていたらしい鳥が驚き飛び立っていく。その翼が空を打つ音。
 その羽ばたきにシーヴァスは激しい懐かしさを感じた。
 ―― ちがう、私が知るのはもっと大きく、それでいてもっと軽やかで・・・・・・
 いつしか風は止み、風がさらった無数の薄紅の花びらがひらひらと彼の上に舞い落ちる。
 天空より降り注ぐ無数の花びら……
 ―― いつか―― いつかこんな光景を見たような気がする――
 ずきりと頭の奥に激しい痛みが走る。だが、シーヴァスはその風景から目をそらすことが出来なかった。
 風に舞う花びら。空を打つ翼の羽音。天空より舞い落ちる。天空より・・・・・・限りなく降り注ぐ・・・・・・白い・・・・・・白い天使の羽根・・・・・・彼女の持つ・・・・・・
「ルシ……フェル・・・・・・」
 痛みを忘れ、呆然と花を見つめるシーヴァスの唇から一つの言葉が零れた。
 頭の奥で何かがはじける。それは瞬く間に心を満たし溢れ出し、溢れた一部が一筋の涙となり彼の頬を伝わった。
「ルシフェル・・・・・・ルシフェル・・・・・・ルシフェル!!」
 封じられた記憶、封じられた思い。
 何故忘れていたのか・・・・・・どうして思い出せなかったのか・・・・・・
 10年もの長い年月の間、ずっと側にいて共に戦い、そして彼が唯一永遠の愛を誓った美しい天使の存在を。誰よりも愛しい人の名前を……
「ルシフェル!!」
 こみ上げる激しい感情に耐えられず、天に向かって彼は叫んだ。
 その声に答えるかのように、ふいに再び強い風が吹いた。風は花びらを巻き上げシーヴァスの体にたたきつける。花びらが目をかすり、たまらず彼は腕で顔を庇う。
 風の音に混ざって、遠く微かに翼の音を聞いたような気がした。大きく、それでいて軽やかに空を打つ翼の音。
「シーヴァス・・・・・・」
 激しく枝を揺らす風の音の中、誰かが彼の名を呼んだ。
 その声に己の耳を疑う。聞こえたのは彼が良く知る、今一番会いたいと思っている、誰よりも愛した人の声。
 風をよけながらシーヴァスはゆっくりと目を開いた。かすむ視界の中、吹雪のように舞い落ちる桜の花びら。その花びらの向こうにかすかに人影が見えたような気がした。その人影はゆっくりと彼の方に歩み寄ってくる。段々とぼやけた視界が元に戻り、目の前に立つ人影の姿をはっきりと映し出す。だが、シーヴァスは自分が目にしているものが信じられなかった。
 いつの間にか風はやんでいた。天空に舞い上がった花びらがゆっくりと再び地上に舞い落ちてくる。
 その舞い落ちる花びらの中、彼女はシーヴァスの数歩前で立ち止まりじっと彼を見つめた。あの時と同じ涙に濡れた顔。ただ一つ違うのは、彼女の背にあった見慣れた白い翼が今はない。
「ルシフェル・・・・・・?」
「罰を受けました・・・・・・」
 涙に濡れた目で真っ直ぐにシーヴァスを見つめ彼女は言った。
「天使の愛は万物に対する平等の愛。すべてに対して等しく平等に愛さなければいけないのです。人のように一つの物を愛することは許されないことなのです。だけど、天に還った私にはそれが出来ませんでした」
 ルシフェルの瞳から、また涙がこぼれる。
「天に還ったらすべてを捨てなければなりません。でも、私はあなたを愛することを忘れることが出来ませんでした。けれど、すべてを平等に愛することが出来なければ天使ではいられません。故に私は罰を受け、人として生きるように地に堕とされました」
 そう言うと彼女は両手で顔を覆った。
「愛しています。でも許してもらえるとは思っていません。あなたを裏切り天に還ったのは私なのですから……それでも、もし叶うのならあなたの側にいさせて下さい」
 シーヴァスはただ黙って、顔を覆って震えている彼女の姿をじっと見つめた。どのくらいの時が,過ぎたのか、ふとルシフェルを見つめていた目をそらすと、シーヴァスは小さく息をはいた。
「許せないな・・・・・・」
 その言葉に、うつむいたルシフェルの体がビクリと震える。だが、それにかまわずシーヴァスは彼女を引き寄せると、強く抱きしめた。
「シーヴァス!?」 
「許さないよ一生、君のことを。だから、その償いとして一生私の側に居てくれ」
「!」
 抱きしめられ、耳元でささやかれた言葉の内容に呆然と目を見開いたルシフェルをさらに強く抱きしめる。
「二度と、二度と離れることは許さない。未来永劫、永久に私の側にいてくれ」
「はい・・・・・・シーヴァス・・・・・・ずっと、ずっと側にいます」
 ルシフェルの手がおずおずとシーヴァスの体を抱き返す。彼女の瞳に溢れた新たな涙が頬を伝う。その涙を指先で拭い、シーヴァスはふと空を見上げた。つられてルシフェルも空を見上げる。頭上には未だに数え切れないほど沢山の花を付けた桜の枝。
「二人で夢を見ていこう。共に現世でしか見ることの出来ない夢をずっと……」
 桜を見つめ、シーヴァスは腕の中の彼女に笑いかけた。彼の腕に抱かれたルシフェルが小さくうなずく。そして二人はお互いの存在を確認するかのように唇を重ね合わせた。
 

ホームページ開設記念で書いたもの。
初めは桜ではなく、昔読んだ、白木蓮の花びらを天使の羽根にたとえた話から、白木蓮にするつもりでしたが、花びらが重そうなので桜にしました。
ちなみに桜の別名「夢見草」の名前の解釈は私の勝手な推測です。