岡目にオカメの目



人それぞれの精神的な、人間としての存在意義の一つに、自分が自分以外の対象から必要とされていると実感することが上げられます。その対象が社会、企業、団体、グループ、地域、家族であれ、自分がそれに貢献し、その対象も自分を必要としていることが、その人間に満足感を与えます。そこに報酬が存在することもあれば、無償の場合もありますし、あるいは、自己満足というか、個人の勝手な思い込みの部分もあるかも知れませんが、とにかく、人間が生きていく上での大きな要素になっています。

ペットとの付き合いも、ペットがかわいいと思う満足感(癒し)ばかりでなく、自分が頼られていると言う満足感があることも確かで、家族愛にも似た無償の奉仕(世話)があります。実際には、ペット1匹でも自由に飛び出し、自分で餌を探し、自然の許す限り、生きていくに違いないのですが、飼い主にとっては、このペットが生きていく上で、自分はなくてはならない存在であると思い込む充足感があります。たとえ錯覚であれ、一種の快感に違いありません。ペットとの共同生活は、そんな大きな勘違い、主観の世界に迷い込んでいるのかも知れません。そして、そこには、まるで親が自分の子供を過大評価するが如くの勘違いも存在します。

そんな親バカが愛しのオカメとじっと見つめ合う時、オカメはこちらを正面から見ることはなく、首を少し傾け、片目で斜に見ます。まるで、いたずら小僧がこちらの様子をうかがうようなしぐさです。このしぐさを、この上なくかわいいと思ってしまうのは、まさに主観の世界に突入してしまったのでしょうか。

そこで、岡目にオカメの目をじっと見てみました。ご存知、岡目八目とは、碁の勝負を岡目で見る(傍からみる)と八目先が読めるということから、情勢は当事者よりも第三者の方が冷静、的確に見ることが出来ることをいいます。要するに岡目とは客観的な目です。片目で見るオカメのしぐさは、オカメがシャイなのでもなければ、かわいく見せようと思っているのでもありません。単に、そうしなければ、はっきりと見れないと言う理由があるのです。

そもそも、オカメの目は極端に離れていて、で、どのくらいは離れているかと言うと、まさに片方が地球の裏側に付いているようなもので、それぞれの目には別世界が存在します。我々人間がほぼ平面に付いていることを考えれば、人間の目による外界の捉え方(単一の世界)とは違った捉え方をしているに違いないのですが、いったい、どのように、二つの世界がオカメの頭の中で処理されているのかは、オカメ本人に聞いてみなければ分かりません(両目の情報をそれぞれ、正確に処理するわけにも行かないと思うので、たぶん、ぼんやりした視野角度分のパノラマ画像?)。ただ、同じ鳥でもフクロウとか鷹など猛禽類は人間と同じような位置ですし、哺乳類でも兎などはオカメと同じように顔の両サイドにあります。目の位置は捕食する側、される側の置かれた立場によって進化を遂げたようで、捕食する側にとっての目は、獲物に対し距離感を含め、その様子を正確に捉える目的で正面に、また、餌になる側(多くが草食)にすれば、敵機襲来に備えるため、より広い視野を確保しようとして離れていったと思われます。人間の目の視野が180度以下なのに対し、オカメのそれは330度、ほんの少し首を回転させるだけで360度をカバーしています。

それぞれの長所はそれぞれの短所でもあります。人間は、正面に目がある故に頭の後ろを見ることが出来ないように、オカメは目が離れすぎているため物体を正確に捉えることが苦手なようです。人間からすればかわいいと思う、オカメが片目で首をかしげるしぐさは要するに、物理的に上手に両目で物を見ることが出来ない故にです。とは言え、必ずしもオカメに距離感がない訳ではありません。狭い角度ながら両目が重複する角度があり、それによって距離感を得ているようで、飛行における障害物への衝突回避、あるいは、目標への着陸を可能にしています。

結論です。あのかわいいしぐさは、オカメが正確に見ようとする物体を、どちらか片方の目の正面に位置するようにしているに過ぎません(その時、もう片方の目の画像は、より一層ぼんやりか、見えていない)。オカメの目には、もう一つの特徴があります。オカメの行動を見ていると視力自体、それほど良いように思えないのですが、ただ、動体視力に関して言えば抜群なようで、遠くの空を飛ぶ鳥や壁に映った動く影に敏感に反応します。自然界最弱?な彼(彼女?)が、その自然界で生きのびるための術は、ぼやけながらも広い視野と鋭敏な動体視力です。

いずれにしろ、自然界において、あのかわいいしぐさは何の役にも立たないことは確かです。


この頃は、すっかり和食通で、口の周りはおにぎりの海苔です。