四苦八苦

2003/07/14

健康で長生きできる事は、人間究極の願いです。しかし、人間として生を
授かったが故に与えられた宿命と言うべきか、長生きすれば、必ず、そこに待つ
新たな苦しみが存在します。若い時であれば実感することのなかった苦しみも、
歳を重ねるごとに、実際上も、また意識の上でも頭をもたげるようになります。

生まれる、老いる、病む、死ぬの四苦、その最後の死を超越する意識を自分の中に
持つこと、いわゆる生きることの意味を自分なりに達観する、それが死ぬ間際までに
達成できれば、それが人生最後の幸福であり、そして、自分がこの世から消え去る
恐怖心も克服できることになるのかも知れません。

それよりも、怪我や病む苦しみは、当然、イコール痛みという事で、
信長の焼き討ちに会い「心頭滅却すれば、火もまたこれ涼し」と炎の中で言い放つ
快川和尚のようには、常人として達観できるものでもないし、また、今の世の中、
その必要もないでしょう。どちらかと言うと死の苦しみに対する達観よりも
そっちの方が至難事に違いありませんが・・・

かれこれ、10年にもなりますが、今までの人生で、初めて手術と言うものを体験しました。<下に続く>




















右手小指の手術。

手術自体、自慢する類の話ではないのですが、それも、小指となれば、尚更のことです。

草野球、守備ファースト。ゴロを捕ったサードがファースト送球。そのタイミングで
三塁走者、ホームへ。ファースト(自分)ホーム送球をあせり、ボールが来るか
来ないかの瞬間に右手をグローブに。小指、突き指状態。ホーム送球もセーフ。
痛かったのですが、我慢出来ないこともないため、野球続行。

試合後、第一間接が曲がったままの状態、日曜と言うこともあり、医者にも行かず、
翌日からも旅行の予定があり、その指の状態で、結局、3日間、放置。痛みはなく、
放っておけば治ると思ったのですが、曲がったままで、だんだん、青く変色。

仕方なく近くの診療所へ。レントゲンの結果、剥離骨折と判明。手術の必要があるかも
知れないと言うので、紹介状とレントゲン写真をもって、日赤病院へ。そこで、即、手術の話。

「どうしますか?

と言われ、小指ごときにびびる訳にもいかず、

「分かりました。お願いします。」

その日は、手術の日程だけ決めて帰宅。




手術当日、看護婦、

「そこにある手術着に着替えてください。」

「どのように、着替えるのですか?」

「パンツだけになって、その上に着て下さい。」

「えっ、右手の小指の先ですよ。」

しかし、看護婦、落ち着き払って、

「もちろん、分かっていますよ。」

納得できなかったのですが、仕方なく言われるままに着替え、
そして、手術室の台の上に仰向けに。
何となく 『まな板の上の鯉』 を連想、無防備なこの体勢、 屈辱的 な気分です。

右腕に局所麻酔。しばらく、時間が経過。医者が手術する右手を持ち上げ、

「腕に力が入りますか?」

と言い、その手を離したのですが、当然、力が入らず、

自分の顔に自分の手が自然落下。

それも、消毒液をたっぷり塗った冷た〜い手が。
意思の中では手を止めているのに、自分とは違う物体が迫ってくる感覚で、奇妙。

「ああ、悪い、悪い。」 と医者。

(おい、おい、何で持ち上げるんだ。持ち上げる必要がどこにあるんだ。)


手術開始。ドリル音が室内に響き、次の瞬間、右手にその振動が伝わってきました。
当然、痛みはないのですが、骨を伝ってくる感覚(ゴツゴツと堅いものに当たる
感覚)は、あまり、気持ちのいいものではありません。局所麻酔で右手の感覚だけ
抜けてはいても、あとはすべて、臨場感あふれる手術状況を楽しめました。
ただ、自分の目には、施術されている自分の手は見えませんでしたが。
(顔の上にも布が被せられていたかも知れませんが、記憶なし)

手術が終り、

「着替えてから先生の所へ来て下さい。」

と言い残し、看護婦も医者もさっさと居なくなったのですが、ここからが大変。

右手は麻酔がかかったまま。

と言う事は、左手だけで着替えろと言うことです。
こんなことなら、初めから服を着たままの状態でやってくれればよかったものを。
なかなか来ない自分を呼びに来た看護婦、やっと着替え完了の自分を見て

「ああ、右手が使えませんでしたね。」

(バカヤロー!)


これで、やっと小指も元通りと思ったら大間違いです。
「次の週に来て下さい。」と言われ、化膿止め等の薬を貰って帰宅。
麻酔が切れるとズキンズキンと痛み出し、こんなものかと我慢、一向に痛みが引かない。
寝ても、痛みで深い眠りに入れず何度となく目が覚める。
腕を上げても下げても、ズキンズキン。

そんなこんなで、不自由な一週間が過ぎ、病院へ。
痛みが我慢できない旨を伝えて、指を見せる。先生、少し、慌てた風に、

「じゃあ、抜きましょう。」

とその場で、机から ペンチ 取り出し、指の先端、そして
第一関節の上から十字に刺した針金を除去。

(おいおい、抜くのは、麻酔なし、力まかせかよ!)


で、指はと言うと、少しは改善したものの、微妙に曲がったまま。それどころか、
今も変な風に間接のところの骨が盛り上がった状態です。ただ、その晩から
ぐっすり眠ることが出来るようになったのが、その時は何よりも嬉しい事でした。

後で考えると、どうも、化膿していたのではと疑っています。

裸になって、

屈辱的な着替えをして、

指に十字に穴を開けられ、

針金を刺されて、

顔にヨードチンキを付けられ、

不自由とズキンズキンの1週間を過ごし、<下に続く>



















で、結局、指は曲がったまま。<下に続く>


















いったい、何だったんだ。


この一週間は。
<まだ、下に続く>





・・・<四苦八苦>・・・
仏教用語から来ていると言うこの言葉、最初に紹介の四苦の他にも、おまけの
四苦があり、合わせて八苦の苦しみが、人間にはあると言います。

★生、せい、生まれる苦しみ
★老、ろう、老いる苦しみ
★病、びょう、病む苦しみ
★死、し、死ぬ苦しみ
★愛別離苦、あいべつりく、愛する者と別れる苦しみ
★怨憎会苦、おんぞうえく、憎い者と会う苦しみ
★求不得苦、ぐふとっく、欲しい物を求めて得られない苦しみ
★五蘊盛苦、ごおんじょうく、人間の心身からくる苦しみ

そして、(4×9)+(8×9)=108が煩悩の数と言う説、これは少しばかり眉唾もの。
仏教の話に、『掛けて足す』と言う数学的なことは似合わない。

般若心経によれば、この世は空、よって今、五感によって感じるものすべてが空で、
すなわち苦しみ(四苦八苦)も実体のないものであり、それに煩わされることはない。
その実体を考えることすらも無意味、なぜならその考えること自体もまた空。
要するに、人間誰しも恐れる老いる苦しみ、死ぬ苦しみも恐れることはないし、
考え煩うこともないというのである。

という事は、死ぬ間際に『空』の悟が得られれば幸せなのだろう。
・・・幸せと感ずることすら、『空』なのであるが・・・