ブランド大好き
2003/08/07
8月4日、新聞テレビ欄を見ると、日テレ系列、9PM
『スーパーテレビ・・・伝統京野菜を極めろ、天才シェフの挑戦・・・
イタリアン超人気店が京都に進出』
イタリアンのシェフが京都へ出店するに当たってのドキュメント番組で、
主役はもちろん、イタリアンのシェフなのだが、京野菜を提供する人物として
登場する農家『樋口』さんが、主役以上に目立っていた。
野菜を分けてもらう為に、提供される側は暇を見て、農作業を手伝わなければ
ならないのが、鉄則。それが嫌なら、野菜はあげない意地悪ぶり。何とも
ユニークなシステムだ。
その『樋口』さん、思ったことがそのまま口から出てくる、まさに、『竹を割る』
の表現がぴったりするような性格で、初めて会う人は皆、タジタジである。ただ、
野菜作りに対する姿勢は半端ではないようだ。
天才といわれるシェフにしても、それを提供する側の農家にしても、周りが
はやし立てるほど、本人たちは何とも思っていない。本当に好きなことを、
好きだから、しているだけという感覚。
いくら、いい物を使おうが、いくら、手間隙掛けようが、そんなことは二の次、
もちろん、結果を出すまでの努力を惜しまないけれど、それを努力と思わず、
自慢することもないし、口に出すことすらしない。要は、出来上がった料理が
うまいか、収穫した野菜がおいしいか、ただ、それだけのこと、と言っている
ようである。自分を含め、物を提供する側の、付加価値を取り立ててアピール
しようとする姿勢、恥ずかしいかぎりである。
バブルで少し、人の考え方がずれてきた。余分な尾ひれを付け、いわゆる、
付加価値に価格を上乗せして、買う側もそれに満足してお金を出した。でも、
その満足は、単に高価だから、人が言うから良いに違いないという思い込みに
過ぎず、能動的意思が見えない。物質的豊かさ、経済的豊かさが、人間の幸福と
錯覚した人々の意識は、貧しさでしかない。
世界一のブランド市場と言われる日本、何でこうなったのだろうか。
そもそも、機能性を追求した結果、その技術の高さ、製品の完成度の高さ故に
生まれたブランド、日本では、それとは関係なし、高級ブランドを持つこと自体を
重要視する本末転倒ぶり。何とも寂しい考え方である。
多くのブランド発祥の地、ヨーロッパでは、(高級)ブランド品は、まさに、上流階級
だけのもの、庶民は持とうと思わないし、ブランドを持つことに羨望のまなざしも
向けない。自分は自分だという意識が根付いている。
それに、皮肉にも今現在、日本では、なまじ金持ちは、ブランド品を持たなく
なったと言う(ブランドが、一般的になったので、日本人の考えるブランドではなくなった?)。
持つのは、総じて浅薄な一般人と言う。『高級ブランドを持つ=庶民』
『高級ブランドを持っている=浅はかさの証明』と言う事?
シャネラーとして名を馳せる『泉ピン子』、ブランドをまとっても、ひとつも似合わない。
『渡る世間は鬼ばかり』の中華料理店『幸楽』で汗する姿がイメージになってしまっている。
バカにするつもりはないし、本気でそう思う。『寅さん=渥美清』が、たとえ高額収入があっても、
『それをしちゃあ、おしまいだよ』と、死ぬまで質素を心掛けた。映画の中=現実に
徹した精神には頭が下がる。
人間的価値は、その人間の人生に対するひたむきさであって、高級ブランドを持つことに
よって、生まれるものではない。