知らぬが仏

2003/11/04

昭和48年、今から30年程前のこと・・・

「その自転車はおたくの自転車か?」

後方から自分を呼び止める声に振り向くと、駅員の制服を着た初老の男性が
こちらの顔を見ず、自分の乗ってきた自転車の防犯番号を確かめている。

愛知県名古屋を拠点にする私鉄『名古屋鉄道(通称:名鉄)』、岐阜から
名古屋へ向かう路線は東海道本線と並走する『名鉄本線』と、犬山を経由する
『各務原線』→『犬山線』があります。こちらの路線も犬山の手前まで
JR『高山線』と並走するも、木曽川に沿って北上する『高山線』と
各務原市鵜沼で別れ、木曾川を渡り愛知県犬山市に入ります。

その橋『犬山橋』は4両編成の大型車両(路面電車などはよく見る)と車が並走する
特徴ある橋、乗用車側からは電車の車体と車輪の継ぎ目辺りが見えるだけで、
すぐそばで見る、その車体の圧倒する規模と車輪のきしむ音に、ちょっとした
緊張感と恐怖感が味わえます。


http://homepage1.nifty.com/linkle/rail/inuyama2.html から

その各務原線『新那加駅』は『新岐阜駅』から7番目の駅、名鉄デパートの
1階を改札口にし、地下道をくぐって上下線ホームへ通じる形になってます。
急行列車の停車駅でもあり、かなり繁華な駅でした。

日曜日の10時過ぎ、デパートも開店したばかり、人通りも増えかけるこの時間帯、
駅員の問い掛ける声に、通行人の目が一斉に自分と駅員に向けらました。

「えっ? 友達の自転車ですが・・・、何か?」

自分の住んでいた学生寮は農学部、工学部、医学部の学生対象の男子寮、2階建て16室が
3棟、各部屋2人〜4人の南向きに窓を持つ、最大収容人数128人(70〜100人居住)の
大学の持つ4寮の中で最大規模の寮でした。 <下に当時の配置図>

最大規模とは言っても、当時でさえ、かなりの年代物に部類する建物で、
木造、モルタル塗り外壁、窓も扉も木製、冬は練炭の暖房、隙間風に震え、
雪の降る夜は 「まっこと、しばれる」 思いをしたものです。

蛇口から赤水は出る、トイレは汲み取り(卒寮時には水洗、老朽化した水道管も
取り替えられました)、寒さゆえに、『就寝時、練炭、廊下へ撤去』を無視し、
そのまま、居室に置いて、半分、一酸化炭素中毒になりかけたせいか、頭のそばの
練炭七輪の熱のせいか、気分の悪さにもどしたり(隙間ゆえに、中毒にならなかった?)、
その練炭使用のおかげか、冬場、週に2,3度の火災報知器の誤作動で、消化器片手に
走り回り(実際にぼやも数回)、でも、住めば都、実に居心地のいいところでした。

何と言っても、その環境、寮の敷地内には南側に一周400m規模の芝のラグビーグランド、
西側には野球グランドがあり、開放感抜群。また、敷地を取り囲むように桜の木が
植えられていて、春には絶好の花見スポット、まさに都気分です(現在、県立各務原西高)。

 
http://school.gifu-net.ed.jp/kakunisi-hs/guide[1].html から
グランドに書かれる人文字、20周年を記念する数字を囲むマーク(校章?)、
桜の花と言う事は、学校の周りの緑が紛れもなく桜の木という証明・・・少し・・・感動です。
寮の面影は消え去っても、桜の木は、自分の先輩を含めた寮の歴史、そして今を生きている・・・
なんてね・・・(ちょっと、寒!)


まかない夫婦(子供が小学校に入るぐらいの歳、別棟)、寮母(60歳?位で、
玄関脇に寮母室はあったのですが、通い)がいて、朝晩の2食付き、実家からの
連絡受け継ぎ、郵便物等の預かりなどの寮生の世話をしていました。
寮費は数百円程度、朝晩食費込みで月4,000〜4,500円、これは、ただ同然です。
それでも、滞納・・・していたなあ・・・

岐阜大学も岐阜市柳戸に統合され、かなりの期間が経ちますが、当時の岐阜大学は
教養部、教育学部の長良キャンパス、医学部の岐阜市内の医大キャンパス、そして、
農学部、工学部の各務原キャンパスに分かれていて、1年半の教養課程では、
全学生が長良キャンパスに通学する形態を取っていました。

その為、新入寮生のほとんどが、この直近の駅『新那加駅』を利用していました。
歩いて5〜10分、『大学前駅』(大学統合で『市民公園前駅』に改名)も、
ほぼ同じ距離にあったのですが、普通しか停車しない上、岐阜方面に向かう方向とは
逆になる為、ほとんど利用する事はありませんでした。

日曜で出かける予定のない寮1回生の自転車を駅までの足代わりに借り、駅前歩道の
駐輪スペースを探している最中、一方、駅員も、デパート前でもある駅前の歩道に
溢れる自転車を整理してる時です。

「とにかく、その自転車をちょっと調べたいので一緒に来なさい」

突然の出来事に面食らい、それでも、自分の頭の中でその答 『盗難自転車』 が
導き出されたのは、瞬時でした。

あの野郎(後輩)、盗難自転車かよ。

また、えらい物に乗って来てしまった。

それなら、そうと、貸す前に言ってくれよ。


このまま、調べを受ければ盗難自転車と判明することは時間の問題、
なんとしても、その場を凌がなければならない。

「借り物ですから、それは、困ります」

「時間は取らせない。まあ、いいから、来なさい」

そう言いながら、駅員の片手はしっかり、自分の乗ってきた自転車の荷台を掴んでいる。

このまま一緒についていき、盗難自転車と判明し、警察官が来ての取り調べと言う段、
正直に話せば、自分が借りた為に後輩が窃盗罪、
後輩をかばって、自分が盗んだと言って、それが通れば、自分が窃盗罪、
もし、後輩をかばった嘘がばれたら、自分は犯人隠避、後輩は窃盗罪。
窃盗罪ともなれば、立派な?犯罪、大学側の退学勧告、除籍処分は容易に想像できる。
親は泣くに違いない。そんな思いが頭の中を交錯する。

自分にとって最もベストな道は、このまま連れて行かれて正直に話す事。実際、
自分は、何も知らなかった訳で何の罪もない。でも、そうすると後輩は確実に
窃盗罪になる。それも、自分が借りた為に降りかかる災い(盗んだのだから
自業自得なのですが)、自分にも、少なからず責任というか、負い目を感じる。
このまま、後輩を売ってしまう訳にもいかない。

ああ、どうすればいいんだ。

そして、頭に浮かんだのは<下に続く>











逃げろ!


べダルの上の右足に少し力を入れ、駅員の顔色を伺う。駅員もこちらの顔色を
察知したようで、荷台を掴む駅員の手に力が入るのが自転車を通して伝わって
きました。それでも、かまわず、一気に振り切ろうと、全体重をペダルの右足に
乗せたのですが、駅員も必死に、両手で荷台を掴み、全体重で始動を阻止して
きました。

自転車に限らず、動く物は、始動を阻まれた場合、意外ともろい。
動いている場合に比べ、かなり、少ない力で阻止されてしまう。
おまけに、二輪の場合、静止状態では自立すらできない不安定物体。
それでも、進もうとする自分、それを後ろ向きに引っ張る駅員、
傍から見れば奇妙な、そして力学的に言えば微妙な直立静止状態
が保たれて、しばし、・・・

えぇい、こうなったら、最後の最後の手段、<下に続く>











自転車は放って、逃げろ!


自分の予期せぬ行動に、駅員、乗り手のいなくなった自転車を倒れない様、
掴んで確保するか、あるいは、掴んだ手を離し、自転車を倒し、追いかけるか、
その選択を余儀なくされた。


「ぅあっ! こら! ちょ、ちょっと待て!」


申し訳ありませんが、待つわけにはいかないのです。
走って細い路地に入る後ろから、声だけが追いかけてきました。
自転車の確保を選択したようです。 ・・・ ほっ
幸い?、屈強なる通行人が追いかけてくる気配もなし。 ・・・ ほっ

一件落着? ・・・ ほっ

寮に逃げ帰り、後輩に

「悪いけれど、自転車は駅に預けた」

「もし、どうしても要るようならば、自分で取りに行ってくれ」

(取りに行ったら、たいしたものだけれど)

『知らぬが仏』 と言うけれど、知らされる羽目になった場合はなんとも悲惨、
知らないということは、実に恐ろしい。

それ以来、『新那加駅』へ近づくことも、自転車を借りることもやめました。

ちなみに、後輩の彼、大阪出身です。
大阪人にとって、常識じゃないですよね。自転車泥・・・


・・・《知らぬが仏(ほとけ)》・・・
知っているからこそ腹も立つが、知らなければ、
仏様のようにすました顔でいられる。見ぬが仏。
転じて、当人だけが知らないですましているさまをあざけっていう語。


でもなぁ、今回の後輩、あれじゃあ、

『知らぬは、ほっとけ』 (放って置け)じゃねえか


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2003/11/8
昨日(2003/11/7)、各務原のお客様(三ヶ日の凸版印刷工場に出張)が見えました。
懐かしさに、今の『新那加駅』の様子を聞いたのですが、名鉄グループ自体の経営状態が
決して、好調とはいえない今、合理化の一環として、採算の取れない部門の廃止、
店舗閉鎖等が次々と進められている中、各務原市那加の店舗もその対象となり、
駅はあるのですが、デパート自体は取り壊されたそうです。
30年の歳月の流れの中、思い出の場所もすっかり、その様相を変えてしまっているようです。