物的証拠

2003/12/16

いつの頃だったのだろう。
家の前の道(現国道362号)がアスファルト舗装されたのは。

自分がものごころ付いた頃(昭和30年、西暦1955年過ぎ)は勿論、未舗装。
そもそも、道路上の主役は人間でしたし、自転車、荷車、リアカーでした。
一日にほんの数往復の浜松、三ヶ日間の路線バス、そして、そのバスと同じ位の頻度のトラック、
ごく稀に、自家用車、バイク、これらは、すべて脇役に過ぎません。

ひょっとして、バスはまだ・・・、いや、走っていました。少なくとも、昭和32年は確実、なにしろ5歳の時
1年間は、三ヶ日の私立幼稚園に、セルロイド製の定期入を首に掛け、ひとり(他に一緒の子も・・・?)で
路線バスに乗って通った記憶が・・・、当時は、『トトロ』の猫バスのようなボンネットバス、
方向指示器も格納場所の上を支点にして横90度、水平状に飛び出し点滅(点滅は?)、
車掌(♀)もいて、「次はぁ〜、野地〜、野地、お下りの方はございませんかぁ〜」に
元気よく手を上げ、降車の合図をしたものです。

(セルロイド:セルロースの硝酸エステルである硝酸セルロース約75パーセントに
樟脳約25パーセントを加え練ってつくったプラスチック。玩具・文房具・フィルム・眼鏡枠など
日常生活に広く利用されたが、引火しやすいので、現在は他の合成樹脂にとって代わられた。)


番外的に馬車、牛車(ぎっしゃ)も存在しましたが、この馬車、牛車の場合、その実在を見なくても、
その物的証拠を持ち去られない限り、その日、確かにそこを通ったことを知ることが出来ました。
そう、忘れていった(別に忘れていったわけではない?)大きな落し物があったからです。
においと湯気の出る、そして、決定的なのは蝿がたかる(時期は限られる)という代物です。

幼い子供達にとっては、今まで見たこともない、道の真中に盛り上がる、その巨大なものに
興味津々でしたが、6,7歳の頭では、それが誰の落し物であるかの判別はできませんでした。
ところが、年配の経験豊かな知恵者にとっては、それが何であるか、そして、馬か牛のどちらからの
落し物かを判断することすら、たやすい事らしかったようで、そればかりか、今からどの位前に
通過したのかも、湯気の上がり具合、乾燥の状況を見て判断し、子供たちを前に、したり顔で
その時間を言い当てていたものでした。

当時は、その物体が、相当の間、下手をすれば完全に乾燥し、風に飛ばされる、あるいは、
雨に打たれ、 土と一緒になるまで放置される、そんな、実にゆったりとした時間が流れる時代だったのです。
さすがに、その大きさからして、踏みつけてしまう強者は・・・・・・、いたかも知れない。
強者というより、あわて者。そうなると大変、犬の糞どころの話ではないのですから。


父が菓子屋を営んでいた(今も辛うじて存在)時の、最初の配達手段は自転車、それも、今のように
『サイクリング サイクリング ヤッホー』などといった浅薄さもなければ、華奢でもありません。
骨格ががっしりしているのは当然ですが、箱を積むための大きな荷台、そして、
重い荷物を積んだまま停止、固定する為のスタンドも、後輪を後へ持ち上げ宙に浮かせた状態で、
自転車本体をしっかり自立させるに可能な接地面を持つ構造(片足スタンドならぬ、
両足底付き一体スタンドとでも言うのか、とにかく、自転車は直立安定状態)になっていて、
まさに、農耕馬然とした、堂々とした風格?が備わっていました。

それだけ、がっしりした自転車ですので、それ自体の重量も相当なもので、荷物を積んでいなくても、
坂道を登るには体力が必要でした。その自転車の荷台に菓子を入れた木箱を10段ほど
(木箱自体もかなりの重さで、中身を合わせ10段ともなると大人ひとり分ほどの重さ)積んで、
5kmほどの道のり、それも、峠を二つほど超え、10個所ばかりの販売店を、父、又は使用人が、
ほぼ毎日、卸しに通っていました。そんなことを考えると、昔の人間は、人生そのものが体力勝負と
いった面が大きかったように思います。

いつしか、この頑丈な自転車も、原付自転車(50ccバイク)の前モデル、発動機(両ペダルの中央に
ガソリンを燃料とするモーター)付き自転車に代わりました。ペダルを漕いで、その推進力でエンジンを
かける、そして、かかってしまえば、要はバイクです。どちらかというと、今のヤマハ『パス』、
ホンダ『ラクーン』に近い?、いや、始動時に力が要るので、丸っきりの別物ですが、それを経て、
キックで始動可能な、かつてのヒット商品、ホンダ『スーパー カブ』、そして、ホンダの125cc
(いずれも荷台は荷物が安定して積めるよう幅広に改造)、最後に、今のボックス型軽自動車に
なったのが、自分が高校3年(昭和46年 西暦1971年)の時で、その間、15年足らずの間の
めまぐるしい?配達手段発展の軌跡は、まさに、日本の高度経済成長時代に符合し、
その社会の変貌を髣髴(ホウフツ)とさせるものがあります。 ← オイ、スゲェ、話が大きくなってるぞ!

同時に、道路の使用形態も徐々に、そして、大きく変わっていき、いつしか、主役は人間から車に
取って代わり、道路構造も、それに耐えうるよう変化していきました。そんな道路の変貌も、
上の話同様、日本の経済発展の証に違いありません。


昭和30年(西暦1955年)当初の道路は、路床部分に大きな石が敷かれていたのかどうかは
知る由もありませんが、表層はある程度粘りのある土と小石を水で絞めながら固めた、要は土の道
でした。梅雨時になると、その長雨で軟弱になった道路は、補修してもすぐに軟弱になるだけで、
当然、手は付けられず、いたるところに水溜りが出来ていました。

そんな中、雨だからといって、バスもトラックも、そんなにゆっくり走るわけにもいかず、
ある程度のスピードを出します。運転手にしたら、多少手加減しているつもりなのですが、
道を歩く人間、特に子供にとっては容赦のない代物でした。
遠くに、ラッセル車の如く、泥を逆ハの字に跳ね除け向かってくる、その姿を見つけたら避難するしか
方法はありません。傘を利用して、挑もうとするは、愚の骨頂、返り討ちに会うのが関の山、
最悪の結果が待ち受けています。結局は傘も人間も同じ色に染め上げられてしまいます。

ただ、建物(店)は道路に沿うように建っていて、ラッセル車が近づこうが避難するわけにいかず、
腰板部分、いやいや、人の背丈まで、泥の跳ねるに任せるしかありません。
それだけで済めばいいのですが、時々、洗われた路面から分離状態の石がタイヤのゴムの圧力で
飛ばされ、引き戸、窓のガラスが割れることも年に数回はあったと思います。
幸いにと言うか、戸も窓(当然、木製)も、ガラスは格子状に分割された状態で、もし割れても
その部分だけ(20cm四方)の交換で済む訳です。

石の飛んでくる危険性は、雨が降ることによって高まったに過ぎず、晴れた日でも可能性自体は
存在していました。幸い、跳ねられた石で怪我をした人の話は聞きませんでしたが(子供の耳に
入らなかっただけで、いたのかも知れません)、考えてみれば鉄砲玉の如く飛んでくる小石は、
かなり危険極まりないものです。
そんな、危険で、ひょっとして、先ほどの馬、牛の代物も練りこまれていたのかも知れない
泥にまみれた糞味噌状態の梅雨時は、今で言う梅雨の憂鬱さ以上のものがありました。

雨が上がり、ある程度、道路が乾くと道路補修が始まりました。とりあえずは、水溜りの穴を埋め、
平らにするのですが、軟弱になる部分はある程度決まっていて、埋めても、再び雨が降ると
水溜りになっていました。根本的に直そうとすれば、一度、路盤を平らに削り取り、その上で表面を
一体化するために、同じ質の土砂を一定の安定した厚さで敷き詰める必要がありますが、
ただでさえ貧しい時代、そこまでの予算は当然ない訳で、従って、本格的な修理は数年に一度の
ことでした。その工事でさえ、削り取る量を最小限(水溜りの底から道路面まで)に止め、
路盤安定に必要な土砂厚を、今ある路面にかさ上げしていったのでした。

当然、工事の度に、道路が高くなり、道路沿いの家は、道路に対し低くなり、
大雨の際の水の逃げ場は道路ではなく、道路沿いの建物になることは火を見るより明らか、
その恐れに対して、側溝拡張整備もすることもありませんでしたので、雷の合図で大雨が来た時、
あるいは雨台風襲来時は、決まって雨水に進入されました。

ただ、裏の家の方が更に低い(その向かいは細い道路を挟み土手になり、更に更に低く小さな水田に
なっていた)為、水の浸入がなくなった時点で水を、家の横を通って裏へ走る溝へ掻き出せば、
一応、水浸しの状況からは逃れられました。
そんな、道路が高くなったがための度重なる洪水で、今度は裏の家がへそを曲げ、その溝を
埋めてしまった為、ついに、道路側の側溝の水が引くのを、じっと待つ他はありませんでした。

予算自体が欠乏していた時代、道路計画の立案もノウハウもない行政に、
計画に基づく道路建設を求めるのは無理だったのかも知れません。
高度経済成長で経済は飛躍的に伸びていったのかも知れませんが、
それを取り巻くインフラ整備はどうしても後手を踏まざるを得ないのが現実でした。

現在の建築基準法(第19条)では、但し書きはあるにしろ、
『建築物の敷地は、これに接する道の境より高くなければならず、・・・』
となっていて、当然、建物は道路より高い地盤面に建てなければならないのですが、
道路が工事の度に高くなっていたら、この法律の意味がなくなってしまいます。
まさに、昔ならではの話です。

ただ、今も尚、戦後間もない建物が、国道沿いに現存していますが、側溝の蓋から一段降りて
家に入るようになっています。当然、接する道路は勿論、敷地に対しても低くなっている訳で、
おまけに、古い建物ゆえ、天井高もすぐ頭の上に迫ってくるほどの低さで、
どこか、洞窟を連想する、薄暗く湿った、圧迫感を感じる雰囲気があります。
(東海地震では、確実に潰れてしまうだろうなと想像しています。<新聞販売店(借家):常に人が居住はしていない>)


三ヶ日に、その高度経済成長の波が形として現れたのは東京オリンピックが過ぎ、
東名高速道路の建設(三ヶ日通過部分)の始まりです。
三ヶ日には、かつて、中学が東部と西部の2箇所あり、自分の通っていた東部中学の校庭が、
まさに、高速道路の下になってしまうことになりました。二年三年の教室の窓から、出来上がって
いく高速道路を眺めながらの、そして、その重機の騒音の中での中学生活でした。
その位置は、現東名三ヶ日インターチェンジのすぐ東側に当たる部分になりますが、
今は三ヶ日町も少子化により、新校舎を新たに建設し、ひとつの中学に統合し、
元の東部中学跡地は、凸版印刷三ヶ日工場になっています。
(母校が消えてなくなってしまったというのは、卒業生として、かなりの衝撃でした。)

その三ヶ日インターチェンジ建設に伴い、それに接続する道路整備が進むことになり、
一挙に、三ヶ日の道路も、アスファルト化が進んむことになりました。
昭和40年(西暦1965年)が、ほぼ境になるようです。
財源も豊かになったのか、国道に格上げされたのか、その道路整備に伴い、両側の側溝も整備され、
それ以来、自分の家も洪水に悩まされることはなくなったようです。
(いつの間にかというか、気が付いたときには、国道362号線でした。)

それにしても、高速道路建設の中学時代、いつも、砂埃の中にいたように思います。
アスファルト舗装直前の道路は、土砂を満載したダンプカーが行き交う騒がしい時代でした。
それが巻き上げる砂埃は強力で、通過した後、最低でも30秒余りは息を止め、
巻き上げていったものが消えるのをじっと待つしかありませんでした。
それ故、猛スピードで、後に砂塵を引き連れ向かってくるダンプカーの姿には恐怖を覚えました。

少なからず、じん肺などといった健康被害があったと思うのですが、 『国益 > 個人の利益』 で、
片付けられてしまう世の中、人々も盲信?愚直?、とにかく、人が良すぎる世の中でしたし、国も
そこに甘え、付け込み、ある意味、国民の自慢でもある高度経済成長も、人権を犠牲にした上での
経済発展に過ぎませんでした。
その裏に隠された公害問題が、その最たるもので、それらを問題にした訴訟は
自分が高校のときまで、ことごとく、敗訴、『国益は個人の利益に優る』と判断した司法にも、
また、そんな政策を推し進める政治にも、激しい憤りを感じていました。
(今の首相を見ていると、『歴史は繰り返す』の言葉を思い出します。)


家々は工事で降り注ぐ砂煙に、常に乾いた薄茶色に覆われ、雨が降れば、泥の世界。
それでも、その先にすばらしい夢があることを信じ、じっと我慢しているようでもありました。
高度経済成長の時代は、その先に明るい未来が待っている、そんな予感を抱かせる、
希望に満ち溢れた時代でもありました。


そして今、確かに目に見えて生活が豊かになったことは事実、
でも、日本人の考えが世知辛くなってしまったのも事実、
あの頃、夢見ていた社会は、本当に、今のこの社会なのだろうか。



〓アスファルト舗装〓

高速道路を雨の日に走ると、はっきり認識できるのですが、今最新の路面は雨水をその路面に
吸い込んでしまい、大型トラックの後でさえ視界悪化の原因である、跳ね上げる霧状の水しぶき、
スモーキング現象が驚くほど少なくなりました。
初期のアスファルト(その前はコンクリート路盤、25年ほど前まで国道1号線などで見られた)は、
熱に弱く、夏場は、自転車が自然に倒れるくらい、かなり粗悪なものでした。
35年の歳月でかなりの進化を遂げているようです。
耐久性、耐熱性は勿論、そのほかにも、工夫が加えられています。

【耐流動・耐磨耗性舗装】
アスファルトにゴムや樹脂が混じった舗装で、わだちができにくい道路。
特に大型車やバス、トラックなど1日3000台が通行する道路で多く採用。

【排水性舗装】
アスファルトにゴムや樹脂が混入された舗装。あらかじめ舗装に水の通り道をつくることで、
水が浸透し、水はね防止の道路となる。この道路はなんと15秒で900ml もの水を浸透させる能力を
もっている。これにより、前の車によるスモーキング現象も防止される。
耐流動・耐磨耗舗装に比べて2割程度、石の割合が少なくなる。

【カラー舗装】
これはアスファルトに顔料や色のついた石などの着色料をいれて舗装した道路。
一般道と区別するためにバスレーンなどを目立たせる効果がある。

【凍結抑制舗装 】
これはアスファルトにゴムの粒や塩を入れたもの。
まずゴムの粒は動くために、たわんで氷になりにくくする。
冬道凍結防止にも使われる塩は凍る温度は水よりも低いために、道路の凍結を遅らせることができる。

2003/12/19
上で紹介の新聞販売店(借家)、今日、国道を走りながら注意して見ると
側溝の高さまでコンクリートをかさ上げしているのが確認できました。
足元の環境は改善したかも知れませんが、ますます、天井が低くなり、
そんなことよりも、建物は依然そのまま、肝心の地震に対する備えは皆無のようです。
こうなると、来る東海地震のとき、人が居ないのを祈るのみです。