本宿町
◇ 県営本宿住宅 ◇
地図(
【地図表示】をクリックしてください)の中央下、県営本宿住宅が並んでいるのが、
確認できると思いますが、そこは、PC造、5階建てが18棟並ぶ、総戸数540戸の大団地です。
団地の場所を、地図から平面的に想像すると、駅まで1km余り、健康的にも、理想の場所に
見えるのですが、高低差が激しく、駅から団地まで向かう道は、ちょっとした登山ルートに
匹敵?します。まあ、地名が 『岡崎市本宿町
棚田』 だけに、その空間的位置取りは
十分、理解していただけるものと思います。
結婚と同時に居を構え、後に建設会社を退職し、ここ三ヶ日へ戻るまでの約8年を過ごした本宿は、
そこで新しく家族に加わった長男が5年間、長女が2年間、共に暮らした思い出多い地です。
PC(プレストレスコンクリート)造は、一般にお馴染みのコンクリート造とは違い、
工場生産されたコンクリート板(加圧)を現場で組み立てる(溶接)方式で、
コンクリート造(鉄筋工事⇒型枠工事⇒コンクリート打設)と比べた利点は、
なんと言っても工期短縮にあります。
ただ、半面、見逃せない難点があります(後に判明)。計画段階では問題なしと
判断したにも関わらず、建築後、年数の経過と共に雨漏りが多発したようです。
そもそも、PCコンクリート造はコンクリート板を積み木状に組み立てるのですが、
搬送の関係上、板の大きさは限られ、その結果、屋根部分には複数の継ぎ目が生じます。
当然、屋根部分の防水工事は施されます。そして、本来、その防水材(シートを含め)は、
建物のゆがみやズレに対応するように、ある程度、柔軟性が求められるのですが、
年数が経つにつれ、その防水材の劣化、要するに、硬く、もろくなることを避けることは
不可能です。屋根部分がコンクリート打設で一枚の板ならば、それほど、問題にも
なりませんが、継ぎ目部分があるPCコンクリートの場合、その継ぎ目部分が災いし、
結果として、防水層が破断され、多くの建物に雨漏りが発生しました。
屋根の継ぎ目部分には、その屋根の水平の板を支えるように壁があり、その壁を
伝って雨水が浸入し、カビが発生したり、畳や床板が腐らす不具合が発生することに
なり、そればかりか、当然、下の階も同じところに継ぎ目がある訳で、その被害は、
下の階にも及ぶことになります。
高度経済成長期における建設ラッシュの現場作業員不足解消の切り札も
思わぬ落とし穴の発生で、現在では、小規模(コンクリート板の大きさ)の建築物にしか
利用されなくなくなったようです。
地図の中央下から斜め右下へ並ぶ建物群は、3列存在し、上から、1〜6棟、7〜13棟、
14〜18棟が並ぶ、最後列、上から2つ目、15棟の5階(最上階)部分に住んでいたのですが、
前述の如く、雨漏りに悩まされました。県への苦情で、何度となく補修業者が訪れ、防水、
畳替え、壁の補修がされたようですが、結局、引っ越すまで続くことになりました。
ところが、そんな惨状も比較にならない生活環境が、入居翌年以降、待ち受けていました。
11月に入居で、まずは冬を体験したのですが、建物の気密性は申し分なく、
地形上、岡崎市内に比べ、朝晩の冷え込みは厳しいと聞いていたのですが、
暖房器具はコタツだけで十分でした。
夏です、夏! 灼熱地獄です。
PC造に限らず、RC(鉄筋コンクリート)造のアパートは、天井の懐(天井裏)がなく、
高さ(都市計画法上の高さ制限)を、最大限、有効に利用します。当然、
最上階の天井の上は空です。そのため、最上階の天井のみ、発泡スチロール系の
断熱材を挟みますが、焼け石に水?、日中、天井コンクリートに蓄えられた熱が
一晩中、放熱されます。
入居時、山腹上の立地から、さぞかし、風通しが良いと予想したのですが、
この地自体が風の通らない地形なのか、それとも、建物(15棟他)の向きが、
夏の夜の山風に、やや、平行して建っているせいか、はたまた、15棟南側、
住宅の高さ以上のコンクリート擁壁(その上に山の斜面)のせいか、熱帯夜特有の
微風(無風?)は、窓から、そよとも入らず、天井からは熱線が浴びせられ、
まさに灼熱地獄、幼いわが息子、わが娘、よくぞ、無事に・・・
で、結局、自然派家族(ケチケチ家族?)は、忍耐で酷暑を乗り切りました。当初、
夏の涼みの方法は、自力が頼りの 『うちわ』 だけだったのですが、そんな現状を憂い、
父(私です)は、建設現場で、大工さんが使用していた、壊れかけの扇風機を強引に
奪い 譲り受けました。その頼りない羽根の回転も、子供たちには力強く見えたようで、
歓声が上がったような、上がらなかったような・・・
◇ 本宿の地形 ◇
本宿は愛知県岡崎市中心部より、南東へ直線距離にして10km余り、
国道1号線を東京方面へ上った場所にあり、国道沿いに、名鉄本線の
急行停車駅(本宿)があり、比較的、交通の便の良いところです。
但し、それは駅周辺だけの話です。
両サイドを伊吹山系、養老山系の険しい山に挟まれ、その狭いスペースに
国道21号、名神高速、東海道本線が走る『関ヶ原』を例えて、よく、交通の難所と
言われるのですが、ここ本宿も似たような地形で、山と山の間の限られたスペースに、
名鉄本線、国道1号、東名高速道路(地図上の太い水色:川ではありません)が集中し、
そのため、かつて、片側1車線にせざるを得なかった国道1号は上り下りとも、
常態的に数km〜10km以上の渋滞が発生し、まさに、プチ関ヶ原と言った趣がありました。
今でこそ、開発が進み、その問題は解決されたのですが、そのことは、取りも直さず、
本宿町の地形的特長を物語っています。
国道1号線(名鉄本線、東名高速道路)が、左上から右下に、湾曲する形で、
地図上を貫いていますが、これも、決して、水平ではなく、右下を頂点に、かなりの勾配で
駅手前まで下っています。そして、左上、地図から外れる部分から、再び、上りになります。
地図の左下のグリーンランド、県営住宅の場所は新しく造成された場所で、すべて、
傾斜した場所になり、それより右下は山になります。更に、本宿小学校も高台になり、
校舎裏も同じく、山が迫っています。
県営住宅から通う児童たちは、当然のことながら、山を下り、そして上る毎日で、
かなり、足腰が鍛えられ、小学校の運動会での地区別レースやマラソンでは
好成績を残していたように記憶しています。
小学生も大変なのですが、その小学校の前、道路を挟んで保育園があります。
妻は息子の送り迎えに、毎日、徒歩で片道2kmを2往復、登山訓練をしていたことに
なりますが、弱音を吐くことなく、時には、息子を抱えたまま、スタコラサッサ、さながら、
スーパーウーマンでした。かく言う夫も、しばらく、電車で通勤をしていた記憶が
ありますが、さほど、辛いという記憶がないスーパー父ちゃんでした。
若さのせいか、それとも、あまりの昔のことに忘れ去ってしまったのか分かりませんが、
ただ、自転車を購入しようとは思わなかったのは、その道が、下るには、
あまりにも急勾配で危険でしたし、逆に、登りは、引いて歩かなければならず、
要するに、無用の長物だったからに違いありません。
県営住宅やグリーンランドが造成されて30年超、そこに移り住んだ人たちも
高齢の域に達し、地形的厳しさを実感しているのは確かなようです。
今、この地に、名鉄により、所要時間がものの20分にも満たない、超短の
『本宿循環』なるバス路線が配備されたのですが、これは、夜の最終バス、
『18:55本宿発』を見れば分かるように、通勤、通学客を対象にしたものではなく、
高齢者の日常生活をターゲットしたものと言って過言ではありません。
自分が年老いるのと比例して、本宿の団地、造成地も高齢化しているようで、
なんとも、複雑な思いです。
◇ お代官様 ◇
NHK料理番組『きょうの料理』のテーマ音楽をご存知でしょうか?
そうです。あの、小気味良い、軽快なピアノ(だったかなあ?)の曲です。
この番組自体、自分が子供の頃、テレビが我が家に来た時には既に
存在していたので、隠れた超ロングラン番組と言えるのですが、
このテーマ音楽を聞くと、まな板と包丁が頭の中に浮かぶと言うくらい、
多くの人に親しまれるメロディです。
その作曲者である『冨田勲』(1932年生れ)氏は、1950年代後半から、NHKに限らず、放送、
映画、アニメ、コマーシャルソングなどに関する膨大な音楽を残している作曲家なのですが、
実は、日本のシンセサイザー奏者の先駆者であり、第一人者です。
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EXPO'70大阪万博でシンセサイザーに出会った後、その作曲活動に傾倒し、
1974年、シンセサイザー・デビュー・アルバム『月の光』で、
いきなり、米ビルボード・クラシカル・チャートの第1位にランキングされ、
一躍、世界の『トミタ』になった、その人物です。
最近でも、『千年の恋―ひかる源氏物語』、東京ディズニーシー・アクア・スフィアの
立体音響シンフォニー、山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』、
愛・地球博前夜祭セレモニーのプロデュースと多忙を極めています。
どこの小学校にも校歌というものがあると思うのですが、岡崎市立の
本宿小学校の校歌の作曲者はなんと、世界の『トミタ』、富田勲氏です。
なぜ?
国道一号線に沿うよう南側に走る細い道、実はこれが、家康の時代、
宿駅・伝馬制度により形作られた、かの東海道の名残り(実物?)になります。
地図上、国道一号線と東西で合流する、この区間は、両サイドを軒が連ね、
乗用車がやっとすれ違うことの出来るほどの道幅です。
現代では、そんな窮屈な道路も、かつての時代には、まさに大通り、
人々が、「下に〜、下に〜」の大名行列にひれ伏していたに違いありません。
『本宿』と言う地名の『宿』の文字から、文字通りの宿場町が連想されるのですが、
ここから東に赤坂36番宿、西に藤川37番宿、多少の宿はあったにしろ、
東海道五十三次に挙げられる、宿場町としての集落ではなかったようです。
各地で観光を目的に、旧道がウォーキングコースとして整備されているのですが、
ここ、本宿の東海道も何箇所かの立て看板で、その場所の由来を説明しています。
そのうちのひとつに、
本宿陣屋跡と代官屋敷
元禄十一年(1698)、旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家末孫)が知行所支配のため、
本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。陣屋代官職は冨田家が世襲し、
現存の居宅は文政十年(1827)の建築である。
『冨田家』・・・?
もう、お分かりですよね。
冨田勲氏は東京生れになっているのですが、医師であった父親の実家である本宿で、
終戦時を挟む小中時代をこの地で暮らしていましたし、そこには親族の経営する病院も
あったことから、この地区の学校の校歌や応援歌の作曲も、快く引き受けたようです。
看板横の坂を登ると、正面に鉄筋コンクリート造りの病院、その横に、
代官屋敷らしき建物があります。住まいにしている雰囲気ではないのですが、
かと言って「ご自由に、どうぞ」という雰囲気でもない。ただ、ひとつ、はっきりしていることは、
富田勲氏もそうなのですが、『冨田病院』のご先祖はお代官様らしいということです。
本宿にいた頃の話なのですが、息子は、幼い頃、アレルギー性蕁麻疹の発症で、
時々、冨田病院のお世話になっていました。
ある朝、妻が、まだ幼い息子に言い聞かせていました。
「今日は、院長先生がいないから、診てもらうのは明日にしようか」
それを聞いていた自分、
「え? 平日なのに、どうして、いないの?」
「院長先生はね、毎週、水曜日はお休みなの。
なんでも、大学の方で講義があるらしいのよ」
「講義って、受講しているのか?」
「違う、違う、教授だよ。学生に教えているのよ」
「へぇ〜! で、どこの?」
「東京まで行っているらしいよ」
「ぇえっ! 東京まで通っているんだ。それも大変だなあ」
「早稲田とか、慶応とかって言ってたような」
「2足のわらじ、それも院長先生と大学教授か。すごいなあ。
でも、病院は休みじゃないんだろ」
妻は息子に向かって
「でも、院長先生がいいんだよね」
実は、ここの院長先生は、慶応大学医学部の客員教授でもありました(今は?)。
ただ、妻が、息子、娘を診てもらう時、院長先生のいる日を選んでいたのは、
単に、大学教授だからと言う理由ではありません。そもそも、教授であることは
あとで知ったことで、それ自体は関係なく、それよりも、人(医者)として、
偉ぶったところが一切なく、患者の話を親身になって聞いてくれると言う理由からでした。
その評判は、子供たちを含め、地域の人達の間では絶大で、皆が、院長先生に
診てもらうことを望み、息子や娘も例外ではありませんでした。
今でも、妻は、自分の娘、息子に対しての、やさしく、丁寧な診療のことだけは
忘れないようで、院長先生の話になると必ず「良くしてくれた」言います。
で、水曜日の病院は閑散としていたとか、いなかったとか?
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その病院のポリシーと言うか、謳い文句が
医師は"病めるひと"の訴えを漏らさず聞く大きな耳を持ちたい。
看護婦は"病めるひと"に安らぎを与える優しさを持ちたい。
職員は常に"病めるひと"の身内である気持で接したい。
まさに、『医は仁術なり』を地で行く冨田病院2(3?)代目の院長先生、
冨田稔氏は、世界の『トミタ』、冨田勲氏の弟になります。
◇ 新撰組隊長 近藤 勇 ◇
近藤勇は1834年、10月9日、武州多摩郡、今の東京都三鷹市の
農家・ 宮川久次郎の三男として誕生(幼名:宮川勝五郎)したのですが、
15歳で天然理心流三代目宗家・近藤周助の試衛館に入門。
当時の剣術の流行としては北辰一刀流がもてはやされていて、
天然理心流は、謂わば、田舎剣法と揶揄されていました。
しかし、裏を返せば、見た目の格好良さより、いかに人を殺すかを
優先した殺人剣法であり、実戦向きの剣法でした。
入門者の中でも、近藤勇は剣の腕前が飛びぬけていたため、
その才能を見込まれ、入門した年に周助の養子に迎えられ、
27歳で天然理心流四代目宗家を襲名しています。
養子になったことで、当然、姓も変わるのですが、当初、義父、周助の実家の姓を貰い、
島崎勝太、次いで島崎勇、最終的に近藤勇と改名するに至るのですが、
ただ、近藤家は藤原姓と称するため、正式には藤原昌宣(まさよし)と言う姓名になります。
政府軍に投降した時の偽名、大久保大和も加わり、かなり難解です。
その2年後、29歳(1863年)の時、一門の有志らと共に幕府が募集した浪士隊に参加、上洛し、
将軍の直属警護ではなく、いわゆる、列外警衛に就きました。翌1864年の尊皇攘夷派を急襲し、
長州、土佐を中心とする志士を殺傷した、京都三条の『池田屋事件』は、つとに有名です。
(そんな功労もあり、1867年、新選組は正式に幕府直参となっています。)
しかし、時代は、大きなうねりとして、ひとつの方向、明治維新(1868年)に向かって流れていました。
1866年、坂本龍馬の仲介の元、薩長連合が形成され、
翌1867年10月に徳川慶喜は大政を奉還し、
同年12月には王政の復古が宣言されました。
(坂本龍馬は、その少し前、11月に、暗殺されていています。)
岩倉具視らの策略により、徳川慶喜は賊臣と見なされ、
辞官納地の処分(政治に介入することも許さず、領地も全て没収)が下されるのですが、
これに憤慨し、翌1868年1月、維新への流れに逆らうが如く、鳥羽、伏見の戦い
(近藤自身は伏見街道にて、御陵衛士残党に撃たれた鉄砲傷のため、大坂城で療養中)、
いわゆる、戊辰戦争(旧幕府軍VS官軍)が勃発します。
しかし、旧幕府軍は官軍に敗れ、江戸に敗走、
更に、3月、甲府鎮圧に中山道を進軍したのですが、
その手前、勝沼の官軍先発隊との激戦の末、
再び、江戸、そして、下総(千葉県)流山と敗走を余儀なくされました。
結局、流山を戦火に巻き込むことを嫌い、近藤勇は、官軍と偽り、
偽名、大久保大和を名乗り、投降、再起を図ろうとしたのですが、
元新撰組、御陵衛士の一人、加納鷲雄に見破られ、4月25日、
板橋庚申塚(東京都板橋区:官軍側の総督府)にて、
武士としての最期(切腹)をも許されず、斬首となりました。
享年35歳、太く、短い人生の幕を閉じました。
そんな戦いの一方で、4月に江戸城が開城され、
9月に明治に改元、
更に、翌1869年、都が東京へ移されました。
さて、ここで、やっと、「本宿」が登場します。
地図上、前述、冨田病院の下(南)になるのですが、法蔵寺があります。
山門をくぐり、本堂手前を左へ登ると、いかつい顔の人物胸像(石像)と立て看板があります。
近藤勇 首塚の由来
新撰組隊長 近藤 勇 は慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五才で
東京都板橋の刑場の露と消えました。
刑後、近親者が、埋められた勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい
東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。
また、勇の首は、処刑後、塩漬にして、京都に送られ三条大橋の西にさらされました。
それを同士が三晩目にもちだし、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の
称空義天大和尚に埋葬を依頼することにしました。
しかし、和尚は、その半年前から三河国法蔵寺の三十九代寛主として転任されていたので
法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、
ひそかに埋葬するのに好適の地でした。
しかし、当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい無縁仏の様にして
沓華(とうか?:重なり合う花?、花を手向けていた?)していました。
そして、いつか石碑の存在も忘れ去られてしまいました。
昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果、
埋葬の由来が明らかになりました。
今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて
供養することにいたしたのであります。
法蔵寺 執事
近藤勇の首は、未だ行方不明と言うのが通説になっているのですが、
法蔵寺、近藤勇首塚の案内看板の内容は、かなり、信憑性があると言われています。
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昨年2004年、NHKの大河ドラマ『新撰組』の放映に合わせて建立したのか、微妙に石像が新しい。
日本各地にある新撰組隊長、近藤勇ゆかりの地には、必ずと言っていいほど、その石像が存在し、
その多くが、この人相なのですが、現存する写真(実物)に比べると、かなり、好男子に
変身しているように感じます。ただ、顔の骨格自体は、大河ドラマ主役である近藤勇役の
香取慎吾同様、「厳つい(いかつい)」と言った表現が当てはまると言う共通点があります。
(かく言う自分は、大河ドラマファンではないので、番組は2回ほどしか観ていない)
風貌もさることながら、性格も、人に厳しいけれども己にも厳しく、
いわゆる、スポーツ会系、硬派、一途な思い、頑固、不器用(手先ではなく、人生に対し)、
裏表がないと言ったところでしょうか。
逆に、そんなところが、人を惹きつける要素、親分肌とも言えるのですが、
考え方に柔軟性が乏しく、妥協を許さないため、時代が大きく変わろうとしている時、
その流れに乗り切れず、悲運な結末に突き進んでしまいました。
時代が違っていたとしたなら、また違った展開があったのかも知れませんが、
これもまた、避けられないストーリーだったのかも知れません。
ただ、そんな一途さ、頑固さは、時代を経ても多くの人の共感を呼び、
新撰組を含め、後世まで慕われる存在になっています。
その他、近藤勇ゆかりの地
三鷹市 龍源寺
生家宮川家の菩提寺。
板橋で処刑後、斬首された胴体は、その地に埋められたのですが、
娘婿(養子)である勇五郎や、実父らによって掘り返され、
ここ龍源寺に運ばれ、改葬されました。
京都市 壬生寺
京都における新撰組拠点でしたが、近藤勇の胸像、遺髪塔があります。
東京都荒川区 円通寺
彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に秘そかに建てて、
鳥羽、伏見、函館、会津などで、各藩士の戦死者の氏名を彫って供養をしていたのですが、
当時は賊軍扱いにて、表立った供養ができず、官許のある当寺に移築する事により、
彰義隊と合わせて供養が出来ることになったということです。
供養塔(墓石)には、土方歳三、近藤勇など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってあります。
福島県会津若松市 天寧寺
一説に、ここに近藤勇の首が埋葬されていると言われているのですが、
土方歳三が故郷であるこの地に、近藤勇を供養するために墓碑を建てたようで、
土方が持参した遺髪が納められていると言うのが正しいようです。
下総流山で政府軍に囲まれ、武士道一徹の近藤勇は、ここまでと観念し、
その場で切腹を決意したのですが、土方歳三の「生き延びれば再起もある」との説得で
思いとどまり、投降しました。結局、正体を看破される結果になり、
土方は助命に走り回ったのですが、その願いもかなわず、
その上、武士としての切腹さえも許されずに斬首。
その責任を痛感し、せめてもの償い、供養の意味でこの地に墓碑を建てたものと思われます。
東京都板橋区、板橋駅前
1868年4月25日処刑後、首は、この地で晒され、後に塩漬け(焼酎漬けの説も?)され、
京都へ送られ、三条大橋のそばに5月30日から3日晒された(3日後に何者かが持ち去る)のですが、
胴体は、ここに埋められていると言います。
確かに、一旦、この地に埋められたのですが、掘り返され、
生まれ故郷の三鷹市龍源寺へ運ばれ、埋葬されたと言う説が一般的です。
岐阜県揖斐川町(旧 岡田藩)
近藤勇の介錯役を務めた岡田藩士「横倉喜三次」は
藩の武術指南役で剣術の使い手でもありました。
その、喜三次が勇のために岡田藩(現在の岐阜県揖斐川町)内で営んだ法要の記録文書が
揖斐川町で昨年(2004年)10月13日、見つかりました。
それは、法要には参列できなかった喜三次へ宛てた手紙という形で、
喜三次の子孫宅で発見されたのですが、そこには、介錯の賞金で、岡田藩内、
藩主の菩提寺の松林寺、横倉家の大興寺など、僧侶ら六人による法要を
営んだ旨が記されていた他、法要に参列した者の名前も記されています。
喜三次には、処刑する側とされる側という立場を超えた、勇に対する、
同じ、武士、剣術の使い手としての尊敬の念があったと思われます。
続く 2005/7/23