イメージトレーニング

2006/05/8

一体、この人物は何をしているのだろう?

彼は、こちらに背を向ける形で、隣家の北東隅の外壁に向かい、
立ったままの姿勢で両手を真っ直ぐ壁まで伸ばし、じっとしていました。

5月に入ったばかりだと言うのに、気温はぐんぐん上がり、
季節外れの、しかも、今年最初の真夏日になった昼下がり、
上着どころか、長袖シャツすら脱ぎたくなる陽気です。

厚手の上着を着たままの彼は、髪の毛も伸び放題、見るからに暑そうです。

恐る恐る、斜め後ろ、約2メートルほどの距離に近づき、

「あの〜、もし?」

と、声を掛けたのですが、

「・・・・」

こちらに振り向くどころか、何の反応もありません。

ひょっとして、耳が聞こえないのだろうか?

彼の荷物とおぼしき、かばんと傘が、彼のいる位置から
10メートルほどの距離にある花壇を囲むブロックに立て掛けてあります。

彼の後ろを右に回り込むように、彼の右横1メートルまで接近しました。
後ろから見た様子で予想はしていたのですが、髭も手入れされないままの伸び放題で、
要するに、顔中、毛むくじゃら、熊さん状態です。
身なりも、お世辞にも、清潔そうには見えません。
と、言うか、何とも言えない異臭のバリアが・・・

ただですら怪しい風貌の上、無断で他人の家の軒先まで入り込み、
更に、こちらからの問い掛けにも応じる風もない。
常人では考えられない行動(静止している?)に面食らいながらも、

「あの〜、もし?」

もう一度、同じ問い掛けを試みたのですが、

「・・・・・」

視線はおろか、顔の表情ひとつ変えず、じっと壁方向を見つめています。
左手に小さな紙切れを手にし、右手には使い捨てライター(ボールペン付き?)が見えます。
紙切れには、女性らしきの氏名と数字が書かれてあるようなのですが、
それを、一心不乱に、右手のライターで、なぞるような素振りをしています。

更に、もう少し、接近し、

「何か、お尋ねですか?」

「・・・・」

右手のなぞる動き以外、依然、眉毛ひとつ動かすことも無い無表情、
その異様な雰囲気に、凶器を持っているかも知れないと言う思いが頭をかすめました。

いきなり、彼がこちらに体を向けたかと思った瞬間、懐からナイフを取り出す。
ナイフを持つ、彼の右手が真っ直ぐ、こちらのみぞおちに向かって伸びてくる。
怒り狂う猛牛を、いとも容易くかわすブルファイターの如く、
左足を後ろに引き、体を90度、反転させ、紙一重のところで、その攻撃をかわし、
伸びてきた右腕の先、ナイフを握った、彼の手の甲に、右の手刀を振り下ろし、ナイフを払い落す。
間髪入れず左のフックで、彼の顔面に強力な一撃を加える。


う〜〜ん、想像の世界では、実にうまい具合に事は運ぶ。

もし、彼の表情に険しさが現れたならば、それに対処できるようにと、
すでに、気持ちの中では、左足は半歩、後ろにあったのですが、
わが心、ここにあらず』 の彼の表情に、その時点では危険性は、
さほど感じられませんでした。

とにかく、もう一度、

「尋ね人ですか?」

「・・・・」

う〜〜ん、お手上げです。自分としては、もう、これ以上、打つ手がありません。
正直言って、最初から、尻込み気味で、一刻も早く、逃げ出したかったのですが、
とりあえずは、これで、一応、行動を起こしたと言う既成事実は出来たことだし、
男としての面目も保てたと認識し、そうっと、彼の行動の異変に気遣いながら、
後ずさりするように撤退しました。

もし、その時、彼が攻撃的な素振りを見せたなら、先ほどの勇ましい想像とは逆に、
彼に背を向け、一目散に逃げ帰ったことでしょう。たぶん・・・



実は、こんな事態を強いられる羽目になったのは、直前に掛かってきた電話のおかげです。

電話に出た妻が、受話器を置くや、

「変な人が居るらしい」

「はあ?」

「変な人が居るのよ」

「そりゃあ、世の中、広いからな。中には変な人間も居るわさ」

「違う。違う。すぐ外にいるのよ」

「はあ?」

「玄関から出て、すぐ西隣!」

「何で、そんな事が?」

「今、隣から電話」

と言うことで、恐る恐る、抜き足、差し足、現場に急行?した次第なのです。



玄関先で、扉から顔だけ出し、様子を伺っていた妻と共に、
一旦、家の中に入り、鍵を掛け、一息つき、

はて?どうしたものか?

悩んだ末、もう一度、現場に赴き、先ほどのやり取りを繰り返し、
がっちりと男らしさの既成事実を積み上げた上、無事、帰還し、
妻に凱旋?報告をしました。
ただ、先ほどと違っていたのは、彼の左手の紙切れが裏返しになっていて、
今度は、しきりに白紙の部分をなぞっていたことで、更に、不気味さが増していました。

一応、声は掛けたし、その上で返答がないと言うことで、
隣家に電話し、事の次第を伝えた上で、警察に電話するようにアドバイスしたのですが、
おまわりさんが到着するのが、かなり遅れたせいもあり、その前に、彼は去って行ったようです。

おまわりさんの到着が遅れたのも、実は、彼が原因でした。
彼の歩いたルート沿いで、『うちの軒先に変なのが居る』 と言う不審者情報が寄せられ、
逐一、それに対応し、振り回された為らしいのです。



後日、警察からの連絡で彼は東北地方出身、ホームレス、流浪の旅・・・、
その日の季節外れの気温に、『涼を得るため、ルート沿いの民家の軒先を拝借』 が真相のようです。

そうと分かっていれば、風呂にでも入って、さっぱりしてもらい、衣類の洗濯も・・・、
う〜〜ん、でも、心では思っていても、たぶん、拒否するに違いない。

物騒ゆえに、親切さえも思い止まってしまうほど世知辛い世の中になってしまいました。



それにしても、おまわりさんの質問に答えたと言う事から、耳は正常のようです。
おまわりさんの質問に答えて、自分の問い掛けには聞こえない振りをしたのは、
捕まるのはイヤ』 と言う意識もさることながら、自分の問い掛けがまずかったのだろうか?

そうだな、まずは 「こんにちは」

そして 「いい天気ですねえ」

さらに、 「どちらから、おいでですか?」

あれ? こりゃあ、いつも、店でしている、妻のお客様への挨拶だ。

なるほどねえ。

次は、妻の出番だな。