弁護士過疎地で15年

弁護士過疎地での活動
 私は、広島市内で8年半法律事務所に勤務した後、1996年に三次市で開業した。当時の三次市は人口4万人、広島地方裁判所三次支部があり、支部管内の人口は12万人、支部管内の弁護士は私を含めて2人だった。
当時、過疎地型の法律相談センターが日本にでき始めた頃であり、日弁連ひまわり基金法律事務所は全国にまだひとつもなかった。
 三次市で開業してからもう15年になる。この1年余りの間に、支部管内の弁護士が2人から5人になり、簡裁代理権を持つ司法書士も増えた。最近では、東京の弁護士や広島市内の弁護士が三次市で無料法律相談会を開催しているが、相談はあまりない。時代の変化は隔世の感がある。
 私は、広島市内で弁護士をしていた頃、国賠訴訟、不当労働行為、税金訴訟、過労死、日照権、変額保険、詐欺的商法、医療過誤などの事件を扱った。しかし、広島地方裁判所三次支部にはこの種の事件が少ない。この地域では訴訟事件が少なく、借金に関する事件が多かった。「城壁の外では重要なことは何も起こらない」と述べた古代の哲学者がいるが、田舎では重要な事件はほとんど起こらない。
この地域で、解雇無効の裁判、高校での体罰による損害賠償請求訴訟など労働事件や国賠事件を何件か扱った。この地域では、事件内容を公表すればすぐに氏名が特定される。警察を相手に国賠訴訟を起こしたある人は、「マスコミや家族、勤務先に絶対に知られないように裁判をしてくれ。裁判をしていることがわかると、この地域に住めなくなる」と言った。
 2000年春頃、日栄(ロプロ)相手に手形の処分禁止の仮処分を7、8件申し立てた。まだ、全国的にこの種の裁判の申立がない時期であり、計算方法などはすべて手探り状態で自分で考えなければならなかった。
 一時期、この地域で毎年、労働組合と一緒に労働110番を実施していたが、相談件数は1件程度だった。新聞折り込みチラシを全戸配布して行った教育110番でも、相談は1件だった。相談件数が「少ない」のではなく、人口と経済活動の規模からすれば、「そんなもの」である。経済的、社会的な活動の規模でいえば、三次市は広島市の30分の1以下であり、広島市で同じ相談会を実施して相談数が30件あれば、これは三次市では1件程度の相談件数に相当する。
 多くの弁護士は立場に関係なく社会的に重要な事件を扱いたいと考えるが、田舎には重要な事件が少ない。当時、1年間に事務所の内外での約500件の法律相談と約200件の事件を処理していたが、ほとんどが借金に関する事件だった。事務所に氏名不詳者から「ウンコ」が送りつけられたことがある。ストーカーが事務所に居座り、110番通報してパトカーが2台事務所に来たことがある。行政や社会に対する攻撃を1〜2時間一方的にしゃべり続ける相談者。毎月、精神疾患のある人が何人か相談に来た。田舎では裁判所の職員や市の職員に暴力を振るう者が時々いる。格差社会は、法の軽視を超えて法の無視をもたらしやすい。
 仕事はそれほど楽しいものではないが、この地域に弁護士が必要だった。この地域の国選事件、当番弁護士、無料相談会、少額破産管財事件、債務整理、法律扶助事件、少額訴訟などの大半を私が扱った。また、田舎では調停委員に法的知識がないので、法曹の調停委員が必要である。
 「歴史上の事件として記述されないところに、本当の歴史がある」という言葉がある。同様に、裁判や事件のないところに本当の司法がある。日本ではほとんどの労働・行政上の紛争は弁護士に相談されず、裁判にならない。事件や裁判を中心に考えれば、田舎には「記述すべき事件」がほとんどない。しかし、どこでも人々の生活があり、司法が必要である。
 行政事件と労働事件の数は法の支配のメルクマールである。都会でも行政事件と労働事件は少ないが、この地域では行政事件と労働事件はないに等しい。行政・労働上のトラブルは無数にあるが、それを聞くのはたいてい借金に関する相談の中であり、行政・労働上のトラブルとしては弁護士に相談されない。田舎の人々にとって法律は「お上」が一方的に作ったものであり、裁判は自分とは関係がないという意識が強い。それが司法に対する関心の低さをもたらす。
 日本の社会の格差のひとつに都会と田舎の格差がある。規制緩和は都会以上に田舎に大きな打撃を与える。経済的な貧困は、同時に文化の貧困をもたらす。田舎の書店には憲法の本は置いてない。田舎の人は東京の文化にあこがれ、テレビに登場する人は東京の文化の象徴である。この地域ではテレビのバラエティー番組に登場する弁護士の講演会が時々開催される。人々はテレビに登場する裁判や弁護士に関心を持つが、日常生活のうえで司法への関心は低い。
 当時、仕事の忙しさは、自分がこの地域の司法を取り仕切っているという「お山の大将」的な自己満足をもたらした。しかし、その後、この地域の借金に関する事件が大幅に減り、社会の変化は激しい。

米軍機の低空飛行に反対する運動
 三次市で開業して間もない時期に、米軍機の低空飛行に悩んでいた県北の13の自治体が中心になって、「米軍機の低空飛行に反対する県北連絡会」が結成された。自治体の首長が参加する会議を取り仕切ることを誰もが尻込みしたので、仕方なく私が事務局長になった。 
 県北連絡会では、シンポジウム、低空飛行情報の収集、署名集め、小冊子の刊行、国、県、米軍などへの申し入れ、有事法制や憲法の学習会などを行った。全国の米軍機の低空飛行に反対する組織や団体などが集まって、高知県川本町や三次市で全国集会を開催した。米軍機が事故を起こしたイタリアのカバレーゼやアメリカに使節を派遣した。おかげで、一時期、マスコミがこの問題をかなりとりあげるようになった。
 憲法、法の支配、民主主義の実現、広い意味の「法」の理念を実現することは、法律家の仕事の一部である。
 私は広島市内に住んでおり、低空飛行の被害を体験したことがない。米軍機の低空飛行を見たこともない。県北連絡会は住民の運動組織であるが、私はこの地域の住人ではない。事務局長として低空飛行の実態について話をしてくれという依頼に一番困った。連絡会の設立の3年後に、私が事務局長を退任して「事務局次長」になったのは、事務局長は「低空飛行の体験者」が適任だと考えたからである。しかし、私の退任後、事務局長は空席のままである。
 この運動の中心は自治体と加盟団体であり、住民は自治体に「任せる」意識が強かった。保守系の自治体の首長の方が住民よりも低空飛行に対する意識が高い。その後、市町村合併により、県北連絡会の主な担い手だった13の自治体がすべて消滅した。県北連絡会は、住民が自治体についていく傾向が強かったので、自治体が消滅すると、住民は、「ついていく」ものがなくなる。地方で自治体がどれだけ大きな役割を果たしているかは、東日本大震災を見てもよくわかる。地方では、自治体の首長や職員の方が住民よりも、意識のうえで先進的である。自治体が消えても住民が消えるわけではないので、その後、県北連絡会は個人の会員によって維持されている。

弁護士として登山に関わる
 私は、今までに4回の海外登山を行い、3つの7000m峰に登頂し、1つの初登頂、1つの初登攀がある。これらは、いずれも2000年以前のことであり、それ以降は外国に行くヒマがなかった。趣味とはいえ、2度「世界初」を体験し、世界の登山史の末席にささやかな足跡を残したことは幸運である。登山に限界はないので、新たな目標をめざすことも可能だが、下手をするとそれだけで人生が終わってしまう。今まで行った登山に満足したわけではないが、これ以上無理をすれば自分の命の保障がないので、数年前から、本格的登山が「本書く的登山」に変わった。最近はもっぱら理屈を言うだけの登山である。
 私が登山の法律問題に関わるようになったのは、登山の商品化に伴う事故と紛争が増えたこと、この問題を扱う法律家が日本にほとんどいなかったことによる。ほとんど文献や資料がないので、すべて自分で考えなければならない。誰もやらないことをすることは、ある種の冒険であり、楽しい。その過程で初めて法律に興味が湧いた。本や雑誌に登山の法律問題について文章を書き、研修会や講演会で登山の法律問題の話をすることは、今では弁護士としての仕事の一部である。
 ハイキングなどは別として、危険を伴う登山では、あえて危険なことを行う点に人間の主体性がある。自分で考え、判断し、決定することが、危険を伴う登山の出発点であり、同時に、民主主義の出発点、人間が人間らしく生きる原点である。
 登山における人間の関係と行動は社会を反映する。日本特有の登山形態であるツアー登山における法的トラブルは、日本の社会の自己決定のあり方がもたらす。この点は他の消費者事件と同じである。主体的に行動する登山者や消費者もいるが、自立した判断のできない登山者、消費者は多い。登山、雇用、教育、福祉、政治、家族関係における人間の主体性と従属性のあり方は、重要な課題である。人間の自立や、自分で考え、決定し、行動することについて、登山関係の本や雑誌に書き、研修会等で話をしている。
 時代と社会が変われば人間も変わる。市民のひとりひとりが賢明な判断をすることが、社会を変え、新しい歴史を作る。そのために弁護士が果たすべき役割は大きい。
(2012年に自由法曹団広島支部が発行する冊子のために書いた原稿。その後その冊子は発行されていない)