2012年

2012年12月27日
法テラス・不正請求
 弁護士の法テラスに対する不正な報酬請求が、4年間で247件、計450万円あったと報道された。1件当たり約1万8000円の不正請求である。最近、何千万円も横領する弁護士が増えているが、若い弁護士は何千万円も預かる事件がない。また、若い弁護士は何十万円もの着手金を依頼者に請求する機会が少ない。そこで、1事件当たり3〜9万円程度の報酬額の刑事国選事件で、1〜2万円程度の水増し請求をするのだろう。あまりにみみっちい話なので、情けなくなる。1、2万円をごまかしたくなるほど、弁護士が精神的に追いつめられているのだろうか。遊興費のために、1、2万円を詐取するとは思えない。事務所の家賃や弁護士会費(月額約5万円)の支払いのためにそのような行動に出たのだろうか。

 激しい競争のもとでは、1人の弁護士が扱う事件数が減るので弁護士費用の過大請求が増える。法テラスの事件は基準に基づいて費用の額をチェックするが、それ以外の事件は自由競争であり、基準がない(債務整理については、日弁連が上限の基準を定めたが、基準の上限は高額である)。アメリカでは、着手金0円、報酬は3〜5割と言われている。かつて、日本では報酬5割は、ヤクザの取り立て屋くらいのものだった。日本の弁護士も、いずれそういう時代が来るのかもしれない。


2012年12月26日
ベトナムで考えたこと
 12月下旬にベトナムに行った。
 ハノイの街中には、大量のバイクが歩行者めがけて押し寄せてくる喧噪があった。
 ベトナム人の所得は多くない。街中に日本のような自動販売機はない。高速道路も少ない。ベトナム人の生活は質素である。
 しかし、街中で、歩道上で暇そうに店番をしている人、客のないガイド、ほとんど売れない商品を歩道に並べている人など、収入は少なくても、仕事をする意欲と活気があった。ベトナムでは、日本の若者のように、「自分に合った仕事がわからない」と悩む人はいないのだろう。どんな仕事でもこなさなければ生きていけないというたくましさを感じた。そこには、金がなくても意欲がある。日本は、「金はあるが意欲がない人」、「金も意欲もない人」が増えている。自分の可能性に挑戦する前に、「自分には金も能力もない」と考える人がいる。このような「希望格差社会」は、社会のシステムとして生み出されている。ベトナムでは貧富の格差が拡大しているが(ただし、日本ほど格差が大きくない)、「希望格差社会」ではないようだ。
 

          


2012年12月25日
弁護士の「就職難」と弁護士の兼業
 司法研修所を終了した者の4人に1人が仕事にありつけないらしい。
 彼らが弁護士志望であることから、弁護士の「就職難」と呼ばれている。
 弁護士は自営業なので、「就職難」という言葉は適切ではない。弁護士は収入がゼロでも開業でき、生活できないだけのことである。個人タクシーは、収入がなくてもタクシー業の看板をかかげることができるのと同じである。

 問題は、法曹資格を活用する仕事につけないという問題である。欧米では、法曹資格者が官庁や企業に就職して、法律の専門家として働いているが、日本ではそれが少ない。法曹の活動場面が少ない状況で、法曹資格者を急増させれば、当然このようなことになる。この点を私は、平成10年以降、いろんな箇所で書いてきた。

 法曹の就業場面が一気に何倍も増えることはない。また、法曹の数は既に増えてしまっており、今後も増え続ける。したがって、法曹は、法曹としての仕事とそれ以外の仕事を兼業することが必要になる。たとえば、教師、不動産業、登記業務、税金、保険業、観光業、農業などとの兼業である。ドイツではパートとして働く弁護士は当たり前になっている。
 そのためには、弁護士の兼業の自由化が必要である。


2012年12月14日
積丹岳事故訴訟の判決(札幌地裁平成24年11月19日判決)について(その2)

 
判決要旨は以下のとおり。
・救助隊として編成された警察官が、職務として救助活動を遂行する場合、適切に遭難者を救助すべき職務上の注意義務がある。
・注意義務の内容は、発見時の時刻、場所、気象、装備、疲労状況などに応じて考える必要がある。
・過失の有無は、その時点において、警察官のとった措置が合理的な選択として相当であったかどうかという観点から考えるべきである。
・遭難者のビバーク地点から搬送中に雪庇を踏み抜いて滑落したことにより、遭難者の容態が悪化した。この時点で、遭難者を崖の上まで引き上げても遭難者が死亡した蓋然性が高かった。
・遭難者のビバーク地点の50メートル離れた場所に崖があった。警察官は事故の2日前に積丹岳で救助訓練を実施しており、現場の地形を認識していた。警察官は進行方向について細心の注意を払うべきであるが、これを怠り、雪庇を踏み抜き、滑落した。
・遭難者にも落ち度があり、8割の過失相殺をした。
・この判決に対し被告側から控訴がなされた。

(コメント)
★救助隊として編成された警察官の注意義務については、ほぼ異論がないと思われる。警職法等の解釈から、このように解釈される。
 救助隊でなくても、警察官が人命救助にあたる場合には、この種の注意義務を負うが、この判決は、救助隊として編成された警察官が、職務として救助活動を遂行する場合について述べている。
 たとえ警察官のミスで事故が起きても、警察官個人が損害賠償責任を負うわけではないので、警察官に過酷だということではない。

★具体的な注意義務違反の有無は事実認定の問題であるが、裁判所が認定した事実関係のもとでは、このような結論になるだろう。現場を見ていないので地形等がよくわからないが、50メートル離れた場所に崖があれば、そこから転落しないように注意を払うべきである。崖のあることを認識していながら、結果的に崖から転落すれば、それはミスということになる。
 強風が吹き荒れ、視界が3、5mであり、ルート、方角の確信がなければ、自重して、動かず、応援を求めるべきだろう。9合目の雪上車まで約800mの距離であり、応援を求めるとか、先行者が赤旗のトレースをつけることが可能である。登ったトレース(30mおきに赤旗を立てていた)を忠実にたどる方法は、時間はかかるが、安全、確実な方法である。救助活動では、すぐれた方法よりも、安全で確実でミスの少ない方法を選択すべきである。そのようにしていれば、ほぼ確実に救助できたと思われる。
 警察官が2日前に積丹岳で救助訓練をしていたことから、地形に対する過信があったのかもしれない。
 警察官はGPSで進路を確定しなかったが、GPSも20〜30m程度の誤差がある(機種や地形にもよる)。

★警察官の交代時にストレッチャーが固定していたハイマツからはずれて落下したが、判決ではこの点に触れていない。その前の時点で遭難者の容態が悪化しているので、それ以降の行動を問題にする必要がなかったのだと思われる。しかし、救助活動中の支点の設置は、バックアップをとるなど細心の注意が必要である。警察官はバックアップをとっていなかった。支点が確実でない場合には、人間の手で確保するなどが必要である。ピッケルをアンカーにすることが多いが、この救助隊はピッケルを持っていなかった!警察官は、直径3〜5cmのハイマツにスリングをとおし、それに「ウェビング」を通してストレッチャーを固定した。「ウェビング」がはずれた可能性がある。通常は、スリングに安全環付カラビナでストレッチャーを固定する。「ウェビング」が何か不明である。
 判決文によれば、スリングとウェビングで2本のハイマツに連結していたが、1本のハイマツからスリングが抜けるとストレッチャーが落下する仕組みになっていた。これは、支点へのスリングのセットの仕方として「絶対にやってはいけない方法」として登山の教科書に載っている仕方である。ロープワークの経験があれば、どんなに疲れていても、この点を間違えることは考えにくい。
 支点崩壊事故については、他の救助訓練中の事故に関する損害賠償判決もあり、絶対にあってはならない。ストレッチャーに手足を固定された遭難者は行動の自由を奪われた状態にある。そのうえで、ストレッチャーを落下されたのでは、逃げようがない。

★この判決は、警職法等に基づく救助義務に関する判決であり、警察官ではない民間人の救助隊員には妥当しない(被告は、警察官の救助活動は、民間の救助隊と変わらないという主張をして、損害賠償責任を争っている)。このケースは救助隊としての注意義務ではなく、人命救助にあたる警察官の注意義務の問題であり、海難救助や災害時にも共通する問題である。
 ボランティアで救助活動にあたる人については、緊急事務管理が問題となり、重大な過失がある場合に責任を負う。つまり、警察官の場合は、過失があれば、警察官個人は責任を負わず、県や道が責任を負い、一般私人の場合は、重大な過失がある場合に個人が責任を負う。たとえば、溺れた人を助ける時、通報を受けてかけつけた警察官や消防職員はそれなりの注義義務を負うが、ボランティアの一般私人の場合は注意義務が軽減される。山岳救助も同じである。
 警察官は個人が責任を負わず、民間人は個人が責任を負うという点では、警察官等の公務員は優遇されている。それだけにその職責は重い。公務員個人の原則無答責があるので警察官や消防職員は安心して危険業務に従事することができると言えなくもない。

★ほとんどの事故に人間のミスが過関係している。この点は救助活動であっても同じである。中にはそれほど非難できないミスもある。どんなに頑張っても、結果的にミスを犯すことがある。この事故で救助にあたった警察官を非難はできない。悪天候の中でよく頑張った。しかし、たとえどんなに頑張ったとしても人を死なせてはいけない。人を死なせることがないような工夫が必要である。
 警察官がストレッチャーを落下させたことなどを見れば、警察官の救助能力はあまり高くなかったようだ。バックアップをとることなく、遭難者を乗せたストレッチャーから手を離すことは、考えただけでぞっとする。クライミングで1つのリングボルトだけを支点にして懸垂下降するようなものである。 
 技術、経験がないにもかかわらず、熱意と自信が大きい場合に事故が起きやすい(この点は登山者も同じである)。救助活動は、気力や頑張りといった精神論ではなく、救助できるだけの技術・経験・組織体制が必要である。判決文を読む限り、余市警察署の救助体制は、装備、技術、経験の点において十分なものではなかった。
 ここで、重要なことは、その救助隊の救助能力に応じた行動をとることである。それ以上の行動をとると事故につながりやすい。
 時々、地方の小さな警察署で冬山救助訓練を実施しているが、レスキューの専門家を招いての訓練ではなく、その警察署だけ実施する自前の訓練が多いようである。例えば、雪山でソリを使って搬出する訓練などを行っている。ソリでの搬出は体力さえあれば、誰でもできると考えるのは素人考えである。ロープワークの基礎を学ぶことが必要である。支点の作り方は、支点を必要とする山岳での経験が必要である。滑落を理解するためには、滑落するような山岳での滑落訓練が必要である。登山の経験・技術がなければ、山岳救助はできない。自己流の訓練で自信をつけることは、かえって危険である。正しい指導のもとに救助訓練をすることが必要である。

★同様の問題は、海難救助や災害時にも生じる。警察官には救助時の注意義務があり、警察は適切な救助活動を行えるように体制を整えることが必要である。
 
★以上は、救助隊のレベルの問題であって、救助にあたった警察官個人を非難すべきではない。国家賠償法では、公務員個人は責任を負わず、役所が責任を負う。
 個人が刑事責任を負うのは、悪質な行為や重大な過失のある場合に限るべきである。山岳事故のほとんどは、それなりに努力したが力不足だったという場合に起きており、刑事責任を問うべきではない。
 同様に、遭難者を非難すべきではない。遭難は人間のミスから起きることが多いが、誰でもミスを犯す。誰もが日常生活のうえでミスを犯しているのだが、都会の安全性に囲まれた生活の中では事故になりにくいだけなのだ。ミスが現実化して事故になるかどうかは、運不運がある。日本には、失敗者を自己責任論で非難する文化があるが、誰もが運が悪ければ(事故、病気、障害、離婚、リストラ、倒産などで)、失敗者になりうるのである。そういう意味で、今の社会は「危険社会」(ウルリヒ・ベック)である。
 ミスを非難するのではなく、事故を防止する工夫が重要である。
 

 「岳人」(東京新聞出版部発行)の3月号で、この判決についてについて取りあげる予定。
 
2012年12月5日
安芸高田市役所で講演
 
安芸高田市で、11月28日と12月5日の2日、市の職員向けに「行政に対する不当要求等」というタイトルで、それぞれ午前、午後の2回、話をした。計4回同じ話をした。11月28日は、講演の後で市長と歓談した。
 
 講演は概ね好評だったようだ。
 通常、弁護士がこの種の話をする場合、どういう刑罰があるかを説明すると思われるが、私は、
@、行政手続のあり方
A、刑罰の適用範囲
B、住民の不満、不当要求の背景
C、精神疾患、人格障害の扱い
D、行政の判断ミスと責任をどのように考えるか
などについて話をした。
 
明らかな違法な要求は対処しやすいが、最近は、違法とはいえない、しつこい要求やクレーマーが多いようだ。

 講演でも若干触れたが、判断の重要性、判断には責任を伴うこと、責任を負うことを恐れてはならないこと、誰でも判断ミスを犯すことがあること、判断ミスを非難すべきではないことなどが重要である。

 
2012年12月4日
積丹岳事故訴訟の判決に対する控訴
 
11月19日の札幌地裁判決に対する控訴がなされた。

  役所の場合、1審判決に対し控訴するのは一般的である。一般に、控訴審で和解するパターンは多い。


2012年11月28日
安芸高田市役所で講演 


2012年11月19日
積丹岳事故訴訟の判決について(その1)
 
平成21年に積丹岳で起きた遭難スノーボーダーの救助活動中の事故について、11月19日、札幌地裁で、警察に1200万円の支払を命じる判決が出た。事故や判決文の詳細はわからないが、この判決について、「意外だ」、「厳しい」という意見が多くインターネットに載っていることは、市民の意識構造を考えるうえで興味深い。

一般論として、以下の点を指摘したい。
遭難はスノーボーダーの自己責任だが、救助活動はスノーボーダーの自己責任ではない。救助活動は救助隊の支配下にある。スノーボーダーは救助隊員のミスを防止しようがない。
・自己責任に基づく自損事故であっても、市民の安全を守ることは国家の使命である。公務員、警察、救助隊に一定の注意義務がある。
事故の原因に関係なく(たとえ自己責任であっても)、助かるべき人が、他人の不注意によって死ぬようなことがあってはならない。自損事故を起こした者は、医師の手術ミスで死んでもよいことにはならないのと同じく、救助活動中にミスで死ぬことはあってはならない。
公務員個人は責任を問われない(道警が責任を負う。国家賠償法では個人は責任を負わないということ)。
・損害賠償責任には、損害の公平な分担という考え方がある。
・「これでは救助活動はできない」という意見があるが、この判決はあくまで警察官の注意義務に関するものであって、一般私人を対象としていない
 ボランティアで救助活動にあたる人については、緊急事務管理の問題であり、重大な過失がある場合に責任を負う。つまり、警察官の場合は、過失があれば、警察官個人は責任を負わず、県や道が責任を負い、一般私人の場合は、重大な過失がある場合に個人責任を負う。
 たとえば、溺れた人を助ける時、通報を受けてかけつけた救助隊員(警察官、消防職員)はそれなりの注義義務を負うが、ボランティアの一般私人の場合は注意義務が軽減される。山岳救助も同じである。
 ボランティアの一般私人は警察官のような組織の保護がないが、よほど重大なミスでもしない限り、責任を負うことはない。他方で、泳げない者は、いくら善意があっても溺れた者を助けるべきではないし、善意に基づいて火災現場に水と間違えて灯油をかけるようなことをしてはならない。いくら善意でも、預かった近所の赤ん坊を死なすことがないように注意すべきである。
 ボランティアの一般私人は、個人の責任を問われない警察官と違って、個人の責任を負うので、ボランティアで山岳救助活動をするつもりのある人は、賠償責任保険に入っておいた方がよい。
 
 警察官や消防職員の注意義務について、警察官や消防職員の立場で考える発想と、救助される一般市民の側で考える発想がある。一般の市民は、警察官や消防職員ではなく、救助を受ける側である。本来、市民は、「ミスなしに救助を受ける」ことを望むはずである。しかし、多くの市民が、「この判決は厳しい」と考えることは、「自分が救助される場合に、ミスがあってもかまわない」と考えるようだ。多くの登山者が、警察官や消防職員の立場でモノを考える傾向があるようだ。登山者は、むしろ、救助される側になる可能性があるのだが、インターネットに掲載された意見は、救助活動を行う登山者が、みずからを警察官や消防職員に一体化させて考えているようだ。おそらく、今回の判決が認定する注意義務が、「救助活動を行う登山者一般」に適用されるという誤解があるからではなかろうか。今回の判決は、警察、消防関係者はショックを受け、登山者側は歓迎するというのが、理解しやすいが、必ずしもそうなっていない。

 「自ら事故を招いた者が損害賠償請求をするのはおかしい」といった感覚が、世論の一部にあるようだ。そこには、ミスを犯した者、失敗した者を非難する文化がある。
 しかし、現在の法制度は、自招危難者でも保護の対象としている。
 一般論としては、自招危難者を保護しない法制度もありうる。国家の役割をどのように考えるか。警察の救助活動を否定する解釈も可能である。一般に、日本の山岳救助能力は、ヨーロッパに較べれば低い。ただし、世界の潮流は、自招危難者を保護することが、より人間的な扱いだとされている。
 自分の落ち度で事故を招いた者でも、その人の立場に立って考えれば、「できるだけ生きたい」と考えるだろう。自分の落ち度で事故を招いたことを後悔するだろう。人間は誰もがミスを犯しながら生きており、ミスを犯したことを責めても仕方がない。誰もが「失敗者」になりうる。自分が、今、「失敗者」でないのは、偶然の結果に過ぎない。たとえ「失敗した者」であっても誰もが幸福に生きることを援助するのが、国家の役割である。


2012年11月17日
奇遇
 京都で甥の結婚式があった。甥は国土交通省に勤務し、毎晩、午前0時を過ぎてからの帰宅生活を送っているようだ。結婚披露宴の時、甥の上司の課長と話をしていたら、私の高校、大学の同級生の森重氏が少し前まで次長をしており、森重氏をよく知っていると言う。何万人も職員のいる国土交通省で、奇遇というほかない。森重氏は、現在は、中部運輸局長をしているのではないかと思う。


2012年11月7日
万里の長城・遭難の分析
 
中国の万里の長城での遭難について、さまざまな指摘がなされている。
 ・ツアー会社が下見をしていなかった。
 ・ツアー会社が中国人ガイドの名前を把握していなかった。
 ・新米社員が旅行を企画したこと
 ・冬山装備をしていなかったこと
   ・テントを持参していなかったこと
  ・通常の観光客が行かないコースだったこと
  ・中国人ガイドにすべてを一任していたこと
 しかし、これらは事故の原因ではない。下見をしていても、悪天候であれば遭難する。現地のガイドに依頼することは、一般的な方法である。日本人ガイドよりも、現地ガイドの方が現地の気候等に通じている。現地ガイドの方がツアー料金が安くなる。消費者は、日本からガイドが同行する高いツアーと現地ガイドの安いツアーのどちらを選択するだろうか。テントがあっても、ガイドが判断ミスをすれば遭難する(トムラウシのケースのように)。
 現在は、規制緩和で登録さえすれば誰でも旅行業ができる。過当競争の結果、ツアー業者は少しでもツアー料金を安くしようとし、このようなツアーになる。現地ガイドの質の低い国があり、現地に不慣れな日本人ガイドとどちらがリスクが低いか。現地を熟知した日本時ガイドがいれば、よいが、そのような日本人ガイドのいない地域でのツアーをどうするのか。そのようなツアーを禁止するという方法もあるが、それでよいのか。
 交通事情の悪い国でのツアーではどうしてもリスクが伴う。整備された車での輸送を求めても、整備された車が皆無の国でのツアーは実施できないのか。リスクのあるツアーを実施しなければ、この種の事故は起きないが、消費者はリスクのあるツアーを求める。
リスクのあるツアーを日本国内並みのレベルで、絶対に事故が起きないように実施することを求めても、山岳地帯や辺境では必ずリスクがある。山岳地帯や辺境に、日本の都会並みの安全性を要求するのは無理である。
 観光庁がツアー業者を事前規制しても、ガイドが判断ミスをすれば事故が起きる。ミスさえなければ、事故が起きないが、人間のミスは確率的に生じる。都会の観光ツアーでは、ガイドのミスが事故につながらないが、辺境の地では事故につながる。今回の中国の大雪が北京市内であれば、遭難しない。都会ではガイドがミスをしても、すぐに救急搬送できる。しかし、辺境の地では、ガイドのミスが遭難をもたらす。
 ガイド間の過剰な競争が事故をもたらしやすい。公的医療保険制度がなく、医師を過剰にし、自由競争に委ねれば、医師労働のダンピングが行われ、安全が損なわれる。現在のツアーガイドの状況はそれと同じである。

 この種の事故についてどのように考えるべきか。
・国の規制の強化。規制緩和の否定。登録制の廃止。許可制とする(高速ツアーバス事業は許可制が採用される予定)。ツアー業者の選別の強化。事故を起こせば、許可の取り消しなど。競争がもっと緩やかになれば、ツアーの安全度が高くなる。
・ツアー業者によるリスクの説明を義務づける。
・ツアーガイドの過剰と自由競争の制限
・消費者がリスクを自覚すること(どのような規制をしても、リスクのあるツアーはリスクが伴う。リスクをゼロにはできない)


2012年11月6日
万里の長城・遭難の取材
 この事故について、雑誌社から取材があった。この雑誌は、後で、「フライデー」であることがわかった。他にも、マスコミから問い合わせあり。


2012年11月5日
中国の万里の長城で遭難
 
中国の万里の長城で遭難し、日本人3人が死亡した。
 
2009年のトムラウシで8人が死亡した事故と同じ旅行会社のツアーである。
  リスクを伴う観光ツアーには、ツアー登山と同じ構造がある。この旅行会社は、リスクを伴うツアーを、通常の観光旅行と同じスタイルで行うところに問題がある。
 ツアーの低価格競争のもとでは、管理費用をかけないことで、低価格を実現しようとする。国は、罰則を強化することで、この種の事故を防ごうとするが、それは無理である。シンドラー社のエレベーター事故と同じく、この種の事故は懲りることなく繰り返される。
 この種のツアーに対する考え方としては、以下の方法がある。
  @リスクを伴うツアーを実施しない。
  Aツアーのリスクを承認したうえで、ツアーに参加する。
 @は、ツアー登山や今回のような整備されていない地域でのツアーを実施しない方法である。しかし、そこまでの規制は無理だろう。
 リスクを伴うツアーを実施する限り、事故は確率の問題でしかない。もちろん、安全対策は重要であるが、航空機事故や交通事故が絶対になくならないのと同様に、リスクの高いツアーを行っていれば、いつかは事故が起きる。中国では、50年ぶりの大雪でなくても、暴動や山賊の襲撃、転落、転倒、疲労、交通事故などのリスクがある。どこかの国では、現地ガイドやタクシー運転手の強盗などがある。制裁を科すことで、人間のミスを無くする方法も、もっとも愚劣な方法であり、実効性に乏しい。
 そこで、Aの方法が必要になる。リスクを伴うツアーでは、旅行会社がリスクをきちんと説明することが必要である。旅行会社が、「万一の場合には命を落とすかもしれません」とリスクをきちんと説明すれば、参加する日本人はぐっと減るはずだ。
 簡単に、リスクのあるツアーを、「安全に」楽しめるという勧誘方法に問題がある。


2012年11月1日
福岡の弁護士逮捕
 福岡の弁護士が詐欺で逮捕された。4000万円以上の金を詐取したらしい。
 弁護士が増加すれば、経済的に行き詰まる弁護士が増える。そのような弁護士が起こすこの種の事件が増えるのは当然だろう。個人的にはほとんど驚かない。広島でも、何千万円も横領した弁護士がいる。岡山では、被疑者との接見回数を水増しして、20〜30万円くらいを不正取得した弁護士がいる。贅沢をするために弁護士が詐欺、横領事件を起こすのではなく、もともと堅実だった弁護士が、事務所の家賃、生活費、住宅ローンの支払いなどのためにせっぱ詰まって事件を起こしている。

 問題は、弁護士の詐欺横領事件ではない。詐欺横領事件は、すべての弁護士が起こすわけではないので、運の悪い限られた市民が被害を受けるだけである。弁護士に当たりはずれがある。
 問題は、詐欺横領事件にならないレベルの報酬の水増し請求や不当請求である。詐欺ではないが、それに近い商法である。アメリカのように3〜5割の報酬をとる弁護士や、医師の過剰診療、過剰検査のようなことが弁護士の世界ですでに起きている。例えば、20万円でできる事件に付加価値やオプションを付けて、40万の弁護士費用で受任するなど。付加価値やオプションを付けることは、競争社会での商売の一般的な手法である。弁護士の過剰相談、無駄な相談や交渉、不当訴訟、不当に高額な報酬、費用の水増しは、今後、確実に増える。無駄な裁判を起こし、裁判を引き延ばして、弁護士費用を増加させるなど。無用の接見を繰り返せば、税金から支出される被疑者弁護人費用が増える。法テラスの相談基準を上回っている相談者の所得をごまかして、法律扶助相談料を税金から支出させる。
 その被害を受けるのは特定の市民ではなく、一般市民全体である。もはや、「弁護士に当たりはずれがある」と悠長なことを言っている段階ではない。
 日本では、欧米のように法曹資格者の就業先が多様ではないので、司法試験に受かった者のほとんどが弁護士になるしかない。「でもしか弁護士」の数が増えれば、それに応じた数の紛争がなければ、弁護士は食って行けない。弁護士は、生きていくために弁護士の数に応じた紛争を作り出すしかない。しかし、不景気の影響で訴訟件数は減少しており、今後も訴訟事件は増えない。日本では、弁護士の数が増えても、アメリカのような訴訟社会にならない。訴訟とは別の場面で、どこかで錬金術を考えるほかない。弁護士は錬金術に、その優秀な(実態は、そうでもないが)頭脳を向け、かくして錬金術の競演が始まる。
 弁護士が経済的に困窮すれば、一般市民をゴマカスのはたやすい。零細事業主が経済的に困窮して金をごまかせばすぐに発覚するが、弁護士がこれをしても、まずバレない。弁護士には専門性と自由裁量という隠れ蓑がある。弁護士が経済的に困窮すればろくなことは起きない。
 
 弁護士の不祥事に対し罰則を科すとか、倫理規定を強化するという方法がとられる。しかし、それでは不祥事はなくならない。罰則を重くすれば交通事故が減るかというと、そうではないのと同じである。

 将来、弁護士はあまり信用できない職種になる。多くの人は、「どうせ弁護士に依頼しないから、関係ない」と考える。それなら、何のために弁護士を増やすのか。弁護士の信用低下を便利に感じる階層が存在する。
 将来、「こんな社会に誰がしたのか」と市民が憤ることになる。これが社会問題化する頃には、私は、もう弁護士を引退しているので関係ないが、多くの人が困るのだろう。


2012年10月27日
大阪府勤労者山岳連盟で講演(大阪市)
 大阪市で「登山と法律」のタイトルで講演。参加者110名で盛況だった。
  最近は、登山学校、登山教室、公開登山などが多く、さまざまな問題が生じている。
  この講習会については、「登山時報」(日本勤労者山岳連盟発行)455号に記事が掲載されている。














2012年9月
「岳人」来年も連載
 雑誌「岳人」(東京新聞出版局)の連載は今年で終わる予定だったが、編集部の依頼で来年も継続することになった。書くネタがあまりないのだが、どうしたものか・・・・


2012年8月26日

白馬岳ガイド登山事故の損害賠償賞訴訟の判決
 2006年に白馬岳でのガイド登山で4人の客が死亡した事故について、平成24年7月20日に、6140万円を命じる判決が出た。
 これについて、感想は以下のとおり。
@、ガイドに損害賠償責任のあることは、最初から明らかな事案である。通常は、保険から損害賠償金が支払われ、示談する。この種の裁判が少ないのはそのためである。4遺族のうち、民事裁判を起こしたのは1遺族である。
 なぜ、示談ができず、訴訟になったのか、それが不可解である。
 保険会社が支払を拒否したとすれば、保険会社の判断ミスである。裁判になれば、裁判費用が無駄になる。
A、日本では、危険の引き受け法理は認められず、リスクを承認して行動する文化が稀薄であることを、ガイドも保険会社も認識すべいである。
B、訴訟になった場合でも、通常は、裁判の中で和解がなされる。なぜ、和解が成立しなかったのか、不思議である。
C、ガイド登山に関する判決は日本初だというコメントが新聞に載っていたが、それは間違いである。ガイド登山に関する判決としては、静岡地裁昭和58年12月9日判決がある。また、ガイド登山に関する裁判としては、羊蹄山事故に関する民事訴訟がある(和解成立)。判例集に搭載されない判決は多く、訴訟上の和解は記録に残らない。ガイド登山に関する裁判は、必ずしも珍しいものではない。
D、ガイド登山中の事故は、不可抗力や客のミスに基づくものでない限り、ガイドに民事責任が生じることが多い。
E、刑事事件については、起訴されておらず、公訴時効期間は5年であり、既に公訴時効が成立している。ガイドの落ち度が刑事事件として処分されず、民事裁判で有責となることは珍しくないが、一般の人に理解されにくい。

 この判決に対し被告側から控訴がなされたそうだが、控訴審での和解狙いか?

2012年8月14日
那智の滝騒動に見る日本の法文化
 7月16日の新聞に、和歌山県那智勝浦町にある「那智の滝」でクライミングをしたクライマー3人が軽犯罪法違反で現行犯逮捕されたという記事が載っていた。ある新聞の記事の見出しは、「コラ!那智の滝登り逮捕」となっていた。これを読めば、信仰の対象となっている滝を登ったことが逮捕の理由だと思う人が多いかもしれない。日本全国、クライマー批判の世論で満ちている。 
 しかし、軽犯罪法違反事件は原則として現行犯逮捕できない。
軽犯罪法1条32号は、「入ることを禁じた場所または他人の田畑に正当な理由がなく入る」行為を取り締まり、信仰の対象物を冒涜する行為を取り締まるわけではない。 
 軽犯罪法違反事件では、法律上、住居不定者、氏名不詳者、逃亡の恐れがある場合でなければ、現行犯逮捕ができない。
 上記事件では、警察は、3名のクライマーが住居不明、氏名不詳という理由で現行犯逮捕したものと思われる。多くの場合、当初、警察官にとって現行犯人は「住居不明、氏名不詳」である。しかし、警察官が尋ねればすぐに住所、氏名がわかる場合は、「住居不明、氏名不詳」とはいえない。軽犯罪法違反事件で、逃亡の恐れがなく、違反者の住所、氏名が簡単に判明する場合に、現行犯逮捕することは違法である。  
 軽犯罪法違反事件は、その処分が非常に軽く、刑罰によって行為を抑止する効果をあまり期待できない。しかし、違反者を現行犯逮捕し、マスコミが大きく報道すれば、社会的な制裁を科すことができる。それを意図して、警察は事件情報をマスコミに提供したり、しなかったりする。そして、マスコミは記事にするかどうかの選択をし、それによって世論が操作される。

 日本の山、滝、岩壁は信仰の対象になっているものが多く、宗教的に神聖とされているものは登るべきではない。前記のクライマーの行為が非難を受けるのは当然である。しかし、それは登山倫理の問題であって、犯罪捜査のために現行犯逮捕が必要かどうかはまったく別の問題である。

 日本では、世論の非難が強い場合に逮捕する傾向があるが、
それは「刑事手続」ではなく、ケシカランから捕まえるという「江戸時代のお奉行」的な発想である。オリンピックを政治的に利用した韓国のサッカー選手と同レベルの法文化である。日本は、まだ、先進国の仲間入りができそうもない。 後日、軽犯罪法違反と礼拝所不敬罪違反で、送検されたとの報道があった。しかし、礼拝所不敬罪は、無理にとってつけたような印象を受ける。自然の滝は礼拝所とはいえない。クライマーに不敬行為の故意があるかどうかも疑問がある。信仰登山に見られるように、神聖な山に登ること自体は不敬行為ではない。なお、某テレビ局が、このクライミングを撮影して番組にしようとしていたらしいが、テレビ局も「不敬」の意識がなかったのだろう。
 
 自然の滝は河川の一部であり、河川は自治体や国が管理する。滝以外の周辺の土地や施設は神社が管理できるが、滝そのものは公有物である。神社が公有物をご神体にしたとしても、神社が独占できるものではない。
 神社の宮司の被害感情は当然だが、世論には神社とは別の冷静さが求められる。
 世界遺産かどうかは、軽犯罪法違反や礼拝所不敬罪とは関係がない。「世界遺産は登ってはいけない」ということではない。屋久島などは、多くの者が登り、クライミングをしている。

 後日、尖閣諸島に日本人が無許可で立ち入る軽犯罪法違反事件があったが、事件の被疑者が否認したにも関わらず、現行犯逮捕もされず、事件扱いすらう受けなかった。法律の運用が世論次第だというのでは、法律や罪刑法定主義は不要である。「刑法は、「ある行為が犯罪になるかどうかは、世論が決める」という1条で足りることになる。


2012年8月
安芸高田市に転居

 広島市から安芸高田市に転居した。
 薪ストーブ用の薪作り、野菜作り、梯子での柚取り(庭に大きな柚の木がある)、畑作り(雑種地に石が多く、石の除去が必要)、草刈、水撒き、芝生の手入れ、犬の散歩、日曜大工など、多忙な日々。


2012年5月31日
弁護士会・過疎地型法律法律相談センターの実質的廃止

 広島弁護士会の「備北法律相談センター」は、今日も相談がゼロだった。最近は、毎回、相談がほとんどない。この過疎地型法律相談センターは、弁護士が足りないということで設置したのだが、設置当初から相談が少なかった。最近は相談がほとんどない。
 本来、廃止すべきだが、一応、形だけは残すこととし、「待機制」で存続させることになった。名前だけは残したいらしい。
 面白いのは、連絡先の「備北法律相談センター」の市外局番の0824を残すために、電話機を三次市内に置いて広島市にある弁護士会(市街局番082)に転送する点である。どうしても、三次市内に備北法律相談センターがあるように見せかけたいらしい。これは、ある種のゴマカシである。弁護士会がそんなことをしていいの?という気がする。

 待機制の場合、弁護士会を通して相談を申し込むと、相談料は30分で5250円である。他方、弁護士会を通さずに私の事務所に相談を申し込むと、相談料は30分で3000円である。この点を相談者に知らせることは、弁護士会の業務の業務妨害になりそうだ。しかし、いつかは相談者に説明しなければならないだろう・・・・


2012年5月27日
日本山岳サーチ・アンド・レスキュー研究機構(日本山岳SAR研究機構)総会(神戸市)

 神戸の登山研修所で、山岳関係者が集まり、会議。事故調査法、事故マップの作成などについて、議論がなされた。
 朝、八時に家を出て、午後10時に帰宅。2時間の歩行と30分の自転車。疲れた。

 
2012年5月12日
「相談料無料」、「着手金0円」の怪

 最近、「相談料無料」や「着手金0円」の宣伝をする法律事務所が増えている。
 少し考えればわかることだが、「相談料無料」や「着手金0円」だけでは、弁護士は食っていけない。どこの法律事務所でも、通常、月額100万円程度の家賃、事務員の給料、光熱費、書籍費、会費、交通費、通信費、リース料等がかかる。
 病院や医院が初診料を無料にしないのはなぜか。医療保険制度がそれを禁止しているが、規制緩和すれば初診料を無料にすることは可能である。しかし、もし、それを実施すれば、初診料は無料でも、検査費用、注射料、薬代、手術費用等で、「元をとる」だろう。医師の競争を激化させ、診察費を自由競争に委ねれば、必ず、「診察料無料」、「薬代50パーセントオフ」、「注射代無料月間キャンペーン」、「先着10名様手術代無料」などの宣伝が生じる。それを認めないのは、弊害があまりにも大きいからである。弁護士の業界では、既にに、「相談料無料月間キャンペーン」、「着手金100パーセントオフ」などの広告がなされており、弁護士と依頼者の間の費用をめぐるトラブルが絶えない。
 「相談料無料」や「着手金0円」の広告は、別の場面で「元をとる」ことが予定されている。

 「物干し竿商法」は、物干し竿を1本1000円くらいで販売する商法である。もちろん、物干し竿を1本1000円で販売したのでは大赤字である。この商法は、「物干し竿を1本1000円」という宣伝で客をつかまえて、物干し台を1台10万円で販売したり、床下換気扇工事、シロアリ駆除などの勧誘をすることが予定されている。「物干し竿を1本1000円」という宣伝で客をつかまえた後、「物干し台を買ってくれなければ帰らない」と言って強引に物干し台を買わせる商売をする業者がいる。私は、逮捕された業者の弁護人になったことが何回かある(特定商取引法違反や恐喝罪。複数の業者)。彼らは、「物干し竿を本気で1本1000円で売るバカはいない」、「そんなことは少し考えれば誰でもわかるはずだ」、「我々も妻子の生活がかかっており、必死なのだ」と開き直る。

 「相談料無料」、「着手金0円」などの宣伝文句が、それだけで終わるはずがないことを、相談者側もわかっているはずだ、と弁護士は考えるのだろう。タダを装って勧誘し、後で費用をガッポリ取るのは詐欺的である。しかし、市民の側では、この点に気づきにくい。法律事務所での法テラスの無料相談、司法支援制度、自治体等が実施する無料相談、弁護士会などが実施する「○○110番」などの無料相談などと、「初回相談料無料」、「着手金0円」の宣伝の制度の違いがわかりにくい。そのため、市民は、弁護士が「無償で事件を引き受けて、処理してくれる」と誤解しやすい。自営業者である弁護士の業務は、「有償」が原則である。この点は、自営業者ならすぐにわかるが、サラリーマンや主婦は、弁護士がどのようにして事務所を維持しているかを理解できない(この点は、裁判官も同じである)。法テラスの無料相談、司法支援制度、自治体等の無料相談、弁護士会の無料相談などは、いずれも、それらの団体が弁護士に費用を支払っており、弁護士にとって無償ではない。しかし、その点は市民には「見えない」。
 「初回相談料無料」や「着手金0円」の広告が氾濫する中で、どの弁護士を選択するかは、市民の「自己責任」に委ねられているのが現状である。

 どういう制度やシステムを作るのかを考えることが重要である。そのためには、「理念」が重要である。それは、philosophyと言ってもよい。成り行きにまかせて、自由放任し、弊害が生じてからあわてて規制を考えるというのが、日本の行政である。その結果、夜行便バスツアー事故などが起きる。

 日本では、弁護士の労働は、まともな対価を得ることができないか、暴利をむさぼるかのいずれに偏っており、正業としてまともに評価されていない。弁護士業がまともな正業として社会的に認められることが必要である。


2012年4月29日
ツアーバス事故

 4月29日に、関越自動車道で、ツアーバス事故があり、7人死亡、39人負傷した。運転手の居眠りが原因のようである。この種の事故は珍しくない。
 この事故について、「運転手は居眠りをしてはいけない」ですませてしまえば、事故の再発を防げない。
 格安運賃をめぐり、バス会社の競争が激しい。自由競争に委ねるだけでは、バス会社は人件費を削り、過密スケジュールを組み、事故が繰り返しpきる。
 バス会社の規制、すなわち、自由競争を制限しなければ、事故は防げない。
 バス会社や旅行会社は、競争の結果、社員の応対の愛想のよさ、親切な対応、格安料金、目的地までのスピードアップなどの効用をもたらすが、過密スケジュール、過労運転による安全面の軽視という代償をもたらす。もし、安全面を重視すれば、格安料金、目的地までのスピードアップは無理である。なぜなら、交代の運転手を用意して、運転手に休養を十分に与え、制限速度を守った余裕のある運行をすることは、格安料金、目的地までのスピードアップと相容れないからである。

 司法や教育の世界でも、自由競争に委ねれば、一部の部門の価格が下がり、表面的にはサービスがよく見えるようにするが、実態は、粗悪品の大量供給をもたらす。


2012年4月21日
法科大学院の失敗
 総務省は20日午前、司法試験合格者数を「年3000人程度」に引き上げるとの政府の目標に関し、「目標と実績の乖離(かいり)が大きく、近い将来の達成は困難」として、引き下げを含め見直しを検討するよう、法務、文部科学両省に勧告した。法科大学院については定員削減や統廃合の検討も求めた。

 法科大学院の受験者数は平成23年が7829人であり、10年前と較べると85パーセント減となっている。法科大学院への入学者数は3000人以下になった。もし、これで、司法試験合格者数3000人にすれば、全員合格になるが、法曹のレベルは悲惨なものとなるだろう。

 私は、平成8年に弁護士過疎地で開業して以降、以下の点をいろんなところで書いてきた。
@、弁護士過疎地は、司法を利用しにくいことの結果であって、司法が利用しやすくなれば、弁護士過疎地の弁護士の数も増える。
A、弁護士過疎地の解消のためには、司法の利用しやすさが必要である。法律扶助制度の拡充が不可欠である。
B、弁護士の総数が増え、都会で弁護士が過剰になれば、多少は弁護士過疎地に流れてくるが、そういう手法は弊害が大きい。
C、弁護士過疎地でも、従前から裕福な階層は都会の弁護士に依頼しており、弁護士不足ははない。都会でも、金のない階層は弁護士に依頼できず、弁護過疎である。弁護過疎は、地方でも都会でも生じている。弁護士が増えた現在でも、金のない者にとって弁護士は利しにくい(ただし、現在、生活保護受給者は弁護士費用が無料なので、弁護士に気軽に依頼できる)。
 弁護過疎は、すぐ近くに弁護士がいても弁護士に依頼できない状況であり、司法過疎は、裁判所が近くにあっても、裁判所が利用されない状況をさす。
D、弁護士過剰の弊害は、裕福な階層ではなく、庶民を直撃する。過剰となった弁護士は、庶民を食い物にする。
 
 以上のことは、田舎で3、4年弁護士をすれば、誰でもすぐにわかることである。しかし、都会のコンクリートの部屋の中で理屈で考えたのではわからない。百聞は一見に如かず。

 法科大学院は日本の失敗政策のひとつである。税金の無駄遣い。
 日本の失敗政策は、大学の濫設、大学院の濫設、博士課程の濫設、歯学部の濫設、無駄な農道や林道、売れない工業団地の造成、利用者の少ない空港建設、公務員の天下り天国、不安定雇用の推進、格差社会の推進、教育の産業化など・・・・

 アメリカの大学には法学部がなく、法律を学ぶのはロースクールだけである。ドイツにはロースクールがない。日本の法科大学院は、アメリカとドイツの制度を足して2で割るのではなく、2つの国の制度を足した制度であうる。なぜ、大学法学部とロ−スクールの両方が必要だったのか。それは、大学を濫設した結果、大学が機能しなくなったからである。その問題を解決することなく、次々と制度を加算していく方法は、要するに国民にできるだけ金を使わせる制度である。法科大学院を濫設して、法科大学院が意味のないものになれば、さらに法科大学院に上級課程を設けるとか、さらに新たな資格を作ることが生じる。弁護士が増えすぎれば、弁護士の資格が意味をなさなくなる。その場合には、弁護士の中に格差を設けたり、あらたな資格制度を設ける必要が出てくる。たとえば、弁護士の数が増えれば、有象無象の弁護士が多くなり、経験のない弁護士が法廷に立ち、弊害が生じる。そこで、法廷弁護士という資格を作り、一定の要件を満たして初めて弁護士が法廷に立てるようにするとか・・・・・。弁護士補と正弁護士の資格を作るとか。専門分野ごとに弁護士の資格を分けるなど。
 資格、大学、大学院の濫設で教育産業が潤い、国民は無断な出費を強いられる。


2013年3月
庄原市バイオマス検証委員会の委員(委員長)に就任
 この種の検証委員の就任は2度目である。


2012年3月24日
平成21年4月北アルプス鳴沢岳遭難事故調査報告書について
 平成21年4月26日に、北アルプス鳴沢岳で京都府立大学山岳部の3人が遭難した。リーダーは、京都府立大学山岳部の職員で山岳部コーチの伊藤達夫氏だった。伊藤達夫氏は、積雪期の黒部山域の登山で有名な登山家だった。
 この遭難事故調査報告書を読むと、伊藤達夫氏が大学山岳部関係者からひどく嫌われていることがよくわかる。通常、この種の報告書は、主観的な判断を避け、どうでもよいような月並みな報告に終始することが多いが、この報告書にはかなり大胆な記述があり、非常に奇妙かつ興味深い報告書である。

事故の原因 
 この報告書は、遭難の原因として、リーダーの判断ミス、伊藤達夫氏の人格、伊藤達夫氏の登山思想などをあげている。しかし、事故の原因を伊藤達夫氏の個人的な資質に帰することは正しくない。それでは何も問題を解決できない。事故の原因は、リーダーを含めて全員が判断を誤ったことにある。
 伊藤氏以外のメンバーは学生とはいえ、既に成人した大人である(1人は25歳)。それぞれが登山の危険性を理解し、自分で危険に対処しなければならない。どんなに登山の力の差があったとしても、自分自身の命を守ることに関しては、対等である。
 伊藤氏は大学の職員(教官)であり、伊藤氏の責任は大学の責任になる。伊藤氏を非難することは大学を非難することになる。大学は、大学職員・理事の行為を通して責任を負う。この報告書は、不祥事を起こした会社が、不祥事を起こした会社幹部を激しく非難しているような印象を受ける。伊藤氏に事故の過失があったとすれば、大学は2学生の遺族に対し、国家賠償法上の責任を負う。しかし、登山のメンバーは判断力のある大人であり、「伊藤氏のコーチとしての行為=大学の責任」を問うべきではない。
 この報告書は、GPSの奇跡から伊藤氏が隊員を「置き去りにした」と判断し、そのために2人が遭難したと考えている。GPSの奇跡から隊員が離ればなれになったことがわかるが、それが遭難の原因なのか、遭難状態の結果として離ればなれになったのか不明である。
 2学生が遭難した時、伊藤氏と他の2人は100〜200mくらい離れていた。メンバーがバラバラになった中で、2学生が動けなくなり、あるいは滑落した。伊藤氏は2学生の遭難の事実を知ることはなかった。伊藤氏が雪洞を掘った後に伊藤氏も死亡している。伊藤氏が雪洞を掘ったのが、26日午後4時以降であり、2学生の死亡ないし、滑落時刻は、午後4時頃である。
 事故後に事故を分析する場合、「後づけの思考」が働く。事故後に考える場合、人間は理屈で考えるが、事故当時の人間は理屈では行動しない。事故当時の不合理な人間行動は、事故後にどのようにでも解釈することができる。理屈をもとに推論に推論を重ねれば、的外れの議論になりやすい。この報告書には、「想像に難くない」、「可能性がある」といった表現がいたる所にある。想像や可能性に基づいて記述すれば、切りがない。推測してはいけないということはないが、事実と推測を明確に区別する必要がある。推測に基づいて事故の原因を考えるべきではない。
 伊藤氏が2人よりも前を先行したことは間違いないが、せいぜい100〜200mくらいの距離しか離れていない。伊藤氏のペースが遅いのは、後続する学生の歩くペースが遅かったせいか、悪天候のせいか、伊藤氏自身が疲労困憊していたためかは、わからない。
 気象データからすれば、稜線では、事故当時猛烈な暴風雪が吹き荒れていたことが明らかである。風速20m前後、気温マイナス10〜15度くらい、体感温度はマイナス30度くらいだっただろう。この中を彼らは雨ガッパで行動していた。視界もきかなかったはずだ。歩行することさえ困難な暴風雪であれば、いつの間にか100mくらいの間隔があいてしまうことがある。自分のことで精一杯であれば、パーティ−は離散しやすい。そういう中で、動かないことは死を意味する。伊藤氏が、2人を待った形跡がないが、「待つことができなかった」と見ることも可能である。伊藤氏もその後、凍死しているので、2人を救助する余力はなかったはずだ。
 伊藤氏が先行したことが遭難の原因ではなく、むしろ、メンバーがバラバラになったことは、遭難状態の結果と見るべきではないか。この場合には伊藤氏に「置き去り」の「故意」がない。日常用語の「置き去り」は過失に基づく場合は含まない。意図的な置き去りと、結果的に生じた置き去り状態を区別する必要がある。意図しない置き去り状況はヒマラヤ登山などでしばしば生じるが、都会で暮らす一般市民には理解しにくい。
 視界が効かず、2学生がすぐ後をついてきていると考えている間に間隔があいてしまい、伊藤氏が待つことは死をもたらす状況であり、伊藤氏は少しでも動くほかなかったという推測がもっとも現実的ではないか。伊藤氏は自分が生きのびるために避難場所を探すのに必死であり、いつの間にか間隔があいてしまったのではないか。遭難状態でパーティーが離散したとしても、非難できないだろう。
 のみならず、置き去りの有無はこの遭難と因果関係がない。伊藤氏自身が凍死しているので、結果からいえば、「置き去り」があってもなくても、3人は死亡した。伊藤氏が遅れた2人と一緒に行動をしたとしても、結果は同じであり、伊藤氏はもっと早く凍死した。伊藤氏の「置き去り」の有無に関係なく、3人は遭難し、全員死亡していた。
 伊藤氏が雪洞の中で凍死しているので、報告書は、「雪洞を掘るくらいの余力があれば、2人を待つべきだった」と感じたのかもしれない。しかし、仮に、3人が一緒だったとしても、3人が一緒に行動して、助かる方法はなかった。3人が安全に下山可能な時点までは危険を回避する手段があったが、その時点を徒過すれば、生存の可能性はなかった。危機回避時点を過ぎてしまえば、あと戻りが不可能になり、一刻も早く危険地帯を通過するしかない。そのように突っ込んだ結果が全員死亡である。伊藤氏にかなり余力があり、伊藤氏が稜線で2人を救助することが可能だったのに、それをすることなく、先に下山したというのであれば別だが、伊藤氏も凍死するような状況では、伊藤氏が2人に付きそうことは無意味である。もはや、どうにもならない状況なのだ。
 一般に、暴風雪の荒れ狂う稜線で動けなくなった人を救助することは、ほとんど不可能である。ヒマラヤなどで動けなくなった者を放置して、自分だけテントに帰り着いた登山家が、非難を受けることがあるが、遭難者を1人で救助することはほとんど不可能である。まして、暴風雪の中ではそこにとどまることは死を意味する。一緒に寄り添って、一緒に死ねば美談になるが、それは小説の中だけにしておくべきである。極めて困難な状況では、登山家の「置き去り」、「見捨てる」行動を非難できないことが多い。ただし、この事故は「置き去り」かどうかは不明である。
 伊藤氏が2学生と同じ場所で死亡していれば、報告書は「納得」するのだろうか。こんな議論をしなければならないことは、ひどく気分が悪い。
 一般的には、過酷な気象状況が3人の離散をもたらし、過酷な気象状況が3人を死に至らせたと考えるのが素直である。「置き去り」の有無は2人の死亡と因果関係がないので、詮索してみても意味がない。報告書が、「置き去り」の有無にひどくこだわるのは、何故なのか、その方が気になる。
 メンバーが一緒に行動することが望ましいが、全員が遭難するような状況では、3人一緒に行動してもしなくても、3人が遭難するのであれば、結果は同じである。そういう状況は「手遅れ」であり、そこに至る前に賢明に対処することが必要だった。

登山思想と事故の関係
 報告書は伊藤氏の登山思想が事故の要因であると考えている。しかし、遭難当時の伊藤氏の行動は世界の登山思潮とは関係がない。ヒマラヤでのアルパインスタイルでのスピード登山や、ミックス壁での高難度のクライミング中の事故であれば、登山スタイルと事故との相関関係があるが、この事故は残雪期の縦走登山中の事故であり、登山のスタイルは古典的である。伊藤氏はシュラフを持参せず(他の2人はシュラフ持参)、かなり軽量での登山である。そのようなスタイルはヨーロッパでは一般的な古典的なアルパインスタイルである。そのようなスタイルは重装備での大学山岳部のスタイルとは異なるが、たとえ、伊藤氏らが重装備で登山をしたとしても、このような悪天候であれば、早い段階で下山しない限り遭難しただろう。
 報告書は、登山思想について書いた後に、「伊藤達夫の行動にもこれに類する行動パターンが働いていたとすれば」と仮定し、、仮定事実を前提に推論を続ける。仮定を前提に推論を重ねても、あまり意味がない。
 極めて厳しい極限状態に置かれた時、人間は思想や理論ではなく、人間の本能に基づいて行動する。遭難当時の伊藤氏の行動を支配したものは理屈や思想ではなく、本能だろう。極限状態では、わがままな人間はわがままになり、勇敢な人間は勇敢に、やさしい人間はやさしくなり、弱い人間はもっと弱くなる。人間の気質は極限状態でもっともよくわかるが、それらを問題にしても仕方がない。人間の気質はさまざまである。極限状態では冷静な判断は、難しい。そういう状態になる前に、理性が機能する段階で、危険を回避することが重要である。
 この事故のケースでは、登山思想に関係なく、判断ミスをすれば、どんなパーティーでも遭難していただろう。過去の大学山岳部の多くの事故でも、下山の決定が遅れたために遭難したケースは多い。

伊藤達夫氏の人格
 報告書は、伊藤氏を「独善的な登山家」、「極めて自己中心的な人柄」などと記述しているが、伊藤氏の性格は重要ではない。遭難の原因を登山者の人格に帰してしまうと、事故は、人格を変えない限り、不可避だったことになりかねない。「ああいう性格の人だから事故が起きた」という論法は、「別の人間であれば、事故は起きない」という結論になり、組織や体制を守るのに便利である。
 伊藤氏が「独善的」かどうかは知らないが、一般に、登山家には自己中心的な者が多い。仕事や家庭を犠牲にして登山をすることは、家族や会社から見れば、自己中心的に見られやすい。ヒマラヤの未踏峰に初登頂したところで、関心のない人にとっては、無意味であり、周囲には「迷惑」を受ける人が必ずいる。登山至上主義的な考え方は、社会からは独善的だと見られやすい。同様に、仕事中心の会社人間も、家族から見れば「独善的」にみられやすい。植村直己などは、日本ではまともに働いたことがなく、仮に会社勤めをしても、日本の会社文化に合わなかっただろう。その点、伊藤氏は仕事をし、学生との人間関係もあり、他の多くの変わった登山家に較べれば、社会性のある良識的な人間といえる。
 この事故に関する限り、伊藤氏の行動のどこが「独善的」なのか、わからない。「置き去り」と「独善的」は意味が異なる。自分の命が危機に瀕した時に、「自己中心的」であると非難することはできない。
 この報告書は、事故の検証報告ではなく、伊藤氏の思想や人格に関する「意見書」になっているが、登山をする者はそのような意見書に興味はない。

事故から考えるべきこと 
 この事故は3人の判断ミスによる事故である。伊藤氏がパーティーの行動を事実上決定していたとしても、他の2人がそれを受け入れた以上、どうにもならない。悪天候が予想されたが、学生は登山への参加を辞退しなかった。2人は伊藤氏の登山スタイルを理解し、それに共感を覚えたからこそ、登山に参加したのだろう。途中で引き返さなかった点についても、伊藤氏だけを非難してもしかたない。3人全員が引き返す判断をしなかったということである。登山に限らず、自分の命は自分で守るしかない。伊藤氏をあてにしても、伊藤氏自身が凍死している。
 この事故は2009年のトムラウシの事故と似ているが、トムラウシの事故は引率登山であり、鳴沢岳の事故は自主登山である。

 遭難を防止するためには、個人の資質や性格に関係なく、問題を考える必要がある。
 「置き去り」の有無に関係なく、途中で下山しない限り、全員が遭難していただろう。
 登山思想は関係ない。
 伊藤氏には、過去の経験から過信があったのではないか。
 他の2人には、伊藤氏に依存する心理があったのだろう。あるいは、自分たちの力を過信しすぎたのか。
 仮に、伊藤氏の単独登山であれば、早いペースで行動でき、遭難しなかったかもしれない。
 もし、伊藤氏が一緒でなければ、2人は登山を中止したかもしれない。
  もし、これが、一般的な社会人山岳会の山行であれば、メンバーで話し合って集団で下山を決定できたかもしれない。大学山岳部という狭い世界が、思考の視野を狭くすることがある。大学山岳部の上下関係が、判断を誤らせることがある。一般に登山家の世界は一般社会から見れば特異だが、その中でも大学山岳部は特異である。ただし、社会人山岳会でも、1人の権威的なリーダーと2人の従属者という構成のパーティーはありうる。このようなパーティーでは、権威的なリーダーがすべて決定し、リーダーの判断が間違っている場合に修正することが難しい。このような構成のパーティーの安全度は低い。このようなパーティー形態を避けるべきである。
 アルパインスタイルの軽量速攻登山ではスピードが命である。今回の登山では、3人がもっと体力があれば、登行ペースが早く、天候悪化前に稜線を通過できただろう。結果から言えば、このパーティーは登行速度が遅すぎた。天候悪化前に稜線通過無理であれば、さっさと下山するのがアルパインスタイルである。「行くか下山するか」の判断が重要だが、伊藤氏の判断を狂わせた要因があるのだろう。「パーティ−の登行速度が思ったよりも遅かった」という点があるのではないか。伊藤氏の場合は、加齢が大きな要因になるだろう。学生の力量に対する過大評価が、学生自身と伊藤氏にあったかもしれない。
 3人の力量がそろっていれば、1人の判断が間違っても、3人で協議することで、よりよい判断が可能になる。このような合議型の登山パーティーは安全度が高いが、そのためには、3人の関係が対等でなければならない。そのようなパーティーの編成は大学山岳部の伝統的なスタイルの登山では難しい。アルパイン的な登山スタイルと大学山岳部の上下関係は合わないのではないか。
 一般に、権威的な上下関係のもとでは、「リーダーがこけたら、皆こける」ことになり、事故が起きればすべてをリーダーの責任にしやすい。しかし、それでは、登山の安全度は高まらない。権威的なリーダーと従属者というパーティー構成は、事故の起きにくいリスクの少ない訓練登山などでは有用だが、リスクのある登山には向かない。
 
 一般に、困難は徐々に訪れ、危険を認識しにくく、危機的状況は一気に訪れる。したがって、気づいた時は、もう、後もどりできないことが多い。早い時点で下山の決断をしなかったことが、この事故の原因である。この点は、多くの遭難事故に共通する点である。多くの遭難事故に関して、多くの人が、「なぜ、もっと早く引き返さなかったのか」と言う。なぜ、そこまで頑張るのか。この点は過労死に似ている。死んだ後に、関係者が必ず、「なぜ、過労死する前に、休まなかったのか」と言う。誰もが、「まだ、頑張ることができる」と考えた結果が、気象遭難や過労死になりやすい。伊藤氏も学生も、自分の体力を過信しすぎたのである。
 自己責任に基づく事故を非難すべきではない。

 報告書は、伊藤氏の荷物が軽かったことを問題にしているが、不可解な記述である。伊藤氏は51歳であり、もはやオジサンである。孫がいてもおかしくない。過去の経歴に関係なく、体力は確実に低下する。山岳部主将の女子学生のザックは15キロ程度で軽く、何も問題はない。この登山は軽量速攻型の登山だった。

伊藤達夫氏と大学山岳部
 伊藤氏のような登山家は、組織的登山になじみにくいのではないか。伊藤達夫氏は、欧米の先鋭的なアルピニスト的な登山家である。一般に、先鋭的な登山家は変わった人が多い。しばしば、社会の中に敵を作ることがある。強烈な自己主張の持主は、日本の集団文化になじめず、集団ではなく個人的に登山をすることが多い。
 伊藤とは対等の関係だった」という学生の証言や、伊藤は学生の意思を尊重したとの証言がある。これは、伊藤氏が、欧米的な合理的な登山観の持ち主だったことを推測させる。一般に、欧米のクライマーは対等の関係でパーティーを編成し、日本的な上下関係は嫌われる。日本の大学山岳部のような上下関係は、社会人の山岳会でも見られない。日本の社会人の山岳会でも上下関係はあるが、年齢や学年に基づく上下関係ではない。
 伊藤達夫氏の登山経歴を見れば、大学山岳部と関わりがあることに違和感を感じる。伊藤氏は自分と同等レベルのアルパインクライマーをパートナーに選ぶべきで、大学山岳部や通常の社会人山岳会になじまない。有名な登山家の多くが強烈な個性を持ち、「組織を飛び出る」のだが、それは登山の志向が団体行動を重視する組織の考え方と合わないからである。森田勝や長谷川恒男なども、組織を飛び出た。伊藤氏は、組織ではなく、個人と個人の結びつきで登山をすべきだった。


2012年3月11日
三国山・山スキー(岡山県)
 今年も岡山県の三国山で山スキーをした。総勢10人の参加。ほとんどが50〜60代のオジサンである。いつもながら、快適な山である。こんな「大人の遊び」をできるのは、幸せである。なぜ、世の中のオジサンたちは、こんな楽しいことをしないのか、不思議である。
 岡山県側は晴れだが、稜線は強風が吹き荒れていた。半年ぶりの登山だったので、けっこう疲れた。
      
                  



2012年3月9日
広島マツダ工場無差別殺傷事件
 この事件で、本日、広島地方裁判所で無期懲役にする判決の言い渡しがあった。たまたま、別事件の関係で広島地方裁判所におり、マスコミ関係者がたくさん来ていた。

 結論は予想通りであり、45日間に及ぶ裁判員裁判はほとんど意味がない。裁判員裁判でなくても、無期懲役の結論になっているだろう。起訴事実を認めている事件では、結論は以前の裁判変わりがないことが多い。
 私は、強盗致傷事件で裁判員裁判の弁護人をしたことがあるが、これも、情状についてだけの審理に1週間の裁判員裁判を費やした。判決内容は、従来の裁判官の裁判の場合とほぼ同じだった。なぜなら、裁判員裁判でも従来の裁判所の量刑相場に基づいて、判断されるので、裁判員裁判でも量刑はそれほど変わらない。

 裁判員裁判の意味があるとすれば、起訴事実に争いのある事件である。その場合には、窃盗や痴漢犯罪なども、裁判員裁判の対象にすべきである。現在の裁判員裁判の対象事件のほとんどが、起訴事実に争いのない事件である。したがって、現在の制度は、税金の無駄遣いであり、意味がない。

 
2012年2月10日
日弁連会長選挙
 日弁連会長選挙で当選者が決まらず、再選挙となった。
 私は、宇都宮氏の賛同人になっている。学生の頃から宇都宮氏をよく知っている。

 マスコミは、司法試験合格者数をどうするかが選挙の争点だと書いているが、そうではない。宇都宮候補と山岸候補も、司法試験合格者数を1500人程度にすべきだと述べており、違いがない。合格者3000人路線を堅持する候補者はいない。両者の違いは、地方と大都会、無派閥と派閥、国との対立路線と国との信頼路線、反主流派と主流派の対立、古参弁護士と若手弁護士の対立、企業弁護士と消費者弁護士の対立などにある。
 従来の主流派が推進した司法改革の結果として増えた若い弁護士が、主流派に反対し、宇都宮候補を支持するという皮肉な現象がある。司法改革で弁護士の数を急増させたものの、修習生の就職難や若い弁護士の仕事がない状況が蔓延し、若い弁護士の不満が高まった。それが、前回の宇都宮候補者の当選につながった。

 弁護士の業界に限らず、東京の力は絶大である。地方の弁護士会が束になっても、東京の弁護士会三会には勝てない。弁護士会の数では、圧倒的に宇都宮氏が勝ったが、東京などで山岸氏が勝ち、票数では一位だった。しかし、18以上の弁護士会で一位にならなければ当選できない。山岸氏が、18のの地方会で一位になる可能性は低い。したがって、いつまでも会長が決まらない事態を避けるためには、宇都宮氏が当選するしかない。このことからすれば、二回目の投票では、浮動票や尾崎票が宇都宮氏に流れるのではないか。これは、前回とほぼ同じ構図である。

 多くの国民は日弁連の会長選挙に関心を持たない。弁護士は自分たちとは関係ない無用の存在だと考えている。日弁連の会長選挙に対し、「金持ちはいいなあ」という嫉妬すらある。宇都宮氏はあまり金を持っていないと思うが・・・・・それでも、大企業に勤める会社員くらいの収入はあるだろう。

 弁護士が考える「国民」と、庶民が考える「国民」の間には、大きな格差がある。従来の日弁連は、庶民が考える「国民」を相手にしてこなかった。そこに問題がある。従来の弁護士は、企業と資産家、多重債務者・生活保護受給者をもっぱら対象とし、中間層は弁護士の仕事の対象ではなかった。弁護士が考える「中間層」は庶民から見れば裕福な階層である。


2012年2月4日
「身近な法律問題」講演会(三次市)
 三次市と広島弁護士会三次地区の共催で、身近な法律問題のテーマで講習会を開催した。参加者27人。その後で、法律相談を実施。できるだけ多くの問題を取り上げようとしたため、浅く広く話をすることになった。だいたい、話をするのは得意ではないが、「話の内容がわかりやすかった」という感想が多かったので、マアマアの講習会だったのではないか。
 今後も、弁護会で継続して、この種の講習会を開催していきたい。


2012年1月12日
国立登山研修所専門調査委員会(東京)
 東京で開催された。会議と懇親会。朝7時30分に家を出て、夜11時30分に帰宅。疲れた。しかし、他の専門職種の人と話をすることは、視野が広くなる。法律問題を考えるうえでも参考になることが多い。弁護士の仕事には役立たないが、法律家としての仕事には役に立つ。山岳ガイド、気象、医療、心理学、救助、などの専門家が主席。山岳認定医の制度ができたが、いろんな法律問題を抱えているらしい。