2013年

2013年12月27日
仕事納め


2013年12月21〜24日
マカオ、香港旅行
     
マカオ、セント・ポール大聖堂             ホンコン、ビクトリア山頂からの夜景

 
マカオには、ポルトガルの文化が残っている。かつて、マカオの植民地化により、中国の一部だったマカオがポルトガル化された。しかし、現在、マカオは中国化されつつある。ポルトガルの趣きのあるセドア広場などは、中国風のクリスマスの飾り付けがなされている。それらは、中国が西洋の文化の陳腐な面を真似た俗悪さを物語る。中国は、クリスマスを西洋の人形を置いた中国風のお祭りにしてしまっている。それらが、かつてのポルトガル文化を一蹴した観がある。ポルトガル文化、中国文化、アメリカ文化のせめぎ合い、それらを中国風にアレンジした街、ポルトガル文化→中国文化→アメリカ文化のモノマネといった図式が混在する街、それがマカオである。
 ポルトガル文化の消滅を食い止めたのは、世界遺産化だろう。この点は、日本が、日本国内の日本文化の消滅を世界遺産化が食い止めたことに似ている。

 
2013年12月17日
三次家事調停協会、三次調停協会忘年会


2013年12月10日
広島弁護士会三次地区会忘年会
 


2013年12月8、9日

自由法曹団中・四国交流会
(米子市)
 

2013年12月7日

秘密保全法反対集会(広島市)
 
珍しいことに、広島弁護士会が秘密保全法反対集会を開催(広島市)。これに参加した。


2013年12月6日

秘密保護法案の審議と石破発言
 自民党の石破幹事長が、「一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います」と述べたが、これは彼の民主主義観をよく表している。大音量の示威行動を規制するかどうかは、騒音規制法等の問題だが、選挙の応援演説などを見てもわかるようにある程度は許容されている。しかし、右翼の凱旋行動は違法なことが多いが、警察が取り締まることが稀である。騒音規制法に違反せず、許可を受けたデモは合法である。それを、「民主主義とは相容れない」とするのは、法治国家での発言ではない。石破幹事長は、法とは別の次元で考える民主主義観が頭の中にあるのだろう。街頭での表現行動は、その歴史に照らせば、ある程度目立つパフォーマンスであることを想定したうえで、表現の自由に含まれる。街頭での音楽活動や商業宣伝など、ある程度目立なければ意味がない。
 民主主義は、国民の自由が保障され、誰でも自由に意見を述べ、議論する過程を通じて、ものごとを決定することに意味がある。したがって、表現の自由は最大限の保障が要求される。自民党の石破幹事長の民主主義観は、大人しく騒がない静かなデモであれば、許容するという印象を受けるが、それは、「効果のない表現行動を許容する」というに等しい。彼の民主主義観は、かなり形式的なものであり、これは、中学校で、民主主義=選挙、多数決と教える類のレベルである。民主主義について、中学校できちんと勉強する必要がある。
 
 このような民主主義観が、秘密保護法案の審議にもよく現れている。すなわち、国会での審議は儀式であり、形式的な手続きさえ踏めば足りるという考え方である。これは、発展途上国でよく見られる現象である。民主主義=多数決と教え、国会で多数党だけで決定して何が悪いのかという考え方が、強行採決をもたらす。

 民主主義は、国民の意見が政治に反映することに意味があり、国会の多数決=国民の意見ではない。議員の意見=国民の意見とは限らないので、選挙で選出された代表者は、常に国民の意見を探り、それを代表できるように、努力することが必要である。それがなければ民主主義は実現できない。国会での議論を審議時間数さえこなせばよいと考えたり、公聴会を儀礼的に行うこと、強行採決などは民主主義に反する。

 民主主義の内容を理解せず、形式的に理解しているという点で、両者は共通している。


2013年12月2日

富士山での救助活動中のヘリからの墜落事故
 富士山で起きた遭難事故の救助活動中に、遭難者がヘリから落下して死亡する事故が起きた。通常は、つり上げ作業で落下するはずがない。落下した原因が問題。器具の操作を誤った可能性がある。そうだとすれば、過失が認定され、静岡市の法的責任が認められるだろう。


2013年11月29日
参議院選挙無効判決と特定秘密保護法

 11月28日、広島高裁岡山支部は、「1票の格差」が最大で4.77倍だった7月の参院選を巡り、二つの弁護士グループが選挙無効を求めた訴訟で、広島高裁岡山支部=片野悟好(のりよし)裁判長=は28日、岡山選挙区の選挙を「違憲で無効」とする判決を言い渡した。
 選挙が無効であれば、参議院での特定秘密保護法の審議は違法である。


2013年11月23日
立山での雪崩事故

 立山で雪崩事故があり、スキーヤーや登山者7人が死亡した。
 これに関連して、マスコミが、最近、初心者の山スキーヤーが増えているとして、警鐘を鳴らしている。
 しかし、亡くなったスキーヤーは、いずれも山スキーのベテランである。また、。事故のあったコースは、通常は雪崩に遭いにくいコースである。雪崩の規模が想定外の大きさだったのだろう。マスコミ報道は、相変わらずピント外れが多い。
 どんなベテランでも、事故に遭うことがある。自然は恐い。地震、津波、大雨、洪水、雪崩など、自然のリスクから事故や災害を防ぐためにどうすればよいのか。 
 今回の雪崩事故は、東北大震災や福島原発事故とに似た面がある。つまり、後で考えれば、「予見できたはず」なのだが、事故の前には誰も予見しなかった。


2013年11月16日
司法研修所クラス会

 司法研修所40期、7組のクラス会が鹿児島で開催された。教官3名が出席。
 検察官、裁判官から退職後の生活の話題が出て、もう、そんな年齢になったのかと思った。年金の減少は、検察官、裁判官の老後の受難時代をもたらした。
 弁護士からは、弁護士の数が増えて、事件の減少や収入の減少の愚痴が出た。今や、弁護士も受難時代に突入したようだ。
 翌日は、ついでに、開聞岳に登った。開聞岳は、遠くから見れば形のよい山だが、実際に登れば特段の印象はない。マイカーでの鹿児島往復は疲れる。18日午前0時帰宅。18日は、もちろん、通常通りの仕事。

         
     司法研修所40期・7組・クラス会                開聞岳


2013年11月13日
登山道に関する相談

 千葉県に住む登山者から、「岳人」編集部経由で、登山道に関する質問の手紙が届いた。時々、この種の法律相談がある。
 メールで回答をしたところ、丁寧なお礼のメールがあった。


2013年11月10日
「世界の果てまでイッテQ」・世界初の
バラエティ番組としてヒマラヤ登頂
テレビ番組「世界の果てまでイッテQ」でイモトがマナスル(8163m)に登頂した。
 この登山の特徴は以下のとおりである。

世界で初めてのテレビのバラエティ番組でのヒマラヤ登山
 通常のガイド登山では、客が登りたいという意思を持っているが、今回は、そのようなガイド登山とは違い、登山者(イモト)はあくまで仕事として登っている。
登山の商業化
 商業的な登山としては、既に、ガイド登山や、テレビのドキュメンタリー番組としての登山などがある。今回は、テレビのバラエティ番組として企画された登山であるという点で、世界初と言えるだろう。
仕事としての登山
 従来、ガイドやシェルパは仕事(業務)として登っていた。三浦雄一郎やプロの登山家も業務として登っているが、プロの登山家や冒険家は、一種の自営業者である。イモトはプロダクションに雇用されているという意味で、従来の形態とは異なる。
登山の安全化
 6000メートル台からの酸素使用(通常は、6000メートル、7000メートル台では酸素は使用しない)、固定ロープの大量設置、ポーター、シェルパ、ガイドなどの多くのスタッフ、気象情報などの最新情報システムを利用している。この種の登山は、今では珍しいものではない。この登山が全員登頂を実現できたのは、徹底した安全管理の成果だろう。


 イモトは、当初は、登山の素人だったが、ヒマラヤ登山までにさまざまな訓練をしており、今では登山の素人ではない。イモトよりももっと未熟な登山者でも、エベレストでガイド登山をしている。登山を始めて1年程度の人でも、エベレストをガイド登山で登頂しており、初心者でもエベレストに連れて行く時代になっている。それに較べれば、イモトは、日本のトックラスのガイドのもとで密度の高い登山のトレーニングを積んでおり、進歩も早い。もともと、イモトには登山の素質がある。これは、体力、筋力、心肺機能と内臓の強さ、精神力、高度への強さなどである。

 ヒマラヤ登山では、世界最年少、世界最年長、世界最短、世界最多などの記録があるが、この登山は、世界で初めてのテレビのバラエティ番組でのヒマラヤ登山という点に記録的な意味がある。もし、この登山を女優が冒険に挑むドキュメンタリー番組として行えば、あまり視聴率を稼げないだろう。バラエティー番組という点が視聴者に娯楽性と親しみを持たせるのだろう。つまり、真剣な気持ちではなく、気楽に娯楽として楽しむという点にこの番組の特徴がある。
 今後、日本で、この種の企画が増えるかもしれないが、視聴者は飽きるのも早い。2番目、3番目の企画は、視聴率を稼ぎにくいだろう。
 
 登山のアルピニズムという観点からは、当然、批判があるだろう。登山の安全化に限界はなく、安全化すればするほど登山がつまらないものになる。この種の番組は、「困難な中で頑張っている状況」が視聴者の共感を呼ぶのだが、登りたいというモチベーションがなければ、何のために頑張っているのかわからなくなる。しかし、「よくわからないけれども、とにかく、頑張っている姿は素晴らしい」と感じる人は多いものだ。
 私は、このマナスル登山を見ながら、あまり楽しそうな登山ではないと感じた。登りたいというモチベーションや創造性がなければ、登山はつまらないものになる。むしろ、周囲のスタッフの方に、「イモトを絶対に登頂させよう」という意欲が感じられ、この目的に向けた充実感を感じていたように思われた。スタッフにとって登山の目的は明確であり、モチベーションがあがる。

 この企画の成功は、ガイドら支援スタッフの力による。国際山岳ガイドの角谷氏とは、国立登山研修所の会議や、その他もろもろのことで、よく知っている。あれだけの大事故から復帰して、今回の登頂をしたことを祝福したい。実は、イモトの登頂よりも、角谷氏の復帰と登頂の方がよほど困難なことだったと思うのだが、それを言うと、番組の主役が代わってしまうのだろう。

 従来、ヒマラヤ登山は一部の登山家と、金と時間を用意できるガイド登山の客しか、アクセスできないものだった。特に、日本では、休暇日数が少ないために、多くの人がエベレストを見ることすら難しい。しかし、金と時間のない人でも、茶の間にいながらにして、この種の番組を楽しむことができ、ヒマラヤが一般の人に開放されたように感じることができる。ヒマラヤ登山が視聴者の娯楽の対象になった。
 しかし、もともと、登山は、自分のために趣味として行うものであり(ガイド登山であってもあくまで個人の趣味である)、公共の電波を利用して行うほどのものではない。登山は、あくまで個人の趣味であって、もともと、多くの人が考えるほど価値のあることではない。釣りをする人をマスコミが取り上げることが少ないが、ヒマラヤ登山をマスコミが取り上げるのは、そこに危険や冒険的要素があるからである。登山はあくまで個人の趣味であるが、冒険は社会的価値がある。イモトの登山は、かなり安全化された登山であり、冒険的要素が少ない。しかし、視聴者は、この登山をある種の冒険的行動として受け取り、そこに感動が生まれる。そのギャップは大きいが、それを利用するのがテレビの功罪である。

 この種のテレビ番組は、視聴者が飽きるのも早いので、一時的な盛り上がりで終わってしまい、いずれ「宴のあと」がくる。その時になって、「あの登山は一体何だったのだろう?」という気持ちが湧いてくるかも知れない。登山者が登りたいというモチベーションがあって初めて、登頂の充実感が湧く。

 業務として企画する登山では、事故が起きれば、法的責任問題が生じる。事故が起きないことが、至上命令となるだろう。その点で、登山を可能な限り安全化することになる。安全化された登山は、もはや冒険ではない。


2013年10月21日
半沢直樹現象とDOGEZA社会
 半沢直樹現象は、日本の社会の法の支配の欠如を意味する。法律の規律とは関係ないところで行動し、それに対する復讐がなされる。
 半沢直樹現象は、復讐ブームでもある。復讐屋と呼ばれる業者が現れている。「復讐したい」と言って弁護士に相談する人は、まだ、よい方である。半沢直樹現象は、法の無視を推奨するところが、視聴者に受けるのだろうが、その点に危険性がある。
 ある社会学者が、労働現場で問題が生じたときに、労働組合、労働基準署、友人・知人、ボランテイア団体などに相談しましょうと書いていた。そこには、弁護士や司法は登場しない。半沢直樹現象はそれに似ている。
 ドイツや北欧では、この種の番組は、「ナンセンス」とみなされるだろう。ドイツなどでは、半沢直樹のような場面では、弁護士に相談して法的手段を検討するのではないか。日本では、「弁護士への相談」は、会社内の問題を外部に持ち出すことであり、それは会社への忠誠心を裏切ることを意味する。弁護士への相談は、会社との闘争を意味することが多い。日本では、ほとんどの人が、退職を覚悟しなければ、弁護士に依頼しない。
 しかし、ドイツや北欧では、このドラマの内容は、はそんな大袈裟な大事件ではなく、もっと気軽に弁護士に相談するだろう。そして、弁護士と社内でのコンプライアンス手続きなどを検討し、早期に解決できる法的手段を選択するだろう。そこには、会社への忠誠心に背くといった大袈裟なことはない。企業も、社内でのコンプライアスを重視するので、苦情申立があれば、早期に問題を解決しようと努力するだろう。それがあるべきコンプライアンス社会である。

 テレビドラマ「半沢
直樹」で土下座シ−ンが頻繁に出てくる。弁護士への相談では、「土下座させられた」という話は、以前から、珍しいことではない。だいたい、クレーマーやモンスター、ヤクザが紛争の相手に土下座させることは、しばしばある。刑法の強要罪に当たることが多い。他人に土下座させる者は、たいてい自分こそが正しいと思い込む確信犯である。今、扱っている事件でも、殴り合いの喧嘩について、先に殴った者に土下座させたというケースがあり、土下座せた者に対する慰藉料請求がなされている。テレビドラマ「半沢直樹」でも、土下座させられた者は、半沢直樹に対し慰藉料請求ができるのか?
 他人に土下座させるような人間は、クレーマーかヤクザである。マトモな人間はこれを他人にさせることはない。半沢直樹は、マトモな人間ではない? 半沢直樹を真似て、何かあれば、他人に土下座させる事件が増えるのではないか。
 日本の土下座は、そのうち、国際語になるのではないか。DOGEZA。これは、KAROUSHIや、HARAKIRIに似ている。

 半沢直樹現象と、スポーツでの体罰、イジメ、企業の不祥事などは、関係がある。


2013年10月16日
伊豆大島での災害
 
伊豆大島での台風被害について、「なぜ、特別警報が出なかったのか」というがマスコミで問題視されている。
 特別警報の制度を作れば、「特別警報が出ないのであれば、それほど大した被害は出ない」という慢心を生みやすい。また、特別警報が出なかったこと非難の応酬がなされやすい。災害を防止するための制度が、別の目的(慢心、非難)の道具になってしまうことがある。
 大雨洪水警報は出ていたが、これは頻繁に出るので、今では、これが出ても住民はあまり警戒しなくなっている。
 避難勧告が出ていれば、被害が少なかったかもしれない。町長の副町長が不在のため、前日の時点で避難指示を出さなかったことについて、後日、町の責任を問う裁判が起こされるかもしれない。裁判で、町の責任が認められるかもしれない。町は避難勧告をすべきだった。しかし、個人のレベルでは、災害を防ぐために避難勧告に頼ることは危険である。避難勧告を出すかどうかの判断をするのは人間であり、人間の判断ミスがありうる。他人の判断にすべて依存することはリスクが高い。
 一人一人が危険性を判断する能力を高めることが大切である。
 ただし、それでも、防ぐことができない災害は、ある。


2013年10月11日
服部事件のテレビ番組
 
1992年、アメリカに留学していた日本人の高校生、服部剛丈君(当時16歳)が、ハロウィンのパーティに出かけたが、訪問しようとした家と間違えて別の家を訪問し、住人に射殺された事件に関するテレビ番組が、昨日、あった。
 このテレビ番組は、「アメリカの刑事裁判では、陪審員が加害者に同情し、加害者が無罪になった。しかし、これは、陪審員の誤解などによるものであり、公正な裁判ではなかった。刑事責任が否定された事件では、通常民事責任は生じない。しかし、その後、敏腕弁護士に依頼した結果、民事裁判で真実が明らかになり、加害者の損害賠償責任が認定された」という論調で構成されていた。
 しかし、このテレビ番組の編集方法にはかなり問題がある。
・加害者は、日本の刑法の傷害致死罪に相当する罪で起訴されたが、傷害致死罪では日本でも無罪になる可能性がある。意図的に銃を発射したのでなければ、傷害致死罪の成立は無理である。この事件では、業務上過失致死罪ないし過失致死罪が問題になるが、その罪では起訴されなかった(国や州によって、過失致死罪の処罰規定のない国がある。日本では、過失致死罪は50万円以下の罰金である)。
・刑事責任が否定された場合でも、民事責任が認められることは、しばしばある。これは、刑事責任と民事責任の要件が異なるからである。過失事故を傷害致死罪で起訴しても無罪になるが、過失があれば民事責任が生じる。このテレビ番組は、視聴者に、「刑事裁判での判断が民事裁判で是正され、正義が回復された」とのメッセージを与えようとした印象を受けるが、事実は、「刑事裁判と民事裁判は別である」ということに過ぎない。
・テレビ番組では、「15ページにわたる判決文の中で、判決の理由が詳細に述べられた」と述べていたが、日本では、マスコミが注目した事件では、判決文は最低でも30ページくらいはあるだろう。服部事件の判決文は非常に短い。アメリカでは、判決文はすべて短いのか、それとも、この事件が詳細に論じる必要のなかった事件なのか、その点はわからないが、テレビ番組は、「判決文は15ページもある」という間違った印象を与えるように編集されていた。
・番組は、服部事件に関する刑事、民事の裁判を特別なものとして扱っていたが、アメリカでは、よくあるパターンの事件だと思われ、結論も、一般的なものだと思われる。事故は、すべて、被害者にとって特別なものだが、裁判は「特別な事故」の集積であり、それが一般的な事件になる。
・アメリカの弁護士は、「いかにして、自分が難しい裁判で勝訴したか」を自慢する傾向がある。アメリカでは、弁護士の報酬は、賠償金額の3割〜5割であり、弁護士は、自分の有能さと成果を強調することによって、高額な報酬を得るという事情がある。競争の激しいアメリカの弁護士は、常に、演技と宣伝を意識しており、弁護士の説明をそのまま受け取ることができない。
・アメリカと日本では、法律が想定する「正義」の内容が異なる。欧米では、よほど悪質な事故を除き、過失事故を処罰しない傾向があるが、日本では、「重大な事故に関して、刑事責任が生じないのはおかしい」という世論が強い。欧米では、過失事故は、刑事責任ではなく、民事責任で処理する傾向が強いが、日本では、国民の意識のうえで、刑事責任と民事責任が区別して扱われない傾向がある。
 所詮、裁判は、社会的なルールで決める手続にすぎない。ルール次第で、勝つこともあれば、負けることもある。裁判に勝っても、負けても、事故が起きたという現実は変わらない。事件当時から感じていたことだが、亡くなった服部君の両親の理性的で前向きの行動に感心する。誰でも、このような状況に置かれた時、このような行動ができるだろうか・・・・・


2013年10月10日
雑誌「岳人」の連載が終了

 雑誌「岳人」に、続・登山の法律学を3年間、連載してきたが、今年の12月で終了する。最後の原稿を書き終えた。
 登山の法律学を含めると、通算6年間の連載だった。
 これからは、連載の題材探しに苦労することがなくなると思うと、ほっとする。毎回、題材探しに苦労していた。
  同時に、連載を終えることに若干の寂しさも覚える。


2013年10月8日
アコンカグア・ガイド登山訴訟
 
アコンカグアでのガイド登山で、重い凍傷になった客が山岳ガイドに対し損害賠償請求訴訟を起こしたことが報道された。
 この事故のことは、以前から聞いていたので、「やはり」という感じだ。
 @ガイドが早い段階で登山を中止しなかったことが注意義務違反かどうか。
 A動けなくなった客を避難小屋に置いて、救助を求めに下山したことが注意義務違反と言えるか。
などが争点になるのだろう。
 @については、当時の状況次第である。
 Aについては、一般的に言えば、動けなくなった者に付き添ったガイドに何ができるのかという問題がある。

 (追記)
 なお、この事故の判決については、仙台地裁平成27年3月17日判決(原告の請求棄却。控訴がなされた)
 

2013年9月28日
JR宝塚線脱線事故の刑事裁判
 
JRの歴代の社長が無罪になった。
 この刑事裁判を最初に聞いた時に、「たぶん、無罪になるだろうな」と思った。現在の日本の裁判所の基準では無罪になることは、やむをえない。もともと、有罪になる可能性が低かったが、世論に押されて強制起訴になった。強制起訴になったことは、それ自体に問題はない。事故に対し、強い世論の非難があるので、裁判所の判断をあおぐことが必要だった。しかし、強制起訴されて、無罪になれば、強制起訴の制度に問題があるとするマスコミの論調はおかしい。「有罪になるような事件を起訴すべきだ」という発想が、マスコミにあるのだろう。これは、そのような世論の存在を背景としている。
 もちろん、事故に対するJRの責任は大きいが、それは民事責任で問われる。

 「JRに民事責任がある以上、歴代社長は刑事責任を負うべきだ」との世論がある。もし、それを法律理論にすれば、刑事責任の対象が一気に拡大する。JR事故は108人が死亡したが、理屈上は、1人の死亡事故でも同じである。
 「重大な事故や悪質な事故は、重く処罰しろ」という世論がある。しかし、それだけで刑事裁判をすれば、政治家やマスコミが世論を扇動して裁判を行うという恐怖政治の時代に逆戻りする。
 被害者が多い場合にだけ処罰要件を緩和することはできない。処罰要件を緩和すれば、それはすべての事件に適用される。その場合には、社員や公務員の事件や事故がある度に、経営者や幹部はが刑事責任を負うことになる。社員1万人の会社では、毎年、社員の事故や事件が必ずあるので、社長や幹部はしょっちゅう刑事責任を負わせられることになる。原発事故でも、津波事故でも、関係者はすべて刑事罰を受けることになる。原発事故に関して、それを推進した国会議員や政治家、公務員、学者、研究者、東電の社員はすべて刑事罰を受けることになりかねない。JR北海道の列車事故、日航機航空機事故などでも、会社幹部が刑事罰を受けることになるだろう。山岳事故が起きれば、関係者は皆、刑罰を受ける。

 過失犯の処罰が拡大すれば、故意犯の処罰も重くなる。法体系はすべて連動している。それが公正の内容である。刑務所の収容人員が増え、刑務所の大増設が必要になる。日本は中国やイスラム国家なみの刑事罰国家になる。

 誰もが、「自分の事件だけは特別である」と考えるが、すべての事件が「特別」なのであって、1個の特別扱いは、すべての事件の特別扱いになる。日本では、酒気帯び運転などを「悪質な事件」として特別扱いにする風潮があるが、ほとんんどの事件は、被害者にとって、それ以上に「悪質」なのであり、ほとんどの事件を特別扱いにすることになる。
 

2013年9月17日
日和幼稚園バス被災事故判決と山岳事故
 東日本大震災の津波で5人の幼稚園児が死亡した事故について、仙台地裁が幼稚園に対し損害賠償を命じる判決を出した。
 @幼稚園の安全配慮義務の内容、A巨大津波を予見できたかどうかが主な争点である。
 
 @については、一般に、学校、保育園、幼稚園などでは管理者側に重い安全確保義務、安全配慮義務がある。
 Aについては、巨大地震や巨大津波が予見できたかどうかという議論はほとんど禅問答に近く、無意味である。予見可能性の程度は1〜99パーセントまであり、あるかないかではなく、その程度が問題なのである。そして、予見可能性の程度を客観的に測定する手段はない。予見可能性が0の場合は、真夏の東京で雪崩事故が起きるなど、考えること自体が無意味な場合に限られる。
 ほとんどの場合は、「予見可能性がなくはない」というケースであり、結局、「予見可能性がある=法的責任がある」、「予見可能性がない=法的責任がない」という判断にほかならない。それは、裁判所の法的な価値判断である。
 上記の事故については、「大きな地震があれば、沿岸部では津波の恐れがあり、できるだけ高い場所に避難すべきである」という単純なことを守っていれば、被害を防ぐことができた。それをしなかった点に過失がある。日常的に、幼稚園は、保護者対応に追われることが多いのだと思われる。そのため、幼稚園は、事件や事故があれば、園児を保護者に引き渡すことを最優先するという発想が固定観念になっていたのではないか。
 
 この事故に限らず、大震災では、「こうすれば、被害を防ぐことができた」というケースが多い。亡くなった人んのほとんどが、そうだろう。そういうケースで他人が関係していれば、その他人に対し損害賠償請求するケースが増えるだろう。例えば、震災時に自動車に乗ったために、渋滞に巻き込まれ、被災した人もいるだろう。上司の指示に従ったために被災した人。指定避難場所で被災した人は、避難場所の指定さえなければ、助かっていたかもしれない。巨大堤防がなければ、避難して、助かった人は多い。防災塔さえなければ、死ぬことはなかった、など。

 このような東日本大震災の構図は、山岳事故の構図と同じである。


2013年9月11日
世界の幸福度調査
 世界各国の国民が日々の暮らしに満足し、幸せを感じているかどうかを調査した新たな報告書が発表され、ランキング首位のデンマークをはじめ、欧州北部の5カ国が上位を独占した。それによると、上位5カ国はデンマークに続いてノルウェー、スイス、オランダ、スウェーデン。これにカナダ(6位)、オーストラリア(10位)、イスラエル(11位)、アラブ首長国連邦(14位)、メキシコ(16位)などが続き、米国は17位だった。そのほかの主要国では英国が22位、ドイツ26位、日本43位。ロシアは68位、中国は93位だった。
 日本が、43位というのは、ほぼ実感に合っている。


2013年9月10日
福島原発事故と安部首相の個人「保証」
 IOCの総会で、安部首相は、福島の状況について、「私が安全を保証する。状況はコントロールされている」と発言した。
 現実は、福島の汚染水は流出し続けている。「保証する」、「コントロールする」という言葉が安易に使われている。
 
 国の担当者は、国際会議の場で、汚染水対策の「法的な責任は東京電力にあり、政府はサポーターの立場。東電には資金もアイデアもなく、2年間も良くない状況が続いてしまった」と釈明している。これが、「安全を保証する」という意味である。

 日本は、政治家が発言の責任を問われないある種の無責任社会である。「公約」などはその典型。


2013年9月6日
韓国で内乱陰謀罪で逮捕
 韓国の革新系政党・統合進歩党の李石基(イソクキ)議員(51)が5日、北朝鮮の思想を支持する組織をつくり、体制の転覆を企てたとして「内乱陰謀罪」などの疑いで捜査当局に逮捕された。情報機関の国家情報院が李氏を取り調べた後、検察に送致するという。

 日本にも同様の刑法の規定がある。日本の統治体制をや憲法秩序を破壊する内乱、革命、体制転覆、国家建設などを企て、その陰謀、企画、準備等をすれば、死刑、禁錮などに処せられる。暴動の首謀者は死刑もしくは無期禁錮であり、非常に刑罰が重い。
 革命や明治憲法への復古、体制変革を陰謀、準備すれば、この陰謀罪や予備罪に問われる。
 しかし、この法律には問題が多いので、現実にはほとんど適用されない。戦前には、多くの人が類似の罪で処刑されたが。もし、日本の刑法を適用すれば、大変なことになる。日本と韓国の違いはその点だけである。賢明な国民はこの法律の適用を認めない。


第77条 
国の統治機構を破壊し、又はその領土において国権を排除して権力を行使し、その他憲法の定める統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、内乱の罪とし、次の区別に従って処断する。
 首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する。
 謀議に参与し、又は群衆を指揮した者は無期又は三年以上の禁錮に処し、その他諸般の職務に従事した者は一年以上十年以下の禁錮に処する。
 付和随行し、その他単に暴動に参加した者は、三年以下の禁錮に処する。
 前項の罪の未遂は、罰する。ただし、同項第三号に規定する者については、この限りでない。
第78条
内乱の予備又は陰謀をした者は、一年以上十年以下の禁錮に処する。

第79条
武器、資金若しくは食糧を供給し、又はその他の行為により、前二条の罪を幇助した者は、七年以下の禁錮に処する。


2013年9月4日
ある交通費の不正受給事件
 東京都監査事務局は9月3日、同事務局所属で都職員の男性主事(54)が1989年2月〜今年5月の24年間で通勤手当計318万円を不正受給していた、と発表した。同事務局によると、主事は自宅から最寄り駅までバス通勤と届け、月約1万円の通勤手当を得ていたが、実際は「バスの本数が少なく不便」として無許可で自家用車を使っていた。手当は駅周辺の駐車場代に充てていたという。同事務局は同日付で停職15日の懲戒処分にした。

 自動車で通勤する場合、駐車場代、燃料費、自動車の減価償却費、保険料、車検代等がかかる。しかし、役所にマイカー通勤の届け出をしても、燃料代くらいしか出ないので、損である。マイカーの通勤使用比率が10パーセント程度だとしても、これらを計算すれば、通勤手当以上の経費がかかるのではないか。上記の公務員は、役所の規定に違反はしているが、果たして、実態として不当な利益を得たと言えるのかが問題。

 裁判所が計算する交通費も似ている。多くの事件で、裁判所が弁護士の交通費を支出することはないが、法テラスが支出するのは、往復100キロ以上(直線距離)の場合の燃料代、高速料金であり、自動車の維持費や駐車場代は支給されない。したがって、マイカー使用の場合は経費的に「損をする」ことになる。
 通勤手当に限らず、サラリーマン等の経費や損害の計算に関して、実費で計算する場合は、だいたいサラリーマンが損をする計算することが多い。また、計算できないものは支給しないことが多い。それは、計算が面倒だからである。正直に報告すると「損をする」システムのもとでは、「損をする」人は、正直に報告しなくなる傾向になる。


2013年8月31日
「弁護士のボランティア的業務について」
を、広島弁護士会報の次号(8月発行)に掲載

 
2013年8月31日
登山の法文化とナショナリズム
韓国人パーティーの遭難
 平成25年7月29日に、中央アルプスで韓国の20人の登山パーティーの4人が死亡する事故があった。事故当時はマスコミが報道したが、その後パッタリと報道がなくなった。そのため、事故を検討しようにも、事故に関する情報を得ることができない。
 通常、この種の事故が起きれば、マスコミや世論は登山関係者に対する非難一色で埋め尽くされるのだが、非難の相手が韓国人であれば、「他人ごと」であり、日本人の関心が急速に薄れるようだ。
 山岳事故で4人も死亡すれば、大事故であり、山岳雑誌が取り上げ、シンポジウムや事故の検証、書物の出版等があるのだが、外国人の場合はそうはならないようだ。
 よくよく考えてみれば、これは実に奇妙である。
 もし、これが、ヨーロッパで起きた事故であればどうだろうか。
 まず、山岳事故に対する世論の非難がない。むしろ、世論は同情するのだろう。事故者が自国人だろうと外国人だろうと、同じように報道するのではないか。それだけ、社会が国際化しているということなのだろう。
 日本の社会には特殊な法文化があるようだ。
 山岳事故の観点からは、事故者の国籍に関係なく、この事故は重要である。同種の事故はどこでも起こりうる。


2013年8月24日
登山道の道標はだれのものか
 
 丹沢の山の道標に関して、刑事裁判があり、 「登山道の道標はだれのものか」というテーマでテレビでも放映された。
 テレビの放映(途中からしか見ていないが)や、マスコミ記事を見ても、事実関係がよくわからない。
 道標をボランティアで整備している登山家が実刑判決を受けたそうだといった印象を受ける人もいるだろう。「登山道の道標はだれのものか」というテレビのタイトルは、個人的に間違えやすい箇所に善意で道標を整備することが、刑事責任を問われるのかという間違った印象を与えるのではないか(テレビ局は、視聴者の誤解をもとに視聴率を稼ごうという狙いがあるのではないかと思いたくなる)。テレビでは、「山に裁判はいらない」という出演者のコメントも流れていた。何のこっちゃ?
 事実を正しく認識することが、ものごとを「正しく考える」うえで、必要である。

 断片的なマスコミ情報を総合すれば、事実関係は、以下のようである。
 A氏(元町議会議員)は、以前から個人的に多くの道標を山に設置していた。山を管理する小山町に道標を整備するように申し入れてきたが、町がそれに応じなかった。また、町が設置した道標が正確ではなかったようだ(詳細は不明)。A氏が設置した道標が引き抜かれるといった事件もあったようだ。そこで、A氏は頭にきて、町の設置した登山道の標識をペンキで塗り替えるなどの行為を何度か行い、少し前に、器物損壊罪で執行猶予付の懲役刑の判決を受けた。
 その執行猶予中に、A氏が町の設置した道標を切断して、再度、器物損壊罪に問われたというのが今回の刑事裁判である。1審で実刑判決(懲役刑)、控訴審で執行猶予が付いた。

 これについて、コメントは以下のとおり。
・町が管理する山では、標識は山の管理権者が設置するか、その同意のもとに設置しなければならない。
・個人が設置する標識は無許可のことが多いが、通常、山の管理権者は無視する(黙認)
・環境保護地域では、標識は環境を破壊するゴミと同じであり、標識は必要最小限にする必要がある。
・管理権者が設置した標識を破損すれば、器物損壊罪が成立する。自治体の所有物が破壊されれば、被害届を出すのが町の責務。
・執行猶予中に、同種事件を起こせば、通常は、実刑になる。本件のように、高裁で再度の執行猶予がつくのは、特別な場合である。
・1審判決について、「国選弁護人だから実刑になった」という意見があるが、上記のとおり、実刑になるのが原則である。何度も同種事件を起こすのは執拗で悪質な事案とみなされる。A氏に反省がなければ、再犯の可能性があり、保釈は認められにくい。保釈後の居住場所を子供の住居にすることで、ようやく保釈決定が出たのだろう。弁護士人は保釈申請に苦労したのではないか。
・控訴審では、町との間で示談が成立し、それで執行猶予がついたのではないか。裁判所は、「自分は間違ったことはしていない」という確信犯に、執行猶予を付けにくい。
・「登山道の道標はだれのものか」ということと、この裁判はまったく関係がない。「登山道の道標はだれのものか」に関係なく、道標を破壊すれば、刑事責任を問われる。「登山道の道標はだれのものか」というテレビ番組のタイトルは誤解と混乱を招く。
・「登山道の道標はだれのものか」という点については、道標の所有権は設置した者にあるが、山の管理権者の許可なく設置すれば、撤去しなければならないことがある。ただし、多少の私的な道標は大目に見られることが多い。
・A氏のように、山に私的な道標を設置することは、多少は容認されるが、数が余りにも多ければ問題になるだろう。また、いったん道標を設置すれば、管理する義務がある(この点は自治体も同じ)。道標が傾いて間違った方向を指示すれば、遭難の原因になる。
・ドイツでは、山岳団体が税金の支給を受けて、責任をもって設置・管理している。日本では、登山道を誰が管理するのかという管理責任が明確でないことが、この問題の根底にある。町がなかなか道標を設置しなかったのは、登山道の管理を自治体がすべきであるという認識が稀薄であることが、全国の自治体に共通するからである。この点を法律で義務づけないと自治体は動かないのではないか。それをすると、すぐに問題になるのが、「自治体が登山道の管理をすると、事故が起きた時に責任を負わされるのではないか」という不安である。日本の法文化において、登山者の自己責任と管理責任の範囲が明確になることが必要である。
・山に多くの道標が必要か。これにつていは、初心者が登るハイキングの山については、間違えやすい箇所には道標があった方がよいだろう。
・登山道の管理者を明確にすること
登山道にどのような標識が必要かは、管理者が、多くの登山者の意見を聞いて設置することになる。
標識は多ければよいというものではない。適切な数。たとえば、登山道から外れないように、登山道に5mおきにポールを設置すれば、自然体験から遠ざかる。
設置した標識は、管理者が責任を持ってメンテナンスをすること。


2013年8月17日
福知山での花火大会事故 
 事故が起きた時に、最初に思い浮かんだのは、事故の補償問題である。
 露天商は業務上過失致死傷の責任を負う。実刑判決を受ける可能性がある。民事上の損害賠償責任もある。しかし、通常、露天商は貧乏な自営業者であり、金がない。今回の露天商は、賠償責任保険に加入したようだが、賠償限度額が1000万円である。

 花火大会の主催者は「実行委員会」であるが、実行委員会に法的責任はない。実行委員会に管理責任があったことにして(?)、実行委員会が加入する賠償責任保険でカバーするらしいが、保険会社がそれを承諾するかどうか。もし、保険から出なければ、実質的な主催者である商工会議所が自腹を切るか?
 無過失責任的な保険に加入していなければ、この種の事故への対応は難しい。
 

2013年8月10日
破産国家・日本
 日本の債務残額が1000兆円を超えた。
 これは、例えれば、年収400万円の人に1億円の借金があり、毎年600万円の借金をし続けているようなものである。
 日本政府にすぐに換金できる資産1000兆円はない。既に日本は破産状態にある。ただし、国民が1000兆円以上の預貯金を保有しているので、いざとなれば国民が預貯金をはき出せば、日本の借金の返済ができないことはない。
 
 「必要なものを買う」 これが消費者破産をする人のスタイルである。日本も「必要なものを作る」ことをし続けた結果、破産状態に至った。消費者破産でも、必要なものを買った結果であることが多い。日本では、無駄な支出はマスコミがたたくが、必要なものを買うのは、世論が受け入れやすい。しかし、「必要なものを買う」 ことが破産の原因になるのである。「必要なもの」をいかに削るかが重要なのだが、賢明でなければ、それはできない。人間は、それほど賢くない。
 消費者破産では、夜逃げや破産の直前まで、ノーテンキな生活をする人が多いが、日本もそんなものである。ある日、突然、大恐慌が訪れて、円が信用を失い、円が紙くずとなり、国民が財産を失う。

 「国民は小さな嘘はすぐに気づくが、余りにも巨大な嘘は簡単には見破られない」 こんなことをヒトラーが言っていた。
 「国民は小さな借金は気にするが、余りにも巨大な借金は実感が湧かず、他人ごとに感じる」
 「国民は政治家の些細なゴマカシ発言に敏感だが、国家レベルの巨大な詐欺や嘘には鈍感である」
 「どの国でも、国民のレベルに応じた政府を持つ」 平気で借金を作る政府を選択するのは国民である。


2013年8月9日
福島原発の汚染水問題とオリンピック
 マスコミ報道によれば、福島原発で1日に300トンの汚染水が海に流出しているらしい。本当は、海に流出する放射線を含む水の量は、福島に降った雨の量であり、天文学的数字のはずだが・・・・・・・
 福島の山野にある放射能は雨によって川に流れ出て続けている。山の草の1本1本が放射能で汚染されている。その総量は計算不可能なくらい膨大な放射能である。誰も計算できないので、公表しないだけの話。

 長年の登山の経験から言えば、人間は、自然の摂理に逆らうことはできない。自然の動きを人工物や人間の技術で変えることは、ほとんど不可能である。
 地化水の動きを人工的に変えることは不可能だろう。そもそも、地下水の動きを人間が正確に把握することすら難しい。
「きちんと対処すべきだ」、「何とかしろ」というかけ声と非難の声が響くが、現実に放射線のリスクを覚悟して作業できる人は限られ、ぢうすればよいかが誰もわからない。
 地中を凍土にする計画があるが、沿岸部を凍土にすれば、地下水はどこかに行く。地下水を地中に溜め続けることは不可能。土に浸透した地下水はどこかに行く。どこに行くのかわからなければ、人々は安心する。知らない間に汚染水が海に流出して、拡散されれば、人々は「海水の汚染濃度は低い」と考えて、人々は安心する。知り過ぎることは人々の不安の原因になる。国民に知らしめないことが、安心対策になる。放射性物質は、地球にある限り、その総量は同じである。それが、どこにあるかの違いに過ぎない。
 原発で集中豪雨があれば、どうなるのか。貯蔵タンクが地震で破壊されたらどうなるのか。
 残念ながら、おそらく、完全な汚染水対策はない。海に流出する汚染水を減らすことは、少しはできても、完全に止めることは、自然の摂理に逆らうことであり、とうてい無理である。今後、数十年にわたり、汚染水は海に流出し続けるだろう。
 現在の日本の最大の国家的課題は汚染水対策である。汚染水の問題は、日本が地球を破滅させるかどうかという地球規模の問題である。
 この種の失敗は、起きてしまえばどうにもならない。しかし、人間は必ずどこかでミスを犯すものなのだ。
 原発を保有するということは、こういうことである。
 

 日本は、悠長にオリンピックをするような時ではない。汚染水問題は、日本の危機、世界の環境の危機である。汚染水問題は7年後でも継続しているし、放射性物質の危険性は7年では消えない。
 オリンピックは祭典である。東北や福島の被災地を解決しないまま、東京でお祭りをしてもよいのか。オリンピックに使う金があれば、汚染水対策と被災者の救済に使うべきである。
 
東北の被災地の家も仕事も失った人たちと、福島の避難先で生活する人がいる一方で、東京ではオリンピックで多くの人が浮かれ、騒ぐ光景が目に浮かぶ。7年後、福島では汚染水は相変わらず流出し続け、その頃には、海への流出は「お手上げ」、人々も慣れてしまっているだろう。相変わらず、避難生活は続いている。他方、東京では人々が盛大にオリンピック に浮かれている。格差が常態化すれば、人間は何も感じなくなる。原発事故後に生まれた子供たちには、福島は、「もともと昔から汚染された地域」として、認識され、それが当たり前のことになってしまうのではないか。
 日本の中で東京だけが突出して一人勝ち状態にある。これも日本の社会の格差・ひずみの一部なのだろう。東京でのオリンピック開催は、日本の社会の格差をいっそう大きくするだろう。
 東京の繁栄は、福島の犠牲のうえに成り立っている。東京が使用する莫大な量の電力の供給源である原発を、東京ではなく福島に置いたからこそ、東京は原発事故の被害を免れたのである。なぜ、東京に原発がないのか。それは、東京の人々がそれを嫌がるからだろう。


2013年8月5日
東北の被災地へ行く
 先日、東北地方の被災地へ行った。
 ボランティア活動ではなく、被災地を慌ただしく車で見て回っただけである。山元町、南三陸町、陸前高田市、気仙沼市、大船渡市、釜石市、大槌町など・・・・・・・

 宮城県南三陸町の防災塔。亡くなった町職員は41名

草の生い茂る岩手県陸前高田市の旧中心部。何もない・・・・・

 宮城県気仙沼市の津波で打ち上げられた貨物船。ここはかなり内陸部である。

 

 岩手県大槌町役場。ここで町職員40名が亡くなった。



 宮城県山元町中浜小学校。生徒全員が屋上に避難し、幸運にも津波が屋上に達しなかったので、全員が助かった。



2013年7月30日
欧米のクライミングに関する裁判・理論の状況

 関西大学青山千彰教授がスロベニアでのUIAAのWG会議で入手された資料「Climbing Wall Accidents and Litigation」(2012,Martin Wragg)と、「DISCLAIMERS AND WAIVERS OF LIABILITY:A SUMMARY」(2012,Martin Wragg)を翻訳した。
「クライミングウォール事故と訴訟日本山岳サーチアンドレスキュー研究機構 http://www.imsar-j.org/に掲載予定」
「責任の否認と放棄:概要日本山岳サーチアンドレスキュー研究機構 http://www.imsar-j.org/に掲載予定」

日本でも人工壁での事故が多発しており、今後これに関する訴訟が増えると思われる。欧米での訴訟の動向は、今後の日本の動向を考えるうえで参考になる。


2013年7月20日
「登山の法律学」(東京新聞)の電子書籍化

 「登山の法律学」が電子書籍化された。発売日は平成25年7月19日、価格は1155円。
 かなり前から在庫切れになっており、「購入したい」という人からの問い合わせがかなりあったので、電子書籍化されてよかった。
 今の連載が終われば、「続・登山の法律学」を発行することになるかもしれない。


2013年7月18日
富士山での登山禁止?

 新聞報道によれば、「静岡、山梨両県や国などでつくる「富士山における適正利用推進協議会」は18日、夏山期間(7月上旬〜9月上旬)以外の登山を原則禁止する「富士登山における安全確保のためのガイドライン」を策定した。ガイドラインに法的拘束力はないが、今後、空港や旅行業者に配布し、登山者の安全確保に役立てる方針」とのこと。
 このような扱いのあまりの馬鹿さ加減に呆れた。
 拘束力のない「登山禁止」など、理解不能。日本語の「禁止」という用語の意味がわからなくなってしまう。時々、土地の境界争いで、紛争の両当事者が互いに禁止の通告合戦をし、土地に杭を打ったり抜いたりする自己満足行動をとることがあるが、それに近い。
 こんなことをしていたら、日本の山岳のすべてについて、「冬山禁止」、「岩登り禁止」にすることになりかねない。
 拘束力はない「登山禁止」を表示することで、登山者を誤信・威圧して登山を自粛させようとすることは、手続的にフェアーではなく、違法である。
 これは、子供の発想である。親が子供に対し、いろいろと禁止するレベルの発想。親の場合は、子供に対する親権や懲戒権があるから、まだ法的に意味があるが、役所が雁首をそろえて稚児レベルことをしている・・・・・・大の大人がこんなわけのわからないことをしていたのでは・・・・・・・・・日本で、こんな低次元のことをしていては、日本の将来が思いやられる。

 欧米人には、「効力のない禁止」は、不気味に見えるかもしれない。ある種のブラックジョーク、理解不能、失笑ものだろう。中国人や韓国人には違和感がないかもしれないが。法的に禁止されていると勘違いして登山を中止するとすれば、日本の役所の行動はほとんど詐欺に近い。


2013年7月14日
季刊「刑事弁護」・「共犯者の信用性否定し、共謀の成立を認めなかった事例(林敏彦)」
 友人の林敏彦弁護士(元裁判官・東京弁護士会)が季刊「刑事弁護」(現代人文社)に、「共犯者の信用性否定し、共謀の成立を認めなかった事例」という論文を掲載している。林敏彦弁護士からそれが送られてきた。

 覚せい剤・関税法違反事件で高裁で、原審の無期懲役の判決を破棄し、無罪の判決がなされた。弁護人は、関係者の供述の細部の食い違いに着眼し、共犯者の供述の信用性を崩していった。その弁護活動は弁護士の鏡のようなものだ。
 感想は以下のとおり。
・関係者の供述の細部の食い違いから考える着眼点の鋭さ
・真実や正義は、ものごとの細部こだわり、追及することから生まれる。
・着眼点を実現するための弁護人の膨大な労力と熱意(弁護士は経済的に採算がとれないのではないか)
・推論による事実認定の問題性(刑事裁判での推論はおかしい)、証拠不開示による公訴棄却論など理論
・共犯者の供述から共謀共同正犯を認定する現在の裁判所の実務の問題性(冤罪の大量生産をもたらす司法のシステム。お上に都合のよい刑法理論)


2013年7月11日
帝京第五高校剣道部での傷害事件の訴訟
 愛媛県にある帝京第五高校の剣道部内で起きた傷害事件について、加害生徒と学校に対する損害賠償請求訴訟を提起した。
 事件の背景に、暴力による指導が日常化していた部と学校の体質の問題がある。「スポーツにある程度の暴力は必要である」という考え方は暴力のエスカレートを招きやすい。sportの語源には気晴らし・遊びの意味があり、スポーツにおける暴力は問題外である。
 以前、高校の野球部の部活動中の事故について、広島県に対し訴訟をし、全面勝訴に近い和解をしたことがある。今回の裁判は、クラブの監督が直接指示した結果の事件ではなく、学校の監督責任を問うものである。


2013年7月7日
講演「山岳遭難事例と法律問題」(山口市)
 山口県勤労者山岳連盟主催。
 参加者77名。会場は満杯。内容的にたくさんのことを盛り込み過ぎたかも。

   


広島山岳会「山小屋開き」
 恐羅漢にある広島山岳会の山小屋が完成し、その祝賀会。残念ながら山口市に行っており、欠席。完成した山小屋をまだ見ていない。


2013年7月4、5日
国立登山研修所専門調査委員会(富山県立山町、登山研修所)
 いろんな問題を考えるよい機会になるが、やはり立山は遠く、往復するだけで疲れた。


201年6月14日
2013年ゴールデンウィーク・北アルプス入山禁止?
 今年のゴールデンウィークに、涸沢と白馬大雪渓で「入山自粛要請」がなされた。これは、大雪が降り、雪崩等の危険があるた、山小屋や警察がとった措置である。
 ここで問題にしたいのは、その措置の是非ではなく、「入山自粛要請」なのか、「入山禁止」なのか、という点である。
 横尾大橋に掛けられた看板には、「雪崩の危険の為、入山できません」と書かれていた。この表示は「入山禁止」である。しかし、警察等は、あくまで「自粛要請」だと公表している。????
 
 登山道の管理権者や山の管理権者は、登山道の通行禁止措置や入山禁止措置をとることができる。上記の「雪崩の危険の為、入山できません」という看板は、そのような表示である。それは、、「入山自粛要請」ではない。
 しかし、マスコミに対して、「入山自粛要請」だと公表した。その理由は、「入山禁止」にすると登山者から反発を招くことや、決定権者が誰かとか、責任の所在を考えたためだろう。「雪崩の危険の為、入山できません」という看板は「入山禁止」を意味するので、「入山禁止措置をとりました」と言えばよいのだが、それはしない。「入山自粛要請」であれば、「入山を自粛してください」と看板に表示すべきである。実態は「入山禁止」だが、形のうえでは「入山自粛要請」にするという発想は、ある種のゴマカシである。

 実は、このような現象は、日本の社会には多い。谷川岳や剣岳の登山条例の内容は、形は「勧告」だが、実際には「禁止」を意味する。役所などが、関係者の申請を却下する場合、関係者に「取下書」を出させることは多い。あくまで、本人の意思で取り下げた場合には、不服申立ができない。責任回避をしやすい。リストラのほとんどは、解雇ではなく自主退職の形をとるため、法的に解雇を争いにくくなる。
 そんな日本文化のひとつの例として、上記の「入山禁止措置」があるように感じる。

 雪崩の危険があれば、入山禁止にしてよい。そうすべき場合もあるだろう。ただし、そのためには、適正な手続きで管理権者が決定し、当然、決定に対し責任も負う。そうでなければ、「入山を自粛してください」という看板を掲げるべきだろう。
 モノゴトを曖昧にしてはいけない。決定や判断に責任が伴うのは当然である。「誰が入山禁止の決定をしたのですか」、「それは私です。この決定に不満があれば、議論しましょう」でよいのである。日本の何ごとにも責任を負いたがらない傾向が、学校でのイジメなどに対し、校長や教育委員会が「決断」できない文化的背景になっている。


2013年6月12日
ホームページへのアクセス数3万件突破
 

2013年6月11日
三浦賞の創設?
 三浦雄一朗冒険家大賞が創設されることになった。
 それ自体はめでたいことだ。
 もともと、三浦雄一郎に対し国民栄誉賞の対象になるとの閣僚発言があったが、前回の国民栄誉賞騒動のこともあって、安部首相が乗り気でなく、そのままでは収拾がつかないので、新しい賞を創設することになったらしい。
 一般に、この種の賞は、国民栄誉賞を除けば、あまりない。民間団体や自治体が創設した賞が多い。植村直己賞は、兵庫県日高町(豊岡市)が創設した。
 日本は、賞が氾濫する○○賞大国である。賞を地域振興などに使おうという思惑がある。
 この点は、日本が世界一の資格大国であることに似ている。資格を創設して経済効果を期待するのである。

 賞の創設はあまり金がかからない手法である。賞状と盾の授与などは金がかからず、一定の効果が見込める。小学生などはメダルを授与すれば喜ぶ。大人も似たようなものである。公務員としての経験から言えば、役所の内部で、「金をかけずに世論を盛り上げるにはどうすればよいか」という議論をし、「表彰はどうですか。賞状とかメダルとか。経費はかかりません」という提案がなされる。
 インドやロシアでは、やたらとワッペンやメダルが目についた。インドの高官は肩章をやたらとたくさんの制服にくっつけていた。日本でも、田舎では、名刺に、やたらとたくさんの団体役員などの肩書きを書いている無職の老人がいる。田舎では、名誉は、一定の形をとらなければ、受け入れられにくい。賞はその形である。有形のものであれば、内容に関係なく、名誉として人々に受け入れられやすい。植村直己は、その冒険は日本人に受け入れられにくかったが、国民栄誉賞を受賞して、一気にマスコミの「有名人」になった。

 日本には、ミス○○や、○○文学賞なども巷に氾濫している。これらが乱発され、効果が少ない。その点は資格も大学も同じである。大学の数も乱立すると、誰でも大学に入れるようになり、レベルが下がり、大学を出てもあまり意味がない。資格者が溢れていれば、資格のあることがあまり意味を持たなくなる。教職の資格、介護士の資格などは、資格があれば職に就けることを意味しない。


2013年6月10日
「宅間守精神鑑定書」(岡江晃、亜紀書房)を読む
 これは、2001年に、児童8人が死亡、15人が重軽傷を負った池田小事件の加害者に関して、裁判でなされた精神鑑定書である。本来、公開されないはずの精神鑑定書が出版された。
 鑑定書は、加害者が情性欠如などの心理的発達障害があったとした。判決では、加害者を人格障害者だとしている。
 加害者の発達障害、人格障害の内容は特有のものがあるが、多くの重大事件の加害者に接した経験から言えば、情性欠如は珍しいものではない。ただ、池田小事件の加害者の場合は、情性欠如のあり方にかなり特異な点がある。
 
 多少は傾向が違っても人格の偏りのある人間は多い。池田小事件の加害者の場合は、多数の者を殺傷したので、マスコミが騒いだが、池田小事件の加害者に似たような人間はたくさんいる。そういう人格障害者が起こした事件の結果が、たまたま1人に対する殺人未遂事件に終われば、マスコミはほとんど取り上げない。

 そういう人格障害者が増えていることが問題なのだ。アメリカでは、人口の10パーセントが人格障害者だと言われている。そういう人間の一部が銃の乱射事件などを引き起こすのだが、それは確率の問題である。つまり、人格障害者の数が増えれば、そのうちに、大量殺傷事件が起きるということである。個々の事件を取り上げれば、それぞれ特異な事件であるが、世界で多数の無差別殺傷事件が起きていることを考えれば、この現象の中に普遍性がある。
 アメリカで銃の乱射事件が起きれば、銃規制の問題にしがちだが、銃規制をしている日本では包丁を使った大量殺傷事件が起きる。日本でも、ナイフを使用した無差別殺傷事件の後、ナイフの規制がなされたが、このようなイタチゴッコの規制は意味がない。凶器になる大工道具、農業工具、登山用具などをすべて規制しても、それほど効果がない。

 江戸時代やブータンでは、このような人格障害者はほとんどいない。どこが違うのかをいつも考える。多くの人は、「それは、時代と国が違うからだ」と考えて納得するのだろうか。時代と国のどこがちがうのか。それを考えることが、人格障害者の発生を防ぐことにつながるのではないか。


2013年6月2日
日本山岳サーチ・アンド・レスキュー研究機構総会(神戸市)
 欠席
 居住地域のスポーツ大会があり、役員になっているため、欠席。雨が降ったため予定を変更し、屋内で輪投げ、ビンゴゲームなどが行われた。


2013年6月1日
「Climbing Wall Accidents and Litigation」
 関西大学の青山先生が、スロベニアで開催されたUIAAの会議で入手された資料「Climbing Wall Accidents and Litigation」2012,Martin Wraggを翻訳中。
 欧米では、人工壁での事故に関する訴訟がたくさん起こされている。損害賠償責任が生じるケースは多い。刑事責任が認められたケースもある。欧米での裁判の考え方が、日本とは異なる点が、興味深い。
 後日、日本山岳サーチ・アンド・レスキュー研究機構のホームページに掲載予定。


2013年5月19日
山小屋建築の手伝い
 恐羅漢山(1346m)の山麓にある広島山岳会の山小屋を建て替え中であり、作業の手伝いに行った。雨の中の作業は寒かった。


                       


2013年5月12日
オスプレイに反対するネットワーク設立総会(三次市)
 呼びかけ人になっている関係で出席した。


2013年5月8日
英会話教室
 安芸高田市が英会話教室を実施しており、参加した。今後、週1回のペースで参加する予定。


2013年5月4日
白山で山スキ−
3日の夜出発、5日の早朝帰宅という強行日程
 

2013年4月28日
左手のピアニスト瀬川泰代さんのCD
 右手に障害があり、左手だけで演奏するピアニスト瀬川泰代さんのクラシックのピアノ演奏のCD「はじまり」を聴いた。瀬川泰代さんは高校の同級生の瀬川君の娘だ。少し前、朝日新聞・広島版に瀬川泰代さんの記事が載っていた。
 現在、瀬川泰代さんは、オーストリアのグラーツ音楽大学院に留学している。
 CDのピアノ演奏は片手とは思えない。何ともいえない情感が感じられる。多少はクラシックの造詣のある妻も感心していた。
今後の活躍が期待される。


2013年4月24日
三次家事調停協会、三次調停協会の総会と懇親会
 懇親会費6000円、民事調停協会特別会費5,000円、家事調停協会会費2,000円、その他4,100円、計17,100円を徴収された。特別会費5,000円は、最近、民事調停の件数が激減した結果、調停協会の収入が減ったために、特別に徴収した会費である。ちなみに、調停委員としての収入は、年間数万円程度である。
 調停委員は、金がかかる。

 弁護士をするにも、金がかかる。弁護士は、弁護士会費月額5万円を始め、年間何十万円も会費、カンパ、寄付、広告への協力などが必要となり、「弁護士である」ためには、金がかかる。かつて(今でもそうだが)、宴会の時などに、年配弁護士は気前よく、5万円くらいを出すのが当たり前だった。元来、弁護士は気前のよい武士か殿様でなければならなかった。
 しかし、最近は、弁護士の数が急増し、弁護士の一部に「メシは食わねど高楊枝」の傾向があるようだ。その結果が、増加している弁護士の不祥事や横領事件である。


2013年4月15日
遠方からの相談者
 仙台から山岳事故について相談をしにわざわざ三次まで来られた。
 以前、静岡県から山岳ガイドに関して相談に来た人がいた。
 先日、群馬県の女性がDV事件について相談に来たいと電話をしてきたので(メールあり)、簡単に話だけ聞いて、群馬県の弁護士を紹介した。
 以前、東京にある某旅行会社から山岳事故に関する依頼があったが、「雑誌に文章を書く」ことを理由に、依頼を断ったことがある。
 遠方にいる山岳ガイドから刑事事件について相談があり、アドバイスしたことがある(この事件は和解が成立)。
 その他、遠方の人から、電話、メール、手紙などでの相談が、時々ある。 
 


2013年4月12日
Trans Japan Race 2013(日本アルプス横断レース)
 2013年8月にこのレースが開催される。日本海から太平洋まで1週間かけて日本アルプスを縦断する過酷なレースだ。
 実行委員会からこのレースの実施内容に関して法律的な意見を求められた。危険を伴うレースについて、日本と欧米ではかなり法文化が異なる。事故が起きた場合の世論の非難など。


2013年4月5日
那智の滝騒動の顛末
 2012年7月16日の新聞に、和歌山県那智勝浦町にある「那智の滝」でクライミングをしたクライマー3人が軽犯罪法違反で現行犯逮捕されたという記事が載っていた。朝日新聞の記事の見出しは、「コラ!那智の滝登り逮捕」となっており、世論はクライマーに対する非難で満たされた。
 本来、軽犯罪法違反事件では、法律上、住居不定者、氏名不詳者、逃亡の恐れがある場合でなければ、現行犯逮捕ができない。
この事件は、その後、検察庁に事件が送られ、不起訴処分になった。しかし、その点は一切マスコミ報道されない。
 マスコミは逮捕は大きく報道するが、不起訴処分は報道しないことが多い。それにより、マスコミ報道による「制裁」は目的を達成する。
 世論は、「悪いことをしたのだから制裁を受けるのが当然である」と考える。しかし、司法は、道徳と刑罰を区別し、「悪いこと」の中で刑罰の制裁にあたいするものについて司法権を行使する。世論が、「悪いことをしたのだから制裁を受けるのが当然である」と考えても、司法権の行使はそれに追従してはならない。しかし、マスコミは、世論がもたらす非難を強引に司法の場に持ち込む機能を果たす。かくして、司法手続が、本来の目的を離れて、社会的制裁の手段として用いられている。マスコミの「公器」は「公危」と化す。
 このような世論とマスコミの傾向に、戦前の日本の言論やナチスの台頭、日本での「自己責任論」の席巻、イスラム過激派の行動などが連想される。


2013年4月1日
日本山岳協会顧問
 2013年4月から公益社団法人日本山岳協会と法律顧問契約を締結することになった。
以前から、広島県山岳連盟の法律顧問になっている。

広島弁護士会三次地区会長
 2013年度の三次地区会長をすることになった。


2013年3月29日
知識と判断力
 知識があることと賢明に判断できることとは違う。

 その例、
・立川断層を大学のエライ先生方が地震によるものと判断したが、土木関係者の指摘でそれが人工的なものであることがわかった。大学の先生は知識はあるが、コンクリートの破片がよくわからなかったようだ。
・福島原発事故で、大学のエライ先生方には水素爆発は「予想外」の出来事だったが、原発の技術者はそれを予想していた。
・法科大学院を推進する大学のエライ先生方は、弁護士の大幅増加が必要だと考えて、弁護士の数を急増させたが、仕事のない弁護士が増えた。さまざまな弊害が生まれ、法学部と法科大学院離れが加速した。弁護士が必要だということと、現実に弁護士に依頼するかは別問題。家が欲しい人がいるからといって、誰もが家を買えるわけではない。ど素人でもわかることが、しばしばエライ先生にはわからない。
・知識があれば、知識の当てはめはできるが、知識があっても適正に判断できるとは限らない。しかし、国民は、「エライ先生の判断は正しい」と勘違いしやすい。国や自治体は、各種の審議会などの答申という形で、このような国民の誤信を利用して政策決定を行う。


2013年3月28日
庄原市バイオマス検証委員会報告書の提出
 約1年かけて、この問題について、検証委員会で検証し、その結果をまとめて報告書を市長に手渡した。
 この種の検証委員会の委員をするのは2度目だが、毎回、苦労が多い。しかし、誰かがやらなければならない。
 その後でこの委員会の委員長として、記者会見をした。マスコミが5社が取材に来ていたが、記者会見時に記者からの鋭い質問はなく、拍子抜けした。記者の不勉強なのか、意識のレベルが低いのか。マスコミの関心は低いようだ。翌日、中国新聞が小さな記事を掲載していた程度の反応。
 この問題は、自治体の行政のあり方が問われており、全国どこの自治体にも共通する問題である。たまたま、庄原市は無邪気な失敗をしただけで、他の自治体ではもっと巧妙な失敗をしている。
 

2013年3月27日
司法試験合格者数3000人の目標の撤廃
 司法試験や法科大学院の在り方の見直しを進めている政府の「法曹養成制度検討会議」(座長・佐々木毅学習院大教授)は26日、司法試験合格者数の低迷などを受け、同試験の年間合格者を3000人まで増やすとした政府目標の撤廃を求める座長私案を公表した。教育成果の上がっていない法科大学院の統廃合なども打ち出した。
 同会議は国民からの意見募集を行った上で6月末にも改革案を取りまとめる予定。政府は8月をめどに関係閣僚会議で新たな法曹養成方針を決定する。法曹人口の大幅な拡大を目指した司法制度改革は軌道修正される。

 私は、15年前から、法曹の数は、法曹の需要と司法の利用しやすさによって規定されること、法曹の数を一気に3000人に急増させるのではなく、法曹の需要の増加と司法の利用しやすさの整備に合わせて、500人から漸増すべきことをさまざまな場所で書いてきた。司法改革の推進者たちが、ようやくこの点を少しだけ理解し始めた。百聞は一見に如かず。コンクリートの中で理屈と数字だけでモノを考え、現実を見ないとこのような事態が起きる。
 現在、弁護士の急増がさまざまな問題を引き起こしている。私は、15年前から、この点を指摘していた。
 「やっぱり、そうなったでしょ」 
 しかし、確信犯には何を言っても無駄だったのだろう。国民は司法に関心を持たないし・・・・・・・・


今後の弁護士像
・企業や役所で働く
   企業の弁護士の雇用は少し増えた程度でまだ微々たる数字である。企業の弁護士の雇用を待っていたのでは、企業は弁護士を雇用しない。現状では、日本の企業は、「法曹資格が必要だ」という考えがほとんどない。これが日本の企業の不祥事、不正、コンプライアンスの欠如、国際的信用の低下などを招いている。法曹資格者が入社試験を受けて企業や役所に採用されることが必要である。
   
・弁護士の副業化
   今後、ドイツなどのように、弁護士業だけでは生活できない弁護士が増える。弁護士業以外に生業を持つことが必要になる。    弁護士業を副業化するためには、弁護士の兼業の規制を撤廃することが必要がある。現在の届出制など無意味。

・弁護士
   今後、有能な学生は、法学部よりも、「人材が必要とされている分野」である医学部や国際関係などの学部をめざした方がよい。優秀な人は法曹以外の分野をめざすようになるだろう。日本の司法には魅力がない。ただし、語学を磨き、グローバル化に通用する弁護士であれば、弁護士の資格が役に立つ。
 

2013年3月17日
大山登山 
 快晴の中、数年ぶりに大山に登った。広島山岳会。三の沢〜槍尾根〜天狗峰〜東稜〜振子沢〜鳥越峠〜奥大山スキー場

                          



2013年3月8日
法科大学院の崩壊
・法科大学院への入学志願者の激減
・地方の法科大学院の司法試験合格者が少ないこと
・地方の法科大学院の経営困難
・弁護士の就職難
・弁護士の過剰、不正、不祥事の増加
・経験不足の弁護士の増加
・法学研究者の激減
・学生の法学部離れの加速
という問題がある。 

 日本では、法科大学院ができて以降、法学部の修士・博士課程への進学者が激減し、法学の研究者の養成が危機的な状況にある。アメリリカでは、法学研究者は、大学の博士課程で養成されず、法科大学院を出た弁護士が法学研究者になる。したがって、アメリカでは、法学研究者は修士・博士課程で養成されることはない(そもそも、アメリカの大学には法学部がない)。
 日本にアメリカ型の法科大学院を設置すれば、法学部の修士・博士課程への進学者が減少することは予想できた。法学部の修士・博士課程よりも、法科大学院の方へ学生が流れる。優秀な学生にとって、法学部の修士・博士課程よりも、法科大学院の方が、将来の就業の可能性が高い。また、法科大学院の教師になるためには法科大学院を出ることは必要だが、法学部の修士・博士課程を終了することは必要ではない。法学部の修士・博士課程は、法学部で教える教師を養成するために必要な機関ということになるが、修士・博士課程では法曹資格を得ることができないので、法科大学院に学生が流れやすい。
 法学部の修士・博士課程だけでなく、法学部も、学生離れが顕著である。優秀な学生にとって法曹になるために法学部に行く必要がない。法学部に行かなくても、法科大学院へ入るか、予備試験を受ければよいからである。

 アメリカ型の法科大学院とヨーロッパ型の法学部の制度を併合した「法学部+法科大学院」という日本の制度は、国家と学生に経済的な負担を強いるだけで意味がなかった。何も考えずにやたらと大学と大学院を作り続ける日本的手法は、国家と国民の財政破綻を招くだけで、破綻する。たくさん作ってつぶす手法では、借金だけが残る。
 「必要なものを作る」という発想は、破産者の考え方である。「必要なもの」がたくさんある中で、「いかに作らないですますか」を考えることが、知恵であり、政治である。それが破産国家を回避する道である。

 大学に学生を集めるために法科大学院を作ったが、結果的に、法学部の人気が低下した。従来、法学部を卒業してさらに法科大学院まで行かなければならないことは、経済的負担が大きい。また、法学部を経由しなくても法科大学院に入れるので、優秀な人にとって法学部は必要ない。

 法科大学院は多額の税金と国民の負担を強いる制度になっている。やたらと金のかかる制度であり、国家と国民の借金を増やしている。
 

旧司法試験の問題点
 法科大学院のない時代の旧司法試験は、誰にもでも公平に開かれ、誰でも受験できた。金のない者でも受験することができた。
 しかし、問題がないわけではない。それは、合格者数が500人の時代のことだが、当時の合格率2パーセントという競争のもとで、優秀な人材が法曹になりにくかったという点である。優秀な学生が4、5年勉強した後に、試験に受からず、試験を断念するということが少なくなかった。そういう人が私の知人にも少なくない。そういう人たちは、法科大学院制度があれば、簡単に法曹になっていただろう。合格率2パーセントの時代に司法試験を諦めた人は、わずか10年後に司法試験合格者が2000人に増えた状況に対し、複雑な思いを抱くだろう。かつての司法試験には口述試験があり、これに何回も落ちて合格を断念した人もいる。現在は、合格者数が多すぎて、技術的に口述試験を実施することができない。
 もっとも、合格率2パーセントの時代に司法試験を諦めた人も、今では企業や役所で重要なポストについており、今の状況下で平凡な弁護士になるよりも、よほど社会的貢献をしている(収入面でも、弁護士の平均年収よりも多く、社会的地位も高い)。
 
 私自身、司法試験で初めて論文試験を受験した時、不合格になったが、成績はA(成績が500〜1000番台)だった。当時、最高裁は不合格者に成績を公開していた。得意の民事訴訟法でF(3500〜4000番台)の成績だったことが、不合格の理由である。当時の論文試験受験者数は4000人だったので、民事訴訟法はビリに近い成績だったことになる。民事訴訟法の答案の中で積極的なウソを書いてしまったのだ。答案を書いている途中で「ウソかな?」という気がしたが、民事訴訟法に対する過信から書き直すことなくそのまま書いてしまったのが、敗因である。「確信がもてないことは書かない」という受験の基本を無視したのが、大失敗。無理をしなければ、民事訴訟法は、Aか、最悪でもBの評価を得ることができたはずだ。「普通であれば、受かっていたはず」という後悔から、その後、私は勉強意欲をなくし、登山に熱中した。結果的に、公務員の仕事が多忙だったこともあり、合格までにさらに数年を要することになった。しょせん、試験はそんなものである。
 法律家は、法律を具体的な事例に当てはめて紛争を解決するのが仕事である。司法試験は、法律の教科書に書いてあることとを記憶し、知識を使いこなして、試験問題を解く能力が試される。知識の記憶の前提として、ある程度の理解は必要だが、深く理解する必要はない。試験問題が解ける程度の理解でよい。また、理解した知識を忘れてしまえば、試験問題は解けない(法律家の実務では、知識を忘れても、書物を見ればすぐに思い出せるので、それほど支障はない)。「理解したことは忘れるはずがない」という人は、よほど記憶力のよい人である。私は、学生時代にフランス語で小説などを読んでいたが、今ではフランス語の動詞活用も文法もすべて忘れてしまった。どんな試験でも、「理解したことを覚えておく」ことが重要である。大学受験でも、暗記という言葉は嫌われるが、「理解したことを覚えておく」という意味の暗記が必要である。どんな試験でも、「試験問題を解ける知識と能力」の有無しか判断できない。人間の能力のすべてを判定できる試験はない。
 合格率2パーセントという試験は、「能力のある者を合格させる試験」ではなく、「受験者を落とすための試験」になってしまうという問題があった。
 もし、合格者数が1000人であれば、その年に私は受かっていた。そうなれば、私は天狗になり、その後の人生が大きく違っていただろう。それは幸か不幸かわからない。当時、私は、自分の不合格を棚にあげて、「あれだけの大失敗をしても1000番以内に入るとは、司法試験のレベルは高くない」と思っていた。このように言うと、私が試験に受かっていなければ単なる「負け惜しみ」だが、私は試験に受かったので、生意気な「嫌み」になり、皆から嫌われる。司法試験は大した試験ではないという思い上がりが、合格を遅らせたのだろう。これは天罰である。その点は自覚している。私に限らず、合格者数が2000人であれば、もっと簡単に試験に受かることができた人は多い。当時、法科大学院があれば、もっと早く試験に受かっていただろう。もっとも、今の時代であれば、私は法学部には進学していない。だいたい法律の勉強はつまらない。今でも、何でこんなつまらないものを勉強しなければならないのかと思いながら、法律の本を読んでいる。私が法学部を選択したのは、権力に対するアンチテーゼ、もしくは、逆説的な生き方がしたかったからだが、今の時代には、法学部と法曹の人気が十分に低下しているので、その必要性がない。

 法科大学院ができた当初、旧司法試験に受かることができなかった人で、法科大学院に入って司法試験に受かった人がけっこういる。いったん司法試験を断念していた人で、法科大学院に入り直した人も多い。法科大学院制度ができて以降、弁護士の師弟が法科大学院経由で司法試験に受かることが可能になったが、弁護士の中には、大学歯学部の大増設と同様のこの種の思惑のあった人もいたのではないか。
 試験の合格者数を急増させることは、試験制度に翻弄される多くの人間を生み出した。それは長い人類の歴史の中では取るに足らない人間喜劇だが、当人にとっては人生を左右する悲劇になった。

 旧司法試験の問題点として、「法曹の不足」が指摘されていたが、これは、合格者数を増やせば足りる。実際、旧司法試験のもとで、合格者数は500人から1500人まで増えた。このような増加をしても、裁判官の数はそれほど増えず、弁護士だけが増加した。弁護士の需要の検証なしに、さらに合格者数を3000人まで増やそうとした。結果から言えば、合格者1000人の時点で、弁護士の需要の検証が必要だった。平成8年に弁護士過疎地で開業した私の経験から言えば、弁護士過疎地対策はそのような政策の有無が問題であって、弁護士の総数の増加の問題ではなかった。弁護士が過剰になれば、弁護士過疎地の弁護士も増えるが、それは、「弁護士の過剰」に伴う「現象」であって、「政策」ではない。また、弁護士が過剰になっても、依然として弁護士が利用できない人がいる。現在でも、「弁護士の過剰」と「弁護士過疎」が併存している。「弁護士過疎」を解消するためには、弁護士の総数の増加ではなく、弁護士を利用しやすい制度が必要である。医師の総数をいくら増やしても、無医村を解消できないのと同じである。

 司法試験の合格者数は、弁護士の需要を見ながら、少しずつ増やしていくという政策が必要だった。しかし、法科大学院の大増設の結果、司法試験の合格者数は、法科大学院の設置数が法曹の数を規定するという奇妙な政策になってしまったのである。法科大学院を設置するために、司法試験合格者数を増やす政策をとったことが、失敗の原因である。


2013年1月13日
とんど祭り
 この地域のとんど祭りがあった。

                         


薪小屋
 手作りの薪小屋
                         


2013年1月9日
国立登山研修所専門調査委員会(東京)