2015年

2015年12月28〜30日
 
ベトナム人留学生(東北大学)のハイ君、トウン君、タイン君の3人が、我が家でホームステイをした。写真は、彼らが作った揚げ春巻きと一緒の記念撮影。

                   


2015年11月15日
2015年度山岳医講習会「東京クラスタU高所登山トレッキンング医学・山岳救助実践」(東京」)
 私は、「商業的ツアー登山をめぐる法的側面」について話したが、40分という短時間で内容を欲張り過ぎたかもしれない。
 参加者のほとんどは医師である。そこで感じたことは、弁護士の会合との違いである。どこが違うのか? 問題意識の広さ。科学的精神。司法の閉鎖性。司法の世界は孤立している。司法界は、井戸の中で、四角形をタテにするかヨコにするかの議論を繰り返しているような印象がある。
 この種の活動はボランティアが多いが、弁護士が過剰な現在は、時間的、経済的、精神的に、事務所を維持するだけで精一杯という弁護士が増えている。
 いつものことだが、東京日帰りは疲れる。

 

2015年10月15日
運動会のリスク管理・続
 運動会やその練習中に、足をつないで集団で走る「ムカデ競走」で昨年度、482人が足や肩などを骨折したことが、産業技術総合研究所(茨城県つくば市)の調査でわかった、とのマスコミ報道があった。
 恐らく運動会では、他の競技でも骨折などはかなり起きているだろう。学校のクラブ活動でも事故が多い。これらは、リスクのあることをすれば、当然の結果である。運動会自体にリスクがある。事故を起こさない注意は必要だが、それでも事故は起きる。徒競走では、転倒すれば、事故が起きる。転倒しない注意をしても、転倒することがある。100パーセント転倒を防止するのは無理である。したがって、運動会に子供を参加させる親と、運動会を中止しない学校は、徒競走による事故のリスクを承認しなければならない。それがないと、事故が起きた時にトラブルになりやすい。
 ムカデ競争もにたような面があり、100パーセント転倒を防止するのは無理である。組み体操との違いはリスクの程度である。



2015年10月14日
ニュージーランドの吊り橋落下事故
 
ニュージーランドでトレッキングコースの吊り橋のワイヤーが切れ、ハイカー3人が川に落下した。幸いハイカーに怪我はなかったが、日本でも起こりうる事故である。日本でも、大杉谷の登山道の吊り橋落下事故がある。日本の登山道の木橋、梯子、鎖は、管理責任の所在があいまいなので、この種の事故が起きる可能性がある。


2015年10月7日
マイナンバーのリスク管理

マスコミ報道によれば、
70代の女性が、「公的相談窓口を名乗る者から電話があり、偽のマイナンバーを教えられました。その後、別の男性から「公的機関に寄付するため、マイナンバーを貸してほしい」と連絡があり、教えたところ、寄付を受けた機関を名乗る者から「マイナンバーを教えたことは犯罪にあたる」と言われ、教えた記録を消すために現金を要求されたということです。このため、女性は郵送と手渡しで2度にわたって支払ったということです。」


 
どんな情報でも、漏れるリスクがある。マイナンバー情報は、いずれ、必ず漏れる。しかし、情報が漏れることがすぐに損害につながるものではなく、その間に、当時者の判断の過程がある。上記の事例では、女性が金銭を交付するかどうかが重要な判断である。人間の判断が被害を防ぐ。マイナンバー制度を心配する人たちを見ると、情報が漏れることをひどく心配しているが、情報が漏れることではなく、人間の判断ミスが被害をもたらす。この点は、振り込め詐欺でも同じである。詐欺の対象にされることは防ぐことができないが、詐欺の対象になっても、金銭を交付しなければ損害は生じない。だまされても、金を渡さなければ被害は生じない。金を渡さないこと、それがリスク管理である。

 「そんなことは自分ではとてもできないので、何とかしてくれ」というだけでは、情報がもれなくても、上記の事件のような被害に遭いやすい。登山では、「自分の命は自分で守る」、日常生活では、「自分の財産は自分で守る」というリスク管理が必要である。



2015年10月3日

運動会のリスク管理

 9月27日に、大阪府八尾市で、体育大会の組み体操中に10段ピラミッドのバランスが崩れ、下生徒が骨折する事故が起きた。
 これへのコメント
・事故は必ず起きる。これは確率の問題。学校での組み体操中の事故は、これまでに数千件起きているらしい。どんなに安全管理しても、事故がおきる。事故が起きてから、あわてて責任を問題にする。検証委員会で検証して、安全対策をするが、しばらくすれば、また事故が起きる。
・事故が起きれば、学校の損害賠償責任は免れない。もともと危険なことをしているので、法的には事故の予見可能性が肯定される。理屈としては、教師や校長を業務上過失致死傷罪に問うことも可能。死亡事故の場合は、業務上過失致死傷罪が立件されるのではないか。校長は、それを覚悟していますか?
事故が起きても軽症ですむようにすることがリスク管理である。組み体操がつぶれても怪我をしない程度の高さにすることが重要。
リスクへの挑戦は、学校以外の場で、自己責任のもとにすること
・学校では、「挑戦することが大切」と言うが、組み体操でそれがが身に付くのかどうかは、検証されていない。何となく、気分的にそのようなイメージがあるだけではないか? チャレンジ精神は、リスクの少ないことで、いくらでも養うことができる。チャレンジ精神は、肉体的鍛錬よりも、精神的鍛錬の問題ではないか。肉体を鍛錬すれば、精神的鍛錬になるようなイメージがあるが、そうではない。登山は、「がんばる」精神を養うようなイメージがあるが、現実には、登山家の多くはサラリーマンとしてがんばることができない人が多い。植村直己のように。登山家が登山で「がんばる」のは、それが好きだからである。
・組み体操は、観客が見て満足するだけではないのか? 運動会は、生徒のためというよりも、観客のためにやっている。そうであれば、リスクのあることは、しない方がよい。


2015年9月29日
『「幸福の国」深刻な薬物汚染』というおかしなタイトルのニュース
 次のようなニュースがマスコミ報道された。
 「幸福の国」と呼ばれるブータン。今、深刻な薬物汚染に揺れている。今年の薬物事犯の逮捕者は2年前に比べて倍の1000人を超えるペースだ。中には14歳から薬物を使用する若者もいる。2011年にはNGO団体が設立され、ドラッグ中毒者の社会復帰支援に努めるが、薬物に手を染める若者は増す一方だ。その背景には若者の高い失業率がある。」

 このニュースのタイトルは間違い。かつての「幸福の国」ブータンで、市場経済が浸透し、失業率が増え、不幸な国の仲間入りを始めたということだろう。高い失業率の国は「幸福の国」ではありえない。ブータンが「幸福の国」でなくなったのは、なぜなのか。
 私がブータンを訪れた2000年頃、自給自足経済のもとで失業はありえなかった。しかし、その後、市場経済と競争が浸透し、首都の人口が10年間で5倍に増えた。しかし、都会に仕事はあるが、競争があるので、必ず、失業者が生まれる。仕事のない若者が街に溢れた。市場経済と競争が格差をもたらす。
 不思議なことだが、当時のブータンでは、虫歯の子供が急増していた。我々友好使節団はブータンの小学校で歯磨き指導を行い(メンバーに歯科医がいた)、ブータンに2000本の歯ブラシを寄贈した。市場経済化と子供の虫歯の急増は、相関関係があった。我々は、ブータン政府の招待客としての待遇を受けた。
 ブータンが「幸福の国」でありえたのは、市場経済と競争導入以前のことである。市場経済と競争が人間を幸福にするという確信は、ほとんど宗教に近い。
 
 ブータンの大麻汚染は、別の側面がある。ブータンのいたるところに野生の麻があり、旅行者も大麻吸引が可能だった。衣類に麻の臭いが染みつき、日本の空港で麻薬犬に臭いを嗅がれた。今でも、ブータンでは、恐らく大麻が自生しているだろう。ブータンでは、大麻は、合法ではないが、使用が大目にみられていたようだ。当時、インドでも、大麻使用は大目に見られるフシがあった。我々のガイドをした真面目なブータン人のガイドも、高校時代に友人たちと大麻を吸っていたと笑いながら言っていた。ブータンでは、大麻使用を軽く考えているようだ。日本の高校生や未成年の大学生がタバコを吸い、飲酒するようなものかもしれない。



2015年9月24日
司法試験の問題の漏洩(続)
 
マスコミ報道によれば、司法試験の考査委員が試験問題を漏洩したのは、1人の学生だけでなく、講義中に、多くの学生に漏らしたとのことである。学生達は、「そんなことを講義で話してよいのか」と驚いたらしい。ネット社会の現在、このような情報は、試験の前にすぐに受験生の間に広まったのではないか。
 法務省は、漏洩問題の公表時に、「情報の流出先は1名に限られ、合格者の判定に影響はなかった」と述べたことは、政治的な判断からの判断だった。今回はどうするか? ダンマリを決め込むか? 最高裁は、水面下ですでに調査しているだろうが、その結果は、恐らく公表しないだろう。
 


2015年9月20日
妙義山登山
 
妙義山(群馬県)を縦走した。「今さら、妙義山なんか、登ってどうするの?」と言われそうだが、登山道の調査のためである。詳細は、「登山道のあり方・・・・妙義山の登山道をもとに考える」参照。
 
                               

 30年前にも、友人と妙義山に登ったのだが、登ったピークをまったく覚えていない。ハイキングのつもりで軽い気持ちで登ったので、長い鎖に、「こんな登山道があるのか」と驚いた記憶がある。今回、縦走しても、30年前に登ったピークを思い出せなかった。
 今回は、当日暑かったので、体力的にひどくし消耗したこと(水を1.5リットルも飲んだ)。何か所か迷いやすい個所があった(ルート外の踏跡あり)。鎖のメンテナンスさえなされていれば、ロープは不要。鎖は、不慣れな者には非常に危険だが、慣れた者には、危険というほどのものではない。
 妙義山の登山道
を「最上級」、「最難関」の登山道と呼ぶのはナンセンス。妙義山の登山道に山歩きの登山道のグレードをつけるのは間違い。これが、妙義山に、多くのハイカーや縦走登山者を招く。妙義山の登山道は、「登攀路」と呼ぶべきであり、「山歩きの登山道」と区別する必要がある。

 妙義山の登山道では、毎年のように死亡事故が起き、登山道の整備をめる問題が生じており、日本の登山道問題を象徴するルートである。
 
 登山のあり方は、アウトドア活動や自然と人間の関係の問題であり、それは社会、文化と関係がある。登山を通して、日本の社会と人間を考えている。



2015年9月19日
安保法案の可決について
 安保法が可決され、成立した。世論調査では、安保法案の慎重審理や反対意見が国民の多数を占めていたが、それを無視して法案を成立させたことに驚かされる。憲法学者の多数が反対する解釈を採用する政府は、「日本に、憲法学と憲法学者は不要」と言っているようだ。日本に知性は必要ないらしい。今後、有能な人材が政府から離れていくだろう。表面的に政府に忠誠を誓う人間だけで政府を動かしても、すぐれた政策は生まれない。それは、過去の歴史が物語っている。日本が、過去の戦争に至る過程で、有能な人材は愛想を尽かして政府を離れ、あるいは、「貝」になり、思考停止をしていった。どこの国でも、国が傾く時には、無能な政治家が実権を握る。シリア、IS国、ギリシャ、北朝鮮、過去のドイツなど。無能な人間が実権をとり、無能な政策が次々と生まれた。あとは、なりゆきまかせで、誰も責任を負わない決定がなされていった。

 安部総理は、「決めるべき時に決めるのが、民主主義だ」と述べたが、この発言から民主主義をいかに理解していないかが、よくわかる。国の代表者の民主主義の理解がこの程度では、恥ずかしい。民主主義は、議論の過程が重要である。民主主義=多数決と勘違いする人が多い。民主主義では、ものごとが決まらないこともある。「決まらない」ことも、民主主義のもとでは重要である。最初から「どうして決める」ことを前提とすることは、民主主義に反する。最初から「どうしても決める」つもりであれば、議会は不要である。国会での多数派は、国会で議論をしなくても、最初から多数決の結論がわかっている。選挙で多数派を占めれば、それだけで法律を成立させればよいことになる。「決めるか決めないか」を「決める」ために、国会で議論をするのである。最初から「どうしても決める」つもりであれば、国会での議論は儀式になってしまう。これは民主主義の否定である。議会不要論は、田舎の自治体などでも主張されているが、民主主義を理解していないと、このような議論が出て来る。国会不要論。

 今回の反対運動は、労働組合や政党を越えて後半な階層に広がった。60年安保や70年安保反対運動が学生や労働組合が中心だったことに較べれば、今回の運動は幅広い階層に及んだ。日本でも、国民の政治との関わりが多少は広がった。国民が政治に関心を持たなければ、ロクな政府は生まれないというトクヴィルの言葉が想起される。今回の安保法案をめぐる経過は、日本の民主主義の始まりである。山本太郎議員は、今回の事件から「自民党の死」をイメージしたのかもしれないが、そうではなく、「民主主義の誕生」を意味する。
 今回の国民の法案反対運動が、次の選挙に反映しなければ、国民が法案を承認したことになる。一度成立した法律でも、国会の議決でいつでも廃止、停止できる。それをするかどうかは、国民が選挙で意思表示するほかない。国民の賢明さが問われる。「賢明な国民は賢明な政府を持つ」。
 戦争の影響をもっとも受けるのは若者である。安部首相を始めとする老年は、戦争で死ぬ前に寿命が尽きる。今回、多くの若者が、反対運動に参加した。今後、18歳以上の者の選挙権行使の真価が問われる。今回の事件は、民主主義の学校であり、格好の反面教師。「これでは、選挙は戦えない」という状況になれば、自民党は分裂する。
 世論の動向に鈍感な確信的政治家は短命で終わる。ドイツのメルケル首相のような柔軟性のある政治家は世界の中でリーダーシップと尊敬を得る。政治家の資質の違いを感じる。安部政権もほぼ終わりかなというのが率直な感想。岸信介も、安保法案の成立と引き替えに辞職した。



2015年9月9日
司法試験の問題の漏洩
 司法試験の考査委員が試験問題を漏洩する事件があった。
 マスコミ報道では、司法試験は、「合格率23パーセント」の「最難関試験」であり、法務省は「情報の流出先は1名に限られ、合格者の判定に影響はなかった」としている。
 すぐにいくつかの疑問が湧く。
 合格率23パーセントで、最難関試験? 合格率だけからいえば、その程度の国家試験は珍しくない。現在では、司法試験は、「最難関の試験」ではない。「最難関の試験」は、「現代の科挙」と呼ばれた合格率2パーセントの時代の話である。公務員1種試験、外交官試験、医師の試験、弁理士試験、高校教師の採用試験、募集1人に対し数十人が応募するような試験の方が難しいのではないか。
 検証していないのに、なぜ、「情報の流出先は1名に限られ、合格者の判定に影響はなかった」ことがわかるのか。関係者が、「漏洩は1人だけ」と言ったとしても、それが事実かどうかはわからない。確かめようがない。法務省は、最初から結論を決めている。
 この教授は、筑波大学法科大学院時代にも試験問題を漏らしたのではないかという噂がある。問題の教授は、司法試験の問題を自分の論文や本から出しており、その教授の書いた本は受験性に非常に役立ったらしい。司法試験の受験生にとって、この教授は有名な存在で、人気があったらしい。講義でも、司法試験の問題の傾向を述べることがあったらしい。それらは、試験問題の漏洩行為ではないが、それに近い行為である。
 「試験問題を漏らすまでは、何もしない」というのが役所の考え方である。しかし、そのような考え方が、「危険だという証拠がなければ、安全である」として原発を容認し、福島の事故につながった。現実に、原発事故が起きるまで、原発が危険だとは考えない。現実に原発事故が起きても、「これは、これ、あれは、あれ」、「今後は、安全である」として、危険性を否定する。福島原発事故の責任を国も裁判所もとらない。
 「有罪の証拠がなければ、有罪ではない」という考え方は、刑事裁判では当てはまるが(ただし、現実にはそのように運用されていない)、行政の場面では、そうではない。行政の場面では、疑わしい場合には、積極的に対処すべきである。あるいは、事件が起きる前に積極的な防止策をとる必要がある。この教授は、かなり前から疑わしい行動があったのであり、行政はもっと早く対処すべきだった。

 今年度の合格発表までに問題の受験生を採点から排除する必要があり、法務省は処理を急いだ。合格発表時にずれ込むと、「不合格」にしなければならないが、その場合には、もし、訴訟になれば、点数や採点過程が法廷に提出されることになる。「採点から除外」の場合には、不合格処分がないため、訴訟になりにくい。「点数がない」ため、公開すべき点数や採点過程がない。
 2007年にも考査委員だった慶応大学の教授が問題の類題を学生に教えていたことが発覚した。
 司法試験委員のいる法科大学院とそうではない法科大学院間の格差。「司法試験委員のいる法科大学院の方が受験に有利。司法試験委員の講義は司法試験の役に立つ」と誰でも考えるのではないか。背景に法科大学院が司法試験の予備校化している問題があり、法科大学院を作った動機と経緯にその原因がある。司法試験の問題の作成者は、法科大学院の講義や運営に従事すべきではない。現状は、予備校の講師がセンター試験の試験委員を兼ねているようなものである。大学と受験予備校の違いは、国の認可の有無と国からの交付金の有無、教師の権威とプライドの違いだけである。
 法科大学院の司法試験の予備校化だけでなく、大学が就職予備校化している問題がある。これは、大学が乱設され、就職における競争が激化していることが背景にある。競争がもたらす問題性。「司法試験の合格者数を増やせば、法科大学院の司法試験の予備校化を防止できる」という意見があるが、これは、弁護士をめぐる競争の激化が多くの弊害をもたらしていることを考えていない。弁護士の不祥事の増加、ブラック弁護士、グレー弁護士の増加、無意味な紛争の増加、弁護士報酬の「隠れ増加」など(現在の弁護士が置かれている状況を考えれば、司法試験は、不正をしてまでめざすほどの魅力のある試験ではないと思うのだが・・・・・・)

 これらは、野放しの自由競争ではなく、競争を適切に管理することの重要性を物語っている。医学部のように法科大学院の定員を限定することが必要である。大学についても、大学で意味のある教育ができる程度にその数を限定することが必要だった。今さら、増えすぎた大学の数は、如何ともしがたい。競争の管理は、登山の世界でも感じていることである。野放しの自由が、人気のある山に登山者が集中させ、登山環境が荒廃している。すべてのものごとが関連している。「これは、これ。あれは、あれ」ではない。

 私は、かつて公務員をしていた頃、国家試験の問題を作成し、その受験対策の講習会の講師として役所から派遣されていたことがある。講習会では、試験問題を漏らすことはしないが、「このあたりが重要ですよ」とコメントする。重要というのは試験に出るという意味である。試験問題を作った本人が言うのだから、的中するのは当たり前。毎年、それが役所の慣例行事になっており、担当した公務員はそれを拒否できない(ムラ社会だから)。おかげで講習会は大盛況。多くの受講料が講習会を主催する役所の外郭団体に入り、そこは役所の天下り先、役人は外郭団体から「官官接待」を受けるという構図があった。そのような構図はその国家試験だけではなく、行政全般にあった。30年以上も前の話であるが、これを書くのは公務員の守秘義務違反? もう、時効でしょ。


2015年9月6日
安保法案反対の「声なき声」
 
世論調査では、国民の65.6パーセントが、安保法案の成立に反対している。橋本は、国会前で反対しているデモは、国民の多数意見ではないと言ったが、そうではない。現在の国会議員は、国民の多数意見で選出されているわけではない。安保法案に反対する世論が多数を占めても、選挙では、安保法案推進の政党の候補者が当選することが多い。これは、小選挙区制の問題制と、国民の賢明さの問題である。国民は、安保法案を支持する前提で、安保法案推進の政党の候補者に票を入れるわけではない。「自分は安保法案には反対だが、安保法案推進政党の候補者が、安保法案について考え直してくれるのではないか」と考えて、安保法案推進政党の候補者に票を入れる国民も多い。国民の投票行動は、しばしば、合理的な一貫性を欠き、わけのわからないことが多い。人間は、「エコン」ではなく、「ヒューマン」なのだ(「ファースト&スロー」カーネマン)。それを巧妙に利用したのがヒトラーである。
 国民の意見を聞くのであれば、国民投票が必要である。安部の祖父の岸伸介は、安保反対デモを前にして、「国民の声なき声」に従うと述べたが、「国民の声なき声」は確かめようがない。国民投票を実施すれば、安保反対が国民の多数を占めただろう。それをすることなく、国民の声なき声を取り上げるのは、天の声を聞いたという宗教家と同じレベルのゴマカシである。



2015年9月2日
東京五輪エンブレム問題に見る日本的不明朗
 東京五輪エンブレムのデザインが白紙撤回されたが、誰がどのようにして撤回を決定したのかが不明である。おそらく、政治家の圧力で組織委員会がデザイナーに「取り下げさせた」のではないかと思われるが、すべては不明である。
 「取り下げさせる」という手法は、日本の役所では一般的な手法である。ほとんどの日本人もこれに違和感を感じない。本来は、組織委員会が「エンブレム案は商標権侵害の恐れがあるので、採用を取り消す」決定をすべきだが、それをするとさまざまな責任問題が浮上するので、それを回避する。「取り下げさせる」という手法は、責任回避の手段である。裁判所もこれを多用し、申立を「取り下げさせる」ことが日常的に行われている。市役所も、生活保護の申請を「取り下げさせる」水際作戦を行っている。これにより、ものごとがあいまい化される。



2015年9月1日
大分女児失踪事件
 大分市内で行方不明になった女児を同じアパートの女性が保護していたことについて、大分県警は、「事件性はない」と判断した。しかし、ネット上では、「これが男性だったら逮捕されたのでは」といった疑問が出ている。
 
 まさに、その通り。保護者が男性の場合は、逮捕され、20日間の勾留となり、その間に、被疑者が「自白」すれば、監禁罪で起訴されて、前科がなければ執行猶予付きの懲役刑となる。前科があれば実刑になる。被疑者の社会的地位が高い場合や、示談ができた場合には、不起訴になる。示談は、被疑者が罪を認め、慰藉料を払うことが前提であり、否認していれば、勾留が続き、保釈が認められない。
 問題は、逮捕、勾留、起訴に関して、警察、検察の裁量権が大きく、恣意的に運用されていること、裁判所が検察の言いなりになる傾向がある点である。逮捕、勾留の要件はあるが、日本では実務的運用に法律の解釈を合わせるので、警察、検察の言いなりになりやすい。


2015年8月28日

家庭用折りたたみ式樹脂製踏み台の破損による事故
 家庭用折りたたみ式樹脂製踏み台の破損による事故が増えていることが、マスコミで話題になっている。独立行政法人・製品評価技術基盤機構(NITE)は27日、正しい使用方法の徹底などを求める注意喚起を出した。この種の事故は、@踏み台の強度A経年劣化によるものだろう。

 @は、70キロの強度の踏み台に体重100キロのの人が乗れば破損するというのがその例である。Aは、合成樹脂は紫外線と湿気で簡単に劣化する。常に野ざらしになっていれば、1、2年で1年も経てば、ボロボロになるのではないか。したがって、どんなに製造段階で安全規制しても、事故は防げない。もっとも大切なことは、製品のリスクの表示と、消費者のリスク管理である。合成樹脂の梯子がないのは、経年劣化すると危険だからである。合成樹脂の梯子のリスクを表示すればよいというものではない。踏み台に限らず、ロープ、シート、ポール、テントなども紫外線で簡単に劣化する。ナイロンロープは簡単に紫外線で劣化するので、そのリスクを知らない人は、ロープを使用すべきではない。

 リスクの表示消費者のリスク管理能力が重要である。リスクの表示は法律で義務づけ、消費者のリスク管理能力は、小学校からの教育によって、長い時間をかけてリスク管理能力が身につく。地震や津波からの回避能力も、同じである。自然体験は、リスク管理能力を訓練するよい機会だが、現状の野外活動は、自然の中で都会生活をしているだけであって、リスク管理能力はまったく身につかない。野外活動の指導者が、リスクに関してきちんと学習をする機会がない。



2015年8月27日
広島県北地域労連労働相談センター設立
 設立総会(三次市)


2015年8月24日
集団的自衛権を考える集い
 主催 広島弁護士会三次地区会
 場所 まちづくりセンター(三次市)
 時間 午後6時〜午後8時
 参加費 無料
 内容 安保法案の解説(講師:弁護士溝手康史)
     集団的自衛権に関する憲法上の問題点の解説(講師:弁護士前田剛)
    等

 
 

2015日8月23日
「これは、これ」、「あれは、あれ」という発想
 「これは、これ」、「あれは、あれ」という考え方をする人が多い。
 例えば、交通事故を起こしても、「この事故は、○○が原因だった」、「あの事故は、□□が原因だった」と考え、何度も、事故を起こしても、その人の頭の中ではひとつひとつの事故はすべて個別性があり、関連性がない。
 企業が不正を起こしても、「これは、これ」、「あれは、あれ」と考えれば、すべて社員と役員個人の資質と偶然の結果になる。しかし、同じ企業で何度も不祥事があれば、そこに、根本的な要因を考えなければならない。
 同じ航空会社が墜落事故を起こしても、「これは、整備不良が原因」、「あれは、パイロットの精神疾患が原因」などと考えれば、すべて、事故は偶然の結果になる。しかし、同じ航空会社が何度も事故を起こせば、そこに事故の要因を考える必要があり、航空会社の管理体制などを考える必要がある。
 
 調布市での軽飛行機が墜落した事故と米軍ヘリ、戦闘機の墜落事故、嘉手納基地や横田基地の危険性を、バラバラに考えれば、ひとつひとつのに問題で終わってしまう。調布市での事故では、亡くなったパイロットを非難してオワリということになる。米軍ヘリの墜落では、米軍が再発防止を約束して終わる。世界中で、航空機が墜落しているが、その原因はすべて異なる。したがって、「これは、これ」、「あれは、あれ」という考え方をすれば、個々の事故を非難して終わる。
 しかし、航空機が墜落する確率や人間がミスを犯すリスクを考えれば、航空機は確率的に必ず墜落する。これは、「航空機は、多数回飛んでいれば、いつかは墜落する」という意味である。確率論的には、嘉手納基地や横田基地では、これからも墜落事故が必ず起きる。大津波や地震、火山の噴火、原発事故はこれからも起きる。市街地の中にある飛行場は、事故の被害が大きいことは明らかである。堤防を作る方法では、津波事故を完全には防げない。原発がある限り、原発事故のリスクがある。「これは、これ」、「あれは、あれ」という考え方は、これらの問題の思考停止をもたらす。

 山岳事故も繰り返し起きている。学校登山でも過去に15人の生徒が死亡する事故が2回起きている。しかし、その間に数十年の間隔があいているので、世論は前回の事故のことは忘れている。この点は、津波事故に似ている。対策としては、高山での学校集団登山はしないことが必要だが、N県の「これは、これ」、「あれは、あれ」という考え方のもとで、現在でも、高山での学校の集団登山が継続されている。次の重大事故は、30年後くらいかもしれないが、確率的に必ず事故が起きる。
 
 経済学や法律学では、人間が合理的な行動をとることが前提になっている。不合理な行動は、「あれは、例外的なものである」として無視されやすい。例外的な事象が増えても、「あれは、あれ」と考えれば、それを無視し続けることができる。「これは、これ」、「あれは、あれ」という考え方は、経験から学ぶことを不可能にする。「これは、その人が優秀だったからだ」、「あれは、あの人がミスをしたからだ」、「あの人が特別なだけだ」などと考え、ものごとをすべて個別性、偶然性の結果にしやすい。世の中の出来事はすべて無関係に偶然の結果として生じたものとみなされやすい。
 外国の制度を紹介し、日本の問題点を指摘しても、「ここは日本である」と言う人がいる。「日本は、日本。外国は、外国」と考えれば、何も問題意識が生じない。すべての国の制度はバラバラの状態で関連性なく存在しているとすれば、それ以上何も考えることがない。

 交通事故、航空機の墜落、山岳事故、学校事故、日常生活のミス、これらはすべて関連性がある。人間は必ずミスを犯し、それは確率の問題だという共通点。日本も、外国も、同じ人間の社会という共通性。「これは、これ」、「あれは、あれ」という考え方」は、人間がミスを犯しやすい点を隠蔽する。
 
 個々の出来事、事件、事故の関連性、違い、原因などを考えることは、具体的なものごとを抽象化する思考方法である。おそらく、これは学校での勉強を通じて養われなければならないが、現在の学校は、そうなっていない。
 日本の登山道の管理と、司法試験のあり方、原発事故、安保法案は関連性がある。どうあるべきかという理念とリスクの管理の点で共通性がある。「これは、これ」、「あれは、あれ」ではない。
 「これは、これ」、「あれは、あれ」という考え方は、思考停止の結果、現状維持をもたらす。
 誰でも、自分が直面している問題だけを考え、全体の中での位置づけや他の出来事との関連性を考えない傾向がある。この主観的な思考は、視野の狭さ、思考の硬直性の結果だが、感情も大きく関係する。思い込みが強いと、「これは、これ」、「あれは、あれ」という考え方につながる。
  「これ」、「あれ」は、もともと別物であって関連性がないという考え方は、「これ」と「あれ」の間に「壁」を作る。「思考の壁」を作る人は、どんなに多くの知識や経験を得ても、それを役に立てることができず、進歩しない。

 日本では、この種の議論は、人々から嫌われる。
 コンプレックス、プライド、憎悪などの感情が、「思考の壁」を作りやすい。
 情緒的な日本の文化は、思考の壁を作りやすい。
 「これは、これ」、「あれは、あれ」という考え方に縛られれば、人生は偶然の結果の積み重ね、人間は運命に翻弄される頼りない存在になってしまう。多くの離婚、借金、家族紛争、事業経営などの相談を通して、ものごとの関連性を抽象的に考えることのできない人が多いことを感じる。この点の考え方は、自分の行動と人生を左右し、結果はすべて自分にふりかかってくる。幸福になれるかどうかは、自分の考え方次第である。また、この点の考え方は、民主主義の基礎であり、その国の在り方を決定する。



2015年8月22日
不明朗な高校入試
 関大一校の不明朗な入試が問題になっている。しかし、不明朗なのは、他の私立高校でも同じである。コネや、スポーツ推薦、一般推薦なども推薦基準に主観がはいりやすく、不明朗である。学校の理事者のコネでの推薦入学など。甲子園に出る高校のスポーツ推薦の実態。私立学校・大学の推薦入学は、規定さえ作れば、どうにでもなる。国民は、「推薦」という言葉から、簡単に公平だと勘違いしやすい。「推薦」は、高校がとりたい生徒をとるための隠れ蓑である。逆にいえば、とりたくない生徒はとらないことができる。企業も、とりたい人材を採用する。公平かどうかは、言葉や型式ではなく、中味の問題である。
 日本では、入試、採用における、採用者の自由が法的に保障されている。私立高校・大学や民間企業には、憲法の直接適用がなく、憲法14条の適用がない。誰を選ぶかは、学校や企業の自由とされている。この点を知らない国民が、あまりにも多い。
 群馬大学医学部で56歳の女性が合格点を超えていたが、面接で不合格になった事件で、裁判所は、年齢差別を訴えた女性を敗訴にした。年齢による医学部不合格を誰もがおかしいと考える。しかし、裁判所(高裁)は、入試の合否は大学の裁量であり、原則として裁判所の審査の対象にならないと述べる。これは、たまたま、国立大学のケースなので、差別を理由に裁判が起こされたが、私立大学の場合には、採用の自由がほとんど野放しなので、裁判は難しい(憲法の直接適用がない)。これが裏口入学をもたらしている。年齢どころか、金次第ということ。裏口入学に対する国民の反発は強いが、これが法律で禁止されていないという不合理。合否を決めるのは、大学の自由裁量に属するというのが、現在の日本の法制度である。
 企業の採用でも、採用の公平性を求める世論が強く、企業は、世論に押されて差別をしないようなフリをしているが、法制度としては、企業の採用の自由が原則になっている。優秀な人材を選ぶ自由が企業に保障されており、企業が、年齢、学歴、能力、人格、前科、破産の有無などにより格差をおうけても、それだけでは違法ではない。優秀かどうかの判断は、本質的に、差別的な要素に基づく判断であることを避けられない。高齢者よりも若者の方が体力があることで差別して何が悪いのか。高卒よりも大卒者を優遇して何が悪いのか、有名大学卒者を優遇して何が悪いのかということである。能力に関係なく学歴を重視することは不合理だが、通常、能力を判断するひとつの手段として学歴を評価する。大学院卒者を高卒者よりも能力がないとみなすことは、明らかな根拠がない限り、一般的には不合理である。銀行が、破産者や前科者の雇用を敬遠したといてもおかしくない。外交官の採用では、粗野な育ちの者は、品位を欠き、適正を欠くとされやすい。医学部では、高齢の学生は適正を欠くと評価したのだろう。裁判官の採用時には、最高裁は高齢者を拒否する。公務員の採用に年齢制限を課すことが多いが、内部規定さえ作れば、差別が合法化される。銀行や警備会社は、破産者を雇用をしないという内部規則を作れば、差別が合法化される。
 これらの差別を禁止しようとすれば、そのような法律が必要である。しかし、日本には、男女差別を除いて、それがない。法律がなければ、世論がいくら騒いでも、裁判所は動かない。大多数の法律家は、基本的に、法律の奴隷である。世論が騒ぐが、政治・立法に反映されず、国民は不満だを持ち続けるといナンセンス。
 もし、入試や採用時に平等、公平を求めるのであれば、そのような法律を作る必要があるが、日本には、それがない。それがなければ、私立高校では、誰を合格させるかは学校の自由というのが、法律の原則である。その点を、国民のほとんどが知らない。国民は、法治主義と関係ないところで、手続きが不明朗だといって騒ぎ、大阪市が行政指導という、これまた不明朗な手続を行使するのが、日本的なやり方である。行政指導の結果、高校が、「是正します」と確約して、ウヤムヤのうちに世論も関心を他の事件に移していくことになるのだろう。で、結局、不明朗な入試は、あいかわらず続いていく・・・・高校が情報を公開しなければ、自由裁量の中味がわからないし、日本では、私立高校に憲法の直接適用がないので、裁判が難しいし、差別禁止する法律もないし、弁護士もこれを扱うのはボランティアの仕事にになるし、裁判所の判断も当てにならないし、どうにもならない。これが、日本の余りにもオソマツな現実。
民主主義、法の支配の欠如

 
その国の法的な文化度が高い国ほど、国民の要求と法律の内容のギャップが小さい。


2015年8月14日
学校教職員賠償保険
 マスコミ報道によれば、公立学校の教師が賠償責任保険に加入するケースが増えているらしい。個人賠償保険は「仕事」に適用がないため、これは、教師の職務に特化した賠償責任保険である。公立学校の教師に違法行為があった場合、原則として、通常、学校が責任を負い、教師は責任を負わない(国家賠償法)。したがって、弁護士は、通常、学校を被告に訴訟を起こし、学校の教師を被告として裁判を起こすことはない。教師の通常の仕事上の過失であれば、教師個人は損倍責任を負わない。
 職務と関係のない教師の違法行為については、公立学校の教師個人が損害賠償責任を負うが、これは上記の学校教職員賠償保険の適用はない(職務行為ではないため)。この場合には、個人賠償責任保険の対象となるが、暴力等の故意行為は賠償保険の対象外である。学校内での教師の体罰は、職務が関係していること、故意行為であることから、学校教職員賠償保険の適用はない。
 
 新聞に記載されている事例は、いずれもモンズターペアレントが教師個人を相手に訴訟をしたケースである。そのようなケースは稀だが、マスコミは稀なケースを引っ張り出してくるのを好む。それが、ニュース性があるからだ。レアケースが1件でもあれば、国民が受け取る萎縮効果としては十分である。また、保険からの支給例は、いずれも教師が損害賠償責任を負わないケースだが、いずれも軽微な物損事故等であり、おそらく教師が学校に報告することなく、保険で処理したものと思われる。本来、教師が損害賠償責任を負わないケースなので、保険から支給することはおかしい。いずれも保険代理店が違法に処理したものだろう(新聞記事でも、教育委員会の判断次第では、必ずしも個人負担になるとは限らないとわざわざ注記してある)。
 私立学校の教師は、国家賠償法の適用がなく、教師に違法な行為があれば、教師と学校が連帯して損害賠償責任を負うので、賠償責任保険に加入する意味はある。しかし、賠償事例は極めて少ないはずである(保険料もやすい)。
 新聞記事に惑わされることなく、法律を正しく理解することが必要である。

 問題は、教師を被告にする訴訟の背景である。マスコミは、「国民の権利意識が強くなったから」と説明するが、そうではない。正常な権利意識のある国民は、学校事故では、学校を被告にする。学校事故で、学校を被告にしない訴訟は、保護者と弁護士がおかしいのである。
 通常、弁護士は、学校事故では教師を被告にする訴訟を起こさない。しかし、司法改革の結果、弁護士が増加して過剰なので、金さえ出せば、何でも引き受ける弁護士が増えている。裁判に勝てる見込みがなくても、弁護士に着手金が入る。上記新聞記事でも、教師個人を相手とする訴訟で保護者側が負けている。最終的に保護者が敗訴するとしても、教師個人が訴えられたら、弁護士費用の負担がある。そのため保険に加入するとすれば、保険料は無駄な出費ではないか。提訴される確率を計算せよ。
 一般に、賠償保険に加入している場合には、弁護士費用が高くなる(弁護士費用を保険会社が払うので、弁護士が高額な着手金を要求する)。弁護士の利害としては、モンスターペアレント訴訟が増えて、教師が賠償責任保険に加入することを歓迎する。現状では、モンスターペアレント訴訟は極めて少ない。今後、それほど増えないだろう。なぜなら、訴訟を起こす保護者側も弁護士費用がかかるので、裕福な者か生活保護受給者以外には、簡単に訴訟を起こせないからである。生活保護受給者は、法テラスが弁護士費用を出してくれるので、タダで訴訟を起こせる(ただし、訴状に貼る印紙代は、本人負担。モンスターペアレント訴訟では、訴訟救助は無理)。これがクセモノかも。
 アメリカで医療過誤訴訟が年間に数万件あるが、日本ではわずか800件に過ぎないという現実は、日本が、いかに訴訟社会でないかを示している。「今後、日本もアメリカのような訴訟社会になるのではないか」という不安商法が20年くらい前から蔓延しているが、この20年間で、日本の訴訟件数はそれほど増えていない。最近は、弁護士の数が急増しても、訴訟件数は減少傾向にある。今後も、この傾向が維持されるだろう。
 保護者の異常性と保険会社の打算と増加した弁護士の収入確保が一致した結果が、このナンセンスな訴訟形態と保険形態になっている。困ったものだ。
 

 
2015年8月13日
安保法案反対の国民の世論
 先日、安保法案の内容をよく知らない人が、「戦争で家族が死ぬのはいやだ。徴兵制はいやだ」と言っていた。自民党がいくら、「絶対に徴兵制はしきません」と言っても、自分と家族の利害に関わることに不安を感じる人が多い。増税はいやだという感覚もこれに似ている。自分の利害に関係ないことは、あまり考えないが、自分の利害に関係すれば、世論が動く。これが現在の状況ではないか。そのように思ったのは、その人が、海外派兵によって自衛隊員が死ぬことにそれほど関心を持っていなかったからである。戦争で自衛隊員が死ぬことは、他人ごとだが、自分や家族が戦争の犠牲になることに非常に敏感である。
  日本で、今まで、憲法9条を支えてきたものは、高尚な理想や議論ではなく、「自分や家族が戦争にまきこまれるのはいやだ」という感覚ではないか。家族は自分の分身である。特に、自分の子供は。その場合には、憲法が、押しつけられたものかどうかは、どうでもよいことである。たとえ、自主憲法でも、自分が戦争に巻き込まれるのはいやなのだ。
 
 また、現在の周辺事態法や安保体制の対象は日本の周辺地域であり、現在、戦争になっていない。PKOで自衛隊員が派遣されても、「自衛隊が行くから、非戦闘地域である」という小泉元総理の迷言が通用した。現在でも、戦争の危険はあるし、徴兵制は50年位前から自衛隊内部で研究している。
 しかし、今回の法改正がなされれば、日本の周辺に限られず、世界中が対象になる。イラク、アフガニスタン、IS国などは戦争状態にある。そこに自衛隊員が派遣され、兵站活動や武力行使が可能になれば、戦争の危険が一気に高まる。後方支援が「現に戦闘行為が行われている現場」を避けたとしても、存立危機事態では、イラクの米軍が攻撃されれば、日本が武力行使できる。重要影響事態でなくても、イラクの米軍基地を護衛するために、自衛隊は、「武力行使にならない範囲で」ミサイルなどの「武器使用」ができる。そもそも、法案には、武器使用や武力行使の定義がない。石油がなければ、日本は存立できない。ホルムズ海峡の機雷除去が武力行使の例としてあげられているが、ミサイル発射、艦船からの砲撃、機関銃使用などの方がイメージしやすい。ホルムズ海峡での通行を確保するために、戦闘をするということ。それは戦争である。東南アジアの石油は日本の生命線であるとして、太平洋戦争が始まった。それと似たようなことが起こりうる。このように、イラクや中東で日本が戦争をするイメージが浮かびやすい。

 雑誌「世界」9月号で、柄谷行人氏は、日本で憲法9条を支えてきた国民の意識は、フロイト的な「無意識」であり、一種の脅迫神経症ではないかと述べている。日本人は、だいたい理屈や理念よりも、自分の感情、感覚、利害に敏感である。イメージ次第で世論が動く。日本人の「戦争はいやだ」という意識と五官を通した戦争のイメージが、安保法案の反対の世論をもたらしているのではないか。それは、感覚的なものだが、間違いではない。



2015年8月2日
調布市飛行機墜落事故
 マスコミでは、この事故の飛行が遊覧飛行だったことが問題視されている。しかし、遊覧飛行は事故の原因ではない。議論のすり替え。世論の誘導。国民の関心が、遊覧飛行への非難に向きやすい。真の事故原因に関心が向かなくなる。全国で、軽飛行機の遊覧飛行が行われているはずだが、遊覧飛行では、墜落しやすいわけではない。定期便は墜落しないというものではない。ヘリやセスナは、よく墜落するが、たまたま墜落場所が市街地でないから、被害が少ないだけなのだ。問題の核心を見失わないこと。
 1980年8月には調布飛行場を離陸した小型機が調布市立調布中学校校庭に墜落する事故が起きている。夏休み中で校庭にいた生徒が少なく、巻き添えになった犠牲者はいなかったものの、事故の記憶は住民に深く刻まれ、反対運動も起きた。
 滑走路が短いこと、管制官がいないこと、街中の飛行場であることなどに問題があるのではないか。


 
2015年7月26日
安保法案の解説

 
2015年7月23日
静岡県での電気柵による死傷事故
 この事故で7人が死傷した。当然、管理者の刑事責任が問題になる。
 以前から、電気柵の危険性だけでなく、柵が林道などの通行の障害になるなどの問題があった。鳥獣保護法による規制が、鳥獣被害をまったく考慮していないこと、野生生物の保護と管理ができていないなどの問題の結果、鳥獣被害が生じる。それが電気柵などをもたらし、事故につながる。鳥獣被害を防止するための野生生物の管理が重要である。鳥獣の生息数を把握したうえで、増えすぎた害獣を駆除しなければならない。柵の設置は、農作物の費用対効果に乏しい。柵の設置に、多額の税金(補助金)が投入されている。柵の設置は、もっとも知恵のない方法。
 明らかに鹿や猪が増えすぎている。私の家の前は、鹿の散歩道になっている。最近の鹿は図々しく、車が来ても逃げない。車が鹿と衝突すると車が大破して損害が大きいので、車の方が鹿を避けるほかない。そのことを鹿はよく知っており、それで車が来ても鹿は避けないのである。鹿は、人間を見ても、鳥獣保護法により鹿の捕獲が禁止されていることをよく知っているのか、人間を避けない。中には、人間の方が鹿を恐がって逃げる人もいる。猪など、恐いもの知らずで傍若無人にふるまっている。下手に野生の猪を殺せば、鳥獣保護法違反になりかねない。
 
 鳥獣保護法や農地法は明らかに時代のニーズにあっていない。
 野生生物の生態系の管理がまったくなされていない。害獣を保護しながら、税金で害獣避けの柵を大量に設置するのは無駄である。
オリンピックに何千億も無駄に使うよりも、野生生物の管理に税金を使うべきだろう。



2015年7月14日
登山者の情報収集努力義務
 活動火山対策特別措置法の改正案で、火山を登る登山者等の情報収集の努力義務が規定されている。登山者等には観光客も入る。法律が登山者について規定するのは、初めてではないか。従来、登山は法律の日陰者だった。スポー基本も、ハイキングについては規定するが、登山については触れていない。
 努力義務は、強制できないのであまり意味がない。情報収集は当たり前の登山倫理である。倫理は強制できない。登山者がこの規定に違反したとして、損害賠償責任を負うことはないし、罰則もない。この規定がなくても、過失相殺は可能である。ただし、今後、自治体が条例で登山を規制する際に、規制しやすくなるだろう。条例では、時には罰則等で強制することがありうる。登山届の提出を罰則付きで義務づける条例に対する反対意見を押さえつけるのにこの法律を使うのではないか。活動火山対策特別措置法で外堀を埋めて、本丸をめざすのは条例ということになろうか。
 他方、同時に、この法律は、国や自治体等の義務を規定しており、これは、法的に重要な意味を持っている。災害が発生すれば、これらの規定を根拠に国や自治体が損害賠償責任を負うことがある。



2015年7月13日
「法律家から見た入山料」、「観光文化」226号所収、公益財団法人日本交通公社発行
 
富士山協力金などの入山料について、さまざまな専門家が意見述べている。私は、「法律家から見た入山料」についてコラムを書いた。

                     


2015年7月12日
サーチ・アンド・レスキュー研究機構総会(神戸市)
 
今後、登山道のあり方について、シンポジウムを開催する予定
 
車での神戸往復は、疲れました。


2015年6月27日
講演「登山届出の義務化などについて」(日本山岳協会遭難対策委員会総会・研修会、高槻市)
 登山届の義務化、登山料、入山規制、登山道の整備など、登山の自由と規制の関係について、話をした。全国から多くの登山指導者が会場の関西大学に集まり、熱心に討議をした。
 広島駅・向原間、新大阪駅・関西大学間で時間をとられ、日帰りでの往復はけっこう疲れる。


2115年6月20日
「絶歌 神戸連続児童殺傷事件」(太田出版)を読む
・マスコミの騒ぎすぎ。この事件について書かれた本は既にたくさん出版され、他の犯罪の加害者が書いた本も多い。マスコミが大きく取り上げれば取り上げるほど、野次馬的に本を買う人が増え、被害者遺族の苦痛が増す。

・小説のようなスタイルの文章に違和感がある。フィクションの世界では、文学的修辞が意味を持つが、自分の行動と心理を書く時に文学的修辞を使えば、リアリティを損ない、事実をオブラートでくるんだような印象を受ける。同時に、人ごとのような記述になっている。加害者は、自分の行動を客観的に分析したかったのかもしれないが、それは、他人が行うべきことである。
 ただし、退院後の叙述は、小説風ではなく、ノンフィクションスタイルに変化する。
・母親との関係について、弁解の書のような印象を受ける。「母親を愛していた」と書けば書くほど、それを書く不自然さが目に付く。断片的に、母親の愛情に対する加害者の自信のなさもうかがわれる。基本的に、親子関係は希薄な印象を受けるが、それ自体は珍しいことではない。
・事件の背景に、加害者が「人間として成長していなかったこと」があげられる。人間的な共感性の欠如が強く感じられ、そのため、人間に対し、モノのような感覚しか持てなかったのだろう。例えば、他人から何かしてもらってうれしいと感じたり、人間関係を通じた幸福感が、加害者の場合には祖母との関係だけに偏っていた。勉強、スポーツができ、性格が明るく、優しく、人気者の弟たち。母親の愛情が弟に傾いていると感じ、加害少年は弟たちをいじめた。祖母の死によって、徐々に加害者の人間性が崩壊していったようだ。
 加害者が17歳の時、少年院で、被害者遺族の書いた本を読み、ショックを受けて、精神に変調をきたしかけた。人を殺す時に感じる人間的な感覚を、加害者は、殺人行為の時にまったく感じることなく、17歳の時に初めて感じた。17歳の時に初めて、自分の行為の残虐性を実感できたのである。これが、人間性の回復の過程だったのだろう。人間性を取り戻せば、自分の行ったことの重さも増していく。
 仮に、異常性愛傾向があったり、親子の情愛が欠如していても、それだけでは、通常、人を殺すことはない。「人を殺さない人間」として成長しなかった原因としては、本人の資質+家庭環境が大きかったのではないか。人間的な共感性を養う最初の、そして最大の環境は家庭である。少年の家庭環境は、今の社会の中では「ごくフツーの家庭」だが、少年の特異な資質に合わなかったのだろう。加害者の両親は、今の日本ではフツーの人であり、両親に責任はない。
・加害者が6年5か月で少年院を仮退院したことは、被害の大きさと成人の事件の扱いと較べるとバランスを欠いているような印象を受ける。仮退院後の保護観察期間は、わずか9か月である。また、仮退院後に更生保護施設に入ったが、その期間は1か月である。この背景には、施設不足、保護司不足、金を使わない司法政策などの問題がある。
 


2015年6月12日
大阪の弁護士の偽造事件
 大阪の弁護士が判決文を偽造して金を騙し取る事件があった。朝日新聞は大きく報道し」たが、中国新聞は小さな記事だった。この種の事故に対する反応として、「この弁護士は、例外的な弁護士である」として切り捨てる発想がある。さまざまな事件や事故が起きる度に、それを例外的事象として扱い、大勢に影響がないという発想がある。
 すべての事件や事故は、例外的なものである。誰もが詐欺をしたり、殺人をするわけではない。常に、原発事故や大地震が起きるわけではない。すべての戦争や犯罪は、例外的な事象である。飛行機は、常に落ちるわけではないが、1件でも墜落事故が起きれば、その原因究明が問題の解決につながる。「この事故は、パイロットの判断ミスであって、例外的なものである」という発想では、人間は必ずミスを犯すので(それは確率の問題である)、問題を解決できない。「あれは、例外的なものである」と考えれば、思考が停止し、それ以上考えなくなる。多くの人が、さまざまな問題が起きる度に、この「例外思考」をし、安心を得る代わりに、安全を失う。異常な出来事があっても、それを例外的なものだと考えることで、安心する。ハインリッヒの法則によれば、300件の異常な出来事があれば、1件の重大事故が起きる。重大な事故の当事者になってはじめてあわてるが、当事者でなければ、気に留めない人も多い。

 学校で生徒の問題行動があっても、それを例外的な特殊な子供の異常行動と考えることで問題を真剣に検討しないことが多い。同種の問題行動が、2件目、3件目と起きても、依然として、例外的事象だと考えることも可能だ・・・・・原発事故も、1件や2件では例外的事象と考え、「あれは○○だから事故が起きたが、他の原発は安全である」と考える。重大事故が何件も起きて初めて、「これはまずい」と考えるが、その時はもう手遅れということになる。日本で福島原発事故のような事故が何件も起きれば、日本は崩壊するだろう。体験した感覚の範囲でしか考えず、それ以上は思考しない・・・・想像力と洞察の欠如。これは、イヌの思考である。人間には、ひとつの事象から、さまざまなことを推論し、原因を考える思考力がある。それを使えば、ひとつの事件や事故から真剣に考え、再発を防止することができる。
 弁護士の不祥事も氷山の一角であり、対処療法や問題の隠蔽では、解決できない。根底に弁護士の経済的問題がある。「弁護士の不祥事が当たり前」、「弁護士はすべて信用できない」、「弁護士は胡散臭い職業」という状況になれば、国民は問題の本質に気づくかもしれないが、その時はもう手遅れであり、「打つ手なし」、「もう、どうにもならない」ことになる。これは、日本の環境問題と同じである。ひとたび破壊され、経済的に浸食された環境を、回復し、規制することは、もはや不可能・・・・・・弁護士の不祥事と日本の環境問題は、根は同じである。


2015年6月8日〜9日
国立登山研修所専門調査委員会(立山)
 
自宅から立山町まで、4本の電車を乗り継ぎ、片道8〜9時間かかる。これは、日本からハワイまでの所要時間とだいたい同じである。往復に疲れた。登山に関して、他のさまざまな分野の専門家の人たちとの交流は、参考になることが多い。ものごとを見る視点が多様になる。
 それにしても、新幹線の開通により、富山は完全に東京の日帰り圏内になった。これに対し、関西方面からの富山へのアクセスは、いっそう不便になった・・・・・・これでは、大阪が東京に勝てるはずがない。


2015年5月16日〜18日
自由法曹団総会(広島市)

                        


「弁護士過疎地で18年」(たたかう弁護士 パートX、自由法曹団広島支部発行、所収)


                        


2015年5月16日
アコンカグア登山事故・判決(仙台地裁平成27年3月17日判決、請求棄却)について

 2013年に南米のアコンカグア(6959m)の公募登山隊に参加した登山者(当時44歳)が、登頂後、下山途中で疲労のため動けなくなり、避難小屋(屋根がなく、壁しかない)でビバークし、凍傷のために両手の指全部を失った事故について、引率ガイドに対し、7279万円の損害賠償請求訴訟を起こした。判決は、請求棄却。控訴がなされた。
 
 被害者は、登山歴が30年以上、ヒマラヤの8000m峰に登頂するなど海外登山の経験が豊富だった。引率したガイドは、日本山岳ガイド協会の認定する国際山岳ガイドの資格を持っていた。裁判所(仙台地方裁判所平成27年3月17日判決)は、ガイドに、参加者の危険を回避し、適切な指示や危険が予想される場合に登山を中止するなどの注意義務があるとしたうえで、この事故に関しては、注意義務違反が認められないとした。途中で他の参加者が下山したが、被害者は自らの意思で登山を継続したこと、途中まで被害者の体調もよく、天候悪化の兆しがなかったこと(ただし、風が強かった)、他のパーティーの登山者や登頂者が多数いたこと、登頂するまでは時間的に余裕があったこと、下山途中でヘッドランプや食料、無線機などの入ったガイドと被害者のザックが落下したこと(その原因については、争いがある)、下山途中で被害者の目が見えなくなったこと(雪盲ではない。原因は不明)、連絡を受けた現地ガイドが避難小屋まで登り、一晩、被害者に付き添ったこと、引率ガイド自身の凍傷の危険があったことなどの事情を考慮し、裁判所は、ガイドに注意義務違反がないと判断した。判決文は、55ページあり、詳細な事実認定を行っている。
 ひとくちに「公募登山」といっても、その法的な形態はさまざまである。共同登山的な公募登山もありうる。このアコンカグア登山では、裁判所は、ガイドに一定の注意義務を認めたうえで、登山内容、参加者の経験、技術などのレベル、事故時の状況などから、注意義務違反を否定した。
 事故当時の風速は不明だが、この日の予想風速は秒速12.5mだった。したがって、この日、秒速10〜20mの風だった可能性がある。もともと、アコンカグアは風の強い山であり、登山日の前後はもっと風が強いと予測されており、登頂日のチャンスが限られていた。裁判所は明示していないが、高所登山における危険性の承認の範囲が重要である。参加者に相当の登山経験があり、登山のリスクを認識して登山を行う場合には、ガイドが負う注意義務の範囲は、それに相応したものになる。判決文に書いてなくても、裁判官は、当然、この点を意識している。
 ガイドが有償で登山を実施する場合に、ガイドには客の安全確保義務がある。ガイド料は、労力、ノウハウ、注意義務の対価という面がある。この注意義務の範囲は、登山形態によって多様であり、アコンカグアのケースでは、被害者の登山経歴に照らして、ガイドの安全確保義務の程度はそれほど重いものではなかった(被害者の登山経験が少なければ、それに反比例して、ガイドの注意義務が重くなる)。高所登山では、ガイドのできることに限界がある。ガイド自身に生命身体の危険が及ぶ場合には、ガイドが緊急避難的に先に下山しても、違法ではない。かつてエベレストの大量遭難事故の時に、ロシア人の山岳ガイドが1人で先に下山したケースがあったが、法的には違法ではないだろう。他方で、動けなくなった客に付き添って一緒に亡くなったガイドもいるが、ガイドに付きそう法的な義務があるわけではない。ガイドが傍に付き添っても、装備がなければ、ガイドができることはあまりない。
 国内のツアー登山では、夏山登山で風速10mで登山をして客が遭難すれば、ガイドの責任が生じる可能性があるが、アコンカグアではそうではない。当たり前だが、山と参加者のレベルと認識が異なる。アコンカグアの事故でも、理屈としては、裁判所が、「ガイドに、天候が悪かったので登山を中止すべき義務があった」と判断することは可能である。国内の事故であれば、そうなるだろう。しかし、悪天候で登山を中止していれば、高所登山は成り立たない。ある程度の凍傷は想定内であり、この事故では不運にもその程度が大きかった。

 参加者の自己責任の範囲は多様だが、高所登山では、自己責任の範囲は広い。自分の疲労の程度や体調管理は、他人にはなかなかできない。凍傷になるかどうかも個人差が大きいので、客が自分で管理するほかない。たとえ、凍傷になっても、高所登山では、「想定内の出来事」のことが多い。目が見えなくなる状況も、ガイドには管理できない。高所では、動けなくなること=死につながりやすい。高所登山で、ガイドがどこまで責任を負うかをあらかじめ明確にすることは難しい。事故は、すべて異なるので、個別に判断する他ない。
 高所登山では、参加者の自己責任の範囲が広い。この点を、この判決が「確認した」点に法的な意義がある。裁判で、山岳ガイドの責任(刑事、民事)が否定された初のケースであり、どういう場合にガイドの責任が否定されるのかという判断におけるリーディングケースである。

 また、海外での山岳事故に関して、被害者が加入する傷害保険の適用がないこと(リスクの高い登山は傷害保険の適用外。これは国内でも同じ)、ガイドが加入できる賠償責任保険がない(海外の登山を引き受ける保険会社がないようだ)という問題もある。個人賠償責任保険は、「職務」は対象外。凍傷が「疾病」であれば、疾病保険(生命保険の特約)の対象になるが、それは難しい。登山中に胃潰瘍になったというのであれば、疾病保険の対象になるだろう。生命保険はリスクの高い登山でも適用される。
 
ガイド登山中の事故の裁判例
過去の裁判例として、以下のものがある。
・八ヶ岳静岡文体協遭難事故・民事(静岡地裁昭和58年12月9日判決)。請求認容
・春の滝散策ツアー事故・民事 (札幌地方裁判所小樽支部平成12年3月21日判決)。有罪
・羊蹄山ツアー事故・刑事(札幌地方裁判所平成16年3月17日判決)。有罪
・トムラウシ事故・刑事(旭川地裁平成16年10月5日判決)。2002年の事故について。有罪
・屋久島沢登り事故・刑事(鹿児島地方裁判所平成18年2月8日判決)。有罪
・白馬岳事故・民事(熊本地裁平成24年7月20日判決)。請求認容
・白馬岳事故・刑事(長野地裁松本支部平成27年4月20日判決。控訴中)。有罪
・アコンカグア事故・民事(仙台地裁平成27年3月17日判決。控訴中)。請求棄却

 暴風雪が関係した事故としては、羊蹄山ツアー事故、トムラウシ事故(2002年、大量遭難死事故よりも前の事故。2009年の事故は裁判になっていない)、白馬岳事故があるが、アコンカグア事故との違いは、「客が承認すべきリスクの範囲」である。
 ガイド登山中の事故に関して、ガイドの責任(民事・刑事)が否定されたのは、アコンカグア事故の裁判が初めてである。
ガイド登山で事故が起きれば、ガイドの注意義務違反(過失)が認定されることが多い。それは、事故後に検証すれば、どこかに人間のミスを見つけることが多いからである。アコンカグアの事故でも、後で考えれば、「こうすればよかった」という意味の判断ミスは、たくさんあるだろう。しかし、それらは法的な過失を意味しない。ミス=過失ではない。過失はの判断は、裁判所による価値判断である。しかし、世論は、ミス=非難=過失と考える傾向がある。その根底に、日本には、人間のミスを非難する文化法の支配よりも感情による支配の文化価値判断を否定する文化があるように思われる。政治的であることを嫌い、中立が可能だという幻想を持ちやすい傾向とも関係があるだろう。中立もひとつの政治的な選択の結果である。

 この判決は、ガイドの過失が否定されるのはどういう場合なのかを検討するうえで、法的に重要な先例的意味を持っているが、マスコミから抹殺されている。マスコミの公益的な役割が疑われる。
 他のアウトドアスポーツ、たとえば、スキーツアー、ラフティングなどの裁判例の少ない分野でガイドの責任が否定されるケースをこの判例から推論することが可能である。

2015年5月13日
法科大学院の9割が定員割れ(3年連続)、弁護士は「ブラック資格」? 

 今年の法科大学院の受験者数は9351人、合格者数5012人、入学者数は2201人、競争率は1・87倍で過去最低となった。潰れる法科大学院が続出。法科大学院に合格しても入学しない者がけっこういるようだ。法科大学院は、金の「吸い取り紙」である。
 この記事は、新聞、インターネットに掲載されていたが、朝日新聞には掲載されていない。朝日新聞のこの種の情報掲載が嫌いな姿勢は、一貫している。
 昨年の司法試験の受験者数は約8000人。かつて2万5000人が受けていた司法試験の不人気振りは、目を覆うばかりだ。
 アメリカでも、ロースクールの人気が低下し、ロースクールの入学者数が53,000人から38,000人に減少したが、それでも弁護士の初任給は年収850万円から1600万円程度と高額である。アメリカでは、今までに潰れたロースクールは1校もないが、それでも、Emory校のprof,D.A.Brownは、ロースクールのトップ校が3年以内に閉鎖されるだろうと述べている。多くのロースクールで、教授の処分、切り下げた授業料のさらなるカットダウンなど、学生集めに躍起になっている。アメリカではとてつもない(tremendous)ロースクールのサバイバルがある(International New York Times 2015.4.2のDEALBOOKより)。アメリカの深刻な状況に較べて、日本の状況は、絶望的と言うほかない。

 弁護士業の不人気にも惨憺たるものがある。堅実でマトモな人、有能な人は、法科大学院に入らないのが賢明な選択になっている。本当に優秀な人は予備試験を受ける。そうではない人が法科大学院に行く傾向がある。ある週刊誌に、弁護士は「ブラック資格」だと書いてあった。ナルホドと感心した。今では、法曹資格を得るのに時間と金がかかるが、資格があるだけでは、あまり役に立たない(コネや営業力の方が重要)。法曹資格も、日本の他の国家資格に似てきたということだろう。戦前は、弁護士に対し、「そんな仕事をせずに、正業に就きなさい」という忠告がなされたそうだが、最近の弁護士も、その仕事がまともなものからそうではないものまでさまざまであり、弁護士は、ピンキリ、玉石混淆である。
 
 それでも世の中に弁護士は必要である。大企業、資産家が必要とする弁護士は、今後、少しずつ増え、彼らは高額な収入を得ることができる。
 他方で、庶民から依頼を受ける弁護士は、多くのボランティア的活動を期待される。このような弁護士にサラリーマンのような安定した収入を期待してはいけない。時には、配偶者の収入が弁護士のボランティア活動を支えることもある(私自身の経験から)。家族の生活費や月額5万円の弁護士会費、弁護士の経費を支出できる家産のある人が弁護士業をすれば、自分のやりたい仕事ができる。
 弁護士の収入をあてにしない人こそが弁護士に向いている。しかし、現実には、弁護士が「経済的に安定した職業」だと勘違いする人が、今でも、いる。弁護士を志望する動機が不純な人がけっこういる。
 また、法律事務所の維持に多額の経費が必要であり(事務員の給料、家賃、事件処理費、交通費、高額な弁護士会費など)、弁護士と依頼者の間で報酬をめぐるトラブルが多い。先日、東京のある弁護士から900万円の報酬請求を受けて困っている人がいた。私も、先日、依頼者に20万円の報酬請求をしたところ(経済的利益が1000万円の事件、報酬を10パーセントとする契約書あり)、依頼者はひどく驚き、ショックを受けていた。日本では、金のない者は弁護士を利用しにくい。これは制度の不備である。


2015年5月
ヤマケイ・ジャーナル「積丹岳・救助事故の判決が投げかけるもの」(山と渓谷962号)


2015年5月3日
白山、山スキー
 白山(2702m、福井県、岐阜県)で山スキーをした。日帰り。広島からは夜間移動。一ノ瀬に車を置き、午前5時出発。自転車で別当出合まで。甚之助小屋から尾根へスキーで直登した。白山山頂に雪がないので、登頂せず。室堂付近をうろついて、エコーラインを下降。午後3時15分別当出合、午後4時市ノ瀬。下りの自転車は、快適で速い。11時間行動。それにしても、登行スピードの遅さは、やはり、もう還暦。無理ができない。

 

 この日、出会った登山者は、数十人。登山口まで2時間の車道歩きが登山者数を抑えている。もし、夏のようにシャトルバスを運行させれば、登山者は激増するだろう。事故も増える。現状では、初心者は入山しにくい。登山者数の制限、事故の防止の問題。
 視界が効かなければ、遭難しやすい山。赤布ポールは必要だろう。スキーヤーは、視界が効かない時に、間違った方向に滑降しやすい。標識の管理を山小屋にまかせるべきではない。ポール標識は山小屋の周辺にだけある。ルート管理の問題
 間違って別の尾根や沢に入れば、崖や滝になる。岐阜県側に入れば、人里まで何日もかかる。危険と隣合わせの安全性。GPSを持っていたが、いつものことだが、電源を入れることはなかった。
 天気が悪ければ、低体温症の危険。稜線は、風からの逃げ場がない。
 丸一日捻挫しない足首に感心。疲れても動ける身体は神秘的だ。どんなに暑くても、水分補給で熱中症にならない人間の身体も、実に便利にできている。生物の不思議。生きているという実感。
 中高年登山者の不安は、アクシデントに対応しにくい体質にある。寒さに対応しにくいとか、疲労回復が遅いとか、身体の柔軟性、バランスの欠如とか。
 山頂をめざさないツアーがあってもよい。トレッキング、ロングトレイルの文化が日本にはない。山麓を何日かかけてめぐるツアースキールート。標識とトイレ、避難小屋の整備。登山者は、好きな場所でテントや雪洞泊。夏は、アパラチアン・トレイルのようなコース。アウトドアで営利を考えてはいけない。ミルフォード・トラックのような営業小屋のルートもあってもよいが、登山者数の制限がなければ、混雑と環境破壊の最悪のルートになる。日本は、なりゆきまかせの自由放任。登山文化の問題
 

                        



2015年4月20日
2006年白馬岳ガイド登山事故・刑事裁判判

 
禁錮3年、執行猶予5年という有罪判決。4人死亡の有罪判決としては、極めて寛大な判決である。

 凍死という結果の予見可能性の有無が問題である。
 この事故は、単なる風雪ではなく、猛烈な暴風雪によって起きた。前日の時点で、悪天候は誰でも予見できる。風雪も予見できないこともないだろう。しかし、単なる風雪では、遭難していないだろう。このパーティーは力があるので、多少の風雪では遭難していないだろう。
 これが初心者を対象としたツアー登山であれば、悪天候が予想される場合には、ツアーを中止すべき義務がある。しかし、熟練者の参加者は、この登山が上級レベルの内容であり、多少の悪天候のあることを想定していたのではないか。多少の悪条件を了解のうえで参加したとすれば、その範囲では違法性は生じない。想定以上の暴風雪だったことが、事故の原因であり、したがって、その点の予見可能性が必要なのである。冬型の気圧配置=悪天候=風雪の可能性は成り立つが、冬型の気圧配置=暴風雪ではない。
 論理的には、高さ10メートルの防災塔に避難して被災した場合に、地震があれば、津波を予見でき、高さ10メートル以上の津波も予見できたかどうかかという問題と同じである。職員に対し、防災塔に避難することを指示した管理職が刑事責任を問われるかどうか。地震=10メートル以上の津波ではない。
 前日の時点では、大雑把な天候の予測しかできない。暴風雪の予見可能性の判断の基準時は、前日や朝ではなく、暴風雪の数時間前になるだろう。その時点で、死亡事故をもたらすような猛烈な風雪を予見できることについて、beyond reasonable doubtを超える証明が必要である。

 この判決は、予見可能性について、「ある程度抽象化された因果的経過の予見可能性」で足りると述べ、予見可能性の内容を抽象化している。冬型の気圧配置になる可能性があれば、みぞれ、吹雪等の恐れがあり、低体温症になる可能性があり、これらの可能性の認識があれば、事故の予見可能性があると述べる。
 この点は、極めて重要である。この判決は、冬型の気圧配置=みぞれ、吹雪=低体温症=死亡という因果系列を考えているようである。しかし、現実は、それほど単純ではない。秋山では、みぞれや吹雪はありうるが、パーティーの力量があれば、遭難しない。低体温症の可能性は、みぞれや吹雪でなくても、秋山では存在する。
 この判決は、冬型の気圧配置になる可能性を認識していて、低体温症になる事故が起きれば、常に結果回避義務を課すようだ。しかし、冬型の気圧配置が予見可能な場合に、登山を中止しなかったことが過失になるのではない。暴風雪を予見できたのに、もっと早く小屋に退避しなかったことや、途中で登山を中止しなかったことが過失なのである。

 秋の北アルプスでは、冬型の気圧配置になる場合は、ガイドは登山を避けるべきである。しかし、それが直ちに、刑事上の注意義務にはならない。冬型の気圧配置でも、安全に行動できるパーティーもいる。冬型の気圧配置から、吹雪を予想し、凍死のリスクを予想可能である。しかし、リスクの認識可能性は、事故の予見可能性とは異なる。リスクを伴うアウトドア活動では、リスクを認識したうえで、それをいかにコントロールできるかが問題なのだ。リスクをいかにコントロールできるかが問題であって、冬型の気圧配置を認識可能であれば、参加者が初心者でない限り、直ちに結果回避義務を課されるものではない。

 冬型の気圧配置やみぞれ、吹雪は、ハザードである。ハザードとは、リスクをもたらす元になる状況や環境をいう。冬型の気圧配置が直ちに事故をもたらすことはない。みぞれや吹雪も直ちに事故をもたらすことはない。みぞれや吹雪があった場合に、それに耐える体力があり、山小屋に逃げ込めば、事故は起きない。白馬岳の事故では、登行スピードが遅すぎたことが、遭難になった。もう、30分早く行動するか、あるいは、途中で登山を中止すべきだったのであり、事故の予見可能性の有無は、その時点で判断しなければならない。
 この判決は、ハザードの予見可能性があれば、事故の予見可能性を認める。この点が、刑事処罰の範囲を一気に拡大するのである。

 この判決では、秋の登山では、冬型になることを予見できれば、登山を中止すべきことになる。また、この判決の考え方では、冬山では、常に、風雪、低体温症、凍傷の可能性があり、それらを認識しているので、常に、凍死の予見可能性が認められることになる。クライミングでは、常に、落石や滑落の可能性があり、それらが現実化すれば、滑落死する可能性をガイドは認識している。したがって、ガイドに滑落事故の予見可能性が認められることになる。
 それでよいのか? 多くの国民は、「少しでもリスクがあれば禁止しろ」、「重大な結果が生じれば、厳罰にしろ」と考えやすい。マスコミもこれに同調する。国民は、「これはこれ、あれはあれ」と考えやすい。しかし、「これの処罰」は、「あれの処罰」であり、すべての処罰の拡大につながる。
 しかし、リスクのない冬山登山やクライミングはありえない。リスクのある研究、活動は多い。創造的活動にはすべてリスクがある。もともと、刑罰の対象は故意犯であって、過失犯の処罰は例外的である。過失の処罰が拡大すれば、国民は、ミスに怯えながら生活することになる。日本で鬱病や精神疾患、過労死が多いことと関係がある。過失犯処罰の拡大は、創造的活動やボランティア活動を抑圧する。1件の医療事故の処罰は、ボランティアでの医療活動を抑圧する。航空機内で患者が出た場合に、6割の医師が「何もしない」理由のひとつに、法的責任問題がある。
 刑罰の要件は、もっと厳格である。法律家の判断も、厳密でなければならない。

 従来、冬山でのガイド登山やクライミングなどでは、山岳ガイドの刑事責任の範囲が限定されていた。刑法の運用が厳格、厳密だった。
 たとえば、朝日連峰遭難事件は、高校山岳部の春山登山で、天気が荒れるとの天気予報を聞き、雨の中を登山を継続し、雨が、みぞれ、吹雪に変わってもなおも登山を続行し、参加生徒4人中の3人が疲労凍死したが、業務上過失致死罪で起訴された教師は無罪になった(山形地裁昭和49年4月24日判決)。教師は、事故前日と当日、出発前に、天候が荒れるとの天気予報を聞き、雨が吹雪に変わっても登山を継続しており、凍死のリスクを予見可能だった。しかし、裁判所は、凍死自体は予見できなかったとして、無罪とした。そこでは、過失犯における予見可能性は、具体的な結果に対するある程度高度なものを要求している。これは、構成要件の厳格適用を要求する刑法の原則に基づいている。
 しかし、白馬岳の判決は、抽象化された予見可能性で足りるとしており、これは、一気に刑事責任の範囲を拡大させる。冬山、クライミング、沢登りなどで、事故が起きれば、ほとんど常に予見可能性が認められることになりそうだ。
 予見可能性の内容を抽象化すれば、刑事処罰の範囲をいくらでも拡大できる。地震があれば、巨大津波の予見可能性が認められ、原発事故も予見可能ということになる。
 医療事故でも、医師は、治療のさまざなハザードの可能性を認識しており、それらが患者の死につながる可能性を認識している。したがって、患者が死亡すれば、常に医師にその予見可能性が認められることになる。ほとんどの場合に医師のミスについて刑事責任が生じることになりそうだ。それは、裁判所の価値判断である。

 予見可能性は、結果、もしくは、結果をもたらす具体的な危険性に関して必要である。冬型の気圧配置を予見するだけではダメである。登山中に暴風雪を予見し、途中で下山の判断が可能だったかどうかが、この事件の核心である。

 かつて、引率者の刑事責任は、不起訴、無罪になることが多かった。
 1975年に谷川岳で客1人が死亡したが、ガイドは不起訴。
 1988年には穂高で客2人が死亡したが、ガイドは不起訴。
 2007年の八甲田山では客2人が死亡したが、ガイドは不起訴。
 1952年の芦別岳では生徒2人が死亡したが、教師は罰金3万円。
 1955年に臨海学校で生徒36人が溺死したが、教師は無罪。
 1966年にキャンプ中に生徒8人が死亡したが、教師は無罪。
 1967年の朝日連峰では生徒3人が死亡したが、教師は無罪。
 これらは、刑罰の運用を厳格にする刑法の原則に基づいた判決である。
 しかし、10年くらい前から、ガイドの刑事責任が問われるケースが増えている。
 白馬岳の事故は、本来、公訴時効が満了し、起訴できない事件だったが、公訴時効期間を延長する法改正がなされ、事故から8年近くが経過して起訴された。山岳事故は、起訴されれば、たいてい有罪になる。山岳事故に刑罰を科すかどうかは、事実上、裁判所ではなく、検察庁が決定する。
 社会全体で、過失処罰の厳罰化、拡大の傾向、検察庁の権限拡大の傾向が見られる。

 今後は、ガイド登山で事故が起きれば、ほとんどが刑事罰の対象になるのではないか。
 医療事故も同様である。
 

 過失処罰の厳罰化は世論の流れだが、今まで、山岳事故の刑事裁判で関係者が実刑になったケースは1件もない。多くの国民は、そんなことに関心を持たず、「有罪」というマスコミ報道に満足する。4人死亡で執行猶予がつけば、非常に寛大な判決である。これが交通事故であれば、実刑になる。
  
 装備の問題は、事故の直接的な原因になりえない。冬山装備でも暴風雪では遭難しただろう。装備が増えれば、歩くペースが遅くなり、疲労が増し、危険性が高くなる。登山では、スピード=安全性である。この点は、経験すればわかるが、理屈ではわかりにくい。

 

2015年4月18日
耕論「山の遭難 条例で防げるか」(朝日新聞4月18日朝刊)


2015年4月
台湾旅行

                        
九分にて


2015年3月30日
名越實追悼集「はるかなる高みへ」(編集委員会)発行

                         


2015年3月28日
三次市市民法律講座
 
内容  憲法と法律を暮らしに生かす
 講師  弁護士 溝手康史
 時間  14時から15時30分
 場所
  みよしまちづくりセンター


2015年3月26日
積丹岳事故控訴審判決
 2009年積丹岳事故・控訴審(札幌高裁)が、損害賠償額を1200万円とする1審判決を変更し、損害賠償額を1800万円とする判決を出した。
 この事故について、今までにも書いたことがある。
  ・「岳人」(東京新聞)、2013年3月号、162頁
  ・「山岳事故の法的責任」(ブイツーソリューション)、51頁
 控訴審判決の内容は、「やっぱり、そうなったか」というのが感想。高裁では、損害賠償が増額される可能性があると思っていた。

 判決に対し、
     「登山は自己責任」
 という批判がある。
  ??? 
  もちろん、登山は自己責任である。しかし、そのことと、公務員の職務内容は関係がない。自分で招いた危険、たとえば、自損事故、暴飲暴食、不摂生による疾患、事故などは、すべて自己責任だが、救急隊に救助義務がある。法律が、そうなっている。救急車など。この点は、街中、海、山、災害現場、火災時、犯罪時を区別できない。落ち度のある被災者は、救助しないという扱いは、先進国ではできない(困難な現場で活動する警察官、消防職員に注意義務を負わせるのは国家的な政策であり、そのため警察官等の給料はけっこう高く、公務員の損害賠償責任が免除されている)。
 職務には必ず一定の注意義務が生じる。責任を伴わない仕事はありえない。かりに注意義務を尽くすことが期待できない状況であれば、注意義務は軽減ないし免除される。それは、雪崩から逃れるために警察官が避難したとか、体力の限界だった場合、支点を取ることが不可能な場合どである。本件は、それには当たらないというのが、裁判所の判断である。警察官にかなり高度のものを要求しているように思う人がいるが、裁判所が要求するレベルは、初歩的な救助能力である。
 救助隊に救助能力がなければ、救助活動に従事できない。道警察が救助活動をしていなければ、被害者が助かった可能性がある。この事故が、長野県、富山県、岐阜県で起きていれば、遭難者は、100パーセンント助かっていた! 北海道でも、数日後のヘリの捜索(民間ヘリを含めて)で被害者が救助されたはずあり、警察のミスと被害者の死亡の間の因果関係が認められる。警察官のミスがなかったとしても、被害者が死亡したことが確実な場合には(遭難者が、1、2時間しか命が持たなかったことが証明された場合など)、因果関係が否定される。
 
 危険の引き受け法理は、日本では採用されていないが、アメリカでも、この種の事故に危険の引き受け法理は問題にならない。遭難のリスクを承認していても、救助活動の失敗までは承認していないからである。もし、日本でも危険の引き受け法理を認めるとすれば、救助要請時に、「警察の救助隊に救助能力はありません。消防ヘリ(救急ヘリ)が飛べるまで待った方がよいですよ。地上からの救助によってかえって死ぬ恐れが生じますが、それでも地上からの救助を要請しますか」という確認が必要だろう。それでも、警察の完全な免責は難しいのではないか。
 余談だが、奇しくも、同じ3月26日に、札幌地裁で、野球の観戦中にファウルボウルが当たった観客に対し、4190万円を命じる判決があった。アメリカでは、野球観戦中のファウルボウルは危険引受法理の典型例とされる。アメリカで、最近は、比較過失法理を採用する州が増えているが、ファウルボウルでは損害賠償責任が生じないという結論は同じである。ファウルボウルで損害賠償を命じる判決は、日本的である。この札幌地裁判決の裁判長は、以前、松江地裁益田支部におり、知っている。破産事件ですぐに免責不許可にしようとしたり(結果的に、阻止したが)、行政敗訴の判決を書く変わった裁判官である。 
 野球観戦をすれば、ファウルボールやホームランが観客に当たる可能性を覚悟すべきかどうか。それが国民的合意であれば、損害賠償責任は生じない。そうでなければ、観客席にすべて高いネットを張りめぐらせるべきである。その点が曖昧なのが、日本である。ファウルボウルが当たって負傷した人が、病院に搬送される途中に救急車の運転手のミスによる自損事故で死亡した場合に、救急隊に責任が生じるかどうかが、積丹岳の事故のケースに相当する。ファウルボールを覚悟すべきかどうかということと、救急隊に責任が生じるかどうかは別の問題である。
  海難事故は救助するが、山岳事故は救助しないという扱いはできない。遭難者に落ち度があれば救助しないという扱いも、先進国ではできない。ファウルボウルに関する札幌地裁判決は、高裁でどうなるかわからない。高裁で、損害賠償額が大幅に減額される可能性がある。

 「一所懸命に行った行為、善意で行った行為の責任を問うのはおかしい」という発想は、ボランティア行為に対する損害賠償請求で問題になる。この点について、アメリカには、よきサマリア人法があるが、これは、義務がない場合に、緊急時の自発的な行為の損害賠償責任を免除する考え方である。この適用場面は、仕事以外のボランティア活動である。警察官や消防隊員にはよきサマリア人は当てはまらない。
 公務員は職務であり、義務があるので、よきサマリア人法は問題にならない。そもそも、公務員は、最初から損害賠償責任を免除されており、免責を考える必要がない。公務員は、サマリア人以上に保護されているともいえよう。個人ではなく警察という団体によきサマリア人法を適用して免責するという発想は、きわめて突飛でナンセンス・・・・・・聖書に登場するサマリア人の話は、あくまで個人の善意による行動を称える内容なので・・・・。重要なことは、公務員の職務とボランティア活動、個人と組織を区別すること。

 判決に対する批判は、「山岳救助は国や自治体の責務ではない」という政治的な発想によるものだろう。この立場では、御嶽山噴火の遭難者の救助は、ボランティアに頼ることになる。遭難者の落ち度の程度はさまざまであり、落ち度の程度によって、救助したり、救助しないという扱いは、近代国家ではできない。責任を負わない行政はありえない。
 犯罪現場や火災現場で、警察官や消防士は命の危険にかかわらず活動するのが職務である。その危険性は、山岳救助の比ではない。これらの公務員の活動を萎縮させてはならない。そのため、過失があっても、警察官や消防士の損害賠償責任は免除され、代わりに組織が責任を負うことにしている。この点は、山岳救助活動も同じだが、日本ではなかなか理解されない。山岳事故だけを特別視する日本の「自己責任」観は、先進国の中で特異である。

 
2015年3月
「司法における科学性」(広島弁護会会報98号,2015)掲載


2015年3月17日
アコンカグア登山・事故訴訟判決
 
判決内容は、損害賠償請求(請求額7279万円)の棄却である(後日、控訴がなされた)。
 判決の数日前からマスコミの取材があったが、判決後は、なぜか、マスコミからの取材はゼロ。インターネットにも、判決に関する記事がない。???
 判決に関するマスコミ情報がいっさいないので、判決が延期されたのかと思っていたら、実は判決が出ていることが、後でわかった。
 
この判決は、リスクを伴う高山でのガイド登山での事故に関するリーディングケースである。リスクを伴うスポーツ、レジャー、アウトドア活動における引率者の責任、自己責任の範囲、説明責任、危険性の承認などに関する重要な判決である。噴火、地震、異常気象、台風、悪天候などの自然のリスクの予見可能性にも関係する。しかし、マスコミは、「ガイドの責任が認められなければ、ニュース性なし」と考えているようだ。国民の関心も低い。リスクを予見、認識するという点では、津波事故、大地震、原発事故、噴火事故などに関係することなのだが・・・・・。

仙台地裁平成27年3月17日判決の概要
 2013年に南米のアコンカグア(6959m)の公募登山隊に参加した被害者(当時44歳)が、登頂後、下山途中で疲労のため動けなくなり、避難小屋(屋根がなく、壁しかない)でビバークし、凍傷のために両手の指全部を失ったことについて、引率ガイドに対し、7279万円の損害賠償請求がなされた。被害者は、登山歴が30年以上、ヒマラヤの8000m峰に登頂するなど海外登山の経験が豊富だった。引率したガイドは、日本山岳ガイド協会の認定する国際山岳ガイドの資格を持っていた。
 裁判所は、ガイドに、参加者の危険を回避し、適切な指示や危険が予想される場合に登山を中止するなどの注意義務があるとしたうえで、この事故に関しては、注意義務違反が認められないとした。途中で他の参加者が下山したが、被害者は自らの意思で登山を継続したこと、途中まで被害者の体調もよく、天候悪化の兆しがなかったこと(ただし、風が強かった)、他のパーティーの登山者や登頂者が多数いたこと、登頂するまでは時間的に余裕があったこと、下山途中でヘッドランプや食料、無線機などの入ったガイドと被害者のザックが落下したこと(その原因については、争いがある)、下山途中で被害者の目が見えなくなったこと(雪盲ではない。原因は不明)、連絡を受けた現地ガイドが避難小屋まで登り、一晩、被害者に付き添ったこと、引率ガイド自身の凍傷の危険があったことなどの事情を考慮し、裁判所は、ガイドに注意義務違反がないと判断した。
 ガイドの注意義務の範囲は、登山形態によって多様であり、アコンカグアのケースでは、被害者の登山経歴に照らして、ガイドの注意義務の程度はそれほど重いものではなかった(被害者の登山経験が少なければ、それに反比例して、ガイドの注意義務が重くなる)。
 参加者の自己責任の範囲は多様だが、高所登山では、自己責任の範囲は広い。自分の疲労の程度や体調管理は、他人にはなかなかできない。凍傷になるかどうかも個人差が大きいので、客が自分で管理するほかない。たとえ、凍傷になっても、高所登山では、「想定内の出来事」でしかない。目が見えなくなる状況も、ガイドには管理できない。高所では、動けなくなること=死につながりやすい。高所登山で、ガイドがどこまで責任を負うかをあらかじめ明確にすることは難しい。事故は、すべて異なるので、個別に判断する他ない。
 高所登山では、参加者の自己責任の範囲が広い。この点を、この判決が「確認した」点に法的な意義がある。海外でのリスクの高い登山に関する裁判としては、日本で最初のケースである。


2015年3月22日
薪作り
 知り合いから木の原木を買い、丸太を切って、薪を作る。


                         


2015年3月8日
道後山・山スキー
 あまりに天気
がよかったので、チョコっと道後山(1268m)で山スキーをした。行動時間6時間。

                         



2015年2月28日
「山岳事故の法的責任」出版
  
ブイツーソリューション発行
  1100円(書店注文、アマゾン等への注文可能)

(目次)
はしがき 
1、総論
2、友人同士の登山
3、山岳会などでの登山
4、ツアー登山、ガイド登山
5、登山講習会
6、学校登山
7、大学山岳部
8、ボランティア活動中の事故
9、職務中の事故
10、特別な関係がない者の間の事故
11、救助活動中の事故
12、危険性の承認、リスクの説明
13、登山道の管理責任
14、法的責任への対処

参考文献
                       


 
2007年に「登山の法律学」(東京新聞出版局)を出版したが、紙の本はかなり前から品切れである(電子書籍は出版中)。古本は、4000円くらいになっている。この本を入手したいという問い合わせがけっこうある。また、概説的な本の必要を感じていたので、山岳事故の法的責任の要点だけを簡単にまとめたのがこの本である。講習会のテキストとして書いた。「まるで、大学の教科書のようだ」という感想があるが、まさに教科書として書いた。
 


2015年2月11日
検証委員会という日本的不思議現象
イスラム国人質殺害事件に関して、検証委員会が設置される。
最近は、事件や事故が起きる度に、検証委員会が大流行だ。しかし、少し考えれば、そのおかしさに気づく。
検証委員会設置の法的根拠は? 原理的な意味で。設置規則さえ作ればよいというものではない。
検証委員会は本当に必要なのか? 
意味があるのか?
今まで、役に立ったか?
検証は、本来、臨時の検証委員会ではなく、常に、検証できるようなチェックシステムでなされるべきではないか?制度の不備が、臨時の検証委員会を必要とするのではないか?
任命手続の不明朗な検証委員会をわざわざ設置しなくても、行政を監視できるシステムが必要なのではないか?
検証委員会の設置は、国や自治体のチェック機能の不備を意味する。
北欧のように学校運営が、自治体代表、親の代表、教師代表、市民代表で運営されていれば、わけのわからない人選で構成される日本的なイジメ事件の検証委員会は不要である。
ほとんどの第三者委員会が、第三者ではなく、役所が声をかけた委員で構成されている。委員を選任した時点で、検証委員会の結論が見えている。あとは、細部のどうでもよい枝葉末節の議論をするだけ。税金の無駄遣い。もし、役所の想定外の結論が出れば、事務局の根回しのミスであり、担当職員のミスになる。


2015年2月
山と渓谷3月号、「登山届の義務化で考えるべきこと」原稿執筆


2015年1月17日
雑誌「山と渓谷」・「気になる山の法律相談」
 山と渓谷958号、2015年2月号に、「気になる山の法律相談」(安武大)が掲載されています。私は、監修者です。私が言うのもナンですが、コンパクトでよくまとまった記事です。


2015年2月5日
裁判員裁判での死刑判決
 
最高裁で、裁判員裁判での死刑判決が否定された。
 裁判員裁判で量刑判断することに問題がある。量刑判断は裁判官が行うべきである。
 裁判は「市民感覚」で行うべきではない。裁判に「感覚」は不要。裁判は知性に基づくべき。量刑判断は、感覚が影響しやすいので、「市民感覚」は危険である。量刑を「市民感覚」に委ねれば、中国のような厳罰国家になりかねない。それに、「裁判官は市民ではない」という発想(それは現実だが)に問題がある。
 事実認定を市民の知性に委ねることは、望ましい



2015年1月8日
国立登山研修所専門調査委員会(東京)
 
各分野の専門家が集まって議論をすると、考える視野や視点が広がる。
 今後、登山研修所は、存続できるのか。
 登山研修の安全管理のあり方。
 来年、スポーツ庁ができる可能性がある。
 その場合に、登山や登山研修所はどうなるのか。
 スポーツ基本法と登山の関係如何。
など


2015年1月5日
仕事始め


                            


「登山の法律学」、溝手康史、東京新聞出版局、2007年、定価1700円、電子書籍あり

                                

               
  
 「山岳事故の責任 登山の指針と紛争予防のために」、溝手康史、2015
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数90頁
        定価 1100円+税

                               

                      
  
 「真の自己実現をめざして 仕事や成果にとらわれない自己実現の道」、2014
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数226頁
        定価 700円+税