2016年      溝手康史


2016年12月27日
違法残業、社名公表

 国が、違法残業をする会社名を公表するらしい。
 それをするなら、官庁の役所名を真っ先に公表すべきだろう。国や自治体で違法残業していることは、公知の事実である。
 私が公務員をしていた頃、毎日、午後10時頃まで仕事をしていたが、残業代は2時間分しか出ないことが当たり前になっていた。
 ある結婚式で、国交省の幹部が、「残業代は出ませんが、仕事はやりがいがあります」と祝辞を述べ、参加者は納得していた。そこでは、午前0時を過ぎても仕事をすることが慣例になっており、誰もがそれを「常識」として知っていた。
 過労死を撲滅するために労基署の職員が過労死しそうになるという日本のジョークがある。これは、労基署の職員から聞いた話である。

 残業をなくするためには、無駄な業務を減らすべきである。日本では、あまりにも無駄なサービスが多い。その理由は、無駄なサービスを国民が歓迎し、要求することにある。国民が、学校に多くの行事を要求すれば、それだけ教師の労働時間が長くなる。本来、教師の残業手当が増えるはずだが、日本では、教師に残業手当は支払われない。自治体は、メールや郵送ですむことを、職員2人がわざわざ文書を持って来る。それが、長時間労働と残業手当に反映する。
 無駄な会議、報告書、無駄な包装、無駄な管理業務などが日本での生産効率を悪くしている。ドーデモヨイことに日本人はやたらと時間をかけ、これが長時間労働、生産効率の悪さにつながっている。元東京都知事の舛添もこの点を指摘していた。この点では、彼もまともなことを言っていた時期がある。

 銀行では、1円まで計算が合うまで職員が何時間でも残業をする。「1円の計算違いのために、何時間も残業するのは無駄」と言うと、「一所懸命にがんばっているのを何だと思っているのか」と反発する人が多い。欧米の競争社会では、経済的合理性を重視し、「どんなにがんばっても、成果が出なければ無意味」であるが、日本では、どれだけがんばったかが評価される。不合理ながんばりは、失敗する。サービス残業でがんばることが、過労死につながりやすい。
 先進国では短時間の労働で一定の生活水準を維持しようとするが、日本では、長時間労働でそれを実現している。生産の結果は同じでも、人間の幸福度はかなり異なる。
 
 「新・所得倍増論」(デービッド・アトキンソン)は、日本は、1人当たりの生産性が世界の27位だと述べるが、これは、GDPを人口で割ったものにすぎず、格差をまったく無視した数字である。1人当たりの生産性の高い国は産油国が多く、格差の大きい国である。アメリカは北欧諸国よりも、1人当たりの生産性が大きい。また、この数字は労働時間を無視している。日本の労働者の単位時間当たりの生産性は、もっと順位が低くなる(日本のサービス残業を含む正確な労働時間の統計はない)。庶民は、数字ほど豊かさを感じないだろう。
 長時間労働で生産を増やすことは誰でもできるが、限られた時間で生産をあげるには、かなりの努力が必要である。


2016年12月23日
山岳遭難はなぜ非難されるのか

 私はこの点が不思議でならない。
 海水浴中の事故の溺死者は非難されないが、山岳遭難者はなぜ非難されるのか。「そんなのあたりまえだ」と言う人が多く、違いを考えない人が多い。海難事故で数億円単位の税金がかかることがあり、救助費用の問題ではない。
 海水浴は誰でもするが、登山をする人は少数派だという点の違い。
 夏山登山よりも冬山登山の遭難の方が非難が強い。これは危険性が高い行為のイメージがあるからだろう(夏山でも初心者は危険性が高いのだが)。冬山登山者は、いっそう少数派。
 登山は自発的行為、遊びであり、これが仕事中の山岳遭難であれば、同情の対象となる。
 同じ山岳遭難であっても、御嶽山の噴火事故は同情される。
 情緒的な日本の文化。これが司法にも反映している。裁判官も弁護士も情緒的。感情が理屈を支配する世界、それが日本の司法である。
 欧米では、山岳遭難は非難の対象ではない。これを言うと、満足そうに、「ここは、日本ですよ」と言う人がいる。「ここが日本だから」ということが理由にならないことに気づかないようだ。何ごとも、当たり前だと考えれば、思考が停止し、進歩も停止する。これを言えば、「バカにされた」と腹を立てる人が多い。

日本の電車内ではなぜ、携帯電話の使用が禁止されるのか。
 
これも不思議な点。いろんな人に尋ねるが、「迷惑だから」、「決まったことだから」という程度の返答しかない。仕事上の急用でも携帯電話が使用できないことは、不合理。電車内で事務所に電話できないので、電車から降りて急用の電話をすることは、経済的合理性に欠ける。メールでは重要な指示、説明はできない。子供の伝言はともかくとして。
 電車内での携帯電話禁止は法的に有効か。こんな議論をすると、日本では、嫌われる。結論から言えば、電車の管理権を有する者が決定すれば、法的に有効である。世間が携帯電話の使用禁止を言うだけでは、法的に無効である。電車会社は、「管理権に基づいて携帯電話を禁止した」とは言わず、「あくまで、お願いです」と言うのではなかろうか。では、禁止していないのではないか? 日本的なあいまいさ。
 電車内で騒がないことは、マナーの問題であって、携帯電話の使用禁止とは無関係。携帯電話の使用禁止はマナーではない。マナーは自発的なものであって、必要な携帯電話の使用を禁止することは、マナーではありえない。携帯電話を使用しなくても、電車内で大声で会話をすれば、迷惑行為である。欧米では、電車内で携帯電話は必要があれば誰でも使用するが、電車内で大声で話すことはマナー違反であり、注意される。ニューヨークの地下鉄では、ビジネスマンが携帯電話で取引先と仕事の話をするのが当たり前らしい。オランダ在住の日本人から見て、日本の電車での携帯電話使用禁止は不思議らしい。
 日本人は、とかく電車内で大声で雑談をする。中国人はもっと騒がしい。日本人は、電車内で静かにするマナーを守れないから一律に携帯電話使用を禁止し、それを「義務的なマナー」にしてしまうのだろう。強制されるマナーは、マナーではない。


2016年12月21日
歌手ASUKAの不起訴処分
 歌手のASUKAが覚せい剤事件で不起訴処分になった。
 証拠が不充分だったことが理由である。
 私の実務経験からすれば、これが有名な歌手でなければ、起訴したのではないかとと思われる。
 これが、有名な歌手ではなく、素性の悪い人物であれば、検察庁は、ためらうことなく起訴し、裁判では、「お茶を入れた」などの弁解は一笑に付され、有罪(実刑)になっただろう。有名人の前では刑訴法が急に厳格になる。世の中は実に不公平?


2016年12月18日
アクセス数5万件突破
 
このウェブサイトのアクセス数が5万件を越えた。
 素人の作った読みにくいサイトだが(その点は、自覚している)、多少は人々の役に立っているのだろう。
 山岳文化の検討→アウトドア文化の検討→日本の社会・文化の法的な観点からの分析→日本の社会に対する問題提起が私のライフワークである。
 健全な社会の発展は、健全な文化に宿る。


2016年12月
ミルフォードトラックを歩く
・・・日本とニュージーランドの登山文化の違い

 ニュージーランドのミルフォードトラックをツアーで歩いた。
 単なる観光ではなく、世界有数のトレッキングルートを調査するという目的があった。

・世界一美しいトレッキングコースと言われているが、その名の通り、
鬱蒼とした樹林、岩と氷河、湖などの山岳景観をすべてこのコースに凝縮したようなルート。今まで、ヒマラヤ、天山、バフィン、ブータンなどで登山(クライミング)のアプローチとしてトレッキングをしたが、それらに匹敵する景観だった。鬱蒼とした樹林はヒマラヤなどにはない景観。
コースは、よく整備された日本の登山道と同じ。しかし、日本では、トレッキングではなく、山頂をめざす登山になってしまう。日本にはトレッキングの考え方はない。日本の山小屋は快適さとは無縁。
・日本の登山は、「がんばる」イメージが強いが、このロッジに泊まるコースは、「楽しむ」イメージである。ガイド登山経験者向きの個人ウォ−クがある。ガイド登山は初心者向きで、6〜8キロくらいの荷物を背負う。個人ウォ−クは経験者向き。後者は、日本の管理人のいる避難小屋での宿泊(自炊)をイメージすればよい。これは、18キロくらいの荷物を背負って歩く3泊4日の縦走登山である。ニュージーランドの避難シェルターは、本当に避難用であって原則として宿泊できない。個人ウォーク用の宿泊小屋はそれとは別である。日本の避難小屋は、実態は宿泊小屋である。
・ニュージーランドでは、登山者の「多様性」が重視されている。初心者向きのガイド登山と、経験者向きの個人ウォ−ク。もし、ミルフォードトラックが日本にあったとすれば、富士山や上高地のように、山小屋が乱立し、山小屋がすし詰め状態になるだろう。避難小屋は営業小屋にとって代わられるだろう(その方がもうかるから。富士山には避難小屋はない)。
・ここでのガイド登山は、出発地と目的地の指定があるが、あとは参加者が自由に行動する。ガイドは、問題が生じた時に対処する。ガイドは、「Do you need anything help?」としきりに言うが、問題がなければ、余計なお節介はしない。参加者の自律性が前提のツアー。サービスは、お節介や表面的な「おもてなし」ではなく、内容で追求される。したがって、ガイド登山だが、登山の引率はない。集団で一緒に歩くことはしない。歩くのは、バラバラである。1人で参加している人は、単独行の様相を帯びる。
・引率はしないが、ガイドに一定の注意義務があるだろう。ガイドの責任は、大雨や大雪の悪天候の時にツアーを中止して、ヘリ輸送に代えるかどうかの判断、アクシデントが生じた時の対処などに限られるだろう。
・ツアー参加者が、トレイルを離れる時は、ザックをトレイルに置くことになっている。たとえば、ザックを置いて、川で釣りをするとか泳ぐとか。自然保護区域だが、釣りは許可を得れば可能である(藻の発生を防止するために、釣り道具をクリーンにした証明が必要)。我々のツアーでも、途中で釣りをする人、泳ぐ人がいた。欧米人は、冷たい川や池で泳ぐのが好きなようだ。
 日本のツアーでは、集団行動からはずれる行為は禁止される。ここでは、ツアー参加者がトレイルから離れて事故が起きても、参加者の自己責任である。日本では、ツアー参加者が集団行動からはずれた行動をすることが禁止され、もし、ツアー参加者が危険な川や湖で泳いで溺れれば、それを禁止しなかったツアーガイドの責任が問われる。ツアー中の道迷いは、日本ではガイドに責任が生じるが、ミルフォードでは、参加者の自己責任だろう。欧米でツアー登山中の事故に関する裁判が少ない理由は、そこにあるのではないか。
 日本のツアーは、「学校遠足型」であり、日本の学校での管理とツアー登山の管理は似ている。日本人は、小さい頃から大人になっても、学校、家庭、、会社などで管理されることに慣れているので、違和感がないのだろう。
このような自由放任型のツアーは新鮮な驚きだった。ある種の文化的なショックでもあった。最初、そんなに放任して大丈夫?という気がしたが、参加者に自律性があれば、問題はない。法的責任の範囲に対する自信がなければ、このような大胆なツアーはできない。このようなツアーは日本にはない。日本のガイドは客を管理することで法的責任への不安に対処しようとするが、管理が強ければ強いほどガイドの責任範囲が広くなるだろう。
ここでは、登山道の管理者が明確であり、登山道がよく管理されている。以前、ニュージーランドで吊り橋事故が起きたが、ルートの管理責任は明らか。その点があいまいな日本とは大違い。日本では、登山道を管理していない結果としての事故が起きる。ニュージーランドでは登山道をきちんと管理しているが、それでも事故が起きるということ。
ツアーは、誰でも歩ける内容であり、無理をしないので事故が起きにくい。この点も日本との違い。日本のツアー登山は、「がんばる」対象であり、無理をしがちである。日本のツアー登山は、管理されて窮屈で行程がきついが、欧米のトレッキングツアーは楽しむのが目的である。日本ではツアー登山をせず、海外での欧米型のツアー登山に熱中する人の気持ちがよくわかる。トレッキング中のロッジも日本の山小屋とは大違い。
ガイドツアーの1日の登山者数が40人以内に制限されている。私たちのツアーは参加者35人だった。オーストラリア、カナダ、アメリカ、イギリス、ニュージーランド、日本からの参加者。英語ガイドのせいか、日本人以外は英語圏からの参加者。日本人は6人いたが、71歳で1人で海外で何度もトレッキングをしている女性、レンタカーを借りてモーテルで自炊しながらニュージーランドを放浪している年配夫婦、英語の勉強のために意識的に欧米人のグループに加わる年配の日本人の単独行者(この人もレンタカーで放浪中)など、いずれも個性的な人たちだった。それに私たち夫婦の6人。
・35人のツアー参加者は、5日間の行動で自然に仲間意識が生じる。最後の日、若い女性ガイドと別れのハグをするかどうか戸惑ったが、結局、しっかりと別れのハグをした。
自由競争の排除が、自然環境を維持している。
・ニュージーランドはアウトドア活動の国である。ニュージーランドでは、アウトドア活動をしない観光客は、あまりすることがないだろう。
・ツアーに参加した人たちは、すべて、親切で自律性があり、あらゆる場面で、「sorry」、「thank you」が飛び交っていた。ツアーの間中、精神的に居心地のよい快適さを感じた。縛られる感覚がない解放感。私は、縛られるのが嫌なので、もともとツアーは好きではないが、こんな自由放任のツアーであれば、ツアーが好きになってもよい。
・自然は、人間の精神を浄化する作用があり、人間の気持ちを優しくしてくれる。世界が、こんな人たちばかりであれば、きっと戦争は起きないだろう(経済的自律性が前提になるが)。
・もし、英語が堪能であれば、ツアー参加者全員に、「あなたは、なぜ、このツアーに参加したのですか」という加藤芳則流のインタビューをして、職業、経歴、政治思想、環境意識、自己責任の自覚などを調査したいのだが、それができるだけの語学力がないのが、最大の残念な点だった。故加藤芳則氏は、アメリカのアパラチアントレイルでそれを見事に実践しており、私は、それに感動した。


        

        
      


2016年11月29日
積丹岳事故最高裁判決

 2009年1月に積丹岳で遭難したスノーボーダーの救助活動中の事故について、上告が棄却され、北海道の損害賠償責任を認めた札幌高裁判決が確定した。
法律家の間では、この判決はほぼ異論のないところだろう。高裁判決は、市販の判例集に搭載されておらず、法律家の間で重要視されていない(目新しい内容の判決であれば判例集に搭載される)。「事故に関する役所の責任を認めた多くの裁判例のひとつ」という位置づけであり、法律家の関心が低い(最高裁判決は、三行半の判決なので、判例集に搭載されていない)。
 しかし、世論の関心は高い。一般の世論の反応としては、「自ら危険なことをしておいて、それを助けようとした者の損害賠償責任が認められるのはおかしい」、「過酷な状況下でがんばった者が責任を負わされるのはおかしい」、「厳しい判決」などの反応が多いようだ。
 確かに、冬山での救助活動には厳しさがあるが、警察官がストレッチャーの固定が十分でなく、その傍を離れたことが、「厳しく、困難」だったかといえば、そうではないというのが、高裁判決である。これは、犯罪捜査や消火活動は一般に厳しさがあるが、警察官や消防隊員の行動がすべて困難であるということにはならない。前記の世論は、救助活動=困難という漠然としたイメージと、遭難=自己責任という漠然としたイメージから、生じるものだろう。遭難自体は自己責任だが、その後の経過がすべて自己責任ではない。遭難した者は、医師の治療ミスで死んでも、自己責任ということではない。

判決については、
・警察官が職務中に注意義務を負うことは当たり前のことである。英語のon dutyが職務中を意味するのは、duty(義務)を負うことと一体であることを意味する。しかし、戦前の日本では、公務員は国民に対する義務を負担しなかった(国家無答責)のであり、その発想は現在でも残っている。警察の任意的業務という主張は、義務を負担しない職務を意味するようであるが、それは戦前の発想である。
・「遭難者を助けようとした者」、すなわち、警察官の損害賠償責任は生じない。国家賠償法により、警察官個人は責任を負わない。警察官は免責されている。責任を負うのは行政である。この区別のできない人が多い。「警察が責任を負うのも、警察官が責任を負うのも同じでしょ」と言う人が多い。これは、個人と組織を区別しない文化を示している。日本では、組織の中で、個人が自立的な存在として認められていない。
・この種のケースは公務員の場合に問題になるが、民間人の救助活動の場合には救助活動中の事故の損害賠償責任はほとんど問題にならない。なぜなら、当たり前のことだが、民間人には警察官の職務上の注義務がないからである。民間人と警察官を区別できない人も多い。
・この裁判は、公務員の職務上の注意義務の内容が争われた裁判である。公務員の救助活動に注意義務が生じないことになれば、救急車での搬送中、消火活動中、犯罪捜査中の事故について、役所が責任を負わないことになりかねない。
・山岳救助活動の過酷さを指摘する人が多いが、もともと冬山での救助活動は一定の厳しさが前提になる。「冬山での救助活動は困難なので免責すべきである」という意見があるが、もともと警察官は免責されている。欧米のよきサマリア人法の考え方は、個人の免責に関する議論であって、行政を免責する理屈ではない。
・では、困難な状況下では、行政を免責すべきだろうか。火災現場での消火活動、犯罪捜査、救急搬送、戦争時の自衛隊の活動などは、すべて困難な状況下で行われるが、「困難な公務」について行政を免責するのであれば、困難な企業活動について企業責任を免責しなければ、不公平である。
 長距離トラックの運転手は、疲労と睡魔と闘いながら困難な中で仕事をしているが、運転ミスによる事故について雇用企業を免責すべきだろうか。
 2009年のトムラウシの事故のツアーガイドは困難な中で業務を遂行し、自分の命を犠牲にした。この事故について、ツアー会社の損害賠償責任を免責すべきだろうか。
・警察官の職務は危険が伴う。そのため警察官は、50歳で手当を含めれば年収が900万円くらいであり、一般職の公務員、教師、民間のサラリーマンに較べれば、待遇がよい。国際紛争地域に趣く自衛隊員なども、かなりの手当がつくはずだ。さらに、公務員は損害賠償責任を負わない制度になっている(損害賠償責任に備えて自分で賠償責任保険に加入しなければならず、労災補償、休業補償、退職金などのない自営業者から見れば、うらやましい限りだ)。
・警察官が二重遭難しそうな状況にあれば、警察の責任は生じない。裁判では、事実の認定として、そのような状況にはなかったとされている。判決では、雪の急斜面で、結束の不充分なストレッチャーに遭難者を乗せたまま、その場を離れた警察官の行動に過失を認定した。ストレッチャーの傍を離れないことが「極めて困難」な状況があれば、過失は認定できなかっただろう。警察官は1人ではないので、たとえ悪天候であったとしても、誰かがストレッチャーの傍にいることは可能だっただろう。それができないのであれば、下手に救助活動をしない方がよい。その方が救命率が高かった可能性がある。翌日には、ヘリや友人による救助の可能性あり。
 冬山の救助活動の過酷さが漠然としたイメージで取り上げられやすいが、問題は、「雪の急斜面で、結束の不充分なストレッチャーに遭難者を乗せたまま、その場を離れる行為」が、避けることのできないものだったかどうかという点である。
・冬山での救助活動は困難ではあるが、一定の訓練を積めば可能である。冬山での救助隊は救助のプロである。ここで問題になるのは、救助隊員としての責任であって、フツーの登山者のレベルで考えてはならない。救助のプロの目で見て、この救助活動に問題がなかったかどうかの問題である。そのような専門家としての責任を「厳しい」と言ってしまえば、医師やパイロットなどの専門的職種が成り立たない。消防職員には専門家として訓練を受けた者としての職務が遂行が期待されるのであって、消防職員が負う注意義務は素人の注意義務とは異なる。医師が負う注意義務は、素人が負う注意義務とは異なる。山岳救助隊員も職務遂行が可能なレベルの専門職としての注意義務が要求される。しかし、現状では、自治体の山岳救助体制が不充分なために、自治体によっては、一般の登山者レベルの経験、技術しかない警察官や消防隊員も多いように思われる。それでは、積丹岳のような事故が起きても、「やむをえない事故」、「判決は厳しすぎる」という意見が出ることは仕方がないだろう。自治体によっては、山岳救助体制のレベルからすれば、「積丹岳事故の判決のようなことを言われても、それは無理である」という意見が出るだろう。一般の登山者から見れば、積丹岳事故の判決は「厳しい」と感じても、救助のプロの目から見れば、この事故は「お粗末」としかいいようがないだろう。
 医師やパイロットで議論されているのは、事故について、民事責任にとどめ、刑事責任まで問うべきではないという点である。医師やパイロットの刑事責任を問うことが、大きな萎縮効果をもたらしている。警察官は、民間人の医師やパイロットと違って、民事責任を負わず、通常、刑事責任も問われることがないので(通常、刑事責任として立件されない)、優遇されている。
・積丹岳の事故のミスの態様は極めて単純なミスである。2000年の大日岳事故、2006年の白馬岳ガイド登山事故、2009年のトムラウシでのツアー登山事故に較べた場合、積丹岳事故のミスは単純で明白である。積丹岳事故で過失(民事)を否定すれば、上記事故の講師、ガイドの過失を否定しなければならなくなる。
 これらの事故では、刑事責任が問われたが、積丹岳事故では刑事責任は問題になっていない。2000年の大日岳事故では、講師が刑事責任を立件されたが不起訴になり、2006年の白馬岳ガイド登山事故ではガイドが事故から8年後に裁判で有罪になり、2009年のトムラウシでのツアー登山事故ではガイドの刑事責任が現在も捜査中である(恐らく、裁判で有罪になるだろう。実刑になる可能性あり)。トムラウシの事故では、ツアー会社幹部の刑事責任まで問われている(これは、不起訴になるだろう)。積丹岳事故が、警察主催の救助講習中の事故であれば、大日岳事故と状況が同じである。積丹岳事故の処分は、多くの他の山岳事故とのバランスの中で考えなければならない。
山岳救助活動は、一定レベルの救助組織でなければ、遂行できない。フツーの登山者は冬山での救助活動などとてもできない。冬山での登攀経験の豊富な者であれば、救助活動が可能だが、そうでなければ、救助活動に従事できない。冬山で強風の中であっても確実にビレイすることは、冬山登攀の基本的技術に属する。充実した山岳救助組織を備えている自治体は、多くない。一定レベル以上の技術、経験がなければ、警察官、消防職員は救助活動ができないが、現在、警察が山岳救助活動を行うことは、義務ではないので、自治体によっては、山岳事故が起きても、「出動できない」事態があるだろう。それはやむをえない。積丹岳の遭難のケースでも、結果からいえば、この救助活動は、組織の能力を超えるものであり、無理だった。日本の公的な山岳救助体制の不充分さが、この事故の原因である。
 翌日のヘリよる捜索、地元山岳団体や登山仲間などによる救助に委ねていれば、救命された可能性がある(これはボランティア活動である)。「こんな判決が出るようでは、地元山岳団体は救助活動をしない」という登山者がいるかもしれないが、ボランティア活動での救助を買って出る登山者は必ずいるはずだ。もし、私が、北海道に住んでいれば、救助活動に参加しただろう。
・「遭難者は自ら危険を招いたのに、危険を冒して救助しようとした者が責任を負うのはおかしい」という意見がある。
しかし、遭難者が自ら招いたのは「遭難」であって、ストレッチャーの落下まで自ら招いたわけではない。先行的な原因が自ら招いたものであれば、その後の他人の過失をもすべて免責する考え方は不合理である。
 以下の事例を対比して考えるべきだろう。

 荒海で釣りやサーフィン、ヨット、カヤックなどをしている人が海に転落し、それを救助しようとした海上保安庁職員が遭難者を乗せた担架を落下させて、遭難者を死亡させたケース(釣りなどはレジャー)

 荒海で漁をしている漁民が海に転落し、それを救助しようとした海上保安庁職員が遭難者を乗せた担架を落下させて、遭難者を死亡させたケース(漁業は仕事)

 酒を飲み過ぎて倒れた人を救急搬送中に、救急隊員が患者を乗せた担架を落下させて、患者を死亡させたケース。搬送先の病院の医師のミスで患者が死亡したケース

 冬の富士山で資材を山頂に運ぶボッカの仕事に従事している人が遭難し、それを救助しようとした救助隊員が遭難者を乗せた担架を落下させて、遭難者を死亡させたケース(ボッカは仕事として行われている)

 積丹岳の事故で遭難者が非難される理由としては、自ら危険を招いたことよりも(自ら危険を招いたケースで世論から非難されない事例は多い)、スノーボードが「遊び」、「自発的行為」だという点が大きいのではなかろうか。これが、仕事中の遭難であれば、世論は遭難者に同情するだろう。かつて、イラクで仕事中に拉致されて殺された外交官は同情され、イラクでボランティア活動中に拉致された人は、世論から非難された。「余計なことをするから、拉致されたのであり、自己責任である」という世論。日本では、「遊び」、「自発的行為」は否定的に見られる。出る杭は打たれる。日本では、義務的行為が評価の対象となる。日本では、ボランティア活動は、「義務的ボランティア」(矛盾した用語だが)でなければ、評価されないようだ。
 「遊び」、「自発的行為」を人間の文化的行動として認めることは、日本が、文化的先進国の仲間入りをするための前提である。遊びやボランティア活動は余暇に行われる。義務的ボランティア活動は、仕事なのか余暇なのかわからない時間に行われる。余暇は、無駄な時間であり、否定的に評価され、遊びも否定的に見られる。日本で、残業が多いことは、余暇を否定的に見る文化が関係している。余暇は余暇という言葉自体が、余った時間を意味している。
 しかし、人間にとって、余暇は生きがいである。仕事は、「やりがい」はあっても、「生きがい」ではない。仕事が生きがいだという人は、失職したり、退職すれば、生きがいを失うだろう。就職できない人は、自殺するほかないのか。仕事のできない障害者は、生きがいを持てないのか。生きがいは、趣味や家族、友人、健康であること、人間であることなどから生まれるものであって、仕事とは関係ない。
 仕事で収入を得ることで初めて、余暇を楽しむことが可能になるので、働かなければ生活できず、余暇を楽しむことができない。余暇を楽しむことができる人は、仕事もできる人が多い。余暇を楽しむことのできない仕事人間は、仕事に時間をかけるだけで、優れた仕事はできない。長時間労働は、仕事の効率の悪さを意味する。

 この事故で裁判所が7割の過失相殺をしたのは、自己責任論に基づく日本の社会の価値観を考慮したものだろう。過失相殺は、理論的にはあいまいだが、日本の司法ではそういうことになっている。
損害賠償責任=非難ではない。救助活動をした警察官は困難な中で活動をしており、賞賛されるべきである。警察も、そのレベルを充実させるべきでって、事故に関して警察を非難してもしかたがない。日本では、責任=非難とい「非難の文化」がある。これが問題である。この文章も、警察を非難しているように感じる人がいるかもしれない。弁護士の仕事上、私の言ったことに感覚的に反応する相談者が多く、疲れることが多い。日本人は感覚的な人が多いと感じている。
日本は、世の中全体が、法律とは関係のないところで動いている。日本の社会は、常識、慣習、世論、情緒、力関係で動いている。それでは、法律を、「常識」に合わせればよいようなものだが、それでは、先進国の仲間に入れない。中国やイスラム国家などと同じになってしまう。
・判決に対する反応に情緒的傾向を感じる。冷静に分析的に考えれば、世論の反応は、冬山=過酷=がんばった者の責任否定個人と組織は一体、責任=非難などのイメージ的な漠然とした感覚的反応という印象がする。


2016年11月19日
テレビ番組・「大改造!!劇的ビフォアーアフター」の問題性
 長年続いたこのテレビ番組が放送中止になる。
 この番組については、以前から法的な見地から問題を感じていた。
・接道義務(2メートル以上の幅で道路に接することが必要)を満たさないため新築ができない建物を、改築と称して、実質的な新築をするケースがあり、これは脱法行為的であること。
・番組は、ずいぶん安い費用で改築ができるというイメージを与えるが、現実にはもっと改築費がかかっていると思われること。現実には、あんな費用では、あそこまで改築できないのではないか。設計費用が費用の中に入っていないのではないか。実際に、建築業者がテレビ局に対し、未払金請求訴訟を起こしている。それも複数の訴訟があるようだ。訴訟になるのは、当然、という印象がする。
・建築士におまかせで改築をしているが、これは法的トラブルの原因になりやすい。一般に、リフォームをめぐる紛争は多く、リフォームの金額も高い。リフォームするよりも、新築した方が安い場合もある。リフォームでは契約内容に細心の注意が必要だが、この番組はその辺の配慮がまったくない。「建築士と建築業者にすべてをまかせれば、安い費用でりっぱなリフォームができる」との誤解を与える番組。現実のリフォーム業界の実態との実態との乖離が大きい。この番組は、安易な改築を助長し、建築トラブルをもたらしやすい。


2016年11月19日

韓国でのコネでの卒業、裏口入学

 最近、韓国の大統領の友人の崔の娘が、コネで高校の単位を取得した点や、裏口入学した点が問題になってる。
 テレビのワイドショーで大統領の知人の娘が、コネで単位を取得した点をとりあげた時に、コメンテーターの長島一茂が、「オレは、高校1年の時に2日しか出席しなかった」と述べ、スタジオが騒然としたらしい。
 何が問題なのだろうか。
 日本でも、私立の高校や大学は、単位の付与や卒業、入学にかなり広い裁量権が認められている。国が、単位付与基準を設けているが、単位を与えるかどうかは、私立学校の私的自治に属する。たとえば、テストで0点の者を進級させるかどうかは、学校の自由である。小学校の分数、小数の計算のできない者でも高校に入学している。自由という意味は、法律で規制されていないということ。授業に出なかった生徒の課外活動を単位として認定しても違法ではない。大学生のボランティア活動や学外での実習を単位として認定する大学もある。レポートの提出で単位を付与する高校、大学がある。通信制の高校、大学もある。単位付与の対象は、校内の授業とは限らない。
 スポーツ推薦入学なども、公平らしさを装っているが、コネに近い。韓国で問題になっている女性はアジア大会に出場しているので、日本では、大学の推薦入学の対象になってもおかしくない。日本では、私立大学の裏口入学は違法ではない。それを言えば、世論の反発を受けるので誰も言わないが、日本には、裏口入学やコネによる進級を禁止する法律はない。もし、国民がそれを問題視するのであれば、そのような法律を作る必要があるが、それは、私学の猛烈な反対にあうだろう。芸能人が入りやすい高校などは、単位取得のうえでさまざまな便宜をはかっている。
 国立大学でも、試験に合格した者を大学が入学拒否したケースがあり、裁判所は、それを違法ではないと判決した。誰を入学させるかは、大学に広い裁量権があるということである。
 格差社会では、国民は、公平や平等であることを求めるが、自由競争の社会は、公平や平等よりも自由が優先される。
誰を採用するかは、企業、大学の自由な競争に委ねられている。テストの点数で企業や大学が採用者を決定することは、法的な義務ではない。推薦入学が特別扱いされているのはその例である。
 見かけ上の「平等らしさ」よりも、格差を解消する政治の方が重要である。大学入試を平等に行っても、平等な試験は、人間の能力差をより明確にするだけである。「がんばれば、誰でもできる」というのは、格差を隠蔽する欺瞞である。日本でも韓国でも見かけ上の「平等らしさ」が重視されるのは、自由競争がもたらす格差を隠蔽するためである。もし、国民が、格差の解消を望むのであれば、法律で自由競争を規制する必要がある。それをすることなく、ワイドショーで韓国のコネ社会のおかしさを指摘することは、そのまま日本に跳ね返ってくる。それが、長島一茂発言である。これは、鋭い指摘であるが、ワイドショーでこれを取り上げなかったのは、ワイドショーが、週刊誌的な話題を取り上げるだけで、「社会的な問題を考える場」ではないからだろう。
 韓国は制度、文化が日本と似ている。韓国で起きていることは、日本の状況を極端にしただけのことである。


2016年11月17日
トランプ現象・雑感
 
クリントンが得票数ではトランプを上回っていたので、トランプ当選が、アメリカの多数意思を示すわけではない。
 しかし、ほぼ半数の人がトランプを支持したことは、重要な意味を持っている。

 ロールズ、セン、ピケティなどが述べるように、アメリカでも日本でも格差が大きい。
 経済的格差が拡大している。これに対し、「がんばった者が報われる」のは当然だという意見がある。
 がんばる者とがんばらない者の間で格差が生じるが、がんばるかどうかはある種の能力である。能力があればそれほど努力しなくても成果を達成できる。それほど能力がなくても、努力すれば、成果を達成できる場合がある。それらは人間の資質の差であり、人間の資質の差が格差をもたらす。人間の資質は、ある種の能力である。
 格差が生じる原因や理由はさまざまであり、それは問題ではない。格差が大きいことが問題であり、それが最近の社会現象をもたらしている。テロも、国や民族間の格差が背景にある。個人的な差別やイジメー国内での格差ー国際的なテロや戦争は、すべて関連性がある。
 21世紀は、格差がもたらすイジメ、社会的な混乱、テロ、戦争の時代になりそうだ。
 
 これを解消するためには、格差があっても、「誰もが仕事があり、誰もが一応の生活が成り立つ」社会を実現することをめざす必要がある。人間に生物としての個体差がある限り、格差はなくならない。動植物に個体差があるように、人間にも強い者と弱い者がいる。しかし、それは当たり前のことであり、それは問題ではない。強い者と弱い者の格差がそのまま生存の差につながるのは、野生動物の世界では当たり前だが、それが現在の人間社会の状況になっている点が問題なのだ。人間と野生動物の違いは、「考える」という点である。
 政治が格差の解消に向けて努力する社会であれば、国民は納得し、その国の政治を信頼するだろう。しかし、現在は、政治が格差を拡大する方向に向かっているため、国民の政治不信が大きい。その国の政治と政府は、その国の国民のレベルに応じたものになる。


2016年11月12日
「山岳事故の法的責任」講演(札幌)(北海道勤労者山岳連盟・第45回北海道登山研究集会)
 約2時間話をした。参加者156人で盛況だった。
 北海道では、山岳事故の裁判がマスコミに取り上げられることが多く、関心も高いのだろう。
 
 札幌は、飛行機の直行便があるが、やはり遠いというのが実感。

                  


2016年11月8日
電通の強制捜査

 電通が、労基法違反などの容疑で強制捜査された。
 このような事態になれば、多くの人が、電通を非難するが、以下の点が重要である。

・電通は、特別な企業ではなく、どこの企業でもサービス残業をしている。大企業や役所のほとんどでサービス残業がある。日本では、電通のような企業や役所が多いが、国民全体が違法行為を黙認している。
・国の官庁では、深夜0時を過ぎても仕事をしている。大企業の深夜労働は当たり前。私も、公務員をしていた頃、毎日午前1時頃帰宅していた。残業手当の支給は1日に2時間分だけだった。
 こういう話をしても、「嘘だ」と言う人が多い。「国の役人は、高給をもらって、仕事をサボっている」と考える確信犯。政治家とマスコミによる洗脳。格差が妬みや嫉妬、反感、誤信、確信犯を生みやすい。
・電通問題に関わる労基署、厚生労働省、警察、検察庁などが、すべてこの問題で残業が増える。
・教師は、だいたい夜9時まで仕事をしするが、残業手当はない。家に帰ってからも仕事をし、休日も仕事が当たり前(クラブ顧問など)。もちろん、休日手当はない。
・日本人は、欧米の2倍くらい働いているが、それでも欧米の国よりも所得が低い。
労働1時間当たりの国民所得を計算すべきではないか。それが、幸福度に関係する。
・誰もが、「自分の仕事は特別だから、残業は仕方がない」と考える。電通も同じ。日本人のほとんどが、例外的な残業をしており、例外的な残業が、一般化している。残業を拒否すると、村八分になるのは、会社だけでなく、社会から、「がんばらない人間」として非国民扱いされる。「企業戦士」にとって会社は戦場であり、戦争に行かない者が非国民扱いされる点は、太平洋戦争時と同じ。出る杭は打たれる。私は、よく打たれる。

 どうすればよいか。法律で残業を禁止すればよい(現在、ザル法で禁止ているが)。ザル法の禁止(日本の法律は、ザル法や、タテマエ法が多い)。法律で残業を禁止することは、日本では、革命に匹敵する。
 

2016年10月27日
広島と日ハムの監督采配の違い・・・パターン型と臨機応変型

 今日の時点で、日ハムが3勝2敗である。
 日本シリーズを観戦していて気づいたことがある。広島と日ハムの両監督の采配は対象的である。広島の監督は、パターンを決めて、それに基づいて試合を進める。7回、8回、9回に投げるピッチャーをあらかじめ決めておき、だいたいそれを忠実に守る。過去にうまくいった方法は、そのまま踏襲する傾向が強い。
 これに対し、日ハムの監督は、パターンやマニュアルにとらわれることなく、調子の良い者から使っていく。過去にうまくいった方法でも、その時々で、調子が悪ければ、すぐに選手を代える。広島はパターン型、日ハムは臨機応変型である。広島のやり方が、従来の日本の野球の伝統型といえようか。パターンに当てはまる限り強いが、変化に対応できない。過去のうまくいった方法に固執して、現実の変化に対応できない。たとえ、失敗しても、必勝パターンでがんばったのだから仕方がないと諦めることが可能である。これはかなり情緒的な考え方である。
 
 これに対し、臨機応変型は、慣れない者にはなじめず、不安が生じやすい。情緒的な日本の文化は、このような考え方を受け入れにくい。しかし、現実に基づいて対応でき、失敗を回避しやすい。学習能力に優れている。日ハムは、最初の連敗から、多くのことを学び、作戦を変更した。広島は、連敗しても従前のパターンをほとんど変更しない。うまくいかなければ、過去の成功パターンに、ますます頼る傾向がある。

 この両監督の考え方の違いが、日本シリーズの勝敗を決めそうな気がする。

 この違いは、野球以外の場面、たとえば、企業経営や登山などでも当てはまるのではなかろうか。野球では、勝つか負けるかという問題に過ぎないが、企業では倒産、登山では遭難死につながる。
 過去の成功パターンに固執する企業は、いつかは失敗する。
 過去の成功パターンに固執する登山家は、いつかは遭難する。
 いずれの場合も、現実に基づいて、臨機応変に考えることが重要である。


2016年10月26日
大川小学校事故判決の今後の影響

 東日本大震災の津波で児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校事故に関して、児童23人の遺族が市と県を相手取り23億円の損害賠償を求めた訴訟で、平成28年10月26日に、仙台地裁は、市と県に約14億円の支払いを命じた。

 2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波で、宮城県石巻市を流れる北上川の河口から約4キロにあった市立大川小(当時の全校児童108人)の児童74人が死亡・行方不明となった。このうち23人の遺族が市と県に計23億円の損害賠償を求め、仙台地裁に提訴した。地震発生後、約50分間校庭で待機した後、校庭より約6メートル高い北上川に架かる橋のたもとへ避難を始め、津波にのまれたとされる。学校にいた教職員10人も死亡。 
 判決で高宮裁判長は、震災発生後、市広報車が学校周辺で津波が迫っていることを告げていたことから、「呼びかけを聞いた後では、大規模な津波の襲来は予見したと認められる」と認定。学校の裏山に避難させず、結果回避義務違反の過失があると判断した。

(コメント)
・予想通りの判決。現在の裁判所の予見可能性の考え方では、こうなる。
・自治体側が控訴すると思われるが、控訴状に貼る印紙代だけで600万円以上かかり、弁護士費用は1000万円以上か?これらは、すべて税金でまかなわれる。これらは、まったく無駄な税金使用である。弁護士は、紛争が増えた方が仕事が増えるが。控訴審で和解するというパターンが多いが、最高裁まで争う場合もある。
・「津波の危険がある場合は高いところに逃げる」ことは、小さい頃からの訓練次第。「裏山は危険」という教師の考え方は、教師がアウトドア活動に慣れ親しんでいなかったからといえよう。
・地震や津波は、自然現象であるが、これらの予見可能性の考え方は、山岳事故などのアウトドア活動でも共通する。
・事故の原因は、「高い場所に避難しなかった」ことにある。しかし、遺族は、「なぜ、高い場所に避難しなかったのか」と考え、事故原因が解明されていないと感じる。裁判は、もともと、真相究明に不向きな手続である。「自分の子供は、なぜ死ななければならなかったのか」という問いは、永遠に続く。


2016年10月12日
「残業100時間で過労死は情けない」発言の問題点

 ある大学教授が、残業100時間で過労死は情けない」という発言をしたそうな。

・過労死に限ったことではないが、社会の問題点は、弱い部分に現れる。残業100時間で平気な人も多いが、そうではない人も多い。すべての人がスーパーマンであれば、法律や憲法は不要である。過労死の問題は、「そうではない人」が過労死しないようにすることである。日本の弁護士でも、徹夜は当たり前という人は多い。夜、12時以降も仕事をする国家公務員は多い。しかし、それは、過労死の問題とは関係がない。
・事件や事故の被害者は、すべて社会的少数者である。憲法の人権保障は、社会的少数者の権利をいかに守るかにある。
・専門家は、自分の専門分野の知識はあるが、それ以外の分野は無知な人が、けっこういる。上記の教授は、専門的な知識はあるのだろうが、社会的なことはほとんど何も知らないようだ。社会経験の欠如、専門外の知識の欠如、視野の狭さ。この教授は、日本の企業での経歴が長いが、日本の企業は、それが実情なのかもしれない。ところが、社会的には専門家の意見が重視されやすい。原発の安全性に関する大学の原子力研究者の発言のように。
・過労自殺事件の裁判の嚆矢は、電通事件だった。何でも最初が画期的である。2番目が、広島の木谷事件(オタフクソース事件)である。私はその裁判の弁護団の1人だった。木谷事件に関する本「この命守りたかった」(かもがわ出版)は、まだ、アマゾン等で売っている。
・過労死をなくするには、どうすればよいか。残業を規制すればよい。これは、簡単なことだが、日本では、難しい。日本では、残業規制をする法律はあるが、これは、タテマエであり、実質的な残業規制はほとんどない。日本では、先進国なみの法律を作るが、ものごとは法律では動かないのが一般的。ものごとが法律では動かないのは、法の支配の欠如による。これは、発展途上国では、当たり前の現象。国民は、不平、不満は言うが、選挙に関心がない。この点も、発展途上国で一般的な現象。日本も、あと数十年すれば変わる可能性がある。


2016年10月1日
「リーダーの法的責任」講演・・・・広島県山岳連盟・東部地区&実技講座(福山市)、山岳指導員養成カリキュラム

 福山市山野町の農家民宿「西元」で開催された。山野町は、自然の中の別天地であり、福山にも、こんな良い場所があることを初めて知った。20年前に知っていれば、子供を連れてきてキャンプなどをすればよかったと思った。「西元」は、築110年の農家を改築した民宿であり、趣きがある。
 私は、10月1日に、「リーダーの法的責任」について、2時間話をした。


2016年9月26日

トライアスロンでの死亡

 25日午前10時ごろ、横浜市・八景島で行われたトライアスロンの大会で、水泳競技に参加していた神奈川県横須賀市の58歳の男性が溺れ、病院に運ばれましたが、その後死亡した。男性は400メートルのコースを平泳ぎで泳いでいたが、スタートからおよそ300メートル地点でライフセーバーが、男性が息継ぎをしていないことに気づいた。男性がこの大会に参加したのは初めてで、前日と当日の自己申告による体調チェックでは特に問題はなかったということです。この大会では2011年と2012年にも参加者が溺れて亡くなっている。
 もともとトライアスロンはリスクが大きく、大会主催者の管理体制に問題はなかったように見えるが、遺族が納得しなければ、訴訟になる「可能性がある。


2016年9月25日
ダムに高濃度のセシウム

 東京電力福島第1原発周辺の飲料用や農業用の大規模ダムの底に、森林から川を伝って流入した放射性セシウムが濃縮され、高濃度でたまり続けていることが環境省の調査で分かった。50キロ圏内の10カ所のダムで指定廃棄物となる基準(1キロ当たり8000ベクレル超)を超えている。

 これは、当初から予想されたことである。原発から拡散された野山の放射線物質は、雨で洗浄されて、地中や、川や海に流れ、魚の体内や海底に蓄積される。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」が連想される。それ自体は、今後、1万年間くらいの間、どうにもならないのではないか。放置するほかないとの報道だが、思考停止するほかないのか。いずれ、ダムは土砂で埋没するが、どうするのだろうか。洪水でダムの沈殿物が攪拌されたら?


2016年9月17日
豊洲市場問題

 東京都の豊洲市場の移転問題は、第三者委員会の問題性を象徴している。

・専門家会議の提言に法的な拘束力がない点が問題。
 役所は、専門家の意見を参考意見程度にしか受けとめない。当時、役人は、盛り土案をそれほど気に留めなかったのではないか。都庁の職員が、盛り土に関する「情報を共有しなかった」と言われるが、それは、要するに専門家の意見を無視したということである。それは、役人がいつもやっていることである。外部の専門家先生の言うことをすべて聞いていたら、行政はできないという感覚が役人にある。現在、マスコミが大騒ぎするほどの大問題として、当時、役人は受け止めなかったのだろう。なぜ、当時、知事やマスコミがこの問題を大きく取り上げなかったのか、そのようにしていれば、役人は専門家会議の意見を尊重したはずだというのが役人のホンネではなかろうか。
・専門家会議、技術委員会などの第三者委員会を設置は、政治家の政治的パフォ−マンスの面がある。第三者委員会の結論が行政の意に添う場合には、直ちにそれを採用するが、委員会の結論が行政の意に添わない場合には、法的には、第三者委員会の意見を行政は無視することができる。委員会の提言を聞くかどうかは、行政の自由というわけだ。行政が金を出して委員会を設置するのに、なぜ、行政にとって役立たない意見にしたがわなければならないのかという発想が行政にある。
 しかし、国民の立場でいえば、行政が第三者委員会の意見を無視できるのであれば、第三者委員会を設置する意味がないことになる。今回の豊洲市場のケースでも、東京都は、専門家会議の意見を無視している。

 私は、かつて役人をしていたことがあるので、役人の考え方がわかる。役所は、行政上の方針決定は役所の専権だと考える傾向がある。第三者委員会は部外者であり、部外者の意見に役所が従うことに抵抗がある。役所のことは、役所が決めるという考え方。外部の専門家の意見よりも、組織内部の意見の方が重視される。
 専門家の意見を軽視する傾向は、日本の社会全体にある。銀行、役所、学校、企業などは、外部の専門家の意見を軽視する。学校では、教育学者の言うことよりも教育委員会の意見の方が絶対的である。銀行は、法律家の意見よりも、銀行内部の規定や慣習の方を重視し、しばしば、法律に基づかない運用をする。企業は、外部の弁護士の意見を無視する。東京都も、外部の専門家の意見よりも、組織内部の「地下空間があった方が便利である」という意見を採用したのだろう。これは、行政がいつも行っていることである。ただし、役所は世論には弱い。役所は、専門家の意見は軽視しても、世論は重視する。
 また、役人は、税金を役所が自由に使える金だと考える傾向がある。自分の金の使い方を外部の専門家に指図されたくないという感覚。税金の私物化。これはあらゆる官僚機構や組織に見られる傾向である。
 
 行政の問題点として、いつ、誰が、どのように決定したかがあいまいなことが多い。これは、わざとあいまいにするという面がある。組織が決めたことは、誰が決めたかわからない。責任の所在をあいまいにでき、便利である。太平洋戦争開戦時の決定と同じである。誰も決めていないのだが、御前会議のその場の雰囲気で、何となく、開戦ということになったらしい。丸山眞男が、そんなことを書いている。 そんなことで、開戦という重要なことが決定されてよいはずがないが、それが日本的なやり方になっている。おそらく、豊洲も、誰が地下空間を作ることを決定したか「不明」のままになるのではないか。誰もが、決めていないが、何となく組織の方針が定まったということ・・・・行政が、いや、会社も、日本全体が、そのように動いている。日本や韓国は社会的非難が強い社会であるが、それが、逆に無責任社会をもたらしている。

 役所のやり方
・重要なことを決める会議では、誰も決めない。組織のあうんの呼吸と、会議外の根回しでものごとが決まるので、会議の時には、既にものごとが決まっており、会議では決定事項の報告と質疑で終わることが多い。
・重要なことを決める会議では、できるだけ議事録や資料を残さない(重要でないことが議題の時は、膨大な量のドーデモヨイ資料を残す)。できるだけ、決定過程を不明朗にする。しばしば、会議で、外部委員に資料を持ち帰らせない扱いが多い。資料は、会議後、役所が廃棄するのだと思われる。
・重要なことを決める会議では、記録は、できるだけ公文書にせず、公務員個人の私的なメモにとどめる(情報公開請求の対象になるので)。

 安保法案の審議では、内閣法制局すら、会議の内容を不明にしている。まさに国家ぐるみの慣行になっている。
 マスコミ報道で、「東京都のやり方は、民間では考えられない」という意見があったが、日本の民間企業は、役所以上に、魑魅魍魎の無責任体制での世界であることは世界のジョーシキだろう。日本の株主総会や取締役会のチェック機能が飾りになっている。

 私は、国と自治体の第三者委員会の委員をしたことが2回ある。そこで、第三者委員会が事務局主導になりやすいことを感じた。この点は委員の顔ぶれ次第・・・・・・委員長の采配次第。委員長の権限が大きいが、誰を委員長に据えるかは、事前に役人が根回しをして決める。
 事務局と委員の意見が対立し、事務局の協力が得られなければ、調査が進まない。実際の資料収集、報告書の作成は事務局が行う。エライ先生達は、通常、時間のかかる報告書を書くことはしない。私が委員をした時は、事務局が書いた約70頁の報告書の文章の出来が余りにも悪かったので、委員長である私がすべて文章を手直しした。おかげで、その間、仕事がほとんどできなかった。他の委員は、会議で若干の意見を言うだけで、手間のかかる「書く」作業は時間と労力を要するので、しない。委員会で意見を言うだけであれば楽だが、実際に報告書を作成する作業は大変なのだ。別の委員会では、事務局作成の報告書の出来がよかったので、会議で若干の修正をしただけで、承認された。国の役人の報告書作成能力に感心した。その時は、事務局がすべてやってくれるので、こんなに楽をしてよいのかと思ったくらいだ。報告書の出来、不出来は、役人の能力と資質の差による。


2016年9月15日
残業撲滅運動

 東京都は14日、働き方改革の一環として、10月中旬から全職員を夜8時までに退庁させる取り組みを始めると発表した。小池百合子知事は庁内放送で「夜8時には完全退庁。このことを都庁の新しいルールにしたい」と述べ、「残業ゼロ」に向けた意識改革を職員に呼び掛けた。
 安部首相も、残業を減らす提言をしている。

 問題は、@残業を減らすためには、仕事量を減らす必要があること、Aそのための法規制が必要である。日本では、仕事量を増やしながら、残業を無くそうとするので破綻する。また、残業を規制する法律がザル法である。自主努力で残業を無くそうとしても、失敗する。
 東京都の市場移転問題の処理で追われている職員に対し「残業をするな」と言っても、国民が納得しない。国民は、「徹夜をしてでも、問題を処理しろ」と考える。その結果、残業が増える。多くの国民は、「この場合は、特別だ」と考える。しかし、すべての問題は、個々の住民にとって「特別」なのであって、毎日、特別な問題を処理するために公務員は残業に追われている。個々の問題を特別視し、例外的に残業をすることが、毎日の残業につながっている。
 仕事の量を減らさなければ、残業撲滅を実現できない。仕事の量ではなく、質を重視するということ。日本では、無意味なサービスや文書、会議、報告書が実に多い。顧客への無駄なサービスが多い。例えば、利用者がすべてのタクシーがピカピカに磨かれていることを「サービス」として要求すれば、それだけ、タクシー会社の社員の仕事の時間が増える。しかし、合理性の観点からいえば、タクシーは移動の手段であって、タクシーがピカピカに磨かれていてもいなくても、移動の上で違いはない。利用者にとって、タクシーがピカピカに磨かれているよりも、料金が安い方がよい。タクシーはざっと水洗いされていれば、それで足りるのではないか(タクシーがほこりまみれだと、乗り降りの時に衣類が汚れる恐れがあるので、ざっと水洗いしてあった方がよい)。
 役所への提出文書が、書式どおりでなければ、何度も書き直しをさせられる。それも無駄な時間。内容が同じであれば、書式などどうでもよい扱いをすれば、無駄な時間を減らせる。日本では、電話での連絡ですむことを何時間も「会議という儀式」を行うことが多い。

 徹底的な合理性を追求することが、残業規制につながる。経営者にとって、無駄な残業手当を支払うよりも、同じ経済効果を短時間であげたほうがよほど合理的である。日本の残業は、サービス残業を前提に成り立っている。サービス残業を厳しく摘発し、処罰すれば、サービス残業は簡単になくなる。しかし、現状は、役所のサービス残業が日常化している。
 ある結婚式で、新郎の上司の課長が、「○○省では、残業が多く、残業代は出ませんが、仕事のやりがいはあります」というスピーチをし、出席者は、それを当たり前のように聞いていた。財務省などでは、午前0時を過ぎても仕事をするのが当たり前になっている。こんな話を、別の人に話したところ、「そんなはずはない。役人は高い給料をもらって、仕事をさぼっているのだ」と断言した。私も、昔、公務員をしていた頃、毎日、午後10時頃まで仕事をしていたが、残業手当は、午後7時頃までの分しか支給されなかった。毎日、3時間のサービス残業だった。これはマシな方である。地方公務員も遅くまで仕事をしている。教師も、午後9時まで学校で事務作業をし、自宅に帰ってからも報告書の作成などをしている。裁判官も1週間に70時間くらい働いている。これらを、信じない人が多いが、そういう人は、自分だけが低賃金で長時間労働をさせられていると信じ、公務員や大企業の社員に対する反発を持ちやすい。しかし、現実には、大企業の社員はもっと多くの残業をしている。能力のある人ほど長時間労働をする傾向がある。
 日本全体で長時間労働の非難合戦がなされている。マスコミに扇動・洗脳された世論の他人への嫉妬や妬みが、思考上の偏見と確信犯を生む。国民の意識改革がなければ、残業はなくならない。


2016年9月13日
酒気帯び運転による公務員の免職処分は違法

 平成28年9月8日、最高裁は、酒気気帯運転をした公務員を免職にした市の処分を違法と判断した高裁判決を支持した。酒気帯運転をしたというだけでは、公務員をクビにできないということである。人身事故などを起こせば別だが。
 法律家から見れば、この最高裁の判断は、妥当な結論である。

 しかし、世論は、そうではない。酒気帯び運転をした公務員をクビにしろという世論が強い。
 では、酒気帯び運転をした民間の会社員は、クビにすべきだろうか。あなたは、自分が酒気帯び運転をして会社をクビになってもよいですか。違法行為を理由に簡単に会社をクビになってもよいですか(管理する側は、世論の非難をかわすために、その方が都合がよい)。
 公務員に対する厳罰処分は、独立行政法人や財団法人、社団法人の職員にも影響する。公立学校の教師に対する厳罰は、私立学校の教師の厳罰につながる。公務員と民間人が同じような仕事をする場面では、公務員と民間人の処分の違いに合理的な理由を見いだせない。
 
 重要なことは、処分のバランスである。すべて厳罰にすることは、いずれ、自分自身のクビを閉めることになる。窃盗を死刑にする社会はどうだろうか。かつての中国では、窃盗犯を死刑にしていた(裁判で裁判官が死刑の宣告をする)。北朝鮮では、主席の命令に背けば死刑になるらしい(それも、裁判で裁判官が死刑を宣告しているはずだ)。


2016年9月6日
3000m級の山で装備を持った知人に下山され「遭難状態」に…慰謝料請求できる?(弁護士ドットコムニュース配信から)


ドットコム・ニュースの内容は下記のとおり

2016年09月05日 09時40分
(写真はイメージ)


「3000メートル級の山で同行者に置き去りにされたら慰謝料を請求できるのでしょうか」。弁護士ドットコムの法律相談コーナーにこんな相談が寄せられていた。水などの装備を預けていた知人が、自分を置いて勝手に下山してしまったというのだ。

相談者は登山の途中、同行する知人が山小屋で休むというので、不要な荷物を預け、一人で山頂へ向かった。その帰り道、この知人から体調不良で、先に下山すると電話がかかってきたという。

山小屋に戻ると、預けた荷物もなくなっており、相談者は装備が不足した状態で下山せざるを得なくなった。なんとか下山できたものの、「脱水症状に陥り、ほぼ遭難状態」という危険な状況だったそうだ。

相談者は、荷物を持って先に下山した知人に慰謝料を請求できるのだろうか。山の問題にくわしい溝手康史弁護士に聞いた。

●請求はできるが、少額になる

「本件では、この知人の行為に注意義務違反の違法性があるかどうかが問題になります。

一般に、相手が知人の場合には、体調不良のために先に下山しても、違法ではありません。知人関係の場合には、いつでもパーティーを解消できるからです。しかしこれが、山岳ガイドと客、教師と生徒などの特別な関係であれば、ガイドや教師に重い注意義務が生じ、置き去りが違法となる場合があります」

荷物を持って行ってしまったことに問題はないのか。

「水、ヘッドランプ、雨具、地図、磁石などは、生命、身体の安全に関わる装備です。山では何が起きるかわかりません。これらがなければ、持ち主が困ることは容易に予見できるので、持ち去った知人に損害賠償責任が生じます。

通常、これらを他人が持って下山することは考えられませんが、もしかしたら、この知人は一度預かった以上、荷物を置きっぱなしにできないと考えたのかもしれません。確かに街中では、他人の荷物を預かると保管義務が生じ、ほったらかしにしていると、保管義務違反になる可能性があります。

しかし、登山では、体調不良やさまざまなアクシデントのために他人の荷物の保管ができないことがあります。現金などの貴重品は別でしょうが、預かった荷物を小屋に置きっぱなしにしていたとしても保管義務違反になることはありません。この知人は荷物を置いて行くべきでした」

どのくらいの損害賠償額を請求できるのか。

「本件の場合は、慰謝料は少額になると思われます。相談主は脱水症状がひどかったと言っていますが、一般に、下山は登りに較べて体力的に楽であり、休みながらあまり汗をかかないようにして下山すれば、脱水症のために遭難することは考えにくいと思います。知人の行為と遭難の間に因果関係が認められないと考えられるため、遭難による損害の賠償責任までは生じないでしょう」

(弁護士ドットコムニュース)

溝手 康史(みぞて・やすふみ)弁護士
弁護士。日本山岳サーチ・アンド・レスキュー研究機構、国立登山研修所専門調査委員会、日本山岳文化学会、日本ヒマラヤ協会等に所属。著書に「登山の法律学」(東京新聞出版局)等。アクタシ峰(7016m)等に登頂。事務所名:溝手康史法律事務所、事務所URL:http://www5a.biglobe.ne.jp/~mizote/


2016年9月4日
ウィンドウズ10は仕事には不向き
 新しくパソコンを買ったら、ウィンドウズ10になっていた。
 これには、アドレス帳がない。アドレス帳は、名刺帳と一緒で、これでメール先を分類、整理していたのだが、それができない。ウィンドウズ10は、メールをパソコンに取り込まず、メールデータにアクセスするだけなので、メールアドレスもパソコンに取り込まれることがない。したがって、パソコン内にアドレス帳が作れないのは、当たり前である。
 仕方なく、メールは古いパソコンで行っている。メールは、最初は新しいパソコンで閲覧はできるが、データとして古いパソコンに取り込まれた後は、新しいパソコンで閲覧できなくなる。ウィンドウズ10は、仕事では使うには不便である。
 
 また、例によって、古いソフトの多くが使えなくなる。ソフトを更新するには金がかかる。これも、古いパソコンで以前のソフトを使っている。新しいパソコンは、古いパソコンが壊れた時の予備。プリンタも同じ機種を4台持っている。これも、プリンタが不調の時の予備のため。
 ウインドウズは、消費者に金を使わせるためにモデルチェンジをする。XPはすぐれた基本ソフトだったが、消費者がそれに満足したのでは、マイクロソフト社に金が入り続けない。それで、XPを使えなくする工夫をマイクロ社がする必要があった。

 消費者にどのようにして金を使わせるかで成り立っている社会。それに対し、消費者は(少なくとも私は)、金を使わずに知恵と労力を使うことで対抗するのがよい。ある種の知恵比べ。金を使わずに知恵と労力を使うことは、頭と身体の訓練になり、健康にもよい。ボケ防止、長生きできる。
 

2016年8月24日
アメリカの裸のトランプ像と日本の裁判所
 アメリカの各地でトランプの裸の像が置かれ、これがすぐに撤去されたことが報道された。
 法律家が関心を持つのは、撤去したトランプ像の行方である。

 日本では、公共の場に放置された自転車は、各地の条例により、撤去して公売処分にすることができる。しかし、自転車以外の私物については、このような条例の対象ではないので、扱いに困る。他人の所有物なので、簡単には処分できない。もし、たとえ違法残置物であっても、所有者に無断で処分すれば所有権の侵害になり、後で、所有者から損害賠償請求を受けることになる。
 時々、その種の法律相談がある。とりあえず、保管するほかない。所有者が置いた物や所有者の住所、氏名がわかるものは、「遺失物」ではない。所有者がわかる場合には連絡をし、引き取らない場合には、引き取れという裁判をして、強制執行をするというのが、法律のタテマエである。放置自動車の所有者を調べてほしいいという弁護士への依頼が、時々ある。

 しかし、日本の裁判所は、裁判所構内の自転車を処分する。以前、私が裁判所の自転車置場に置いていた自転車(時価4万円)を裁判所が無断で処分したことがある。自転車には、大きく住所氏名、電話番号を記載し、防犯登録もしていたが、裁判所からの連絡は一切なかった。
 自治体が放置自転車を処分する場合には、所有者がわかる場合には、「保管しているので、引き取りに来るように」連絡が来るが、裁判所はそのような面倒なことはしない。自治体の場合には、条例で、可能な限り自転車の持主に返還することが義務づけられている。また、無断駐輪に困った空き地の所有者が、「無断で駐輪した自転車は、所有権を放棄したものとみなすので、欲しい人は、自由にお持ち帰りください」という看板を立てたが、マスコミで話題になり、すぐに看板を撤去したケースがあった。
 しかし、裁判所が処分する場合には、所有者に連絡することなく自転車を処分する。裁判所に対し損害賠償請求をする者などいるはずがないという自信があるのか。他人の所有物を処分するには、それなりの法的な根拠が必要である。自治体や民間人の場合は、所有者への連絡をとるが、裁判所はそれをしない。

 アメリカでは、トランプ像をどのように扱うのだろうか。まさか、日本の裁判所のように、まったく連絡することなく売却処分することはしないだろう。


2016年8月19日
福島・凍土壁の失敗と野山の放射性物質の流出
 福島原発の凍土壁が完全に凍結せず、計画が破綻したとマスコミ報道された。凍土壁の失敗は、大方の予想通りだろう。無駄な金を使っただけだ。
 
 それよりも、福島に大量に雨が降っており、これらが、原発周辺の野山に存在する放射性物質がすべて海に流出していることが大問題である。雨で野山の放射線が除染される!が、川や海がそのため汚染されるというわけだ。集落付近の除染後の水の後始末の問題とはレベルが違う。大量の放射性物質が海に流入している! 野山の面積は広大であり、放射性物質の量も膨大であるが、その量が測定されていないだけである。「知らない」ことで、人々が安心している。

 原発構内の雨水も地下に浸透し、海に流出しているのではないか。


2016年8月13日
大峰山・大台ヶ原の登山道
 
大峰山と大台ヶ原の登山道を視察に行った。最近は、「登山道のあり方」を研究している。後日、ニュージーランドのミルフォード・トラックも視察する予定。

          
 
関西最難と言われる大峰・弥山川ルートの登山道だが、思っていた以上に、梯子と鎖で整備されている。技術的に難しいのではなく、鎖と梯子の危険性と急登が続くことが、登山道の困難度の内容のようだ。沢歩きのルートではなく、沢や滝のほとんどを高巻き、梯子登りの多い山道である。
 

          
 
大峰・弥山の行者還ルートの登山道。ハイキング用のトレイル
 外部から搬入した砂利が敷き詰められている。これも、環境破壊?


           
 大台ヶ原の登山道。コンクリートで舗装されている。コンクリートの舗装は、環境の永久破壊である。ここまで整備するのは観光客が歩きやすくするためだが、歩くためだけであれば、そこまでの環境破壊は必要ないだろう。

 これらは、登山の整備の仕方が登山の内容、グレード、危険性を決定することを物語る。
 ほとんどの登山者は、山を登るのではなく、登山道を登るのである。登る登山の内容は、登山道の整備の仕方次第である。


2016年8月7日
カジキ釣り大会・遭難の法的責任問題
 8月7日、千葉県銚子沖で「4人乗りのプレジャーボートが行方不明になった」と銚子海上保安部に通報があった。カジキ釣りの大会に参加していたボートの行方が分からなくなっており、海保が飛行機や巡視船などを使って捜索している。海保などによると、行方不明になっているのは銚子マリーナ(銚子市潮見町)所属のコンチネンタル(19トン、長さ約12メートル)で、マリーナを発着場所に6日から開かれていたカジキ釣りの大会「千葉ビルフィッシュトーナメント銚子」に参加していた。ボートは7日午前7時ごろマリーナを出港。銚子沖で午後2時に競技を終え、午後3時10分ごろに「南東5マイル(約9キロ)の地点にいる。マリーナに向け航行中」と無線連絡があった。ただ、帰港予定の午後3時半を過ぎても戻ってこず、連絡も途絶えたという。

 釣り大会では、大会主催者に安全管理義務があり、今後、法的責任問題が生じる可能性がある。欧米では、この種の問題が生じない。どこが違うかと言えば、日本では、法的責任の範囲があいまいだからである。裁判所が認定する責任の範囲は広い。裁判になってみなければ、どこまで責任が生じるかがわからない。「大会主催者は一切責任を負わない」という免責同意書は日本では消費者契約法により、無効である。日本では、刑事責任が生じる範囲も無限定である。
 
 あらかじめ、大会参加者の責任の範囲を明確にしておくことが必要である。責任の範囲をあいまいにし、法的責任問題が生じると、それを問題にすることを世論が非難する。


2016年8月6日
生活保護同行申請
 先日、単身で市役所等に生活保護を申請しても、申請を受理してもらえなかった人が、弁護士が同行すると簡単に受理してもらえた。こんなことが、弁護士の仕事になること自体が奇異だが、それが日本の実情である。
 本来、生活保護の申請の受理の拒否はできない。要件を満たさない場合には、受理したうえで却下すべきであって、申請の受理の拒否はできない。申請の却下に対し、不服申立ができる。しかし、申請の受理の拒否という水際作戦が一般に行われている。困ったものだ。「申請の受理の拒否はできない」というのが法的なルールだが、日本では、法律に従ってものごとを処理することが嫌われる。
 法テラスや裁判所も、「申請の拒否」の手法を多用する。先日、法テラスが、「紛争の対象が2万円という少額事件は法テラスでは扱えない。法テラスへの申し込みを取り下げてくれ」と言ったので、「申請を取り下げるつもりはない」と言ったところ、申請を認めてくれた。少額事件を法テラスが扱わなくて、どうするのか?

(追記)2週間後、生活保護の受給決定がなされた。


2016年8月5日
高校野球部・落雷事故
 8月4日に、川越市で、高校の野球部の練習中にグラウンドに落雷があり、生徒1名が心肺停止の状態となっている。
 高校のサッカーの試合中の落雷事故に関する最高裁平成18年3月13日判決によれば、雷雲や雷鳴があれば、事故の予見可能性が認められ、学校に安全管理義務違反が認められる。
 しかし、当時は、「晴れていて雨は降っていなかった。突然の落雷だった」ようであり、落雷の」予見可能性の有無が重要な争点になるだろう。雷注意報が出ていて、雷雲はあったようであり、裁判になる可能性が高い。


2016年8月4日
クライミングのオリンピックの正式種目化
 クライミングが、東京オリンピックの正式種目になった。これについて、私は、2013年7月に、雑誌「岳人」180頁、「続・山の法律学31」で、クライミングが東京オリンピックの正式種目になる可能性について述べ、ブログで、クライミングがオリンピック種目になることを予想した。私の予想が的中したのだが(自画自賛)、当時、クライミングがオリンピックの種目の候補として一部のマスコミからとりあげられ始めたばかりであり、多くの人は、クライミングがオリンピック種目になることなど夢にも考えていなかっただろう。
 
 本来のクライミングは、競技とは関係ないが、競技としてのクライミングがオリンピック種目になることは、悪いことではない。日本でのクライミングの認知度が高まることはよいことだ。今後、オリンピック人気とともに、クライミングに対する関心が高まるだろう。それとともに、クライミングの法律違反も増えていく。これは、法律違反のクライミングは従前から行われているのだが、それが目立つようになるということである。たとえば、自然公園内の岩壁にピトンやボルトを打つことは、規定上は、自然公園法違反になる。欧米では、これらは、自然にアクセスする権利として認められ、違法ではない。しかし、日本では、違法かどうかがあいまい(形式的には違法)なのである。
 今後、日本でも、欧米のように、法的に、自然にアクセスする権利を認めることが、喫緊の課題である。しかし、日本の法律家の問題意識の低さが、あまりにも目立つ。


2016年7月28日
「登山学校」の旅行業法違反事件
 
有名登山用具販売店主催の「登山学校」が旅行業法違反で送検された。登山学校の受講生の宿泊の予約をしたことが、旅行業法違反に問われたものだ。旅行業法は、旅客の輸送や宿泊の手配を旅行業者に独占させている。これを旅行会社以外の登山用具販売店が行えば、旅行業法違反になる。旅行業法が、あまりにも、広い範囲で規制していることが、多くの問題を引き起こす。
 
 この問題は、私が以前からさまざまな場所で指摘していたように、ツアー登山での宿泊の手配を旅行業者以外の山岳ガイドが行えば、旅行業法違反になるのと同じ問題である。登山者が全員同じ宿に宿泊するので、山岳ガイドがまとめて宿に予約の電話を入れれば、旅行業法違反になる。山岳ガイドが客のために山小屋の予約をするのも、旅行業法違反である。山小屋いは旅館業法の適用がある。避難小屋を、山岳ガイドが先に行って場所取りをすることも(トムラウシの事故では、これが行われていた)、旅行業法違反? 山岳ガイドが、購入窓口に並んで参加者全員のバスの乗車券をまとめて購入すれば、旅行業法違反である。これも輸送の手配にあたる。
 
 山岳会で行う登山について、多数の参加者のために、マイカーやバス(マイクロバスを保有するハイキングクラブもある)で輸送し、宿泊の手配し、経費を徴収すれば、旅行業法違反になる(運送業法違反の問題もある。いわゆる白タク行為)。学校、ボランティア活動団体、自治会、子供会、PTA、各種大会、実行委員会なども同様である。
 行政解釈では、顔見知りの者の運送、宿泊の手配をすることは、、旅行業法違反ではないとされている。しかし、旅行業法に、顔見知りであればよいと書いてあるわけではなく、法律上そのような限定はない。法律の規制は包括的だが、それでは現実に支障があるので、行政が制限して運用している。
 ハイキング、会議、大会、競技会などでは、顔見知りでない者が参加することが少なくない。不特定多数の者が参加する行事は多い。その場合に、交通機関の手配や宿の世話をすれば、主催者と顔見知りでなければ、旅行業法違反になる。

 学校のクラブやスポークラブなどで、監督や学校が試合の時に、バスの手配や宿の手配をし、輸送費、宿泊費を徴収する場合も、顔見知りでない選手の親戚、友人の応援者がいれば、旅行業法違反になる。監督が自前のマイクロバスで選手を送迎する場合に、ガソリン代を徴収すれば、白タク行為になる。
 政治家の後援会員は顔見知りなので、後援会員1000人、2000人いても、運送、宿泊の手配は旅行業法違反ではない。会員制の旅行サークルを作り、全国に2万人の会員がいれば、面識があれば、運送、宿泊の手配は旅行業法違反かどうか? しかし、山岳ガイドが、初対面の客2人の運送、宿泊の手配をすれば、旅行業法違反になる。ガイドがマイカーに初対面の客を乗せ、ガソリン代や高速料金を徴収すれば、「有償での運送の手配」になるのではないか? 初対面の人(知人の知人)のゴルフ参加の交通の手配をすれば、旅行業法違反である。

 この種の旅行業法違反は、日常的に、多くのボランティア団体やスポ−ツ団体が行っている。山岳会などでは、かなり前から、バスをチャーターした公募登山がさかんであるが(私も、その実行委員をしたことがある)、これは、旅行業法違反である。
 旅行業法違反は、社会のいたるるところにあるが、それは、社会的必要性があるからである。従来、これらは見逃されることが多かった。警察は、これらを摘発したり、しなかったりする。摘発するかどうかは、警察の気分次第か?
 旅行を、旅行会社に独占させる旅行業法には問題が多い。旅行業法の規制は、あまりに包括的すぎる点に問題がある。警察は、すべてを事件として立件すれば、あまりにも広範囲にわたりすぎ、社会が混乱するので、旅行業法の適用を自己規制し、「悪質な場合」だけを立件するのだろうが、悪質かどうかの判断は恣意的になりやすい。同じボランティア活動でも、アウトドア関係は、「悪質」な場合になりそうである。たまたま、旅行業者が警察に通告すれば、ボランティア活動でも「悪質」とみなされやすい。

 旅行業法は、現実には、旅行業界の権益を維持する手段になっている。法律が規制する「旅行」の範囲をもっと限定する必要がある。「旅行」という大雑把な規制ではなく、もっと行為を限定して規制しなければ、今後、この種の問題が続出するだろう。もともと、「旅行」を定義するのは無理である。現在の旅行業の規制は、あまりにも包括的すぎる。
 
登山を規制しようとして、法律で登山を定義するのも、無理である。各地の登山条例も、「登山」の範囲をあいまいにしたまま規制しており、登山者の中には観光客や仕事で立ち入る者も入ってしまう。現実に問題になれば紛糾するが、条例違反が起きても、あいまいに処理されることが多い。不起訴、ないし、あいまいなまま罰金にするとか。
 今回の事件も、罰金程度の処理で終わるだろう。事件が検挙されたことは、大きくニュースに載るが(警察がマスコミに情報を流すということ)、罰金・不処分にする頃には、世論の関心がなく、ニュースにならない。
 そんな、あいまいでいい加減な法律とあいまいな手続が、日本には多い。
 今回の事件は、旅行業法が抱える問題が顕在化したケースといえよう。


2016年7月27日
相模原市・大量殺傷事件と措置入院
 相模原市での大量殺傷事件の加害者が措置入院の退院後のフォローがなかったことが問題になっている。
 この点は、措置入院だけでなく、措置入院の対象にならない精神疾患者、痴呆症老人、人格障害者、不起訴・執行猶予・刑期終了で釈放されたも、保護観察中の者、非行少年、住居不定者などについても、フォローがないという問題がある。これらの者は、住居、収入、保護者がなく、人生に夢も希望もなければ、自暴自棄的な行動に出ることがある。食べるものがないために、万引きして刑務所に入る者もいる。生活保護の申請に行くと、「他の市へ行って申請してくれ」という「水際作戦」が行われる。他の市で申請をすれば、自治体の負担が減るということである。介護殺人事件や、家庭内の殺傷事件も多い。
 国民の目の届きにくい場面で、国はほとんど金を使わない。それは、おそらく、政治家の票に結びつかないからだろう。日本では、多くの問題が放置されており、今回のような事件が起きた時だけマスコミが報道する。税金を使わずに、関係者の自助努力とボランティアに任せられている。弁護士もその関係者のひとりである。
 かつて、ある国選事件で、検察官から「釈放する加害者に金がなく、困っている。被告人が更生保護施設に行くまでの交通費5000円を出してもらえませんか。緊急更生保護法の発動はしない」と懇願されたケースがある(法律上、更生緊急保護措置として、交通費の支給が可能)。私は、5000円を出してやったが、検察庁はすぐに公用車で元被告人と布団2個くらいの大量の荷物を私の事務所まで搬送してきた。検察事務官曰く「拘置所で荷物が邪魔だったんですよ。助かりました」
 このように国選事件でも、弁護士が個人的に金を支出するケースは多い。従来、弁護士の寄付や自己負担でのボランティア活動は多かったが、今後、弁護士は経済的に事務所を維持することに汲汲とするようになり、この種の活動が難しいだろう。
 精神疾患者の保護や介護は、関係者の生活が成り立たなければ、ボランティアに依存するシステムが行き詰まる。その場合には、ボランティアにかわる公的なシステムが必要になるが、日本は、放任されているのが実情である。この種の事件は、今後、増えていくだろう。


2016年7月22日
アウトドア活動での熱中症事故
 高校野球の試合などで熱中症事故が起きれば、主催者や教師の法的責任が認められることが多い。それを覚悟のうえで、練習や試合を行うべきだが、その点の自覚がない点が問題。日本では、事故が起きないことを前提にしたリスクマネジメントが一般的。
 しかし、どんなに水分補給しても、炎天下で試合をすれば、弱い者は熱中症になる。99パーセントの人は、運良く、熱中症にならないが。強者の論理と弱者の切り捨て。「弱い者は試合に出るな」という論理だが、弱いかどうかは、事故が起きるまでわからない。事故が起きれば、大騒動、責任のなすりあい、非難の応酬、総懺悔。やがて、被害者の切り捨て。
 日本の夏の高校野球は、先進国では「クレージー」だが、それを言うと、「ここは日本である」という意見が出る。しかし、先進国でも発展途上国でも、事故のリスクと命を守るべきことは、変わらない。「注意すれば大丈夫」と言う人がいるが、毎年、学校で熱中症で死者が出ている。20年間に80人くらいが学校で熱中症で亡くなっている。特に、高校での死者数が多い。弱い者、運の悪い者が犠牲になる。
 登山も炎天下で行われ、熱中症事故が多いが、これは自発的な行動であれば、自己責任であり、問題ない。高校でのスポーツは学校管理下の教育活動であり、安全配慮義務があるが、自己責任に基づく登山はそれがないという違いがある。私も、かつては、炎天下で40キロの荷物を背負って汗が噴き出るのを楽しんだ。自分の力の120パーセントを出し切り、熱中症寸前までがんばることは、ある種の快感をもたらす。それは、自己責任で行うから、そんな無謀なことができるのである。もし、これを学校でやれば「体罰」になり、強制すれば、憲法が禁止する「苦役」になるだろう。刑務所でも、このような強制はできない。炎天下の練習は、学校とは関係のない自発的な行動であれば、問題はない。
 
 何をバカなことを言っているのかと言われそうだが、学校では無理な活動はせずに、無理な活動は学校とは無関係に自発的な活動として(クラブチームなどで)行うことが社会から受け入れられるには、まだ、50年くらいはかかりそうだ。学校中心社会、会社中心社会のままでは、100年後の日本をダメにする。
 私は、いつも、100年、200年後の世界を考えているので、他人から相手にされないことが多い。しかし、10年、20年前に私が述べたとは、今になれば、だいたい当たっていることが多い。司法改革について私が述べたのは、平成10年以降であり、登山の法律問題について私が述べ始めたのは、平成15年以降である。その時に私が述べたことは、現在では、だいたい当たっている。私は、自分では、「先見の明」があると思うのだが(自画自賛)、周囲からは、「その時は」評価されず、孤立することが多い。しかし、その後、少ずつ社会から認知されていく・・・・・・多くの人は、10、20年前のことなどすぐに忘れてしまう。自分の言ったことすら忘れてしまい、変わり身の早い人が多い。それが要領のよい方法だとは思うが、私は、10年、20年単位でモノを考え、100年、200年後の世界に何を残せるかを考えて、「今」を生きたい。


2016年7月15日
国立登山研修所・会議(東京)
 東京へ、日帰り。


2016年7月13日
「山岳事故の法的責任」・広島県山岳連盟・指導員研修(広島市)
 山岳事故の法的責任について話をした。
 参加者約30名。日本山岳協会の指導員としての活動は、ボランティアである。自分が山に登るだけでなく、このような資格を得て他の人を指導しようという熱意を持った人がたくさんいる。
 日本は、欧米に較べれば、ボランティア活動が少ないと言われているが、マスコミが報道しないだけで、実は、多くの分野でボランティア活動がある。山岳関係の活動の多くは、ボランティア活動であるが、日本では、「好きでやっている」と思っている人が多いのではなかろうか。アウトドア活動のボランティア活動では、事故が起きれば、世論から非難されやすい。それが、仕事や義務的なボランティア活動であれば、事故は同情の対象になりやすい。


2016年7月10日
日本山岳サーチ・アンド・レスキュー研究機構・総会(神戸市)
 山岳事故情報の収集、データ化、国際的なデータ交換、登山倫理、確保技術等について、活発な議論がなされた。
 このような活動はすべてボランティア活動であるが、知らない国民が多い。


2016年6月27日
天然記念物の岩でのクライミング
 最近、岐阜県の鬼岩、石川県の百万貫の岩・・・・いずれも天然記念物・・・・にクライミング用のハーケンやボルトが打ってあるという事件が起きた。天然記念物は、現状を変更したり、保存に影響を与えるには、文化庁長官の許可が必要とされている(文家財保護法)。
 また、自然公園の中であれば、場所によっては工作物の設置に許可が必要である。
 
 石川県の百万貫の岩は、1934年の洪水で流された岩であり、2001年に天然記念物に指定された。それから考えれば、天然記念物に指定される前からクライミングの対象になっていたと思われる。なぜなら、このようにりっぱな岩をクライマーは絶対に見逃さないからである。昔から、「毛虫探し」をするクライマーが多かった。「毛虫探し」とは、地図の岩記号を捜すことである。
 古くから登られていた岩でも、天然記念物に指定されれば、登ることが難しくなる。


2016年6月13日
福島原発・凍土壁の失敗
 福島原発の「凍土壁」が、うまく凍結していない。そりゃそうだろう。うまくいくはずがない。流れている水を凍らせることは難しい。あるいは凍結しかけても、暖かい水がそれを融かすだろう。
 仮に凍結しても、うまく機能しないのではないか。凍結した壁の下を水が流れるのではないか。地中の構造はわからない。地球の中心まで凍らせるわけにはいかない。
 税金の無駄遣い。こんなことを、今後、放射線物質がなくなるまで続けるのか。
 今までに、放射線で汚染された野山に降った雨が、大量の放射性物質を海に流出させているはずだ。個々の微量の放射能は広範囲に及ぶと量が大きい。それが測定できないので、わからないだけだ。


2016年6月11日
ボランティア・バスと旅行業法・・・・登山バスはどうか?
 観光庁は、平成26年5月末に、NPOなどがボランティアを被災地にバスで派遣する「ボランティアバス」で、公募した参加者から参加費を直接集めるのは、実費経費を集めるだけでも旅行業法違反になるという通達を出した。
 旅行業法は主催者が報酬を得て運送や宿泊を行う場合、国や都道府県への事前登録を義務づけ、旅行者から金銭を受け取れば、「報酬」と認定される。観光庁は、旅行業者にツアーを委託するなどするように指導するよう都道府県に求めた。同庁は、「参加者を公募し、参加費を収受した時点で旅行業法に抵触する」とし、主催団体が利益を得ない場合も、参加費の徴収は認められないという。違法にならないのは参加費を徴収しない場合、または公募せず顔見知りだけで同乗する場合だとする。
 通達は、行政内部の通知であり、国民を拘束する法的効力はない。観光庁の旅行業法の解釈が正当かどうかはともかく、今後の影響は大きい。

 では登山バスの場合はどうか? ハイキングクラブなどが、公募登山を実施する場合に、バスをチャーターし、参加者から参加費を徴収するのが一般的である。この種の公募登山も、ボランティア活動の一種である。登山バスも、ハイキングクラブが利益を得なくても経費を徴収すれば、旅行業法違反になりそうである。山岳ガイドが雑誌等で客を公募し、数名の客をマイカーを利用して都会から登山口に向かい、後で客から交通費を受け取る場合がある。この場合、客と面識がなければ、旅行業法違反になりそうである(背景に、ツアー登山を行う旅行業者と、似たような登山を実施する山岳ガイドの対立がある)。

 結局、旅行業法の規定が包括的な規定になっていることに問題がある。旅行業法を形式的に適用すれば、公募型のレクレーションの多くが旅行業法違反になってしまうだろう。公募せず顔見知りだけで同乗する場合も、旅行業法を形式的に適用すれば、旅行業法違反になるはずである。旅行業法を制限的に解釈すべきではなかろうか。あるいは、法改正が必要ではないか。事前に役所に届け出て簡単に許可を得られる制度など。移動手段を旅行業者に独占させるのは、弊害が生じる場合に限るべきである。移動手段を独占する法律の規定が、経済的な利権の対象になってはならない。

 法律事務を取り扱って金銭を得れば、弁護士法違反となるが、これを形式的に適用すると、ボランティア団体や福祉団体が行う相談時に実費的経費(コピー代や郵送料)を1円でも徴収すれば、弁護士法違反になる(現実には、この規定は厳格に適用されていない)。ボランティア・バスや登山バスは、これに似ている。


2016年6月8日
NHK北海道・ニュース 「荒れる登山道なぜ?」
NHK北海道のニュースで、北海道の登山道の荒廃問題について取り上げ、私も取材を受けた。 

ニュースの内容は以下のとおり。
「これから夏の登山シーズンが始まりますが、道内では、一部の山で登山道が荒れ果てその維持・管理が難しくなっています。
この背景には、登山道をだれが管理するのか、あいまいさも指摘されています。
このうち道南の八雲町にある「冷水岳」や近くの「白水岳」では、登山道がすっかり荒れ果てています。
地元では、この周辺の山々は“道南のアルプス”と呼ばれ、登山者にも知られた存在です。
冷水岳の登山道をわずかな踏み跡や標識を頼りに登り始めると、10分ほどで突然、道がどこかわからなくなりました。
この登山道は20年ほど前、地元の山岳会がつくりました。
しかしメンバーの高齢化が進んで山岳会は解散し、5年ほど前から管理ができなくなっていました。
登山道は一般的に、土地所有者などの許可を得て民間でつくったものが数多くあります。
その場合、草刈りなどの整備はボランティアに頼るしかないのが現状です。
冷水岳や白水岳の登山道をつくった地元の山岳会の元会長、中川孝一さんは、維持・管理をボランティアに頼っている登山道では、こうしたケースは珍しくないといいます。
登山道は、かつて中川さんたちが山に寝泊まりしながら2年がかりでつくりました。
しかし管理ができなくなったいま、登山者が危険な目にあうおそれもあり、中川さんは廃道にすることもやむをえないと考えています。
荒れて維持・管理が難しくなっている登山道。
道内では、危険な登山道がどれくらいあるのか、把握しきれていないのが現状です。
その背景には、管理のあいまいさがあります。
実は、登山道全体の管理について定めた法律はありません。
しかも、土地の所有者などの許可を得れば、個人でも登山道をつくることができ、登山道の管理については、誰が責任を負うべきかあいまいなままになっているケースが多いということです。
登山に関する法律に詳しい溝手康史弁護士は、「原則として登山は自己責任で行うもので、整備の行き届いていない登山道でけがをしても、過失を問えないケースがほとんどだ。整備されていない登山道については、危険性を表示するなど何らかの対策を講じるべきだが、現状では『整備が行き届いていない登山道がある』と認識したうえで自分のレベルにあった登山を心がけるしかない」と指摘しています。」

 登山道の管理の問題は、北海道だけでなく全国的な問題である。
 登山道の問題は、登山者だけの問題と考えがちだが、登山道の範囲は広く、観光地付近の歩道の問題もあり、観光客にも関係する。学校での野外活動やキャンプに関係する。
 さらに、登山道の管理の問題は、自然の管理の問題であり、アウトドア活動全体に関係する問題である。
 登山道に関して重要なことは、登山道の危険性の程度に応じて形態を区別し、登山者が登山道の危険性の程度に応じて行動することである。登山道の安全性は、危険性の程度の問題であり、絶対的な安全性はない。登山道の危険性の程度を理解することが重要である。ニュースでは、「自分のレベルにあった登山を心がけるしかない」となっていたが、正確には、「登山は、もともと、自分のレベルにあった登山を心がけるべきものである」と言うのが正確である。
 登山道の管理=整備ではない。危険性のある登山道の管理は、主として「危険性を表示する」という方法になるだろう。


2016年6月4日
北海道男児行方不明事件・捜索方法の問題点
 北海道で行方不明になっていた男児が発見された。
 発見されたことはよいことだが、以下の点を指摘したい。

捜索方法の問題
・捜索方法の問題。道迷い遭難であれば、藪の中の捜索になるが、誰でも、林道や道があれば、通常、道を歩くのであって、山の中に入ることは考えにくい。山の中に入るとすれば、林道を見失った場合である。明瞭な林道があれば、子供は、林道を歩いて行くはずだ。
 山の遭難事故で、しばしば藪の中を捜索するのは、山岳遭難の多くが、道を見失う道迷い遭難だからである。登山者が、大人であれば、道を歩いている限り、たとえ道を間違えても、「ヒヤリ、ハット」で終わり、「行方不明」事件」にならない。本件は、このような道迷い遭難ではない。テレビの映像を見る限り、子供が歩いた道は明瞭な林道であり、そのため子供でも夜間に林道からそれることなく兵舎にたどり着いたのだろう(登山道であれば、夜は大人でも歩くのは無理である)。
 父親が、当初、山菜採りの最中に子供を見失ったと述べたので、この場合には、行方不明になった場所を中心に藪狩りを広げて行く方法になる。しかし、父親がそれを訂正した時点で、捜索方針を変更すべきだった。 
・演習場は、「ここまで1人で歩いて行くのは考えられない」として、捜索対象に入っていなかった。これが不思議な点であり、こに問題の核心がある。子供の足で1時間に3キロ歩いても、10時間で30キロ歩くことができるので、一晩で街中に戻ることも不可能ではない(街中での事件・事故の可能性)。
 捜索関係者は、子供が付近の沼に落ちた可能性を考えたようだが、子供が遊んでいて事故に遭う場合はそいうケースもあるが、今回はそうではない。
 一般的には、
@子供が林道を歩くことを想定して、林道20〜30キロ圏内の林道周辺、建物、小屋、橋の下、施設等をまず捜すべきだろう。親の車の経路と林道の配置から、子供が辿る可能性のある林道とその周辺の捜索をする必要がある。
Aそれでも発見できない場合には、道迷い(道からはずれて藪の中に入ること)、誘拐、事故などを考えるべきだろう。この場合、藪探しは、子供が林道のどこから藪の中に入ったかが不明なので、限りなく捜索範囲が広くなる。例えば、子供が5キロ歩いた場所で林道からはずれて藪の中に入ったとすれば、捜索はほとんど不可能である。
 今回の捜索は、@をきちんと行うことなく、いきなりAの捜索を開始したようだ。
・「自衛隊の敷地内に入るのは連絡や調整も必要で、捜そうということにはならなかった」(関係者の談話)という点も問題である。
 捜索をする場合に、通常、いちいち土地所有者の許可を得ることはない。富士山で警察が救助活動をする時、土地所有者である浅間神社の許可を得ることはしない。今回も、藪狩りをする際、地権者を調べて地権者の許可を得ることはしていないはずだ。自衛隊に派遣要請がなされ、自衛隊が捜索に参加しているのに、自衛隊の施設を捜索できないのはおかしい。子供は、時々、兵舎から外に出ていたので、ヘリの捜索で発見できた可能性もある。
 もし、これが米軍基地であれば、日本側の捜索機関は完全に手が出せない。犯罪捜査ではないので、日米犯罪捜査協定の対象にもならない。沖縄などでは、米軍基地内で、日本の警察、消防が行方不明の子供を捜索することをアメリカは絶対に許可しないだろう。
・もし、たまたま、自衛隊員がこの建物を訪れていなければ、そして、子供が兵舎から動かなければ、子供が衰弱死していただろう。
・今後のこの種の捜索の教訓にする必要がある。このようなケースの30件に1件くらいは重大な事故が起きる(ハインリッヒの法則)。

リスクマネジメント
・親のリスクマネジメント
 親は、子供を林道に残すことのリスクを考える必要がある。
・捜索機関のリスクマネジメント
 捜索の時間と人的資源が有限であり、捜索は時間との闘いである。「どこを捜すか」は、「どこを捜さないか」を意味する。たとえば、山の藪をすべて捜索することは不可能である。捜索方針の判断ミスは重大な結果につながる。

土地所有権と捜索
 日本の土地はすべて私有地か公有地である。捜索をする場合に、土地所有者の許可が必要なのだろうか。これは、捜索活動と土地所有権という問題である。捜索や救助活動は、緊急避難行為として、土地所有権の侵害にならない。
 一般的な問題として、アウトドア活動と土地所有権という問題がある。自然の中での捜索も、アウトドア活動のひとつである。アウトドア活動をするのに、土地所有者の許可が必要かという問題だが、私有地でも公有地でも無許可でアウトドア活動を行うことが多い。黙示の承認が擬制されていると考えることが可能だが、本当にそうか?という疑問がないわけではない。他人の土地での山菜採りや茸狩りが黙認されているのか? テレビで放映されている山菜採りの場面の多くは、他人の土地(私有地、公有地)で無断で山菜採りをしている場面である。
 アメリカでは、土地にno trespassと表示しているかどうかで、土地浸入への違法性を判断する。no trespassと表示された土地に無断で入れば土地所有者に射殺されてもしか仕方がないらしい。それ以外の土地には、浸入が可能である。

捜索費用の問題
 ネット上に、いくら捜索費用がかかったかを問題にする記事が多いが、公的捜索機関の活動はすべて無料である。これは、救急車、消防車やパトカーと同じ。これを有料にすべきだという意見が一部にあるが、先進国ではだいたい無料である。救急車を有料にすべきだろうか? 有料にした場合、金がない者はどうすべきか? 公務員は、事件や遭難があってもなくても、一定の給料が支払われる。消防団員は、出動した回数に応じた手当になるが。

法的責任
・今回、もし、子供の発見が遅れて衰弱死していれば、関係者の責任問題が浮上するだろう。親は、保護責任者遺棄致死罪になるか? 捜索関係者が損害賠償責任を負うか? 結論としては、裁判所は、親や捜索関係者が「子供の行動は予見不可能だった」して、法的責任を否定するだろう。
 親が「間違いなく逮捕される」と述べた教育評論家がいるが、林道に残し、5分後に戻る行為は、保護責任者遺棄罪にいう「遺棄」とはいえない。仮に、死亡したとしても、結果の予見可能性がない。また、相当因果関係がない。つまり、子供を林道に残せば、通常死亡するだろうという関係がないということである。世論はともかく、「専門家」であれば、冷静に対応してもらいたいものである。
 この種の事件に対しこのような法的判断は別として、現実には今回の子供の行動は、親や捜索関係者に十分に予見可能である。そのように考えて初めて事故を防止できる。


置き去りの教育的効果

・私は、子供頃、叱られて何度も家の外に出されたが、恐怖心や不信感をもたらすだけで、教育的効果はまったくなかったと確信している。
・虐待の定義が難しいので、置き去りが虐待かどうかを議論するのはナンセンス。たとえば、心理的虐待などを持ち出せば、虐待の定義ができなくなる。日常会話で心理的虐待を話題にするのはかまわないが、法的な場面で心理的虐待を取り上げるべきではない。たとえば、子供の躾として、子供のテレビを見ることを禁止することなども、日常会話的な意味では心理的虐待になりうるが、法的な問題になならない。「言葉の暴力」、「イジメ」なども同じ。法律は、暴力は「有形力の行使」と定義し、言葉の暴力は「暴力」ではない。日常会話では、「イジメ」の範囲は広く、職場や近隣、友人からイジメられたという相談が多い。
 日本語は、厳密な定義をすることなく、情緒的であいまいな言葉が多く、これで議論をすると混乱する。


2016年6月2日
北海道男児行方不明事件
 5月28日に北海道で男児が行方不明になってから、かなりの日数が経過した。
 小学生であれば、林道から離れて山の中に入ることは考えにくい。通常であれば、林道をひたすら歩くだろう。子供が、林道のどこで藪の中に入ったか不明であり、藪の中を捜すのは、有効な方法ではないだろう。
 ただし、親から捨てられたと思い、パニック状態になって山に入る可能性がないわけではない。その場合には、通常であれば想定できないような突飛な行動をとる可能性があるが。
 親のしつけとしてありがちな行動であり、親を非難しても仕方がない。親がもっとも苦しんでいるだろう。
 自然環境がもたらす危険性の認識がなかったようだ。
 
 私は、昔、ハイキング中に、どうしても言うことをきかない自分の7歳の長男を登山道に残して家族に先に進ませたことがある。妻と長女は先に進んだが、私だけは、木陰に隠れて長男の動静を監視していた。子供1人で残すことはあまりに危険だったこと、長男の行動を観察して、長男の気質を見ようと考えたからである。長男は、泣くこともなく平然として1人でとぼとぼと登山道を歩いていた。その時、私は、「この子は、強情でけっこう強い子だな」と思った。「普通のやり方で躾をしても、効果がないかもしれない」と思った。しばらくして、私が木陰から出て姿を現しても、長男は、何も言わず、何ごともなかったかのように大人しく私についてきた。
 親のこの種の躾行動が多いだけに、親は常にリスクを考えて行動することが必要である。
 この種の親の躾行動では、ほとんどの場合に遭難事故は起きないだろう。しかし、300件に1件くらいは重大な事故が起きる可能性があるのではないか(ハインリッヒの法則)。


2016年5月25日
アイドル襲撃・ストーカー事件

 今まで、何件かストーカー事件を被害者側で扱った。保護命令の濫用事件、女性から男性へのDV事件、加害者側で保護命令を取り消させた事件もある。
 ストーカー事件が起きる度に、マスコミが、「早期に対応しなかった警察の責任は重い」と言う。警察の対応としては、早い段階で逮捕すればよいのだが、ストーカー規制法で逮捕するには、一定の手続、時間がかかる。また、逮捕しても、一生、身柄を拘束するわけにはいかず、いずれ、加害者が釈放される。暴行程度のストーカー事件であれば、罰金処分で釈放されることが多い(その程度の事件は、マスコミ報道されない)。ストーカーが、釈放後に、重大事件を起こせば、マスコミは、「罰金にした検察官、裁判官の責任は重い」と述べるのだろうか。それとも、ストーカーを罰金にすべく努力した弁護士の責任が重いのだろうか。弁護士は被害者からの相談に乗るが、同時に、加害者の刑事処分を軽くすることも弁護士の仕事である。被害者の相談に乗る弁護士はDV事件について発言し、目立つが、ストーカーを弁護する弁護士は、沈黙を守り、目立たない(目立つ弁護士は、世論から叩かれるので)。
 
 メディアへの書き込み規制が検討されているが、それを規制しても、事件は防げない。ストーカーは、死亡事件でない限り、逮捕されても、比較的早く釈放されることが多い。マスコミは、加害者の逮捕で問題を解決したかのように報道するが、それは問題解決の出発点であり、逮捕された加害者が釈放された後が重要である。これは、ストーカー事件に限ったことではなく、すべての犯罪に当てはまる。釈放後の加害者の問題について、マスコミ、世論、国の関心が低い。
 
 ストーカー事件の対策を考える場合に、@一般のストーカー事件と、A重大事件に至るストーカー事件を区別して考える必要がある。
 これを区別しなければ、すべてのストーカー事件が殺傷事件になるという不安が生じたり、Aの事件でも警察に相談すれば簡単に防げるという勘違いや、警察の対応の不手際が事件の「原因」であるという非難が生じやすい。緊急時の警察の対応は重要だが、Aの事件は、政治家並みのSPによる24時間警護をしない限り、防ぐことは難しい。他方、@の事件は、警察や弁護士に相談すれば、比較的容易に解決することができる。ストーカー事件の対処法は、事件の性格によってまったく異なり、対処を間違えないために、@とAの区別が重要である。

 警察に相談がなされるストーカー事件・DV事件は年間約9万件あり、これ以外に弁護士に相談がなされるケースが多い。現在、「相手からの嫌がらせをなくしてほしい」という弁護士への相談は、実に多いが、そのほとんどはストーカー事件とはみなされない。日本では、欧米に較べて、「ストーカー」の定義の範囲が狭い。日本では、統計上、ストーカー事件に分類されない事件の中に、ストーカー事案が多い。相手を「懲らしめてやる」と脅す債権取立事件・暴力事案・近隣紛争・離婚事案・親族間紛争が多い。
 これらのストーカー事案(ストーカー事件、DV事件、脅迫事件、いやがらせ事件)のほとんどは、重大事件にならない。上記@の事件は、ストーカー規制法やDV保護法を使って解決できる。これらは、弁護士の仕事の対象となる。
 しかし、三鷹市での事件、今回のアイドル殺害事件、桶川ストーカー事件などの上記のAの事件は、加害者が自分の命をかけて加害行為をするので、ストーカー規制法が通用しない。事前に加害者を逮捕して一生刑務所から出れないようにすればよいが、それは無理である。前科がなく、暴行事件すら犯していないストーカーを無期懲役刑にすることが無理であることは、少し考えれば誰でもわかるだろう。マスコミや世論は、重大事件の後で後知恵でその事件のことだけを考えるが、問題は、事件が起きる前の大量のストーカー事件の対処方法である。
 そして、問題は、上記の@の事件の中で、どのストーカー事件が重大事件に至るかわからないという点である。ストーカー事件のリスクの程度の判断が難しい。重大事件に至るストーカーは、ストーカー事案の中の数千人に1人くらいのものだろう。事件が起きる前は、この数千人に対し、どのように対処すべきかという問題である。弁護士が、ストーカー事件の相談を受けた時、Aの事件になることがわかっていれば、警察が24時間警備するか、「蒸発」させるなどの方法をとるべきだが、@の他の9万件の1件に過ぎないかもしれない。それがわからないから、悩む。ある親族間の紛争で、私は、「このまま裁判を進めれば、殺傷事件になりかねない」と感じ、早期に金銭で解決した事件があるが、裁判を進めれば、現実に殺人事件になっていたかどうかはわからない。しかし、日本では親族間の殺傷事件が多く、何件もそれを扱ったことがあるので、そのリスクがよくわかる。重大な結果を防止するためには、警察官や弁護士のリスクの予見能力が問われる。
 上記の年間9万件は、事件の前の時点では逮捕できるだけの要件を満たしていないことが多い。かりに、逮捕しても、10日〜20日間の勾留で釈放されるケースが多い。この9万件すべてについて、警察が24時間身辺警護するのは不可能である。日本でサミット会議でもあれば、その方に警察官が回され、ストーカー事件に対応できる警察官の数が減る(サミットのために100億円くらいの税金を使ったのでは?)。ストーカー事件担当の警察官を増やせば、強盗・殺人事件担当の警察官が減るという関係がある。警察は常に人手不足であり、警察官が仕事上のストレスから、自殺、警察内部でのイジメ、警察官が起こすストーカー事件、麻薬、万引なども少なくない。現実には、警察、裁判所、法律は、100パーセントの安全を保障できない。弁護士も被害者を守るどころか、弁護士自身が危害を受ける可能性がある(弁護士は保護命令の対象にならない)。

 かつて、ストーカー規制法やDV保護法のない時代に、裁判所の仮処分や刑事告訴では加害行為を防止できず、被害者が「蒸発」した事件がある。身の安全を守るには、「蒸発」しか方法がないことがある。当時、私は、事務所の出入りにかなり神経を使った。当時、ストーカー事件を扱う弁護士は非常に少なかった。その事件は、弁護士が誰も受任せず、弁護士の間をたらい回しされた後に、私が受任した事件である。暴力が関係する事件で、共同の弁護から去っていく弁護士を何人も見てきた。「賢く要領のよい」弁護士ほど、逃げ足が速い。
 その後、ストーカー規制法やDV保護法ができ、弁護士がストーカー事件を扱いやすくなり、扱う弁護士が増えたが、それでも、法律や制度の限界を感じることが多い。

 「身の安全を守る」ことの難しさは、ストーカー事件だけではない。ある消費者事件では、ヤクザ関係の業者から「どこに住んでいるか調べればわかるぞ。家族は気をつけた方がいいぞ」と脅されたことがある。警察の暴力団係がマークしている業者であり、警察と対応を協議しながら行動したが、警察が24時間警護してくれるわけではない。ストーカー事件で事務所から110番通報をしたことがある。ヤクザ関係の事件では、共同弁護人がヤクザから脅された。これらを、上記数千件の事件の一部と同様に考えることが可能だろう。
 オウム事件では、身の安全を守るために私の友人の弁護士は、1年間くらいの間、「蒸発」した。殺害された坂本弁護士は、大学の1年後輩である。私の子供は、殺害された坂本弁護士の子供と同じ年齢である。坂本弁護士も、身を守るためには、警察は当てにならないので、当時、家族で「蒸発」するほかなかったのはないか。しかし、これも結果論でしかない。
 事務所に、サスマタ、一般の催涙スプレー、熊撃退用スプレー、白熊対応のスプレー(これは、衣類に少しでもかかれば、救急搬送しなければならないという強力なもの)、防御板3枚、防御用アイスバイル(殺傷能力がある)などを常備している。誰でも、命がけで自分の命を守ることが必要な場合がある。

 「身の安全を守る」難しさについて述べると、「それでは、何をやってもダメなんですね」と簡単に諦める人が多い。リスクを知ることが不安をもたらし、行動不能になる人がいる。また、ストーカーのリスクの程度の判断の重要性を指摘すると、被害者を非難していると受け取る人がいる。困ったことだ。なぜ、そのような発想が生まれるのか不思議だが、それが現実である。小さい頃から、ものごとのリスクを考える訓練をしていないからなのか。規律と命令で縛り、それに違反すれば非難される(叱られる)文化の中で育つとそうなるのか。
 そのため、弁護士は、「弁護士に依頼すれば、ストーカーやDVを防止できる」ことを強調し、人々に安心を与えようとする。しかし、それを言うだけでは、無責任である。無責任な対応は、被害を拡大させるだけだ。
 多くの事件は、ストーカ規制法やDV防止法を活用すれば、比較的簡単に対処できるが、それは「法的に対処可能な事件」に限られる。多くのストーカーは逮捕されることを嫌がり、保護命令に従う。しかし、上記のとおり、「失うものが何もない」人間が、もっとも恐い。通り魔事件なども同じである。マスコミ報道される重大なストーカー事件はそのようなケースである。弁護士も、そのような事件は、法律が通用しないし、自分の身の危険があるので、引き受けたがらない。

 「身の安全を守る」ために最大限の努力をすべきであるが、リスクをゼロにはできない。だいたい、世の中にリスクがゼロということは、ありえない。あらゆることにリスクがある。リスクの程度を的確に把握することが、対処の出発点になる。これは、アウトドア活動活動や自然災害などのリスクについても同じである。「身の安全を守る」ノウハウやリスクの予見能力について、ストーカー事件、津波、洪水、火山噴火などの自然災害、原発事故、自動車事故、山岳事故などのアウトドア事故、癌などの病気の罹患、学校でのイジメ、振り込め詐欺などのリスクについて、統一的に考えることが可能だが、このような発想は、問題提起があまりにも広範すぎてなかなか人々から受け入れられにくい。 


2016年5月24日
東京五輪の不正疑惑と日本的な責任の所在
 
 2020年東京五輪招致委員会がシンガポールのブラックタイディングス社にコンサルタント料で総額2億3000万円を支払った問題について、当時理事長のJOCの竹田恒和会長は、「私は海外(での招致活動)が多くて経緯は知らないが、事務局が必要だと判断して決めた」、「組織として決定しているので、当然理事長(の私)が署名した」などと述べている。
 この発言には、日本的な責任の所在の考え方が表れている。誰が、どのような手続で決定したのか不明朗で、責任の所在があいまいである。手続が不明朗であり、内容の適正の問題と手続の適正の問題が区別されない。たとえば、上記問題は非常に重要な問題であり、当然理事会で審議し、その議事録に記録しなければならない。理事の全員一致なのか、反対があったのかどうかを明確に記録しなければならない。もし、理事会の決議を経ていなければ、契約は(内部的には)違法である。これらがあいまいであれば、不正なことでも簡単に行われてしまう。また、組織で決定したことを、言い訳的に使うのは不可解である。組織の行動を組織が決定するのは当たり前のことであり、何のために、「組織として決定した」ことを述べているのか。組織が決定した責任を理事長が負うのも当たり前である。
 手続が適正かどうかという点と、金銭交付が適正だったかどうかが検討されなければならない。


2016年5月22日
登山倫理シンポジウム(東京)

 主催 日本山岳サーチ・アンド・レスキュー研究機構
 共催 日本山岳会協会、日本勤労者山岳連盟
 協賛 日本山岳文化学会
 場所 国立オリンピクック青少年センター国際会議棟(代々木公園内)
     13時〜17時
(内容)
UIAAからのメッセージ
 Pierre Humblet  (President of UIAA Mountaineering Commission)
1部 登山倫理の基礎 (登山者のモラルならびに、リーダーのあり方)
(1)Climbing & Mountaineering Ethics Phil Wickens (UIAA Mountaineering Commission 
   代理発表 青山千彰

(2)我が国における登山倫理の普及について--UIAAにおける登山倫理への取り組みより青山千彰(日本山岳   SAR研究機構、UIAA登山委員会)
2部 アクセスならびに登山道関連問題(入山料、入山制限、登山届け、入山権利、登山道のグレイディング)
(3)国内における入山料徴収−富士山を例に 中島泰(公益財団法人日本交通公社 観光地域研究部)
(4)登山道の管理をめぐる問題 溝手康史(弁護士)
(5)登山道のグレイディングで登山倫理の確立を 西内博(日本山岳協会)
3部 自然保護(入山域の制限やオーバーユース、トイレ問題)
(6)古くて新しい問題としての屋久島の山岳利用 
柴崎茂光(国立歴史民俗博物館准教授)
(7)山岳トイレ問題と「登山倫理」 上幸雄(NPO法人山のECHO)          
4部 登山技術(残置支点、酸素使用

(8)岩場での支点残置について 川嶋高志(日本勤労者山岳連盟)
(9)残置支点の改修(リボルト)と登山倫理 西村良信(兵庫山岳連盟/関西岩場環境整備ネット
総合討議

              
                 シンポジウムの新聞記事

 登山倫理という言葉は、日本になじんでいない。
 ethicsという英語の訳語である「倫理」は、古い時代に中国から入ってきた「倫理」という言葉を、明治時代になってethicsの新たな意味を持たせて復活させたものである。その意味では、明治になって新たに造語した「哲学」、「権利」などの言葉と似ている。
 「倫理」には、@儒教的な道徳の意味と、A倫理学でいうものごとのあり方の2つの意味がある。登山倫理でいう倫理はAの意味である。これは、内面的な価値観に基づく考え方・行動の基準である。しかし、日常用語の倫理は、儒教的な規律を上から押しつけられるイメージがあり、それを好む人と嫌う人に分かれるような気がする。ethicsの訳語として「倫理」を当てたことは適切ではなかった。

 「登山」という用語も、欧米のmountain climbingの訳語として適切ではなかった。明治になって、ヨーロッパからmountain climbingが日本に入ってきた時、それまでに存在した「登山」という日本語をmountain climbingの訳語に当てた。しかし、伝統的な日本の登山は、宗教的な山歩きを意味し、mountain climbingとは、思想、形態が異なる。登山道を歩く山歩きはhikingであり、mountain climbingとは形態が異なる。mountain climbingの一部は、日本で「クライミング」と呼ばれていが、クライミングは登山の一部とされ、mountain climbing=登山にhikingとクライミングが含まれるという奇妙な構図が生まれた。日本語のハイキングは、hikingの中の負担の軽い形態をさし、hikingの中の負担の重いものが、日本で「登山」と呼ばれている。
 hikingは「山歩き」であり、日本語の登山に相当するが、mountain climbingを意味する適切な日本語がない。mountain climbingを登山と訳すと混乱する。mountain climbingは、登攀的な登山、冬山登山、ロッククライミング、アイスクライミングなどを意味する。剱岳、穂高、槍ヶ岳などの登山は、もともとmountain climbingの領域だったが、それを鎖や梯子で整備して、hiking道にしたのである。尾瀬や富士山の登山道は、もともとhikingの領域である。
 mountain climbingを「登山」と翻訳すれば、山歩き=hiking=登山=mountain climbingというおかしな状況が生じる。hikingとmountain climbingを区別せず、mountain climbing=山歩きという考え方が、すべての登山ルートを、誰でも登れるように鎖と梯子で整備する傾向をもたらした。日本に、山歩き、クライミングに含まれないmountain climbingのルートがほとんどないのは、このためである。日本では、mountain climbingのルートが鎖と梯子で過剰に整備されて、誰でも登ることのできるhikingルートになっていることが多い。
 hikingはどうあるべきか、mountain climbingはどうあるべきかは、登山倫理に関わる問題である。しかし、日本では、このような「難しい議論」が嫌われる。日本では、philosophyやethicsが嫌われる。「難しい議論よりも、便利で、簡単で、得になれば、その方がよい」という考え方が強い。それに加えて、登山のあり方に、情緒的な世論の動向が大きく影響する。山岳事故が起きれば、世論が非難し、それに基づいて登山道の整備や救助のあり方が決まるのは、その例である。ものごとを筋道を立てて考えることよりも、「感じる」ことの方が好まれる。情緒的な文化は、もちろん重要であるが、それだけでは、場当たり的に流される。学問や科学はものごとを筋道を立てて考えることで成り立っており、それが必要である。

 登山の議論では、一方は、mountain climbingについてを議論しているのに、他方は、hikingについて議論をし、議論が噛み合わないことが多い。「日本の登山はヨーロッパの登山とは異なるのであり、ヨーロッパの登山を真似るべきではない」という意見は、登山を、hiking+登山情緒として理解していると思われる。欧米の登山(mountain climbing)がhikingとは別の形態であり、mountain climbingは、明治以降に欧米から入ってきた行動形態であり、日本古来の登山と行動形態と価値観が異なるのは当たり前である。
 「登山道はどうあるべきか」の議論では、登山はどうあるべきかが関係する。その前提として、「登山」の中味が問題である。山歩き(hiking)なのか、登山(mountain climbing)なのか、人によって登山のイメージがバラバラである。hikingのための登山道は、遊歩道や歩きやすい登山道があってもよいが、登山(mountain climbing)の観点から見れば、登山道の人工物を最小限にし、自然性、冒険性、困難性、達成感、自己実現性、スポーツ性などが求められる。山頂に行くのに、簡単、便利、安全性を追求するだけであれば、登山(mountain climbing)の対象ではなく、遊歩道の方がよい。登山道をすべて遊歩道にするには、整備費用と法的責任が伴うので、それができないだけの話である。しかし、登山道は、登山(mountain climbing)の対象でもあり、すべてを遊歩道にすることはできない。

 登山者は多様であり、登山道をすべてを初心者向きのhiking道にすべきではない。しかし、日本では、すべての登山道がをhiking道化され、しかも、初心者向きに整備される傾向がある。そこには、「誰でも簡単に登れる方がよい」という間違った大衆化・平等化がある。スポーツ・登山・アウトドア活動では、一定の経験・訓練を経て初めて楽しむことができるレベルが存在する。スキー場のコースをすべて初心者コースにすれば、経験者には魅力のないスキー場になる。スキー場の上級コースが、初心者が「楽しめず、危険である」のは当たり前であり、上級コースを楽しむには技術が必要である。スキー場の上級コースで、「初心者が転倒すれば危険なので、傾斜を緩くして安全化すべきである」という意見は出ない。しかし、登山道では、「初心者に危険なので、鎖や梯子で安全化すべきである」として安全化される。
 このような大衆化・平等化を「得か損か」という経済性が支えている。スキー場のコースをすべて初心者コースにすれば客離れが生じるが、登山道では、すべて初心者用に整備した方が登山者が増えるという違いがある。山小屋を利用する登山者のレベルに合わせて登山道が整備される傾向がある。日本では、社会のあらゆる場面で「得か損か」という価値観が支配しているが、それはphilosophyやethicsが欠如しているからである。
 この種の大衆化・平等化の行き着く先は、登山道での「登山の消滅」である。登山道をコンクリート、舗装、階段、手摺り、ネットなどで整備して歩きやすくすれば、初心者向きのhikingになり、登山でなくなる。わずかに登山道のない山域にのみ登山(mountain climbing)が残ることになる。
 hikingとmountain climbingでは、登山道のあり方が異なる。登山(hiking)とマウンテンクライミングを区別すれば、登山倫理についても、hiking倫理とmountain climbing倫理に分けることができる。両者を混同すると、hiking倫理の議論にアルピニズムの倫理の議論が混入し、議論が混乱する。今回のシンポジウムでも、hikingの倫理とmountain climbingの倫理が議論に混在していたが、両者の区別を意識することが必要である。
 
 先週に続いての東京往復であり、いつものことだが、東京への日帰り往復は疲れる。
 

2016年5月21日
舛添東京都知事が調査を依頼する「第三者」の弁護士とは?

 舛添東京都知事が、第三者である弁護士に調査を依頼するそうだが、この「第三者」は「中立」という意味ではなさそうだ。通常、元検事など行政寄りの弁護士が多い。舛添都知事が報酬を払って依頼する弁護士は、自分に金を払う人に対し、「中立」ではありえない。もし、中立を求めるのであれば、選任手続は本人以外の者が行うべきであり、また、調査者は本人から金銭を一切受け取るべきではない。調査を日弁連に委託するなどの方法をとれば、比較的、公平だろう。


ファウルボウル事故・札幌高裁平成28年5月20日判決
 野球観戦中の観客にファウルボウルがあたり、片目が失明した事故について、高裁は、試合の主催者である日ハムに損害賠償を命じた。1審判決は、球場の管理責任を認めたが、高裁は、球場管理者の責任は否定した。まだ、判決文を入手していないので、正確にはわからないが、新聞報道によれば、高裁判決は、球場の施設管理責任はないが、試合の安全管理責任があるとしたようである。
 球場の施設管理責と試合の主催者の安全管理責任は、どこが違うのか?
 まず、球場の管理者と試合の主催者は、人(会社)が違う。
 施設管理責任は過失は不要だが、主催者の安全管理責任は過失が必要である。
 施設管理責任を認めると、すべての球場の施設管理に影響するが、主催者の安全管理責任を認定する場合は、被害者が女性であるとか、招待された者であるなどの個別的な事情が関係し、直ちに、他の球場でもフェンスを高くしなければならないことにはならない。
 
 一般に、重大な事故が起きると、マスコミと世論は、その事故だけを取り上げて、同情・非難するが、さまざまなケースを考える必要がある。
 今後、女性や子供の観客のために、フェンスの高い席を設置すべきなのだろうか。子供の日に子供を試合に招待したり、被災者の子供を招待することがあるが、それができなくなるのだろうか。野球に不慣れな男性と野球に慣れた女性は、どのように扱うべきか。少年野球チーム所属の子供を試合観覧に招待した場合はどうか。野球に慣れているが、子供なので保護の対象だろうか。慣れた観客かどうかをどのようにして判別するのか。女性だから野球観覧に不慣れだと決めつけるわけにもいかない。
 高校野球の試合の応援に生徒がかり出される場合があるが、ファウルボウルで生徒が怪我をすれば、試合の主催者(高野連?)の責任は免れないのか。それに学校の責任も。学校としては、生徒の応援をやめるべきか。高野連は、学校ぐるみの応援を禁止すべきか。
 ホームランの場合でも、ライナーのホームランは非常に危険であり、どうすべきか。
 学校のグラウンドでの観戦中の事故はどうか。小学校のグラウンドなどは、フェンスのないものがほとんどである。町内グラウンドではどうか。
 安全管理責任の範囲が拡大傾向にある裁判所の考え方を反映した判決だが、最高裁で維持されるかどうかは不明(上告がなされると思われる)。

 アメリカでは、野球観戦中のファウルボウル事故は、危険引受法理や比較過失の法理によって観客の自己責任の範囲が広く、日本とは考え方が異なる。野球場では観客はファウルボウルやホームランが飛んでくるということを了解したうえで野球観戦すべきだと考えられている。アメリカの裁判所は、野球経験の有無、野球観戦の有無、野球のルールの知識の有無に関係なく、野球のリスクは常識であり、一般的な規範として観客は一定のリスクを引き受けていると述べるBetty van Smissen1990):Leagal Liability and Lisk Management for Public and Private Entities,Anderson Publishing,§15.111、「野球観戦中の負傷事故と球場管理者の賠償責任ーアメリカ法における限定義務の法理をめぐって」、磯山海、日本スポーツ法学会年報第21号、2015 など)
 アメリカでは、ソフトボールの試合でピッチャーの暴投で観客の女性が目を負傷した事故について、陪審員は比較過失の法理を適用して試合の主催者に51パーセントの過失があるとしたが、裁判官は、危険引受法理を適用して主催者の責任を否定した。裁判所は、防御ネットはもっとも危険な個所に設置すれば足りると述べている。アメリカでは、バスケットボール、フットボール、ホッケー、ゴルフなどで、ボールやパック、選手が近くにいる観客に怪我を負わせる事故の裁判例が少なくないが、観客の損害賠償が否定されたケースは多い(危険引受法理だけでなく、寄与過失や比較過失の法理も適用される)。
 ただし、アメリカでも、危険引受法理の適用は、観客が座席の危険性を認識し、自発的に座席を選択することが前提である。

 ゴルフ場にフェンスを張りめぐらすのは不可能(観客の事故)。ゴルフ観戦の禁止?
 スキーの競技会で選手がコースアウトして観客席に突入して起きる事故は、ファウルボウル事故に似ている。選手、大会主催者に損害賠償責任や刑事責任が生じるだろうか。日本では、被害者が不慣れな女性や子供であれば、これらの責任が生じる可能性がある(アメリカでは、責任は生じない)。ただし、刑事責任を認定するかどうかは、検察庁の裁量に委ねるというのが実態である(起訴すれば、有罪になることが多い)。
 ファウルボウル事故でも、関係者を業務上過失致傷罪で立件可能だが、通常は、そこまでしないだけのことである。役所が持つ裁量権が大きいのが日本の法実態である。国民はそれに翻弄され、役所の挙動に一喜一憂する。国民は役所に頭が上がらない。世論は、被害者が女性や子供であれば、保護の対象とし、屈強な男性であれば、自己責任とみなし、検察庁や裁判所は世論の動向を重視する。
 相撲で力士が土俵から落下して観客が負傷した場合も、それが女性や子供の死亡事故であれば、関係者の損害賠償責任や刑事責任が問われる可能性がある。
 クライミング中の落石事故では、被害者のクライマーが世論から非難されることが多いが、富士山で女性や子供が落石で死亡すれば、被害者は保護の対象であり、関係者の損害賠償責任や刑事責任が問われる可能性がある。青森県の城ケ倉歩道落石事故では、県の観光課長が業務上過失傷害罪で立件された。

 考え方としては、
内野席に高いフェンスを設置した安全な席とフェンスのない席を設け、観客が選択できるようにする。
・外野席は、危険性があること、観客の自己責任であることを明示する。日本では、危険性の明示をしたがらない主催者が多い(利益が減るので)。他方、観客がリスクを受け入れて行動する文化が欠如している(教育の問題)。
・高校野球の試合の応援に生徒をかり出すころをやめ(地方球場はフェンスがないことが多い)、応援は生徒の自発性にまかせる。リスクのある行動は自発性が前提でなければならない。日本特有の「義務的な任意性」が多くの紛争をもたらしている。日本の「義務的なボランティア活動」など。
・スキーの競技会で選手がコースアウトして観客席に突入して起きる事故は、ネットを張りめぐらすか、観客に危険性を明示するほかない。
・ゴルフ観戦も自発性が前提。間違ってもゴルフ観戦を引率しないように。


2016年5月19日
さまざまな格差をどのように考えるべきか。
@資産の格差、機会の格差

 「格差社会」という場合の古典的な格差である。トマ・ピケティが「21世紀の資本」で述べるように、この格差が拡大している。
A能力、資質の格差 
  機会の平等が実現されれば、能力、資質の格差が資産の格差をもたらす。「家が貧乏でも、がんばれば夢を実現できる」というアメリカンドリームは、競争社会で能力、資質のある者が「勝つ」ことを意味する。
B社会的人間関係の格差
 Aの格差、人間的な資質の格差がこれをもたらす。たとえば、失業した時に、社会的人間関係を構築できる人は、それを通じて次の仕事を見つけやすい。組織の中で昇進するためには、この能力が重要である。この能力の欠如は、社会的に孤立し、引きこもり、幸福感の欠如などにつながりやすい。
C家族関係、友人関係の格差
 円満な家族関係、友人関係を構築できるかどうかは、ある種の能力、資質が関係する。この能力の欠如は、幸福感の欠如をもたらす。
D問題解決能力の格差
 これは、Aの一部であり、Aは、競争社会で「勝つ」能力だが、Dはそれとは無関係であり、幸福感をもたらすかどうかに関わる能力である。リスク回避能力などもこれに属する。病気を早期発見し、前向きに治療する人と、発見が手遅れになりやすい人は、考え方の資質の違いが関係する。離婚から早く立ち直る人とそうではない人。

 格差というと、資産の格差、機会の格差が取り上げられやすいが、問題はそれほど単純ではない。ジョン・ロールズは「正義論」の中で、人間の能力の格差を取り上げているが、資産の格差、機会の格差と一緒に論じているので、後者の格差だけが注目されやすい。アマルティア・センは、「潜在能力」(capability)の欠如が貧困だと述べ、湯浅誠も、貧困と人間の資質の関係を取り上げている(「反貧困」)。「金がないから貧困」という単純なものではない。
 社会的な観点から見れば、資産の格差が重要だが、個人的な競争の場面では、能力の格差が重要な意味を持つ。がんばれば誰でもイチローのような一流の野球選手になれるわけではない(運動オンチには、野球自体が難しい。キャッチボールのできない人がいる)。人間に能力の格差のあることは当たり前のことであり、誰もが理解しているが、それをあえて無視して「がんばれば誰でもできる」と考えるところに日本の学校価値観と競争原理がある。日本では、「人間の能力差を認めること=差別」だとされ、「人間の能力に差はない」とみなされやすい。そこには、「人間の能力差=人間の価値の差」という価値観がある。しかし、本来、人間の能力差を認めても、人間の価値に違いがあるわけではない(しかし、現在の損害賠償制度は、人間の能力差=人間の損害賠償額の差を認めている)。
 能力のある者と能力のない者では、平等の機会のもとに競争をしても、勝負にならない。努力の差が結果の差につながるのは、ある程度能力の近い者同士の競争の場面である。同じ大学をめざす者同士の受験競争、組織内の昇進、企業間の競争、研究者間の研究上の競争、プロのアスリート間の競争などがその例である。
 人間の能力差があっても、人間的な生活が成り立つ社会であれば、人間の能力差はそれほど重要な意味を持たなくなる。「人間の能力に差があるとして、それがどうかしたのか?」 人間の能力差を否定し、「がんばれば誰でもできる」と考える日本の社会は、能力の劣る者に過酷な競争を強いる結果なっている。過労死、自己責任論など。同じ条件下の過酷な労働でも、過労死する者としない者がいる。心身の「強い」者は過労死しにくい。同じ高所登山をしても、心身の弱い者は身体機能が対応できず、死ぬ。厳しい環境では、人間の能力差が生死を分ける。
 「人間に能力差がある」というと、「じゃあ、努力しても無駄なのか」と言う人がいる。これは、競争を前提とする考え方であり、能力を固定的に考えている。競争とは関係のない努力の場面は、能力の有無は関係がない。自分の内面的な価値の実現のための努力は、能力があっても、なくても、可能である。自分の能力を無視した努力は、失敗しやすい。また、人間の能力は訓練により伸びるのであり、「努力しても無駄」ではない。人間の能力差を認めることは、能力が伸びることと矛盾しない。自分のやりたいことをする場合には、能力に関係なく、誰でも、自然にがんばるものだ。その場合には、通常、「がんばる」という意識がない。能力の有無は、競争の場面ではじめて意味を持つ。競争のためではなく、自己実現のために努力することができる。自己実現は、自分の能力に応じて努力することでもたらされる(「真の自己実現をめざして」)。


2016年5月17日
刑事裁判費用の踏み倒し?
 産経新聞に下記の記事が掲載されていた。
「刑事裁判で有罪判決を受けた被告人が、裁判にかかった訴訟費用の支払いを免れ、結果的に徴収不能となるケースが過去5年間で約5900件、総額約5億3100万円に上っていることが16日、分かった。全体の件数との比較では、およそ6人に1人が事実上、支払いを踏み倒している計算になる。いずれも国が代わって負担しており、徴収率を高める方策が求められそうだ。」

 しかし、ほとんどの刑事裁判で、判決文で、本来被告人が負担すべき訴訟費用の免除決定がなされており、最初から請求がなされていない事実がある。ほとんどの事件で、刑事裁判の費用が最初から免除されている。裁判費用が免除されなかったケースでも、その回収が難しいというのが上記の記事の意味である。刑事裁判では裁判費用の回収が難しいので費用を免除することが多く、免除しなかったケースでも、もともと回収の難しさがある。もともと、被告人は、金のない者が多い。金のある者は私選弁護人に依頼するので、国選弁護費用は発生しない。要するに、国選弁護費用の回収はもともと難しいのであり、刑事裁判はそういうものである。国選弁護人の選任要件のひとつに「金がない」という要件があり、すべての事件で国選弁護費用を免除してもよいくらいだろう。すべての国選事件で費用を免除すれば、徴収率は100パーセントになる。このような事実を合わせて報道しなければ、上記新聞記事を読んで国選弁護費用を回収できないことが大問題であるかのように勘違いする読者がいるのではないか。この勘違いが「ニュース性の根拠になっているようだ。新聞記者も勘違いして記事を書いたのかもしれない。一般に、新聞記者が正確な知識をもって記事を書くことは稀である。
 この記事のいう「徴収率を高める」にも、多額の税金・人件費・労力・時間がかかるのであり、それを新聞は金銭に換算する試算をしたらどうだろうか。当然、労力をコストに含める必要がある。1万円回収するのに10万円のコストをかけることになりかねない。おそらく、コスト的に合わないので、徴収請求を放棄した方がまだマシなのだろう。下手をすれば、赤字になりかねない。


2016年5月12日
法科大学院志願者数・入学者数の激減と法科大学院の人気凋落
 
今年の、法科大学院の志願者数が8274人であり、1万人以下になった。法科大学院入学者の総数は、計1857人である。これらは、いずれも、過去最低を更新した。数字からいえば、この状況は絶望的である。ほとんどの法科大学院で、入学者数が定員を下回っている。
 
 簡単にいえば、今の状況の原因は、弁護士の数が増えて弁護士の収入が減り、弁護士の人気が低下した点にある。今では、弁護士間の格差が大きく、富める弁護士もいるが、収入の少ない弁護士も多い。今や、弁護士も格差社会の一員である。
 弁護士間の格差の理由は単純である。社会的格差の拡大の結果、富める者(大企業、資産家)から依頼を受ける弁護士は富裕化し、富裕ではない階層から依頼を受ける弁護士は収入が少ない。収入の少ない弁護士は、仕事が少ないから収入が少ないというよりも、収入につながる仕事が少ないから収入が少ないのである。公的医療保険制度のある医師の場合には、患者の資産の有無は医師の収入と関係がないが、弁護士の場合には、公的支援制度が不十分なため(弁護士費用の一般的な分割払制度すらない)、依頼者に金がなければ、弁護士に依頼できない。

 弁護士の競争の結果として弁護士が企業や資産家に従属する傾向が強まった。弁護士を雇用する側から見れば、弁護士の数が多い方が使い勝手がよい。それが、タテマエとは別の司法改革の真の意図である。このように企業や資産家に従属して、事務所を維持することに汲汲とする弁護士のイメージも、弁護士に対する人気低下の一因だろう。
 
 弁護士の収入は、就職できなければ0円だが、就職できれば初任給は年収400〜500万円であり、これは、一般的には少ないとはいえない。しかし、弁護士は年齢とともに当然に収入が増える職種ではない。国税庁の資料によれば、平成26年の弁護士の所得の中央値は590万円、年収が400万円以下の弁護士が約37パーセント、赤字の者が26パーセントとなっている。収入の多くない庶民相手の弁護士は、40代、50代のベテランになれば年収約600万円であり、フツーのサラリーマンと同じか、むしろ少ない。若い弁護士は、収入の保障がない。アメリカにのフツーのマチ弁は年収約500万円である。ただし、日本でもアメリカでも一部の弁護士は数千万円、数億円の高額の収入がある。現在は、そういう格差の時代である。弁護士になれば、大学の同級生たちよりも経済的な待遇が悪いとすれば、弁護士を敬遠するのは自然なことだろう。魅力のない職業には人は集まらない。
 
 昔から、高額な収入を得られて、しかも職業のイメージがよいことが、弁護士人気を支えていた。これは「不純な動機」ではなく、競争社会では当たり前である。アメリカではこの傾向はもっと顕著である。したがって、弁護士の平均所得が低下すれば、弁護士の人気も低下するのは、当たり前のことである。

 法曹資格を意味のあるものにするためには、経済的に弁護士を利用しやすい制度を構築すること、それに応じて、弁護士の需要が増えるので、弁護士の需要に合わせて弁護士を増やしてくことが必要だった。しかし、都会のコンクリートの中で、理屈と数字だけをもとに考えた結果が、現在の状況をもたらした。

 それでも、収入に関係なく、弁護士として社会的に意義のあるボランティア的な活動をしたい者にとって、弁護士になりやすくなったことは、悪いことではない。社会的にすぐれた仕事は、ボランティアでなければできないことが多い。弁護士の仕事も同じであり、弁護士のすぐれた活動の多くはボランティア的活動である。もともと、弁護士は、扱う範囲が広く、ボランティア活動をしやすい職種である。しかし、当然のことだが、ボランティア活動、もしくは、ボランティア的な仕事で収入を得ることは難しい。従来、ボランティア的活動をする弁護士は、ボランティア的活動以外の場面で収入を得ていたが、現在は、それが難しくなっている。弁護士の活動の環境は、年々、悪化し、経済的に弁護士のボランティア的活動が困難になりつつある。
 しかし、すぐれた活動の前提となる収入の額は、それほど多額ではない。生活できるだけの収入が得られれば、収入が少なくても優れた仕事や活動をすることができる。配偶者の収入で生活しながら、弁護士としての社会的な活動をしてもよい。これからの時代は、収入に関係なく、弁護士の仕事にやりがいを感じる人こそ弁護士になるべきだろう。

 今後について
弁護士は、収入にとらわれていては優れた仕事ができない。弁護士は収入さえ気にしなければ、活動の場が広い。
弁護士は収入の安定した職業だという思い込みを捨てるべきである。
・今後、弁護士の人気が低下するが、弁護士は優秀な人材が必要であるというジレンマがある。
・今後、兼業弁護士の役割が重要だが、月額5万円の弁護士会費と日本の企業社会、役所のシステムがそれを妨げる。
・弁護士は、法律のことしか考えず視野が狭い。一般に専門家は視野が狭い。学者はその典型。
・弁護士は、ボランティア活動の期待が大きいが、収入につながる弁護士の仕事は限られ、競争が激しい。
・これからの弁護士は、国際的な場面で最低でも英語で外国人と議論できるだけの語学力が必要である。
・大学の法律の研究者はあまりにも法律実務に疎い。役に立たない法律の研究があまりにも多い。研究者のための研究が多い。研究と実務の分離。アメリカでは、そもそも大学の法学部がないので、ロースクール中心の研究者が育つ。弁護士の研究者が増える必要があるが、弁護士は経済的、時間的に研究をする余裕がない傾向がある(もっとも重要なことは意欲だが)。外国の文献を多く引用しなければ、「学問」ではないという誤解がある。
・社会経験がなく書物で得た知識しかない裁判官が、人間行動を判断することには限界がある。多様な弁護士の中から裁判官を選出する必要がある。
日本の司法界は世界から孤立したガラパゴスの世界であり、世界の中で特異である。しかし、前途多難だが、裁判所と同様に、決して「絶望的」ではない。
弁護士の仕事の需要は限界があるが、法曹資格者の需要は大きいので、法曹資格者は企業・役所に就職すればよい(弁護士登録しなければ、社員・公務員であって弁護士ではない)。法科大学院修了者は公務員試験(法律職)に受かりやすいはずだ(勉強量、知識の量が違う)。


2016年5月11日
日本のアウトドア文化の貧困

 日本には、アウトドアの文化が根づいていない。
 常々、自然の中で静かにゆったりとした時間を過ごしたいと考えているのだが、それができる場所が、なかなか見つからない。

 アウトドア活動に関係したものとして、以下のものがある。
・野外活動 これは、学校教育が中心である。
・キャンプ 都会の生活の延長のようなキャンプ場が多い。
・登山  3Kのイメージがあり、特殊な分野と考えられがち
・ハイキング  登山の軽いものというイメージ。これまた、対象者が限られる。
・ツアー、旅行  観光の一部になっている。
・スキー、スキューバダイビング、カヌー、釣り、ヨットなど  それぞれ特別な分野と考えられている。

 日本では、恵まれた自然の中で、アウトドア自体を楽しむアウトドア活動の条件がない。自然の中でアウトドア自体を楽しみ、静かな時間を過ごす環境やトレッキングを楽しめるコースがない。登山は山頂に向かってがんばるイメージだが、トレッキングは自然の中の山歩きを楽しむイメージである。日本には、登山はあるが、トレッキング、ロングトレイル、バックパッキングの文化とそれにふさわしい環境がない。


2016年5月4日
島根県・落石事故の法的責任

 事故のあった場所は、私の自宅の隣の町であり、車で30分くらいの場所である。
 県道での落石事故なので、県の営造物責任は免れない。しかし、
・役所は、交渉では示談しないので、民事裁判になる。どうせ、裁判で和解する可能性が高いので、裁判になる前に示談すればよさそうなものだが、行政はそれはしない。別のある事件で、「県に責任があると考えますが、和解に議会の承認が必要なので、裁判が必要なのです」と県の担当者から言われたことがある。裁判で弁護士に払う数百万円単位の弁護士費用が無駄である。
・県の担当者が刑事責任を問われる可能性がある。青森県の城ケ倉歩道落石事故では、県の観光課長の業務上過失傷害が立件された(最終的に不起訴になった)。笹子トンネル事故では、関係者が刑事責任として立件され、捜査中である。最近は、過失事故の厳罰化の傾向がある。刑事責任が起訴されるかどうかは、世論次第。世論からの非難が強ければ、起訴される。
 日本では、新聞やテレビのワイドショーの影響力が大きい。世論の非難が強ければ、県の担当課長が起訴されるかもしれない。老人の死亡事故であれば、世論の非難は強くないが、小さな子供の死亡事故であれば、世論の非難が強い(これは、不公平ではないか)。山岳事故の場合も世論の非難が強い。前記の城ケ倉事故は、ハイキング中の事故である。JR事故では、多数の死傷者が出たので、社長や元社長が起訴された。原発事故でも、東電の社長の刑事責任が問題にされた。トムラウシの事故では、ツアー会社の幹部の刑事責任が立件され、捜査中である。その発想でいけば、県知事の刑事責任が問われてもおかしくない(ただし、警察は県の組織なので、県知事を捜査の対象とすることはないが)。

 過失事故の刑事責任を問題とする範囲を限定しなければ、業務が円滑に遂行できない。事故が起きる度に社長や知事、首相の刑事責任を問題にしていたら、多額の税金を湯水のように捜査に使ってしまう。かりに、有罪になる場合でも、執行猶予が付くのだが。

 オーストリアのケーブル列車・トンネル事故で155人が死亡したが(日本人10名を含む)、刑事裁判で関係者が無罪になった。このケースは、日本では、関係者が確実に有罪になるケースである。適用される法律は日本もドイツ(オーストリア)も大差ないし、被害者の被害感情も万国共通である。検察側の姿勢もどこの国でも大差ない。どこが違うかといえば、裁判所の過失の認定の仕方が、日本では欧米よりも緩やかだという点である。欧米では、刑事責任に関する事実の認定が厳格になされる。「重大な事故が起きたのだから、関係者を処罰しろ」という「市民感覚」に対し、「証拠がなければ有罪にできない」という原則をどこまで貫くかという問題である。日本の裁判所は、「市民感覚」に対して、弱い。それは、裁判官の、独立性、自立性、経験、自信などが関係しているのだろう。

 
2016年5月1日
白山・山スキー

 今年も、白山(2702m)で山スキーをした。白山での山スキーは、これで3回目。今年は、雪が少なく、別当出合までマイカーが入ることができた。風が強く、山頂は視界なし。山頂へ行っても面白くないので、室堂小屋から滑降した。
 午前中は、弥陀ヶ原はホワイトアウトだった。強風の中で、ここでルートを外れると遭難しかねない。ポールが立っているが、スキーで滑ると、あっという間にポールを見落としてしまう。念のために、GPSの電源を入れるが、GPSを見ることはなかった。電池節約のため、通常、GPSの電源を切っている。エコーラインを快適に下る。
 この日、北アルプスで遭難が多かったようだ。事前の天気予報では、天気がよいとされていたので、私は、「暑さ対策」を考えていた。しかし、山の上は、冷たい風が強く吹き、全体的に視界が悪かった。下の写真は、一瞬の晴れ間に写した写真である。それ以外は、だいたいホワイトアウトだった。表日本と日本海側で天候が違い、北アルプスがその境目になったのではないか。日本海側は低気圧の影響を受けた。中高年登山者は寒さに弱い。私は今月、61歳になる。私も、登山中、ずっと寒かった。遭難と安全登山の差は紙一重である。14時20分、別当出合に下山。今回も、自然に楽しませてもらった。感謝。


                       
                               弥陀ヶ原


2016年4月26日
東京オリンピック・エンブレム問題
 エンブレムの内容はどうでもよいが、国民の税金の使い過ぎ。


2016年4月25日
神戸・橋桁落下事故
 神戸市で起きた橋桁落下事故について、「ありえない事故」と述べる専門家がいるらしい。
 25年前に起きた広島市での橋桁落下事故の弁護団の1人として、以下の点を指摘したい。
・橋桁の設置工事は、人々が考えているよりもずっと難しい作業である。なにしろ、重量が非常にあるので、橋桁を20センチ降下させるだけでも、大変な作業になる。
・作業員の数や質が大きく事故に関係する。ジャッキの置き方ひとつで、大事故になる。安全管理体制が少しでもずさんだと事故が起きやすい。広島市での事故は、作業員不足、経験不足、作業員のジャキの操作方法に不慣れだったことから、橋桁の重量が偏り、ジャッキが破損し、橋桁が落下した。
・だいたい、20年に1度くらいの割合で事故が起きるのではないか。
・この種の工事の専門家(大学の関係者など)は、たいてい橋梁業界とつながりがある。第三者的立場の専門家がいない。
・広島市での橋桁落下事故は裁判になり、1審裁判で5年くらいかかった(1審で勝訴。判例時報に掲載されているはず。資料がダンボール箱5箱分くらいあったが昨年、処分した)。


2016年4月18日
九州大震災の法的責任
 熊本や大分の地震の余震がまだ続き、今は、被災者の救援が必要とされている。そういう状況で、先走りし過ぎることだが、今後、被害の法的責任問題が生じる。これは、震災から数年後に問題になることが多い。東北大震災でも、震災から数年後に多くの訴訟が起こされた。震災直後は、被災者は裁判どころではない。損害賠償請求訴訟の時効は3年。
 震度6前後の地震で倒壊した建物は、設計上問題はなかったのか。学生用アパートは、大学が用意したものか。大学の責任は?
 ビルの1階の駐車場が多く倒壊しているが、構造上、問題はないのか。
 倒壊していない建物もある。賃借建物が倒壊した場合の貸し主の責任は?
 阪神淡路震災や東北震災の後では、震度6前後の地震による被害は予見可能の範囲に入る。震度6前後の地震で落下する橋は、それでよいのか。
 地震のためい機能しなかった市の庁舎について、予算計上しなかった議会の責任は? 議会の怠慢を問う責任問題もありうる。
 地震は、今の科学では予見できないが、行政は、震度6〜7クラスの地震に備えるべきである。
 当初、行政が4月14日の地震を「本震」と判断したために、16日の地震に対し油断した人が多かった。もし、「もっと大きな地震があるかもしれない」と考えていれば、16日の地震で死ななくてすんだ人が多くいるのではないか。16日に車内や野外で寝ていれば、助かった人がたくさんいる。この行政の判断ミスは法的責任問題にはならないが、後知恵であるが、適切な対処ではなかった。
 地震が多発すれば、今後、地震保険の保険料が上がるのではないか。
 震災後の救援体制、物資の輸送、補給など。人手が足りなければ、民間業者に物資の配給を委託することも必要ではないか。すべて自治体を通さなければならないというものではない。災害時のシステムに問題がある。マニュアルを作っていても、うまく機能しない。
 これらの点が、今後の検証の対象になるだろう。災害の度に不手際が指摘され、反省がなされる。


2016年4月2日
弁護士の横領事件の増加
 弁護士の横領事件が激増している。被害額は、3年間で計20億円くらいであるが、これが多いのかどうか、よくわからない。弁護士が横領をするのは、とんでもないと思う人もいるだろうが、まだ、大したことはないという印象もする(今後、もっと増えるだろうから)。
 かつては、弁護士の横領事件は、遊興費に使うケースが多かったが、最近は、事務所経費などに使ったというケースが多い。弁護士の数が激増して、弁護士の経営が苦しくなったことが背景にある。月額約5万円の弁護士会費を滞納して、処分を受ける弁護士も増えている。5年滞納すれば、300万円になる。

・競争に対する救済策としての弁護士の破産
 弁護士が破産しやすい制度にする必要がある。アメリカでは、弁護士は破産しても、弁護士資格を失わない。アメリカでは、巨大ローファームの破産や弁護士の破産が珍しくない。自らの破産経験をもとに、破産の講演をする現職の弁護士もいるらしい。さすが、アメリカである。これは、アメリカでは、破産しても弁護士資格を失わないことが背景にある。
 しかし、日本では弁護士は破産すると弁護士資格を失うので、破産するには弁護士をやめる覚悟が必要である。そのため、多額の借金のある弁護士は、破産して弁護士をやめるか、横領して除名されて弁護士をやめるか、悪徳業者と提携するかの選択肢しかない。破産するよりも、預かり金に手をつける方が、マシだと考える弁護士が出てくるのは当然だろう。
 「弁護士の横領事件が多いので、破産しやすくするというのは本末転倒だ」という意見が出る。しかし、「○○であるべきである」というだけでは、問題を解決できない。もっと、知恵を使う必要がある。弁護士の数が多く競争の激しいアメリカでは、競争に落伍した弁護士が破産という方法で再起をはかる手段を用意している。競争の激しい国や分野ほど、破産の必要性が高い。アメリカでは、銀行の破産も多い。しかし、日本では、弁護士の数が増えて競争が激しくなったが、弁護士は破産できず、競争に落伍すれば、再起不能になる。競争社会では、競争の落伍者の救済策を講じることが、競争の前提である。
 弁護士がコンビニなみに数が増えれば、コンビニなみに破産することが必要になる(コンビニの数よりも、弁護士の数の方が多い)。
 弁護士の倒産手続としては、民事再生手続がふさわしい(一部の返済をする方式)。

・科学性の欠如
 弁護士会は、表向きは、「弁護士が足りない」として、弁護士の数を大幅に増やす一方で、実際には、「弁護士の仕事が足りない」として、弁護士の仕事を増やす努力をしている。日本全体で裁判事件や法律相談件数が減っており、これらを増やすために、無料相談会などを増やすなど、「潜在的な事件の掘り起こし」に苦労しているが、成果が出ていない。
 これは、「施設が足りない」として、道路、空港、新幹線などを作り、作った後に、「利用者が少ない」として、利用者を確保することに汲汲とすることに似ている。「大学が足りない」として、大学を増やし、増やした後に、「学生が足りない」として、学生数を確保するのに苦労する。学生不足から潰れる大学も出てくる。法科大学院もその例である。作って、潰し、税金を使い、国民に金を使わせる。その繰り返し。
 これらの日本的現象には、科学性の欠如、知恵の欠如、理念の欠如、場当たり的な政策、現実から遊離したタテマエの理屈がある。現実から遊離した理屈に基づいていくらでも砂上の空中楼閣を作ることができる。現実をきちんと認識すること、これが科学であるための前提である。問題を適切に解決するためには、科学的であることが必要である。日本の司法は、科学ともっとも無縁な分野である。

・弁護士会費の異常な高額さ
 月額5万円という弁護士会費は異常である。これでは、気軽に登録できないではないか。弁護士は、弁護士会費を払わなければ、弁護士業ができないことになっている。若手弁護士の負担を減らすために、会費免除制度などを設けているが、根本的な解決にならない。弁護士会費を滞納する弁護士が増えている。
 弁護士になると、最初に、高額な弁護士会費に遭遇するが、次第にそれに慣れていく。やがて、月額5万円の会費を当たり前だと感じるようになり、30分5000円の相談料も「安い」と感じるようになる。このようにして、弁護士は、次第に、庶民的な金銭感覚を失っていく。20万や30万円の金額は、大した金額ではないと感じる弁護士が多い。現金ですぐに30万円を払えないような依頼者を相手にしない弁護士は、5万円の会費を高いとは感じない。
 かつての弁護士は、武士か殿様だったので、月額5万円程度の「はした金」に文句を言うべきではないとされてきた。かつて、弁護士会の「花見」の宴会の会費は2万円であり、それを若手弁護士が「高い」と言うのは禁句だった。
 しかし、今や、見かけは武士でも、懐具合は、フツーのサラリーマンと変わらない弁護士が増えており(あるいは、それ以下の弁護士も多い)、自分の住居の家賃や住宅ローンの支払い、子供の学費支払いに苦労する弁護士が増えている。この点では、フツーの庶民と同じである。

・弁護士はフツーの職種である
 今や、弁護士はコンビニ経営者や不動産業者のような自営業者と同じレベルの競争にあるという現実を直視する必要がある。今や、弁護士の広告などもサラ金なみに派手に行われている。電話帳を見れば、サラ金の大きな広告と並んで弁護士の大きな広告がある。テレビでも同じである。サラ金が倒産するように、法律事務所も倒産する。
 弁護士は、特別な職種ではなく、フツーの職種であるという現実を受け入れる必要がある。フツーの職種では、破産が認められている。フツーの職種であるということは、会社の社長と同じく、零細企業の社長もいれば、大企業の社長もおり、格差が大きいということを意味する。収入0円の弁護士から、年収数十億円の弁護士までピンキリである。そのような格差は、今の社会では当たり前である。アメリカでは、あらゆる職種において格差が大きく、莫大な利益を得る人もいれば、破産する人もいる。日本もそれに近づきつつある。
 今や、弁護士は、武士や殿様ではなく、平民である。実態は、そうなのだが、弁護士の意識、国民の意識、司法制度は、そうではない。弁護士の実態と、国民の意識・制度の間のギャップがある。
 弁護士を、安定した職業、人権の担い手と考える人がいるが、弁護士は必ずしも安定した職業ではなく、人権活動は多くのボランティアの人権活動家によって担われている。弁護士も、そのようなボランティア活動をすることがあるが、人権活動は弁護士の特権ではない。本来、人権活動は収入の対象にならないことが多い。弁護士でなければできないことは、代理人として法廷に立てることくらいのことである(この点は、司法書士も一部可能である)。


2016年3月3日
「山岳救助活動における注意義務」、日本山岳文化学会論集13号掲載


2016年3月1日
認知症の高齢者の家族の監督義務・最高裁判決

 認知症の高齢者が列車にはねられ、鉄道会社に損害を与えた場合に家族が賠償責任を負うべきかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁は、「同居の夫婦だからといって直ちに監督義務者になるわけではなく、介護の実態を総合考慮して責任を判断すべきだ」との初判断を示した。その上で、家族に賠償を命じた2審判決を破棄して鉄道会社側の請求を棄却した。家族側の逆転勝訴が確定した。

 予想通りの判決であり、妥当な判断だろう。
 これに関して、注意すべき点は、
・1審、2審判決は、家族の責任を認めていた。もし、最高裁に上告していなければ、家族の監督責任を認める判決が確定し、それが、実務では、先例として大きな影響を持っただろう。
 この事件は、たまたま上告した事件に属するが、ほとんどの事件が最高裁に上告されない。判決の99パーセントは上告されないだろう。微妙な事件では、1審、2審、最高裁で判断が変わることが少なくないが、上訴しないために、1審判決が確定するのがほとんどである。上訴しない理由は、裁判の印紙代や弁護士費用がかかるからである。20〜30万円の弁護士費用を払えない人は、判決に不満があり、おかしな1審判決でも、上訴しない。これが、現実。
 最近の傾向として、若い裁判官が、理屈だけで、事実を認定し、判断する傾向を感じることが多い。この事件では、理屈だけで考えれば、周囲の家族に監督義務があるという結論を導くことは簡単であり、1審、2審判決はそのように判決している。社会経験の欠如、生育環境の狭さ、自信の欠如、前例踏襲の無難な選択をする傾向が、理屈偏重傾向をもたらしているように思われる。ある事実があったかどうか、その真偽を理屈で判断するのである。これは、裁判官が、そのように育てられたからだ、と言えば、それまでだが。
 事実の認識は理屈の問題ではない
。この点は、科学的認識の問題である。この事件の1審判決のような判決のほとんどが、上訴されず、一審で確定してしまうのが現実である。

・弁護士、司法書士が成年後見人になることが増えているが、被後見人の重い監督義務を課されたのでは、たまったものではない。家族や親族が成年後見人になる場合も多いが、同様に、監督義務を課されたのでは、後見人のなり手がいない。市民後見人も同じ。


2016年2月28日
原発関連強制起訴

 福島第一原発の事故をめぐって、検察審査会が「起訴すべき」という議決をした。東京電力の勝俣元会長、武黒一郎元副社長、武藤栄元副社長の3人が、事故を予見できたのに、安全対策をする義務を怠って原発事故を発生させ、避難を余儀なくされた周辺の病院の入院患者を死亡させたことについて、業務上過失致死傷の罪で、2月29日にも強制起訴される。
 裁判はかなり難しいものになるが、この種の事故が起訴されれば、多くの事故が起訴されなければ、不公平である。原発事故を特別扱いにするのであれば、すべての事故を特別扱いしなければ、不公平である。どんな事故でも、人の命に格差はないからである。
 親が認知症になり、火災を起こして近隣の人が死傷したり、踏切で列車が急ブレーキを踏んで乗客が怪我をすれば、認知症の家族が刑事責任を問われることになりそうである。近隣の人が多数死傷すれば、重大な事故である。
 子供が事故を起こせば、親が監督責任を問われ、刑事責任を問われる。
 企業で事故が起きれば、社長、管理職、上司、同僚が業務上過失致死傷罪に問われる。
 地震で道路事故が起きれば、道路管理をしていた自治体や警察の幹部が刑事責任を問われる。
 奥入瀬渓流歩道の落木事故では、県の課長が刑事責任を課されることになる。
 積丹岳事故では、事故を起こした警察官や警察署長は、刑事責任を問われる。
 富士山での登山者の救助作業中のヘリからの落下事故では、救助隊員と消防署長は刑事責任を問われる。
 医療事故、学校事故、アウトドア事故のほとんどが起訴されることになる。
 国民が、それでよいと言えば、可能である。どの範囲で刑事責任を課すかは、国民が選択すべき価値判断、政策判断である。学校や家庭での体罰をすべて起訴することが、できないわけではない。


2016年2月18日
事故の確率と予見可能性
 9.11のニューヨク爆破テロ事件の前に、世界貿易センタービルに飛行機が衝突して崩壊する確率を計算したとすれば、事故の確率はほとんどゼロに近かったのではないか。
 福島原発事故の前も、この事故が起きる確率も限りなく低かったはずだ。
 しかし、現実にこれらの事故が起きた。事故が起きた後は、多くの人が、事故は予見可能だったと考える。事故が起きた後には、裁判所も、福島原発事故は予見可能だったとして、原発の損害賠償責任を認める。事故の前と、事故の後では、事故の確率が異なる。「科学」の実態は、そんなものである。
 どのようなデータを入力するかによって、事故の確率が簡単に変わる。事業を行う場合の経済的な予測も同様である。
 
 今後、起きる原発事故についても、裁判所が、事故後には予見可能だったと判断することは可能なはずだが、現実は、そうではない。それが、裁判の実情である。


2016年2月10日
学校での組み体操の禁止と大川小学校の事故
 大阪市では学校での組み体操を全面禁止にすることにしたそうだ。
 以前、私は、組み体操の危険性を指摘したが、大阪市の全面禁止措置について、いかにも日本的なやり方だというのが感想。もっとも安直で賢明でないリスクマネジメント。リスクマネジメントは、もっと頭と知恵を使うべきである。

 組み体操は危険だが、その危険性は、ケースバイケースであり、それは現場で判断すべきことである。学校や教師には、その危険性を判断する能力が必要であるが、それがないから、一律に禁止するのだろう。しかし、それでは事故は防げない。組み体操をしなければ、組み体操での事故は起きないが、別の運動競技で事故が起きる。では、いっそのこと運動会を禁止するか? 体育の授業でも、鉄棒、跳び箱、ソフトボール、サッカーでも事故が起きる。それをすべて禁止するか? 世論が騒げば、それだけ禁止し、世論対策をしているのが現状である。
 あらゆる運動で、危険かどうかはやり方次第であり、それを判断できる能力が教師に必要である。
 
 このようなリスクマネジメントの能力の欠如が、東北大震災時の大川小学校の事故を招くのである。現場の教師が、リスクマネジメントの初歩的な能力があれば、大川小学校の事故は起きていない。行政が一方的に禁止したり、許容するリスクマネジメントに慣れた教師は、リスクマネジメントの能力が身につかず、危険な場面で臨機応変の対処ができない。

 広島県のスキー場で、学校のスキー教室中に死亡事故が起きたが、では、スキー教室を中止するか? これは、自由滑走中の事故だが、教師が傍にいなかったことが本的責任問題になるだろう。しかし、実は、教師が傍にいても、この種の衝突事故が起きる。学校のスキー教室中でなく、学校とは無関係にスキーをしていても、運が悪ければ、この種の事故が起きる。ではスキーをやめるか? スキーはしなくても、別の運動やスポーツでも他人がぶつかる事故が起こりうる。たとえば、ハイキング中に上から人や物、石が落ちてくる事故など。


2016年1月31日
比婆山で山スキー
 最近、運動不足だったので、久しぶりに比婆山(広島県)で山スキーをした。行動時間は約4時間。車の運転が往復3時間。使った金は、往復のガソリン代約700円のみ。高速道路は使用しない。車はプリウス。以前、1円も使わずに、子供とスキー場でソリ遊びをしたことがある。意識的に節約したわけではない。「自然なアウトドア活動」をしようとすると、金を使う必要がないのである。金を使わずに、知恵と体力と若干の時間を使う。一般的にいえば、多額の金を使うレジャーは、充実感が少ない。楽な分だけつまらない。

 途中で出会ったパーティーは2パーティーだが、1パーティーは知人のO氏のグループだった。広島の登山の世界は狭い。
     
                          



2016年1月30日
フジテレビ・インターネットニュース「あしたのコンパス」でのイタビュー・「富士山の救助中の事故について」
 午後8時30分から、この番組に電話で生出演した。東京のテレビ局のスタジオから、電話でインタビューを受けた。
 
 201年12月に、静岡市消防局のヘリが、富士山の3500mの場所で滑落した登山者の救助活動中に遭難者をホイスト・ワイヤーから落下させ、その後、遭難者が死亡した。この事故について、2015年12月に訴訟が起こされた。他方、静岡市消防局は、今後は、3200m以上の場所では山岳救助活動をしないことを決定した。

コメント要旨
 救助活動中に遭難者を落下させれば、過失がある可能性がある。自治体、警察と消防では、山岳救助の技能に差がある。山岳救助は、専門性を必要とし、訓練が必要。統一した専門的な救助組織が必要。遭難は登山者の自己責任であるが、それと行政が、国民の安全を守ることは別の問題。国や自治体はできるだけ、国民の安全を守ることが期待される。裁判は、救助活動に多少の萎縮をもたらすが、裁判になったことを問題にしても、仕方がない。それよりも、事故やミスをどのようにして防ぐか、この種の事故を防ぐにはどうすればよいのかが重要。
 
補足
 静岡市消防局が、3200メートル以上での救助活動をしないことにした点については、高所での救助活動の訓練をしていなければ、やむを得ないだろう。
 三浦雄一朗はエベレストの6500m地点でヘリにピックアップされて下山し、芸能人のイモトはマッターホルンの4478mでヘリでピックアップされた。イモトは、「自力での下山は危険」と判断されたのだと考えられ、遭難者の扱いである。三浦雄一朗も同じ。ヘリによる下山は、状況によりやむを得ないのであり、「悪い」ことではない。ヘリによるピックアップ方法はおそらく万国共通である。もっとも、三浦雄一朗やイモトはハーネスを装着していたとは思うが。もし、イモトのヘリのピックアップ中に落下させれば、日本の世論はどのような反応をするのだろうか。「視聴率目当てに危険な登山をするからだ」という自己責任論? いずれにしても、ピックアップ中の落下事故はあってはならない。
 ヘリによる山岳救助は、ヘリが高所に熟練しているからこそできるのであって、熟練していなければ無理である。マッターホルンでは、現在、山岳遭難救助はほとんどヘリで行われている。これは、1960年以降、REGAという公的な資金なしに運営される民間組織(スイス赤十字の特別補助機関)が担っている。マッターホルンは富士山よりも高く、岩山であり、富士山よりも数段、救助活動が困難だが、それを当たり前のように、1960年代からヘリによる救助を行っている。しかも、その費用は、税金を一切使わず、国民の4人に1人が加入する保険や寄付金でまかなっているというのだからさらに感心させられる。「自己責任」論で遭難者を非難する国との格差が大きい。
 スイスでは、1960年代から当たり前のように行われていることでも、ヒマラヤではそうではない。ヒマラヤでスイス人が遭難した時、ネパール人のパイロットのレベルは5000メートルでも怪しかったので、スイス人のパイロットをネパールまで呼び寄せたケースがある。そういうこともあって、2011年にネパールで高所でのヘリのパイロットを養成する施設ができたそうだ。三浦雄一朗が使用したヘリは、どこの国のものか不明だが、インドのヘリは、もっぱら軍事的な観点から、ヘリの高所での技術レベルが高い。私がインドヒマラヤの5000メートルのBCにヘリでやってきたインド内務長官と会ったのは、20年以上前の話である。当時、インドでは、5000メートルくらいの場所で、ヘリが当たり前のように活動していた。
 国によって高所でのヘリによる救助のレベルが異なるが、山岳救助のレベルは、その国の先進度に左右される。日本では、長野、岐阜、富山の県警ヘリなどはレベルが高いが、そうではない都道府県もある。

 山岳救助は専門性が必要であり、それなりの訓練等をしていなければ、県警ヘリ、場合によっては、他県のヘリの応援、それが無理であれば、民間ヘリ、民間人の救助隊、登山仲間に委ねるべきだろう。山岳会などでは、仲間が遭難した場合に、世論が「自己責任」だとして見捨てても、仲間を見捨てることはない。行政も、国民の生命を見捨てるべきではない(充実した救助体制を構築すべきだという意味であって、無理をするべきではない)。
 
 「行政は、国民の生命を見捨てるべきではない」という議論を始めると、「今の社会は、自由競争と自己責任論のもとで、多くの国民が、行政から切り捨てられ、見捨てられているではないか。なぜ、遭難者だけが、行政から保護されなければならないのか」という議論(というよりも、そのような感情)が生じやすい。自由競争のもとで格差が拡大すると、他人への非難や攻撃が生じる。北欧では、遭難者に対するパッシングがほとんどなく、遭難者に対し人々は寛容である。国民の格差が少ない国では、他人に対し優しい気持ちでいられる。しかし、人間は、激しい競争やストレスに曝されると、他人に対し攻撃的になりやすい。これは、学校などでのイジメが生じるメカニズムに似ている。
 ただし、最近、北欧でも、シリアなどからの難民に対するパッシングが生じ、世論が二分されている。これは、シリアからの難民によって北欧の人々の生活が損なわれる恐れが生じたためであり、自分の生活が関係すれば、他人事でなくなる。自分の置かれている社会、経済的な状況次第で人間の思想や価値観は簡単に変わる。


2016年1月21日
山下きよし氏の遭難
 知人の登山家の山下きよし氏(65歳)が、阿蘇・高岳で滑落し、亡くなった。山下きよし氏は、アコンカグア、チョーオユー、デナリ(マッキンリー)などの登山歴がある。25年くらい前、私と山下氏は同じ山岳会に所属し、一緒に山に行っていた。
 その後、私は別の山岳会に移り、山下氏は福岡で仕事をするようになり、福岡の山岳会に移った。それぞれ、別の山岳会に移ってから、2人とも海外での山での活動の場が広がったのではなかろうか。山下氏と会うことがほとんどなかったが、時々、山下氏から、登山関係の相談があり、電話で話をすることがあった。
 山下氏は20代で岩登りなどの登山を始め、60代でも、20代の頃と同じような登山をしていた。体型も、おそらく、20代の頃も、60代も変わっていなかっただろう。この点で、1昨年遭難した名越實氏に似ている。60代でも、20代と同じような登山をしていると、トレーニングである程度カバーできてても、とっさの行動などに違いが生じ、ささいな原因で事故になりやすいのではなかろうか。山下氏も名越氏も、それほど危険ではない場所(ただし、一般的には危険である)で起きた事故であり、若い頃であれば、事故にならず、「ヒヤリ、ハット」で終わったのではなかろうか。

 最近、私の知人で65歳くらいで亡くなる人が多く、残念である。名越氏も65歳だった。大前氏、角崎氏は、これは病気だが、65歳、67歳で亡くなった。以前、元広島県山岳連盟理事長の上中氏も、チベットでトレッキング中に急性心不全で65歳で亡くなった。


2016年1月7日
国立登山研修所・会議(東京)
 登山研修などに関して3つの分科会に分かれて、議論をした。来年1月に意見をまとめる予定。
 登山情報の提供、登山研修・技術のスタンダード化、登山文化の継承、中高年登山の事故防止、学校での指導者養成、「高みへのステップ」(文部省)の改訂などの意見が出た。
 
 いつものことだが、東京への日帰りは疲れる。

                             


「登山の法律学」、溝手康史、東京新聞出版局、2007年、定価1700円、電子書籍あり

                                

               
  
 「山岳事故の責任 登山の指針と紛争予防のために」、溝手康史、2015
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数90頁
        定価 1100円+税

                               

                      
  
 「真の自己実現をめざして 仕事や成果にとらわれない自己実現の道」、2014
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数226頁
        定価 700円+税