2020年  その4  R2.10.1~

 

                                                           溝手康史


2020.12.6
上級登山指導者リスクマネジメント研修会
 主催  日本スポーツ振興センター
 場所  神戸市

 コロナ感染拡大のため中止
 昨年も、同種の講習会が台風の影響により中止になった。2年連続の中止となった。

 当日、私は、「法律から学ぶ登山のリスクマネジメント」のタイトルで2時間45分の予定で講演をする予定だった。後日に期したい。




2020.11.24
アメリカのトンデモナイ弁護士たち
 アメリカ大統領選挙でトランプが選挙無効の裁判を連発している。
 引き受ける弁護士がいるから、このような裁判ができる。多くの弁護士がトランプの裁判を支えている。

 大衆に対し、陰謀論、共産国家からの選挙資金提供・サーバー攻撃、選挙プログラムの改変、国家的詐欺などを弁護士が主張している。その発言内容はトランプ以上に過激で、狂信的だ。
 弁護士は大衆向けに選挙に陰謀があったと主張するが、法廷では一切それを主張せず、簡単に敗訴判決が出るにまかせる。
 このような弁護士がいなければ、トランプの戦術は成り立たなかった。

 日本でいえば、衆議院総選挙無効ー国会での総裁指名の無効が裁判で争われ、いつまでも総裁が決まらないような事態を考えればよい。各都道府県の選挙管理委員会が、裁判中であることを理由に議員当選の確定をいつまでもしなければ、どうなるだろうか。
 日本では考えられない事態だが、それを狙った訴訟戦術をアメリカの弁護士が行ってしている。
 
 欧米では、日本と違って、司法、裁判、弁護士、裁判官の役割が重視されるが、トランプの代理人弁護士は明らかにそれを悪用している。
 表現の自由があるので誰でも言いたいことが言えるが、トランプの弁護士が記者会見で虚偽のアジテーションをすれば社会に大きな混乱をもたらす。弁護士が法律を巧妙に利用して、いくらでも国家的混乱を生じさせることが可能である。

 弁護士が負ける裁判をできるだけ伸ばして、弁護士費用を得ようとしているとしか考えられない。アメリカには金のために何でもする弁護士が多い。
 あるいは、弁護士個人の政治的主張の為にトランプ劇場を利用している。アメリカ社会を混乱させ、攪乱し、国家の転覆を狙っているのかもしれない。
 トランプ弁護団の中で裁判に勝てると考えている弁護士は一人もいないだろう。彼らはこの裁判がまともな裁判だとは考えていないが、それでも彼らはトランプの勝利のために何でもする。彼らは、内容のない訴状であっても、徹夜をして数十頁に及ぶ訴状を作成するのだ。

 アメリカの弁護士は、とうとうここまで来たかという感がある。
 このような弁護士は、野次馬的に眺める分には面白いが、アメリカ社会にまき散らす害悪が大きい。

 このような弁護士の実態はアメリカでは誰でも知っていることであり、裁判官もジュリアーニらをまともに扱わないのだと思われる。
 裁判官が訴状を提訴の1時間後に却下することは、日本では考えられない。日本では、裁判所が弁護士に釈明や補正を求め、仮に、裁判所が訴状を却下するとしても、数か月も後になる。
 日本では、まさか弁護士がまったく根拠もなしに陰謀論を主張し、平気で嘘をつくとは思わない人が多いだろう。しかし、アメリカの弁護士は平気でそれを行う。

 アメリカの弁護士がそのようになったのは、アメリカ社会の反映である。アメリカの社会の競争と格差は弁護士にも反映する。弁護士は社会から孤立しては成り立たない。弁護士は、格差社会の中で、金のある者、力のある者、勝ち組に群がる。そこに弁護士の激しい競争がある。それに勝てば、弁護士は勝ち組になれる。ジュリアーノ、パウエル、バイデン、クリントン、オバマはいずれも弁護士であり、勝ち組である。それは彼らの生育環境と能力による。
 弁護士の格差については、まず、弁護士になるまでに、大学やロースクールで高額な学費がかかる。そこで富の不平等が関係する。
 さらに、弁護士になった後に頭角を現すには、能力と意欲が必要である。その格差が、弁護士の格差をもたらす。

 競争社会では、与えられた課題を達成するために努力し、それが評価の対象となるという過程が繰り返される。
 学校では成績が評価基準になり、よい成績を獲得するために猛烈にがんばる学生が競争に勝つ。
 そのような学生が弁護士になれば、裁判での勝訴や依頼者の利益の実現をめざして猛烈にがんばる弁護士が有能な弁護士として評価される。
 企業では企業の利益の実現が評価基準になり、それを達成する社員が有能だと評価される。裁判官は、裁判所の中での評価(最高裁の評価)がすべてになりやすい。
 知的エリートは、自分が有能だと評価されるかどうかがすべてである。「無能である」という評価は、知的エリートには死の宣告に等しい。常に、評価されることをめざして、闘い、頑張ることが自己目的になりやすい。

 トランプの弁護士達が勝ち目のない裁判に、なぜそこまでこだわり頑張るのか・・・・・それは、金だけがめあてではなく、それが弁護士の習性になっているからだろう。弁護士は受任した以上、成果達成のために馬車馬のように走るほかないのだ。
 日本の弁護士も、程度の差はあるが、似たようなものだ。

 日本の官僚は政権や組織を守るために偽証でも何でもすることが当たり前になっている。命をかけて組織を守ることすらある。
 それはそれが彼らの習性だからであり、それ以外に思考経路がないからだ。小さい頃から、学校という閉鎖社会で評価目標の達成のために頑張るという習性が身についている。組織からの評価以外に自分の人生はないのだろう。
 これは、丸山真男が述べる、戦前の日本の政府・軍部の幹部たちの思考経路に似ている。

 競争は単線的な評価基準をもたらしやすい。単線的な評価基準で生きる人間は不幸だ。これがダメでもアレがある。アレが競争の対象ではないものであれば、人間は幸福感を持つことができる。
 弁護士の場合には、「世間から無能だと言われてもよいではないか。自分には○○がある」という弁護士は、世間の評価に関係なくマイペースで仕事をするだろう。しかし、多くの弁護士は、「有能」、「優秀」、「収入」、「有名」、「肩書」、「地位」などに弱い。
 多様で複眼的な価値基準が必要だ。もともと、生物には多様性という性質があり、人間も同じだ。


2020.11.23
観光旅行の分散化がなぜできないのか

旅行者の増加がコロナ感染を「拡大させる。
しかし、これは、休日や連休に観光客が集中することに問題がある。
観光客が平日に分散すれば問題はない。
そのためには、有給休暇をとりやすくすることや、休日を分散させることが必要だ。
休日を土・日ではなく、たとえば水・木にすることを嫌う人がいるが、何か恩典を付ければよい。休日を土・日以外にすることに協力する人は国が報奨金を支給するとか。
土・日以外の日が休日でも有給を自由にとれれば、それほど支障はない。
GO TOキャンペーンではなく、平日の料金を下げる旅行業者・宿泊施設などに国が報奨金を支給すればよい。
観光客の少ない観光地に報奨金を支払う制度もよいのではないか。さびれた観光地で観光客が増えたとしても、密集はしないだろう。さびれた観光地は観光資源がないわけではなく、単にブームから取り残されただけのことが多い。
山小屋は、休日に混雑するが、平日はすいている。平日登山者に恩典を与える国の政策があってもよい。
平日は料金が安いというのが、利用者にとって最大の恩典になるのではないか。平日の値引き分は国が補填すればよい。

有給休暇をとりやすくすること、休日の分散化には、国による指導が必要だ。
日本が得意とする行政指導という名の事実上の強制をすれば、企業は従うだろう。
それをすれば観光地の密集を避けられる。

企業の本社の地方移転についても、国が何等かの恩典を与えなければ、企業はそのようにしないだろう。
人間は得か損かで行動するものだ。GO TOキャンペーンをみれば、その点は歴然としている。


2020.11.22
トランプの裁判・・・・・選挙も裁判も儀式である
 アメリカ大統領選挙で、トランプは未だに選挙の不正を訴え、それを支持する日本人もけっこういるようだ。
 その前提として、選挙に不正があったかなかったが議論される。
 議論することは自由だが、選挙や裁判がルールに基づく儀式であることが忘れられている。

 選挙が無効だという証拠がなければ、手続は進行する。裁判も同じだ。裁判官が不正があったかなかったか真相を調べるわけではない。裁判所は選挙が無効だという証拠の有無を調べるだけだ。選挙が有効だという証拠は不要だ。無効だという証拠がなければ選挙は無効にならない。

 真相を調べなければものごとが進まないとすれば、社会が動かない。真相を調べている間に関係者が亡くなってしまうだろう。
 選挙ですべての投票者が有効投票したかどうかを調べなければならないとすれば、選挙制度は成り立たない。恐らく2016年の大統領選挙でも多少は不正投票があったはずだが、選挙結果に影響しなければそれらを調べることはしない。今回の選挙で、トランプ派の不正投票も少しはあったはずだが、問題にする意味がない。

 選挙も裁判も、正しいかどうかに関係なく、社会を円滑に統治(rule)するためのルール(rule)である。したがって、「不正があったかどうか」ではなく、「不正の証拠があったか」どうかを問題にすればよいし、それ以外に方法がない。

 裁判でしばしば、真相究明を求める人がいるが、それは無理だ。そういう人はどんな判決が出ても、真相が究明されていないとして、納得しない。請求認容の判決が出ても、「事故の原因が究明されなかった」と落胆する原告が少なくない。その人の中では事故の真相究明の作業が死ぬまで続くことになる。
 「選挙の不正があった」と考える人は、裁判で請求棄却になっても、裁判所は疑問に答えていないと感じるだろう。「不正の証拠がない」というだけでは、「不正がなかった」ことの証明にならないからだ。しかし、裁判所は、「不正がなかった」かどうかを調べることはしない。その人は、死ぬまで裁判所の判断に納得しないだろう。

 トランプを崇拝する日本のある作家が、「選挙に不正がなかった」ことの証明を要求していたが、裁判の仕組みや「悪魔の証明」を理解していない。

 離婚の裁判などでは、双方が自分の正当性を主張するが、たいてい裁判所はそれには答えない。裁判所は、法律と判例が定めるパターンにしたがって裁判を処理する。
 子供の親権の取り合いの裁判でも、裁判所はほとんど理由を述べずに、あるいは大した理由もなく親権者を決める。決定した内容について裁判所が責任を負うわけではない。それはほとんど儀式である。
 日本では、裁判に真相究明を求める人が多く、そういう人は裁判に失望することが多い。
 日本のマスコミも同じであり、判決が出る度に、「裁判で真相が解明されなかった」という記事を書くことが慣例になっている。ほとんどの新聞記者は裁判の仕組みを理解していない。

・この裁判はトランプとバイデンの間の争いではない。トランプ対アメリカ国家という構図である。
 トランプの支持者が原告となって市や州を被告にして裁判をしている。トランプの支持者の原告が、選挙制度が違憲だとしてアメリカ政府を被告にすれば、被告の実質的な代表者はトランプだという皮肉な形になる。形式的にはアメリカ政府の代表者は司法長官だろうが。
 トランプはアメリカの国家を相手に裁判をしているのである。
 トランプはアメリカの選挙制度を相手に裁判をしている。
 考えようによっては、2016年の大統領選挙も無効だったのかもしれない。2016年の大統領選挙の有効性は裁判所によって確認されていないので、今からでも選挙無効の裁判を起こすことが可能だ。その前の大統領選挙も無効だったのかもしれない・・・・と考え出せば切りがない。

 日米開戦を決定した御前会議の決定が無効だという裁判や、戦前の徴兵制度が無効だという裁判を起こす人はいない。裁判が儀式であり、社会的有用性や効率を考慮して、無駄なことをしても仕方がないからである。
 トランプの起こす裁判も、その意味で、法的には無駄なことだが政治的な意味がある。日米開戦を決定した御前会議の決定が無効だという裁判は突拍子もないが、開戦決定の無責任さを世論に訴える政治的意味はあるだろう。

 裁判がもたらす政治的効果を考えれば、あらゆる事象を裁判の対象にすることが可能だ。菅総理の総理選任手続が無効だという裁判すら可能だが、トランプ訴訟と同じく、提訴の1時間後に裁判所が訴状を却下するかもしれない。日本ではせいぜい翌日の却下か。アメリカと違って、その類の裁判を引き受ける弁護士は日本にはいないだろうが、マスコミに大うけすること間違いない。


2020.11.20
コロナ感染者数
アメリカの1日の感染者数は18万人以上であり、毎日約1100人が亡くなっている。アメリカに住む人は不幸だ。
ニュージーランドの1日の感染者数は、0〜3人程度。
政策次第でこのような違いがある。
「日本は大国なのでニュージーランドのようなロックダウンはできない」という意見があるが、国によって政策が異なるのは当たり前だ。頭を使って感染者数を抑える方法を考える必要がある。
日本は、感染者数が増える政策をとっているので、増えているだけのことだ。政策転換がなければ、今後も増え続けるだろう。
こんなことでは安心て暮らせないし、旅行にも行けない。都会の飲食店にも入れないし、宴会などとんでもない。


2020.11.20
日本国内のトランプ現象

 トランプは選挙無効の裁判をすることで、「選挙に不正があった」と大衆に信じこませ、それを利用して役所や議員に圧力かけ、選挙結果の確定を阻止しようとしている。言葉による威圧だけでなく、時には群衆が役所に押しかけ、武力行使や脅迫行為も使う。郡や市、州の公務員や議員がトランプ支持者の圧力に屈して職務を遂行できなくなれば、裁判所の判決が出なくても、大統領選任を阻止できると考えている。これは、大衆操作による圧力を利用した政権奪取であり、事実上のクーデターである。

アメリカで起きているこの騒動を、
「しょせん、アメリカのことだ」
「おもしろい」
「自分とは関係がない」
「日本は、アメリカでなくてよかった」
などと他人ごととして考えている日本人が多い。

 しかし、アメリカで起きることは、いずれ日本でも似たような状況が起きる。
 すでにその兆候がある。

・ネット民、評論家、政治家、作家などの中に熱烈なトランプ支持者がいる。ネットには「トランプ、がんばれ」という書き込みがけっこうある。

・インターネットツイートやマスメディアを利用した攻撃、威圧、脅迫が日本でも蔓延している。自分の意見を通すために相手を威圧するということ。ストーカーやDVの増加、人格障害者の増加はこれと関係がある。

・トランプ、プーチン、ベラルーシやブラジルの大統領など権力的な政治家が増えている。日本でも政権の意に沿わない官僚をクビにする。公務員は国民のための奉仕者であって政権への奉仕者ではない。

・日本でも他人への攻撃や実力行使によって利権を得ようとする傾向がある。
日本でも世論を巧妙に利用して圧力を加えれば、役所が職務を遂行できなくなる。芸能人、政治家、大学、企業、マスコミ、飲食店、旅館・ホテルなどは、世論から叩かれたらひとたまりもない。

・情報の偏向。「新聞やテレビニュースは政治的に偏っている」として、インターネットの書き込みしか見ない人がいる。新聞や本を読まない人がいる。偏った情報がもたらす影響は大きい。
 アメリカには「コロナウィルスは存在しない。これはデマだ」と信じる人がけっこういるらしい。彼らはコロナに感染しても、「コロナではない」と確信し続けるようだ。彼らは科学を信じない。
 トランプ支持者は、インターネットの書き込みしか信じない。彼らは、トランプが裁判で負け続けるのは、弁護士や裁判官への買収、脅迫、圧力によると信じている。戦争中の大本営発表しか信じなかった日本人やオウム信者などと同じだ。戦闘に負けても「勝った」と信じている。ネットを見れば、そんな若者がけっこういる。

・格差社会の影響。格差社会からはじき出された人には、ネットが唯一の居場所になりやすい。ネットの中で初めて自分の言いたいことが言え、支配者的な高揚感を味わえる。ネットは自己の存在確認の場所になりやすい。ネットの中では自分こそが主人公なのだ。
 また、他者への攻撃に快感を感じる人間は、自分が社会から受ける抑圧を他者への攻撃に転換しやすい。トランプ支持者の中には、知的エリートである民主党支持者に対する反感を持つ者が少なくない。ある共和党支持者は、「あいつら(民主党支持者のこと)は都会でたくさんの給料をもらっているんだ。我々はバカにされている」と述べていた。トランプ支持者に反学歴、反知性、反学問の傾向がある。「民主党は理想や理屈を言うだけで、我々のために何もしてくれない」という不満が鬱積している。これは日本でも同じだ。もともと共和党支持者は富裕層が多いが、彼らは必ずしも熱烈なトランプ支持者ではない。
 ネットで他人を攻撃することで快感を味わう者は、トランプが他者を攻撃するスタイルに似ている。トランプも小さい頃から他者(たぶん親だろう)からの抑圧の中で育ったのだ。彼らは、トランプと自分を同一視し、トランプが他人を攻撃する光景に快感を感じるのだ。 

・トランプは既成の制度を破壊する。民主主義や法治主義も破壊する。既存の体制で恵まれなかった人たちがそれを熱烈に支持する。
 人間が生きるには希望が必要だ。今の社会に絶望した者は、社会を打ち壊すものに惹かれる。トランプは今の社会をぶち壊してくれそうな期待を持たせる。それが不合理な期待であっても、今の社会の現実よりもマシではないかと考えるのだろう。そのようなトランプ支持者の熱狂は、トランプを失えばどこに向かうのか。


2020.11.18
トランプの裁判は面白いか・・・・・弁護士の日米比較

 トランプの弁護団の中心であるジュリアーニ弁護士が1日200万円の弁護料を要求したという報道があった1日というのは、「1回の裁判」の意味だろう。
 これがウソかホントかわからないが、トランプに高額な弁護士費用を要求したことは間違いないだろう。アメリカでこのような報道がなされても、アメリカ人はそれほど驚かないだろう。アメリカでは弁護士に金がかかることが当たり前なのだ。それだから、トランプが裁判費用として62億円を集めようとしても不自然ではない。もし、日本でこのようなことをすれば、世論から「弁護士にそんなに払うのはおかしい」という激しい非難を受けるだろう。

 裁判では、裁判官の質問に対し、ジュリアーニはわけのわからない答弁に終始した。ジュリアーニは裁判官から、「どの違憲審査基準を主張するのか」と尋ねられ、「フツーのやつです」と答えたらしい。これは傑作だ。笑える。ジュリアーニは弁護士として法廷に出るのは28年ぶりであり、その間に法律を忘れたのか、もともと裁判に勝てるとは思っていないので違憲審査基準など真剣に考えたことがないのだろう。

 もちろん、ジュリアーニは裁判に証拠を提出することはしない。証拠は大衆向けのものなので裁判官に見せるつもりがないか、あるいは、証拠はジュリアーニの頭の中にあり、ジュリアーニの頭をかち割らない限り取り出せないのか、証拠を出せば偽装がバレてしまうかのいずれかだろう。トランプのツイート自体が最大の証拠なのだ。
 ジュリアーニは、裁判の答弁の苦労、苦痛、恥ずかしさ、法律家の間で笑いものにされる屈辱の代償として1日200万円を要求したのかもしれない。ジュリアーニは高齢で「先がない」ので恐いものはなく、何でもできる。

 アメリカの弁護士にとって裁判はビジネスであり、金儲けの対象である。アメリカの弁護士が金のために何でもすること、平気で嘘をつくこと、弁護士が信用できないことは、アメリカ人の常識である。アメリカでは弁護士のイメージは非常に悪い。これは、日本の悪徳不動産業者のイメージに近い。
 ある州の裁判では、トランプ弁護団は80頁以上の訴状を出したらしい。勝ち目のない裁判ほど訴状が長くなるのだが、部外者はそれがわからない。量の多い訴状は依頼者向けの弁護士のパフォーマンスだ。裁判がすぐに却下されると弁護士は高額な弁護士費用をもらいにくい。それで書面の分量を水増しするのだ。書面の分量に応じて報酬をもらう弁護士もいる。通常、弁護士は内容のない長文を書くのが得意だ。

 ワイドショー的に言えば、裁判にジュリアーニが登場するだけで面白い。ジュリアーニの発言はすべて週刊誌ネタになる。 
 金のために何でもするアメリカの弁護士は、野次馬的にみれば「面白い」のだが、当のアメリカ人は自国の弁護士にウンザリしているのではないか。

 アメリカにもまともな弁護士はいる。大都会以外の地方で庶民の事件を扱う弁護士の平均年収(月収ではない)は500万円といわれている。アメリカの弁護士の格差は大きい。
 なぜ、アメリカの弁護士がそのようになってしまったのか。
 その理由は、かつて民主主義の模範とされたアメリカが格差社会の象徴となり、選挙で大統領を選ぶことすらスムーズにできなくなったことと関係がある。アメリカでは民主主義がうまく機能していない。

 他方、日本では、弁護士は、テレビドラマで正義の担い手として描かれ、日本では、選挙無効の裁判のほとんどが弁護士のボランティア活動で行われている。裁判経費は弁護士の持ち出しだ。

 しかし、近年、日本の弁護士制度はアメリカの制度を真似ているので、日本の弁護士がアメリカ的になりつつある。
 日本でも、「ビジネス=金儲けの対象」と割り切る弁護士が増えている。日本でも弁護士の格差が拡大している。
 日本でも、ジュリアーニのような弁護士がいる。企業や資産家の事件では、1件の裁判で何千万円もの弁護士報酬が生じる。これらの事件をめぐる弁護士の取り合いが激しい。
 最近、マスコミに登場する弁護士が増えているが、テレビの出演料だけでかなりの収入になる。今では日本に多くの弁護士がおり、テレビのバラエティ番組やワイドショーに出演する弁護士は、弁護士の憧憬の的だ。マスコミを賑わす「有名弁護士」になりたがる弁護士が多い。マスコミとインターネットを利用する新たな弁護士のビジネスが生まれている。彼らは、安い費用で庶民の事件を処理することがバカらしくなるだろう。


2020.11.16
トランプが起こす「大規模訴訟」・・・・裁判を利用する政治運動
 トランプは、近く、選挙が違憲、無効だという裁判を起こすらしい。
 日本でも、選挙が違憲、無効だという裁判は多く起こされており、選挙が違憲だと言う判決も少なくない。しかし、いずれも裁判所は選挙は無効ではないとしている。選挙が違憲だが、無効ではないという判決である。日本ではこれが判例の流れになっている。

 選挙が無効だという裁判を起こせば、大統領選任手続を阻止できると考える人がいるが、そうではない。裁判所が手続きの中止を命じない限り、手続きは中止されない。トランプの手続中止を求める裁判はすべて却下、棄却されている。
 あるいは、裁判の判決が出るまで選挙結果が確定しないと考える人がいるようだが、判決が出るまで行政手続きは進行し、それは有効である。選挙の違憲、無効訴訟が継続していても、州議会の確定ー選挙人の投票ー大統領就任が進行し、それらは有効である。裁判を経なくても、行政行為は有効である。裁判で無効とする判決が出て初めて行政行為が効力を失う。選挙の違憲、無効訴訟の審理は数年続くだろうから、日本的な裁判のやり方であればバイデンの任期が終わる頃に判決が出る。

 日本の違憲訴訟では、議員定数の不均衡が争点になり、違憲判決が出ているが、選挙を無効にしない。違憲だが無効ではないということ。ある社会学者は、裁判は社会を円滑に統治するための儀式だと述べている。数年後に選挙を無効とすることの社会的混乱を回避するために選挙を無効にしないのだと思われる。
 
 トランプの違憲訴訟で勝訴の見込みがあるとは思えないが、この訴訟は、裁判で勝つことをめざすのではなく、反バイデンの政治運動に裁判を利用するのだと思われる。ジョージア州での上院議員選挙のための戦術でもあるだろう。
 裁判を何年もやっている間、大衆は「裁判に勝てる」、「選挙は不正だ」と考え、裁判をすることが運動の精神的なよりどころになる。これは、従来の日本で反権力側が大衆運動の一環として行っていた方法である。
 かりに判決が出ても、「まだ、最高裁がある」と考え、最高裁で負けても、「最高裁は相手方に買収されたのだ」、「真実は神が知っている」と考えれば自分の考えを手正当化できる。確信犯に恐いものはない。


2020.11.14
トランプの訴訟の取り下げ

 トランプの起こした選挙が不正だという訴訟の取り下げが出始めた。
 これは、訴訟による引き延ばし戦術がうまくいかなくなったからだろう。

 トランプの起こした訴訟に勝訴の見込みがないことは、訴訟を起こす前から弁護士にはわかっていた。証拠があるかないかは訴訟を起こす前にわかっているからだ。弁護士は30分も話を聞けば、依頼者の「証拠」と称するものが、裁判所に通用する「証拠」かどうかすぐにわかる。
 弁護士は、証拠がなくても、訴訟に勝てる見込みがなくても、訴訟を起こす。弁護士が裁判の相手を困らせ、威圧するために訴訟を起こすことがある。大衆運動として訴訟を利用することがある。
 トランプは訴訟によって「選挙に不正があった」ということを国民に印象づけ、選挙結果の確定を阻止しようしたのだろう。この大衆への印象付けは、当初は少し効果があった。「バイデン当選確実」というマスコミ報道があっても、「裁判で選挙結果がひっくり返るかもしれない」と考えた人がけっこういる。トランプ支持者はトランプが訴訟を起こしたことで勢いづいた。
 しかし、裁判所はトランプの訴訟戦術に冷静に対処し、トランプの起こした訴訟を却下した。これは独裁国家、専制国家との違いだ。また、国民にも、すぐに証拠の偽装がバレた。証拠の偽装があまりにも幼稚過ぎたのだが、日華事変の盧溝橋事件やかつてのイラクの化学兵器伝説のようにもっと巧妙に仕組めばウソがバレなかったかもしれない。
 
 ヒトラーは言っている。「大衆は小さなウソには騙されないが、大きなウソには簡単に騙されるものだ」。トランプのウソが小さすぎたのかもしれない。

 トランプはあわてて選挙の不正の証拠を集めようとしたが、うまくいかなかった。不正選挙の証拠の申出に1億円の報償金を出す州もあったらしいが、この1億円の出所は税金ではないのか? 「存在しない証拠」を見つけるのは無理だ。
 アメリカ国民は、トランプが考えたほど扇動されやすい「未熟な大衆」ではなかったようだ。これは戦前の日本人との違いかもしれない。マッカーサーは、日本占領後に、「日本人はまるで12歳の子供ようだ」と言ったらしい。これは当時の多くの日本人が自律的に考えることができず、他人の指示で動く様子をさしていたようだ。

 弁護士が訴訟を取り下げる場合は、通常、依頼者との間で激しい対立や内紛がある。トランプと弁護団の間の確執は、アメリカの週刊誌やテレビのワイドショーの恰好のネタになるだろう。
 トランプの弁護士資金が底をつき始めたのではないか。あるいは、トランプから無能呼ばわりされた弁護士が腹を立てたのかもしれない。

 弁護士は、証拠がなくても、勝てる見込みがなくても、訴訟を起こすが、金をもらわなければ弁護士は訴訟を続けることはしない。
 トランプは裁判費用として62億円の献金を募ったが、金が集まっていないのだろう。トランプは今後、離婚慰藉料や財産分与の資金を工面しなければならず、多額の借金の返済もあるらしい。
 トランプの代理人弁護士がタダで訴訟を続けるとは思えない。トランプにとって訴訟はビジネスの一部だが、弁護士にとっても訴訟はビジネスである。トランプの代理人であることが、世論に「悪どい弁護士」のイメージを与えれば、さっさと辞任した方が得だ。


2020.11.12
アメリカ大統領選挙が意味するもの

 アメリカ社会の分断が言われる。
 トランプは、富裕層、保守層以外に、「恵まれない白人層」が支持していると言われる。白人以外でもトランプの経済政策を支持する労働者階層は一定数いる。
 社会的格差に対する不満は、トランプ支持とサンダース支持に回ったと言われている。そして、今回は、サンダース支持者の多くがバイデンに投票したと言われている。

 意見の違いや対立のあることは当たり前のことだが、対立の「激しさ」が問題なのだろう。

 歴代政権は格差を解消できず、むしろ格差が拡大しつつある。
 バイデンは「もっとも貧しい連邦議会議員」と呼ばれているが、それでも9億円の資産があり、トランプの資産は2500億円と言われている。
 トランプは格差解消に関心がなく、差別を容認したが、「国内の仕事を増やす」ことに努力したので、一定の経済効果があった。

 格差は昔からある。市場経済と競争社会では必ず格差が生じるが、インターネットなどのメディアの普及により国民が格差の実態を知りやすくなったこと、「格差はおかしい」という意識が強くなったことが今の状況をもたらしたのだろう。
 かつては大学の裏口入学や企業のコネ採用が当たり前であり、戦前は金のない者が大学に行けないのは当たり前だった。しかし、現在ではそれは不公平だと考える人が多い。そこには国民の意識の変化がある。

 日本でも、熱烈なトランプ支持者がかなりいる。彼らは、他国の大統領選挙であるにもかかわらず熱くトランプを応援する。それはネットへの書き込みに現れている。
 彼らはアメリカの選挙権がないにもかかわらず、なぜ、そんなに熱くなるのか。そこには日本の社会の格差が関係している。日本の社会に不満を感じる人がトランプを熱心に支持するのではないか。

 日本では、ほとんどの人がテレビドラマでしか裁判を知らない。日本では、真犯人捜しをする弁護士、大岡越前的な裁判のイメージが、今でも存在する。近代以前のイメージである。
 日本では、弁護士が裁判を起こせば、「それなりの根拠があって裁判を起こしたのだろう」と考える人が多い。
 しかし、証拠がなくても、アメリカの弁護士は平気で裁判を起こす。トランプの代理人弁護士は、「何万人もの死者が不正投票をした」として裁判を起こしたが、証拠を示すことができなかった。弁護士は裁判を起こす前に証拠の有無を知っていたはずだ。トランプの代理人弁護士の中で、訴訟で選挙結果を覆すことができると考えている者は誰もいないだろう。トランプの代理人を務めるローファ−ム所属の弁護士でも、個人的にトランプよりもバイデンの方への献金額の方が多いらしい。
 証拠がないにもかかわらず裁判を起こす弁護士は、日本では弁護士会の懲戒処分の対象になるが、アメリカでこれをすれば、ほとんどの弁護士が懲戒の対象になってしまい、収拾がつかないのだろう。

 日本では、弁護士に、まだ一定の信用があるが、アメリカでは弁護士は、「金のために何でもする」信用されない人種とみなされている。トランプは裁判費用として62億円の献金を要請したが、その大半は弁護士費用に使われる。

 トランプの裁判を引き受けるのはアメリカ全土に支店を持つローファームである。訴訟だらけのトランプは、弁護士にとって重要な顧客だ。トランプの顧問弁護士は、おそらく顧問料だけで年間数千万円にはなるだろう。ローファームの弁護士は企業関係の事件を中心に仕事をし、パートナー弁護士は何億円も稼ぐ。トランプが献金で集める62億円の大半がそこに流れる。彼らにとって、トランプが「どんどん裁判を起こし」、裁判所がすぐに裁判を棄却すれば、仕事の効率がよい。トランプが起こす裁判では、訴状に具体的な内容を書けないので、中身がスカスカの訴状をすぐに書けるだろう。そして、すぐに却下、棄却される。これほど効率のよい仕事はない。しかし、トランプから「何とかしろ」と言われることを我慢しなければならず、弁護士としては品のないつまらない仕事だ。たぶん、ローファームの給料制で雇用する新米弁護士にやらせるのだろう。給料制の弁護士は、トランプ訴訟のようなつまらない事件を我慢して多くこなさなければ、将来のパートナー弁護士に昇格できない。
 他方で、アメリカの地方の庶民の事件を扱う弁護士の年収の平均は500万円程度であり、アメリカの弁護士の格差が大きい。

 トランプ弁護団の中心はジュリアーニ元NY市長だが、彼はバイデンを認知症患者、精神障害者呼ばわりした。日本では弁護士がこのような侮辱的な発言をすれば、弁護士会から懲戒処分を受ける。しかし、アメリカでは弁護士は言いたい放題だ。アメリカは、他人への攻撃、侮辱、暴言、威圧、不寛容が当たり前の社会なのか。
 トランプの訴訟はアメリカの弁護士の信用を落とすことになるが、もともとアメリカの弁護士は信用がないので、今まで以上に信用が落ちることはないのかもしれない。
 トランプの訴訟戦術は、アメリカの弁護士の実態を露呈させる。

 アメリカの弁護士がそのようになったのは、野放しの競争の結果だ。競争が人間の欲望と醜さを表面化させる。ルソーは自然状態の人間を賛美したが、それは現実の人間ではない。自然状態の人間はホッブズが「リバイアサン」で述べる互いに争う人間像に近い。裸の競争は人間を野獣化させる。野生動物は獲物をめぐって常に争い、殺戮し合う。
 大統領が率先してそんなことをしているので、誰もがそれを見習うのは当たり前だ。小さい子供がトランプの真似をして、「トランプごっこ」をしかねない。トランプのような大人・・・・・平気で嘘を言い、相手を徹底的に攻撃する自己中心的な人間・・・・は小さな子供の習性だが、大人の場合にはこれは人格障害者に近い。それが増えるのを歓迎するのは、軍隊、テレビのバラエティ番組、そして弁護士くらいのものだ。弁護士がトランプ的人間を歓迎するのは、弁護士のよい顧客になるからである。ただし、それは資産家でなければならない。そして、実は、弁護士の中に、「平気で嘘を言い、相手を徹底的に攻撃する自己中心的な人間」がけっこういるのだ。少なくともアメリカには。トランプが弁護士をすれば、仕事が繁盛するだろう。

 ヨーロッパの弁護士は、国によって程度の差はあるだろうが、もう少しまともである。それは法律による規制によって競争をもっと穏やかなものに制限しているからだ。ロバート・ライシュが「最後の資本主義」で述べるように、競争を賢明に制限することが必要なのだ。それには叡智が必要だ。
 日本の弁護士はどうか。日本の弁護士もアメリカの弁護士に似て来つつある。
 
 アメリカでは、少しでも知性のある人は、弁護士の発言を、「どうせ弁護士の言うことは信用できない」と考えるだろう。しかし、アメリカでも訴訟や弁護士とは無縁の人たちは、裁判の仕組みなど何も知らないので、トランプの「不正の証拠がある」というツイートを見て、裁判に勝てると考えるのかもしれない。
 しかし、ヨーロッパ諸国や日本の政府は、「裁判でトランプが勝つ可能性はほとんどない」と考えている。「ほとんどない」ということは、可能性を無視してよいということである。トランプの訴訟戦術に付き合っていたら大変なことになる。

 トランプが、証拠がなくても「選挙の不正の疑いがある」、「不正の可能性がある」と言えば、大衆は敏感に反応し、「不正があったのかもしれない」と考えやすい。人間の自己中心性が「可能性がある」という言葉を自分の都合のよいように解釈させ、「できる」と確信する人が多い。その点を、あらゆる裁判を通して弁護士は経験している。「裁判に勝てる可能性が(たとえ1パーセントでも)ある」と言えば、裁判熱中症者は「裁判に勝てる」と考えるものだ。トランプはそれがよくわかったうえでツイートしている。
 しかし、裁判所は不正の疑いや可能性では動かない。裁判所は、トランプに限らず、誰もが裁判で根拠なく疑いや可能性を主張することにウンザリしているはずだ。

 現在、情報操作により、簡単に世論を動かせる。トランプはメディアの利用の仕方を本能的によく理解している。ヒトラーが言葉により大衆を動かす術を熟知していたことに似ている。トランプがツィートで、「○○を攻撃しろ」と言うだけで、すぐにそれを実行する人がいる。インターネットのフェイク情報が瞬時に数百万人単位で伝達されるために、それを信じる人が数パーセントでも効果があるのだろう。500万人の1パーセントは5万人であり、5万人が行動すれば大きな力になる。

 日本のトランプ支持者は、日本とアメリカのメディアが情報操作をして反トランプの情報を流していると考えるようだ。彼らは、新聞やテレビなどの情報は「偏向」していると考え、ツィートやインターネットの書き込みの方を信用する傾向がある。
 新聞やテレビは、ある程度情報を吟味したうえで報道するが、インターネットのツイートにはそれが一切なく、ありとあらゆる間違った情報が流れる。新聞やテレビがとりあげないフェイク情報がインターネットに溢れている。中には、「いずれ不正選挙でバイデンが逮捕されるはずだ」という情報まであり、現実にそれを信じる日本人がいる。それは宗教に近い確信である。

 もし、日本で、メディアや学者が言う情報を「偏向している」と考え、インターネットのツィートの情報だけを信用して行動する人が増えれば、どうなるだろうか。インターネットの情報を、「自分で考え、吟味する」ことがなければ、社会の危機を招き、個人のレベルでは人生を誤ることになる。間違った情報に基づくテロ、暴動、戦争、殺傷事件など。狂信的な確信に基づく行動を止めることは難しい。

 インターネット社会の情報操作と大衆心理の誘導・・・・・その危うさを感じないではいられない。
 

2020.11.9
アメリカで内乱が起きないことは当たり前のことではない
 今のところ、アメリカで内乱やクーデターは起きていない・・・・よかった。
 
 世界の中で、内乱やクーデターが起きないことは、当たり前のことではない。
 もし、アメリカがベラルーシのような国であれば、大統領が開票を途中で打ち切り、それを選挙結果として押し付けただろう。バイデンの逆転の前に開票を打ち切れば、逆転は起きていない。その後、暴動や内乱になり、警察・軍隊がそれを鎮圧すれば、クーデターと同じだ。
 警察・軍隊の出動は、内乱の鎮圧の名目であれば、日本でも合法である。
 アメリカでは誰もが武器を持っているので、いつでも武装蜂起が可能だ。トランプ支持の7000万人が武装蜂起したらどうなるか。警察や軍隊の中にもトランプ支持者は多いはずだ。
 アメリカの南北戦争は、選挙でリンカーンが大統領が選ばれたことを南部の州が認めなかったことがきっかけで起きた。当時、約60万人が戦死したが、人口比でいえばこれは現在の数百万人に匹敵する。太平洋戦争での日本の戦死者数は約300万人である。

 アメリカで、開票作業が途中で打ち切られなかったのは、アメリカが、「一応の」、あるいは、タテマエとしては、法治国家だからである。大統領と言えども、恣意的に開票を停止できない。世界の多くの国でー開票の途中での中止ー大統領の勝利宣言ーそれに抗議する市民のデモと暴動ー警察・軍隊による鎮圧というパターンがすぐに想像できるのだ。
 ただし、2000年の大統領選挙では、フロリダ州で再集計作業が暴徒の圧力で中止され、再集計の途中だったが、共和党の州務長官は共和党候補の勝利を確定させた。票差は537票だった。一応の法治国家というのは、そういう意味である。アメリカの法治主義は、かなり危ういところにある。

 本来、開票を停止するには裁判所の命令が必要だが、今回、裁判所はその申立を退けた。裁判所の判断は、開票作業の停止するだけの理由と証拠がなかったことに基づく。そこでは、法律と証拠に基づく判断がなされる。それが法治国家である。役人や裁判官が大統領の意向を忖度してそれに従うのではなく、あくまで法律に従うということ。
 独裁国家では、証拠があってもなくても、大統領が「選挙は不正だ」と言えば、開票作業が中止され、非常事態宣言、外出禁止命令などが出る。あるいは、独裁国家では、大統領が「選挙は不正だ」と言えば、裁判所が開票作業の中止命令を出すだろう。裁判官も政権に逆らえないからだ。
 また、政権を批判できるのは、表現の自由が保障されるからだ。世界の中では、政権を批判する者を、戦前の日本のように治安維持法違反で逮捕、投獄する国が多い。幸運なことに、アメリカには治安維持法がない。

 発展途上国であれば、今回のアメリカのような状況は、暴動、内乱、クーデターをもたらすだろう。世界の中では、政権側が強権的に反対派を弾圧する国の方が多い。中国や香港で行われている政治弾圧は、発展途上国では当たり前の事象である。そこでは、国家の安全や利益がからめば、それらを優先させることは「当たり前」である。彼らには国家の利益を損なう行動を取り締まることは「当たり前」なのだ。香港や中国の政治指導者は、発展途上国レベルの環境の中で育てられたので、彼らが行っていることは「当たり前」のことなのだ。むしろ、欧米の状況の方が特殊に見えるのだろう。価値観の多様性の重要性を理解するには、そのような経験が必要である。

 今後、アメリカで暴動や内乱、テロ、暗殺が起きないとは断言できない。アメリカの法治主義はかなり危うい。
 

2020.11.8
アメリカ大統領選挙をめぐる裁判
 トランプは選挙に関する多くの裁判を起こしている。

 裁判は、投票が違法だという証拠があればその1票が無効にされる。たとえば、投票用紙に記載された署名が筆跡鑑定で偽造されたことが証明されれば、その1票が無効になる。選挙が無効になるわけではない。
 郵便による不正投票は皆無ではないだろうが、投票所での投票でも不正は皆無ではない。巧妙に仕組めば、日本でも身代わり投票ができないことはない。日本では投票所で写真による本人確認をしていない。写真だけでは本人かどうかわかない場合がある。運転免許証の写真を偽造することも可能だ
 裁判で証拠を提出して投票を無効にすることは、簡単なことではない。
 役所ぐるみで不正投票が行われた・・・・・これは推理小説の材料にはなるが、そのような証拠はまったくない。

 「選挙で不正があった」と裁判で主張すれば、裁判所が調べてくれると考える人が多いがそうではない。裁判では、違法だと主張する側がその証拠を出さなければ、請求棄却になる。申し立てる側が調査して、証拠を提出する必要がある。
 たとえば、「死者が投票した」というのであれば、投票用紙の配布前に死亡したという死亡証明書を裁判所に提出する必要がある。投票用紙に記載後、投票用紙の投函前に亡くなる可能性があるので、死亡日時と消印の日時だけでは判断できない。
 死亡後に死亡届けを提出しなければ、生存しているものとして郵便投票用紙の不正請求が可能だ。また、郵便投票用紙の請求後に死亡した場合に、投票を偽装することも可能だが、これらに該当する人が限られるので大量の不正をすることは難しい。死亡届けを出している死者の数は多いが、役所が郵便投票用紙の発行時に生存の有無を確認するだろうから、役所ぐるみでなければ大量の不正ができないだろう。
 期日投票でも身代わり投票をする者がいるはずだが、数としては少ないだろう(後で、不正の証明が難しい)。「自分は投票していないのに、投票したことになっている」という申立がウソかホントかを裁判で審理すれば、1票の審理に1年くらいかかる。票が有効かどうかの裁判を1票ずつ何十万票分もやっていたら、100年かけても無理だろう。
 人を識別できない重度の認知症の人や重度の知的障害者の期日投票も、後で精神鑑定をすれば無効になるケースがあるだろうが、数が少ないので、それほど問題にされない。
 投票した時に泥酔していたので投票は無効だという申立はどうか。
 脅迫されて行った投票は有効か。
 筆跡を争えば裁判で筆跡鑑定が必要になる。1票分の鑑定費用10〜20万円は申立人の負担である。筆跡鑑定だけで、1、2か月かかるのではないか。
 数百票、数千票分の無効の証拠を出しても、選挙結果は変わらないだろう。
 仮に数万票分の投票の無効を裁判で争えば、裁判に何年もかかるので、裁判の間、大統領選任手続を進行させることになる。バイデンの任期終了後に判決が出ても無意味である。日本でも、何年もかかる選挙無効の裁判で、判決が無意味になる場面は多い。
 裁判を起こすだけで手続が中断されるとすれば、誰もがその手法をとってあらゆる手続きを妨害するだろうが、裁判所はそれを認めない。

 郵便投票はアメリカで以前から行われている。広大なアメリカでは、すべての人に投票所に行くことを強制することは、選挙の機会を奪うことになるのだろう。いつの消印まで受け付けるかは、日本であれば、裁判所は「役所の裁量の問題」として一蹴するだろう。「投票日までに必着」とすると、郵便事情の悪い州では選挙の権利を奪うことになりかねない。あるいは、集配人が故意に配達を遅らせる恐れがある。集配人を選挙管理人が監視するのは大変だ。そのため、一般に、「〇〇日までの消印有効」とする扱いがなされるのだろう。

 選挙後に投票方法を問題にして票を無効にすることは、役所の定めた方法で投票した人の投票の権利を奪うことになる。投票時は合法だった手続きを、後から遡って違法の扱いをすることはフェアーではない。ゲームやスポーツの試合のルールを試合後に変更して、勝敗を逆転させるようなものだ。事前にそのことを知っていれば、もっと早く投票をするか、期日投票をしたはずであり、その機会が奪われたことになる。

 アメリカの選挙制度は憲法違反だとか、1票の投票価値の不平等を問題にして選挙無効の裁判も可能だが、裁判の間、大統領選任手続は進行する。
 技術的なルールは、多少おかしなものでも、公平であればそれでよいという面がある。たとえば、ゲームやスポーツで同点の場合に籤で勝敗を決するとか。技術的なルールは妥協の産物として運用しやすい方法になることが多く、○○でなければならないというものではない。投票期間や郵便投票の方法などはそのような技術的なルールにすぎない。

 トランプが起こす裁判は証拠以前に、請求原因事実を満たさないのではないか。これは請求を根拠づける具体的な事実を訴状に記載することを意味する。漠然と不正があったと訴状に書くだけではダメなのだ。いつ、どこで、誰が、何をしたのかという記載が必要である。
 請求原因事実を訴状に書けないのに「裁判をしてくれ」と言われても弁護士は困るのだが、金のために引き受ける弁護士はいる。弁護士は、「氏名不詳者が、〇〇日頃、どこかで、〇〇したはずだ」などと空想力を働かせて作文するほかない。

 トランプ支持者は、インターネットなどにねつ造した情報をさかんに流したが、これらは役所、マスコミ、プロバイダなどに対する業務妨害罪になりうる。
 最初から「選挙結果はおかしい」という結論があり、その後で、「それに見合った証拠」を探している。「証拠があるはずだ」という思い込みが証拠のねつ造につながる。それは裁判ではよくあることだ。

 裁判で勝てる見込みがなくても、国民は、トランプが裁判を起こせば、「それなりの根拠があって裁判を起こしたのだろう」と考えやすい。大衆は政治家の言葉とパフォーマンスに簡単に騙されることを、ヒトラーが述べている。しかし、裁判所は証拠がなければ、早々に申立を棄却するだろう。証拠がない限り、裁判所は大統領選任手続の差止ができない。

 不正がまったくない選挙はありえない。たぶん、両陣営とも多少の不正は行っているだろうが、先進国では、大量の票を偽装することは難しい。独裁国家であれば、政権側の組織的な不正が可能だろうが、そのような国では、選挙をする意味がない。

 すべての票が有効かどうかを調べ出したら、たぶん10年かけてもできないだろう。期日投票をしたのが本人かどうかは後で調べようがない。したがって、身代わり投票をしたという明確な証拠がない限り、よしとするのである。期日投票では、身代わり投票の確率が低いから簡単な本人確認ですませている。厳密に言えば、DNA検査をしなければ、本人かどうかはわからない。DNA検査も100パーセントの精度はない。写真確認でも誤判断がありうる。郵便投票では、すべて筆跡鑑定をすれば莫大な費用がかかる。
 10年かけて調べても選挙結果が覆る可能性は極めて低いだろう。
 世の中に確率ゼロはありえないが、確率が低いことは「しない」ことで社会は動いている。コンピュータのような精度を要求しても、社会は動かない。法律のルールもそのような蓋然性で成り立っている。自然科学でも100パーセントの確率はありえないが、社会科学はもっと大雑把なのだ。人間自体が大雑把な存在なので、社会のシステムも多少の大雑把が必要である。

 選挙はある種の儀式であり、社会が「公正なもの」としてみなすかどうかが重要である。郵便投票の手続に問題があっても、トランプ支持者も郵便投票をしており、公平性に欠けるわけではない。すべての候補者に平等に機会が与えられれば、フェアな選挙と言える。
 裁判もある種の儀式であり、もともと裁判で真実などわかるはずがないが(真実は神のみぞ知るという考え方が裁判の前提)、裁判の結果が公正だと社会がみなせば、裁判はそれで通用する。
 
 裁判を長引かせ、選挙ではなく下院の議決で大統領を決める可能性があると言われているが、裁判所はそうならないように早く判断を下すだろう。まともな裁判官はトランプの戦術を容認しないだろう。
 日本では、ある会社が嫌がらせ目的で大量に手形訴訟を起こしたケースで、裁判所が「その会社の裁判を受理しない」扱いをしたことがある。アメリカでは、トランプが起こした裁判で裁判所が、「提訴の1時間後に却下」されたり、提訴後、数日で棄却されている。すぐに却下されることは弁護士にとって屈辱的なことだが、弁護士はそれがわかったうえで仕方なくトランプの指示に従ったのだろう。

 このような裁判を起こす弁護士は、日本では弁護士会の懲戒処分の対象になる。証拠がないにも関わらず裁判を起こすことは、弁護士は恥ずかしくてできないが、アメリカの弁護士はそうではないようだ。弁護士は「証拠はある」と言うのだろうが、証拠がないから裁判ですぐに却下、棄却されるのである。トランプ弁護団の記者会見でも、証拠は示されていない。「証拠はある」と言いながらそれを出さない人はけっこういるが、それは詐欺師に似ている。

 裁判でバイデンの当選が阻止される可能性はゼロではないが、極めて小さい。「可能性はゼロではない」と言うと、「そうなるかもしれない」と考える人が多い。「裁判に勝つ可能性はゼロではない」と言うと、「裁判に勝てる」と考える人が多い。これは、「自分が乗る飛行機が墜落する可能性はゼロではない」、「明日、自分がコロナに感染するかもしれない」と言うの同じで、あらゆることに可能性ゼロはありえないということである。可能性ゼロはありえないが、その確率が低ければ、ないものとして行動した方が賢明である。
 大統領を決めるのは裁判所ではなく、国民である。数百票程度の差であれば、裁判で無効票を争う意味があるが、州の選挙で何万票も差があれば、大量の不正が行われたという明白な証拠がない限り、裁判で争う意味にとぼしい。

 裁判所が手続停止決定をしない限り、大統領選任手続きは進行する。選挙に関する損害賠償や違法確認訴訟などは何年もかけてすることが可能だが、手続停止の効力はない。日本であれば、判決が出るのに4、5年かかることはザラだ。議員定数の不均衡を問題にする裁判などはその例だ。裁判所は、選挙を違法と判断しても、選挙を無効にしない。

 裁判を連発することで下院の議決に持ち込めることは、ありえないだろう。もし、これができるのであれば、今後、大統領選挙で不利な結果が出た時の落選者の常套手段になり、選挙制度が無意味になる。また、同様に、自治体や州政府の開票作業の中止、中断、サボタージュ、自治体の選挙ボイコット、公務員のストライキなどで選挙人の確定を妨害すれば、大統領の選任を下院での議決に持ち込むことが可能になる。南部の州が開票の途中で開票作業を中止していれば、バイデンの当選確実を阻止できたはずだ。そんなことをすれば、2回目の南北戦争になりかねない。投票所を武力で占領したり、放火、暗殺などでも、選挙人の確定を妨害できるが、世界には、そんな無法国家がけっこうある。

 州の選挙人が選挙の結果に反する投票をする可能性もある。選挙人のサボタージュだ。これは天皇が国会の指名した内閣総理大臣の任命を拒否するようなもので、任務懈怠や「悪用」を仮定すれば切りがない。
 トランプの手法は大統領選任手続の悪用である。アメリカの制度は、そこまでの悪用を想定していないという点で「欠陥」があるのだろう。

 他方で、トランプの代理人弁護士にとって、この裁判は金になる「おいしい仕事」だ。アメリカの「著名」弁護士は、日本の弁護士のように、1件30万円くらいのケチくさい費用で裁判を引き受けることはしない。高額な弁護士費用を要求するだろう。「証拠がなければ、証拠を考えろ」などとトランプから言われるストレスを考えれば、弁護士としてはその代償として数百万円をもらわなけれ割に合わない。
 かりに1件2000万円で200件の裁判を起こせば40億円かかる。トランプは裁判費用として62億円の献金要請をしたらしい。この金は献金する人にはドブに捨てるようなものだが、そのドブは「吸い取り紙」のような「弁護士の懐」である。
 トランプに、「どんどん裁判をやれ」と進言する弁護士はいるだろう。トランプの資金が続く限り、弁護士は「選挙は不正だ」と言い続けるが、トランプの資金がなくなれば、すぐに辞任するだろう。弁護士はもともと「現金な」ものだ。
 
 トランプは、元々多数の訴訟を抱えているとも言われており、トランプのような人間がアメリカの訴訟社会を支えているのだろう。バイデン側も数百人の弁護士を用意していると言われている。資産家の汚職、犯罪、セクハラ、パワハラ、離婚は、多額の報酬が弁護士に入るので弁護士は大歓迎だ。日本はアメリカを真似て弁護士の数を増やしたが、幸か不幸か、日本にはトランプのような人間はアメリカほど多くないので、弁護士の仕事が「足りない」のかもしれない。


2020.11.6
アメリカ大統領選挙と格差
 アメリカ大統領選挙では、アメリカ社会の格差が反映する。
 富裕層、事業者と低所得の白人労働者がトランプを支持しているらしい。高学歴の者や、黒人、アジア系、ヒスパニック系はバイデン支持が多いらしい。
 今の社会は知力が格差をもたらす。格差は貧富の差だけでなく、能力・資質の差がもたらすことが多い。貧しい家庭に育っても能力とがんばりがあれば、「勝ち組」になれるということだ。
 都会の高学齢者は安定した生活ができるが、白人のブルーカラー層は失業や生活不安の危険にさらされやすい。平和、国際協調、環境保護、人権、コロナ対策を言う前に、「生活費」をいかに稼ぐかに悩む人はそれどころではない。社会的格差が選挙の投票の構図に大きく影響する。

 従来から、貧富の差が格差をもたらすことが指摘されているが、人間の能力・資質の差も格差をもたらす。人間には生物的個体差があり、それが能力・資質の差をもたらす。トランプもバイデンもアメリカ社会の「勝ち組」である。バイデンは「典型的な中産家庭」で育ったと言われるが、中産家庭は裕福な階層を意味する。大学やロースクールに入れるだけの金はあったということだ。それだけでなく能力や資質が彼を議員にしたのだ。資産だけでなく、能力・資質が彼らを「勝ち組」にした。トランプとバイデンの資質の違いは対照的だが、どちらも能力、資質、がんばりが「社会的成功」や収入をもたらした。がんばるかどうかは資質による。

 「がんばったから成功した」こと自体に問題はない。がんばることは、もちろん大切なことだ。問題は、競争社会では必ず勝者と敗者が生じる点である。がんばっても、がんばった者同士の間で格差が生じる。
 生まれつき資産がなく、能力もなく、がんばることができない者は競争に負ける。それは当たり前のことだが、それでも、敗者復活の道や生活できることが必要である。誰でも、さまざまな理由から競争で負ける。
 理由があってもなくても、負けることがある。競争社会では負けた原因を探す人が多いが、競争のない社会では、敗因探しは必要ない。そこで敗因探しではなく、自分が何をやりたいかを考えればよい。
 怠ければ競争に負けるが、それは褒められることではない。しかし、誰でも、怠けたくなることがあるし、実際に誰でも少しだけがんばり、怠けるものだ。怠けることができない社会は苦痛だろう。多少は怠けても、それでも生活できる社会であることが必要である。全員が少しだけ怠けることを認め合う社会・・・・それは寛容な社会だ。
 怠けなくても、不運が重なれば競争に負ける。病気、離婚、倒産、災害、事故など。それでも生活できることが必要である。コロナも同じだ。
 私は、競争に勝つことよりも競争に負けることに関心がある。もともと競争が嫌いで苦手だからだ。もともとがんばることが嫌いな性分なのだ。

 競争に負けても生活が成り立つ社会であれば、競争が穏やかなものになる。「競争に負けても、敗者復活の道があり、生活も可能」な社会は、リスクへの挑戦や冒険が可能になる。研究者を志しても大学に残ることができなければ、生涯、不安定雇用しかない社会では、研究者を志す者が減る。プロ野球をめざしても、成功しなければ、あとは不安定雇用しか待っていない社会では、プロ野球をめざすこととなく、実業団野球に向かう者が増えるだろう。プロ野球をめざして失敗し球団から解雇されても、北欧のような国であれば生活が成り立つ。北欧では大学の学費が無料なので、意欲さえあれば大学に入りやすい。
 他方、アメリカでは、大学の学費が2000〜4000万円くらいかかるので、能力さえあれば学費免除の特待生で大学に入れるが、そうでなければ金がなければ大学に行けない(日本も同じ)。ハーバード大学の学費は年間約400万円である。私が大学に入った当時、国立大学の学費は年間5万円くらいだったが、その後、跳ね上がった。当時、学費値上げ反対のストライキをした。

 「失敗すれば後がない国」では、競争が過酷になる。日本や韓国の受験競争が悲惨なのはこのためだ。小学生から塾通い・・・・これは、日本、中国、韓国、シンガポールなどでは当たり前だが、世界の中では当たり前ではない。このような異常な現象は「悲惨」である。
 

2020.11.5
トランプ現象
 トランプには、反知性、反学問、反インテリ、反既成観念、反既成体制、過激な言動、攻撃性などの熱気がある。そこに惹かれる人が少なくないのだろう。日本でも、トランプはネット民や一部の評論家に非常に人気がある。
 他国の政治家がこれほどの人気があることは、実に不思議だ。かつての日本でのオバマ人気も不思議だった。政治に関心を持たない人にまで、オバマ人気が広がったのだ。オバマ饅頭まで製造された。まるでダイアナ人気やベッカム人気のような熱気があった。
 アメリカに既存体制に対する不満が渦巻いており、それがトランプ人気を支えているのではないか。トランプを支えるのは知性や理屈ではなく、熱狂である。ヒトラーに対する当時のドイツ国民の熱狂とは形態が違うが、似ている。トランプの言葉には、ヒトラーのアジテーションのような魔力がある。
 トランプはインターネットを巧妙に使う点で、ヒトラーとは異なる。
 トランプはメディアを通して大衆を扇動する方法を熟知している。今の大学生は、丸山真男を読んで考えるよりも、インターネットのフェイクニュースの方を影響しやすい。
 
 熱狂は、それ自体がすぐれたものを生み出すわけではない。熱狂は、中味があってもなくても、可能だ。熱狂自体に中味はない。熱狂は、内容の無さを感情が見えなくする。本当の愛好者は熱狂を必要としない。本当の愛着は、それを外部に表出する必要すらなく、自分の中で静かに愛着を楽しむことが可能だ。
 熱狂は、いずれは冷める。宴と同じだ。かつてのオバマ人気も今では冷めている。10年も20年も続く宴は、宴として感じられなくなるものだ。日常化した熱狂は刺激がなく、熱狂とはいえない。冷めたらもとに戻るだけで、何も残らない。宴の後はわびしい。

 そのようなトランプ支持者にとって、トランプはいてもいなくてもよい。トランプがいなければ、代わりのカリスマを見つけてくるだろう。彼らにとって自分らの熱狂を体現するリーダーであれば誰でもよい。宗教指導者でもよい。テロの指導者はだいたいこのタイプだ。日本でもこのようなカリスマを求める人が少なくない。ツイートで他人を激しく攻撃し、誹謗中傷する人は、たいていトランプ崇拝者だ。トランプのような暴力的な言動に共感を感じるのだろう。
 自分の意に沿わない他人を誹謗中傷し、攻撃することに快感を感じる人がいる。他人への攻撃性はある種の動物的本能である。それが社会に蔓延する状況をトランプ現象と呼ぶことができる。
 誰が大統領になるかよりも、このような熱狂を生み出す社会状況の方が、恐い。


2020.11.4
反知性主義の潮流
 トランプは、科学者の言うことを無視したコロナ対策をしてきた。
 ブラジルの大統領は、身体を鍛えていればコロナにかからないなどと述べた。
 トランプもブラジルの大統領も反知性の肉体派、動物派である。
 菅政権は、日本学術会議の会員任命を学者にまかせない方針をとっている。
 日本のコロナ対策は医学者の意見よりも、経済官僚の意見の方が重視されてきた。
 世界中でテロが起きている。テロは知性とは無縁だ。

 反知性主義が世界で蔓延している。 
 日本でも、昔から、実務では、「学者の言うことは役に立たない」、「学者は理屈を言うだけで、融通がきかない」という考えが支配してきた。
 会社では、昔から、文系の学問は役に立たないと言われていた。語学力は必要だがシェイクスピアを読んでも仕事に役立たない。
 一流大学では、昔から、文系の博士よりも体育会系の学生の方が就職で優遇された。学生時代に勉強をしなくても、頭さえよければ、運動部員は一流企業に就職できた。
 法律の知識は仕事に役立つが、憲法や法律学などは勉強しても仕事に役立たない。裁判では、学者の意見よりも裁判所の慣行の方が重視される。法律事務津では、深く考えずに判例や実務に従った方が仕事をしやすい。深く考えることは実務では「禁句」だ。

 アメリカでトランプを支持する人たちは、白人の低所得の労働者と富裕層が多い。彼らは知性派ではなく肉体派だ。
 インテリは民主党支持者や反トランプ派が多い。在日アメリカ人やアメリカの学生は民主党支持者が多いが、彼らは知性派である。そのため日本のマスコミに登場するアメリカ人は、たいてい反トランプ派である。
 アメリカでは、競争の勝者は、資産のある者と、能力・資質・がんばりのある人である。がんばるかどうかは資質の差が大きい。貧困でも能力さえあれば大リーグの選手になる。苦学しても能力さえあれば、大学教授、有名な芸能人、芸術家などになれる。格差は、資産と能力・資質の格差がもたらす。人間の能力のうち、知性がもたらす格差が大きい。ハイテク産業や証券会社では、サラリーマンが頭を使って何億円も稼ぐ。ITの普及はますます人間の知能の有無が格差をもたらす。アメリカでは年収1億円の大学教授や医師がいる。テレビの司会者やコメンテーターも億単位の収入がある。それらは知性の象徴だ。知性の有無が格差を拡大させる。

 このような競争社会の敗者は、知性に対する反感を持ちやすい。反知性は、反格差の意味を持つ。知性は、競争社会の敗者を助けてくれず、格差を拡大させるだけだ。知性にめぐまれなくても、筋肉や体力さえあれば、安楽な生活をもたらしてくれる政治家のイメージ、てっとり早く失業している自分に仕事を与えてくれる政治家が歓迎される。

 反知性は、理念や理屈を軽視し、「得か損か」を重視する傾向をもたらす。これは目先の利益にとらわれやすい。コロナ対策を無視して経済活動を推進すれば、目先の利益につながるが、コロナが蔓延すれば経済に大きな打撃を与える。
 長い目で大局を見極めるためには「考える」ことが大切であり、それは知性を意味する。考えることが知性なのだ。得か損かを考えるのは動物でもできる。人間は、考えることで人間たりうる。考えることで幸福を得ることができる。
 北欧やニュージランドなどでは、「考える」ことで試行錯誤し、さまざまな斬新な施策や改革を行ってきた。賢明な国では国民の幸福度が高い。
 北欧やニュージランドなどでは、厳しい自然との闘いやアウトドア活動が国民の「考える」能力を養ったのではないか。

 圧倒的多数でヒトラーを支持したドイツ国民は、考えることを放棄していた。熱狂は知性の敵である。
 戦争を支持した日本人の姿は、戦後のマッカーサーの言によれば、「まるで12歳の子供のよう」に見えたらしい。これは自分で何も考えず、判断できない当時の日本人の姿だったのだろう。
 インカ帝国が滅亡した当時のインカ人は、わずか数百人のスペイン人に抵抗することなく、羊のように支配者に従順だった。国王がこけたら何百万人ものインカ人は何もできなかったのだ。指示や命令に従うだけの「考えない」人間は、こうなる。


2020.11.2
大阪都構想の住民投票
 市民の意見が拮抗するような重大問題について、住民投票で決めるのは賢明な方法ではない。
 僅差で決まったとしても、半数近くの票はその反対票だからである。
 
 多数決で決めるべきこととそうではないことがある。多数決は最善の方法ではなく、それしか方法がない場合の最後の手段なのだ。選挙では、どうしても決めなければならず、どうしても結着をつけなければならない。しかし、行政上の施策は、どうしても緊急に多数決で決めなければならない問題ではない。
 大阪都構想は、以前も住民投票が行われており、一度は民意を問うている。今回、「どうしても住民投票で決めなければならない切迫した問題」だったとはいえない。もっと 時間をかけて議論すべき問題だったのではないか。
 行政が無理やり大阪都構想を押しつけようとしたと感じる市民が多かったのではないか。

 道府県は、国と市町村の間で中途半端な役割をしており、その役割に問題が多い。道府県は国の出先機関のような仕事を国から押し付けられることが多い。私は、弁護士になる前は広島県の職員をしていたが、国の下請事務をしているように感じていた。当時、「県には地方自治はない」と感じていた。
 道府県は会社の中間管理職のような仕事をしており、地方自治体としての独立性に欠ける。教育委員会などは文科省の出先機関のようだ。都道府県は実態は国の指示通りに動くが、うまくいかない場合には国は「都道府県の権限だ」と責任回避しやすいシステム・・・・都道府県制は国に都合のよいシステムなのだ。

 道府県の役割に問題があるが、それは道府県をなくすことではなく、システムの問題である。
 市立図書館の近くに県立図書館がある。市の施設と県の施設の共同利用ができない。ドイツでは市と裁判所が施設を共用しているが、日本ではできない。日本では、国と自治体の二重行政の弊害が無駄をもたらしている。日本では総務省と国土交通省の施設の共用すら容易ではない。独立行政法人になる前の国立大学が、裁判所の倉庫に眠っている用具を借りようとしたら、裁判所は最高裁にお伺いをしたうえで、「前例がない」、「貸出規定がない」として拒否したケースがある。国立大学は税金を使ってその用具を購入するほかない。

 廃校になった学校の校舎は民間人に貸し出せないので、放置される。これは、国の補助金で校舎を建設しており、民間人に貸し出すことは校舎として利用するという補助金目的に反するという点にあるらしい。国は、「民間人に貸し出すのであれば、補助金を返せ」と言うらしい。これは壊れたコンピューターが間違った計算を永遠に繰り返すことに似ている。市町村合併前に、駆け込み的に国の補助金を使って多くの校舎が新築された。数年後の市町村合併により学校を統合して廃校になり、民間人に貸せないので、仕方なく集会所に使ったりするが、使うのは、1、2か月に1回とか。
 山の中の歩道や公園を税金で整備しても、メンテナンスしないので数年で使えなくなる。木の橋や階段、東屋、ベンチ、手摺り、柵などは木に塗料を塗らないので数年で腐る。山に誰も利用しない立派な展望台や遊歩道を設置する。
 税金は日本中で無駄遣いされ、必要なところに税金が足りない。

 大阪「都」にするかどうかは国会が決めることであり、住民投票では決まらない。大阪市民にできることは、区の再編や、国への「大阪都構想」の要望である。
 大阪府民にできることは、大阪府内の市がすべて合併してひとつの自治体になるかどうかである。大阪府は面積が狭いので、拡大大阪市になることもできるだろうが、それだけでは中身の変化はなく、大阪が繁栄するわけではない。大阪の経済的停滞は別の原因がある。
 大阪「都」になれば税金や諸手数料が下がるわけではない。それはまったく別の問題。市営住宅よりも都営住宅の方が家賃が安いわけではない。
 大阪都は、役所にメリットがあっても市民にメリットがあるわけではない。
 大阪都構想で計100億円の税金を使ったらしい。日本学術会議の事務費10億円が高すぎるかどうか。これが会員の「既得権益」と言えるのか? アベノマスクは400億円。

 都道府県と市町村が対立すること自体は問題ではない。意見が違う中で、よりよい選択を模索して議論すればよい。
 問題は、制度上、道府県の権限が限られ、国の出先機関のようになっている点である。都になれば、権限が大きいということ。


2020.10.31
弁護士ドットコムの配信記事

「鬼滅の刃」伊之助コスにマタギがNO! 「猪マスク、山ではやめて。撃ってしまう」
https://www.bengo4.com/c_18/n_11927/

 これに私のコメントが載っている。

 なお、補足すれば、
 アメリカでは、私有地に「立入禁止」の看板が立っていれば、立ち入りが違法になる。そのような土地に進入すれば土地所有者から銃で撃たれることがあるらしい・・・・・恐ろしいことだ。
 日本では、土地所有者以外の者が「立入禁止」の表示をすることが多く、これは法的効力がない。たとえば、土地所有者ではない森林組合が立入禁止や、山の管理者ではない自治体や警察が登山道の通行禁止の表示をしても法的効力がなく、「お願い」でしかない。森林管理署の「国有林入禁止」の表示は国有地の立入禁止の法的効力がある。ただし、国有林内の登山道は通行可能。
 かつて、北海道では、「山に登るには営林署の許可が必要」と言われていた。北海道の山はほとんど国有地にある。
 「山に登るには営林署の許可が必要」・・・・これは今でも有効か。この点はあいまいだ。そのような運用が行われるルートもあるが、ほとんどの登山者はこれを無視して登っている。

 ヨーロッパでは、私有地であっても、法律でアクセスの権利が認められている国が多い。イギリスでは、もともとフットパスを通行する権利があったが、これが2000年法でアクセスの権利として拡大された(スコットランドでは2003年法)。そこには自然は国民全体の財産だという考え方があるが、日本にはそれがない。
 日本は、土地所有者の黙認によってアウトドア活動が可能になる「黙認制」の国である。

 狩猟も、登山と同じく、アウトドア活動の1形態である。狩猟は基本的にレジャーに分類される。生業として狩猟を行う人もいるが、それは登山ガイドが登山を生業とするの同じである。山菜取りなどもアウトドア活動、レジャーに分類される。
 狩猟者も、本来、山の所有者の許可を得る必要があるが、一部の土地所有者の同意を得ることはあっても、土地所有者全員の許可を得ることなく猟をすることが多いのではないか。法的には、全員の許可を得なければ、土地所有者の許可を得たことにならない。
 一般に、山の所有者を把握することは簡単ではない。住民に山の所有者を尋ねるだけでは正確ではない。法務局の公図と登記簿謄本を取り寄せて山の所有者を調べる必要があるが、公図は団子図であり、山の境界がわからない。山の所有者がたくさんいることが多い。共有地などでは、土地の相続人が数百人に及ぶことがある。
 区長などの代表者から許可を得る場合には、土地所有者全員から代表者への委任状が必要である。

 中には、昭和の初期にブラジルに移民した人などがおり、その子孫の住所をブラジルで調べるのは大変である。これは外務省に対し弁護士会照会という手続で行い、ブラジルの日本領事館で調べてもらう。それでも子孫が不明の場合には、裁判所に不在者財産管理人の選任の申立を行うほかない。
 登記簿記載の山の所有者が死亡していることが多く、相続人の調査が必要になる。これは弁護士に依頼するほかない。
 境界が不明になっている山があり、誰の山なのかかわからないことが多い。
 植林してある山は、所有者が明確なことが多いが、そのような山では猟はできない。銃弾が植林を傷つけることになるので。
 「山の所有者の許可を得ればよい」・・・・これは簡単にできることではない。
 山の所有者を調べるのに何か月もかかり、何十万円も費用をかけていたのでは、猟や登山どころではない。

 日本の社会では、政治、役所、学校、会社、地域などでものごとがあいまいに処理されることが多いが、法律は厳密さを要求する。そのため法律や法律家が嫌われる。
 学者も厳密さを要求するので、政治家は学問や学者を嫌う。


2020.10.30
伊藤健太郎のひき逃げ事件・・・・・私生活上の不祥事と仕事
 法律上、ひき逃げという罪はない。事故の報告義務違反、救護義務違反になるかどうかだ。すぐに事故現場に戻っていれば、これらに問われない場合が多い。
 自動車保険からの損害賠償が想定されるので、起訴されても執行猶予がつくことが多い。
 ひき逃げ事件は、見せしめのために逮捕するが、そうでなければ、交通事故では逮捕しないことが多い。日本では、警察が逮捕するかどうかは、世論の情緒的反応を見て政治的に決定される。逮捕状は裁判官が発行するが、裁判官は警察、検察官の言いなりだ。
 日本では、被疑者が罪を認めれば、勾留されないことが多い。逆に、否認すれば勾留され、なかなか保釈を認めないのが実態だ。それによって自白を強要するのである。

 事故や不倫などをすれば、なぜ、芸能活動を抹消するのか。
 本来、事故や不倫などの不祥事があると、私生活に関することであって、仕事上の不祥事ではない。
 日本では、仕事と私生活が分離あれていない。俳優は、24時間俳優であり、裁判官、公務員は24時間その地位が影響する。裁判官、公務員の勤務時間外に事故を起こせば、役所が処分する。裁判官、公務員の勤務時間外の不倫については、役所が処分しないこともあるが、マスコミが大きく取り上げれば処分する可能性もある。
 野球選手の不倫で選手が首になることはないが、オリンピック選手はクビになることがある。スポンサー契約の解除ということ。

 私生活に関してどこまで仕事上の制裁を受けるかまったく不透明だ。

 仕事と関係のない私生活に関することで、仕事上の契約を解除することは、社会的生産性を悪くする。
 過去の芸能作品の抹消がもたらす社会的損失は大きい。
 芸能活動を解除すれば、テレビ局などの損害が大きく、それを俳優に請求すれば、俳優の損害も大きい。
 社会的生産性は経済的合理性を意味する。いったん作成した芸能作品を廃棄することは、経済的に不合理である。
 日本の社会の情緒的な傾向が、社会の効率を悪くし、生産性を悪くする。

 日本の社会は、「得か損か」で動くが、そこに情緒が関係するのが日本の特徴だ。源氏物語以降、日本人の行動様式は、契約よりも情緒を重視する。情緒は経済的合理性に反することが多い。

 事故や不倫などで仕事上の制裁を課すことは、無駄である。
 事故は刑事処分や損害賠償で処理すれば足りる。不倫は、民亊上違法な場合と違法でない場合があるが、仕事とは関係がない。
 芸能人の不倫を問題にするのは、世論が騒ぐからだが、世論が不倫を冷めた目で見れば、問題は生じない。フランスでは、芸能人が不倫をしても、「あ、そう」で終わるだろう。トランプが不倫をしても政治生命が終わるわけではない。しかし、日本では政治家の不倫は政治的致命傷になる。
 不倫をしてはいけないというのは、もっぱら道徳の問題であって、法的には問題が多い。不倫が第三者の債権侵害になるかどうかがさかんに議論されている。また、破綻した夫婦関係のもとでは夫婦間で不倫は違法ではない。不倫をしても民事上違法ではないケースが増えつつある。いずれ、不倫による債権侵害が違法とされない時代が来るだろう。その方が社会的生産性が上がる。
 私生活と仕事を峻別することが、社会の生産性を上げ、国民の幸福度をあげることにつながる。
 
 日本でも、もっと無駄をなくすることを考え、楽に生産性をあげることを考えた方が賢明である。


2020.10.29
学問を軽視する日本の社会・・・・日本学術会議問題

 政府が日本学術会議の会員の任命拒否をしたのは、根底に、学問を軽視する体質があるからだ。
 政府は、政権にとって役立つ学問だけを利用したいのだ。政権にとって役立たない学問は排除する。これでは中国、香港、北朝鮮と同じであり、学問の発展はない。

 政府だけでなく、日本の企業も同じである。企業は、企業にとって役立たない学問を嫌う。日本で博士課程修了者の就職先が少ないのはそのためだ。博士課程修了者の就職先を確保する仕組みを国が作らなければ、問題を解決できないだろう。企業は自由競争で利益を追求するので、得か損かで行動するのは当然だが、役所も同じことをするのが問題なのだ。
 
 この点は裁判所も同じだ。裁判所は、裁判所にとって都合のよい学問を採用するが、憲法学者の言うことは裁判所は聞く耳を持たない。そもそも裁判官は憲法の本など読まない。日本の裁判官には、仕事上、憲法は必要ない。憲法は、裁判官、政治家、経営者、公務員にとって日本が先進国であるための「飾り」でしかない。憲法が大日本帝国憲法であったとしても、法律が今と同じであれば、裁判官、政治家、経営者、公務員の仕事は今と変わらないだろう。これらの仕事をするうえで、憲法は関係がないのだ。これは、考えてみれば、恐ろしいことだ。日本の法律の多くは、戦前と同じか、あるいは、戦前と連続性がある。

 国民の多くは学問に関心がない。国民に関心があるのは、〇〇賞の受賞とかマスコミが大きく取り上げる学問的成果である。「有名人」の学者に対する関心はあるが、各研究分野の業績者のほとんどは専門家の間では有名でも国民の間では無名である。テレビなどに登場する学者は「有名人」になる。大した業績のない学者でも、マスコミがとりあげ、政府が重用することで影響力を行使する。研究実績のない元官僚や学者でも大学の学長、最高裁判事、政府の要職、審議会委員などに就く。マスコミなどで学者が有名になれば。内容のない本でも売れる、金になる。

 国民は金につながる「勉強」に関心を持つが、金につながらない学問に関心を持たない。国民の多くが、「勉強は必要だが、学問は自分らの生活と関係ない」と思っている。学者が道楽で税金を使い、学者が裕福な暮らしをしているくらいにしか考えない国民もいる。
 日本の受験教育が多くの人に勉強コンプレックスをもたらし、それが学者に対する妬みや反感をもたらす面もあるだろう。学校での勉強が嫌いだった人にとって、日本の学校は刑務所のように勉強という罰を強制する場であり、学者はその勉強を嬉々としてこなす異人種なのだ。学者が妬みの対象になってもおかしくない。北欧のような学校制度であれば、これは生じないだろう。

 政府の行動はこのような国民の「学者に反発する心理」に支えられている。政治家自身がそのような社会環境の中で育っている。政治家が、毛沢東のような反インテリキャンペーンをすれば、多くの国民がそれに迎合する可能性がある。政治家が反学問キャンペーンをすることは恐ろしいことだ。
 学問が尊重される社会でなければ、学問は発展せず、社会が発展しない。北欧、ニュージーランド、スイス、ドイツなどでは、学問が尊重され、その成果が政治に取り入れられ、国民の幸福度が高い。北欧の教育政策は教育学の成果を取り入れている。日本では、大臣のほとんどがその分野の素人であり、多くの官僚が内心では大臣をバカにしている。それに対し、政治家は「仕返し」として官僚に対し威圧的人事を行う。

 日本学術会議の会員の任命拒否問題は、国民が「学問がなぜ必要なのか」を考えるよい機会だ。


2020.10.27
菅総理が考える「大学の偏り」とは何か
 日本学術会議の会員の任命拒否に関連して、菅総理は「大学に偏り」があると述べた。
 偏りがあるかどうかは基準の設定の仕方次第だ。
 研究者が述べる意見や見解には個性がある。個性の違いを偏りと見るかどうかは、見る人の価値観次第だ。自分の考えと一致しない意見を「偏っている」と感じる人がいる。
 政治家の価値観で学者の思想信条を査定することは、学問に対する政治的圧力になり、それが学問の発展を阻害する。それを歴史が示している。
 政治家が自分の考えに合う学者を重用すれば、学問が「偏る」。政治家は元々政治的に偏っている。偏りのない政治家は、政治的主張の欠如を意味し、政治家とは言えない。
 昔から、政治権力は学問を含めてあらゆるものを支配してきた。いつの時代でも、政治家は、自分の思い通りにならない学者、マスコミ、作家、音楽家、芸術家を憎み、迫害してきた。
 学問の自由は、政治権力からの圧力を排除することに意味がある。
 学問の自由や表現の自由は政治家にとって邪魔だが、それらは国民に必要なのだ。
 
 すぐれた政治家は、政権を批判する意見であっても、学問の自由や表現の自由の観点から尊重する。それが近代的な政治家の資質である。 菅総理はそれに欠け、権力の行使に「快感」を感じるようだ。それは、トランプや、ベラルーシ、カザフスタン、中国、ロシアなどの大統領にみられる傾向と同じだ。権力志向の政治家は、発展途上国では、国民のレベルに応じて独裁者になりやすい。独裁者は、国民の一部ないし多数がそれを支持するから生まれるのだ。戦前の日本の政治体制は、それを支持する国民がいたから成り立ったのである。ナチスは、ドイツ国民の熱烈な支持によって生まれ、ユダヤ人を差別するヨーロッパ人の存在がヒトラーのユダヤ人虐殺を支えた。

 日本学術会議の会員の任命拒否と官僚人事の任命拒否は問題の性格が異なる。
前者は学問と政治の関係であるが、後者は、公務員の公平性、中立性の問題である。公務員は国民のために仕事をするのであって、政治の道具になってはいけない。


2020.10.17
福島原発事故汚染水の海洋投棄・・・・・毒でも薄めれば安全になるか?
 
これについて、水で薄めれば影響が少ないとして、海洋投棄するようだ。汚染水をこれ以上保管するのは無理なので、海に捨てるらしい。
 水で薄めれば影響が少ない・・・・バカげた議論だ。どんな猛毒でも希釈すれば実害が少ないことは当たり前だ。

 しかし、問題は、放射線物質の総量である。福島原発事故の汚染水の量が膨大なので、海洋投棄する放射線物質の量の膨大である。
 希釈したトリチウムを人が飲んでも実害はないと言われている。しかし、それを毎日、大量に飲み続ければ、その人は死ぬだろう。
 大量の水で薄めたヒ素が体内に入っても人体に影響はないだろうが、その水を毎日、大量に飲み続ければその人は死ぬ。体内にヒ素が蓄積されるからだ。体内のヒ素の総量が問題なのだ。
 地球環境でも、汚染物質の総量が重要である。福島原発で海洋投棄す汚染水の放射線物質の総量が膨大なことが問題なのだ。
 
 野山に降り注いだ放射線物質は、雨とともに海洋に流れ続けている。その総量は膨大だろう。
 原発事故は、地球環境に対し、取り返しがつかない影響をもたらす。


2020.10.16
日本学術会議会員の任命をめぐる議論の混乱
 
日本学術会議の会員の任命をめぐり、さまざまな意見が出ている。まさに議論が百花繚乱、議論噴出、誰もが言いたい放題だ。
 誰もが言いたいことを言うのは自由だが、勘違い、間違い、独断が多い。

 「任命権は内閣にあり、任命の拒否は違法ではない」、「人事の理由を言う必要はない。人事はそういうものだ」、「総理大臣がすべての資料を見れるはずがない。部下が人事を決めることは当たり前」、「税金を使う公務員の任命は国民が納得するものでなければならない」などの意見があるが、議論の混乱が多い。

 ここでは日本学術会議の性格、学術会議法の趣旨とその解釈、学問の自由、学問と政治のあり方などが議論の基準になる。
 学術会議法は、日本学術会議が「科学の分野において優れた研究又は業績がある会員をもつて組織」され、独立して職務を行うとしている。定員210名が法律に明記されており、210名に足りない会員数は違法である。
 独立は、あらゆるものからの独立を意味し、政府や政治からの独立性が求められる。内閣が会員を自由に任命したり、自由に任命を拒否すれば、学術会議の独立性が失われる。
 また、日本学術会議は、「科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命」とし、あくまで学術の進歩のための組織である。政策決定のための審議会や政府を補佐する機関ではない。

 一般の公務員や企業での人事、任命や一般の行政上の扱いと同じように日本学術会議の人事を考えることは間違いである。これを「役所の人事」と同視するのはナンセンスである。
 「税金を使う公務員は・・・・・」などの乱雑な意見でいけば、税金から給料をもらう裁判官の人事に内閣が介入することになりかねない。国立大学に税金が使われるが、内閣が大学の個々の教授任命に関与してよいということにはならない。税金を使う場合でも、その独立性を保障すべき場面では、政治の介入ができない。政府が大学の活動に干渉すれば、学問の自由が侵害されるので、大学の自治が必要になる。戦前は、政府や軍部が大学の学問の内容に干渉した歴史がある。大学の人事への介入は、学問内容への干渉の手段のひとつだ。教授の人事を政府が決めれば、政府の意向に沿った研究しかできなくなる。
 戦前は裁判官も政治に協力した。「裁判官は税金で生活し、日本国民としての義務があるので、戦争に協力するのは当然だ」という意見があっただろう。この点はナチス時代のドイツでも、現在の北朝鮮・中国でも同じである。北朝鮮の裁判官は政府の意向に従って簡単に死刑判決を出すのではないか。これは処刑と呼ばれるが、日本も大逆事件の被告人などを裁判を経て処刑したのであり、今の北朝鮮と大差ない。当時の日本国民は処刑を容認した。ナチスのユダヤ人隔離政策を当時のドイツ国民は歓迎した。
 「税金を使う日本学術会議会員の任命は政府が納得するものでなければならない」というのが政府のホンネなのだろうが、これは間違いである。

 理屈上は、会員候補者が「科学の分野において優れた研究又は業績がある会員」ではないという理由から内閣が任命を拒否する場合がありうるが、学問的な研究、業績の有無を専門家ではない総理大臣が判断するのは無理だろう。研究実績のない素人をコネや人脈を通して日本学術会議の会員に推薦したような極端な場合には、内閣が任命を拒否できるが、その場合には、「科学の分野において優れた研究又は業績」がない点を具体的に説明する必要がある。

 このごとを判断する基準なしに好き勝手に言いたいとを言えば、議論が混迷に陥る。


2020.10.16
zoomでの講演
zoomを使って初めて講演を行った。テーマは、「登山道の維持管理の現状と課題」
パソコン画面に向かって話をしているとと、ひとりでただしゃべっているような感じがし、ひとりごとを言っているような錯覚に陥る。独り芝居のような感覚。聞いている人の反応がわからない。
どうも奇妙だ。
対話、会議、議論であればまだしも、講演はともすれば一方通行になりがちだが、パソコン通信ではそれが加速されるのだ。
工夫が必要なのだろう。


2020.10.15

メンタルの重要性
 
広島のピッチャーの遠藤が、打たれた試合の後で、「打たれることを怖がる自分がいる」と語っていた・・・・自己分析は大切なことだ。

 広島の選手のメンタル面の弱さを感じることが多い。広島の投手はピンチに弱い選手が多い。ただし、森下などはメンタルが強いようだ。
 ピンチに四球を出し、打たれやすい。バッターはチャンスで犠牲フライを打てず、バントを失敗する。ピンチによくエラーをする。チャンス以外の場面ではヒットを打てるが、チャンスに打てないバッター。たぶん、プレッシャーに弱いのだろう。好投していても突然崩れ、歯止めがきかない。ピンチに頭の中が真っ白になる投手。ピンチやチャンス以外の場面では、リラックスして力を発揮できるが、ピンチやチャンスに力んで実力を発揮できないなど・・・・・・
 他方で、どのスポーツでも大舞台で自分の能力以上のものを発揮する選手がいる。

 メンタルは先天的なものが影響する。おそらく広島はドラフト選択で選手のメンタル面を軽視しているのだろう。
 苦労した選手はメンタルが強い・・・・・ということはない。野球エリートはメンタルが弱い・・・・ということもない。要するに、メンタル面は個人差が大きいのであって、苦労の有無とは関係がない。
 他のスポーツではメンタルトレーニングを重視している。メンタルトレーニングは科学的トレーニングの一部である。

 登山ではメンタル面が重要だ。
 クライミングは、「落ちることを怖がる」と登れなくなる。スポーツクライミングでは落ちることに慣れることが上達の出発点だ。
 他方、アルパインクライミングではトップは絶対に落ちてはならない。ロープを使っていても、フォールは致命傷になりかねない。
 岩壁で行き詰まった時などに、突然、落ちるのではないかという恐怖に襲われることがある。自然に足が震えだす。そういう時は、「自分は絶対に落ちない」、「今まで何十回もこのような場面を切り抜けてきたではないか」、「もっと考えろ。必ず解決方法があるはずだ」と自分に言いきかせる。そうすると気持ちが落ち着き、自然に岩壁の解決方法が見えてくる。アルパインクライミングはその繰り返しだ。アルパインクライミングは、困難への直面ーその解決という過程を楽しむ行動形態である。それを楽しめない人はアルパインクライミングをしない方がよい。
 遭難時には、誰でもパニックになりやすい。危機に瀕した時、いかに冷静でいられるか。それがすべてだ。

 学校の試験でも「自分は絶対に受かる」と自分に言い聞かせることが大切だ。
 この点は、あらゆる仕事に共通する。すぐれた仕事をするにはメンタル面が大切だ。
 ある女優は、何かを失敗した時に、「まあ、いいか、別に死ぬわけじゃないし・・・」と考えると言っていた。これもメンタルのコントロールの一種だ。登山では、死ぬことがあるので、こうはいかないが。
 野球選手の場合には、ピンチで闘争心がモノを言うのだろう。
 競争社会では闘争心の有無が勝敗に影響する場面が多い。

 かつての弁護士は司法試験という厳しい競争試験を勝ち抜いてきたので、メンタルの強い人が多かった。メンタルが強くなければ、合格の保証のない環境で何年も浪人することはできない。しかし、法科大学院ができてからは、司法試験は「順調に勉強すれば受かる試験」になったので、必ずしもそうではないようだ。
 私は、メンタルが弱いので、役所に就職して司法試験を受けた。私は、「就職」という逃げ道を作っておいたのだ。これはメンタルが弱かったからだ。弁護士になったこともひとつの「逃げ道」だった。生活の保証のない状況で自分のやりたいことをするだけの度胸がなかったということ。闘争心はゼロ。皆と同じことができない。企業や役所では昇進レースのスタート地点で、ゴールとは逆向きに走りたくて仕方がないような性分なのだ。
 人間は、精神と感情の動物だ。メンタルの強さも、「能力」の一部であり、競争社会ではメンタル面の差が格差をもたらす。
 
 では、先天的にメンタルの弱い者は「負け組」になるほかないのか。闘争心のない者は競争社会で負けるほかないのか。
 そうではない。科学的なメンタルトレーニングがある。
 トレーニングの効果は個人差が大きく、トレーニングをしてもあまり成果の出ない人もいる。全員にガンバレと言ってもがんばることができない者が、必ず、いる。
 
 そこで、メンタルが弱くても、それでも対処する考え方が必要である。すべての人がメンタルが強くなることはありえない。競争社会では、個人のメンタルの格差が必ず社会的格差をもたらす。
 他人の真似をして、すべての人がメンタルが強くなる必要はない。
 弱い者でも生きていける。メンタルが弱くても、自分なりの工夫をればよい。野球のピッチャーで言えば、自分で工夫して、メンタルが弱くてもそれなりに対処することは可能だろう。かつてノミの心臓と呼ばれた投手でも、大投手になった選手がいくらでもいる。それはノミの心臓が強心臓に変わったからではなく、それなりに工夫をしたということだろう。その方法は一人一人異なり、一般的な方法はない。

 私は、メンタルが弱いので、常に逃げ道を作ったうえで行動してきた。自分ががんばる自信がないので、事前にがんばれない場合に備えておくのだ。そして、少しだけがんばることができる。
 失敗をした場合の逃げ道があれば、安心して挑戦できる。それもひとつの方法だ。
 ヨーロッパの賢明な国では、競争の敗者に対する逃げ道や敗者復活ルートを行政が作っており、これが若者のさまざまな挑戦を可能とする。 日本では、失敗した場合のリスクが大きいので、安全志向の傾向が生じやすい。

 登山でいえば、私は完全にエスケープの不可能な登山をしない。どこかに逃げ道を確保したうえで登山をする。登山の前には、たとえ低山でのハイキングであっても、いろんなことを考え過ぎて恐くなる。他の登山者がいない山で、もし動けなくなったらどうしようかなどと考える。それで慎重に準備をする。
 そのうえで、時々、独りで数時間、散歩代わりに、家の近くの道のない低山をうろつきまわったりする。熊は稀にしか出没しないが、熊よけの鈴をつける。地図と磁石だけで道のない山を歩くが、2時間もあれば、十分、地図と磁石で楽しめる。一種のオリエンテーリング遊びである。
 非常用にGPSを持っているが、スマホにもGPS機能がある。非常用のGPSが2台あることになる。コンパスは、紛失に備えて必ず複数個持つ。ココヘリの発信機を持参する。役所への登山届け出はしないが、家族には行き先を伝えておく。登山道のない400mくらいの低山の登山届を市役所や警察に提出すれば、役所は前例がないので驚き、その扱いに困るだろう。400mくらいの低山で山仕事をする人は絶対に登山届を提出しない。
 どの分野でもあえて逃げ道のない状況に自分を追い込み、それで大きな力を発揮する人がいるが、それは「強い人」だ。私にはそれはできない。


2020.10.13
公務員の政治的中立性
 政治家は政治的に中立ではないが、公務員は政治的に中立でなければならない。
 官僚が、日本学術会議の会員候補者を政府の方針に反するかどうかで選別することは、公務員の中立性に反する。
 しかし、現状は、官邸の気に入る者だけを役所の幹部に据えれば、官僚が政権の意向を「忖度する」ようになる。それが実態だろう。幹部の官僚は政治的に中立ではない。
 官僚人事を官邸が握るとこうなる。それは国民の利益に反し、違法である。


2020.10.10
弁護士ドットコムの配信記事・・・・・・「ガスマスクが入浴マナー!? グーグルアースで探す「史上一番風呂」、道なき道を山奥へ
https://www.bengo4.com/c_18/n_11822/

 これに私のコメントが載っている。


2020.10.10
菅総理大臣の日本学術会議会員の任命拒否は政治的に失敗

 学者を敵に回したことは政治的に失敗だろう。
 政治家は、理屈よりも世論や利害で動くが、学者は理屈で動く。政治的なことを嫌う保守的な学者でも政治家の介入を嫌う。

 通常、学者の発言は国民に対する影響力が低い。国民が学者に関心を持つのは、ノーベル賞受賞の時、画期的なものを発明した時、学者がテレビに登場した時くらいで、学者は国民に対する影響力を持たない。著名な学者でも国民にはたいてい無名である。
 学者の発言は、マスコミがとりあげない限り、国民が知ることはない。学者が本を書いても、多くの国民は難しい専門的な本を読まない。
 日本学術会議が政府に答申を出しても、国民はそれを知ることはなく、関心を持たない。

 国民にとって、芸能人、スマホ、ゲームなどは必要だが、学者がいなければ困ると考えている国民はそれほど多くない。
 「学者はエラそうで気に入らない」と考える一部の国民。背景に格差社会と受験教育が関係している。日本学術会議の会員は競争社会の「勝ち組」であり、エラそうな学者を叩く政治家や評論家が大衆から受けやすい。学問が本当に国民に役立っていると国民が実感できる場面は少ない。しかし、そのように日本学術会議を叩く政治家や評論家も「勝ち組」である。「社会の負け組」にはそのような力はない。


 従来大衆に無名の日本学術会議が今回の件で一気に国民に対して有名になり、学者の発言をマスコミがとりあげるようになった。
 ただし、学者からいくら批判を受けてもそれを無視すれば、いずれ国民はすぐに忘れるだろうというのが、政府の作戦なのだろう。


2020.10.9
総理大臣が日本学術会議の候補者名簿を見ていなかったという弁解

 推薦された日本学術会議の会員候補者6人の任命を拒否した事件について、菅総理は、6人が除外された名簿しか見ていないと述べた。
 これは冗談みたいな話だ。子供の言いわけのようだ。
 
 6人を名簿から除外したのが首相ではなく、官僚であることを言いたいのかもしれない。しかし、総理は、「名簿は見ていないが、口頭で説明を聞いた」のかもしれない。「見ていない」、「聞いていない」などというのは、子供の言い訳だ。決済文書に総理の印鑑が押してあるので、知っていたかどうかに関係なく、任命の最終的な責任は総理大臣にある。聞いていないのに任命をしたというのは・・・・・官僚の遣いやロボットか?

 日本の政治家はこのレベルの詭弁を平然として言う。「皆で協議した」とか、「何となく雰囲気で決まった」という責任回避も多い。決済文書があれば、早々に廃棄する。
 問題は、6人の任命拒否を誰が決定したのかという点だ。内閣が任命するということは、任命の責任者は菅総理にある。

 日本では、「決めたのは自分ではない」という責任回避が、実に多い。
 森友、加計学園、花見の会と同じく、誰が決めたのかをあいまいにする。日本では、ものごとは誰も決めないまま進んでいくのだ。戦争も同じ。アメリカとの戦争も誰が決めたのか、いまだにあいまいだ。「開戦は、何となく雰囲気で決まったのでございます」という答弁が多かった。
 6人の任命拒否を決定したのは誰か。恐らく誰もが「自分ではない」と言うのだろう。

 欧米では、・・・たとえばトランプなどは・・・・「気に入らないから任命を拒否した。何が悪いのか。自分は正しい」と居直るだろう。そこで大激論になる。常に大統領が論争している。しかし、日本では、「決めたのは自分ではない」と「いう理由で非難をかわそうとする。まさに、陰湿、陰険、姑息という言葉が当てはまる。
 日本では、「誰が決めたのか不明。いつの間にかものごとが決まった。責任者不明」という形であいあいにし、逃げるのが常套手段だ。

 不都合なことを無視するテクニック・・・・・これは学校のテストと受験勉強で養われる。よくわからないことには触れないことが、ミスを冒さない方法・・・・・これはが受験のテクニックだ。政治家の能力として、うまく答弁できるかどうかが重視される。「答弁の安定性」では国は発展しない。政策の中身が問題なのだ
 司法試験でも、「よくわからないことは書かない」ことが鉄則だ。受験テクニックはゴマカシのテクニックでもある。判決文でもこの傾向がみられる。若い裁判官の判決文は、「難しい問題は避けて書かない」傾向がある。長々と巧みに書いてあるが、重要なことは何も書いていない判決文が多い。私は、それらを見ると(読むのではない)、思わず司法試験の無難な答案を思い出してしまう。


2020.10.8
学問と政治的偏向
 「日本学術会議は政治的に偏向している」と言う政治家がいる。学者の中に、安保法制を批判し、菅政権を批判する人がいる。それらを見て、「学者が政治的なことに加担している」と感じる人や、「学者は政治に関わるべきではない」と考える人がいる。

 ここで重要なことは仕事とプライベートの区別である。
 学者、公務員、教師、医師、裁判官、弁護士、会社員の誰でも思想信条、価値観、政治的意見を持っている。それを否定することは透明人間の生物を仮定するようなもので不気味な思想だ。
 誰でも仕事を離れたプライベートの時間があり(ただし、日本ではこれがない)、プライベートに政治的な発言をすることができる。
 学者、公務員、教師、医師、裁判官、弁護士、会社員の誰でも思想信条に基づいて、政治的な意見を述べ、選挙の投票行動をすることができる。
 しかし、プライベートの政治的見解によって仕事が曲げられることはあってはならない。
 店の店員が、客の政治的立場に応じて売ったり売らなかったりすれば大問題だ。
 科学者が自分の政治的見解に基づいて実験データを変えれば大問題だ。
 通常は、政治的見解が学問内容に「影響することはない。学問は学問、政治的意見は政治的意見として区別される。

 仕事とプラーベートの意見は別、というのが近代市民社会の当然の前提である。この公私の区別に基づいて、ドイツでは公務員が議員と兼職し、裁判官が政党の役員になり、プライベートの時間にデモに参加する。フランスでは警察官がデモをする。欧米の裁判官は仕事を離れた研究会で自分の意見を自由に述べる。
 しかし、日本では仕事とプラーベートの時間が区別されない。公務員は仕事が終わっても政治活動が制限され、24時間公務員である。裁判官は勤務時間外でも発言を制限される。安保法制を批判し、菅政権を批判する学者は、学問的な仕事としてそれを行っているわけではなく、それは仕事を離れた行動である。しかし、日本ではプラーベートな時間が理解されないので、学者のプライベートの政治的な発言を、政治家と国民は「学問的な発言」と混同する。
 私的な時間の存在は民主主義の前提である、とハンナ・アーレントは述べている。
 民主主義はプライベートの時間に実現できる。仕事中は表現の自由や学問、思想信条の自由が十分に保証できない場面が多い。
 日本には私的な時間の保障がない。日本では、仕事は24時間その人を縛る。裁判官は24時間裁判官としての行動を要求され、ツイッターで冗談も言えない。裁判官が、私的な宴会の場で冗談のひとつでも言えば、それをマスコミが記事にすると、懲戒処分を受けかねない。トヨタの社員は24時間トヨタマンであり、勤務時間外に交通事故を起こせば、懲戒解雇の対象になる。公務員が勤務時間外に不倫をすれば、懲戒処分の対象になる。日本では、公務員であることは職務を超えた「身分」である。勤務医は24時間医師であることを要求されるため、勤務時間外にボランティアでの医療行為に重い注意義務を課されることを恐れて、ボランティアでの医療行為をしない傾向をもたらしている。医師であることも「身分」になっている。

 「日本学術会議は政治的に偏向している」と言う政治家は、私的な時間を理解していない。学者がプラーベートに政治的な意見を述べることと、学者の仕事が偏向することは、まったく別のことである。日本には政治的に偏向したことを学問に持ち込む学者がいる。学問的な研究と自分の政治的な立場を混同し、どこまで学問でどこからが政治的意見なのか区別できない学者もいる。そのような学者は研究内容が評価されず、学術会議の会員に推されることはないだろう。しかし、政治家が人事に介入すれば、学問内容が「政権寄りに偏向した学者」が学術会議の委員になりかねない。


2020.10.7
学問と政治の関係

 戦争中、科学は戦争に協力していた。その反省に基づいて日本学術会議は政治からの独立性が前提とされ、独立性が法律に明記された。
 しかし、今、また、政治が学問を支配しようとしている。
 なぜ、学問の政治からの独立性が必要なのか。菅総理は何も理解していない。

 政治は学問を支配したがる・・・・・これは歴史の教訓だ。
 もともと、政治はあらゆるものを自分の支配下に置こうとする性質がある。その方が政治権力の発動に都合がよいからだ。誰でも自分のやりたいようにやりたがるものだ。これは歴史を振り返れば明らかだ。それに対し、支配される国民の抵抗する力が大きければ、政治の恣意的な支配を制限できる。政治は、常に、支配する側と支配される側の力関係によって成り立ってきた。そのバランスが重要だ。

 日本では、政治が学問を軽視する傾向がある。難しい理論を嫌う政治家が多い。学問を政治の手段として利用しようとする政治家が多い。検挙に学問から学ぶ姿勢のある政治家が少ない。

 アメリカではトランプが医学を無視した結果、感染を抑えることができない。医学を無視した医療政策はありえない。
 日本も、コロナ対策でも医学者の意見が軽視され、経済官僚がコロナ対策をになってきた。
 経済政策では経済学者の意見が無視される。政府が採用するのは企業や官僚出身の経済実務家(経済学者を名乗るが)の意見である。
 裁判官は法律学者の意見を無視することが多い。憲法学者の意見を無視する裁判官が多い。そもそも、日本の裁判では憲法が使われない。役所も憲法に対し関心がない。実務では憲法が使われないからだ。弁護士も、通常は憲法を使わない。憲法を使っても裁判官が無視するので、無駄だからだ。

 政治学者の書いた本が官僚や政治家に影響をもたらすことはない。官僚志望の学生は、「政治学は役に立たない」と考えている。
 社会学、心理学、教育学、政治学、経済学、法学、哲学などが政策に反映されることはほとんどない。これらの分野では、学生は学問をせず、実務的な知識の獲得をする傾向がある。経済学や法学よりも、実務的な金融、商業、会社法、語学などの勉強の方が重視される。文系の大学院に進むと就職に不利になるのはそのためだ。
 日本の学校では、勉強=受験勉強=実務の知識の獲得で終わる。大学も似たようなものだ。資格を得るための勉強しかしない学生が多い。
 実務優先の社会では学問が発展しにくい。

 日本では社会科学や人文科学の分野は政治にほとんど採用されない。北欧などでは、学問の成果が多く政治に取り入れられる。デンマークやフィンランドの教育政策は、教育学の成果に基づくものだ。フィンランドの教育大臣は教育の専門家だが、日本では派閥によって大臣のポストが割り当てられ、文科大臣は教育の素人である。文科大臣は教育学の成果ではなく、利権と打算によって動く。
 日本の政治家は、学問を利権のために利用するだけだ。経済的利益をもたらさない学問は軽視ないし無視される。日本の政治家は、学者は政治利用の対象であり、内心では学者をバカにしている。
 実務的な技術や知識を偏重するだけでは、処刑装置の開発を自慢する技術者を描いたカフカの小説のような状況、731部隊での医学者、ナチスに強力した科学者などが再来する。

 日本は、生産力の割に国民の幸福度が低いのはなぜなのか。
 国民が「豊かさ」を感じるためには、「豊かさ」とは何かを考えなければならないが、実務的な損得計算だけではそれは出てこない。
 教育はどうあるべきか、自然環境はどうあるべきか、人間はいかに生きるべきかなどを考えるためいには学問が必要である。


2020.10.6
自然との関わりは民主主義の学校である

 国民の幸福度の高い国・・・・北欧など・・・・は、国民の自立度が高い。国民の自立度の低い国ほど幸福度が低い。

 ドイツはアウトドア大国であり、北欧、スイス、ニュージーランドではアウトドア活動がさかんだ。ノルウェイでは国民の80パーセントが登山(ハイキング)をすると言われている。北欧には万民利用権という自然へのアクセス権がある。スウェーデンでは国民の大半が自然の中にサマーハウス(日本風に言えば別荘)を持っている。デンマークでは多くの年金生活者が自然の中に別荘を持っている(これは土地が安いから可能なのだが)。これらの国では自然との関わりが国民の自立性を養っている。
 ドイツ人や北欧人は基本的にケチであり、金を使わずに自然を楽しむ。金を使わずに自然を楽しむには知恵が必要だ。
 アウトドア活動や自然との関わりは、人間の自立性を養う格好の場を提供してくれ、民主主義の学校になる。

 
2020.10.5
安保法反対の憲法学者らが日本学術会議の会員の任命を拒否された・・・・独立性とは何か。

 日本学術会議は法律で設立された団体であり、政府が会員を選任する。税金で運用する団体である。独立性があるとされる。
 今回、日本学術会議の委員に推薦された人のうち、安保法に反対する憲法学者らの任命を政府が拒否した。

 従来から政権の都合のよい者を委員に任命することは、各種審議会や委員会などで行われてきた。事故の検証委員会や第三者委員会は設置者が自分に都合のよい者を委員に任命する。これが、不公平で不公正な政治をもたらしている。
 それが学問の分野にまで及んだということ・・・・日本学術会議の政権による管理、支配

 日本学術会議の会員は内閣が任命するが、独立性のある団体とされている。日本学術会議が権威を持つのは独立性があるからである。
 内閣が任命するのだから、誰を任命しようと内閣の自由ではないかと言うのが内閣の言い分かもしれない。しかし、それでは、内閣を補佐する学者と同じであり、独立性がある団体とはいえない。
 「日本学術会議の行動はおかしい」として、その行動を批判する政治家がいるが、それは日本学術会議の考え方が自分の考えに合わないからであって、それを理由に日本学術会議に政治家が介入すれば、独立性がなくなる。公開の場で議論をすることは必要だが、政治家が独立性のある団体の人事に介入してはならない。
 税金を使う団体だという理由から内閣が人事や運営に介入すれば、独立性が失われる。裁判所、検察庁、会計検査院などは税金で運営するが、独立性がある。内閣が裁判所の判決内容を指示すれば、裁判所の独立性が失われる。
 独立性があるということは、内閣の気に入らない人であっても、その団体の判断で人事をし、運営するということである。
 政権の気に入った者だけを会員にする団体は独立した団体とは言えない。
 「政府を批判する団体に金を使うバカはいない」と政治家は考えるが、その金は政府の金ではなく、国民の税金である。税金の使い方は、30パーセントの得票数で議員が当選した与党が自由に決定することが国民のために使うことを意味しない。

 民主主義は多様な意見が社会に存在することで成り立つ。政権を批判する意見を排除、抑圧することは、管理する側に都合がよいが、長い目で見れば発展せず、国民の幸福度が低い社会になる。
 江戸時代は幕府の対立勢力のない強権政治の結果、幕府の政権は安定したが、閉鎖的な社会になり、300年の間に日本は世界の発展から遅れた。政権の意に反する学問、文化が抑圧されれば、社会は発展しない。日本の文化のレベルは1600年頃はヨーロッパと大差なかったが、ヨーロッパのルネッサンスから産業革命の時代に、日本は江戸時代の閉鎖的な300年だった。その礎を築いたのは徳川家康であり、徳川家康は江戸幕府の安定政権の礎を築くと同時に、日本の社会の停滞の礎を築いた。この徳川家康の大罪はもっと注目されてよい。
 明治維新以降も政権はつねに対立勢力を抑圧し、日本の文化的な発展を阻害した。その弊害は今だに尾を引いている。

 政権を批判する意見をあらゆる組織から排除すれば、一枚岩の強力な政権になるが、社会の発展が遅れ、独裁や戦争につながりやすい。
 学問を政権が管理し、統制すれば、学問の発展はない。「政権を批判する学者はケシカラン」と考える政治家は、政治家としての資質に欠ける。マスコミによく登場する政治家のH弁護士などもその部類だ。

 「民主的統制」を理由に内閣に日本学術会議の人事の拒否権があると主張する者がいるが、これはマチガイである。
 「民主的統制」とは、選挙で選ばれた政権が支配することを意味する。
 この論法でいけば、内閣は「民主的統制」を理由に何でもできることになる。政府が 「民主的統制」を理由に学校の教科書の内容を決定することや、政府が学問の内容に介入することも可能になる。「民主的統制」を理由に政府が歴史を書き換えることができる。
 ヒトラーは選挙で選ばれ、戦争を遂行した。これも「民主的統制」のひとつの形態である。ロシアのプーチンも選挙で選ばれ「民主的統制」を実行している。
 小選挙区制のもとでは30パーセントの獲得得票数で政権政党になれるが、投票率が40パーセントの場合、これは、国民の12パーセントの支持を得て政権につくことを意味する。国民の12パーセントの支持で「民主的統制」を理由に社会を統制することは、恐ろしい。

 学問は政治的多数決に支配されてはならない。学問は「民主的統制」になじまない。
 学問は、政治的少数派であっても、学問として必要である。学問は、政治的多数欠からの独立性が必要であり、 「民主的統制」が及んではならない。日本学術会議に独立性が必要なのはそのためである。
 人権も 「民主的統制」が及んではならない。「民主的統制」が学問や人権に介入できないことは法律家の常識だが、H弁護士はそれを理解していないようだ。憲法や法律の知識があっても、それを理解していない。

 日本学術会議の人事に政権が介入することが、学問の自由を侵害するか。
 人事への介入が学問の内容自体に介入するものでないことは当たり前のことだが、学術団体、大学、学会の人事への政権の介入は学者に対する統制につながり、学問の自由を損なう
 もし、政権が学会の役員人事を決定したらどうなるか。もし、政権が大学の学長を決定したらどうなるか。もし、政権が大学の教授任命の決定権を持ったらどうなるか。国は大学に税金を出しているので、「民主的統制」を理由に人事に介入すれば学問の自由はない。
 政権を批判する学者が冷遇されれば、学者が政権の意向を忖度するようになる。これは官僚や裁判官も同じだ。国の敗訴の判決を書く裁判官が昇進で冷遇されれば、裁判官の独立性が失われる。会社でも、上司に意見を述べる社員が冷遇されれば、誰も意見を言わなくなるだろう。
 学者は国と対立すると国からの研究費をカットされ、弱い立場にある。国公立大学の学長や公的な委員は、役所に気に入られた者が就任する。政権が学者を管理、統制するのは実に簡単だ。
 弁護士の業界も同じである。弁護士は、行政と仲良くした方が各種審議会や委員会などの委員のポストに就きやすく、行政から仕事を回してもらえる。行政を批判する弁護士は役所から干される。格差社会の中で、「強い者の側についた方が得だ」と考える弁護士が増えている。

 管理する側に都合のよい体制は、社会の発展や進歩を遅らせる。江戸時代、戦前の日本、発展途上国、中国、北朝鮮などは管理する側に都合のよい社会だ。しかし、そのような社会は発展が遅れ、管理される側の国民の幸福度が低い。
 世界中で強権的な政治が横行している。この点では、日本は香港、中国、アメリカ、ブラジル、ロシア、ベラルーシなどと同じだ。どんなに国民ががんばって長時間労働をしても生産力の割には国民の幸福度が低い。

 今、日本では、政権が社会のあらゆる場面を管理、統制をしようとしている。 これを 「民主的統制」などと言って歓迎する政治家、評論家が少なくない。
 多くの国民がそれに鈍感だ。国民は、管理されることに慣れてしまえば、自立した判断ができなくなる。
 国民の幸福度の高い国・・・・北欧など・・・・は、国民の自立度が高い。国民の自立度の低い国ほど幸福度が低い。

 日本学術会議は税金で運営されている。これを廃止しろとか、民営化しろという意見がある。これは、日本学術会議の独立性とはまったく別問題である。
 現在は、日本学術会議を独立性のある団体として法律が設立している。先進国にはそのような学術団体があるが、日本でそれを廃止するかどうかは別問題だ。ノーベル賞はスウェーデン科学アカデミーが選考するが、これは独立行政法人であり、委員は公務員の扱いがなされる。しかし、委員の人選を政治家が左右することはない。もし、それをすれば、ノーベル賞の選考が政治的に偏向し、ノーベル賞の学問的権威がなくなるだろう。日本学術会議の人事お政治家が決定するとすれば、政府の諮問会議や審議会と同じであり、そのような日本学術会議の存在理由がない。


2020.10.3
トランプのコロナ感染

 なるほど、やっぱり・・・・というのが感想。いずれ感染するだろうと思っていた。
 奇妙なことだが、コロナに感染したブラジルの大統領、ベラルーシの大統領、アメリカの大統領がすべて強権的な政治家という点で共通性がある。そう考えれば、彼らがコロナに感染したことは、必ずしも「奇妙」ということでもないのだろう。


2020.10.1
日本山岳スポーツクライミング協会、夏山リーダー分科会

 zoomでの会議
 日本山岳クライミング協会が国際山岳連盟(UIAA)のリーダー資格に準拠した新しい資格を作ろうとしている。

 UIAAの夏山リーダー資格は、リーダーにロープワークの技術や一定の判断力を要求している。
 従来、日本では、登山の取りまとめをしたり、世話係をする者もリーダーと呼んでいたが、UIAAはもっと高いレベルをリーダーに要求している。 リーダーの概念が、日本と欧米で異なるのではないか。日本では、政治家や企業内で意見の調整役に徹するリーダーが多いが、欧米ではそれはリーダーらしくないとみなされるのではないか。

 日本の山岳会のリーダーの多くは、欧米的なリーダーではなく、取りまとめ役が多い。数人でクライミングをする場面では、必ずしもリーダーは必要ではないので、リーダー不在でもよい。
 しかし、山岳会でも初心者を連れていく場面では、リーダーのリーダーシップが要求される。そこでは、リーダーが、参加者の取りまとめに徹するのでは困る。リーダーは、初心者の安全に配慮しなければならない。しかし、山岳会などでは、その点はリーダーの法的な安全確保義務にならないのが原則である。日本でも、多数の参加者を統率する場面では、「欧米的なリーダー」が必要になる。

 山岳ガイドやツアーガイドなどの商業的な登山のリーダーを除くボランティアリーダーに関して、問題になるのは次の2つの場面である。
 @、山岳会、ハイキングクラブなどで、リーダーが参加者を連れて行く場合。問題になるのは、初心者が参加する場合である。熟練者で構成されるパーティーでは行動は参加者が相談して決めるので、リーダーは必要ない。
 A、学校で教師が生徒を連れていく場合、ボランティア団体のリーダー、各種講習会など。

 @は自主登山であり、原則としてリーダーに法的な安全確保義務は生じない。
 Aは引率登山であり、リーダーに法的な安全確保義務が生じる。

 UIAAのリーダー資格は@とAを対象とするが、もっぱら山岳会やハイキングクラブなどのリーダーを想定している。欧米では日本ほど学校登山や学校の部活動としての登山はないので(欧米には、登山部のある学校はないのではないか?)、欧米では学校の教師のリーダー資格の需要はそれほど重要視されないのだろう。もともと、UIAAは山岳会や山岳団体から構成される組織であり、学校の活動を統括する団体ではない。
 しかし、日本は学校での登山がさかんなので(世界の中で特異なのではないか?)、学校の教師をこのリーダー資格の対象者として想定する必要がある。日本で学校登山がさかんなのは、運動会と同じく、戦前からの訓練思想があるのではないか。
 日本でも、山岳会やハイキングクラブのリーダーが初心者を連れて行く場合には、UIAAが想定するレベルのリーダー資格が必要である。従来、日本では、山岳会やハイキングクラブのリーダーは参加者の取りまとめをすることが多く、安全確保の考えが希薄だった。リーダーにロープ技術は不要という考え方は、山岳会やハイキングクラブのリーダーはガイドとは違うという発想によるものだろう。しかし、UIAAは、山岳会やハイキングクラブのリーダーはロープ技術が必要だと考えている。
 とはいえ、従来の日本でも、山岳会やハイキングクラブのリーダーが初心者を連れていく場合には、リーダーや他の仲間が初心者の安全面に配慮すべきことを自覚する山岳会も多かった。そのような会では初心者の事故はほとんどなかった。他方で、ハイキングクラブなどでは、リーダーは世話係に過ぎず、初心者を一人前の登山者として扱う場面も多く、その結果起きる初心者の事故が多かった。

 山岳ガイドやツアーガイドなどの商業的な登山のリーダーについては、UIAAの資格の対象ではなく、それらは各業界でリーダー資格を設定することになる。


2020.10.1
アメリカの裁判官と日本の裁判官の違い

 アメリカでは、リベラル派の連邦最高裁判事がが亡くなり、トランプが保守派の最高裁判事を任命したことが問題になっている。
 アメリカでは、最高裁判事の思想、信条が国民にはっきり示され、それを前提に国民が任命の是非を議論する。
 これに対し、日本では、最高裁判事の考えは国民に示されず、国民が任命の是非を議論しない。日本では、最高裁判事の氏名すら知らない人が多い。かく言う私も最高裁判事の名前はほとんど覚えていない。聞いても、すぐに名前を忘れる。
 日本の最高裁判事に思想、信条がないわけではない。思想、信条はあるのだが、それを隠して無色透明のふりをしているだけだ。そのようにするのは、それが得だからだ。無色透明の人間は何を考えているかわからず、気持ち悪い。無色透明の裁判官は裁判官の国民審査で判断しようがない。現実には、日本の最高裁判事は保守的な人が多いが(内閣が任命するからだが)、それが国民にわからないので、批判されにくい。

 ドイツなどでも、裁判官の思想、信条は明確であり、所属政党まで市民に知られている。ドイツの裁判官は政党に所属し、政治活動をしている人が多い。しかし、それが、法令の解釈に悪影響を及ぼすことはない。裁判官の政治活動はプライベートの時間に行うのであって、公私の区別が明確である。ドイツでは、地方議員の多くが公務員である。公務員の仕事が終わった後に議員活動(無報酬)を行う。
 自分の思想信条を明らかにして、市民の審判を受ける欧米の裁判官は、市民にわかりやすい。
 フランスの裁判官は、かつては「左派」が多いとされ、警察官が裁判官に抗議するデモをしたことがある。ドイツの裁判官も基地反対などのデモに参加するが、ドイツや北欧では大統領も環境破壊反対などのデモに参加することがある。

 どこの国の裁判官も自国に有利な判決を下す。中国、香港、韓国、アメリカ、日本の裁判官はそれぞれ自国に有利な判決を出す。これは誰でもナショナリズムお影響を免れないからだ。日本と韓国が対立する問題では、日本の裁判官は日本に有利な判決を出すだろう。北朝鮮の裁判官は簡単に死刑判決を出す。日本の裁判官は戦前はそれと似たようなことをしていた。今はそれを忘れただけだ。

 欧米と日本の裁判官の違いは、欧米の裁判官は人間であることを認め、日本ではそれが否定されることである。人間は思想、信条、価値を持つが、日本の裁判官は無色透明であるふりをすることを要求される。つまり、人間的にふるまうことを禁止される。これはロボットに近い。

 日本の裁判官は、市民にわかりにくいから市民の関心がないのか、市民の関心がないから裁判官が市民にわかりにくいのか。
 人物の素性が何もわからなかえれば、判断のしようがない。
 しかし、これが日本の民主主義である。


2020.9.23
信越トレイルを歩く
 長野県と新潟県境にある信越トレイルを歩いてみた。歩いたのはトレイルの約半分である。テントで2泊。

        
 

           

            
その感想
・トレイルは、他の多くのトレイルや車道と交差するので複雑だが、標識に従えば迷うことはない。

・トレイルに既存の登山道、林道、車道、遊歩道などが混在している。登山道は山頂をめざすフツーの登山道であり(単純なピークハントである)、林道は車用に作ってあるので長く単調だ。砂利道の車道歩きもある。遊歩道では観光客に出会う。さまざまな歩道を「繋いだ」という印象が強い。

・キャンプ地が少なく、それ以外はキャンプ禁止である。キャンプは予約制。キャンプできる場所が限られ、トレッカーはテントを背負って事前に決められた行程を消化する。このトレイルは開放感や自由よりも几帳面に管理された窮屈さを感じた。いかにも、日本的と言えようか・・・決められたとおりに行動することが当たり前の社会。
 このパターン化された行程は初心者向きではない。キャンプ地は予約制なので行程は決まっている。テントを背負って1日に4、5時間程度しか歩けない人は次のキャンプ指定地にたどり着けない。キャンプ地の多様な選択肢があれば、利用者が増えるのではないか。
 4時間程度歩き、どこでも幕営できれば、誰でも歩くことが可能だろう。それは整備されたキャンプ地である必要はなく、事実上、幕営できればそれで足りる。水は、途中で汲んで持参すればよい。ウンコは穴を掘って埋める。これはアメリカのロングトレイルの方法だ。低山では糞尿は地中で分解される。山が混雑しなければ、それは微生物分解式の天然トイレだ。自然に対するアクセス権がある場合やトレイルが公有地にあれば、それができるが、自然に対するアクセス権がなければ、私有地ではどこでも幕営できることは難しい(タテマエとしては)。

 トレイルで出会った人のほぼ全員が、「キャンプ指定地以外の場所でもテントを自由に張ることができればよいのに」と言っていた。
 アメリカのバックカントリーには整備されたキャンプ地がなく、どこでも自由にテントを張ることができる。
 どこでも自由にキャンプできることは、土地所有権の問題と衝突する。土地所有者の許可がなければキャンプできないというのがタテマエだ。
 環境保護のためにキャンプが禁止されるが、信越トレイルは、途中に車道、林道、人工的なため池、民家、小屋などがある。ため池では釣り人が車でやって来る。そのような場所でキャンプ禁止というのは、環境保護のためではなく、土地所有者への配慮からである。土地所有者は自分の土地に小屋を建てキャンプができるが、他所者には自分の土地を使わせないということだ。

 麓の宿に泊まりながら軽装で歩けば誰でも歩けるが、宿までタクシ―利用すれば、やたらと金がかかり、それはスルーハイクではなく、日帰り登山である。ロングトレイルの醍醐味は、生活用具一式を背負って歩く点にある。自然の中を歩き、生活するという点にある。そこに解放感や自由がある。バックパッカーと同じである。トレイルランニングでは、自然の中で生活することは体験できない。

・キャンプ地はよく整備されているが、車道付近にある。これは山麓の観光キャンプ場と同じロケーションであり、山の中での生活ではなく、フツーの都会近郊のキャンプである。既存の駐車場トイレのある場所をキャンプ地にすれば、こうなるのだろう。
 車道近くの土地は土地所有権が現実化しやすい。

・トレイルは、自転車やペットの持ち込み禁止だが、林道、車道で自転車やペットの持ち込みができないのか? 林道で山仕事をする人が犬を連れてきてはいけないのか。山麓で犬を連れて散歩できないのか。同じ歩道で観光客は犬を連れてきてもよいが、登山者はできないということか。観光客の服装をした登山者はどうなのか。法的には犬連れ登山は禁止されていないが、ペット禁止の看板はあくまでお願いということか。「禁止」の「お願い」とは何か。コロナ感染防止のための「営業禁止」という「お願い」と同じか。
 トレイルになっている林道は自転車で走ってもよいのではないか。林道の周囲に植林地があり、林業用の車が通るが、車が通る道を自転車が走行できないのはおかしい。林道は民間所有であり、人工物なので土地所権が現実化しやすい。

・連休でも3日間に出会ったスルーハイカーは計9人。これに対し、トレイルランナーは約30人いた。信越トレイルは、歩くトレイルというよりも、トレイルランニングのコースになっている。トレイルが整備され、走りやすいからだ。
 信越トレイルは成功したのか? 当初もくろんだような経済効果はないが、自然と関わるアウトドア活動に経済効果を期待してはいけない。アウトドア活動が経済効果をもたらすのは、人工的な施設でのアウトドア活動である。

・既存の登山道、林道、車道、遊歩道などをつなげば全国のどこでもこのような低山のロングトレイルを歩くことができる。ただし一般に低山は日帰り登山の対象であり、低山にキャンプ地がない。あるのは観光用の山麓のキャンプ地だけだ。低山ではキャンプ地やトイレを設置するには土地所有者の同意が必要になる。これが大問題。そのため、既存の歩道や林道をつなぐほかなかったのだろう。
 アメリカやニュージーランドではトレイルの整備は雇用されたスタッフが給料をもらって整備している。
 日本では、登山道やトレイルの多くをボランティアが整備している。行政がトレイルの整備をしないのは、そのような国の政策がないからだ。日本は、実態は中央集権政治なので、国が動かなければ地方はなかなか動かない。国が動けば地方はそれに従う。

 全国に低山のロングトレイルを作っても利用者がどれだけいるか疑問があり、それでこのようなトレイルが少ないのだろう。多くの登山者は、3,4日休日がああれば、高い山や有名な山に向かうのだろう。

日本にはもともとロングトレイルがたくさんある。山岳の縦走路がそれだ。縦走路は日本特有のロングトレイルの形態である。北アルプスの縦走路、南アルプスの縦走路、大雪山の縦走路などが、日本のロングトレイルの代表だろう。長い縦走路は高山に多い。高山では土地所有権が現実化しにくい。土地所有権の権利行使がされにくい。高山では自然公園のキャンプ規制地域を除き、キャンプが黙認される。雪山での幕営がその典型だ。山麓では雪があっても幕営しにくい。
 日本には、低山は日帰り登山の対象であり、何日も縦走するコースがほとんどなかったが、信越トレイルは日本には珍しい低山の長い縦走コースなのだ。低山では土地所有権が現実化しやすい。
  
・信越トレイルでの登山は、土地所有権との関係を考えさせられる旅だった。