2024年
                         溝手康史



2024年9月7日

登山道シンポジウム・・・・予定
日本山岳サーチ&レスキュー研究機構など
東京



2024年7月6日
山岳遭難の法律問題・講演
三重県山岳遭難対策協議会


2024年6月28日

栗城劇場・・・・デスゾーン
私は栗城氏に関心がなかった。
しかし、「デスゾーン」という本の中古本が非常に安かったので、資料として買って読んでみた。
メディアについて考えさせられた。
栗城氏が、無酸素、単独でエベレストをめざすと言うことは、個人の自由である。どのような登山をすべきか決まったものはなく、どのようなスタイルでもよい。栗城氏のいう単独登山は、登山隊を組織し、スタッフ、ポーターを使用するが、登山行動は1人で行うスタイルであり、テントなどをポーターが荷揚げしたようだ。アルパインスタイルではない。
このような登山スタイルは故人の自由だが、それを単独登山というと誤解をまねきやすい。

これをメディアが、「無酸素、単独登山」と呼んで派手な演出をしたことが問題だった。
メディアはその影響力の大きさから、社会的責任があるからだ。1登山家がエベレストの無酸素単独登山を言っても誰も相手にしないが、メディアが取り上げると社会的な影響が大きい。
また、メディアが栗城氏をヒーロー扱いしたことも問題だ。栗城氏は、多くの8000m峰に登頂しており、力のあるヒマラヤ登山家だったが、ヒーロー扱いをするほどのものではない。また「無酸素、単独登山」の可能性が低かったので、メディアはその点を報道する必要があった。
メディアが派手に演出した結果、登山に失敗すると、多くのネット民から、「騙された」、「金を返せ」、「ニセモノ登山家」などの非難がなされた。メディアの演出が詐欺まがいだった。
メディアは事実を正確に報道するのが、その倫理だが、視聴率を稼ぐために過剰な演出をすることが多い。栗城劇場はそのようなメディアの過剰な演出が生み出した。

「デスゾーン」には、栗城氏の登山家としての能力の客観的な評価がない。これがなければ、栗城氏がニセモノかどうかの評価ができない。栗城氏の登山家としての能力の客観的な評価なしに、栗城氏についてさまざまな証言や問題点を記述しても、すべて「砂上の楼閣」でしかない。

また、「デスゾーン」は、個人と故人のプライバシーを扱っており、名誉棄損、プライバシー侵害の可能性がある問題本だ。
この本は、メディアの商業主義の延長上で書かれている。賢明な登山者は、商業メディアとネット民から距離を置く必要がある。


1938年、
2024年6月18日

朝ドラのモデル・・・・・日本初の裁判官
私はこの朝ドラを見ないが、モデルとなった三重三淵嘉子さんの「経歴は、以下のとおり。

1938年、高文司法科合格・・・・これは裁判官になるための試験
1940年、弁護士登録
1944年、(現在の大学の)助教授
1947年、任官
1948年~裁判官


弁護士をした期間は短い。したがって、「日本初の裁判官」と言うべきだろう。
「日本初の裁判官」のキャッチフレーズでは、視聴率を得にくいということなのか?



2024年6月16日
ヒマラヤでの遭難

ネット記事から・・・・・パキスタンで登山中に行方が分からなくなった日本人2人のうち1人の遺体が収容されました。パキスタン北部にある標高およそ7000メートルのスパンティーク峰を登っていた平岡竜石さんと田口篤志さんは、12日に行方が分からなくなっていました。地元当局は15日の捜索で、標高6000メートル付近の地点で「平岡さんの遺体を発見し収容した」と発表しました。一方、田口さんの安否はまだ分かっておらず、捜索活動が続いています。・・・・・・

国際山岳ガイドの平岡竜石氏は、私の事務所に来たことがあり、よく知っている。日本有数の高所登山の山岳ガイドだった。
また、1人、知人が亡くなった。残念だ。


2024年6月15日
広島県北労連・労働法律相談センター事務所開所式
広島県、三次市
出席し、挨拶した。
この相談センターは、20年くらい前からあり、開設当初から協力している。



2024年6月14日

ボランティア活動の功罪

北海道の奈井江町で、報酬額が低すぎるとして猟友会が熊の駆除活動を拒否した。
町は、狩猟免許保有者にボランティアで無報酬で熊駆除を依頼した。恐らく、ボランティアには町外の人もいるだろう。

一時的にはボランティアで熊の駆除ができるかもしれない。
しかし、ボランティア活動は、するかしないかが自由なので、都合が悪ければ出動しないことが可能だ。今後、継続的にボランティアで熊の駆除ができるかどうかわからない。ボランティアは熊以外の動物の駆除はしないだろう。
ボランティア活動でも、銃の事故の損害賠償責任や刑事責任が生じる。拙著「ボランティア活動の責任」参照
ボランティア活動者が死傷しても、公的な補償はない。
動物の駆除をボランティア活動に依存しても、継続的な駆除は、難しいだろう。

一般に社会的な活動をすべてボランティアでまかなえば、経費がかからないので、都合がよい。
医療、教育、建設、土木、福祉などすべてボランティアでまかなえば都合がよい。しかし、ボランティア活動は、するかしないかが自由なので、継続性がない。
そこで、これらの分野は職業として遂行するシステムになったのだ。また、専門家=職業化という経過が多い。医師や弁護士の仕事が無料のボランティアの国はない。
災害時などはこれらのボランティア活動があるが、それは一時的なものだ。一時的、緊急的なことがボランティア活動の対象になりやすい。

動物の駆除を継続的に行うには、職業的な業務として遂行するほかないだろう。
動物の駆除が経済的採算がとれれば商業化する。鹿を捕獲し、鹿肉販売の採算が取れれば、商業化できるが、現状はそうなっていない。野生の魚類や海産物はその捕獲、販売が漁業として商業化している。

自治体は、金がかかるので動物駆除に消極的だ。福祉、介護、教育、環境保護、スポーツ、司法などは、経済効果を見込めないので、自治体は消極的だ。
現状では、動物の駆除は自治体の義務的な業務ではない。
国民の安全を守る点で、熊の駆除は警察の業務だが、市街地での発砲が禁止されているので、警察官は街中で発砲できない。自衛隊の射撃隊に任せる方法もあるが、それには法整備が必要だ。
問題は、国が熊対策に本気になっていないことだ。現在は、自治体任せ、ボランティア任せだ。
法律で動物駆除を自治体の業務として位置づけ、国が自治体に補助金を支出する体制が必要ではないか。



2024年6月13日

IT社会

IT化が社会を一変させる。

司法の業界では、
ネット相談では東京の弁護士が全国から相談を受けるので、地方の弁護士が不要になる。
現在、ビデオ会議で裁判が可能だ。弁護士が裁判所に出頭する必要がなくなれば、東京の弁護士が全国の事件を受任可能だ。
いずれ証人尋問もネットでできるようになるのではないか。
調停は遠方にいてもネットで可能だ。家事事件に監視て家裁は東京家裁ひとつで足りるのではないか。
弁護士は自宅で仕事をし、事務所は不要になるのではないか。ネット空間が法律事務所。書籍はネットで閲覧可能。事務員はAI事務員?
簡単な訴状はAIで作成可能だ。
AI裁判所、AI弁護士。
日弁連のいう「弁護士過疎地」は昔話。日弁連は弁護士に依頼者との面談を義務づけ、増えすぎた弁護士を地方に回そうとするが、ネット社会は弁護士の東京集中を加速させる。東京の弁護士が全国の弁護士の仕事をすることも可能だ。
ネット社会では、弁護士はネット環境さえあれば、どこでも仕事ができるはずだが、都会が便利で弁護士は遊興歓楽が好きなので、やはり弁護士は都会に住みたがる。

政治の世界では、
ネットやユーチューブを通して票を集める政治家が出てくる。
ヒトラーは演説で大衆を扇動したが、これからはネットで大衆を扇動可能だ。
ネットの宣伝力はすさまじい。ヘンな候補者が選挙で当選するようになる。
ネットを無視して政治ができなくなる。

日本の社会は法律ではなく世論で動く。
世論=ネットになるのではないか。
ネットで叩かれると日本では生きていけない。
ネット、ISNでのイジメが多い。
学校で規制をしても、学校外のネット社会が子供をむしばむ。

登山関係では、ネット情報に基づく単独登山者の事故が多い。
このような人にはAIによる屋内での疑似登山体験。屋内で傾斜板上を歩き、登山コースと同じ仮想空間を作ればよい。仮想空間で見知らぬ登山者と出会い、会話をする。仮想空間で山小屋泊やテント泊。都会に疑似登山体験施設を作り、それで日本100名山登頂の称号を付与するとか。

恋人、配偶者、友人、子供、ペットの代わりに、AIロボットが代役をするとか。
害獣対策として、AI駆除犬がありうる。
熊が出没する地域では、熊対策AIロボット。黒クマを襲って食べるというグリズリーのような形の大型ロボットがよいのではないか。


2024年6月8日
ネット社会の危うさ

山岳遭難の約4割が単独登山者である。
そのほとんどが初心者、未熟者の事故だ。
登山経験があっても、自分のレベルを超える登山をすれば未熟者である。報道される事故を見ると、「なぜ、こんな場所で事故が起きるのだろう」という、一般ルートでの事故が多い。
明らかに力不足の結果としての事故が多い。
現在、ネット情報をもとに登山をする人が多い。
ガイドブックを買うと金がかかるが、ネット情報はタダだ。
ネットは誰でも発信できるので、ネット情報は玉石混交だ。ネットには、気軽に登山ができるという誘惑が満載されており、それを見て登山を始める人も多いのだろう。
経験者が簡単に登ったというネット情報を読んで、初心者が気軽に登ると簡単に事故が濃きる。
山岳会での登山やツアー登山では事故は起きにくいが、単独登山は拘束がない分、危険な領域に簡単に入り込んでしまう。単独登山者は、自分が危険なことをしているという自覚がないまま危険な行動をする。単独登山では、危険な行動を制限するハードルがない。

便利さや手軽さは、利用者を増やすが、安全化された街中では、何も問題はない。
しかし、自然の中では、便利さや手軽さが事故につながりやすい。富士山登山が便利になればなるほど、事故が増えるのはその例だ。
登山では、不便さが事故の防止につながる。

ネット情報は制限できない。
しかし、登山環境が不便であれば、「〇〇の登山は不便だった」という情報がネットで拡散すれば、初心者、未熟者の登山者は減るだろう。

政治の世界でも、ネットの影響が大きい。日本では選挙活動をひどく制限しているが、ネット情報は自由に拡散するので、それが投票行動を左右しやすい。
ネットでの支持を背景に当選した国会議員がその後逮捕されることがある。ネットでの指示は危うい。
ネット情報を自分で吟味する情報の受け手の判断力が必要だ。


2024年5月31日
那須雪崩事故判決

5月31日、2017年に起きた那須雪崩事故の刑事裁判で、宇都宮地裁は教師3人に禁錮2年の実刑判決を出した。

判決の構造 
被告人3名について、安全区域限定義務違反、安全確保措置設定義務違反、計画内容周知義務違反・・・・・共同過失
被告人3名中2名について、即時退避指示義務違反、適時情報共有措置義務違反・・・・・・個別過失


コメント
・ほとんどの事故に関係者のミスや落度はあるが、ミス・落度=過失ではない。
過失がある場合でも、それに民事責任を科すか、
刑事責任も科すかは、ある種の法的な価値判断である。どの範囲を刑罰の対象とするかは検察官が判断する。近年、起訴された山岳事故はすべて有罪になっている。

・予見可能性を緩やかに考えれば、ほとんどの事故で予見可能性が認められる。
結果を予見できたから責任を負うというよりも、結果を予見すべきだったかどうかが問われる。結果を予見すべきだったとすれば、予見可能だったとされ、注意義務が科される。
 斜度30度以上の斜面に30センチ以上の新雪があったこと、訓練場所があいまいだったことなどから、雪崩事故の予見可能性が認められた。

・事故に対する3人の関与の程度は異なるが、裁判官は、3人の刑に差を設けることをしにくかったのだろう。この点を高裁がどのように判断するかが問題だ。

雪崩を予見可能だったが、注意を怠って予見しなかったというのが、法律家の考え方だが、それはタテマエの理屈である。実態は、雪崩を予見できなかったから事故が起きたのである。もし、雪崩を予見していれば、講習を中止するはずだからだ。教師は、雪崩を予見できなかったが、雪崩を予見すべきだったので、事故に対し責任を負うのである。

・雪崩を予見できなかったのは、注意を怠ったからではなく、雪崩を予見する能力不足が原因である。
3人の教師のうち、2人の教師は登山家と呼べるほどの経験はなかった。注意不足を指摘するだけでは雪崩事故を防ぐことはできない。雪崩対策には相応の能力が必要である。それがなければ、雪崩の可能性のある場所で講習をしてはならない。

・従来、学校関係の山岳事故で実刑になったことがなく、初めての実刑判決である。交通事故では、初犯でも2人が死亡すれば実刑になることが多い。それに較べれば、8人死亡の事故で禁錮2年は軽い。交通事故などに較べて山岳事故の量刑が軽いのは、自然的要因が関係するからだろう。

・近年、裁判所において、過失事故の厳罰化の傾向と、山岳事故の厳罰化の傾向があるが、それにそった判決である。安全であることに対する世論の高まりが背景にある。

・事故に直接関与した者だけでなく、事故現場にいない管理者の刑事責任を課した点が注目される。
自動車事故や原発事故でも、事故現場にいない安全管理者の刑事責任を問う傾向がある。従業員が自動車事故を起こした場合に、事故現場にいない会社社長や課長を安全管理者として起訴するケースが増えている。
「不作為」が刑罰の対象となり、明らかに過失責任を問う範囲が拡大している。検察官の起訴の範囲が拡大している。従来は起訴しなかった者を、近年、起訴するようになっている。起訴されると有罪になることが多い。

・事故現場にいない安全管理者が刑事責任を問われる傾向は、「管理者がもっと注意をする」のではなく、「誰も管理者や責任者にならない」傾向をもたらしやすい。
これは、例えば、
実行委員長不在の実行委員会がイベントを実施する
PTAなどで、会長や副会長、会長代行を置かない。
管理者不在の登山道
などがその例である。
会長、副会長、事務局長不在の協議会で、20人くらいの委員が共同作業を行えば、20名全員が起訴されにくい・・・・それが刑事責任回避の手法になりやすい。現実に、佐賀県で官民共同のサマーキャンプで、結果的に役員全員が無罪になったケースがある。これは集団的無責任の組織事故である。

今後、ツアー登山や山岳団体の講習会などでの事故に関して、起訴されるだけでなく、被害者の数が多ければ、実刑判決になる可能性がある。

・危険を伴う活動は、学校、ツアー登山、講習会以外の形態で行う必要がある。高校生の場合は、学校以外の場所で親の管理下で行うべきである。

・今後、学校の部活動で危険を伴う活動はできない。雪山登山は高校ではできない。夏山でも事故の危険性がゼロではない。柔道やラグビーでも事故が起きると教師が刑事責任を問われる可能性がある。

・部活動は教師のボランティア的な業務であり、教師の義務ではない。ボランティア的活動に刑罰を科すと、活動従事者が減る。今後、学校の登山部の活動範囲の縮小や廃部が増えるだろう。

・教師の登校指導も、現在、教師のボランティア的な業務として行われているが、登校中に事故が起きると、教師が刑事責任が問われる可能性がある。欧米では、児童、生徒の登校は、学校ではなく、親の管理下で行っている。日本でも、児童、生徒の登校は親の責任において行う必要がある。

・国は、学校の部活動の指導を外部委託することを推進しているが、学校の顧問教師が安全管理することは変わらないので、外部指導者を採用しても法的な扱いは変わらない。外部指導者は顧問教師の補助者の扱いになる。外部指導者のミス=顧問教師の過失=学校の民事責任。教師個人は刑事責任。

・被告人は控訴すると思われる。

・欧米では、このような判決はない。欧米では高校山岳部がない。日本のような高校の部活動のある国は欧米にはない。アメリカのハイスクールの部活動は、学校外の専門家に委ねているが、高校山岳部はないだろう。ヨーロッパでは学校の部活動がない。生徒のスポーツは、学校の管理下ではなく、保護者の管理下で行われる。欧米では、教師は部活動に関与せず、教育に専念する。
 日本でも、教師は部活動に関与せず、教育に専念した方が教育の発展に資するのではないか。
 日本では、部活動=教育と考えているが、運動部の活動はスポーツであって、勉強とは異なる。
 日本は、学校と会社中心社会。危険を伴う活動は、学校の管理を離れて学校外のクラブや保護者の管理下で行う必要がある。また、会社中心社会が仕事中心社会をもたらしている。男性の場合は、飲食、レジャー、冠婚葬祭、交友関係が会社中心であり、「元〇〇社員」の肩書が死ぬまで続く。「元院長」、「元裁判官」、「元〇〇大学教授」なども同じ。
 



2024年5月27日
「登山道を誰が管理するのか」 (デザインエッグ発行)

(目次)
はじめに
登山道が遭難に関係する
登山道の整備のあり方
登山道の管理
今後の課題と展望


  
                 





2024年5月25日
登山道に関する法整備の動き
令和5年  環境省による登山道整備の実態調査・・・・私もヒアリングを受けた。
登山道法研究会などの活動やマスコミの関心が高まる。

令和6年   衆議院・超党派「山の日」議員連盟が法制化に向けて、勉強会を実施・・・・私もヒアリングを受けた。

議員立法がなされることは間違いないが、その内容は未定

登山道整備や山岳地域振興を義務付ける漠然とした法律になるのではないか。法律で具体的なことを義務づけるには、関係法令との調整が大変だ。
イギリスのCountryside and Rights of Way Act 2000は1冊の本になるくらいの分量がある。これは具体的権利、義務、手続、罰則、土地所有権の制限、他の法令との調整規定が多いからだ。



2024年5月15日
衆議院・超党派
「山の日」議員連盟総会でのヒアリング
東京

超党派「山の日」議員連盟
 会長 衛藤征士郎衆議院議員
 事務局長 務台俊介衆議院議員


議題:「登山道の管理不足と利用者の要求水準の変化について」

(ヒアリング)
北海道大学大学院農学研究院 教 授  愛 甲 哲 也
みぞて法律事務所 弁護士 溝 手 康 史
一般社団法人 北杜山守隊 代表理事  花 谷 泰 広
YAMANASHI MTB 山守人 代 表  弭間亮
総務省
林野庁
環境省

私は、登山道に関する法制度の現状と登山道の管理責任について話をした。

関係者の考え方はさまざまだろう。
環境省は環境保護を考え、自治体は地域振興(経済振興)を考え、山岳団体は、経済振興ではなく、登山振興を考える。山小屋や警察などは、事故防止を重視するだろう。
私は、登山に限らず自然へのアクセスの保障や環境保護は国民の幸福追求を実現し、個人の自立と自律を支え、民主主義社会の基礎を形成すること、また、それは人間の生存にとって必要だと考えている。


2024年5月12日

富士山登山通行料

富士山の山梨県側登山道では、7月1日から通行料2000円が必要になる。
また、入山者が1日に4000人に制限されるが、山小屋宿泊者は制限されないようだ。つまり、4000人の制限は、環境保護のためではなく、山小屋に宿泊しない登山者を規制するものだ。トレランや熟練者の日帰り登山、訓練などが規制される。
規制の趣旨があいまいだ。事故防止のためであれば、山小屋宿泊者の事故者も多いので、これが問題になる。富士山では初心者登山者が多いことが、事故の最大の原因だ。山小屋の数が多すぎるのだ。山小屋の数が少なければ、初心者登山者が減り、事故も減る。
弾丸登山の制限は、事故防止ではなく(山小屋宿泊者の事故者も多い)、単に、山小屋が儲からないから制限するということのようだ。

世界の潮流は、事故防止ではなく、環境保護のための登山規制である。
登山者が多すぎることが環境破壊の原因である。弾丸登山者の数は知れており、弾丸登山が環境破壊の原因ではない。
山小屋宿泊者が無制限では、環境保護にならない。
環境保護のために登山を許可制にするのが世界の潮流だが、日本は世界の潮流から孤立している。



2024年5月2日
犬伏山(791m)・・・・・手入されない登山道の典型
広島県安芸高田市にある犬伏山に登った。
これは、ヤマップで見て、笹で登山道が見えにくい山とされていたので、調査のために登った。
登山道は、全体の3分の2が笹で覆われて見えなくなっていた。3分の1は笹に隠れているが、何とか登山道の痕跡を見分けられる。他は、登山道の痕跡が見えない。
看板は倒れて笹の下にあるか、成長した笹に隠されている。
登山道のうち1割くらいは、笹がなく、すっきりとした快適な登山道の箇所がある。笹を刈れば快適な登山道なのかもしれない。
登山道が笹に埋没しているので、地図、コンパス、GPSで確認しながら進む。ところどころに、赤いリボンがあるので、これも参考にする。リボンの数が少ないので、あくまで補助的なものでしかない。
林道は、倒木があり、車は通行できない。その先に駐車場の看板がある。
ネット情報は、令和2年~4年頃の情報でり、現在は笹がさらに成長している。腰~頭くらいの高さの笹の中を泳ぎながら進む。
笹に埋没し、展望はない。山頂も展望ゼロ。

問題は、林道入口や駐車場に、登山道の看板がある点だ。この看板を見れば、登山道があると思って初心者が入り込む可能性がある。初心者は道迷いする確率が高い。
これは登山道の看板に「騙される」のあり、日本ではよくあることだ。これに陥ると遭難する。
犬伏山が藪山として有名になるのはかまわないが、その場合は、「登山道は笹のために見えません。道迷いの危険が高いので、初心者は登らないでください」という危険表示が必要である。初心者に登らせないための管理が必要だ。
笹漕ぎとルートファインディングを楽しみたい人以外は、登らない方がよいだろう。


 
登山道は直進しているが、笹の下にあり、登山道が見えない。こういう箇所が続く。




2024年4月14日
ドーム球場での2塁打
巨人・広島戦で、内野フライがドーム球場の天井に入り、落下しなかった。これが規定上、2塁打の扱いになり、1点が入った。
これによれば、ファウルグラウンドに上がったフライでも、2塁打になる場合がある。内野でも外野でも、フライは落下するまでファウルかどうか判定できない。明らかに内野のファウルグ
ラウンドに上がったフライでも、落下しなければファウルの判定ができない。キャッチャーフライも、ドーム球場の天井に入り、落下しなければ、2塁打になる???

ルールの限定解釈もありえたのではないか。この規定の趣旨は、ホームラン性のあるフライの場合の規定であり、明らかにそれに該当しない場合には、このルールを適用しないという限定解釈をするということである。キャッチャーフライなどにはこのルールを適用しない。ホームラン性のあるフライかどうか判断できないという意見がありうるが、今回の場合は、その判断ができない人はいないだろう。判断が難しい場合は2塁打にすることになるだろう。「明らかな場合」だけの扱いである。
このような限定解釈は、法律の世界では多い。
高校受験の願書出願が中学校のミスで期限を過ぎた場合に救済措置をとったことなどがその例である。「本人のミスによらない徒過」の場合には、期限に関する規定を適用しない扱いをするのである。
東北大震災時に、津波から逃げるために、車でスピード違反や信号無視をしても処罰しない扱いなども、法律の限定解釈である。

このような適正なルールの解釈をすれば、上記のケースでは、2塁打とする規定を適用せず、「規定がない場合」であり、審判の裁量判断でバッターに打ち直しを命じればよい。

あらゆる規定を形式的に適用すると、おかしな場面がいくらでも出てくる。いくらでも笑えるいおうなケースが出てくる。内野フライが2塁打になるのは、十分笑える。
自然公園での幕営禁止・・・キャンプ場のない山域はどうすればよいのか。ビバーク禁止か? 遭難時にどうすればよいのか? チンネや北鎌尾根は登れなくいのか?


ルールについて
日本では、ルールを杓子定規に考える人が多い一方で、行政指導などのあいまいなルールが多用される。
ルールは拘束力があることが前提だが、日本では、拘束力のないルールが多い・・・・・マスク着用、富士山の冬山登山禁止、富士山のドローン禁止など。これを世論の同調圧力で強制しようとする。
あいまいなルールが多い。・・・・努力義務、犬連れ登山禁止、自然公園での幕営禁止などなど
あいまいなルールは、管理する側に都合がよい。どうにでも運用でき、便利なので多用される。しかし、それは利用者に不利益だ。
あいまいなルールをを杓子定規に適用したら、笑い話が増えるが、時には悲劇になる。内野フライが2塁打になるルールは笑えるが、自然公園でのテント禁止で遭難するルールは、悲劇だ。
適切に解釈することの重要性・・・・・野球の審判も同じだ。



2024年4月13日
大谷の事件…雑感

 大谷氏の事件に関して、当初、事実関係が不
明だったが、私は、最初から、大谷氏が刑事責任を問われることはないだろうと思っていた。
 日本とアメリカで法律が異なるが、刑事責任が生じるかどうかは、弁護士には何となくわかる。メディアにさまざまな弁護士が登場したが、ずいぶんいい加減なコメントをすると思っていた。

大谷氏のような被害に遭わないにはどうすればよいか。
パスワードなどが盗まれることがある。フィッシング詐欺、ウィルスなど。あるいは、日本人と交際中の外国人女性が、日本人男性のパスワードを盗み、カードから預金を盗むケースがある。その外国人女性は偽名で、住所不明、所在不明、顔しかわからない。

パスワードなどを絶対に盗まれない方法、絶対に詐欺に遭わない方法はない。しかし、被害を最小限にとどめる方法はある。
大谷氏のケースでいえば、通帳残額をこまめにチェックするという方法だ。
しかし、一度に大金を盗まれたら、お手上げだ。

この点は、銀行側のチェック体制を厳格にするほかない。大谷氏のケースでいえば、銀行のチェックの甘さは明らかだ。電話での本人確認・・・・・・日本でも多い・・・・・これは甘い。
日本であれば、銀行の過失を問う損害賠償請求訴訟が可能ではないか。大谷氏は有名人であり、日本人であることを銀行員もそれを知っているはず、オオタニという預金名義、本人確認を流暢な英語で行ったこと、送金額が大きいこと、送金を繰り返していることから、銀行に過失があるのではないか。
ただし、銀行に落ち度があることになれば、今の決済システム全体が破綻するのではないか。
誰もが水原氏のやり方を真似て簡単に銀行詐欺ができてしまい、それを銀行が弁償することになれば、大変なことだ。

連邦警察の銀行詐欺での立件が早かったこと・・・・異常に早い・・・・・早急に銀行被害を世論に訴えることで、銀行を守ろうという政治的な意図があるのではないか。私は、銀行を守るための政治的意図を感じた。
それで検察が異例の記者会見を行ったのだ。
水原氏の足枷をされた身柄拘束の光景をマスコミに公開したことも、検察の政治的な意図があるだろう。
トランプの身柄拘束の場面は絶対にマスコミに公開しない。トランプも身柄拘束されたから保釈されたのである。保釈は、身柄拘束からの解放である。

日本でも、電話での本人確認は問題だ。例えば、妻の不倫相手が夫になりすまして、クレジットカードの紛失届を出し、妻が郵送されたカードを受け取ることが可能だ。
日本であれば、胴元に対する損害賠償請求も可能だろう。日本であれば、裁判官は大谷氏に同情するが、アメリカでは、陪審員(民事陪審)が判断する。


2024年4月4日
落雷事故

4月3日に、宮崎県でサッカー中の落雷事故が起きた。
雷鳴や雷雲などの落雷の予兆がある場合には、管理者に損害賠償責任が生じるというのが判例だ。
今回は、その予兆がなかったが、落雷が予見できたかどうかが争点になる。落雷注意報は出ていたようだ。
予見できたかという議論は、禅問答に近い。

数年後に民事裁判になるだろう。なぜ数年後かといえば、日本では、すぐに裁判することはしないからだ。アメリカでは、事故の数週間後に裁判を起こすことがあるが、日本では、事故の検証や第三者委員会などが先行する。消滅時効が迫って訴訟提起する。山では、夏はたいてい落雷注意報が出ており、たいてい午後は積乱雲がある。それだけで落雷の予見可能性があるかどうか。山ではほとんどの場合に、落雷の予見可能性が認められ、限りになく無過失責任に近づくだろう。

学校事故でも、裁判所の考え方は、実態としては無過失責任に近づいている。防ぎようのない事故でも、過失があったとみなされる。これは、学校は安全でなければならないという社会的価値観を裁判所が重視するからであり、ある種の価値判断だ。日本はそういう社会であり、裁判所は逆らえない。
学校では無過失の補償制度が必要ではないか。労災補償のような制度だが、それでも学校の責任を追及する裁判がなくなることはないだろう。



2024年3月28日
アメリカでの橋梁事故・・・・救助活動打ち切り

3月26日に事故が起き、その夜、警備隊が救助活動を打ち切った。・・・・日本人から見ると、救助活動の打ち切りが早すぎると思うのではなかろうか。
一般に、公的な救助活動は、生存の可能性がなければ打ち切られる。
日本でも同じであり、冬山遭難では、警察、消防の捜索、救助活動は数日で打ち切られる。遭難対策協議会も警察に連動する。あとは、遭難者の家族や友人らが捜索を行うほかない。

救急車は、事故直後であれば搬送するが、死亡を確認した場合は、被害者(遺体)を搬送しない。遺体搬送は家族がマイカーか霊柩車で搬送する。タクシーも遺体搬送を拒否する。病院も遺体を病院者車で搬送してくれない。多くの場合、救助隊員が死亡を確認していないことにして救急車で搬送し、病院で死亡を確認する。

ただし、日本では、警察、消防は政治で動くので、御嶽山の噴火事故、自衛隊関係の海難事故などでは、政治的な判断から1年以上も捜索活動が続けられた。これは特別扱いである。1年後も生存の可能性があったということではない。
山岳事故でのこのような特別扱いは、ほとんどない。雪崩事故の場合は、警察が生存の可能性があることにして、長時間、捜索することがあるが、不公平感は否めない。

冷たい海水に落下すれば、数十分で死亡するので、アメリカの公的救助機関は法律に忠実に生存の可能性がなくなれば、あっさりと捜索を打ち切るようだ。
日本であれば、公的機関が数日間は捜索して「救助」し(救助活動なので、遺体発見とは発表できない)、病院に搬送して死亡を確認するだろう。



2024年3月20日
登山リーダーの責任
・・・・オンライン講義

日本山岳スポーツクライミング協会・夏山上級リーダー講習会(関東地区)  実施日  2024年3月20,23,24日  

2024年3月18日
北海道新聞の記事

3月12日の北海道新聞の羊蹄山雪崩事故に関する記事に、僕のコメントが掲載されている。
記事では、「事故防止を目的とした冬山の規制は国内外でほとんど例がない」というコメントに
なっているが、僕が述べたのは、法的な規制についてである。
法的規制ではなく、行政指導による規制は日本では多い。富士山の冬山登山の禁止などが、行政指導による冬山登山の禁止の例だ。しかし、冬山登山の法的な規制は、群馬県と富山県の登山条例くらいのものだろう。バクカントリースキーの法的な規制はほとんどないが、法行政指導による規制は多いかもしれない。
法的規制と行政指導を区別することが重要だが、これを混同する人が多い。


2024年3月13日
バックカントリースキーの規制

事故防止のためにバックカントリースキーを規制すべきだという声が一部にある。世界では、エリアを定めて環境保護のために許可制にする場合がある。
アメリカの富士山ことホイットニー山では1日の登山者が100人程度に制限されている。しかし、欧米では、環境保護のために登山を許可制にすることは多いが、事故防止のために規制することはほとんどない。バックカントリースキーの規制はほとんどない。
夏の富士山で事故防止のために登山を規制すべきだろうか。
富士山では環境保護のためび登山を規制する必要がある。

事故防止のために登山を規制できない理由
・規制するのは危険な行為である。包括的にすべて禁止することは過剰な規制であり、憲法に違反する。バックカントリースキーでは危険性の程度が地形や雪の状況、時期次第で変化する。固定的なものではない。降雪直後は危険でも、数日すれば雪が安定して危険でなくなる。2月は危険でも、3月は安全なコースがある。危険かどうかを誰が判定するのか。役所が判定するとすれば、役所に専門家を置かなければならない。事故防止のノウハウは役所にはない。アウトドア活動の素人の公務員では判断できない。
・役所が危険かどうかの判断をすることは危険である。これは、中国が危険な行為を取り締まることをイメージすればわかる。国家にとって不都合な行為を規制することになる。
事故防止のために登山を規制しても、事故は減らない。富士山がその例だ。富士山では事故が増えている。
・効果のないことをするのは税金の無駄だ。規制をするには、役所の人件費がかかる。公務員のサービス残業で扱えば別だが。

・規制は、違反者に刑罰を課さなければ効果がない。危険な行為を処罰する国家は「危険国家」である。中国、ロシア、北朝鮮、戦前の日本がその例だ。
・日本では、行政指導としての禁止が多いが、これは、法的拘束力がなく無意味だ。アウトドア活動を禁止すると先進国と言えないので、それはできず、拘束力のない「禁止」をする。この禁止は国民には効果を持つが、対外的には、「日本は法的には国民のアウトドア活動を制限していません」と弁解できる代物であり、悪質である。日本の政治にはこのようなゴマカシ、いい加減さが多い。
・行政指導は欧米では稀であり、欧米人は行政指導としての禁止を理解できない。行政指導は、それに違反しても違法ではない。欧米人は、「できるのか、できないのかどちらなのか」と考える。行政指導は、法的には「できる」が世論から「禁止」だとして叩かれることを意味する。
・山岳スキーがオリンピック種目になったが、
バックカントリースキー人口が増えれば、山岳スキー競技が強くなる。クライミング人口が増えれば、オリンピックのクライミング種目が強くなるのと同じだ。オリンピックでやたらとメダルをとりたがる日本人は、バックカントリースキーの規制ができないのではないか。
バックカントリースキー事故で亡くなる人は多くない。年間、20人もいないのではないか。マスコミが大きく報道するので、j事故が多いと感じる人が多い。海難事故で年間700人くらい亡くなっているが、「海水浴を禁止しろ」と言う人は少ない。役所が努力しても海難事故がなくならない。事故防止のノウハウは役所にはない。


事故防止のためにできること
・行政ができることは、アウトドア活動の規制ではなく、警告表示、登山道の管理などである。アメリカやカナダでは、自然公園をフロントカントリーとバックカントリーに分け、前者はトレイル、標識などを整備し、後者は整備ではなく危険表示をする。カナダには、橋や標識が一切ない国立公園があり、危険だが、禁止しない。その代わり入山料100ドルを徴収し、入山者に約1時間の危険性の講義を行う。
・危険が生じれば、役所はトレイルをクローズするが、これは通行禁止ではない。欧米では、日本的な法的拘束力のない「禁止」はない。役所は危険情報を提供する。
・アウトドア団体や研究機関が、講習会、事故防止のノウハウ、研究活動、啓蒙活動を行っている。



2024年3月1日
ペットを食べたらどうなるか
神奈川県で、ウサギ30羽を捨てたことについて、動物愛護法違反が問題になっている。ペットを捨てることは犯罪である。ペットの虐待も犯罪である。
しかし、愛護動物を食べるために殺すことは、違法ではない。人間は家畜を殺して食べているからだ。
ペットは牛や羊とは違うと思うかもしれないが、韓国では犬を食用にしている。日本の韓国料理店で犬料理を出す店がある。
牛や馬、山羊をペットにする人もいる。
法的には、ペットと家畜の区別ができない。家畜でも愛着がわけばペットである。どちらも愛護動物と呼ばれる。ペットと家畜で差をつけることは、不公平である。家畜を愛護動物と呼ぶのはギマンではないか。
愛護動物は、殺すまでの間は愛護しなければならない。これもギマンだ。
食べるためには殺すほかない。虐待は違法だが、保健所でペットの殺処分している。殺処分は残虐ではないのか。
飼えなくなったペットは保健所で殺処分してもうか(ほとんどの保護犬が殺処分されている)、自分で食べるほかない。新たな飼い主を見つけるのはかなり難しい。
ペットを保健所に持っていくことを残酷だと感じる人が(殺処分されるので)、捨てるのではないか。しかし、これは生態系を壊したりするので、違法とするのだ。新たな飼い主を見つけることができなければ、殺処分して生態系を維持する。
イギリスでは役所がペットを殺処分することはないらしい。


人間はわがまなで残酷な生物だ。動物を殺して平気で食べるのだから。
法律はこのような人間の都合(文化とも呼ばれる)に基づいて作られる。





2024年2月27日
カスハラ・・・・何が問題
東京都がカスハラ条例を制定するようだ。
この問題は、クレーマーの客に対し、店員や店長がきちんと対応することが、まず、重要だ。
客のクーレムに店員が毅然と対処できるように経営者は店員教育をすべきだが、逆に経営者は、「お客様は神様」扱いとお辞儀の仕方などを教育する。これは経営者の管理責任の問題だ。

欧米であれば、客がクレームを言えば、店員が反論するだろう。そこで議論をすればよい。
客が暴言を言えば、店員は、「店から出て行ってください」と言えばよい。それで退去しなければ、不退去罪で現行犯逮捕できる。

それでおそらく9割のクレームに対処できるのではないか。
あとの1割は、客による暴力であり、これは110番通報するしかない。カウンターに防犯用のプラスチック板を設置してもよい。
日本では、客の脅迫行為があっても、110番通報しない。店の経営者がのように教育しているのだろう

「そこまではとれもできない」と言う人が多い。そこが問題であり、それができるように店は訓練を実施する必要がある。
根底に経済優先の日本の社会の体質の問題がある。「お客様は神様」扱いをしなければ、儲からないという考え方だ。
現実は、客はさまざまであり、当然、クレーマーや変質者がいる。それに対処するのがリスクマネジメントである。
「お客様は神様」扱いをして、店員が客から被害を受ければ、経営者は法的責任を問われる。
店員を守るのは、条例ではなく、まず、経営者でなければならない。


今後、グローバル化すれば、外国人客が増え、「お客様は神様」ではないことが、もっと明瞭になるだろう。



2024年2月25日
伊吹山での事故
伊吹山で落石による死亡事故が起きた。
これに関して、伊吹山は、「登山禁止」、「入山禁止」、「伊吹山は登山自粛」などの報道がなされた。

「登山禁止」、「入山禁止」、「登山自粛」、「登山道の通行禁止」、「登山道の閉鎖」は、意味が異なる。
「登山禁止」は、登山はダメだが、観光などは認められる。
「入山禁止」は、観光で進入するのもダメ
「登山自粛」は、あくまでお願い、行政指導であり、拘束力がなく、登山をしても違法ではない。
「登山道の通行禁止」は、登山道以外の場所であれば、登山が可能。冬は登山が可能。
「登山道の閉鎖」は、禁止ではない。

これらを区別しなければ、法治国家とは言えない。

法律的には、おそらく、登山道の通行の自粛、もしくは登山道の閉鎖ではないか。これは、行政指導。
また、雪が積もれば、登山道が埋没するので、閉鎖は無意味になる。
管理する側からすれば、やたらと禁止を使いたがる。禁止すれば、許可された行為だけができる。これは、人は生まれながらにして不自由であり、国民は、国家から、許可された行為だけができるという考え方であり、江戸時代はこのような支配体制だった。明治以降も、似たようなものであり、現在でも、実態はこれに近い。学校や、会社はこの考え方だ。長谷川恒男が、「学校は刑務所のようだった」と述べたのは、このような意味だろう。



2024年2月23日
外国人登山者の遭難
外国人登山者の遭難の報道が多い。
外国人登山者の遭難件数の正確な報道はないが、おそらく増えているのだろう。富士山登山や北海道でのバックカントリースキーで外国人の遭難事例が多いようだ。
このような遭難がある度に、日本的な非難がなされるが、それでは遭難は減らない。
外国人の観光客が急増しているが、外国人の観光客が増えれば登山者も増える。「外国人の観光客を増やしたいが、登山者は増えてほしくない」が自治体のホンネかもしれないが、それは無理である。富士山などでは観光客と登山者を区別できない。ニセコでも、外国人スキーヤーがコース外滑降をするのだ。コース外滑降を禁止しても、バックカントリースキーを法的に禁止できない。
バックカントリースキーを禁止することは登山を禁止することを意味し、登山を禁止すれば日本は先進国の仲間入りができなくなる。中国やロシアですら、登山を禁止していない。北朝鮮であれば、登山を簡単に禁止できる。
登山を禁止すれば、観光を禁止することになる。登山と観光は区別できない。これは、観光登山や、高尾山、富士山、尾瀬、阿蘇山、上高地などのハイカーを考えれば、理解できるだろう。高尾山を歩く人は観光客なのかハイカーなのか。ハイキングは登山の一形態である。

外国人の観光客が増えれば登山者も増える。登山者が増えれば、事故も増える。これは避けられない。


欧米では、山岳事故の救助活動は役所が行っても、、山岳事故の防止は役所の仕事ではなく、もっぱら民間団体が行う国が多いようだ。役所が登山届を受理しない国が多い。欧米では、登山届は家族や山岳会などに出すべきであり、役所に出すことはないようだ。なんで、役所が個人の行動のことまでいちいち心配してやらなければならないのか?余計なお節介だ、という考え方。 日本とは発想が違うのだろう。


2024年2月22日
被災地でのボランティア活動
能登地震被災地で、重機によるボランティア活動が重宝している。ただし、重機での操作には資格が必要であり、事故が起きると業務上過失致死傷罪になるので、注意がいる。ボランティア活動でも重機の操作は「業務」である。これは、ボランティアで自動車を運転するのと同じだ。自動車の運転もボランティア活動であっても「業務」である。
また、ボランティア活動であっても民事上の注意義務がある。重機での操作は危険であり、相応の注意義務が生じる。医師などのボランティア活動も同じ。詳細は、拙著、「ボランティア活動の責任」(共栄書房)参照。

ボランティア活動は、労災などの保障はないが、責任を伴うということだ。被災地でのボランティア活動を労災などの保障の対象とするという政策もありうるが、日本はそうしていない。

被災地での重機使用は、無償であっても、ボランティアではなく、公的団体等がオペレーターを雇用して使用すべきだ。オペレーターは専門職の危険作業であり、給料の支払いがなされ。雇用保険が適用される。公的団体等は無報酬。




2024年2月18日
司法改革で必要なこと
国民の8割が利用できる弁護士費用の分割払制度。日本では弁護士費用にクレジットすら使えない。これは日弁連の策略か?
所得の少ない人は返還免除の司法支援制度が必要だ。


2024年2月17日
スポーツ推薦入学は不公平か
佐々木麟太郎がアメリカの大学にスポーツ推薦で入学する。約5000万円の学費もタダになるらしい。アメリカの大学には、規定に基づくコネ入学は当たり前であり、著名人の子弟もこれで入学する。
日本では、コネ入学は裏口入学と呼ばれるが、アメリカでは正面からコネ入学する。
不合理な基準で不合格にすることは平等原則に反するが、不合理な基準でコネ入学させても違法ではない。コネで入学できない人は、もともと試験で合格していなければ、不利益を受けたとは言えないから
だ。日本で多いコネ入学は違法ではない。天皇の親族を特別に入学させても違法ではない。

しかし、違法ではなくても、コネ入学は不公平である。ただし、不公平であれば違法だという法律になっていないので、世の中に不公平なことはいくらでもある。もとも市場経済や競争社会は不公平だ。
公平とは何かは難しい問題だ。大リーグの選手の高額な年俸は公平か。会社や役所の人事は公平か。今の税率は公平か。美人がモテるのは公平か。体重150キロの力士と力士の対戦は公平か。優秀な人とそうではない人が、同じテストを受けることが公平か。健常者と知的障害者が同じ授業を受けることが公平か。

公平かどうかを決めるのは価値観による。
柔道やレスリングなどでは、体重別にするのが公平だとされ、相撲はそうではない。
芸能人の入学は不公平ではないが、受験生の美醜で合否を判定するのは不公平とされる。
会社経営者の子弟の採用は不公平ではないが、一般人のコネ採用は不公平と考える人が多い。しかし、中小企業ではコネ採用が多い。
格差社会で落ちこぼれると生きていけない社会は不公平だろう。

不公平かどうかを議論しても、違法でなければ意味がない。違法でなければ、それを行うことが可能だからだ。
それでアメリカでは、不公平かどうかではなく、違法かどうかが議論される。

天皇の親族を東大に特別に入学させても違法ではないので、不公平かどうかを議論しても仕方ない。
佐々木麟太郎が大学に推薦で入学することが不公平かどうかを議論しても仕方ない。

しかし、日本の世論は、違法かどうかではなく、不公平かどうかを議論する。これは、おそらく、日本の社会が、法律ではなく、世論で動く社会からだろう。

競争社会では格差が生じるのは当たり前だ。差が生じない競争は、ない。競争社会では格差は違法ではない。貧富の差も違法ではない。
しかし、
社会的格差の是正を法律で規定すれば、格差は違法になる。格差是正のためにどのような法律を作るかを議論する必要がある。例えば、最低賃金の引き上げ、社会保障、税制、返還不要の奨学金、返還不要の司法支援制度など。


2024年2
月5日
ロシア、中国の侵略的体質
ロシアと中国には侵略国家としての体質がある。
この点を、両国が社会主義国だったからだという意見があるが、そうではない。
ロシアと中国は、社会主義国になる、はるか以前から、侵略的な体質があった。
中国は漢や唐の時代から、西域や南海を支配しようとしてきた。
ロシアも同じである。第一次世界大戦前のロシアの侵略国家としての様子は、「チボー家の人々」などに描かれている。当時のロシアは、ロシア革命以前であり、皇帝が支配していた。
ロシアと中国の歴史は、侵略の歴史だ。
両国とも遅れた国だったので、国民の不満が大きく、それが社会主革命につながった。社会主義革命により生産手段を国有化し、国家が大きな力を持った。マルクスが考えた「国家の消滅」どころか、ロシアや中国では国家の力がむしろ強化された。
欧米の市民革命の歴史は、国家の力を制限することをめざしたが、国外での侵略的行動を抑えることはない。この点は、市民革命後の欧米が、国外では、こぞって植民地を拡大してきた歴史を見れば明らかだ。

現在のロシアは資本主義国である。
中国は社会主義国であり、土地が私有化されていないが、生産手段の多くが私有化されている。資本主義と社会主義の違いは、生産手段の私有化を認めるかどうかである。社会主義=生産手段の国有化ではない。
中国はかなり市場経済化しているが、政治的民主主義がない。
ロシアは資本主義国であるが、政治的民主主義がない。
資本主義、市場経済=民主主義ではない。
政治的民主主義は、経済体制とは別の問題である。
対外的な覇権主義も経済体制と別である。
自由主義経済は、しばしば、新たな市場を求めて対外的な侵略行動をもたらす。
国際的な場面で侵略行動(戦争)を阻止するには、カントが述べたように、国際的な平和機関が必要だ。


2024年
月2日
「登山道の管理や法的責任」講演 福島県、郡山市 環境省ロシアと中国のロシアと中国のロシアと中国

郡山市は遠方なので、2泊3日の旅行になった。
この日の郡山は非常に寒かったが、参加者は約130人。
参加者は、国、市町村、県、観光協会、山小屋などの関係者、山岳ガイドなど。
登山道の管理の問題に対する関心の高さがよくわかる。




2024年1月28日
派閥解消は茶番

自民党に派閥解消の動きがあるが、これは無意味だ。
憲法上、結社の自由があるので、派閥を解消しても、それに代わるものを作ることができる。
2人集まれば、グループを結成できる。それを勉強会、政策集団、グループ、派閥、党内政党と呼ぶかどうかは、言葉の問題でしかない。
グループ結成を禁止できない。
政党結成を禁止できない。党内政党(派閥のこと)を禁止できない。

政治資金の使途の公開とすべての団体献金の禁止・・・・これが必要だ




2024年1
キリマンジャロ登山
年末年始、キリマンジャロ(5895m)に登った。
18年前頃から、高校の同級生でキリマンジャロに登る計画があった。
当初、60歳になって行く計画だったが、雇用延長などで実現しなかった。
次に、65歳になれば、ヒマになるのではないかと思われたが、コロナの影響で実現しなかった。
そして、68歳の今、実現した。
外国の高山に登りたいという人は多いが、たいてい願望だけで終わる。願望を実現するには、意欲が必要だ。
11日間の休暇をとることは、要職にあるサラリーマンには難しい。ようやく仕事から解放されると、年齢的に、体力、気力が衰えていることが多い。
しかし、今回、これが実現したのは、意欲が勝ったからだろう。
キリマンジャロは歩いて登ることができる山であり、特別な技術はいらない。日本国内で15キロくらいの荷物を背負って数日間の縦走登山をしている人には、キリマンジャロは難しい山ではない。ダイアモックスを飲めば、高度障害もほとんど出ないだろう。この日は、キリマンジャロの稜線にけっこう雪があったが、通常はキリマンジャロの稜線に雪はない。



  
この日の行動時間は、午後11時出発で、約17時間だった。夜中、降雪の中を行動した。