2026年 溝手康史
2026年3月13日
那須雪崩事故の刑事裁判の高裁判決について
那須雪崩事故の刑事裁判の高裁判決(東京高裁令和8年3月4日判決)を読んだ。
判決は、
講習実施前に3人が協議した際、3人の教師は、
・急斜面である上部斜面(雪崩が起きた斜面)で雪崩発生のおそれのあることを予見できた。 ・生徒らが上部斜面に立ち入る可能性は高くなかったが、それを予想できないことはなかった。
・生徒らが上部斜面に立ち入った場合に雪崩が起きることを具体的に予見できた。
・共同で事故を回避すべき注意義務があり、これに違反した共同過失がある。
また、
2班講師は、1班が上部斜面を移動する場面を見たので、事故の予見が容易だった。
などと述べている。
判決では、事故の予見可能性の認定がかなり緩やかだ。
現実には、雪崩の現場にいなかった大会会長は、生徒らが上部斜面(雪崩が起きた斜面)に立ち入ることを予想していなかったはずだが、判決のように、「予想できないことはなかった」と考えるかどうかは価値判断に属する。
判決は、上部斜面に立ち入った場合に事故が起きることを講習実施前に具体的に予見できたとしているが、現実に上部斜面に行かなければ、具体的な雪崩の予見は難しい。
漠然と尾根の上部で雪崩の危険があるかもしれないと考えることは可能だが、それは抽象的な予見可能性であり、具体的な予見可能性ではない。しかし、最近の刑事判決は、予見可能性の判断を抽象化する傾向がある。
「法的責任は社会秩序を維持するための儀式である」と述べる社会学者がいるが、それはかなりの部分で当たっている。裁判所は、世論が形成する「社会秩序」=「社会通念」を重視する。
高裁判決は、一審判決と違い、2教師について、事故の予見可能性の認定の難しさを感じたと思われ、それが2教師に執行猶予を付けた大きな理由だろう。
2026年3月5日
那須雪崩事故の刑事裁判の高裁判決について
那須雪崩事故の高裁判決の判決要旨を読んだ感想(判決文はまだ入手していない)
1審判決と同じく、3人の被告人の共同過失を認定している。
本部にいた会長については、「講習会参加者が雪崩の危険のある区域に立ち入ることの予見可能性は高くなかったが、参加者が立ち入る場所を限定すべき義務があった」とし、微妙な言い回しをしている。
1班(雪崩を引き起こした班)講師については、雪崩の発生した斜面にいたので、雪崩を予見できたとし、2班講師は、1班の行動を離れた場所から「多少とも見た」ので、雪崩による死傷結果を予見できたという簡略な記載になっている。
共同過失を認定した理屈はかなり強引な判断だ。共同過失では、各人の注意義務違反の認定の厳格さがなくなる。かつては、実務上、共同過失の理屈が使われることはなかった。本来、注意義務は一人一人個別に考えるべきものだ。
量刑については、
本部にいた会長は、直接移動場所を指示する立場になかったこと、各班の行使が引率する前提だったこと、参加者が雪崩の危険のある区域に立ち入る予見可能性が高くなかったことなどが、執行猶予を付けた理由になっている。
1班講師については、1班の行動を直接指示すべき立場にあったことなどから、1審判決の量刑を維持した。
しかし、2班講師については、判決要旨では、執行猶予を付けた理由は明確ではない。
過失認定の微妙なケースで、裁判所が執行猶予期間5年を付けることは、よくあることだ。
2026年2月
「富士山の「閉山期登山について」、総合ニュースサイトENCOUNT
https://encount.press/archives/934743/
2026年1月
最近、ハイデガーの「存在と時間」を読んでいる。
「存在と時間」は、難解なことで有名だ。こんな難しいことをよく書いたものだと、感心し、呆れる。中山元氏の解説を読み、少しは何となく理解できるという感じだ。
この本は、危険性のある活動や創造的な活動をしようとする人にとって、示唆に富む。ハイデガーは、人間は誰でも俗世間の価値観や行動態様に染まって生きていると言う(ハイデガーは、これを「頽落」(たいらく)と呼ぶ)。誰でも、自分で決めたと思っていても、俗世間の価値観に従って選択していることが多い。進学、就職、結婚などはその典型だ。裁判は、頽落の世界で行われる儀式だ。
登山には常に何らかの危険性があるが、それに気づくことなく、安全だと思い込み、安心することも一種の頽落である。しかし、ハイデガーは、不安をきっかけに人間が「死に臨む存在」であることを先取り(先駆)し、本来の自分を取り戻すことができると言う。恐怖は自分を見失わせ、頽落を増進させるだけだが、不安は本来の自分を取り戻させるとハイデガーは言う。
危険性の高い登山では、常に、人間の命の有限性を意識する。それが、「本来の自分」に近づくきっかけになるのだろう。また、人間が住む環境世界が「生活の道具」や経済活動の対象から「ただ存在する」対象に変わることで、自然が科学、登山、文化活動などの対象になる。
写真家の星野道夫は、親友を山岳遭難で亡くし、「人生の持ち時間が有限である」ことを悟り、アラスカへ行き、写真家になった。彼にとって、それが「本来の自分」だったのだろう。
2026年1月
安倍元総理殺害事件判決
1月21日に安倍元総理の殺害事件で、被告人に無期懲役を言い渡す判決があった。
この判決文(要旨しか読んでいないが)は、3人の裁判官と6人の裁判員全員の見解という形式と体裁になっている。しかし、量刑の理由が全員同じというのは奇異である。
人間の判断過程は人によってさまざまであり、同じ結論であっても、それに至る思考過程は人によって異なる。量刑の理由は6人の裁判員で異なるはずである。しかし、判決文は、全員一致(であるかのように)で判断の理由が記載される。判決の結論は別として、そこに至る判断の過程と理由は多数決になじまない。しかし、判決文には、整理された統一的な判断理由が記載されるが、たとえば、被告人の生い立ちが意思決定に影響したかどうかの判断は、多数決で決めるべき事柄ではない。
私は、日本の裁判所の「隙のない整然とした判決文」に、ある種の危険性を感じる。そこでは人間の思考過程が管理されている。オーウェルの「1984年」とまでは言わないが。
この点は、ある社会学者が指摘するように、「日本では、責任現象は、社会秩序を回復するための儀式として機能する」(「責任という虚構」、小坂井敏晶、東京大学出版会)ことが関係しているだろう。
近年、山岳事故が業務上過失致死傷罪で起訴されるケースが増え、起訴された事件がすべて有罪になっていることは、山岳事故の裁判が、世論の激しい非難に基づいて「社会秩序を回復するための儀式」化した結果である。
2026年1月
畝崎ファーム
私の事務所の近くにある畝崎ファームを訪れた。
畝崎辰登さんは、里山連携会議などで、里山の保全活動をされている。
自然農法で、さまざまな野菜や果樹を育てておられる。
自然農法は、有機農法に似た言葉だが、自然の循環を利用した農業のようだ。畑を耕すことはせず、雑草を活用して土壌改良をし、植生の組み合わせによって畑の地力を増進させる。
かつてこの地域で栽培がさかんだった紅花の栽培を復活させる活動もされている。
奥さんの畝崎雅子さんも同席されており、冊子「ヒロシマとハワイを結ぶ物語」をもらった。これは、戦前、広島からハワイに移民した家族と子孫の物語であり(かつて、広島からハワイへの移民者が多かった)、日本語と英語で書かれている。
世界大戦をはさんでハワイに移民した日本人が置かれた困難な状況を乗り越えていく物語だが、外国人叩きの傾向のある最近の日本の世論や、アメリカでの移民排撃傾向の中で、「外国人、民族とは何か」を考えさせられる。
日本では、「日本人ファースト」を唱える政治家がいるが、アメリカでは、トランプは、「アメリカファースト」と言っても、「アメリカ人ファースト」とは言わない。この違いは興味深い。
著者の畝崎雅子さんは、ひろしま通訳・ガイド協会の会長をされていることを後で知った。
