弁護士の増員問題から見えるもの(その2、加筆版)   2008
                
                                         弁護士 溝手康史
(目次)
1、はじめに

2、金のない者は利用できない日本の司法
3、弁護過疎の原因
4、弁護過疎の解消のために必要なこと
5、弁護士の過度の競争がもたらす弊害
6、弁護士の費用は労力に比例する
7、弁護士の数と需要のバランス
8、弁護士の収入について
9、法曹資格と競争
10、法曹の変質
11、従来の日本の弁護士のスタイルの否定
12、弁護士の人権活動
13、司法改革がめざすべき理念

 

  
1、 はじめに
 「望ましい法曹人口」という理念に基づいて司法試験合格者数3000人という数字が定められたが、「望ましい法曹人口」という点から言えば、日本の弁護士の数は圧倒的に足りない。
 かつて、弁護士に依頼するのは、企業、事業者、資産のある市民に限られていた。民法の財産法の規定は財産のない市民にはほとんど関係がなく、遺産がなければ相続法や遺言の諸規定は必要ない。離婚する場合、離婚の相手に財産や収入がなければ、財産分与、慰藉料、養育費に関する規定はほとんど意味を持たない。裕福ではない庶民のほとんどは、長い間、司法と無縁の生活を送ってきた。従来の弁護士の数は、このような日本の司法の状況を反映していた。弁護士の数が少ないことについて庶民から不満の声がほとんど出なかったのは、ある意味では当然だった。かつては、庶民にとって、弁護士の数が多かろうと少なかろうと、弁護士に相談することがなかったので、自分たちには関係がなかったのである。
 しかし、社会状況の変化は一般の庶民に多少の資産や収入をもたらし、信用経済の進展は庶民に負の財産をもたらし、いい意味でも悪い意味でも、庶民が財産法と関わりを持つことが避けられなくなった。また、市民の意識の変化は、庶民の生活のうえで法によって規律される範囲の拡大をもたらし、庶民にとってそれまで無縁だった法がようやく意味のあるものになりつつある。人権意識や権利意識が人々に浸透するようになったが、自己決定の未成熟なところに権利意識が強まると、「モンスターペアレント」のような人間を生みだしてしまう。法が持つ正義や公平の観念を理解したうえで権利を主張するためには、法の支配がもっと浸透する必要がある。日本の社会における法の支配の未熟性は、弁護士の数の少なさと関係している。
 市民が現実に法律を利用する時、弁護士の存在が必要となり、弁護士が利用される範囲は、企業や裕福な階層から庶民へと拡大した。その結果、日本にもようやく人口に応じた数の弁護士が必要な時代が到来しようとしている。
 ところが、「弁護士が必要である」ことは、直ちに「弁護士を利用できる」ことを意味しない。日本ではヨーロッパなどと異なって経済的に余裕のない市民は弁護士に依頼することが困難であり、弁護士が企業や役所など社会の多方面で雇用されるような社会的なシステムもない。
 弁護士の大幅増員の背景には、弁護士が増えれば、弁護士の仕事も増えるだろうという思惑があったが、平成15年以降、弁護士の数が急増しても裁判所の事件数が減少している。これは、裁判所の事件数が弁護士の数ではなく司法のシステムに左右され、日本の司法が利用しにくいからである。市民が弁護士に依頼できるかどうかは、社会、経済、法的制度に左右されるのであって、弁護士の数が増えれば、自然に弁護士に依頼できるようになるわけではない。家を建てたい人は多いが、建設業者の数が増えても、利用しやすい住宅ローン制度がなければ家を建てることができない。この当たり前のことを深く考えず、何となく、弁護士が増えれば、弁護士を利用できるようになると考えたのは、司法を運営する側も司法を利用する側も、それまでの弁護過疎の実情に余りにも無知だったからである。
 弁護士過疎とは、市民が弁護士に依頼したくても依頼できず、弁護士から疎外されている状況をいう。弁護士過疎は都会でも過疎地でも生じる。都会でも経済的に弁護士に依頼できない市民は弁護士過疎である。弁護士がまったくいない地域では、弁護士がいないために弁護士過疎が生じる。2008年以前に弁護士がまったくいない地域が日本に3か所あったが、これは2008年に解消された。現在ではすべての過疎地に弁護士がいるが、過疎地と都会との経済的格差が大きいために、弁護士過疎が生じる。
 過疎地の多くは弁護士の数が少ない。そこで、過疎地の弁護士の数を増やす必要があると主張されるのだが、過疎地の弁護士を増やすかどうかは、せいぜい数百人レベルの問題であり、毎年2000人以上の弁護士の増加が必要かどうかということとは、まったく別の問題である。無医村をどうやって解消するかという問題と、医者の総数を3倍に増やすかどうかという問題は別の問題なのであって、無医村を解消するために医者の総数を3倍にしようという議論は間違いである(医者の総数が3倍になっても無医村は解消できない)。
 過疎地の弁護士が少ないのは、@人口に較べて経済活動が低調であり、経済的紛争が少ないこと、A家事事件などの人間的紛争は人口に比例するが、従来、紛争が顕在化することを嫌う傾向があったこと、B過疎地と都会と経済的格差があり、経済的に弁護士に依頼できない階層が多いこと、Cそして、そのような実情に対し、弁護過疎を解消するシステムがないことに原因がある。
 ここでいう過疎地は、人口数万人以下の地域をさしている。人口10万人程度の都市はその地域の商工業の中心地であって過疎地ではない(ドイツでは、人口10万人の都市は都会と呼ばれる)。東京に長年住んでいると、大都市以外はすべて同じに見えてしまい、人口10万程度の都市が地方の小都市に分類されることがある。たとえば、「弁護士過疎地である島根県松江市に弁護士が赴任した」などの記述が時々みられる。中には、島根県や鳥取県全体が過疎地だと勘違いしている人もいる。東京から見れば、人口10数万人の松江市は田舎に見えるが、国際的なレベルでいえば都会である。また、松江市には既に多数の弁護士が開業しているので、弁護士過疎地ではない。弁護過疎という観点から考えた場合、人口20万の都市は大都会である。従来、人口10万人程度の都市には複数の弁護士がおり、人口3、4万人以下の都市に弁護士がいなかったのは、それなりの理由がある。
 マスコミ関係者、大学の研究者、法律家の多くが「弁護過疎の実態」を知らず、もっぱら都会のビルの中で数字と理屈に基づいて「弁護過疎」を論じている。議論は、数字や理屈ではなく、「現実を知る」ことから出発しなければならない。過疎地の実情は実際に過疎地で生活してみればすぐにわかるが、逆に、都会で理屈で考えたのでは、過疎地の実態はわからない。百聞は一見に如かず。
 現実や実態を無視して理屈で考えた政策は、早晩、現実に行き詰まる。現在生じている司法試験合格者の就職難は、今後の司法の混乱のほんの序の口である。そして、その後の司法の大混乱の後に、ようやく解決の展望が見えるはずである。
 
2、金のない者は利用できない日本の司法
 私は11年前(1996年)に弁護士過疎地と呼ばれる人口4万人(当時)の地方都市で開業した(1988年弁護士登録)。弁護士会が運営する法律相談センターが島根県に設置されたのは1995年であり、当時、まだ日本には弁護士会が運営する公設事務所はなかった。公設事務所が日本に登場するのは2000年である。
 当時の私の考えは、「ゼロワン」地区の問題は、弁護士自身が誰かが自ら飛び込まなければ解決できず、他の弁護士がしないのであれば自分がしようというものだった。「誰もしないことをしたい」というのが私のモットーである。
 以後、この地域で多くの借金に関する事件の処理に追われてきた。この地域では借金に関する事件は非常に多いが、破産事件は平成15年の300件をピークに平成20年は数十件に減少した。現在は、この地域では過払金請求と債務整理が弁護士の仕事の中心であるが、今後10年で、サラ金の倒産、整理に伴い、過払金請求事件は確実に減る。現在、すでに廃業するサラ金や強制執行をしても回収できないサラ金が現れている。また、債務整理事件は、利息制限法の改正などに伴い、今後、減少ないし態様が変わる。平成20年以降、裁判所の特定調停事件(通常は弁護士に依頼しない本人申立事件である)は激減している。弁護士の仕事は社会を写す鏡であり、社会が変われば弁護士の仕事の内容も変わる。
 私が開業した11年前も、現在も、この地域では借金に関する事件以外の一般的な市民事件は少ない。零細企業の相談もほとんどが借金がらみの相談であり、日常業務に関して相談することはほとんどない。零細企業は、弁護士に依頼する金よりも、支払が遅れがちな従業員の給料や滞納している税金の支払いに充てる方を優先させざるをえないのである。
 弁護士界の公設事務所などの報告書を見ると、公設事務所がクレサラ事件で多忙であり、十分に役割を発揮しているとの報告にとどまっており、法律扶助や弁護過疎の本質の観点に立った問題意識がない。公設事務所の弁護士は2、3年しか過疎地に赴任しないので、過疎地の司法状況の問題性を把握できないのはやむを得ない。2、3年という赴任期間は、ちょうどその地域の実情がわかりかけた時期に転勤することになる。
 しかし、弁護士がクレサラ事件ばかりを扱っていることは、日本の司法の機能不全の象徴であり、弁護士の役割としては極めて不十分である。すなわち、法の支配によって運用される社会では、市民が日常的に抱える紛争が法によって解決されることになるが、借金に関する相談は市民生活のほんの一部でしかない。クレサラ事件が弁護士の業務のほとんどを占めることは、@借金に追われる日本の庶民の異常性、A市民の日常的紛争が弁護士に依頼されていないという異常性を意味する。弁護士がクレサラ事件ばかり扱うことは異常なのであり、弁護士の能力はクレサラ事件に止まってはならない。
 ドイツでは破産事件は少なく、弁護士は破産事件をほとんど扱わないといわれている。イギリスでも、破産事件は弁護士の仕事ではなく、会計士の仕事とされているようである。弁護士が多くの破産事件を扱うのは、日本とアメリカだけである。弁護士は、市民が抱える多様な日常的な紛争を扱うのでなければならない。この地域の離婚の相談は多く、調停事件は多いが、離婚訴訟は年に数件しかない。そして、調停事件のほとんどは弁護士に依頼されないのが現実であり、弁護士費用の負担が最大の障害である。
 過疎地でクレサラ事件に処理に追われていることの異常性に問題意識を持たない弁護士は、法の支配がどのようにあるべきかという理念がなく、「日本では、なぜ、ほとんどの庶民が日常的な紛争について弁護士に依頼しないのか」という点に対する感受性が麻痺している。
 将来的には、破産事件は減り、過払金請求事件はほとんどなくなるが、そうなると過疎地の弁護士の仕事はなくなりそうである。弁護士の仕事は社会の反映であり、時代に応じて、弁護士が果たすべき役割を開拓していかなければならない。弁護士がクレサラ事件を扱うのは、過渡期の一時的な異常現象にすぎない。
 この地域では、一般的な市民事件の相談は多いが、弁護士への依頼は少ない。「弁護士が近くにいても弁護士に依頼しない」傾向は、この地域で仕事をすればすぐにわかる。そして、その理由も容易に想像がつく。
 その理由のひとつに費用の問題がある。一般に、弁護士への法律相談だけでは紛争を解決できないが、弁護士に相談をして、法的手続の概要と費用の額を知り、弁護士への依頼を断念する人が多い。弁護士に依頼するには、通常10〜30万円程度の金がかかり、それを用意できない人が多い。
 日本には、法テラスが実施している法律扶助という弁護士費用の貸付制度がある。
 弁護士「訴訟を起こすには、印紙代が7万円かかるので、それを含めた訴訟の経費が10万円かかります。それに弁護士費用が必要です」
 依頼者「私は年金しか収入がないので、お金がないんです」
 弁護士「それなら、法律扶助を利用されたらどうですか」
 依頼者「でも、返さないといけないんでしょ」
 弁護士「そうです」
 依頼者「それができないから相談しているんですよ」
 弁護士「裁判所に収める印紙代は、法律扶助の対象にならないので、別に必要になります。弁護士に頼まずに自分で裁判を起こしても、印紙代などは自己負担になります」
 依頼者「・・・・・・・・・・・」
 この依頼者は訴訟を起こすことを断念した。
 これが、法テラスと日本の司法の実情である。このようにして日本での訴訟の数を抑えるのが明治以降の日本の司法政策だった。
 法律扶助費は返還しなければならない。また、法律扶助は、平均的な所得層は対象外である。企業も法律扶助の対象外なので、零細企業の破産事件などは放置されることが多い。
 弁護士が個人的に費用の分割払を認めるケースがあるが、途中で支払えなくなる依頼者が多い。病院への医療費を払えない患者がすくなくないが、医療費の場合は、公的医療保険制度があるので、医療費の公的負担分は病院に支払われる。司法にはこのような制度がないので、弁護士費用を完全後払制にできないのが現実である。弁護士費用の支払にクレジットを利用することは、手数料が高すぎ、弁護士会が反対している。現状では、平均的な所得層の市民が弁護士費用を分割で支払える制度がない。
 「裁判をしたい者は、裁判所に申し出れば、裁判所がすぐに受理してくれ、裁判所が職権で心理してくれる」というのが庶民の願望であるが、現実は、裁判を起こすには弁護士に依頼しなければならず、弁護士費用がかかり、裁判所はことあるごとに、印紙代や、鑑定費用、証人の費用、検証費用などを要求し、「裁判は時間と金がかかる」というのが庶民のイメージであり、それは間違いではない。
 私が開業している地域では、法的紛争をかかえている人は多いが、弁護士に依頼する人はほんの一部である。ほとんどの人は子供の教育費や生活費、住宅ローン、車や家電製品ののクレジットに追われて弁護士に依頼するような余裕はない。弁護士に依頼するような金があれば、それまでしたくてもできなかった家族旅行にでも金を使った方がマシだというのが多くの人の本音である。あるいは、弁護士に依頼するような金があれば、パソコンを買ってブロードバンドで時代の流れに遅れないようにしたいというのが本音である。サラ金に追われて自殺寸前まで追い込まれた人や、離婚などで激情に追い込まれた人、隣人とのトラブルで経済的採算を度外視して裁判をしたい人が、借金をしてでも弁護士に依頼するが、弁護士の少ない地域の弁護士はけっこう忙しい。
 10〜30万円の弁護士費用を非常に高いと感じるのが、庶民の感覚であるが、1年間くらいの裁判にかかる労力を考えれば、必ずしも高いものではない。他方で、30万円という費用を「たった、それだけでいいんですか」と言う人もいる。いつも財布に30万円くらい入れて持ち歩いている人もいる。
 弁護士の立場では1時間当たり3000円の時給を得ようとすれば、1件の裁判の費用が30〜40万円程度になってしまうことが多い。裁判の中で、しばしば、測量士や土地家屋調査士などの測量費用や分筆費用などが20〜50万円くらいかかることがあるが、1日程度で終わる測量でも20万円くらいかかるのに、1〜2年かかる裁判の弁護士費用が30万円程度では割に合わないと感じることが多い。弁護士にとって30万円の弁護士費用が割に合わない場合でも、依頼者から見れば、裁判に負ければ、支払った弁護士費用は無駄だったことになり、30万円はひどく高く感じられる。他方で、依頼者が裁判に勝てば、30万円の費用は、「まあ、こんなものか」と感じる。依頼者が裁判に勝てば弁護士費用を安く感じ、裁判に負ければ弁護士費用を高く感じるのである。
 弁護士費用の額に対する庶民の感覚と現実に裁判にかかる労力の間には大きなギャップがある
 この地域で一般的な市民事件が少ないのは、「弁護士が足りない」からではなく、司法が利用しにくいからである。弁護士に相談をしても、10〜20万円程度の弁護士費用を用意できない人がほとんどである。裕福な階層や一定の規模以上の企業を除く庶民は、住宅ローンやクレジットの支払、子供の教育費などに追われ、弁護士費用を払う経済的余裕がない。所得が少なければ法律扶助を利用できるが、10〜20万円という費用がかかる点は変わらない。諸外国にはリーガルエイド制度があるが、日本の法律扶助制度はリーガルエイドではなく、リーガルローン、すなわち貸付制度である。国民の8割が法テラスや法律扶助制度を知らないという調査結果があるが、法律扶助制度に対する関心が低いのは、多くの国民にとって法律扶助が利用しにくい制度だからである。法律扶助費の償還義務という借金を、破産申立をして免責の対象とする人が時々いる。
 「クレジットで車を保有できるのであれば、弁護士費用を用意できるはず」とか、「子供を大学に通わせることができる人は、弁護士費用を用意できるはず」、「自宅住居を保有するのだから資産がある」と考える人は、庶民の生活を知らない人である。かつては、子どもを私立大学に行かせることができる家庭は、中流家庭のイメージがあったが、現在はそうではない。現在は、競争社会から落ちこぼれたくないという親の強迫観念から、サラ金から金を借りて子どもを塾に通わせ、ローンで子どもを大学に入れるのが現実である。子どもを借金で大学に行かせ、その後、破産する親が少なくない。金がなくても借金で自宅を購入し、生活保護レベルの苦しい生活を送っている家庭も多い。現在ほとんどの庶民には生活費を除いて現金を持っていない。庶民にとって、クレジットで毎月の支払額が5000円であれば、心理的負担感が少ないが、現金で20万円を支払うのは容易ではない。この点は、裁判所も同様であり、「裁判所への予納金50万円を現金で用意できなければ裁判できないことは当然」というのが裁判所の感覚である。現金を持たずに生活するという信用経済が支配している中で、司法は現金決済の世界である司法を利用しやすくするための費用の支払制度がない点は日本の司法の重大な欠陥である。
 弁護士を利用しやすくするためには、平均以下の所得層を対象にしたリーガルエイド制度(日本の法律扶助制度はリーガルエイドではない)や、北欧諸国のように国民の80パーセントくらいを対象にしたリーガルローン制度が必要である。
 前記のとおり、裕福ではない庶民のほとんどは、長い間、司法と無縁の生活を送ってきたが、現在は、財産がなくても法律の対象に組み込まれるようになった。借金をしてサラ金に追いつめられれば、さらに借金をしてでも弁護士に依頼するしかない。離婚がこじれた場合には、財産の有無に関わらず、激情にかられて弁護士に依頼する傾向がある。訴額が数千円の土地の境界争いや、50年前の土地紛争、隣人から侮辱され慰藉料請求をしたいという人などは、相手に対する激情にかられれば、借金をしてでも弁護士に依頼する。かくして、借金に関する深刻な事件と「激情型紛争」が過疎地を象徴することになる。
 以上の点は過疎地に限ったことではなく、都会の平均以下の所得層にそのまま当てはまる。現在の規制緩和政策、格差拡大政策のもとで、過疎地と都会との経済的格差はいっそう拡大しつつあり、この地域の住民のほとんどが都会では平均以下の所得層に相当する。過疎地では現金収入を得られる仕事が少なく、仕事を求めて、過疎地から都会へ、そして、都会から過疎地へと転々とするが、結局どこでもまともな仕事が得られない。過疎地では、派遣社員やフリーターが主たる雇用の場になっている。都会での所得格差に基づく弁護過疎(司法過疎)を、人口が数万程度以下の地域に持ってくれば「弁護士過疎地」になる。経済的余裕のない庶民は、「心理的、経済的によほど深刻な事態」にならなければ弁護士に依頼せず、また、深刻な事態になっても紛争を放置して悲惨な結末を招くことがある。
 過疎地と都会との経済的格差という現実は、都会に居住している人には理解できない。10万円を用意できない人のことを話しても、ほとんどの裁判官はそれを「変わった冗談」だと思い、多くの弁護士は関心を持たない。裁判官は、日常生活で「10万円を用意できない人」との付き合いがなく、従来の弁護士の仕事のスタイルからすれば、「10万円を用意できない人」は弁護士の業務と関心の対象外だった。
 従来の日本の司法は、金のない者は利用できない司法であり、それを当然とすることの上に、弁護士の業界が成り立っていた。従来、日本の多くの弁護士が金のない者を相手にしてこなかったことは、弁護士に限ったことではない。弁護士に限らず、土地家屋調査士、司法書士、税理士、公認会計士、建築士、建築業者、住宅メーカー、自動車販売業者、旅行業者、ホテル、旅館、飲食店、運送業者、保険会社、小売店、デパート、大学などのあらゆる分野で金のない者が相手にされない社会であり、弁護士もそれと同じだったというだけのことである。ただし、公的医療保険制度によって金がなくても医療を受けることができる点、住宅ローン制度によって、低利の融資で住宅を取得できるようになった点、役所のサービスが無償のものが多い点を除いて。かつては、店で「金はありませんが、商品を売ってもらえますか」と頼むと、「アホか」と言われ、そのためクレジットカードやサラ金が生まれた。
 従来、裕福でない階層が弁護士に依頼しやすくするために努力する弁護士もいたが、それは少数だった。大多数の弁護士は、「弁護士費用が用意できない人が弁護士依頼できないのは、自由競争の社会では仕方ない」と考えてきたが、それは社会全体の意識構造をしたものである。この問題は弁護士個人の資質や努力の問題に解消されるべきではなく、制度の問題である。
 現在、不正規雇用や不安定雇用者が増えており、格差が拡大している。そして、富の都会への集中がますます強くなっており、地方、特に過疎地の人々の平均的所得は都会よりも相当少ない。競争から脱落した者は、ますます、弁護士に依頼することが困難になっており、この点は弁護士が増えても変わらない。
 競争社会は格差のあることを前提とするが、格差のあること自体が問題なのではない。人間に能力と意欲と努力の差がある以上、格差が生じるのは当然である。格差は競争によって拡大されるが、格差は競争が生じる以前に人間に本性上備わっている。何ごとについても、できる者とできない者がいる。仕事を1時間で覚える人間と、何日かけても覚えられない人間がいる。テストをすれば、必ず、100点と50点の者がいる。頑張ることができる人間と、何事もすぐに諦める人間がいる。努力できるかどうかは人間の重要な資質のひとつである。人間に本性上備わっていることは格差ではなく、単なる人間の差異だという主張があるが、人間の差異が格差につながるのである。
 しかし、人間に格差があるのが当然だとしても、競争に負けた者が落ちこぼれる社会が問題なのである。北欧のように、競争に負けても、最低限度の人間的な生活が保障される社会であればそれほど問題ではない。格差によって、生活ができなくなる階層が生まれることが問題なのである。才覚のある者が高額な収入を得ることは自由競争であるが、才覚がない者が困窮する社会は困るのである。格差があっても、誰もがある程度の平準的な生活ができるようなシステムがないことが問題なのである。
 「人間を甘やかすと働かずに楽をする者が出てくる」という主張があるが、確かに、きわめて少数ではあるがそのような人間は必ず生まれる。財産犯は楽をして金を得ようとする人間たちである。しかし、そのような例外的な人間はどの社会でも必ずいるのであり、むしろ、競争に負けた者が落ちこぼれる社会は、多くの、ニート、引きこもり、精神的敗残者、犯罪者を生みだし、社会の活力を失わせる。日本のように、北欧に較べれば税率が低く、競争が激しく、仕事に明け暮れているのに、人々の満足感や幸福度の低い国と、北欧のように、税率が高いが、人々の満足感や幸福度の高い国との違いは大きい。北欧でも、失業、自殺、離婚は多く、高校進学率も高くなく、大学に合格できる人は10パーセント以下である。しかし、大学に行けない人が「不幸」かというとそうではない。北欧では、たとえ失業しても、一生生活できないことはないし、再就職のための教育制度などが充実しているので、将来に対する希望を持つことができる。他方、日本では大学を卒業した後に派遣社員や無職者になれば、将来に対する希望を持つことができるだろうか。日本は、中学生くらいの時点で、早くも精神的に社会からドロップアウトしてしまう者が多く生み出されている。

 競争と貧富の差を前提とする社会の中で、金がない者が司法の恩恵を受けられなくてもよいのかという点が問われている。医療と住居については、公的医療保険制度と住宅ローン制度によってある程度解決されたが、司法の問題は弁護士の増加では解決できない。

3、弁護過疎の原因
 司法試験合格者数3000人を決定したとき、恐らく、@全国の過疎地に大量の弁護士が必要、A弁護士が増えれば弁護士の需要も増えるという想定があったと思われる。
 弁護士の大量増員の理由の一つに、企業や役所で弁護士が不足しており、企業や役所が多くの弁護士を任用するはずだと言われていた。しかし、実際に弁護士の数を増やしてみても、現実には企業や役所での弁護士の雇用や依頼はほとんど増えていない。「あれは、勘違いでした」ということなのだが、司法の実情がわかっていない者が集まって机上で議論するからそうなるのである
 また、マスコミは「全国の地裁支部管轄地域で、弁護士が一人もいない地域が3個所、弁護士が一人しかいない地域が21個所もある」ことを強調し(朝日新聞、2008。ただし、おの点は2008年中に解消された)、だから弁護士の大幅増員が必要なのだと言うのであるが、過疎地が必要とする弁護士の数はマスコミが大騒ぎするほど大きなものではない。この記事を書いた新聞記者は、都会のビルの机の前で統計資料か誰かの本の受け売りで記事を書いたのである。その地域で弁護士が不足しているかどうかは、その地域の市民に聞いてみなければわからないが、ほとんどの場合地域住民には、弁護士が不足しているかどうかわからない。なぜなら、ほとんどの人が自身が弁護士に相談することを考えていないからである。弁護士に相談したいと考えている人は、弁護士に相談するので、弁護士が足りないかどうかわからない。弁護士に相談したくても相談できない人は、弁護士を知らない人や金のない人である。「弁護士を知らない人」は、近くに法律事務所があってもそれを知らないことも多く、近くに法律事務所があることを知っていても、弁護士と面識がなければ「弁護士を知らない」と考える。
 マスコミが大騒ぎした21個所の過疎地がその年のうちに解消された事実は、弁護士の増加が予想以上の猛烈なスピードで進行していることを意味する。いわゆるゼロワン得が解消されても、なおも弁護士が不足しているかどうか不明だが、仮に全国の過疎地で弁護士が不足しているとしても、せいぜい100名程度であり、一度補充されれば、その後の必要な弁護士の数はゼロである。
 私が開業している地域でいえば、弁護士の増加が必要かと言えば、微妙である。私は、テレビ局の取材で、「この地域では弁護士が足りませんか」と尋ねられたとき、私は、「弁護士が足りないかどうかは市民が判断することで、弁護士が判断すべきことではない」と返答した。私は、「この地域に、もう1人くらいは弁護士が増えてもよいかもしれないが、将来的には開業しても法律事務所の経営は苦しいかもしれない」と感じているが、それは、市民が、弁護士が足りないと感じているかどうかとは別の問題である。この地域に弁護士の仕事はいくらでもあるが、それらのほとんどは依頼者が費用を払えない仕事なのだ。すなわち、弁護士がタダで仕事を引き受けるのであれば、この地域の弁護士の仕事はいくらでもある。しかし、それでは、法律事務所を維持できないので、弁護士費用を徴収すれば弁護士への依頼は少ない。あるいは弁護士の採算ラインぎりぎりで仕事を受任すれば、事務所の経営が苦しくなる。「弁護士が足りないか」という質問は、「日本では住宅建築が不足しているかどうか」とか、「あなたは給料を増やしてほしいか」という質問と同じく無意味である。
 破産や過払金請求事件は、ここ10年のブームでしかないのであり、あと5年もすれば、過払金請求事件はぐっと減るはずだ。破産事件はすでに相当減少している。債務整理事件ばかり法律扶助で大量に受任すれば、事務員に非弁活動で大量処理させない限り、経済的に事務所を維持するのは難しいのが実情である。それが、前記の「もう1人くらいは弁護士が増えてもよいかもしれないが、将来的には開業しても法律事務所の経営は苦しいかもしれない」という表現になる。
 この点は、他の業種でも当てはまる。家を建てたい人はたくさんいるので、建築業者の仕事はあくさんあるのだが、家を建てるだけの金がない人が多いので、建築業者が倒産するのである。高額な商品が売れないのは、商品を買いたい人がいないからではなく、購買力がないからである。世の中に高価なぜいたく品を買いたい人はたくさんいるが、ほとんどの人は買えないのである。商品の供給を増やせば、商品の価格が下がり、商品の売り上げが増えるという関係にはない。商品の売り上げを増やすためには、商品の供給を増やすのではなく、購買力を強化しなければならない。景気対策に減税などをするのはこのためである。
 以上の点は全国の過疎地に当てはまる。すなわち、「この地域で弁護士の数が増えることは可能であるが、法律事務所の経営は苦しいだろう」という地域が無数にある。したがって、今後、全国の過疎地で必要な弁護士の数はせいぜい合計100名程度なのである。現在の制度のままでは、日本の司法のシステムには毎年2000人以上増加する弁護士を受け入れるだけのキャパシティーがないことは、私の過疎地での経験からわかる。過疎地で起きている状況は、都会の平均以下の階層にそのまま当てはまるのである。ところが、都会の弁護士は、人口と弁護士の数を机上で計算して、都会で余った弁護士はまだまだ過疎地で吸収できると考えているフシがある。しかし、その計算の際、過疎地の人々の懐具合までは計算に入れていない
 他方で、経済的に弁護士に依頼することが困難な階層は、弁護士がどんなに増えても弁護士に依頼できない状況に変わりがない。経済的に弁護士を依頼できる階層は、弁護士の数が増えれば選択の幅が増えるが、そういう人たちはもともと弁護士に不自由していないので、新米弁護士が増えることにさして関心を持たない。
 過疎地での開業、日弁連公設事務所、法テラスのスタッフ事務所は、そのようなシステムがあるかどうかという問題であって、弁護士の増加とは関係がない。司法試験合格者が1500人程度でも、このようなシステムを構築することが可能であるが、司法試験合格者が3000人でも、制度に欠陥があれば法テラスのスタッフ事務所は機能しない。法テラスのスタッフ事務所が弁護士を裁判官や検察官のように生涯雇用すれば、新規弁護士の堅実な就職先になるが、現在は、一生勤務できるような雇用形態になっておらず、制度上の欠陥がある。
 過疎地では、近くに弁護士がいても弁護士に依頼せず、本人訴訟をする人が少なくないが、それは、弁護士に依頼すると費用がかかるからである。かつて、法律扶助相談の制度がない頃、私の事務所の近隣に住む人が、何度も私の事務所に来ては、離婚について5〜10分程度の「立ち話」をしていた。その人は、私の事務所から法律の本を借りたこともあった。後で、わかったことは、その人は本人訴訟で離婚訴訟をしており、私と「立ち話」をすることで、相談料を節約していたのである。むろん、その人にとって、弁護士に依頼して費用をかけるなどという出費はとんでもない浪費のように思えたのだろう。
 また、派遣労働者で、手取り月収が10万円程度しかない人は、法律扶助を利用して、毎月5000〜10000円を返済することができなかった。また、別の依頼者で、債務整理の交渉費用を1万円に減額したところ、「なんとか、1万円を用意します」と何度も私の事務所に電話があったが、結局、1万円を用意できず、弁護士への依頼を断念した人もいる。弁護士の費用をタダにすれば弁護士に依頼しただろうが、それでは「仕事」とはいえない。
 法律扶助を利用しても、訴訟に20万円程度の費用がかかるし、日本では平均的所得層や零細企業は法律扶助の対象外である。都会に住んでいる人は、本人訴訟や司法書士が代理人になることを聞くと、「それは弁護士が足りないからだ」と思いこむ傾向があるが、それは現実を知らないだけのことである。「弁護士の数が足りないから、弁護過疎が生じる」のではなく、ほとんどの人は「金がない」から弁護士に依頼できないのである。弁護過疎の本質は、格差の問題であり、貧困の問題である。アメリカのように弁護士の絶対数が増えても、アメリカのように裕福でない階層の弁護過疎が続くのである。
 多くの人が「都会の弁護士が過剰になれば過疎地に行くだろう」と考えるかもしれないが、このような発想は都会中心の過疎地を侮辱する考え方である。誰でも最高レベルの弁護を期待するのであって、過疎地で必要な弁護士は、「都会で仕事にあぶれた弁護士」や、「資格をとったばかりの未熟な弁護士」ではない。特に、過疎地では、弁護士は1人ですべての事件を処理しなければならないので、オールラウンドプレイヤーであることが要求される。あらゆる事件について1人で判断しなければならない。都会の弁護士のように、特定の分野の事件に特化することは許されず、傍に他の弁護士がついて指導を受けることはない。したがって、過疎地に赴任する弁護士は少なくとも5年以上の弁護士経験が必要であり(裁判官が1人前になるには、5年かかる)、できれば10年以上の弁護士経験のあることが望ましい。一般に、弁護士が一人前になるには10年くらいかかる。新米弁護士では破産管財人(一定年数の経験のある弁護士から選任される)や民事、家事の調停委員(40歳以上の者から最高裁が選任する)を引き受けることができないが、過疎地では、弁護士の破産管財人や調停委員が不足しているのである。資格をとったばかりの医者に手術を頼みたい患者はいない。軽症患者の場合には医者は新米でもよいという人がいるかもしれないが、重篤患者の場合は、経験や技量のあるベテランの医者を期待する。過疎地の市民が必要としているのは、「弁護士であれば誰でもよい」のではなく、「経験豊富な優秀な弁護士」である。
 ところが、どちらかと言えば、過疎地の弁護士は弁護士になって2、3年の新米弁護士が派遣される傾向があり、過疎地の市民が受ける司法サービスに都会との格差がある。「それでも、弁護士がいないよりマシではないか」というレベルの議論をすべきではない。
 のみならず、過疎地は、「この地域で弁護士の数が増えることは可能であるが、法律事務所の経営は苦しいだろう」という地域が多いので、弁護士を簡単に受け入れることができるわけではない。現在、過疎地は都会の弁護士の植民地の状況にある。つまり、都会の弁護士が、過疎地の収入になりそうな事件をつまみ食いしているのが現状である。過払金請求事件や破産事件などについて、東京の弁護士が過疎地で大々的に広告を出している。
 もともと、人口に比較した弁護士数を計算する考え方自体が、都会と過疎地の経済的格差を無視した都会中心の発想である。都会と過疎地の経済的格差を是正するシステムがなければ、弁護士1人当たりの人口を計算しても意味がない。人口1万人に1人の弁護士が必要だという主張に至っては、現実の市民の経済力を無視したヒステリックな夢物語であり、ドイツのような制度(後述)を採用しない限り、それは無理である(ドイツでは人口5000人の地域に弁護士1人分の需要があり、実際に1人の弁護士が開業している)。
 弁護過疎の解消がシステムの問題であることは、医師の総数をいくら増やしても無医村を解消できないことと同じである。
 
4、弁護過疎の解消のために必要なこと
 弁護過疎を解消するためには、扶助費の償還免除、平均的な所得層を法律扶助の対象とすること、弁護士強制主義、弁護士報酬の平準化など利用しやすい制度が必要である。司法がドイツやスウェーデンのように利用しやすくなれば、弁護士の需要は人口にある程度まで比例したものになる。
 日弁連などは、しばしば「法律扶助制度の拡充も必要」と述べるが、私が見る限り、弁護過疎の解消を真剣に考えてはいない。もし、弁護過疎の解消を真剣に考えていれば、「法律扶助制度の拡充がなければ、弁護士の増加には一切応じない」という強硬な姿勢をとれるはずである。しかし、日弁連がそのような姿勢がとれないのは、法律扶助事件に対する消極的な姿勢が弁護士の業界にあり、それが日弁連執行部に反映するからである。
 法律事務所を訪れた相談者が金がないために弁護士に依頼できない現実がすべてを物語っている。近くに弁護士がいても弁護士に依頼できない現実がある。それに較べれば弁護士の数は本質的な問題ではない。現在の弁護士増員論は、司法のシステムの欠陥の問題を弁護士の数の問題に解消させている。そして、弁護士の数を増やした後は、弁護士に依頼するかどうかは依頼する側自己責任だとするのである。
 アメリカ型の司法は競争と格差を前提とし、法律扶助制度は救貧的で貧弱であり、弁護過疎は解消されないが、ヨーロッパ型の司法は、競争と格差の制限及び是正、広範な法律扶助制度、弁護士強制主義、市民的事件における弁護士費用の平準化、利用しやすい訴訟手続などにより弁護過疎の解消を志向する。
 裕福な階層や一定規模以上の企業については競争原理が妥当しても、平均的な市民層の日常的な事件や、消費者、労働、行政、福祉、教育、医療などの紛争解決に必要なものはパターナリズムである。これらの分野はもともと「利益」や「競争」とは無縁であり、市民が少ない経済的負担で司法を利用でき、同時に弁護士の業務として経済的に成り立つ制度が必要である。
 現在、各種無料相談会、○○110番、社会的事件については弁護士の無償受任、各種関係機関と弁護士との連携、ボランティア団体による司法支援、消費者団体などが重要な役割を果たしているが、これは弁護士を利用しにくい司法システムの結果でもある。
 
 法律扶助制度の対象が拡大する場合に問題となる重要な問題は、法律扶助の報酬額が弁護士の労力に見合った適正なものであるという点である。現在の法律扶助制度の弁護士費用の額は、弁護士の労力に比例していない。現在の法律扶助制度は、@経済的利益、A事件の類型や規模、B裁判所に出頭した回数、C依頼者の償還可能な金額などを基準に弁護士費用の額を設定している。そのため、経済的利益が小さければ、どんなに弁護士の労力のかかる事件でも、弁護士費用の額が小さい。結局、この種の事件は弁護士のボランティアをあてにするのが実情であるが、弁護士の経済的基盤が弱くなれば、ボランティア活動ばかりしているわけにはいかなくなる。この点は国選弁護事件も同様であり、国選事件の報酬額も裁判の回数を基準にし、弁護士の労力とは関係なく報酬額を設定している。そのため、100件の窃盗事件の被害弁償をしても(私は、かつてそのような国選事件を受任したことがあるが、銀行の振り込み手数料だけで10万円近くかかった)、1件の被害弁償をしても、公判回数がおなじであれば、弁護士の報酬は同じである。
 その結果、たとえば、解雇無効、医療過誤訴訟、国賠訴訟、境界紛争、損害賠償などの事件で、法律扶助を利用して12〜13万円程度の弁護士費用で2年くらいの期間裁判をする状況が生まれる。こんな事件ばかりやっていれば、法律事務所は必ずつぶれる。これでは、弁護士は到底採算がとれないので、この種の事件を敬遠するようになる。過疎地では割合からいえばこのような事件が多いこと、過疎地では法律扶助の対象階層が都会よりも多いことから、現在の法律扶助の報酬基準では、過疎地の弁護士が増えるのは困難である。つまり、法律扶助の報酬額が弁護士の労力に見合った適正なものになることが、過疎地の弁護士が増える大前提になるのである。この点が理解できない都会の弁護士や研究者が多いのが実情である。

5、弁護士の過度の競争がもたらす弊害
 弁護士の数が増えれば、開業が難しくなるが、その点は新たに税理士事務所、建築士事務所、飲食店、小売店、医院を開業する場合も同じである。自由競争の社会では新規に飲食店を開店しても他店との競争に勝てなければ生き残れない。「飲食店も弁護士も同じではないか」と考え、巷では飲食店や小売店は激しい競争にさらされてどんどん潰れているのに、弁護士の数を規制し弁護士だけが特別扱いを受けるのはおかしいと考える人がいる。
 ここで考えなければならないことは競争がもたらす弊害の大きさである。
 弁護士の数と需要のバランスが崩れるならば、弁護士が過剰となり、弁護士に過度の競争が生じる。
 現在の制度のまま、年間2000人以上弁護士が増加すると、弁護士の数と需要のバランスが崩れ、弁護士が過剰になる。この点は机上の理屈の問題ではなく、事実の問題である。
理屈上は、「弁護士は足りない」と考えることも可能だが、現実はそうではない。
 私は、過疎地での11年間、多くの庶民が金がないために弁護士に依頼できない現実を見てきた。格差社会が拡大しつつある現在、貯蓄のない世帯が増えている。収入のうち、生活費は当然必要であるが、その次に使用するのは教育費である。子供が教育のうえで競争に負けると、格差社会の中で落伍してしまうという脅迫観念に多くの庶民がとらわれている。その結果、ほとんどの人が借金をしてでも子供を進学塾や大学に通わせる。
 現在では、田舎の学校でも東京の学校と同じ教科書や教材を使用し、親は子供を進学塾に通わせ、不登校の生徒の数は田舎でも都会でも変わらない。現在では、自殺、不登校やいじめ、引きこもり、ニート、凶悪事件、過労死ニートは、都会だけの現象ではない。いわば、意識のうえでは、地方の東京化が進んでいるが、経済的には東京と過疎地の格差は大きい。それだけに、現在では、意識のうえで田舎の人の方が「不幸」だと感じている割合が高い。
 さらに、今では、テレビ、パソコン、洗濯機、冷蔵庫、エアコンなどが庶民の生活必需品になっているが、これらはクレジットを使用して購入される。地方では持ち家の人の比率が高く、住宅ローンを使用して住宅を購入するのは当たり前であって、田舎では、持家のあることは贅沢とは考えられていない。クレジットと住宅ローン、教育ローンなどの結果、借金のあることも田舎では当たり前になっている。
 このような庶民には弁護士費用がない。少なくとも、低利の弁護士費用の分割払いの制度がなければ、弁護士に依頼できない。また、現在の法律扶助の対象階層は、法律扶助費の償還が困難な階層であり、平均以下の所得層は、」弁護士費用を借入をすると、返還が困難である。
 その結果、多くの庶民は、弁護士の数が増えても、訪問販売業者の数が増えたのと同程度に、無関心ないし冷やかな目で見ている。「弁護士が増えると、訴訟の数が増えて弁護士に金をとられるようになるのではないか」という点が唯一の心配事である。ほとんどの庶民には、「訴訟の数が増えたので弁護士の数が増えたのだろう」(現実には、訴訟の数は増えていない)、あるいは、「弁護士の数が増えると訴訟の数が増える」(現実には、すぐに訴訟の数が増えるわけではない)、「自分とは関係のない問題」という程度の意識しかない。
 このような現実の結果、現在の制度のまま年間2000人以上も弁護士が増加すると、弁護士が過剰になるのである。
 今後、日本経済が混迷を深めれば、庶民の財布はますます固くなり、新規弁護士の仕事はますます減る。
 弁護士間の格差は現在でもあるが、弁護士の数と需要のバランスが崩れると、高額所得の弁護士と「食えない弁護士という格差が生じる。「食えない弁護士」はいつの時代にも存在するが、それが、制度的に構造的に生み出される点が問題なのである。市場経済は構造的に失業者を生み出すが、現在は、失業者だけではなく、フリーターなどの不安定雇用者を構造的に生み出す点が問題であり、それと似たような状況が弁護士の世界にも生じる。
 ヨーロッパーのように市民が司法を利用しやすい制度があれば別だが、日本のように金のない者が司法を利用しにくいシステムでは、弁護士が増えてもそれに比例して、弁護士への依頼が増えない。この点は、実態の問題であり、事実認識の問題である。私は、過疎地で12年間開業して、この点を理解した。新規弁護士の就職難が言われ始めたことは、予想通りの現象であり、今後、1、2年はその場しのぎの応急措置がとれるとしても、就職難は年々深刻さを増し、10年もたてば、以下に述べる事態が常態化して、「所詮、弁護士の仕事はそんなもの」という理解が一般化してしまうだろう。

 医師が過剰になれば「食えない医者」が生まれ、過剰検査や過剰治療が行われ、自由診療の場合には、法外な治療費を請求されかねない。そこで、医師の数と需要のバランスを慎重に考えて医学部の定員が設定される。医師の場合には、自由診療ではなく公的医療保険制度があり、誰でも、低額で医療を受けることが可能なシステムがあるので、新規医師の就職難は生じておらず、新規医師が病院で経験を積むことが可能である。その結果、たまに大病院で新米の医師の経験不足による医療ミスが起きることがあっても、経験不足の未熟な医師が開業して問題を起こすことは少ない。
 しかし、弁護士の場合には医師とちがって、公的医療保険に相当する制度がなく、自由報酬制度である。医療のように誰でも弁護士を利用できる制度がないので、弁護士が増えても弁護士に依頼しやすくなるわけではない。そのため、弁護士の数と需要のバランスが崩れると、弁護士の就職難が生じる。これは新規弁護士が経験や実務的知識を修得する場がないことを意味し、技量の未熟な弁護士が巷に溢れることを意味する。
 ほとんどの市民は司法に馴染みがないので、弁護士が難しい司法試験に受かれば、すぐに1人前に仕事ができると思っている。「弁護士になればすぐに何らかの収入を得られるはず」と考える人が多い。かつては、ほとんどの新規弁護士が就職できたので、「弁護士になれば何らかの収入を得られる」ことは事実だった。20年前でも、地方では稀に資格取得後、すぐに独立する弁護士がいたが、それは、どこかの事務所に就職できないことはないが、敢えてすぐに独立するという困難を選択した結果である。事務所の開設費用は借金でまかない、当面は働いている家族の収入で生活するか、それまでの蓄えで生活するパターンが多かったように思う。それでも、全体としての弁護士の数が少ないので、1、2年経てばそのような弁護士も生活できるようになった。
 しかし、今後は、資格取得後、すぐに独立する弁護士には、収入ゼロからの生活が待っている。従来も、弁護士の資格取得後、すぐに独立することは、都会では経済的に無理だった。あえて、それを行う者は、数年間の清貧生活を耐えなければならなかったが、それでも、収入を得ることができず、他の法律事務所で拾ってもらう(就職する)弁護士もいた。しかし、今後は、都会で弁護士の資格取得後すぐに独立することはほとんど不可能だろう。
 弁護士は自営業なので、建築業などと同じく、当たり前のことだが、何もない時には本当に仕事はまったくない。宅建主任の資格をとれば、誰でもすぐに自宅を事務所にして不動産仲介業ができるが、それでは収入はほとんどない。自営業である弁護士も基本的には同じであって、自宅で開業しても仕事はない。国選事件についても、これからは、国選事件は新規弁護士の取り合いになるだろうが、そもそも国選事件の報酬(7、8万円)などは弁護士会費と交通費にも足りない。私の場合、毎月の交通費は燃料代が6万円、高速代4万円、自動車の減価償却費と維持費が約10万円かかる。最近、元検事の弁護士が、国選弁護費用を不正請求していたが、これは医療保険の不正請求と同じで、経営の苦しい法律事務所に起こりうる。このレベルでは市民に被害が及ばないが、今後は一般市民に被害が及ぶ不正が増えることが懸念される。
 「都会で開業できなければ地方で開業すればよい」と言われるが、その場合の「地方」とは人口20〜30万人の地方都市である。しかし、そこは小「都会」であり、以前から開業弁護士がおり、現在、弁護士は飽和状態になっている。そこで、次に「では、過疎地で開業すればよい」と言われるが、その場合の「過疎地」とは人口数万人の地方都市である。しかし、そこは、弁護士が1人増えれば需要が飽和する程度の小規模の法的需要しかなく、今後、全国に100名程度の弁護士が増えれば十分である。また、過疎地は、小「地方都市」であり、都会で起きる現象が時間が遅れて生じるだけである。さらに、全国津々浦々で「人口1万人に1人の弁護士がいなければ、弁護士過疎地である」という意見が出るに至るのだが、「人口1万人で1人の弁護士を養え」というのは、弁護士に依頼する側の懐具合を無視している。

 新人弁護士が難事件を解決して活躍するテレビドラマがあるが、新人弁護士や新人医師は、まだ半人前であって、1人前になるには数年以上はかかる。テレビドラマが好んで扱う弁護士による真犯人探し」は収入に結びつかないので、仕事ではなくボランティア活動である。ボランティア活動であれば、半人前でも文句は言えないが、「高利の金融業者に預けた手形が不渡りになりそうだ。何とかしてくれ」という相談を受けて、直ちに取立禁止の仮処分申請をして、手形の不渡りを防ぐためには、多少の弁護士経験が必要である。最初に相談を受けた時に、弁護士費用の額、仮処分保証金の金額、確実に手形不渡りを止められかどうかについて、弁護士がその場で返答できなければ、依頼者は弁護士に依頼をするかどうかを決められない。また、数日で仮処分決定を得るのでなければ、その弁護士は役に立たないことになる。
 医師の場合には、2年間は研修医であるが、弁護士も似たようなものである。一般に、資格をとったばかりの弁護士よりも、法律事務所のベテランの事務員の方がよほど、「弁護士の仕事」ができる。資格をとったばかりの弁護士よりもベテランの事務員の方がよほど「稼げる」ので、新米弁護士よりもベテランの事務員の方が給料が高い事務所も少なくない。しかし、この関係は3年くらい経つと逆転する。一部の巨大事務所の中には、新規弁護士に年額1000万円という高額な報酬を支払うところもあるようだが(一般の事務所では弁護士の初任給は年額約500万円)、それは、将来性に期待し、優秀な資格取得者を確保するための手段であって(野球のドラフト制度における年俸のようなもの)、2、3年間は赤字的な投資として考えているのだろう。
 弁護士に必要な能力は、生の社会的事実を分析して、それに法律を適用して解決する能力や判断力、紛争当事者を説得する能力、相手方と交渉する能力などである。これらを養うためには現実社会の生の事実の中で訓練を積む必要がある。法科大学院や研修所では、書物を通して仮想された事実について訓練を受けるが、現実社会の生の事実は法律の教科書や判例集に書いてあるものとは異なる。死体で行う遺体解剖と、生きた人間を扱う手術の違いのようなものだ。消費者、福祉、労働、医療、株式、手形、先物取引、金融商品、建設、登記、農地、税金、会社経営、経済、心理などに関する幅広い知識が必要になるが、知識だけでなく、知識をもとに考え、判断する能力が求められる。この点では、企業の社員や役員も同じだが、法曹は法律的な論理性や緻密さが要求される。
 医師の試験に受かっただけで手術の経験がまったくなければ簡単な手術でも無理である。どの医師も、「初めて手術を行う」ことを経験するが、最初は、ベテランの医師が傍について手とり足とり新米医師に教えなければならない。弁護士も同じであり、医師、看護士、弁護士、裁判官、銀行員、大工、建築士、教師などどんな職種でも1人前になるには10年くらいかかる。
 新人弁護士に就職先がなければ、研修先のない医師のようなもので、実務経験を積むことが困難である。弁護士が自宅で開業することは、店舗を持たない薬局や小売店のようなもので、実績がないので信用されず、信用されないから仕事がなく、経験を積めないという悪循環に陥る。そのような経験不足の弁護士が激しい顧客争奪戦をし、その不利益を受けるのは一般市民である。
 また、これらの分野を過剰になった弁護士の激しい競争に委ねるならば、例えば破産や消費者事件などが弁護士の激しい顧客争奪の対象となり、市民の弱みを利用して高額な報酬を得たり、着手金目的に強引に訴訟を提起させるなどの弊害が生じる。弁護士の数が、弁護士に対する需要以上に増えると、必ず、「食えない弁護士」が現れる。
 競争社会では、競争に落後する者がいることは当然だとされるが、それが医療や司法にまで及ぶと大きな社会的害悪をもたらす。すなわち、弁護士が食えないのは紛争がないからであり、弁護士が意識的に紛争を創り出すしかない。弁護士が必要のない訴訟を起こし、訴訟を引き延ばし、本来、10万円で解決できる事件を紛争を拡大させれば、弁護士の報酬が50万円にも100万円にもなる。弁護士が勝てる見込みのない事件を強引に訴訟提起して着手金を稼いだり、過払金請求で過払金の3割を報酬にとったたり、交通事故の保険金請求を代行して7000万円の保険金の1割の700万円を報酬にとるようになる。弁護士が債務整理や過払金請求で多額の報酬を得ることは、ある種の貧困ビジネスであるが、今後それがますます横行することになる。弁護士は錬金術のように火のないところに煙を立たせることができる。火に油を注いで火事にした後に消火作業をした方が手柄になる。
 医師や弁護士の仕事は目に見えない部分が大きく、裁量の幅が広い。医師や弁護士のような専門家が、患者や依頼者の弱みにつけこんで「必要である」と言えば、素人がそれを疑うのは無理であり、いくらでも紛争の数と費用の額を水増しできる。医者や弁護士が巧妙に患者や依頼者を暴利の対象とするのは、実に簡単である。
 これは弁護士だけの問題ではない。ある司法書士は、過払金400万円のうち、250万円くらいを報酬として取得し、あるいは、個人再生の申立費用として100万円くらい取得しているが、このような暴利行為が横行するのは、その司法書士が、もともと仕事が少ないために、事務所の維持費などに困っているからだと思われる。都会では生活できないめに地方に事務所を移す司法書士や、「稼げる地域がありますか」という質問をする司法書士もいる。競争は、弁護士にも司法書士に、「金を取れるところから、金を取る」傾向をもたらすが、資産家や大企業は、もともと金があるので、「金を取れるところから、金を取る」対象にされてもそれほど不都合はないが、一般の庶民は、なけなしの資金をすべて吸い取られてしまう。弁護士や司法書士の仕事が貧困ビジネスになってはならない。
 医師や弁護士は、運送業や酒屋、小売店などに較べて、高度の専門性を有すること、裁量の範囲が広いこと、市民の生命や人権に関わるなど重要な社会的役割を果たすという特性がある。高度の専門性や裁量の範囲が広いということは、医師や弁護士が違法なことをことを行ってもそれが発覚しにくいこと、「違法な行為」と「違法まがいの行為」の境界が微妙であることを意味し、医師や弁護士が違法ではなく不適切な行動をとることは容易である。弁護士が社会的に大きな意味のある事件を無償で引き受けるか、拒否するか、報酬1000万円を要求するかは、弁護士の裁量に委ねられている。弁護士が、報酬に結び付かない事件を一切受任しないことになれば、社会的な影響は大きい。他方で、医師や弁護士の裁量を法律で規制すれば、医療行為等ができなくなるという面がある。
 したがって、医師や弁護士の数が需要とのバランスを欠くと、その弊害は非常に大きなものになるので、弁護士や医師については、需要に応じた数に規制するために特別に神経を払う必要がある。また、医師や弁護士は、社会の中で果たす役割の重要性から、専門性を持った職種として社会的に認められた資格であり、一定の社会的責務を果たすことが要請される。このような社会的責務を果たすためには、経験や技術だけでなく、人間性や倫理観が必要である。弁護士が倫理規定に違反すれば処分を受けるのはこのためである。
 弁護士の数と需要のバランスが崩れることは、知識、経験、技術の未熟な弁護士が増えるという問題だけでなく、人間性や倫理観の欠如した弁護士が増えることを意味する。激しい競争の結果としての「食えない状況」が人間性や倫理観の欠如をもたらすので、競争を前提にする限り、人間性や倫理観の欠如した弁護士が増えることは避けられない。司法試験合格者数が増え、法律家としての能力に欠ける法曹が増えている点が指摘されているが、法律家としての知識や能力の欠如よりも、人間性や倫理観の欠如した弁護士が増える方が問題である。刑罰では人間性や倫理観の欠如を防止することができず、刑罰ではすぐれた医療や司法は実現できない。
 アメリカでは、弁護士による派手な広告による激しい顧客獲得競争が展開されているが、一般に弁護士報酬の額は日本よりも高い。日本でもすでに東京の弁護士などがホームページ等で、「面談不要」、「低料金」と表示して、高額な弁護士費用(地方の弁護士の料金と較べれば)で、顧客を漁る状況が生まれている。「低料金」という広告を見てそのように信じてしまう市民が多いのが現実である。
 「金を取れる依頼者から金を取る」、「金の取れない市民は相手にしない」傾向は、アメリカに限らず日本でも以前から弁護士の業界にあるが、それは競争の結果でもある。弁護士の経済的基盤が不安定になると、アメリカのようにこの傾向に拍車がかかる(アメリカでは、裕福でない階層は、クレジットカードで弁護士費用の支払いをするのが一般的なので、クレジットカードの支払限度額が負担できる弁護士費用の上限になる)。現在、債務整理や破産については、弁護士に限らず、司法書士、行政書士も扱っており、弁護士、司法書士、行政書士の数が急増している。その結果、過払金の半分を報酬として取る司法書士もおり、「庶民のための司法書士」と大々的に広告宣伝をしている。これは、ほとんど暴利行為もしくはヤクザの債権取立の報酬額に近い。競争の結果事件数が少なくなれば、「金のとれる事件から金をとる」傾向があらわれる。
 このような弊害は競争の必要悪とされ、どういう弁護士を選ぶかは、市民の自己責任とされる。日本では市民に自己決定の観念が未成熟なので、アメリカのように弁護士から暴利を取られても依頼する側の「自己責任」だというわけにいかない。
 弁護士の大増員は、規制緩和、自由化、競争重視の政策の結果である。それは、富豪弁護士と食えない弁護士を生む。派遣社員やフリーターなどの不安定雇用を生み出した規制緩和政策と同じ現象が弁護士の世界にも生じる。もともと、弁護士は、事件の依頼があった時しか仕事がないのでフリーターなのだが、一般労働者のフリーター化は、時々起きる凶悪事件の温床になるだけだが、弁護士のフリーター化は常態的に庶民の犠牲をもたらす。

 どの国でも医師や弁護士の資格をもうけ、その数を制限しているのは、以上のような弊害があるからである。
 弁護士の数と需要のバランスが崩れると、経験のない未熟な弁護士が大量に生まれ、収入を求めて、市民を食い物にする状況が生まれるが、ほとんどの市民はそのような弊害を実感できない。食えない未熟な医師が大量に生まれることの弊害は比較的実感しやすいが、弁護士について弊害を実感できないのは、弁護士の必要性を感じている市民が少ないからである。ほとんどの市民は、自分は一生の間、弁護士とは無縁の生活をすると考えており、実際に、それが現実でもある。ほとんどの市民は「弁護士の数は多い方がよい」と考えるが、弁護士に依頼すれば金がかかるので、できるだけ弁護士に依頼したくないと考えている。したがって、ほとんどの市民にとって弁護士の数は自分とは関係のない「他人事」なのである。このような状況が変わるためには、司法を利用しやすいものにすることが必要であり、それに伴って弁護士の増加が必要になるのである。

6、弁護士の費用は労力に比例す
 他方で、弁護士の数が増えるだけでは弁護士費用は低額にならない。弁護士の数が増えれば、弁護士にかかる費用が下がると考える人が多いが、経済的法則では、弁護士の競争による価格低減は、訴訟にかかる労力以下の価格をもたらさない。例えば、弁護士の数がどんなに増えても、事件解決までに50時間を要する事件はそれなりの弁護士費用がかかる。通常、法律事務所の経費(事務員給料、事務所家賃、リース料、設備費等)が、1時間当たり5000円以上かかるので、弁護士の所得を時給2000円とすれば、1時間で7000円、50時間で35万円の弁護士費用になる。
 また、公益的活動をしている事務所は平均的な事務所よりも、経費が余分にかかる傾向がある。公設事務所でも40分で1万円という高額な相談料をとったり、過払金請求訴訟で2割という高額な報酬をとるのは、他に報酬がとれない事件を多く抱えているからである。
 事務所経費がかるという点をサラリーマンに実感しにくいので、1時間5000円の相談料すべてが弁護士の所得だと勘違いする人が多いが、そのほとんどは経費で消える。弁護士の所得+経費=弁護士費用であり、これは、利益+経費(労働者の賃金、材料費など)=商品の価格という図式と同じであるが、商品の経費は見えやすいが、弁護士の経費は見えにくいという違いがある。私の事務所では経費の額は年間1200万円くらいかかるが、個人事務所としては多い方ではない。
 
事業者にとって経費をどのようにしてまかなうかが就業の出発点である。「30分で5000円の相談料だと、弁護士は、相談料だけで1日に8万円の収入になるではないか」という主張があるが、この計算でいけば、経費を引けば、弁護士の年収は900万円程度である。
 弁護士にかかる費用の額(弁護士のサービスの価格)は、労働力の量、すなわち労働時間で計算される。これは弁護士に限ったことではなく、マルクスが述べるように労働者全般に当てはまる経済的原則である。弁護士の数がどんなに増えても、通常は、50時間を要する事件の費用は50万円程度になるのであって、この点はどこの国でも同じである。日本ではこれを用意できない市民は弁護士に依頼できないが、法律扶助制度が充実している国ではそうではない。日本でも、このような事件を10万円くらいの費用で受任することはあるが、それはボランティアとして行っているのであって、弁護士の仕事がボランティアばかりになれば、必ずその事務所は潰れる。しかし、庶民が関係する事件ではボランティア的な事件がかなりあり、法律事務所が経済的に安定していなければ、そのような事件を遂行できない。例えば、行政事件、労働事件、冤罪事件などでは事件解決までに100時間くらいを要する事件があるが、弁護士費用がほとんどもらえないばかりか、弁護士が事件経費を自己負担するケースがある。そのような弁護士は、他の事件で事務所を維持できる程度の収入を得ることができなければ、弁護士であり続けることができない。
 本来50時間程度かかる事件を30時間で処理すれば、弁護士費用を安くできるが、弁護士の「手抜き」との違いは微妙である。破産事件や債務整理事件はアルバイトの事務員を大量に雇用して処理させれば費用を安くできるが、弁護士が無資格者に事件を処理させるという弁護士倫理違反との関係は微妙である。
 以上の点は、300万円の自動車は、どんなに自動車メーカーの数が増えても、50万円の価格にはなりえないことと同じである。競争の結果、300万円の価格が280万円になることはあるが、自動車の製造には多大な労力がかかり、自動車の価格は製造するための労力(原材料製造の労力を含めて)によって規定されるので、300万円の自動車が競争によって50万円という低価格になることはありえないのである。債務整理や破産事件については、弁護士も司法書士も報酬額に大差がないのは、このためである。
 多くの人が、弁護士が増えれば、弁護士費用が安くなると誤解するのは、裁判に多大な労力と時間がかかることを知らないからである。弁護士費用30万円で山林の境界争いの事件を2年も3年もするなど、弁護士にとって経済的に割に合わない事件は少なくない。30万円という弁護士費用を聞いて、ほとんどの庶民は「とんでもない金額だ」と驚くが、通常、裁判が終わるまでに30〜40時間程度の労働時間がかかり、中には100時間以上の時間がかかる事件もある。最低でも1時間1万円程度の単価計算になるので、30万円という金額は労力に較べれば高くはないが、庶民にとって負担は大きい。
 裁判に時間がかかるのは、裁判が、@人間の行為の再現、A法的主張の構成、B証人尋問等などの証拠調べという過程をとるからである。@は、10年間の人間の行動の再現は本来8万7600時間(24時間×3650日)かかるが、それを合計1時間くらいで要約して依頼者から相談を受けることになる。Aは、考える時間+文章作成の時間、Bは、打ち合わせの時間、記録を読む時間、考える時間、法廷での時間で構成される。依頼者にとって、10年間の出来事の記憶は自分の頭の中にあり、8万7600時分の情報があるが、それを弁護士伝達するだけでも相当時間がかかる。市民には、@の相談時間とBの法廷での弁護士の姿しか見えないが、テレビドラマでは映らない部分で裁判には時間がかかる。高さ30センチくらいの厚さの文書を持ってきて、いきなり、「これを読んでください。私は裁判で勝てますか」と尋ねる相談者が少なくないが、そのような記録検討には1週間くらいの時間をもらわなければならず、5000円の相談料ではすむはずがない。しかし、こういう場合でも相談料しかもらわないことがあるが、それはボランティアである。
 また、依頼者の経済的・法律的満足度と心理的満足度の違いが、弁護士費用の額に対する理解を妨げる。たとえば、勝てるかどうか微妙な貸金返還請求で勝訴して500万円の貸金が戻ってくれば、経済的・法律的満足度は500万円であるが、依頼者は「500万円が戻ってくるのは当たり前」と考えており、裁判に勝っても「損をしなかった」だけで「得をした」とは思わない。したがって、弁護士が50万円を報酬としてとると、「高い」と感じる。そのような人が弁護士費用を惜しんで本人訴訟をし、最高裁まで争って敗訴判決が確定した後に、初めて弁護士に相談するといった事態が時々ある。法律的な知識の欠如と感情が法律的な見通しの理解の妨げとなり、弁護士費用に対する無理解を生む。他方で、過払金請求で弁護士が過払金の2割を報酬としてとっても、過払金が戻ってくるとは考えていなかった依頼者はほとんど苦情を言わない。むしろ、当てにしてなかった過払金が入ってくるのだから、その8割でも受け取れば満足する。このようにして、過払金から多額の報酬をとる弁護士や司法書士、行政書士が出現するのである。しかし、過払金に関する知識のある依頼者は、「過払金が戻るのは当然」と考えるので、弁護士が過払金の1割の報酬をとると「高い」と感じる。そこで、そのような人は弁護士に依頼せず自分で過払金請求をするようになる。
 弁護士がどんなに増えても、今まで経済的に弁護士に依頼できなかった人たちが、弁護士が増えれば依頼できるようになるわけではない。50万円の弁護士費用が競争の結果45万円になっても、庶民にとって、どちらにしても払えないのであれば、大差ない。弁護士が2、3時間で処理できる事件は、2、3万円の費用ででき、それを50万円も費用をとれば暴利であるが、現実には訴状の作成だけで2、3時間以上かかる。
 訴額数千円の山林の境界紛争では、山林の境界の鑑定費用が60万円くらいかかり、さらに弁護士費用がかかると聞いて、高額な裁判費用に驚いて弁護士への依頼を諦める人は多い。請求額100万円の医療過誤訴訟を費用10万円で引き受けてくれという相談者や、費用10万円で請求額150万円の国賠訴訟の依頼者がいた(これは受任し2年間裁判をしたが、ボランティアである)。庶民相手の事件では、どうしても、経費的に採算がとれないボランティア的な事件が増える傾向がある。ある程度の(すべてではない)ボランティア的な事件を引き受けながら、経済的に法律事務所を維持することは、弁護士の経営手腕にかかっている。
 市民が知っている裁判の情報は、テレビドラマの裁判のシーンであり、テレビドラマでは、通常、弁護士は1、2件の事件しか扱わず、弁護士費用はかからない。弁護士費用のことをまったく考えなければ、「弁護士が増えれば、弁護士に依頼しやすくなる」と単純に考えても不思議はない。この点は、裁判の実情を知らない市民だけではなく、現実を知らない大学の先生たちも同じである。ほとんどの市民は、今まで裁判をしたことも、裁判について教えてもらったこともなく、法律は自分たちの生活を縛るものであって、法律が自分たちの生活の役に立つと考えたことはなく、そのような経験もないので、弁護士や裁判の実情がわからない。これは、日本の司法が長い間、市民から無縁の存在だったことの反映でもある。
 1回1時間近いの法律相談料5000円を高いと感じる人が多いが、同じ人が、3分程度の医者の診察で5000円の医療費(国民健康保険を利用すると本人負担は3割)を負担することを高いと感じないことをどのように理解すればよいだろうか。確かに、時給800円のパートで働いている人にとって、5000円の相談料は高く感じられるだろう。これは、法律扶助制度の貧困の問題や司法に医療保険のような制度がないという問題であるが、他方で、5000円の相談料のうち半分は事務所経費で消えるので、弁護士の時給は2500円程度であり、民間の大企業社員の時給よりもかなり低いことに気づく人は少ない。
 また、司法に対する認識の違いがある。「法律を自分で勉強すれば、弁護士に相談する必要はない」、「弁護士はいなくてよい」、「自分は弁護士に頼むつもりはない」と言う人が、「弁護士を増やせ」、「弁護士の大幅増員に反対するのは弁護士のわがままだ」と主張する人が日本では少なくない。司法や弁護士の役割を否定する一方で、弁護士の増員を主張する屈折した心理。これは社会的格差や競争の結果としての屈折した心理でもある。


 アメリカでは、一般に裁判手続が日本よりも簡略であるにもかかわらず、弁護士報酬の額は日本よりも高い傾向がある。これは、法律扶助制度の不十分な国では弁護士費用を払える市民が限られているので、弁護士の数が多ければ、「金を取れる依頼者から金を取る」傾向が生じるからだと思われる。カナダでも法律扶助の対象とならない裕福な市民層は高額な弁護士費用を負担している。カナダを視察した日本の裁判官が、「カナダは弁護士の数が多く、競争原理が働いているのに、弁護士費用が安くならない点は理解できない」と書いていたが、「競争による価格低減は、それに要する労力以下の価格をもたらさない」という単純な経済原理が裁判官にはわからないのである。この点は、何も資本論を読まなくても、事業者であれば誰でも常識として知っている。
 ものの価格はそれにかかる労力に比例するという原理(労働力基準)の他に、市場経済では価格が経済的利益に対応するという傾向がある。不動産業者の仲介料は不動産の時価によること、発明の対価は労力ではなく経済的利益によって決まることなどがその例である。その結果、、弁護士の報酬は、事件解決に要する労力ではなく経済的利益に比例するという報酬基準(利益基準)が生まれた。
 日本でも、非常に高額な報酬をとる弁護士がいることは事実であり、これがマスコミを通して「弁護士は高額な報酬をとる」というイメージを形成する。30分の相談で1万円の相談料を誰もが高いと感じるだろう。しかし、このような弁護士は、30分の相談で1万円の相談料が払える顧客層」しか相手にしないのであって、低所得の庶民を相手にしていない。したがって、弁護士の数が増えても、報酬基準が変わることはないだろう。この点は、弁護士の数が非常に多いアメリカでも、裕福な階層や大企業が支払う弁護士費用は非常に高額であることに現れている。他方で、アメリカでは庶民を相手にする弁護士には、食えない弁護士や破産する弁護士が出現する。
 高額所得の弁護士のイメージは、市民の司法との稀薄な関係のもとで、市民に表面的には羨望の眼差しを、内面的には弁護士に対する激しい反感をもたらし、どちらにしても司法に対する正確な認識の妨げとなっている。企業や裕福な階層が関係する事件では利益基準による傾向があり、この種の事件では弁護士の数がどんなに増えても、弁護士費用の額は低下しない。企業が利益の実現をめざして有能な弁護士を求めるので、弁護士の数ががどんなに増えても、弁護士の売り手市場になるのである。
 他方で、庶民のレベルでは、労働力基準によって弁護士費用の額が規定されるので、弁護士の数がどんなに増えても、弁護士費用の額はそれに要する労力以下の価格になることはない。
 弁護士の大幅増加は、高額な報酬をとる弁護士に影響を及ぼすことはなく、低額の報酬で庶民を扱っている弁護士の経済的的基盤を揺るがす。そのため、弁護士が需要を超えて増えることで、前記のような弊害を受けるのは庶民層であって、富裕層や大企業ではない。
 どの国でも、医師や弁護士がいたるところにいて、市民が利用しやすい時に安い費用でレベルの高いサービスを安心して利用できることが理想であるが、医師や弁護士の数を増やせば理想を実現できるわけではない。弁護士の数を増やしてこれを達成しようという発想は、余りにも安易で稚拙な発想である。
 市民が弁護士に事件を依頼しやすい制度がなければ、弁護士の数が急増すれば、重大な弊害をもたらす。ドイツでは、人口5000人の町でも裁判所があり、労働裁判所、社会裁判所、財政裁判所、行政裁判所の設置、行政事件等における職権探知主義の採用、弁護士強制主義の採用、扶助費の償還免除、労力に応じた扶助額など利用しやすい司法手続を実現し、弁護士に対する需要に応じた弁護士数になっている。スウェーデンでは人口の80パーセント、フィンランドでは人口の75パーセントが法律扶助の対象となっており、それに見合った数の弁護士がいる。このような前提なしに弁護士の数だけが増えれば、上記のような弊害が生じる。

7、弁護士の数と需要のバランス
 日本の医療には保険制度により誰でも医療を受けやすい制度があること、国公立病院や民間病院という受け皿があるので、少々医師が増えても、「食えない医者」は少ないが、司法には医療保険に相当する制度がなく、企業や役所の弁護士の受け皿がないので、就職先のない弁護士の多くは個人開業するしかなく、それは「食えない弁護士」を意味する。
 弁護士登録する際、弁護士会への登録料(だいたい20万円くらいかかる)をどうするか、毎月の弁護士会会費(約5万円)、司法研修所の給与(貸与制)の償還をどうするか、自分の住居の家賃や当面の生活費をどうするかという問題に直面する。国選事件をやっても、弁護士会費と交通費くらいにしかならない。司法修習生は法科大学院で資金を使い果たしているので、だいたい蓄えがない。当然ながら、弁護士になってすぐに自宅で開業しても仕事はなく、弁護士としての経験を積む機会もない。弁護士が自宅で開業しても仕事がないことは、20年前でも同じだった。自宅開業の弁護士は店舗を持たない訪問販売業者のようなものである。「弁護士に何か依頼することはありませんか」と電話で勧誘すれば、新手の振り込め詐欺と間違えられかねない。そのような弁護士は、いつまで経っても弁護士としての経験、技術が身に付かないので、ますます仕事がないという悪循環になる。
 多くの市民は、「弁護士の資格があればそれなりの収入があるはずだ」と考えるが、そのように考える人が多いのは、弁護士が市民から縁遠いことの結果である。「弁護士は国から何らかの金をもらっている」と考えている人や、「弁護士は依頼者から受け取る金で事務所を維持すること」を知らない人、「弁護士は常に数十件の事件を抱えていること」を知らない人、「弁護士が時間を切り売りして仕事をしていること」を理解できない人、弁護士にはかなりの経費がかかることを知らない人、「弁護士には法律上の強制権限がある」と考えている人がいることに驚いたことがある。それくらい弁護士という職業は日本では理解されていないのである。その結果、テレビドラマに登場する弁護士のように、収入とは無関係に仕事をすることができる弁護士のイメ−ジが形成される(通常、テレビドラマに登場する弁護士は、金銭の授受の場面を扱わない)。
 それでも、かつては、2〜3年借金で辛抱すれば、何とか自分の事務所を持つことができたが、今後はそれは難しいだろう。医者が医院を開業しても経営が成り立つのは、新規医師が病院で経験を積むことができること、医療保険制度、需要と医師数のバランスのおかげである。アメリカでは、資格をとったばかりの弁護士が、就職先がなく、ロースクールの学費のための借金の返済に困り、いきなり破産するという内容の小説があるが、アメリカは公的医療保険のない国なので、破産するような弁護士に依頼するかどうかは依頼者の自己責任に委ねられている。しかし、日本では、そのような自己責任の考えは稀薄であり、弁護士に一定の質とレベルが求められるのである。
 大工が実際に家を建てなければ大工の技術が身につかないことや、医師に経験がなければ治療や手術の技術が身につかないのと同じように、弁護士の仕事も法律書を読んで覚えた知識だけでは無理である。当たり前のことだが、実務的な知識は、実務を経験しなければ得られない。自宅開業でも弁護士会費や生活費は必要なので、収入がなければ借金が増える。過疎地では、従来は、新規開業後、半年後くらい後から仕事が入り始めることが多かったが、今後はそれは期待できない。弁護士としてまともな仕事の経験がなければ、資格取得後何年経ってもペーパードライバーのままである。
 20年前でも競争の結果としての「食えない弁護士」はいたが、現在のように制度的に食えない弁護士が生み出される状況はなかった。しかし、弁護士の需要と数が著しく不均衡になれば、制度的に「食えない弁護士」が大量に生み出されることになる。
 
 最近の新規弁護士の就職難は、当人やこれから弁護士をめざす学生にとっては深刻な問題だが、社会的な視点で見ればそれ自体は表面的な問題である。また、弁護士の数が増えることによって、収入の減る弁護士層が存在することは事実である。しかし、それらは、枝葉末節の事象であって、所詮、個人レベルの問題でしかない。社会的な観点から見れば、弁護士の数と需要のバランスが崩れることの弊害や、新規弁護士が就業先がないために弁護士としての技術や経験を身につける機会を得られないという問題の方がよほど重大な問題である。
 このまま法律扶助制度の拡充がなければ、数年で過疎地の弁護士は飽和状態となり、スタッフ事務所もいずれ定員を満たし、場合により、スタッフ事務所にも仕方なく就職希望者が殺到するかもしれない(それが法務省の狙いである)。国選事件や被疑者弁護事件は新規開業弁護士の取り合いになる(すでに東京などではこの現象が起きている)。表面的には、就職浪人、タク弁、弁護士の他業への転職・廃業、法科大学院の人気低下、地方の法科大学院の廃止という現象が出現するが、どの地域でも弁護士は過剰になる。大都市では巨大法律事務所が席巻し、零細法律事務所の統廃合が強まり、地方の拠点都市でも似たような状況が生まれる。弁護士の格差が拡大し、競争に負けた弁護士は業界から駆逐される。弁護士の転職、廃業、破産が増える。仕事がないために技術・経験のうえで未熟な弁護士が大量に生まれ、巨大事務所が獲り残した顧客をめぐって熾烈な競争をする。消費者事件に関しては、増加する司法書士との競争が激しくなる。しかし、弁護士費用を用意できない階層は、これらの弁護士の対象になりにくく、相変わらず司法の蚊帳の外である。都会で「食えない」弁護士が過疎地へ流入し、過疎地でも「食えない」弁護士は、再び都会へ流入する。
 他方で、目に見えないところで弁護士の数と需要のバランスの崩壊が確実に進行し、「過剰訴訟」、「法外な報酬額」、「過大広告」、「激しい顧客争奪」、「弁護士の悪徳商法」、「悪徳業者との提携」、「人権活動の低下」が出現する。借金の返済に追われ、日々の生活費にも困るようになった弁護士は、一攫千金のイチかバチかの賭けに出る。横領などの弁護士の犯罪が増えるが、犯罪にならないような巧妙な悪徳行為の方が深刻な問題になる。裕福な階層は自分の信頼できる弁護士をいくらでも選択できるので実害がないが、そのような余裕のない庶民がこのような弁護士の食い物にされる。企業と弁護士の力関係が変わり、経済的基盤の弱い弁護士は大企業の不正に対し厳正な態度をとれず、耐震偽装における建築士や、粉飾決算事件における公認会計士に似た地位に立たされる。今回の弁護士の大量増員は大企業と弁護士の力関係の転換を狙ったもので、経済界が弁護士過疎地について真剣に考えているわけではない。大企業にとって、人口の少ない過疎地は経済的利益獲得とは無縁なのでほとんど関心がない。
 議論の出発点は「現実」にあり、以上のような司法の混迷と混乱、市民の不満がその後の司法改革の原動力になることを、将来に期待したい。
 健全な司法のためには弁護士の数と需要のバランスが重要である。
 
8、弁護士の収入について
 「弁護士の数と需要のバランス」を重視することに対し、「弁護士の所得を維持しようとするもの」という批判がある。ここで問題としているのは、弁護士が安定した収入を得るかどうかではなく、制度的に「食えない弁護士」が大量に生み出されるかどうかという問題である。弁護士の所得は現在でもピンからキリまであり、この点は、弁護士の数が増えても変わらない。弁護士の数が増えれば、弁護士費用の額は若干は下がるが、高額な報酬が見込める事件の単価は下がらないだろう。また、弁護士に依頼できなかった人たちが費用的に弁護士に依頼しやすくなるわけではない。高額な所得の弁護士層は現在でもいるし、今後、弁護士間の格差が拡大すれば、高額な所得の弁護士の所得は増える。
 しばしば、胡散くさい弁護士がテレビやマスコミに登場して自分の年収を自慢したり、現実に高額所得の弁護士もいる。そのような弁護士のイメージが「高額な報酬をとる弁護士」のイメージを形成するのだが、ほとんどの弁護士はそのようなイメージや派手なパフォーマンスとは無縁である。
 大学院卒の資格でいえば、銀行や商社、マスコミ関係者の方が、平均的な弁護士よりも、各種手当や退職金などを含めた平均所得は恐らく多い。もっとも、「繁盛する弁護士」の所得は平均的サラリーマンよりも多いだろうが、それでも「成功したサラリーマン」(大企業の役員のこと)の所得にはかなわない。ほとんどの弁護士は週に60時間くらい仕事をしている。
 私は、公務員から弁護士に転職し、弁護士になった時32歳だったが、民間企業に就職した大学の同級生たちよりも給料の額が少なかった。ただし、私は、司法試験の勉強を始めた時も、弁護士になった時も、収入にまったく関心がなく、私が就職した法律事務所は、おそらく日本でもっとも給料が安い部類の事務所だった。そのため、教師をしている妻が産休と育児休暇をとった時、私の給料だけでは住宅ローンの支払に苦労した記憶がある。当時の私は、自分の収入の少なさについてまったく関心がなく、他の弁護士との比較などしたこともなかった。今から振り返ってみれば、当時の自分の収入の少なさに改めて驚くのである。弁護士は、収入についてさえ気にしなければ実に気楽な仕事であるが、それなりの収入を得ようとするとストレスのたまる仕事である。
 弁護士の数が大幅に増えた場合、大企業や富裕層を顧客にする高額な所得層の弁護士にはほとんど影響はなく、庶民相手の経済的基盤の弱い弁護士層や、若手弁護士、新規弁護士が経済的苦境に立たされるという問題がある。大企業や富裕層を顧客にする高額な所得層の弁護士は、従来から、高額な報酬を伴う事件をめぐって熾烈な競争をしているが、そのような競争は巨大法律事務所や古参弁護士を中心とした競争であり、今後増大する新規参入弁護士とは無縁の世界である。新規弁護士は大きな法律事務所に就職しなければ、どんなに優秀な弁護士でも、このような競争に参入することは難しい。
 以上の点は、弁護士の数が多いアメリカを見ても明らかである。富裕層を顧客とする弁護士層は高額所得者が連なるが、庶民を相手とする弁護士は経済的に苦しい競争を強いられる。アメリカでは収入の少ない弁護士の破産は珍しくないようだ。現在、弁護士の大幅増加に反対しているのは、もっぱら庶民を顧客とする中堅、若手弁護士であり、自分たちが「食えなくなる」ことに反対するのは当然である。日本では、公務員などのサラリーマンが賃上げを要求することに対して、否定的な見方をするサラリーマンが多いのだが、それは自分たちの待遇を低めることになる。公務員の給与水準を見ながら社員の賃金額を考える企業は多い。他のサラリーマンの給料を低く抑えることで、自分たちの給料水準を低くしているのである。経済的地盤の安定した巨大事務所が弁護士の大幅増加を推進し、古参弁護士が消極的に弁護士の大幅増加を容認する傾向があるのは、前者は弁護士の大幅増加による不利益を受けず、後者が不利益を受けるからである。
 問題は、弁護士の数と需要のバランスが崩れると、弁護士の収入が減るといった問題ではなく、弁護士の中に「食えない弁護士層」が制度的に形成され、それが種々の弊害をもたらすという点である。弁護士の収入そのものは、弁護士の数が多くても少なくても、所得の多い弁護士もいれば少ない弁護士もいるという個人レベルの問題でしかない。しかし、「食えない弁護士層」の出現は社会的な問題であり、その弊害の被害を受けるのは、富裕層ではなく庶民層なのである。
 日本では1か月に300時間以上働き、過労死寸前の人たちがたくさんいる。また、派遣労働者など生活できないような収入しかない階層の人たちが多くいるのに、弁護士について「食えない」ことを問題にするのはおかしいという主張がありうる。時給800円のパート労働者の賃金と対比すると、弁護士の時給3000円で計算すれば、1件の訴訟の用弁護士費用が30万円くらいになるという議論は贅沢な議論である。「日本では、みな食えないのだから、弁護士が食えなくても仕方ない」という意見である。これについては、@日本の派遣労働や長時間労働、格差のあることの法が是正されるべき問題であること、A弁護士が過剰になることの問題性は、医師の過剰に匹敵する面があり、弊害が大きいことを指摘できる。妬みと蔑視が差別を生み、互いに自分たちの足を引っ張り合うような社会であってはならない。
 アメリカを見てもわかるように、富裕層は、高額な報酬を払って実績のある高名な弁護士に依頼するが、庶民は、「安かろう、悪かろう」弁護士の餌食になってしまう恐れがある。前記のように、弁護士の仕事は専門性や裁量の幅が広いので、庶民が弁護士を自己責任のもとに自分で判断して選択することが難しい。例えば、最近、東京の弁護士が「着手金不要。面談不要。電話1本で過払金を取り戻します」などの広告で、地方の庶民を漁る事態が起きているが、報酬額は過払金の2〜3割と高額である。最初、「弁護士費用はタダ」だと思ってその弁護士に依頼すると、後で5割の報酬をとられたなどといったことが、将来、起きる可能性がある。ちなみに、ヤクザが債権回収を引き受けた場合、通常、報酬は回収した金額の5割であり、アメリカの弁護士の報酬は3割くらいである。最近、都会では、弁護士による営業用チラシの戸別配布があるが、今後は、弁護士による事件の勧誘の戸別訪問などが起こりうる。
 また、かつては優れた仕事をしていた弁護士や、元裁判官、元検事、元大学教授、元弁護士会会長などでも、金に困れば簡単に悪徳弁護士に変身するのである。弁護士といえども、借金や「食えない」状態のもとでは、簡単に強引な営利事業者に変身する。「悪徳弁護士もいるが、そうではない弁護士もいる。どういう弁護士に依頼するかは自己責任である」という状況は、アメリカでも問題であることに変わりはないが、自己決定の弱い日本の社会ではいっそう深刻な問題を引き起こす。
 現在、大卒男子の大企業の40代男性の平均年収は約1000万円であり、これは、弁護士の平均所得と同程度である。弁護士の年間平均所得は1600万円だと書いた新聞社があるが、これはそのような弁護士からだけアンケートの回答を得たのだろう。私の経験や各種の統計資料からすれば、弁護士の年間平均所得は800〜900万円であり、これが実態に合っている。
 弁護士の初任給は、東京では年間600万円くらいが多いようだが、地方では年間500万円くらいであり、最近は、初任給300万円程度の弁護士が増えている。アメリカでは、大事務所における新人の勤務弁護士の給与は約900〜1000万円、8年目の勤務弁護士で1200〜1700万円とされている(2003年の資料)。パートナーになれば、年収1億円以上も珍しくないが、貧乏人相手の弁護士では平均年収が約300万円である(「路上の弁護士」ジョン・グリシャム、新潮社)。一般にアメリカの方が日本よりも弁護士費用の額が高い傾向があり、弁護士の数が増えれば弁護士費用の額が安くなるわけではない。
 勤務弁護士は月額5万円の弁護士会会費や研究会費、寄付金、書籍購入費、交際費、交通費などが自己負担であり、弁護士に残業手当の観念はなく、病気で休業すれば所得がないので、自己負担で所得補償保険に加入しなければならない。勤務弁護士の年収500万円はサラリーマンでいえば400万円程度に相当する。これは、決して安い金額ではないが、弁護士の場合は勤務年数とともに自然に収入が増えるわけではなく、勤務弁護士の場合は10年経っても所得は500万円のままである。そのため、以前は何年か経つと独立する弁護士が多かったのだが、今後はそれはいっそう困難になるだろう。
 開業弁護士は、家賃、事務員の給料・賞与・退職金・福利厚生費、事業税、電話、ファックス、各種リース、書籍購入、備品、顧客用の駐車料負担が生じる。開業弁護士の場合、年間売上1500万円の場合、経費を引いた後の所得はだいたい500万円程度である。また、サラリーマンのように年齢とともに自動的に増えていくわけではなく、何年経っても所得が500万円のままという可能性がある。
 多くの弁護士は、法律家団体、学会、研究会、消費者団体、人権団体、弁護団、弁護士会活動などと何らかの関わりがあり、会費や活動費が必要になる。弁護士の収入が少なくても、弁護士でいること自体がこれらの活動のうえに存在するので必要な経費である。大学の研究者は大学から支給される研究費や大学が保有する膨大な書籍を利用できるが、弁護士はすべて自費で購入しなければならない。
 20年前でも開業当初の若い弁護士の経営は苦しかったが、弁護士の数と需要のバランスが崩れると、そのような状態が開業当初だけでなく、多くの弁護士の常態となってしまうことになる。それでも、自分や家族が生活できる弁護士はまだよいが、事務所経営が赤字になり、多額の負債を抱えるようになると、前記のような弁護士がなりふりかまわない行動に出て、多くの弊害をもたらすのである。
 以前よりも弁護士になりやすくなったとはいえ、法科大学院を卒業し、困難な司法試験に合格した者は、人一倍努力した人たちである。どんな職種でも社会的に相当な待遇がなければ、優秀な人材が集まらなくなる。人間の努力がそれなりに報われる待遇がなければ、やがて弁護士になることが努力の対象にならなくなってしまう。弁護士の初任給500万円は、今の格差社会の中では、破格の高額であるが、大学を卒業して就職するのではなく、法科大学院を卒業して司法試験に合格し、司法研修所を終了して弁護士になるのであるから、大学卒の企業就職者よりも待遇がよくなければ「不当」だと感じるだろう。
 弁護士の待遇が、その地位の社会的な重要性に較べて、相対的に悪くなれば、それに応じたレベルの人間しか弁護士にならなくなるのは、社会の必然である。個々的には優れた弁護士がいても、全体としての傾向やレベルは社会的に規定される。弁護士の社会的地位が低下すれば、すぐれた弁護士がいる一方で、多くの「碌でもない弁護士」が生まれることになる。これは、日本での研究者の待遇が悪ければ、優秀な研究者が大学に残らなくなるのと同じである。
 
9、法曹資格と競争
 弁護士の増員問題は法曹資格と競争をどのように考えるかという問題でもある。
 一般に、アメリカでは法曹資格を持っているだけでは「食っていけず」、法曹資格の取得と、職業は別のものと考えられている。日本では法曹資格は職業を得るための手段と考えられている。ある職業の社会的地位は、その職業を獲得するまでに要する時間、労力、必要とされる能力のレベル、職務の内容、その職務の社会的貢献度などによって規定される。
 ある国家資格についてどの程度の価値を認めるかは社会的に定まる。「学力世界一」といわれるフィンランドでは、教員資格に高い価値が与えられ、教師はフィンランドでもっとも人気のある職業である。フィンランドでは中・高校の教員資格の取得には、大学の修士過程終了後さらに厳しい試験を受けて教職課程に進学しなければならない。また、小学校の教師になるには大学の教育学部に入学しなければならないが、入学試験の合格率は10パーセント以下である。フィンランドの大学は、人気学部の合格率は10パーセント以下が当たり前であり、コミュニケーション学部などは合格率3パーセントであり、日本のかつての司法試験並みの難しさである。ヨーロッパの大学は日本の大学院レベルであり、さらに修士の肩書を持つフィンランドの教師のレベルは高い。なお、フィンランドの大学はすべて国立であり、授業料は無料、学生に援助金が支給される。
 これに対し、日本の教員資格の取得は簡単であり、教師になれるかどうかは、教員資格を取得するかどうかではなく、教師に採用されるかどうかで決まる。日本では教員資格を取得しても教師になれないので、教員資格は教育学部卒業という意味しか持たず、教員資格は「教師になることができる資格」でなくなっている。教育学部に入学して教員の資格を取得しても教師になれないのであれば、教育学部の人気と学生の質が低下する。このような状況に加えて、国の文教政策の貧困と無策の結果、教師の人気低下、教師の質の低下、問題教師の増加、日本の教育レベルの低下をもたらした。日本は、国内総生産に占める教育費の割合が、OECDが調査した28か国中最下位であり、北欧諸国が上位を占める(2008年)。
 日本では、何の理念もなく無節操に大学の数を増やした結果、日本の大学や学生のレベルは世界でもっとも低い部類であり(日本の大学院レベルではじめてヨーロッパの大学のレベルになると言われている)、日本では「大学卒」の肩書がほとんど価値を持たなくなってしまった。「大学卒」の肩書の取得を容易にし、ほとんど誰でも金さえ払えば「大学卒」の肩書を取得できるようになれば、「大学卒」の肩書が大学で4年間遊んだという意味しか持たなくなるのは当然である。日本で大学の数が増えたのは、大学の経営が営利事業になっており、大学を経営したいという経営者側の意向と、大学卒の肩書が欲しいという「国民のニーズ」に合致したからである。その結果、勉強意欲のない学生でも簡単に大学にはいれるようになり、大学の数に見合った学生の数を獲得することが大学経営上の至上命令になった。これは、道路や空港が必要だから作るのではなく、建設会社の仕事の需要を増やすために道路や空港を作り、施設を作った後に利用者を作り出さなければならないのと同じである。計画段階で、役所が道路や空港の利用予定者数を水増しすることは、机上の数字を操作すれば簡単にできるが、完成後の道路や空港の利用者数の確保は簡単ではないため、計画段階の数字と異なって赤字経営になるのが、いつものパターンである。これが、800兆円という日本国の借金が増えた最大の理由である。
 大学院の博士号についても、国が大学院博士課程の定員の大量増加政策をとり、企業が「博士」を安く効率的に使用することを企図したが、結果的に企業の研究者の採用が増えず、博士号取得者の就職難をもたらした。博士号取得者が専門性を生かせる職種が少ないために、博士号取得者が、無職、アルバイト、専門外の分野での就職などをせざるをえない状況が生まれた。大学の研究者の数を大幅に増やして競争させ、実績をあげられない若手研究者がポストを追われるようになれば、落ち着いて研究ができなくなる。時間をかける研究よりも、簡単に論文の書けるテーマが研究対象となり、安直な論文が大量に生まれる。大学の若手教師は、研究実績よりも学生に対する人気のある方が、大学にとって学生の呼び込みには好都合だということになりかねない。
 大学の数が増え、大学間の競争が激化することによって、大学の質や学問のレベルが上がるのではなく、大学の学生獲得競争が激しくなった。大学間の競争は大学の質を上げることではなく、単に学生を集める競争を生み、芸能人を大学の教授にすることや、スポーツ選手を大学に入学させて大学の知名度を上げること、大学の派手な宣伝、就職先の確保、国家試験対策、学生へのサービスの向上、法科大学院の設立などをもたらした。そして、競争に負けた大学は潰れていく。大学の学生獲得競争と学生の就職競争が激しくなると、大学は落ち着いて学問をする場でなくなる。大学の数が増え、大学間の競争層が激しくなっても大学の質は向上せず、むしろ、大学と学生の質が低下した。
 法科大学院の数や定員をある程度制限して司法試験合格率を80パーセントくらいにすべきだったのだが、法科大学院の設置を希望する大学すべてに認めたために法科大学院が乱立し、大学の無節操な乱立と同じ状況をもたらした。そこには司法における理念と政策の欠如があるが、理念と政策が欠如する傾向は、日本では司法に限ったことではない。
 その結果、下位の法科大学院は入学が容易になったが、司法試験合格者数が少ない状況が生まれた。他方で、全体としての司法試験合格者数が増えて、法律家としての能力に欠ける者が司法試験試験に合格するようになった。最高裁も、司法修生の下位層のレベルの低さを指摘しているが、弁護士会でも弁護士の質の低下が指摘されている。質の悪い弁護士を大量に養成し、そのあとは弁護士の競争と市民の選択・自己責任だという社会がもたらす弊害は大きい。大企業は粗製濫造された弁護士の中から優秀な弁護士を選択できるが、庶民がそれを選択するのは無理であり、庶民が弊害を受ける。医師の粗粗製濫造、競争、患者の自己責任という構図はとれないが、司法ではそれでよいとするのは、司法が政治からも市民からも軽視されていないことの反映である。
 建築士の経済的基盤が安定していれば、建築士が違法な建築をしようとする業者に対し、強い立場で指示や指導ができるが、逆に、建築士の数が多く経済的基盤が弱いために、建築士は建築業者の言いなりになる傾向が生まれる。税理士や公認会計士と企業の関係も同様である。
 弁護士の経済的基盤が不安定になれば、弁護士が企業に従属する傾向が生まれる。弁護士は、建築士、税理士、公認会計士、司法書士などと異なって、その独立性が保障されており、国の監督を受けない。弁護士は国から独立している弁護士会の監督を受けるが、国の監督を受けないのは、弁護士が国家と緊張関係に立つ人権保障を担うからである。弁護士が企業や特定の市民層に従属したのでは、本来の任務を果たせない。
 また、需要を超えて弁護士が増加すれば、収入と顧客の獲得競争を生む。弁護士としての仕事の質を高めて優れた仕事をしても、収入と結びつかないことが多く、弁護士は仕事の質を高めることよりも、収入やよい顧客を獲得するためのサービスや営業活動に熱心になる。
 「弁護士が増加すれば、サービスがよくなると考えている人が多い」が、これは一面では正しく、一面では正しくない。すなわち、弁護士の顧客獲得のためのサービスはよくなるが、経済的利益と結びつかないことはサービスの対象とならない傾向が強まる。大学の数が増えれば、学生を獲得するための宣伝や学生の施設の向上、知名人を教授にするなどの傾向が生まれるが、大学の質が向上するわけではない。日本のように大学の数が激増すれば、質を維持する大学もあるが、全体としての大学の質は低下した。また、大学の数が増えれば過価格競争が生じるが、大学の学費が安くなったわけではない。企業の数が増えて競争が増すと、「儲かる部門」に企業が集中し、「儲からない部門」は放置される。研究者の数がどんなに増えても、経済的利益をもたらさない基礎研究の分野には研究者が集まらない。弁護士の仕事が目に見えにくい裁量の部分が大きいために、弁護士の表面的なイメージや金に結びつくことはサービスがよくなるが、「金にならないことはしない」、「金にならない事件は扱わない」傾向が増す。弁護士の数と需要のバランスがとれなくなることは、いわゆる「人権派弁護士」に受難の時代をもたらし、弁護士に依頼するうえで、富裕層と庶民の間の格差を拡大させる。

 もともと人間はわがままな存在あり、依頼者が弁護士に求めるのは自分の利益を実現してくれるかどうかであって、弁護士が社会的にすぐれた弁護活動をするかどうかではない。自分の依頼した弁護士が弁護士会の活動をしたり、他の冤罪事件、社会的事件を扱うことは、弁護士が自分の事件に集中できない結果になるのではないかと心配する。依頼者にとって、弁護士がすぐれた業績を残すかどうかはどうでもよいことであって、自分の利益の実現のために弁護士に費用を支払うのである。企業にとって、会社の不正を指摘して役員を退陣に追い込む弁護士よりも、不正の隠蔽方法を教えてくれる弁護士の方がありがたい。弁護士の経済的基盤が弱くなれば、金払いのよい顧客を失いたくないという心理から企業の不正に目をつむるようになり、中には積極的に不正の隠蔽に加担する弁護士が現れる。刑事事件では、加害者の刑をどれだけ軽くできるかという点に弁護士間の競争が生じ、アメリカのように「自分に依頼すれば刑を軽くできる」ことを派手に宣伝する弁護士が現れる。弁護士の仕事が正義に適うかどうか、社会的に賞賛される弁護活動かどうかはどうでもよくなる。金に困った弁護士は、金のために何でもするようになってしまう。どんなにすぐれた弁護士でも、依頼者の利益を実現できなければ競争から淘汰される。
  弁護士の過度の競争は、弁護士の仕事の質を高めるのではなく、「金のとれる事件」の取り合いを招き、弁護士が、採算のとれない事件、ボランティア的事件、人権活動から遠ざかる傾向を招く。このような事態は、競争社会では当然の結果であるが、医療や司法、教育、福祉など人間の生存の基本に関わる分野では、合理的な範囲に競争を制限することが必要である。娯楽産業や小売店が過剰になることと、医師や弁護士が過剰になることでは、弊害のレベルにおいて同列に考えることはできない。
 弁護士の数と需要のバランスが崩れると、弁護士の就職難が生まれ、弁護士の資格があるだけでは生活できなくなるが、それよりも法曹資格の意味が変わることが重要な意味を持つ。すなわち、弁護士の資格を取得しても法曹になれるとは限らず、、弁護士が法曹になれるかどうかは、法曹資格を取得するかどうかではなく、裁判所、検察庁、法律事務所に就職できるかどうかで決まることになる。したがって、法曹資格は法科大学院卒業、司法試験合格という意味を持つだけで、「法曹になることができる資格」ではないことになる。つまり、法曹資格を取得しても、裁判所、検察庁、法律事務所に採用されない場合には、事実上、法曹の仕事から疎外されるということである。自宅で開業しても、一般には、家族の生活費を稼ぐことすら困難であり、アルバイトをしながら法曹としての就職先を捜すか(フリーター)、法曹資格とは無関係の他業に転職することになる。
 アメリカのように企業や役所に入って法曹としての仕事ができればよいが、現状では日本の企業や役所には法曹資格者の需要がほとんどない。2007年の企業内弁護士の数は最近増えたが、それでも全国の弁護士2万3154人中、僅か242人であり、全体の1パーセントである。また、現在、自治体が法曹を雇用するケースはほとんどないが、今後、弁護士の採用を考えている自治体は全体の1パーセントにすぎない。企業や自治体が弁護士を雇用しない理由は、日本の企業や役所には内部の法曹を利用するシステムがないからである。実務の世界は、「役に立つかどうか」がすべてであり、どんなに優秀な人物でも、実用性がなければ必要性がない。実務経験を積まなければ法曹資格があるというだけでは弁護士の仕事はできず、役に立たない。企業での重要な契約書の作成や重要な裁判は、会社内の経験のある法律スタッフと社外の経験のある弁護士があたり、入社したばかりの法曹ではほとんど役に立たない。そのような新規法曹も社内で5年、10年と経験を積めば重要な法律事務に従事できるようになる。
 他方で、頻繁に訴訟のある企業を除き、社内弁護士は入社後豊富な裁判実務経験を積めるとは限らない。開業弁護士は毎日朝から晩まで裁判実務に従事するが、社内法曹はそうではない。また、開業弁護士は、いろんな会社に関する裁判を経験している(経験の多様性)という点でも、社内弁護士とは異なる。社運を左右するよな重要な裁判は、裁判経験の少ない社内法曹よりは、社外の裁判の実績のある弁護士に依頼することになる。
 役所では、日常業務上の法的問題は部内で解決するか、不明な点は自治省にお伺いを立てて解決している。「身内」ではない弁護士のアドバイスよりも、自治省の通達や指示の方が重宝されている。訴訟になれば、役所の顧問弁護士に依頼するので、役所内に弁護士は必要ないのが実情である。役所が弁護士を雇用し、それが「身内」になれば、使えないこともないが、弁護士が役所に従属することは法曹でなくなることを意味する。
 法曹であることは、弁護士会に所属し、弁護士自治、弁護士倫理に拘束されることを意味する。弁護士は法やそれにもとづく正義、公平、人権保障などの理念に従うのであって、企業の方針や自治省の指示に盲従することはできない。弁護士は、企業や役所の利益に適うことでも弁護士倫理に反することを行うことはできず、それに反すれば除名等の処分を受ける。企業の利益よりも、公正、正義、人権といった弁護士の倫理や使命を優先させることが日本の企業や役所の体質に合わないことが、社内法曹を置かない最大の理由である。逆に言えば、日本の企業や役所には、公正、正義、人権保障を重視しない傾向がある。日本の企業や役所では公正、正義、人権保障、民主主義の理念が十分に理解されていないのだが、この点は日本の学校でこれらをきちんと教えていないことも関係している。小中学校の教師でこれらをきちんと理解している人は極めてすくない(民主主義は選挙のことだと考え、そのように教えている教師が多いが、民主主義の理念を理解することが重要なのである)。
 以上の点に終身雇用制、年功序列賃金、企業内の教育システム採算性、経費不足などが相まって、日本の企業や自治体は法曹を雇用しない状況が生まれている。
 結局のところ、日本の企業や役所が社内法曹を置くためには、それが可能なシステムが必要であり、それがない限り、法曹資格者は一般社員や一般職員と同じ扱いしかできない。これは、法曹資格があっても法曹ではない。法曹資格があっても、一般職員の中途採用として企業や役所に採用されるのであれば、最初から新卒者として就職した方がよい。
 弁護士から裁判官に転身する道もあるが弁護士任官、採用枠は年間30名程度であること、弁護士の仕事の経験があること、採用にあたって厳しい審査があることから、「食えない弁護士」から裁判官に転身するのは無理だろう。また、「食えない弁護士」が裁判官になることは社会的に妥当でない。パートタイム裁判官の制度もあるが、給与額が低いので、「食えない弁護士」がパートタイム裁判官になると、事務所経費をまかなえず、ますます食えなくなる。
 このままの状況が続けば、法曹資格は法曹になる資格ではなく、成績上位者や特別なコネのある者が法曹に採用される資格でしかないことになる。それは、教育学部や大学院の人気と質の低下と同様に、法科大学院の人気と質の低下、法曹の質の低下、上記の法曹特有の弊害をもたらす。
 諸外国では、日本の司法書士や行政書士が行っている仕事も弁護士が行っており、法曹人口は、弁護士、検察官、裁判官、司法書士、行政書士の数を含めた数になる。現在、破産事件や債務整理事件、簡裁事件は多くの司法書士や行政書士が手がけている。近年、司法書士、行政書士の数が急増しており、法曹人口や法曹資格について、司法書士や行政書士も含めて考える必要がある。
 
 法曹の大幅増員論の中には、法曹の数は法科大学院の学生の定員に合わせるべきだという本末転倒の意見や、多分に弁護士に対する嫉妬や反発に基づく感情論もあるようだ。現在、医師の国家試験の合格者数は年間7000人台であるが、医学部の定員を制限しているために混乱は生じていない。しかし、医学部の定員を2万人にして合格者数を7000人にすれば、「医師国家試験の合格者数を2万人にしろ」という要求が出てくるだろう。法科大学院の定員を合格者数に会わせなかった点が制度上の最大の失敗である。
 最近、やたらとマスコミで目立ちたがったり、マスコミで年収を自慢する弁護士が増え、弁護士の信用を貶めているが、もともと弁護士の仕事のほとんどは地味で堅実なものであり、弁護士はすぐれた仕事をしても収入に結びつかないことが多い
 私の経験から言えば、かつては収入よりも弁護士としての仕事のやりがいを感じ、大企業や官庁への就職ではなく弁護士を選んだ人が多かった。しかし、最近は、そうではない弁護士が増えており、弁護士の大量増加の影響が出ている。いずれにしても、弁護士として「食えない」状態になれば、正義や人権どころではなく、「背に腹は代えられない」ことは弁護士も例外ではない。
 弁護士としての社会的活動を維持し、社会的信用を維持するためには、それに見合った待遇が必要であり、それがなければ、優秀な人材が法曹を敬遠し、法曹の質が低下する。この点は、大学教員や研究者も同じであり、社会的に相当な待遇がなければ、優秀な人材が研究者を敬遠してしまうのが現実である(日本の大学教員や研究者の待遇は全般的に悪い)。
 年収300万円でも弁護士ができないことはないが、そういう状況では弁護士は人一倍努力してめざす職業でなくなる。すぐれた人材が弁護士にならなくなる。年収300万円でも就職先のある弁護士はまだマシで、今後は多くの弁護士が、「タク弁」(自宅で開業する弁護士)になってしまう。これは、医師免許を取得後、病院に就職して経験や技術を身につける機会がないまま、いきなり1人で開業して、見よう見真似で手術を行うようなものである。「タク弁」の弁護士に弁護士会が研修を実施しても、「タク弁」では、筋の悪い事件を除きまともな仕事の依頼が来ないので、仕事の経験を積むことは難しい。弁護士という職業が魅力のないものになれば、すぐれた人材が敬遠し、能力や人間的に問題のある者が大量に弁護士の業界に流入することになる。
 収入が目当てで弁護士になった人は別として、そうではない弁護士の多くは、収入に結びつかない事件を相当数扱う。しかし、犠牲的精神だけで10年も20年も弁護士を続けるのは無理である。
 アメリカでは法科大学院のレベルも学生のレベルも「ピンからキリ」まであり、弁護士も玉石混淆である。アメリカにも法律扶助制度はあるが、スタッフ制を採用するため、法律扶助を利用できる法律事務所の数が少ない。アメリカのように、どの弁護士に依頼するかは依頼者の資金力と自己責任によるという競争社会では、裕福な階層は「高額な報酬を要求する有名な弁護士」に依頼できるが、資力のない市民は弁護士に依頼できないか、「うさんくさい弁護士」の食い物にされかねない。アメリカの弁護士には、人権よりも「金」という、うさんくさいイメージが常につきまとう。
 ドイツでは、司法試験によい成績で合格しないと、裁判官、検察官、弁護士にはなれないと言われている。司法試験に合格しただけでは弁護士にはなれない。ドイツでは、人口5000人に1人の割合ですでに弁護士が開業しており、弁護士が競争に新規参入するのは、難しいようである。その結果、司法試験に合格してもタクシーの運転手になる者が現れる。
 日本では、ドイツのように市民の賢明な弁護士の選択ができる状況にはないので、弁護士の過剰な競争や質の低下は、市民が弁護士による金銭収奪の対象になることを簡単にもたらしてしまう。弁護士の数が需要とバランスを欠くと、上記のように弁護士が信用できないものになり、司法に対する信頼自体が低下する。「裁判は金次第」という弱肉強食の司法によって困るのは市民である。
 多くの市民は単純に、「弁護士や医師は多ければ多いほどよい」、「酒屋やコンビニは多ければ多いほどよい」、「街にタクシーが溢れ、常に客待ち状態の方がよい」、「誰でも大学に入れるようにしてほしい」、「学校では全員が好い点をとれるようにしてほしい」、「公務員は少なければ少ないほどよい」、「公務員の給料は少なければ少ないほどよい」などと考えるが、それらが社会的にどのような意味を持ち、どのような影響をもたらすかを深く考えない。「市民へのサービスを充実させるためには、公務員の数はどのようにあるべきか」ということまで知恵が回る市民は多くない。「商品の価格は安ければ安いほどよい」というのが市民の素朴な感覚であって、商品の価格はどのようにして決まるのか、商品の価格はどのようにあるべきかを経済的見地から考えるわけではない。商品の価格がそれに要する労力以下に下がれば利益が出ず、その商品が市場から消えることや、過度の競争が粗悪品を乱造すること、やがてそれが賃金の低下につながることまで考えない。大学に入りたい人が多いからといって、誰でも高い入学金と授業料払えば大学に入れるようにすれば、大学の地位が低下するのは当然である。大学教育の理念や位置づけを明確にしなければ、大学のレベルの低下を招くのである。大学のレベルを限りなく下げて、誰でも大学に入れるようにしても、何の意味もない。日本の高校は、誰でも入れるようになったので、「高校卒」の資格が無意味になり、高校の格差が意味を持つようになった。多くの人は、「公務員の給料が下がれば、やがて民間企業のサラリーマンの給料の低下につながり、自分の給料も下がる」とは考えない。医者が増えすぎて医者の失業が当たり前の社会になれば、医療がどのようになるかまでは気が回らない。市民は、法律事務所に行けば、そこに弁護士が待機していてすぐに相談に応じられることを望むが、一般的に言えば、そのような暇な弁護士はよほど問題があって事件や依頼が少ないのか、新米の弁護士であるかのどちらかだろう。いつも待合室に人がおらずすぐに診察してくれる病院はよほど不人気な病院だが、他方で、「親切な病院」だと勘違いする人もいる。一般に国民は「わかりやすい政治」を望むが、「わかりやすい政治」が、国民にとってよい政治だとは限らないことに、すぐには気づかないものである。
 ここで重要なことは法曹を資格制にし、自由競争を制限している趣旨である。法律業務を誰でも自由できることにすれば、その弊害が余りにも大きいために、国家資格にしているのであり、その観点から需要とのバランスが必要である。「弁護士の数が多ければ多いほど便利である」というマスコミが煽動する雰囲気や感覚に流されるのではなく、どのような理念のもとにそれらの職種の数がどうあるべきかについて真剣に検討されなければならない。弁護士の数を増やすだけであれば、法科大学院ではなく法律技術者を養成する専門学校でも十分機能する。かつて、大学よりも法律予備校の方が、より効率的に司法試験の受験勉強ができるという傾向があったが、それは一面の真理をついている。現在のように法律家が単なる法律技術者に過ぎないのであれば、法科大学院は必要ではなく、専門学校で十分である。大学の経営のためにわざわざ法科大学院をつくる必要はない。このように弁護士を大量に養成すれば、弁護士は不動者業者やタクシーの運転手と同じように巷に大量に溢れることになるが、それでは健全な社会をもたらさない。
 現在、看護師や理学療法士などは、大学だけではなく専門学校でも大量に養成しているが、医師は専門学校では養成していない。これは医師の資格の重要性にかんがみて、国家の制度としてそのようなシステムをとっているのである。かつてのように軍医という形で大量の医者を養成することは弊害が大きいことがわかっている。弁護士についても、その資格の重要性を認識すれば、安易に大量に養成するのではなく、その質と地位を保障し、社会的に重要な役割を担う職種であることを維持する必要がある。
 どの国家資格にもその社会における適正な数が存在し、それを考究することが重要なである。全ての国民が、政治と政策全般に関する幅広い知識と深い考察に基づいて検討できるだけの知識や理解、判断力を持っているわけではないので、それは政治家や専門家の役割になる。日本には、国の政策全般にこのような理念に基づいた考察がなく、その時の利害関係と政治上の便宜だけで何も考えずに数を増やしたり減らしたりするだけなので、すぐれた制度を構築できない。
 
 競争社会はある程度の格差が生じることが前提となっている。人間に能力差があり、競争があれば、必ず格差が生まれる。格差をなくすという考え方が、人間の能力差を否定したり、努力の差が結果の違いに表れないことを意味するのであれば、それは事実に反する。同じ仕事をしても、できる者とできない者がおり、それは生産量や品質の違いとなって現れる。能力と努力に関しては、必ず格差が生じる。この点は事実の問題であって、どのように考えるかによって変わるものではない。問題は、格差の下位の層が生活できないことが問題であって、格差があっても下位層が健康で文化的な生活が保障されれば、何の問題もない。現在でも弁護士の間の格差はあり、それはかなり大きい。現在でも「食えない弁護士」はいる。しかし、今後、このままでは「食えない弁護士」が大量に、しかも制度的に生み出されることが問題なのである。
 競争に関しては、法曹になりたい者を、@法科大学院入学時に淘汰する、A法科大学院の卒業時に淘汰する、B司法試験で淘汰する、C司法研修所で淘汰する、D法曹の採用時に淘汰する、E弁護士になった後の競争で淘汰する(食えない弁護士は廃業する)という選別の方法がある。ここで選別の対象となるのは、人間の能力と努力である。
 弁護士の資格取得後の競争とするか、弁護士の資格を取得するための競争とするかという問題がある。法科大学院の定員を2000名とし、司法試験の合格者を2000人に近い数字すれば、法科大学院はかつての司法研修所のような地位を占めることになる。ある資格の取得に対する希望者が多ければ、当然、激しい競争が起きるが、その競争をどの場面で設定するかは政策問題である。
 現在のように、法科大学院に入学しても法曹になれる割合が低いことは、法科大学院への入学そのものが無駄になるので、Bは好ましくない。また、法曹の需要を超えて法曹資格者を大量に生み出すことは、D、Eで弁護士を選別することになり、前述したような弊害を生み、弁護士の資格に対する信用の低下を招く。医師の数を現在の数倍に増やして、開業医の自由競争で食えない医師は廃業すればよいという政策では弊害が余りにも大きい。Dは、研修所を終了した者全員が就職できるわけではないという手法である。あたかも教師の資格取得後、教師として採用されない者が多数いるのと似た状況になる。法律事務所で採用されなくても、自分で弁護士の開業ができるが、市場が狭くなれば、薬剤師や建築士の資格を取得しても、誰でも薬局や建築事務所を開業できないのと似た状況が生じる。自宅で薬局や建築士事務所を開業できないことはないが、顧客を獲得することは難しい。薬局や建築士事務所の少ない過疎地だからといって、薬局や建築士事務所をすぐに開業できるわけではない。
 法曹になりたい者が多いから、法曹の数を増やすというのでは、大学卒の資格が欲しいので大学の数を増やすのと同じ政策になってしまう。法曹の数を需要との関係で考えることが重要なのである。
 したがって、法科大学院への入学で選別し、法科大学院を卒業できれば9割くらいが司法試験に合格する制度が望ましい。

10、法曹の変質
 法曹の数が大幅に増えると法曹の質が変わる。
 ここで重要なことは以下の点である。 
@、法曹人口が増えれば法曹の質が変わるのではなく、法曹の数が需要を超えて増えるために、法曹の質が変わるのである。法曹人口の増加と需要のバランスがとれていれば、何の問題もない。したがって、法曹の増加への反対ではなく、バランスが崩れることに反対するのである。
A、裁判官や大規模法律事務所、有名な法律事務所は法曹の変化の影響を受けない。検察官も今後は買い手市場になるので、検察官機構は従来と変わらない。日本裁判官の官僚機構は安泰である。最近は、若手裁判官の従順すぎる傾向が裁判所内部でも指摘されているが、これは、法曹の大幅増加とは関係がなく、日本の教育や社会の問題である。他方で、弁護士の質は確実に変わる。
B、多くの弁護士は収入を得るための競争に追われるが、それ自体はそれほど問題ではない。かつても弁護士は実力と競争の世界であり、かつての弁護士には難しい司法試験を勝ち抜く精神的な強さがあった。有能な弁護士は弁護士の数が増えても競争に勝てるが、問題は競争は必ず敗者を生むという点である。また、そこで試される「弁護士の有能さ」は、競争に勝てる有能さであって、「社会的な観点から見た有能さ」ではないという点である。競争に勝てる弁護士が社会に跋扈することが、社会に利益をもたらすとは限らない点が問題なのである。例えば、企業に多大の不正な利益をもたらしてくれる弁護士は、その企業にとってありがたい存在かもしれないが、社会的に見れば害悪以外のないものではない。しかし、そのような弁護士は競争社会では発覚するまで駆逐されることはなく、むしろ、多くの富と社会的地位、名誉を手に入れる。
 厳しい競争社会のもとで、常に競争というストレスにさらされていると、ともすれば、人々は競争に負けた者に対する満足感や蔑視の気持を持ちやすい。従来の弁護士に対する羨望と嫉妬の気持は、その反面、競争に負けた弁護士に対し「ざまを見ろ」といった侮蔑感をもたらしやすい。しかし、弁護士間の競争は前述のような弊害を生み、その弊害を受けるのは庶民である。倒産しかかった理髪店がなりふりかまわず、「散髪のゴマカシ」をするのと、弁護士が現行の自由報酬制度のもとで「人権に関するゴマカシ」をすることや、食えない医師が自由診療で過剰診療をするのとでは、社会に与える影響の程度が異なる。
C、弁護士の人権活動、社会的活動、無償奉仕は確実に大きな困難を強いられる。弁護士会の活動は低下する。人権活動は、弁護士の個人的な業務として、利益獲得の対象となる。現在でも債務整理や過払金請求事件などで、弱者につけ込んで多額の報酬をとる弁護士がいる。そのため、「過払金請求を弁護士に依頼すると、高額な報酬をとられかねないので、注意が必要です」、「過払金請求は弁護士に依頼せず自分たちでしましょう」と呼びかける市民団体がある。良心的な活動を装って高額な報酬をとる弁護士は、詐欺師よりも悪質である。弁護士が業務として行う場合には、最初から、費用や経費を説明したうえで、受任すべきであり、それと弁護士のボランティア活動は別である。アメリカでは、一攫千金の獲得をめざす弁護士が公害など社会的な事件を好んで扱い、破産か大富豪かという賭けに出る弁護士がいる。
D、弁護士が企業や経済界に従属する傾向が生まれる。人間誰しも、経済的に従属すると、思想信条も従属する傾向が生まれる。法の理念である公平や正義は、弁護士が何かに従属する状況では実現できない。
 経済界から見れば、司法も医療も利潤追求の1手段でしかない。つまり、司法は企業取引の安定性の担保であり、医療は企業で働く労働者の安定性のために必要である。弁護士が大量に溢れ、失業する弁護士もいて、企業が弁護士を「買いたたける状況」が経済界にとって理想であるが、それは、社会に失業者やフリーターが溢れ、企業が弁労働者を「買いたたける状況」が理想であるのと同じである。買いたたかれた弁護士は、企業のために忠誠心をもって、弁護士としての正義感を離れてどんな業務でも引き受けるようになる。アメリカの軍隊がアメリカの格差社会の底辺の市民からの志願兵で成り立っているように、弁護士間の格差が大きくなければこのような状況は生まれない。この点は、日本にフリーターや失業者がいることが、正規社員の賃金を押し下げる機能を果たすことと同じである。
 企業は、多額の経済的利益が関係する重要な案件はベテランの顧問弁護士に依頼するが、たとえば、消費者との間の些細なトラブルなどは、若手弁護士に安い費用で依頼し、欠陥商品の隠蔽のための示談交渉などを行わせる。もし、その弁護士が企業の欠陥商品の隠蔽に反対意見を述べようものなら、「君程度の弁護士は、日本にいくらでもいる」といつでも首を切ることができる。このような弁護士は、あたかも派遣労働者のような不安定な地位に立たされ、企業の言うとおりに動くロボットと化す。
 本来、弁護士は、企業の利益だけではなく、正義や公平という法の理念の担い手でもあり、問題のある企業に対しては、法的見地から意見を述べるのでなければならない。そのためには、弁護士がある程度企業から独立した地位に立つことが必要であり、弁護士にそれなりの経済的な基盤がなければ、そのような地位に立てない。
 企業が弁護士を「買いたたける状況」になれば、正義、公平などの法の理念を実現することが、現在よりもいっそう困難になってしまう。弁護士は依頼を受けた企業の利益を守るが、企業に従属してはならないのである。
E、司法試験合格者数が増えれば、下位の合格者の学力、能力のレベルは当然落ちる。しかし、それが直ちに法曹の適格を満たしていないとは言えない。一般に、「行政書士」や「司法書士」も外国の分類では「法曹」であるが、司法試験に合格しているわけではない。「法曹」の質をどのレベルで考えるかは社会的に定まる。
 かつて、昭和50年代(司法試験がもっとも難しかった時期)に法務省が司法試験不合格者の成績を公表していた時期があり、それから判断すれば、司法試験の成績の500〜1000番のレベルはそれほど高い学力レベルではない(私自身は、500番というレベルはそんなに高いハードルだとは思わなかったが、不勉強のために1000番以内でかつての司法試験に何年も落ち続けたのだった)。「合格レベルの受験生が不合格にならなないために、合格者数を増やすべきだ」という意見があるが、合格レベルを下げれば、法科大学院卒業生はすべて簡単に「合格レベル」に達することができる。
 法曹は法学部卒業レベルでよいとする社会意識があれば、そのような制度もありうる。大学の法学部を卒業すればすべて弁護士の資格を与えれば、弁護士の資格は教員免許や自動車の運転免許のような低いレベルになるだろう。かつて、戦前にそのような時代があったが、当時は弁護士の仕事はなく、弁護士はまともな職業として考えられていなかった。現在のように、弁護士が脚光を浴びる職業となり、他方で、医療のように誰もが気軽に司法を利用できない制度のもとで法曹資格者が増えれば、あたかも、大学生の数が増えて新卒者を企業が採用する場面と同じような状況が生まれる。すなわち、就職を希望する者の間で競争が生じ、出身大学、出身法科大学院、年齢、成績、経歴による格差が生じるのである。
 ヨーロッパでは大学の数が少ないので大学や大学生のレベルが高いが、日本では大学が無数に乱立するので、平均的なレベルが低い。大学教授のになるための困難さは、大学数の少ないヨーロッパと大学が乱立する日本ではまるで違う。専門学校が、ある日突然大学に昇格しても、内容やレベルから言えば専門学校と変わらないが、日本にはそんな大学が無数にある。それは大学ではなく、ビジネススクールである。学生や大学教授のレベルは、大学の数が少ない国では高く、大学が無数にある国では低い。そして、大学が無数にある国では、大学生であることはそれほど意味を持たず、大学間の格差が生じるのである。何ごとも、容器を大きくすれば中身が薄まるのは当然である。
 従来の弁護士の資格はかなり難しいところに設定されていたが、それを緩和しようというのが現在の動きである。しかし、それは弁護士間に、出身法科大学院、年齢、司法試験と研修所での成績などによる選別と格差を生む。司法修習生の数が増えれば、研修所の成績を公開すべきだという意見が大手法律事務所を中心に必ず出るはずである。なぜなら、買い手士市場となった法律事務所の立場では、無数にいる司法修習生の中から、誰を採用するかを決める場合に、出身大学、出身法科大学院、経歴、年齢、成績、人格、思想信条(これは内密にするだろうが)で判断することになるからである。これは、あたかも、大学新卒者の企業の採用風景と同じである。このような選別は以前からあり、例えば、40歳近い修習生を採用する法律事務所は以前からほとんどなかった。
 司法試験合格者数は、「法曹の質」という曖昧な基準によって決まるのではなく、法曹の需要によって決まるのであり、それを考えるのが「政策」である。何も考えずに単に「法科大学院を作ったから」という理由で司法試験合格者数を考えることは、単なる「無策」である。あるいは、弁護士の数を増やしてから、「それから弁護士の使い道を考える」というのでは、あまりもいい加減である。

11、従来の日本の弁護士のスタイルの否定
 一般の市民に関する限り、標準的な報酬額で多くの事件を処理するスタイルのヨーロッパ型の司法をめざすべきであり、これは従来の日本の弁護士のスタイルの否定を意味する。すなわち、従来の日本の弁護士の多くは、市民の中から弁護士費用を払える顧客を選別し、そのような顧客を確保することに努力してきた。格差社会では誰でも弁護士費用を払えるわけでないないので、これは競争の当然の帰結である。これは、かつての中国で5人の裕福な患者の主治医になれば医者は繁盛し、数百人の貧乏人を相手にする医者はつぶれた(「ワイルド・スワン」)のと、同じ現象である。医療保険のない国では、このような状況が生まれるが、日本の司法はそれに似ている。その結果、弁護士の業界全体に法律扶助事件に対する消極的な姿勢が蔓延している。
 しかし、今後は、法律扶助制度の拡充により、すべての市民が弁護士費用の負担が可能となり、すべての市民が安心して弁護士に依頼できる制度が必要となる。誰でも、経済的に弁護士に依頼できるシステムが確立されてはじめて、法的紛争の需要に応じた弁護士の数が必要になるのである。そうでなければ、どんなに法的紛争があっても、経済的に弁護士に依頼できず、法的紛争は放置され、結果として必要とされる弁護士の数が限られる。
 法律扶助制度の拡充のためには、@扶助額が労力に比例すること。できればスウェーデンのように、弁護士の所要時間に応じて扶助額を算出することが望ましい。Aすべての弁護士が扶助事件を受任することが必要である。
 扶助額が経済的合理性の見地から労力に比例したものでなければ、まともな制度とはいえない。また、かつて、公的医療保険制度が日本に導入された時、「こんな安い費用で治療ができるか」と言って、公的医療保険制度に反対した医師が多かったが、同様の現象が弁護士の業界にもある。医師の反対を乗り越えて自由診療が駆逐されたように、弁護士の反対を乗り越えて、自由弁護料制度が駆逐されなければならない。
 弁護士の数と需要のバランスが崩れると大きな弊害を生むことに関して、「弁護士の収入の安定を問題にすることは、一般の市民の理解を得られない」という意見が日弁連執行部から出る。しかし、弁護士の数と需要のバランスの問題は、一般国民の理解の問題ではなく、司法の発展のために何が必要かという問題である。従来の弁護士は、自由弁護料制度のもとで、高額な報酬の見込める事件に群がり、弁護士とい特権的地位に安住する傾向があったので、弁護士の所得に触れることはタブーだった。今後、低所得層を含めた全市民を司法の対象にすることは、従来の弁護士のスタイルを変えることを意味する。
 どのような司法をめざすのかという司法の理念が重要であるが、現在の司法改革にはそれがない。現在の弁護士大幅増員論は、市民を蚊帳の外に置いたまま、競争原理に基づくアメリカ型の司法を実現しようとする経済界と、机上の理屈に基づいて「望ましい法曹人口」の達成を急ぐ「理想派」によって推進され、従来の業務スタイルを維持したい弁護士層が消極的に容認している。
 弁護過疎の原因は、弁護士の数ではなく、司法のシステムの欠陥にあることを明確にしなければならない。

12、弁護士の人権活動
 現在の弁護士の数の大幅な増加は、従来ボランティア的に消費者事件を扱い、人権活動などに従事してきた弁護士層に大きな打撃を与える。弁護士が事件の激しい争奪戦を強いられるようになれば、収入につながらない事件や、冤罪事件、人権活動などに取り組むことができなくなる。「経済的に余裕がなければ人権活動ができないというのはおかしい」というマスコミの意見があるが、事務員の給料や家賃を支払い、弁護士が生活できなければ、人権活動ができないのが現実である。10万円の法律扶助費で事件解決までに50時間くらいの労力を要する事件があるが、この場合事務所経費だけで25万円くらいかかるので、弁護士の収入0円、経費15万円の赤字計算になる。このような事件を受任するためには、別の事件で「稼ぐ」ことが必要になる。「稼ぐ」事件がなければ、弁護士は絶対に人権活動や優れた仕事はできない。そうではない弁護士は、弁護士を職業とする必要のない資産家だけである。
 「弁護士は資産がなければよい仕事はできない」という言葉がある。これは誤解を招きかねないのだが、その趣旨は、弁護士の経済的基盤が安定していなければ、弁護士は、社会的に困窮している人たちのために、無報酬の仕事はできないという趣旨である。慈善事業家は自分が食えない状態であれば、慈善事業はできない。サラリーマンは会社から給料がもらえなければ、会社のために努力することはできない。
 以上の点はすべての人権活動にあてはまるのであって、上記の「経済的に余裕がなければ人権活動ができないというのはおかしい」という発言をした人は、恐らく人権活動とは無縁の人なのだろう。
 弁護士の採算を無視した良心的な仕事や人権活動が現在の社会の中で果たす役割は大きいが、この点を理解している国民は必ずしも多くない。それは、弁護士のこのような活動が目に見える形で国民に利益をもたらすものではないからである。その地域に道路ができ工場が誘致されれば、地域住民はその点にすぐに気づくが、消費者保護関係法が整備され、それに多くの弁護士が貢献したことを理解する人は多くない。人権保障や社会や文化の発展は、道路や工場のように目に見えるものではなく、頭で考えなければ認識できない。
 弁護士に依頼しやすいシステムがないままに弁護士が急激に増加し、弁護士の数と需要のバランスが崩れると、弁護士の性格が変質する。弁護士は、企業や国家権力から自立した人権の担い手ではなく、経済的な利益追及をめざす一つの職業でしかないことになってしまう。アメリカでは弁護士はビジネスとしての側面が強く、弁護士会が人権活動をすることが少ない。ドイツでは社会的活動は裁判官が担っており、弁護士はビジネスに専念する傾向がある。ドイツの弁護士は少額事件を多数扱わなければ事務所を維持できず、社会的活動や人権活動を行う時間的、経済的余裕がないが、裁判官はこの点で比較的余裕があるようである。ドイツの裁判官の多くは政党に所属し、裁判官の党派性を市民に隠すのではなく、市民が裁判官の党派性を知ることができるようにし、積極的に社会と関わっている。日本でも、裁判官は、当然のことながら各人の思想、信条や党派性を持っているが、それは隠すべきものとされている。
 弁護士がビジネスに専念し、社会的活動に関わる時間的、経済的余裕がなくなることで結果的に不利益を受けるのは結果的に庶民である。

13、司法改革がめざすべき方向
 現在の弁護士増員論は、弁護士の人権活動を排除し、弁護士市場を企業や裕福な階層の買い手市場にすることをめざしている。金銭的に弁護士に依頼できない市民層にとって、弁護士の数は無縁の問題である。ほとんどの庶民は日常生活では、弁護士に相談し、依頼することがほとんどない。庶民が、借金や離婚のことで弁護士に相談したいと考えた説きに、最初に思い浮かべるのは費用の問題であって、弁護士の数にはほとんど関心がない。弁護士の増員よりも、裁判員の方が市民の関心が高いのは、裁判員の方が自分と関係のある問題だからである。弁護士の増加について、「これから弁護士に依頼しやすくなる」と考えるよりも、「これから、些細なことで裁判を起こされるようになるのではないか」という不安を抱く人の方が多いのは、そのためである。
 他方で、弁護過疎を論じる学者、財界人、マスコミ関係者はすべて都会に居住し、もともと弁護士に不自由しない人たちであり、弁護過疎の実態を知らない。弁護士大増員を主張するマスコミは、マスコミ自身が大企業であり、また、マスコミにとって大企業はスポンサーなので、基本的に大企業の声を代弁する。マスコミは、弁護士大増員が「世論」だとするが、庶民や零細企業にとっては、弁護士の数はどうでもよいのであって、それよりも家計から出ていく金の方が心配なのだ。
 中小企業については、顧問弁護士を置かない企業が多いが、それは経費的な問題からである。日弁連がしきりに、中小企業に対し顧問弁護士を置くことを勧めているが、中小企業の反応は鈍い。中小企業にとって、弁護士の数が増えることよりも、弁護士費用の額の方が大きな関心事である。弁護過疎を知っているはずの庶民は現実には弁護過疎に無関心であり、弁護過疎とは無縁な人たちが、もっぱら弁護過疎を論じるという奇妙な構図がある。
 現在の司法改革は、庶民を蚊帳の外に置いたまま、「上からの改革」として行われている。庶民の頭ごなしに、「弁護士の数が増えて、弁護士を利用しやすくなりました」、「これからはどんどん弁護士に依頼してください」と言われても、庶民は、「どうせ金を取るんでしょ」と冷ややかな目で眺めるだけである。現在の司法改革には、庶民の立場に立った目線が決定的に欠けている。今、必要なものは、「下からの言葉」である。言葉を持たない庶民が言葉を持つことを援助するのは法律家の役割であるが、法律家が言葉を上から与えるのではない。庶民自身が自分で考えて言葉を持つのでなければ、言葉は社会を変えるエネルギーを持たない。
 日本の弁護士の数が諸外国よりも少ないことは、日本の司法制度の整備がそれだけ遅れていることを示している。司法制度が整備・充実すれば、それに応じて弁護士が必要になり、弁護士の増加が必要である。しかし、一般市民が弁護士に依頼しにくい現在の制度のもとで弁護士が急増すれば、弁護士の数と需要のがバランスが崩れ、弊害が生じる。
 冒頭に述べたように、現在生じている司法試験合格者の就職難は、今後の司法の混乱のほんの序の口である。そして、その後に訪れる「食えない弁護士」の出現によって、法律扶助の拡充や国選費用の増加などを求めて、弁護士がデモ行進や国選事件の拒否というサボタージュを行うようになるかもしれない。あるいは、弁護士による利益獲得行為が際限なく押し進められるようになり、庶民が司法の食い物にされ、多くの犠牲者が出るかもしれない。日本の司法改革は、このような司法の混乱の生贄と犠牲のうえに、変革の方向が見えてくることだろう。その意味で、弁護士の大幅増加は反面教師としての意味がないわけではない。失業者やフリーターなどの不安定雇用者の増大が、日本の社会を根底から揺るがし、社会変革の原動力になるように、「食えない弁護士」の増大が司法改革の大きな原動力になる可能性がある。
 @法律扶助事件の単価、国選弁護事件の単価を弁護士の労力に見合ったものにすること、A法律扶助事件の対象事件の拡大、B弁護士の雇用拡大(企業や国、自治体での雇用拡大など)が不可欠である。そのために、これらを受任する弁護士が連携する組織を作り、場合により、デモ行進、、ストライキ(一定期間、法律扶助事件と国選弁護事件の受任を拒否すること)により、国に圧力をかけることが必要である。このような運動を通じて弁護士に対する需要が拡大し、弁護士の増加が必要になる。
 問題は弁護士の増加が必要かどうかではなく、どのようなペースで弁護士が増加すべきかという点である。現在、弁護士の増加に反対する意見はほとんどないのであって、どのようなペースで弁護士が増加すべきかをめぐって議論されているのである。
 過疎地の弁護士や公設事務所の弁護士が増えたのは弁護士増員が背景にあり、弁護士の大幅な増加は必要である。司法試験の合格者数1500人でも弁護士は大幅に増えるのであり、合格者数が500人から2000人に増える10年くらいの間に、過疎地に多くの弁護士が赴任した。毎年1500人の司法試験合格者数でも、10年間で1万5000人になり、弁護士は大幅に増加する。他方で、合格者数が2000人を超えた現在、弁護士の就職難が既に生じており、このままでは就職難が年々深刻さを増す。このような状況がもたらす弊害は大きい。
 司法試験合格者数3000人という数字は、司法制度改革審議会のメンバーだった元日弁連会長の中坊公平が主張したことだとか、日弁連も同意したことなどは、すでに過去のことである。中坊公平はその後失脚し、時代とともに日弁連も変わっていく。現在の状況及び将来の司法を見据えて、どのような政策が必要かを、今、検討しなければならない。
 最近、地方や過疎地の弁護士が増えたが、司法試験の合格者数は1500人でも、制度如何で過疎地の弁護士が増えることが可能である。そして、弁護士過疎地の解消と、都会と過疎地の弁護過疎の解消は同じ問題である。私が11年前に自分が過疎地で開業した時、当時の司法試験合格者数は1000人くらいだった。その後、過疎地の弁護士が増えたのは、弁護士会が公設事務所を設置したからであって、司法試験の合格者数が増えたからではない。司法試験の合格者数が増えても、そのほとんどが大都市で開業するのであって、それは医師の場合と同じである。
 弁護過疎は、合格者数3000人でなければ解決できない問題ではなく、逆に、合格者数3000人でも、アメリカと同じく弁護過疎は解消できない。弁護過疎の解消のためにはそのようなシステムが必要である。弁護士の総数を問題とすることによって、弁護過疎の本質が隠蔽されることが問題である。
 他方で、法律扶助制度の拡充、企業や役所での弁護士の雇用などが拡大されれば、それに伴って、当然、弁護士の増加が必要になる。したがって、法曹人口増加の前提となる制度の確立や弁護士の需要を検証しながら弁護士の増加を図る必要がある。一般に、医師、看護士、病院、大学、小中高、公務員、教師、建築士、タクシーの数などを急激に増減少させることは、社会的混乱を招きやすい。これらは、社会の変化に応じて、当然に、増減少すべきものであるが、常に社会的に検証をしながら合理的な数を考えなければならない。弁護士を利用しやすいシステムを構築することなく、また、弁護士の需要を検証することなく、一気に弁護士を増加させることは弊害が大きい(2008年)。



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