弁護士の増加と利用しやすい司法
 
                                      弁護士 溝手康史

1、はじめに
 最近の司法改革の結果、弁護士の数が大幅に増加しつつあるが、裁判所の民事事件数は平成15年以降減少しており(注1)、市民や企業の弁護士に対する需要はそれほど増えていない。大都市では、早くも弁護士の過剰が大きな問題になっている。弁護士過疎地は存在するが、もともと人口が少ない地域なので、そこで必要とされる弁護士の数は知れている。弁護士の数が増えても、それだけで弁護士に相談や依頼がなされるものではなく、市民や企業が弁護士を利用するためには、「それができるようなシステム」が必要である。 以下に、弁護士の数が増加しつつある状況のもとで、市民が利用しやすい司法とは何かについて考えてみたい。

2、弁護士の需要とは何か
(1)弁護士に対する需要は、その社会に存在する法的紛争の量と、それらのうちどれだけ弁護士に依頼されるかによって規定される。
 法的紛争の量は、@人口、A経済的活動、B社会的制度、C企業や市民の意識などに左右される。
 家事紛争や人間関係に由来する法的紛争の数は人口に比例する面があり、経済的な紛争は経済活動の量に左右される。日本やアメリカ合衆国で破産事件が多いのは、Bの社会的な制度の結果である。かつての日本で交通事故訴訟が多かったが、それが大幅に減少したのは、交通事故の数や紛争の数が減ったからではなく、裁判所を中心とした損害賠償額の標準化や保険制度によって訴訟によらずに紛争が解決されるようになったためだと考えられる(注2)
 Cについては、法的紛争を当事者が法的紛争として認識しない場合もあれば、法的紛争ではなく、本来、感情的対立にすぎないことが慰藉料請求のような法的紛争の形をとることがあるが、法に対する意識は社会、文化、制度、経済力等の影響を受ける。一般に、経済力の低い階層ほど法的紛争を法的紛争として認識しにくくなる傾向がある(その要因としては、知識、教育、生活環境等の影響が考えられる)。
(2)日本にどの程度の法的紛争が存在し、そのうち紛争の解決に弁護士が関与するのはどの程度かという点を数字で表すことは不可能である。しかし、私の経験では、日本では企業でも個人でも、法的紛争が法的ルールに基づいて解決される割合や紛争の解決に弁護士が関与する割合は極めて低いと感じている。
 例えば、行政との間の紛争に関する相談は少なくないが、弁護士に依頼がなされることは稀である。近隣との境界、通行権、ゴミ、汚水、騒音、日照などに関する紛争は多いが、弁護士への依頼は少ない。公図や登記簿の地番と現況が違っている地域や境界が不明になっている土地は無数にあるが、弁護士に相談がなされることは少ない。地方では遺産分割が未了の山林や田畑などが多いが、遺産分割未了のまま放置されているケースは多い。消費者関係の紛争では、破産と過払金請求を除き、弁護士費用や裁判費用がネックになって裁判を断念する人は多い。医療ミスや国賠紛争、過労死などについては、相談だけで終わることが多い。弁護士費用を用意できない多重債務者は、弁護士に依頼せず自分で特定調停の申立や破産申立をする傾向がある。残業代の未払いや有給休暇を取得できないこと、経営者の気分に基づく一方的な降格処分、配転、解雇などは多いが、これらが法的紛争として解決が図られることはほとんどない。最近は会社内での陰湿ないじめが多いが、たいてい相談だけで終わる。規模の小さな会社では、法律のルールに従って問題を処理しようという意識に乏しく、紛争解決のために弁護士に相談や依頼がなされることは少ない。自治体が受理する公害相談は年間10万件以上(平成15年)あるが(注3)、それらの解決に弁護士が関与することは稀である。些細なDV事件は法的紛争として意識されないことが多く、深刻なDV事件に至って始めて弁護士ではなく警察に相談がなされることが多い。家庭の中で陰湿な暴力や虐待などが日常的に行われていても、弁護士に相談がなされることは少ない。
 企業や資産家でない限り、一般市民が抱える法的紛争は、割合で言えば訴額が小さく些細な紛争が圧倒的に多い。しかし、従来、弁護士は、一定額以上の訴額の民事訴訟が業務の中心であり、一般市民が抱える訴額が小さく些細な法的紛争は弁護士の業務の対象とされないことが多かった。訴額の小さい事件にはその解決に多大な労力と費用をかけたのでは経済的メリットがなくなるという性質があり、弁護士が手間暇をかけて勝訴に導くという、伝統的な職人的手法になじみにくい。その結果、市民と弁護士のいずれも無意識のうちに、法的紛争を、弁護士が関与する紛争と弁護士が関与しない些細な紛争に分けて考えるようになった。
 司法統計(平成18年)によれば、簡易裁判所の第一審通常訴訟既済事件において、当事者の双方に弁護士がついた事件の割合は全事件の1.9パーセントであり、少額訴訟で当事者の双方に弁護士がついた事件の割合は0.29パーセントである(司法書士が代理人になる割合はさらに低い)。
 また、企業は法的紛争を法律に基づいて解決するという意識に乏しく、法的紛争は企業の自己中心的な論理に基づいて解決されることが多かったので、企業の弁護士に対する需要は低かった。
このように、日本では法的紛争が訴訟になることが少ないうえに、訴額の小さい事件を弁護士が受任する割合も低く、弁護士の数が増えてもこの点に変化は見られない。

3、日本で民事訴訟の数が少ない理由
(1)従来、弁護士の業務の中心は民事訴訟とされていたが、日本では訴訟によって紛争を解決することを嫌う傾向があるとされてきた(注4)。これを訴訟率という概念で表現し、最近は日本の訴訟率は3.5倍に増えたが、それでも他の諸国よりもかなり低いとの指摘がある(注5)
 その理由として、日本では「権利、義務はあるような、ないものとして意識されており、それが明確化され確定的なものとされることは好まれない」とされ(注6)、あるいは、欧米には権利中心の法文化があり、日本を始めとする東洋には義務中心の法文化があるとか、日本では権利の主張ではなく、互譲と和解の精神が尊ばれてきたというのが、比較法学的な通説だった(注7)
 その結果、権利義務を明確化する訴訟よりも、互譲と和解の精神に基づく調停の方が日本人に合っているとされ、その点が、訴訟を中心に弁護士の業務を考える傾向と相まって、日本の弁護士の数が少ない原因の1つだとされてきた。
 しかし、その後、日本人は訴訟を起こすことを必ずしも嫌っているわけではないというアンケート調査の結果が指摘され(注8)、法制度によって訴訟件数が規定され、あるいは、法制度のあり方が法意識に反映するとの指摘がなされている(注9)
(2)「互譲と和解の精神を尊ぶ日本人=訴訟の少なさ」という図式には、従来の「小さな 司法」を正当化する論理がある。
 私は、民事・家事調停委員を10年以上務めているが、民事調停や金銭を請求する家事調停の当事者が調停で求めているものは、あくまで法律に基づいた解決であって、これらの調停に関する限り、訴訟の代替的手続として利用する人が多いと感じている。また、家事調停の件数が多いのは、調停前置主義の結果であって、当事者が互譲と和解を好むからではない。親権者の指定、子供の面接交渉などの家事調停は、訴訟の代替的要素はなく、子供への配慮の見地から親の互譲と和解の精神が要請されるが、それを受け入れようとしない当事者が多い。
 また、互譲や和解は当事者の主体的な判断が前提となるが、調停の当事者の中には、主体的に考えることができず、他人への依存心の強い人が少なくない。権利意識のあることと主体性の欠如は矛盾しないのである(注10)。弁護士が代理人についていない調停では、当事者の主体性の欠如は、当事者が本当は納得していない場合でも調停条項に同意してしまう危険をもたらす。主体的な判断ができない者に対し、互譲や和解の精神を押しつけるならば、結果的に力の強い者が勝つという結果を招く恐れがある。
 調停委員の中には、法律の規定に関係なく、「調停なのだから、とにかく譲歩してもらわなければ困る」の一点張りの人がいるが、本来請求できるはずの権利が調停で当然に削られるとすれば、ほとんどの当事者は納得しない。調停の申立をする人のほとんどが自分の権利を実現するために申立をしているのであって、申立人の意識に関して訴訟との違いはそれほど見られない。
 調停の当事者が譲歩するのは、例えば、訴訟をしても勝てるかどうかわからないとか、判決を得て強制執行をしても金銭の回収が困難だとか、訴訟をするには弁護士費用や時間がかかるなどの、それなりの「法律上の障害」があるからである。かつて考えられたように、調停による解決によってその後の相手方との円満な関係を維持しようとする「牧歌的な状況」は、現在では望めないことが多い。訴訟をした場合の見通しを踏まえた調停案であれば、合意するという当事者が多く(注11)、民事調停や金銭を請求する家事調停は、費用と時間をかけずに権利を実現する訴訟の代替的手続として利用される傾向がある。
 したがって、これらの調停で紛争を解決するためには、調停委員の法的知識と社会経験に基づいた話し合いの進行が必要となるが、ほとんどの調停で、法律関係者が調停の「話し合いの場」に立ち会っていないという問題がある(注12)。最近、アメリカでは裁判外紛争解決手続(ADR)が活用されているが(注13)、そこでは法律家などが関与し、法律に基づいた解決を話し合いによって実現することが想定されている。この点で、法律関係者が調停の現場に同席しない日本の調停は、ADRの基本的前提を欠いている(注14)
(3)さらに、以下の歴史的事実に照らせば、訴訟や調停の数は社会的な制度の結果であることがわかる。
@鎌倉時代には領地をめぐる訴訟がかなりあり、司法制度が整えられていたが、鎌倉幕府は和解を推奨し、訴訟の約半分が和解で終わっていたとされる。
 鎌倉幕府が和解を推奨したのは、支配という観点からの高度な政治的判断に基づくが、訴訟当事者が和解に応じたのは、当時の訴訟費用が巨額だったからだと言われている。例えば、当時のある訴訟では、5人家族の10数年分の米代相当の旅費や滞在費、運動費、機密費などがかかったそうである。また、鎌倉時代の御成敗式目は理非を糾明しない処分を禁止していた(注15)
 しかし、その後、鎌倉幕府は機械的な損益折半主義を浸透させ、戦国時代には喧嘩両成敗が確立されたが(注16)、それは当時の政治的な配慮からだった。
A江戸時代には裁判件数がそれまでの10倍に増えて年間約7万件に達し、幕府は、多すぎる訴訟に耐えかねて、訴訟借金銀相対済令を頻繁に出した。相対済令は、特定時期以前または以後の金銭に関する訴訟(金公事)を受理しないというもので、債務者である武士の救済を図るという目的と、紛争に対し誠意のある「和談」を奨励するという意図があった。また、当時、訴訟をするためには莫大な費用がかかったとされる(注17)
 その結果、紛争の当事者同士が裁判外で話し合いをし、話し合いの結果(内済)を役所に提出して役所の承認(裁許)を得るということが広く行われた(注18)。当時の内済制度は訴訟に代わる制度として考えられており、これが明治以降の調停制度につながる。
B明治維新後、明治8年(1875年)に調停(勧解)制度ができたが、調停事件数が年間100万件を超える年もあり(1883年の勧解の新訴件数は、1,090,712件)、調停事件数は現在よりも多かった(ちなみに、平成10年の全国の裁判所の特定調停を含む民事調停の新受件数は248,833件、家事調停の新受件数は107,559件である)。その後、明治23年(1890年)に民事訴訟法が制定されて調停制度が廃止された。
 民事訴訟法の制定と同時に調停制度が廃止されたので、民事訴訟がそれまでの調停に代わる役割を果たすことになったが、当初の民事訴訟法には貼用印紙の制度や上告制限がなかったので、民事訴訟の数が増え続け、訴訟遅延という問題が生じた。そこで、大正15年(1926年)に民事訴訟法が改正されて訴訟提起や上告申立が制限された結果、民事訴訟件数は大幅に減少した。
 他方で、大正11年から昭和14年にかけて調停制度が復活したが、その背景には、小作紛争、借地借家紛争、労使紛争の増加という当時の社会的状況への対処と、訴訟の代わりに話し合いによる紛争の解決を奨励するという政治的配慮があった(注19)
 以上のような歴史的な事実を見れば、そこには争いごとを嫌う日本人の姿はなく、むしろ、為政者にとってその方が都合がよかったに過ぎない(注20)。日本の司法政策は、常に、庶民に「互譲と和解の精神」を求め、訴訟の数を一定の水準に抑えることに苦心してきたのである。
(4)日本で訴訟の数が少ないのは、日本の司法制度が「そのような制度だから」であり、訴訟ではなく調停が選択されるのは、調停前置主義や制度的に「弁護士に依頼しにくい」ことや「訴訟を起こしにくい」ことの結果に過ぎない。ドイツで裁判所の事件数が多いのは、制度的に弁護士に依頼しやすく、市民が裁判所を利用しやすいからである。
 法律に基づく交渉やADRが成り立つのは、背後に司法の強制力があるからであり、訴訟を起こしにくい日本の状況は、法を無視した者が得をするという意識を生みやすい。あるいは、このような状態が長年続けば、「訴訟で黒白をはっきりさせるよりも、話し合いで解決した方がよい」という意識をもたらし、「互譲と和解の精神」が幅を利かせることになる。
 一般に、支払督促などを除いて弁護士に委任しなければ訴訟を起こすことは困難なので、訴訟件数と弁護士費用の問題は密接な関係がある(注21)。そして、法律扶助制度が不十分な日本では、弁護士費用を用意できない場合には、自分で調停の申立をするか、司法外で紛争を解決することになる。かくして、民事調停や金銭を請求する家事調停は、弁護士に依頼しなくても可能な、訴訟の代替的手続としての性格を持つことになる(注22)
 調停のあり方について弁護士も裁判官もそれほど強い問題意識を持たない傾向があるが、日本の調停には、いろんな意味で、日本の司法の問題が凝縮されている。

4、利用しやすい司法と司法の規模
(1)そもそも日本では、調停事件を含めたとしても、諸外国よりも民事事件数がかなり少なく、裁判所に持ち込まれる紛争の数そのものが少ない。つまり、諸外国に較べれば、日本では紛争解決のうえで裁判所が果たす役割がかなり低い。司法統計によれば、1979年の日本の第1審受理民事事件数は662,202件であり(家事調停、民事調停、督促事件、行政事件を含む。ただし、破産事件は含まない)、1974年の西ドイツではそれに相当する事件数は7.719,761件だった(注23)
 日本は同一人口当たりの行政訴訟の件数がドイツの700分の1だとの指摘があるが(注24)、産業が発達し、行政が市民の生活のすみずみまで関係していれば、行政上の紛争があるのが当然であって、年間1,795件(平成11年)という極めて少ない日本の行政訴訟件数は、日本の行政訴訟が紛争解決のための制度として機能していないことを意味する(注25)
 日本では、法的紛争の数が少ないのではなく、弁護士や裁判所が法的紛争全体のほんの一部しか扱っていないだけのことである。司法が対象としない法的紛争は、司法の外で法的ルールに基づいて解決されているわけではなく、前記のように、私の経験からすれば、放置されるか、非法律的な処理がなされることが多い。
(2)法的紛争を法のルールに従って解決するためには、法的紛争の量に見合った司法の規模が必要である。
 従来の日本では、もともと司法の規模を小さいものとして想定し、それに見合っただけの紛争を裁判所で解決するシステムになっていた。したがって、裁判所に持ち込まれる事件の数が増えれば裁判所の処理能力を超えることになり、訴訟件数が裁判所の処理能力の範囲内に止まるように手続の工夫がなされてきた。裁判所の人的・物的体制を充実させるのではなく、もっぱら技術的な手法で紛争の増大に対応しようとするのが日本の司法の基本的な姿勢だった。
一般に、裁判所は裁判所に持ち込まれる事件数が増えることを歓迎しないが、それは裁判所の人的・物的能力に余裕がないからである。日本人に限らずアメリカ人も訴訟を好まないとされるが(注26)、それでも結果的に、アメリカでは年間1500万件以上の訴訟がある。洋の東西を問わず、法的紛争を好む者はあまりいないが、人間が紛争を起こすことは欲望という人間の本能に由来し、避けることができない。同時に、近代市民社会は自立した個人の集団であり、自己主張をする個人と個人の対立という緊張関係が民主制や権力分立の基礎にあり、多くの法的紛争が生じることを想定していると言える。
 あらかじめ司法の規模を小さいものとして想定し、限られた数の裁判官と施設で紛争を解決するために、手続の効率性の工夫と裁判官の個人的努力によって事件の増大に対処しようとする日本的な手法には、本質的な限界と司法の軽視がある。日本的な手法の特徴は、制度の理念のような「彼岸性」にそれほど関心を持たず、費用をかけずに技術的な改良によって効率を上げようとする点や、人間を管理することによって個人の努力と能力の問題に課題を解消させてしまう点などにある。一般に、効率を上げるために管理するのであるが、管理は画一性と結びつき、多様性を排斥する傾向がある。文化や学問は多様性を尊重する中で発展するものであり、民主主義も多様性を前提としている。日本の自己決定の欠如や多様性を認めない「横並び意識」は管理と親和性があり、現在、日本のいたるところに管理という名の魔物が徘徊している。
 市民が利用しやすい司法を実現するためには、法的紛争の需要に応えられるよう裁判官の数や施設などを充実させることが必要である。
(3)従来の弁護士の業務の中心は訴訟であり、弁護士の数は訴額が一定額以上の訴訟の数に応じたものにとどまっていた。かつては、弁護士に依頼できるのは弁護士費用を用意できる市民に限られており、「弁護士に依頼して訴訟を起こせる人」がある種のステイタスシンボルのような意味を持っていた。そして、弁護士費用を用意できない市民が裁判所を利用しようとすれば、弁護士費用をかけなくても可能な調停か本人申立の訴訟という形をとることが多かった。
 法的紛争は裁判所の外で解決されることも多いが、弁護士費用を用意できない市民は弁護士に依頼することなく解決することになり、それはほとんどの場合に法的ルールに基づかない解決を意味した。
 法的紛争の量に見合った司法の規模が必要であり、司法の規模に見合っただけの弁護士の数が必要であるが、弁護士に依頼しやすいシステムがなければ、弁護士が増加しても一般の庶民は相変わらず司法の「蚊帳の外」である。
(3)市民の弁護士への相談や依頼を容易にする制度の1つに司法支援制度がある。
 司法支援制度が法律相談を法律扶助の対象にしたことにより、弁護士に相談できる市民の範囲が大幅に拡大した。ただし、現在、法律扶助事件の多くが破産事件であり、それは、一般的な市民的事件は扶助基準を超える階層の市民層が中心であり、その階層の市民は現在の扶助基準ではカバーされていないからである。
前記のように、弁護士が代理人になっていない調停事件には大きな問題があるので、すべての調停事件に弁護士が代理人につくことが必要であるが、弁護士費用の問題が大きな障害となる。その解決のためには、扶助費の償還義務の免除や扶助基準の引き上げが必要である(注27)
 スウェーデンでは国民の80パーセントが法律扶助の対象とされ、フィンランドでは国民の75パーセントが法律扶助の対象とされている(注28)。これらの国の国民と司法関係者は、弁護士に依頼する費用の問題を解決しなければ、国民が司法を利用することが事実上困難であるという点を真剣に考えたのである。
 市民が弁護士を利用しやすいシステムは、市民に可能な経済的負担で弁護士に依頼できるものでなければならず、同時に、弁護士が大量の法律扶助事件を受け入れることが前提となる。ここで重要なことは、法律扶助の額は紛争解決のために要する弁護士の労力に比例した金額でなければならないという点である。弁護士の数がどんなに増えても、事件解決に要する労力以下の単価で弁護士が事件を受任することは困難である。
 法律扶助制度を拡充することに対し、ある大学の法学部の有名な先生が「なぜ、国が弁護士の収入の心配までしなければならないのか」と述べたが、これは、国が公的な医療保険を運営することについて、「なぜ、国が医者の収入の心配までしなければならないのか」という類の次元の低い議論である。
 法律扶助の運用方法として、スタッフ制とジュディケア制があるが(注29)、アメリカでは法律扶助予算を低く抑えるために法律扶助に関してスタッフ制がとられ、日本でも法テラスの公設事務所はスタッフ制に基づく制度である。しかし、法律扶助は市民が司法を利用しやすくするための制度であり、そうであれば当然にジュディケア制が中心になる(アメリカ以外の国ではジュディケア制または両者の混合型を採用している)。(広島弁護士会会報84号、2008年に掲載)


注1 司法統計によれば、全裁判所が扱う民事・行政事件の新受件数は、平成15年が  3,520,500 件であり、平成18年が2,621,139件となっている。地裁の民事事件数も平成15年以降減少している。
注2 「裁判と社会」ダニエル・H・フット、NTT出版、254頁
注3  同、78頁
注4 「日本人の法意識」川島武宜、岩波書店、127頁
注5 「裁判と社会」ダニエル・H・フット、NTT出版、31頁
注6 「日本人の法意識」川島武則、岩波書店、139頁
注7 「日本人の法観念」大木雅夫、東京大学出版会、15、234頁。既に聖書の中に契約の観念があること、古代ギリシャの時代から「法」や「正義」に対する関心が高かった こと(プラトン「国家」、「法律」、アリストテレス「政治学」、「ニコマコス倫理学」 など)、文学でもしばしば司法が重要なテーマとして扱われていること(ドストエフ スキー「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」、トルストイ「復活」など)、これに対し、日本の「十七条憲法」は当時の役人の服務心得であって憲法の名に値しないこと、明 治になるまで日本には「権利」という言葉が存在しなかったこと、日本の文化の特徴 は日常性・此岸性にあり(「日本文学史序説」加藤周一)、「法」や「正義」などの抽象的な理念に対する関心が乏しかったことなど、欧米と日本で法文化の歴史に違いがある。ただし、明治以降、欧米の法制度を取り入れた結果、現在では欧米との違いは 縮まっている。
注8 「人間の心と法」加藤雅信外編、有斐閣、「日本人の契約観」加藤雅信外編、三省堂
注9 「法社会学」六本佳平、有斐閣、218頁、「日本人の法観念」大木雅夫、東京大学出版会、220頁、「裁判と社会」ダニエル・H・フット、NTT出版、45頁
注10 権利意識は自分の感情や利益を法的形式に置き換えるだけで生じるが、主体性には 自己責任に基づく自己決定が必要である。現在、日本と欧米の法文化に違いがあるとすれば、権利意識の点ではなく自己決定の点である。日本では個人の自己決定が重視 されないので、「自己」が稀薄になる傾向があり、「横並び意識」が権利意識と結びつきやすい。日本の法文化の依存性や幼児性という特徴を「甘え」(「甘えの構造」土居健郎)と呼ぶこともできるが、これは、長年の教育や文化、社会的な制度によって形成されたものである。他方で、ドイツの高速道路には制限速度がないとか、フランスでは交差点の信号が赤でも車の進行が禁止されない点(信号が青の方向の車が優先する)などは、自己責任に基づく自己決定の可能な法文化があることによる。
注11 「互譲の衰退」鈴木康久、調停時報163号、80頁も同趣旨のことを述べている。調停委員に対し、「法律的な判断」を期待する調停の当事者は多い。
注12 「民事調停・和解の研究」小山昇、信山社、56頁は、調停委員に基本的な法感覚は必要だが、実定法の知識は不要だとする。このような考え方はかつては裁判所に根強かったようである。「日本人の法意識」川島武則、岩波書店、175頁。調停委員には、 法律の専門知識や社会経験、人間の心理を把握し説得する能力が要求され、かつて考えられたような、「法律に基づかず、素人の常識に基づいて」調停を行うという考え 方には明らかに調停の軽視がある。
注13 「裁判と社会」ダニエル・H・フット、N TT出版、32頁
注14 「民事調停制度改革論」廣田尚久、信山社、115頁、「人事訴訟、家事調停事件にお ける弁護士の役割」内田信也、日弁連編「現代法律実務の諸問題」(平成18年度)所収、361頁。現在の裁判官数では裁判官が常時、調停に同席することは無理であるが、 調停委員に法律の専門知識があれば、裁判官の同席は必要ではない。むしろ、調停には、法律の知識以外に社会経験や人間の心理を把握し説得する能力が要求されること から、家裁の調査官などと同様に調停委員は専門的に養成される必要がある。他方で、 当事者の権利保護のために、弁護士が調停当事者の代理人につく必要がある。
注15 「日本人の法観念」大木雅夫、東京大学出版会、163頁以下
注16  同、182頁
注17 「紛争と訴訟の文化史」歴史学研究会編、青木書店、188頁
注18 「日本人の法観念」大木雅夫、東京大学出版会、202頁
注19 「民事調停制度改革論」廣田尚久、信山社、108頁
注20 戦時中、軍部から裁判所に対し、訴訟を禁止しろという圧力があったとされる。「日本人の法意識」川島武則、岩波書店、174頁。為政者が「互譲と和解の精神」を強 調することは、市民社会における個人の主体性を抑圧する意味も含まれていた。
注21  司法に限ったことではないが、人間の行動には経済的要因が大きく影響する。この 点を理解していないと、「弁護士が増えれば、弁護士に依頼しやすくなり、訴訟が増 える」などの的はずれの見解が出てくる。前記のとおり、最近、弁護士の数が増えて も裁判所の民事事件数は減少している。最近のドイツでも弁護士の数が増えても訴訟 件数は増えていない(「ドイツにおける弁護士の状況」ペーター・ゴットヴァルト、 立命館法学308号、162 頁)。また、弁護士の数が増えても、弁護士費用の額は、事件解決に要する労力に基づいて経済的に定まる単価以下に下落することはない。
注22  むしろ、多くの弁護士が、調停などのADRの利用が増えると訴訟の数が減り、弁護士の仕事が減ると考える点が指摘されている。「民事調停制度改革論」廣田尚久、 信山社、75頁。「裁判外紛争解決手続(ADR)制度」落美都里、国立国会図書館、調 査と情報493号、3頁。そのように考える背景には、ADR利用者の多くが弁護士費用 を用意できないので、弁護士はADRに関与しないことが想定されている。既に昭和9年に、訴訟制度に欠陥があるために調停が活用されているこ点、弁護士が調停法に反対している点が指摘されている(「嘘の効用」下巻、末弘厳太郎、冨山房、329頁)。法律扶助 を利用すれば弁護士費用の分割払いが可能になるが、特定調停などでは、扶助費の償 還義務がある限り法律扶助の利用を期待できない。なお、ADR法(平成19 年4月1 日施行)に基づくADRについては法律扶助の適用がない。
注23 「法社会学」六本佳平、有斐閣、259頁
注24 「人間の尊厳と司法権」木佐茂男、日本評論社、316頁
注25  ドイツの1997年の行政訴訟の件数は201,543件、フランスの1996年の行政訴訟の 件数は106,985件である。1996年の訴訟件数は、日本が422,708件(地裁、簡裁の通 常第1審訴訟新受件数)、アメリカが15,670,573件、ドイツが2,109,251 件(地裁、区 裁の訴訟の新受件数。行政、労働、財政、社会の各裁判所の件数を含まない)である。
注26 「裁判と社会」ダニエル・H・フット、NTT出版、45頁
注27 かつての日弁連は法律扶助の拡充に必ずしも熱心でなく、法律扶助について、「傍観者としての日弁連」と呼ばれていた時代があった(「法律扶助事業の充実と拡大を 求めて」法律扶助協会40周年記念シンポジウムの記録、14頁)。これは多くの弁護士 の法律扶助に対する意識の反映でもあった。公的な医療保険が導入された当時、「こんな安い診療報酬でまともな診療はできない」として公的な医療保険に反対した医者 が多かったが、公的な医療保険制度が導入されると自由診療は急速に駆逐された。法律扶助にも同じような問題があり、法律扶助制度が拡充されれば、弁護士費用の単価 は今よりも下がる可能性があるが、事件数は大幅に増える。1980年代の西ドイツの弁 護士は、1年間に日本の弁護士の4~9 倍の事件数を扱い(約6 割が訴訟以外の仕事で あり、必ずしも労働時間の長さを意味しない)、平均して日本の弁護士の約1.4 倍の収 入を得ていた(「法社会学」六本佳平、有斐閣、305、324 頁)。また、ドイツの弁護士 は」年間200~300件の事件を扱い、少額事件が多いとされる(「開かれた司法をめざし て」日弁連、279頁)。ドイツのように弁護士費用を法定化しなくても、破産や債務整 理事件などについては、かなり前からドイツ化的傾向(事件の大量処理、費用の定額化、 低額化)が見られる。
注28  「スウェーデンの新しい法律扶助法」菱木昭八朗、リーガルエイド研究2号、70 頁、「立替金償還制度をめぐって」大石哲夫、判例タイムズ1186号、75頁
注29 スタッフ制は国から給料の支給を受けるスタッフ弁護士が法律扶助事件を扱う制  度であり、ジュディケア制は開業弁護士が法律扶助事件を扱う制度である。「日本 の法律扶助の再構築とその課題」小島武司、リーガルエイド研究1号、3頁

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