弁護士のブログ 2011




2011年6月26日
知識と思考

 「岳人」の原稿について
 連載記事の9月号は、山岳事故における予見可能性について書く。これは、何年も前からずっと考えている問題なので、それほど苦労することなく書くことができる。
 しかし、10月号をどうするか。知っていることを書くだけであれば、簡単だ。何冊かの本を読んでそれをまとめるとか、法律の教科書に書いてあることの言い直しとか、判例の要約を書けばよい。しかし、それらの知識を前提に自分で何かを考えて書くことは、非常に大変なのだ。
 もちろん、法律をまったく知らない人に、法律の教科書に書いてあることをわかりやすく説明することはそれなりに意味があるが、法律の教科書に書いてあることの言い直しでは役に立たない。また、それでは、商業的な読み物として面白くない。

 専門家が知識が多いことは当然のことだが、それをもとに「考える」ことが難しい。原子力の研究者は、原子力に関する豊富な知識を持っている。しかし、それをもとにして、「どのようにしたら安全を実現できるか」は、どの書物にも書いてない。あるいは、書物に書いてあっても、それでは不十分である。安全性を考えることは、知識だけではできない。


2011年6月19日
父の日
 神奈川県に住む大学生の娘が、父の日にお祝いの電話をくれた。大学生の長男は何も言わなかったが、長男が高校生の時に、父の日に、「今まで、僕のわがままを許してくれて、ありがとう」と書いた手紙をくれたことがあった。こういう時に、「人間は生きていれば、何かいいことがあるものだ。生きていてよかった」と大袈裟に思うのだった。長男は病気のために1年間学校を休んだり、いろんなことがあった。


2011年6月17日
アクセス数2万件
 ホームページのアクセス数が2万件を超えた。
 もともと仲間うちでの趣味で作ったホームページなので、ヤフーなどの商業ベースの検索サイトには一切登録していない。登録料5万円を払う意味がなかった。出来のよいホームページではない。ないよりはマシという程度のものだが、アクセスする人がいるということは、まあ、社会の役に立っているのだろう。
 登山関係者がアクセスすることが多いようだが、今では、登山関係が仕事の一部になってしまった。


2011年6月12日
弁護士の専門分野
 一般の市民が欲しい情報は弁護士の専門分野である。しかし、現在、弁護士の得意分野の広告は認められているが、専門分野の広告は認められていない。弁護士の専門分野を認定する手続きがないからである。こういう状況で、弁護士の専門分野の広告を解禁すれば、弁護士が好き勝手に自分の専門分野の広告をし、結局、どの弁護士もあらゆる分野を専門にしているという情報が氾濫する。
 現在の状況では、弁護士が今ままでに扱った事件とその件数を表示することがもっとも適切な情報提供ではないかと思う。
 例えば、離婚事件○○件、土地明渡請求○○件、国賠請求事件○○件などである。
 私は、このホームペ−ジで今までに扱った事件の一部と報酬額を公開しているが、利用する人がどれだけいるかわからない。それでも、一応、今までのアクセス件数が2万件近くになっているので、ないよりマシだろう。
 私の専門分野は山岳事故である。これは、弁護士業の専門分野を表示したのではなく、あくまで研究者としての表示である。私は、マスコミでは、一応、山岳事故の法律問題の研究者・専門家と呼ばれている。
 弁護士としては、債務整理、過払金、破産、民事再生、離婚、相続、遺言、土地、登記、近隣紛争、境界、貸金、請負、売買、賃貸借、後見人、財産管理、労働、国賠、保険、交通事故、刑事などが多い。要するに、ほとんどの分野を扱ってきたということである。
 では、得意分野は何かと言えば、やはり、山岳事故の研究とか、人間の心理・認識過程の研究とか・・・・・


2011年6月8日
三次地区法曹懇親会(三次市)
裁判官、検察官、弁護士計8名が参加した。まあ、一応、盛況ということで・・・・・・
 

山岳事故の相談
 東京に住んでいる人から山岳事故の相談があり、約1時間電話で相談した。ガイド登山中、雪山での落石事故の相談。インターネットで僕の名前を知ったとのこと。インターネットがけっこう役に立っているようだ。遠方からの電話相談が時々ある。先日も、静岡県の山小屋経営者から相談があった。


2011年6月6日〜7日
国立登山研修所専門調査委員会(富山市)
 
富山市にある国立登山研修所での会議。立山まで往復16時間かかり、疲れた。気象、医療、ナビゲーション、トレーニング科学、雪氷、工学など各分野の専門家が集まっている。多種多様な専門家の中で議論をしたいという考えで参加しているのだが、会議の内容は儀礼的なものである。今回は顔合わせというところ。たぶん、重大な問題が起こらなければ、具体的な議論にならないのかもしれない。夜は懇親会。
 次回は東京で開催される。


2011年6月5日

損害賠償を考える

 現在、損害賠償に関する本をいろいろと読んでいる。
 山岳事故に関する損害賠償の問題について雑誌に執筆するうえで必要なのだが、問題はそれにとどまらない。
 原発事故に関する損害賠償は無過失責任とされているただし、(除外規定がある)。過失責任ー無過失責任ー損失補償ー社会保障という流れの中で、過失の認定のあり方が問題にある。
 薬害事故、公害などある種の事故については、過失の認定を緩やかにし、国の社会保障制度を補完する機能を持たせることが必要ではないか。それは政策問題だと言われそうだが、憲法の理念を実現するという点で法解釈論が可能ではないか。


2011年5月30日
司法研修所同期会(広島市)
 司法研修所の同期の懇親会があった。広島県内にいる弁護士、裁判官、検察官9名と、司法研修所の元教官(現在、高裁長官)が参加。僕が会席に遅れて行ったところ高裁長官から名刺をもらったが、あいにく名刺を持っていなかった。高裁長官は単なる酔っぱらいのオジサンで、酔ってやたらと握手責めをする。しかし、司法に対する熱意には並々ならぬものがあるようだ。一般に、弁護士よりも裁判官の方が司法について真面目に考えている。
 他の出席者は、裁判所や検察庁の部長、高裁事務局長など、それぞれ肩書があるが、弁護士は昇進がないので、皆、ヒラである。


2011年5月21日
後見人の担い手不足?
 中国新聞に「成年後見制度 首長の選任申立3.7倍 担い手確保急務」との見出しの記事があった。いかにも、後見人の担い手である弁護士や司法書士が不足しているような記事が書いてあるが、実は後見人になる弁護士や司法書士は余っている。後見人になってもよいという弁護士や司法書士はたくさんいる。
 実は、中国新聞の記事は、「無償で後見人になる人が足りない」と書くべきだったのだ。司法書士や弁護士は仕事として後見人になるので、有償である。その結果、後見人に報酬を払えるだけの財産のない人に関して後見人の申立をしにくいという現実がある。マスコミの記事はだいたいにおいて正確でなく、市民の誤解を招く記事が多い。あるいは、マスコミは、読者の関心を引きやすいように情報を操作するか、または問題をまったく理解していないかのいずれかである。事実を感覚的にとらえて、表面的なことだけをサラッと書くのが新聞記事である。そのため、現在の制度の問題点がぼけてしまう。逆に、マスコミの記事が問題の解決を妨げる作用をする場合もある。
 中国新聞を読んで、「後見人を引き受ける善意の弁護士や司法書士が増えればよいのに」と考える人が多いだろうが、それではまったく問題を解決できない。読者は何も考えることなく、すぐに記事の内容を忘れ、あいまいな印象だけが残る。

 仮に、親族等が無償で後見人になっても、法律の知識がないので、管理上、支障が生じる。そのため、自治体は、弁護士や司法書士のような知識があって、無償で後見人を引き受ける人を捜すが、それがいないのだ。無償で引き受ける専門家を探す手法は、家を購入できない市民について、無償で家を建築してくれる工務店や大工を探すようなもので、問題解決の展望がまったくない。そうではなく、低利の住宅ローンや補助金制度、住宅供給公社などの制度によって問題解決がなされるべきである。同様のことが後見人制度にも当てはまる。
 弁護士や司法書士がボランティアで後見人をすることは、システムとして限界がある。ボランティアに頼る制度としては、日本では、保護司、家族の介護や福祉なども同じであるが、ボランティアに完全に依存することは「国の政策の欠如を」意味する。
 国の社会保障制度の一貫として、国の費用で弁護士や司法書士を後見人にする制度がなければ、問題の解決は難しい。マスコミはそこまで踏み込んだうえで記事を書くべきだが、記者にそのような力量を求めるのは無理なのか。

 新聞記者の書く記事は、専門家から見れば不十分さが目立つ。以前、東京のある新聞社が山岳関係の取材をした時、10回くらい質問をしても記者はまだ十分に理解できていなかった。「私が代わりに記事の原稿を書いてあげましょうか」と提案したが、記者は「それはけっこうです」と言った。完成した新聞記事は、私が予想した通り不正確なものだった。記者のプライドを選ぶか、読者の誤解を選ぶか。読者の無知に乗じて、いい加減な情報がマスコミに氾濫し、読者の判断が操作され、それで世論が動く。


2011年5月22日
自由法曹団5月集会(松江市)
 
自由法曹団の5月集会が松江市で開催され、日帰りで出席した。松江市は広島市から車で往復6時間であり、近い。鈴木宣弘氏(東京大学教授)のTPPに関する話と、舘野淳氏(日本原子力情報センター、元中央大学教授)の福島原発事故に関する話を興味深く聞いた。たまには、こういう会議に出るのも悪くない。
 会場で「登山の法律学」が4冊売れた。


                     



2011年5月3日
オサマ・ビン・ラディン殺害
 
アメリカの特殊部隊とCIAがパキスタンの首都の近くの邸宅に潜伏していたオサマ・ビン・ラディン殺害した。
 
法律的に言えば、パキスタン国内であるから、パキスタンの法律が適用される。パキスタンの法律に基づいて逮捕し、裁判にかける必要があった。アメリカはどういう法律に基づいて、オサマ・ビン・ラディン殺害できるのか。アメリカの法律に基づいたわけでもない。
 超法規的な扱いで殺害したのだが、これはどのように正当化されるのか。アメリカはパキスタンと戦争をしているわけではないので、戦争によって正当化されるわけではない。
 もし、オサマ・ビン・ラディンが東京に潜伏していれば、アメリカは同じように、ヘリで急襲して銃を乱射しただろうか。住居侵入、殺人、銃刀法違反などで、日本の警察はアメリカの特殊部隊とCIA関係者をを逮捕するだろうか。たぶん、アメリカはもう少し巧妙にバレないように、日本の法律を無視する急襲をしたかもしれない。金大中事件のように、こっそりと拉致するとか。日本の警察はそれを見て見ないふりをする。
 パキスタンの主権は軽く見られたものだ。「どうせパキスタンは遅れた国だから、法律を無視してもアメリカに抗議すらできないだろう」
と考えたのだろう。パキスタンがアメリカの急襲を了解していたという報道もあるが、日本の場合であればこのような同意はできないだろう。
 「法律は関係ない。正当化するのは世論である」という理屈が通れば、法律を無視して傍若無人に何でもできる。緊急時には世界中が無法状態になる。現在の北朝鮮の理屈がこれだろう。北朝鮮は、「アメリカと戦争状態にあるのだから、目的のためにはアメリカに軍事基地を無償提供している同盟国に対し何をしてもよい。拉致さえも」と考えているのではないか。
 「国家の緊急時には法は関係ない。必要があれば何でもできる」、「今は議論しているときではない。行動する時である」
 このようにして、ナチスは行動した。発展途上国では、「今は、民主主義を議論している時ではない。わが国では人権よりも食べるものが必要である。国が豊かになってから、民主主義や人権を議論すればよい」という理屈でどこの国でも人権侵害が行われてきた。

 
東日本大震災で、「必要があれば、放射能の基準を下げてもよい」という理屈で、さまざまな基準が特別扱い、ないし、無視されつつある。


2011年4月30日
野伏ケ岳山スキー(岐阜県)
 
奥美濃の野伏ケ岳(1674m)で日帰りで山スキー
をした(もっとも、登山口までの往復に時間がかかったが)。天気は午前中は曇り、午後は雷雨。雪質はクラストし、イマイチだった。奥美濃の山に登るのは初めて。○○名山に入っているのか、入っていないのか・・・知らないが、よい山である。


      


2011年4月28日
三次調停協会の会合(三次市)
 
三次家事調停協会と三次調停協会の総会があり、出席した。


2011年4月24日

三次市長選
 
三次市長選挙で増田和俊氏が当選した。
 私は住民票が広島市にあるので、三次市長選の選挙権はないが、増田氏は元作木村長をしていた頃から個人的によく知っている。増田氏は、市町村合併で作木村が無くなった後、しばらく間、調停委員をされていた。私も調停委員をしているので、裁判所で会うことがあった。その後、増田氏は副市長から市長になられた。
 今後の活躍に期待したい。


2011年4月23日
原発事故の責任問題
 
福島原発事故の被災地を訪れた東京電力の社長や菅総理大臣に対し、住民から強い非難がなされている。それは住民の当然の気持ちだと思うが、現在、原発事故は進行中であり、まだ収束の見通しが立っていない。このような状況では、激しい非難をしていては、問題を解決できない。
 東京電力や国の関係者は原発事故の収束に向けて努力している最中であり、さらにヤル気を出してもらう必要がある。東電の幹部や社員を非難すればするほど、彼らはヤル気をなくして、「これではやってられない」と、簡単に辞任や退職するかもしれない。「そんなことは許されない」と言ってみたところで、人間のヤル気は強制できない。現在は、非難の応酬をすべきではなく、国民が一致団結して原発事故を収束させなければならない。この点は野党も同じである。現在は、非難ではなく、問題解決のための議論をすべきである。

 原発事故の責任問題は、事故が収束した後に時間をかけて問題にすればよい。裁判をすれば何年もかかる。
 原発事故の責任という点では、東京電力、国だけでなく、県や市町村、原発を推進した議員などにも責任がある。原発を地元に誘致したのは、市町村長や県知事、議員、地元団体、業者などである。彼らは、「事故は想定外」、「東電にまかせていた」と言うかもしれないが、原発が今回のような事態になる危険があることは、多くの専門家が指摘し、裁判でも主張がなされていた。それにもかかわらず、市町村や県は、現在の程度の安全レベルの原発の設置、維持に同意、容認してきた。市町村と県が同意しなければ原発は設置できない。国、東電、県、市町村が一体となって原発を推進してきた責任がある。
 現在、市町村長や県知事は、被害者の立場に立って発言をしているが(住民の意見を代表することは必要なことだが)、市町村長や県知事にも原発を推進してきた責任があるのではないか。市町村長や県知事も被害住民に対し謝罪しなければならない。
 安全レベルの低い福島原発は、自民党政権時代に設置、維持され、民主党政権がそれを容認してきた。民主党議員の多くはもと自民党議員である。安全レベルの低い原発を容認してきたことが、今回の事故の最大の原因であり、自民党は民主党政権の原発処理を批判すればすむという問題ではない。安全レベルの低い原発を容認してきた多くの国会議員にも責任がある。

 現在は、国民が一致団結して原発事故を収束させるべきであり、非難の応酬は事故が収束してから後のことである。


2011年4月12日
福島原発事故レベル7
 
福島原発事故がレベル5からレベル7に引き上げられた。
 当初からこの原発事故はレベル6から7の間だと思っていたので、「やはり、そうか」というのが感想。
 事態が悪化したのではなく、3月17日頃の日本の命運のかかった時期に較べれば、原発事故の状況が一段落し、以前ほどの危機感はない。今の状態が数年続くかもしれないが、原子炉が崩壊したり、東京に大量の放射能の雨が降り注ぐ可能性が以前よりも低くなったから、少しは前進している。3週間、原子炉を冷やし続けた効果が出ている。最悪の場合には首都移転の可能性や東日本の壊滅の可能性があったが、現在ではその可能性は低くなったと言えよう。
 しかし、国民の中には、原発事故の状況が、「以前よりも状況が悪化した」と考えている人も多いようだ。「状況が悪化した」のではなく、もともと冷却停止や水素爆発以降、原発をめぐる状況が危機的だったのだが、そのことを多くの人が最近になって認識したということだろう。
 当初からレベル7だと考えるか、今になってそれを知るかはそれほど重要ではない。それによって、被害の実情が変わるとは思えない。ただし、レベル7の方が風評被害は生じやすいし、水素爆発直後にレベル7を公表すればパニックになる人が多かったのではないか。

2011年4月10日
広島山岳会総会(広島市)
 
広島山岳会の会合に出るのは、たぶん、1年ぶりではないか。
たまたま、東京で会議があったため、昨年の広島山岳会の80周年の記念式典にも出席していない。それでも、一応、広島山岳会の理事になっているが・・・・・・・申し訳ない。


2011年4月9日
三次市での
法テラスの法律相談会、申し込み0件
 法テラスの法律相談会は、相談申し込みが0件のため中止になった。

 3月27日に財務局の無料相談会が開催されたが、相談は少なかったようだ。
 2月始め頃、東京の弁護士が三次市で法律相談会を開催したらしいが、ほとんど相談がなかったという噂がある。
 三次市では既存の無料相談会がいくつもあるので、今さら新たに無料相談会を実施しても仕方ないと思うのだが、都会に住む人たちには田舎の実情がわからないようだ。数えてみたら、3月に三次市内で計8回の法律相談会が実施されていた。
 この地域の相談件数が減少しており、弁護士の数が増えていることもあり、個人的には相談件数は以前の5分の1程度に減少した。

2011年4月8日
雑誌の原稿
 
岳人編集部に原稿を送った。
 雑誌「岳人」に毎月連載をしているが、この原稿を書くのがけっこう大変である。すぐによいアイデアが生まれるというものではなく、何を書くかを考えるのが大変なのだ。この連載は、登山に関係したことであれば、何を書いてもよい。「登山の法律」というタイトルなので、一応、法律に関係したことを書くのだが、法律論以外の持論を展開することが多い。どちらかといえば、登山に関する文化論が多い。
 「何を書いてもよい」というのは、書くべきテーマを自分で考えなければならず、大変である。むしろ、先日の国民生活センターからの依頼のように、「○○について書いてください
」と言われる方がよほど楽だ。
 しかし、登山に関してアレコレと考えることは、大変だが、「楽しい」という一面もある。


2011年4月7日
日本山岳文化学会評議員
 
日本山岳文化学会
の事務局から、評議員になってくれという依頼があった。回答書を見ると、「就任できません」という欄が斜線で消してあり、「就任」以外の選択ができないようにしてある。うーむ、なるほど、そういう戦術に出たか。当事者意識を持ってほしいとも書いてある。これは正論ではあるが。年に2回評議員会があること、交通費は一切出ませんと書いてある。
 東京の近くに住んでいれば、また、弁護士を定年退職してもっと時間があれば、評議員になってもよいのだが、この歳になると、残された自分の持ち時間を計算してしまう。現在のように、「自分のやりたいことをする時間がほとんどない」状況では、さらに時間をとられることをする時間的余裕がない。

2011年4月5日
再度の義援金
 
広島弁護士会に義援金を送金した。前回は日本赤十字への義援金だった。


2011年4月4日
希望を見つめる
 
福島原発について、今後のことは誰にもわからない。原子炉の専門家でも、「最悪の事態の可能性」を否定できず、「そうならないことを願っている」、「たぶん、そうはならないと思う」としか言えない。
 
 今後、原子炉が融解しないという保証はない。東京に放射能の雨が降り注ぐかもしれない。1年後原発がどうなっているか、誰にもわからない。わからないことは考えても仕方がない。かつて、「明日も地球が自転しているという保証はない」と言った哲学者がいる。人間は安心を得たいと願うが、実は世の中に絶対的な安心などもともと存在しない。
 
 人間は不安だけを見つめたのでは生きていけない。世の中は不安だらけだ。何ごとも知れば知るほど不安が増す。安心を得ようとして「最悪の事態の可能性」について専門家に聞いても、あらゆる可能性を否定できないので、不安になるだけである。弁護士の経験では、法的な見通しを詳しく説明すればするほど、あらゆる可能性を説明することになり、かえって不安を抱く人が多い。弁護士の「たぶん、大丈夫でしょう」という程度の言葉では納得できない。それは本人が不安を感じているからである。「絶対に大丈夫ですか」、「いや、絶対ということはありません」、「大丈夫でない場合とは、どんな場合ですか」、「それでは、何をやってもダメな場合がありうるということですか」と言う人がいる。通常は99パーセントはうまくいく場合でも、稀にうまくいかない場合がある。

 原発や放射能は本来非常に危険なものなのだが、従来、ほとんどの人は放射能の恐ろしさをあまり考えず、安心していた。たぶん、従来、専門家が、「冷却停止の恐ろしさ」を説明しても、ほとんどの人が「すぐに電源が回復するシステムがあるから大丈夫」と考えたのだろう。人間は自然の恩恵で生きさせてもらっているが、原子力の利用は自然に対する挑戦である。誰もが万が一の事態を考えないが、現在の状況が「万が一の事態」である。現在の日本の事態が放射能の恐ろしさであり、こういう事態があるから原発は恐いのである。潜在的にはこの危険性は原発が出来た当初から存在していた。

 人間は希望がなければ生きていけない。今のこの一瞬一瞬に生きているということが「希望」である。さまざまな不安があっても、今のこの一瞬一瞬の「生」の充実感を感じることは可能である。不安は常に存在するが、不安だけを見ていたのでは、人間は生きていけない。
それをひとまず横に置いて(目を背けるのではなく)、希望だけを見つめることで生きる力が生まれる。



2011年4月3日
最近の弁護士の就職事情
 
弁護士の就職事情がますます深刻
になっている。1人の弁護士の採用に100人くらいの司法修習生が来るとか、2〜3年で出ていく約束のノキ弁が居座り続けるために、新しいノキ弁の入る場所がないとか。もともと、関西の就職事情が悪かったが、震災で東日本の就職状況は壊滅状態になる。
 今後、この問題はいっそう深刻になる。

 有名法科大学院卒で若い人、成績優秀者は大手法律事務所に就職できる。弁護士の師弟などコネのある人も就職できる。法科大学院ができたおかげでかなりの数の弁護士の師弟が法曹になることができた。旧司法試験の頃は、弁護士の師弟がなかなか司法試験に受からない状況があった。かつては、よほど優秀な人でない限り、親子2代で弁護士になるということがなかった。
 
 司法修習中に公務員試験を受ける人が増えている。今後、司法修習生や法科大学院生が、公務員や民官企業に採用試験を受けて就職するケースが増えるだろう。彼らは、役所や企業で弁護士になるのではなく、法曹の資格を持った公務員、社員になる。ノキ弁や即独するくらいなら、公務員や民官企業、各種団体に入る方が、本人のためにもなるし、社会経済的にも好ましい。司法修習生の学力からすれば、国家公務員試験、地方公務員試験に受かるだろう。ただし、国家公務員については、人物に偏りがあれば採用されないかもしれないが。大都市や都道府県の採用試験であれば、ほぼ確実に受かるだろう。司法試験合格者と法学部卒業生では、プロとアマチュアくらいの学力差があるはずだ。採用試験は年齢制限があり、30代で司法試験に受かった者には行き場がない。
 欧米のような終身雇用制度ではない社会が、法曹資格者を増やす前提になるが、日本にはそれがない。日本にはヨーロッパのような充実した司法支援制度もない。法曹増大の条件を欠いたまま、法曹の数だけ増やす日本の司法政策は失敗だが、日本の政策はべてこんな感じであり、珍しいことではない。
 日本の教師の養成課程も似たような面がある。教育学部の数と教職資格者の数は掃いて捨てるほど多いが、日本の教育と教師の質は低い。教師の管理を強め、教科書検定をし、教員養成大学院を作っても何も意味があるのか。日本では教師は役所への報告所の作成と会議と父兄対策などの管理業務に追われ、教育内容の研究をするヒマがない。フィンランドのように大学はすべて授業料免除、給与支給という国であれば、フィンランドのように教員養成大学院の設置が意味を持つが、日本はそうではない。日本では教員養成大学院の設置は大学を儲けさせるための策略でしかない。理念がなく、バランスや整合性がなく、一部の団体や階層の利権と利害に基づいて政策が決定される・・・・・。国民は制度改革の恩恵を受けることがない。
 今回の震災を契機に日本の社会構造が根本的に変わることを願っている。

 能力さえあれば、人間はどんな職業についても、それなりの実績を残すことができる。人間は、能力と中身があれば、肩書きや地位はそれほど重要ではない。法曹資格者は能力があればいずれ役所や民官企業で幹部になる。法曹資格者が役所や企業で活躍できる場面はいくいらでもある。大企業の管理職の年収は弁護士の平均年収よりも多い。官庁の幹部の年収も弁護士の平均年収よりも多い。ノキ弁や即独弁護士の不安定な生活や借金を抱えることに較べれば、公務員の方が収入の安定性という面で、心理的によほど安心できる。
 弁護士の年収400万円あたりが、公務員や民官企業に進むかどうかの分岐点になるのではないか。弁護士は交通費や各種会費、書籍代などがかかるので、ノキ弁や即独弁護士の年収400万円はサラリーマンの年収300万円に相当する。
 今後は、「法曹資格者は弁護士、裁判官、検察官になる」という固定観念を捨てる必要がある。もっと多様な仕事を考えるべき時代になっている。
 今の時代に学生に戻るとすれば、おそらく、弁護士ではなく、医者になっていただろう。当時でも法学部の同級生で医者になった者がいる(医学部に入り直したということ)。弁護士よりも医者の方が市民が利用しやすいので、「必要とされている実感」が得られるような気がするからだ。

弁護士の不正請求
 国選弁護事件をめぐる弁護士の不正請求が153人、225件あったことが判明した。
 法テラスの民事扶助事件の相談料の不正請求も同様の比率で存在することが推測jされる。
 弁護士の業界の最近の経済的状況からすれば、「まあ、そうだろうな」というのが感想。
 
 もっとも過少申告も511件あったというから、記載ミスが多いということかもしれない。私も申告後、に法テラスから「遠隔地の交通費も請求できますよ」、「判決言に渡し後に裁判所に到着しても、裁判所に行ったのであれば、支給対象になる」点を指摘され、増額修正したことがある。


2011年4月1日
東電まかせの国と作業員まかせの東電経営者
 
国は、基本的に放射能の処理を東電にやらせようとしている。国がもっとリーダシップをとってやらなければならないのではないか。
 東電は末端の社員と下請け会社の作業員にやらせているが、東電の放射能処理の責任者は誰なのか。東電の経営陣が責任者であるが、かれらが陣頭指揮して放射能の処理をしているわけではない。東電の経営陣のリーダシップが見えない(社長は入院中)東電の経営陣は、自分が前面に出ればうまくいかない場合の全責任を負わされることを恐れているのかもしれない。全員で責任を負い、責任の所在をあいまいにするのが従来の日本的な方法である。「東電の社員全員で責任を負います」などという奇妙な事態が生じる可能性がある。経営陣は、今はできるだけ目立たないようにしておいて、後で引責辞任で「責任をとる」つもりだろうが、企業のトップの責任は辞任すればすむというものではない。今の状況を解決することが、企業経営者の責任である。危機的状況でリーダシップを発揮できないような経営者は、経営者の資格がないのではないか。
 
 班目春樹原子力安全委員会委員長は、かつて、次のように述べたことがある。
 国民の皆さんに理解していただきたいのは、規制を強めれば安全が確保されるのではないということです。現場を預かっている事業者が自主的にきちんと安全に対する取り組みをすることが重要なのです。」(インターネットからの引用)
 原発の安全管理を事業者
まかせにした国の姿勢が現在の状況を招いたのではないか。

 最大の問題は、原子力発電を推進する役所が安全管理を行っている点である。これでは、原発推進の妥協の産物として完全管理が行われてしまうだろう。


2011年3月31日
福島原発・長期戦
 福島原発の問題は年単位の長期戦になりそうだ。原子炉を廃炉にするにしても、それまでに核燃料を冷却しなければならない。その間、放射能が放出され続けるのではないか。
廃炉作業はその後のことであるが、これまた数十年かかる。
 一度汚染された土壌は元に戻るには何年もかかるのではないか。広範囲の土地の土壌洗浄は容易ではない。土壌洗浄よりも土地を放棄した方が早い。
 しかし、今後、数十年かかるとはいえ、少しずつ原発の解決の方向が見えているような気がする。

2011年3月28日
福島原発に一喜一憂
 昨日、福島原発で、通常の1000万倍の放射能が2号機の溜まり水から検出されたとの報道があった。これを聞いた時、原子炉で核融合が始まっており、その水が漏れたのではないかと思った。もはやお手上げか?
 しかし、その後、これは数値の誤りであることがわかり、ほっとした。
 とはいえ、東京の水の水源が放射能汚染地域にあり、いったん汚染された土壌は元に戻りにくい。放射能で汚染された土壌では数十年間農業ができなくなる。

「月刊国民生活」への寄稿
 国民生活センターが発行している「月刊国民生活」No.36に「ツアー登山の現状と問題点」を掲載した。雑誌「岳人」(東京新聞出版局)の2011年5月号にも、この問題について掲載する予定。


                             

2011年3月27日
山スキー(岡山県)
 中国地方の三国山(1213m、岡山県)でのんびりと山スキーをした。
 半年ぶりの登山であり、たまにはこのような息抜きが必要である。時々、被災地にいる人たちのことを思い、生きていれば、金や家はなくても、いつか必ずこのように生の充実感を楽しむことができる日が来るはずだと思うのだった。金はなくても、健康と気力があれば登山はできる。しかし、生活が成り立たなければ登山どころではない。

                          

2011年3月25日
作業の長期化
 福島原発の1、2、3号機の地下に放射能濃度の高い水が溜まっているようだ。周辺に人間が近づくことができない。復旧作業はロボットには無理であり、いざとなれば人力に頼るしかない。
 冷却ポンプの復旧作業は長期化するのではないか。


2011年3月24日
1号機からも白煙
 
今朝、福島第一原発の1〜4号機から煙が出ているとの報道があった。
1号機から白煙が出るのは初めてである。

原発作業員の被爆
 国は、福島第一原子力発電所での事故に対応するため、同原発での緊急作業時に限り、体に受ける放射線の被曝線量の限度を現行の100ミリ・シーベルトから250ミリ・シーベルトに引き上げている。しかし、そんなに簡単に基準を変えることは問題である。そんなに簡単に人命に関係する基準を変えるべきではない。基準の変更は、今回の事故に関して大量の放射線被爆者を生む恐れがあるのではないか。
 

2011年3月23日
一進一退
 今日も、福島第一原発で3号機から煙が出たり、東京都の水道から放射性物質が検出されるなどの出来事があった。「やはり、そうなったか」と思った。これは、原発事故以降、、当然に予想されたことである。もし、17日以降の放水作業ができていなければ、被害はこんなものではなかっただろう。風向き次第で東京で「屋内待機」とか、「雨の日はできるだけ外出しないように」という事態もありうる。17日以降の放水作業が成功したことが、被害をこの程度にとどめている。17日夜の作業が日本の命運をにぎっていた。それにもかかわらず、その時、テレビのお笑い番組はバカ笑いをしていたのだ。今後の作業がうまくいかなければ、被害が拡大する恐れがある。
 数日前に
2号機付近で500ミリシーベルトの放射能が検出されたとの報道が、今日になってなされた(もっとも、この報道を東電は否定したが)。
 1号機の使用済み燃料
保管プールの水はどうなっているのか? 1号機から白煙が出るのは時間の問題か?

原子力安全委員会委員長の会見
 原子力安全委員会委員長は、23日の会見で
「電源の喪失は深刻で予想を超える早さでトラブルが次々発生、技術陣の対処能力を超えた」
「震災時にも電源を容易に確保できるなどの耐震機能が必要だ」
「トラブルが重なり、多くの対処が後手に回ってしまった」
「圧力を抜く弁の開閉にも電源が必要だったことなど、予想外の障害が重なり、注入までに数時間を要してしまったことも悔やまれる」などと述べた。
 これを聞いて、思わず、フザケルナと言いたくなった。「圧力を抜く弁の開閉に電源が必要」なことは、誰でもわかることではないか。弁と言っても巨大な大きさのものであり、人間の作業では大変である。地震で弁が少しでも歪んでしまったら、弁を開けることができないのではないか。そういう場合の対処方法を考えておかなければならないのである。
 すべては、「机上の理屈で考える安全観」、「計算上の安全観」である。彼らは、自然というものを理解していない。予想を超えたことがありうるというのが、自然の特質である。
 「海水注入までに時間がかかったこと」これが、現在の事態の根本原因である。事故後、すぐに原子炉とプールに海水を注入していれば、ほとんど問題は生じなかっただろう。事故の直後、ロシアの専門家も、「事故後、すぐに海水を注入すべきだった」と述べている。
 機械が壊れたら人間が人力で作業しなければならない。放射能を浴びる危険を覚悟のうえで、誰かがしなければならない。原子力安全委員会委員長みずからがそのような作業に従事することは考えていないのだろう。
 電気が通らなくなったらどうするか? その程度のことすら、「想定していなかった」というのは、あまりにもお粗末である。
 
 班目春樹原子力安全委員会委員長は、かつて、次のように述べたことがある。
 国民の皆さんに理解していただきたいのは、規制を強めれば安全が確保されるのではないということです。現場を預かっている事業者が自主的にきちんと安全に対する取り組みをすることが重要なのです。(インターネットからの引用)
 原子力安全委員会には、国の規制ではなく、事業者の自主性に安全制を委ねるという思想が根底にあったのではないか。このような国の姿勢が今日の事態を招いたのではないか?
 今後、もし、裁判になれば、電源を失う場合を想定していなかったこと、海水注入までに時間がかかったことに、国の責任が生じるだろう。



2011年3月22日
原発の危機
 福島第一原発の3号機の煙は収まったが、2号機からは水蒸気が出ている。水素爆発の危険、放射能の増加もあり、
2号機はどうなっているのか?

海水から放射能検出
 
海水の放射能は魚に蓄積される。魚は日本近海を回遊する。今後、日本の漁が売れなくなるのでは?


2011年3月21日

危機が続く
 福島第一原発の2号機が一番問題ではないか。2号機は建屋があるので、外部から放水ができず、水素爆発の危険がある。上空からの2号機の温度を測定すると100度以下だというが、それは建屋の温度だろう。2号機周辺の放射能の量も高い。夜、2号機から白煙が出ているという報道があった。白煙が出るということは、まだ多少は水があるのだろうが、水が空になれば放射能が増えて人間が近づくことが困難になる。2号機に電源を通す予定だが、まだ、ポンプ等を動かすには数日かかりそうだ。時間との競争が続く。建屋の穴から少しでも放水することはできないのだろうか。


2011年3月20日
戸籍記録の喪失
 東北関東大震災の被災地の中に、役所が壊滅して戸籍記録や住民票を喪失した地域がある。その場合、明治以降の戸籍の再現が不可能になる。それに止まらず、親族、知人、地域住民が亡くなると、ある人が存在していたという情報そのものが喪失するという事態が生じる。通常、ある人間が生まれ、いずれ死ぬという人間の一生の痕跡が地球のどこかに存在するものだが、ある人間の人生が歴史から抹消されるという事態は悲しいことだ。

 
津波がすべてを飲み込み、ある人が存在したという痕跡をすべて消してしまう。
 家族にしろ、家にしろ、それまで存在したものが、一瞬にして、何の理由もなく、消えてしまうということの意味の深さを、理解することは到底できそうにない。

義援金を送る
 今日、日本赤十字に東北関東大震災の義援金をインターネットで寄付した。妻は、先日、義援金を寄付したようだ。我が家は夫婦別産制なので、互いに相談することもなく夫婦で別々に寄付をする。
 今のところ、金を出すくらいのことしか、できることがない。被災地で法律相談をしたところで、虚しさしか感じられないような気がする。
 

2011年3月19日

情報を受ける側のあり方
 この日、福島第一原発の3号機に大量の放水をし、3号機に関しては一時的に危機を脱した。しかし、あくまで一時的なものにすぎない。4号機はまだ不明であり、アメリカの専門家は「4号機はプールが破損し、絶望的な状況にある」と見ている。
 あるテレビ番組で、ある芸能人が、「放水がうまくいったと聞いて安心していたら、今度は4号機で問題が生じたんですね」と言っていたが、国民の中には「放水しているのだから大丈夫」、「所詮、福島の問題」と考えている人も多いのではないか。今、東京がダメになるかどうかという瀬戸際にあるという危機感を持っている人がどれだけいるだろうか。アメリカの専門家が言うように、「4号機のプールが破損」していれば、どんなに放水しても、冷却ができない。やがて、核燃料が再臨界に達して、大量の放射能を東日本にまきちらす。今後、何十年も、福島原発で核爆発が継続するようなものである。東京の放射能濃度が一気に高まり、東京で多少の放射能を浴びても、風向き次第で人間が生存できないことはないが、外国の企業や商取引はいっせいに東京から引き上げる。その場合は、大阪が暫定的な首都機能を持つだろう。関東から関西への民族大移動がはじまり、経済の中心は関西に移る。
 原発と日本が危機的な状況にあることは情報として存在する。
官房長官は、福島第1原発について、「これ以上の悪化を食い止めるべくギリギリの努力が一定の効果を上げている」、「「予断を許す状況ではない」と述べている。「現在、必要以上に不安になる必要はないが、安心はできない」というのが現状だろう。多くの場合、危機的状況を強調すれば、多くの国民は、「非常に危険である」とパニックを起こすからである。他方で、多くの国民は、「情報が少ない」、「わかりにくい」、「安全なのか、危険なのか、どちらなのかはっきりしてくれ」などと言う。
 現在、情報はかなりあるのだが、それを受け取る国民の側が、正確に理解したうえで受け取ることが必要である。情報を、現状に関する情報と、今後の見通しに関する情報などに分け、冷静に分析できる力が情報を受ける側に必要である。安全か危険なのか、択一的に考えるのではなく、ものごとが進展していくメカニズムを理解することが必要である。「原発が危機を脱する可能性はどの程度ありますか」と質問しても、関係者は、「そのように努力しています」と答えるしかない。「安全である」と言えば、人々は安心するが、そもそも安全性というのは危険性の程度問題に過ぎないのである。人体に影響を与えるほどではない放射能は、危険性の程度が低いことを意味し、それを一般に安全性と呼んでいるだけであり、いわば、人々に安心感を与えるための言葉のテクニックとも言えよう。



2011年3月18日

50人のヒーロー
 海外では、原発作業にあたっている作業員を「50人のヒーロー」と呼んでいる。東京電力などでは、妻子がいない社員らを中心に志願者を募ったと報道されている。東京電力は、作業員の名前を絶対に明かさないと言っている。今後、彼らが放射能を浴びたことで差別されたり、不利益を受けることを考慮したものか? 
 ヒーローは50人だけではなく、災害現場にいるすべての作業員、社員、消防士、警察官、自衛官などがヒーローである。

原発への放水
 
今日も水を放水でき、「東京を含めた東日本がつぶれかかった」事態を避ける展望が少し見えたような気がする。
 現状のままでは、30キロ圏内が「放射能がただちに人体に影響をする放射能ではない」とすれば、「定住し、永続的に放射能を浴びれば、保証できない数値」ということを意味し、人が定住できる状態にはない。

「選択の文化」とC・W・ニコル
 広島弁護士会の会報に、「選択の文化」という小文を掲載した。シーナ・アイエンガーの「選択の科学」(文藝春秋)をもじってつけたタイトルである。この文章の中に、カナダの北極圏にあるバフィン島に行ったことを書いたところ、山下哲夫弁護士から電話があり、「広島市で7月18日にC・W・ニコルの講演会を開く予定だ。C・W・ニコルは若い頃、バフィン島に住んでいた」という電話がかかってきた。彼の講演を聴いてみたい。昔、C・W・ニコルの本を読んだことがあるが、書名は忘れてしまった。


2011年3月17日

日本の命運のかかった一日
 ここ、三次市は原発事故のあった福島県から遠く離れている。
 人々は原発事故について心配するが、「大変なようですね」とどこかひとごとのような感じがある。「東北、関東地方の問題ではなく、地球全体の問題なのですよ」と言うと、ポカンとしている。福島から放射能が広島まで届くかどうかを心配する人はいるが、その可能性が低いと聞くと安心して終わる。いろんなスポーツ行事ができなくなったり、物価が上がることを心配し、被災地の状況に同情するが、環境汚染という目に見えないものについては頭が回らない。
 このような人々の危機感の欠如が、現在の原発事故をもたらしたのである。

 原子炉の冷却機能が失われると、核燃料が溶融し、やがて原子炉が崩壊する。原子炉が崩壊すれば、大量の核物質が拡散する。核燃料の溶融は時間の問題である。
 日本の国土が放射能で汚染されることは、国民全体にとって非常に重大な問題である。ひとたび国土が汚染されると、それはあらゆる場面に波及する。海が放射能で汚染されると、汚染された海流が日本近海を流れ、放射能が拡散される。そこで育った魚が移動し、産卵し、稚魚の中に放射能が残る。放射能で汚染された渡り鳥は、日本各地に簡単に移動する。放射能で汚染された野菜や魚、家畜でなくても、そのような風評が生じるので、日本でとれた物が売れなくなる。日本の漁業と農業は壊滅状態になるのではないか。風向き次第で東京に降り注ぐ放射能の量が増える。たとえそれが直ちに人体に影響をしない量だとしても、東京は放射能の多い街として世界から認識される。観光客は東京に来なくなる。すでに、東京は、人間の住むべき街ではないとして、外国人から見放されつつある。このままでは、首都を移転するしかない。外国からは、日本人はすべて放射能に汚染されていると見られる。
 地球という箱の中の拡散された放射能の量全体が増える。放射能で広範囲の自然が汚染されることは、東京に放射能の雨が降るかどうかなどの問題とは比較にならない重大な問題である。放射能がどの程度後世に害悪を及ぼすか「未知」であることが、放射能の恐ろしさである。放射能による環境汚染は半永久的に重大な問題なのだ。

 管首相は、「東日本がつぶれる」ことを危惧しているが、そのような危機感を持っている日本人がどれだけいるだろうか。東日本とは東京も含む。
 今日、ヘリや車両からの放水により、使用済核燃料の保管プールの冷却の試みがなされた。今日の放水が成功するかどうかが、核物質の閉じ込めを成功させるかどうかの天王山である。今日できなければ、明日はもっと放射能の量が増すのでもっと困難になる。もし、これができなければ、核燃料はむき出しのまま何十年も大量の放射能を放出し続けることになる。今日できなければ、明日も無理である。 時間が経てば、それだけプールの水が減り、放射能が増す。東京を含む日本の東半分は放射能漬けになる。東日本の野菜や肉、卵などは売れず、日本近海でとれた魚も売れなくなる。東京に日本支社を置く外国企業がなくなり、外国との取引の多くが大阪になる。大阪が日本の経済の中心に移行していく。東京の放射能が許容量以下でも、放射能の多い東京に住めなくなる。
 それがわかっているからこそ、夜になっても作業を強行したのである。世界中でこの作業が注目されていた。
 僕はこれが気になってほとんど一日中仕事が手につかなかった。今日放水ができなければ、明日はもっとプールの水量が減り、条件が悪くなる。核燃料がむき出し状態になれば、人間が近づくことが不可能になる。時間との競争なのだ。アメリカの専門家が、この事故がチェルノブイリ級であり、お手上げだと非常に悲観的な見方をしているのもは根拠がある。この悲観的な見方が当たるかどうかは、今日決まる。日本の命運をかけた1日・・・・・それにしても、もっと早い段階でプールへの給水の手段を講じることができたのではないか。すべてがあまりにも遅すぎる。

 驚いたことに、夜、テレビをつけると、テレビではいつものお笑い番組を放送し、バカ笑いをしている。停電に関するニュースは流すが、放水に関する最新のニュースを流さない。テレビは最新の情報よりもお笑い番組を優先させる。あらためて日本のテレビ番組に、お笑い系が多いことに気づいた。インドに似ている。インドのテレビではほとんどすべてがコメディー番組である。

 いまや、最新の情報を入手する方法は、テレビではなく、インターネットである。自分たちや日本の命運が決まる重大な時に、なぜ、お笑い番組を放送するのか。これだけの大災害が起き、原発に危機が生じている時に、お笑い番組を見ている日本人がいるのだろうか? 笑っている場合か!日本が破綻するかどうかという瀬戸際に、この無関心はどこから来るのか。日本が直面している危機的状況とあまりにもかけ離れたテレビ番組の内容に唖然とした。この危機感の欠如は、いったいどういうことなのか?
 
 三次市内でも、昼間、放水作業の結果に食い入るようにテレビを見る市民の姿はなかった。本来であれば、東京でクーデターが起きたとか、首相が暗殺された事件と同じようにでテレビの前に人々が群がるような一日だった。

 結果は、ヘリからの放水はほとんど気休めであり、ほとんど効果がなかった。警察車両からの放水はプールまで届かなかった。これを聞いた時、僕は大きな衝撃を受けた。もはやお手上げか? 原子炉の冷却は1分1秒を争う緊急事態である。人間が近づくことができないくらいに放射能濃度が高くなり、あとは100年くらい放置するしかないのか?
 幸い、自衛隊の放水は一応うまくいったようだが、効果はわからない。30トンの水の放水で終了したのはなぜか。水を補給しながら徹夜をしてでもすべきではなかったのか。今日、放水できても、明日、放射線の濃度が上がっていれば、放水できないかもしれないのだ。悠長にしている暇はないはずだ。
 果たして、明日も放水可能か。心配であり、最近は毎日、朝、4時頃に目がさめる。

 3月19日から福井県にある野伏岳に知人とスキーツアーに行く予定だったが、「東日本がつぶれるかどうか」という瀬戸際であり、のんびりと登山をしている場合ではないので、中止した。


2011年3月16日
非常勤裁判官の申込を取り下げる
 広島簡易裁判所で民事調停官(非常勤裁判官)を1名募集予定だと聞いたので、中国地方弁護士連合会に任官の申し込みをした。
 ところが、最高裁は55歳以上の者を採用しないらしく、今まで、最高裁は55歳の希望者について採用を拒否したケースが何件もあることがわかった。私は現在55歳であり、最高裁の審査、任用が難航することが予想された。開業弁護士にとって、事務所経費がかなりかかる。非常勤裁判官の時給の額は、法律事務所を維持するための時間あたりの経費に足りない。つまり、経済的に言えば、非常勤裁判官として仕事をしている時間帯は、法律事務所は赤字状態を意味する。したがって、開業弁護士が非常勤裁判官になることはある意味ではボランティア的なものである。非常勤裁判官の任用のうえでさまざまな障害があるとすれば、そこまで苦労して応募することもないだろう。また、今回の大震災が起こり、自分の使える時間が限られていることを痛感した。悠長に民事調停官をしている場合ではないので、申し込みを取り下げた。
 私は、裁判所の民事・家事調停委員を13年くらいしており、非常勤裁判官は弁護士から広く人材を募集するという趣旨なので、自分で言うのもナンだが、民事調停官は自分に適任だと考えたのだが、最高裁の考えは異なるようだ。なぜ、最高裁が年齢制限をするのは、非常勤裁判官から常勤裁判官への任用を考えているからしいが、両者はまったく職務が異なる。調停官は裁判官とは異なる専門職種とすべきだろう。また、アメリカでは裁判官は40歳以上の者から任用し、法曹経験を重視するのだが、日本の非常勤裁判官の制度の趣旨は異なるようだ。非常勤裁判官制度が日本の司法で果たす役割は小さい。

 現在、調停官は現在大規模庁にだけ配属されている。大規模庁は調停員の人材が豊富であり、大規模庁に調停官を配属することの意味に疑問を呈し、調停官は小規模庁にこそ必要だと述べた元調停官がいる。私は小規模庁で長年、調停委員をしてきたが、この元調停官の意見と同じことをずっと感じている。


2011年3月15日

福島原発事故
 自然の力は人間の予測をはるかに超えている。人間の頭で考えても、自然のメカニズムを予測することは難しい。
 放射能汚染が既に起きてしまったが、被害が最小限になることを祈るしかない。
 明日から冬型の気圧配置になるので、北西風になり、放射能が海側に流されるのが、天の恵みというべきかもしれない。
 このような大災難の時に団結し、協力できることは日本人のすぐれた点である。


2011年3月12日
東城町での法律相談会の開催

 庄原市東城町で、弁護士会、法テラス、庄原市の主催・共催で法律相談を実施した。18人の相談者
あり。
 相談の間も、地震の被害や原発がどうなるか気になって、落ち着いて相談できなかった。

 今後も東城町での相談会を実施したい。
 今回は、弁護士の手弁当で実施したが、最低限でも弁護士の交通費くらいは確保できないものか。


2011年3月11日
東日本で大地震

 想像を絶する自然の脅威に驚くしかない。1000年に一度の大災害の前で、人間に何ができるのだろう?
 壊滅した地域に多くの裁判所や法律事務所もあるのではないか。
 このような災害に際して、法律家に何ができるのだろうか。


2011年3月1日

「アメリカの国立公園法」(久末弥生)

 面白いタイトルの本だと考えてインターネットでこの本を購入したら、北海道大学出版会の発行だった。
 北海道大学出版会
は、畠山武道さんの名著「自然保護法講義」や「アメリカの環境保護法」を出版しており、さすがだと思った。
 このような売れない良い本を出版する発行所は日本では少ない。

 この本を読むと、アメリカにおける国立公園をめぐる保護と利用をめぐる対立の歴史がよくわかる。しかし、日本と決定的に違うのは常に市民の運動が政治を動かしてきた点だろう。


2011年2月14日
静岡県からの相談者
 今日、静岡県から山岳ガイドやツアー登山について相談に来た人がいた。
この種の相談は電話や手紙での相談が多いのだが、たまに遠方から事務所に来る人がいる。


2011年2月12日
ブータン在住の青木さんの歓迎会 
 ブータン在住の青木薫さんとビカシュさんの歓迎会(広島ブータン共会主催)が広島であった。
 青木薫さんは、広島出身でお父さんの青木巌さんが広島山の会の創設者、日本山岳会広島支部に所属、叔父さんが広島山岳会、広島県山岳連盟に関係。何かと広島の岳人とのつながりが深い。有名な登山家の重広恒夫さんの奧さんと娘さんも昨年の広島ブータン共会隊に参加し、この日もわざわざ兵庫県から参加されていた。重広恒夫さんの奧さんは元広島山岳会員とのこと。世の中は狭い。
 青木さんはJICAで看護師としてブータンを訪れ、そこで知り合ったブータン人と結婚した。ブータンで夫と「シデ・ブータン」という旅行会社を経営している。夫は6か国語を話し、なかなかの男前である(ブータンで会ったことがある)。ビカシュさんはシデ・ブータンの社員で、日本語が堪能である。平成12年にブータンを訪れた時、いろいろと青木さんにお世話になった。昨年も、広島ブータン共会のメンバーがブータンを訪れている。ブータンを訪れる観光客は、アメリカ人についで、日本人が多いらしい。
 日本人と結婚するブータン人がけっこういるそうだが、日本に住むブータン人は日本の社会に適応できず、離婚率が50パ−セントだそうだ。僕は「日本の国はおかしい」、「日本の社会に適応できないのは、日本人も同じである」と述べた。
 ブータンを知ることで、日本という国がよくわかる。 

              



2011年2月11日
初めての裁判員裁判 
 2月7日から10日まで広島地方裁判所本庁で裁判員裁判があり、弁護人として関与した。どちらかと言えば、裁判員として参加したいのだが、それは無理である。罪名は強盗致傷。裁判員は熱心に審理に参加していた。

 従来、事実に争いがない事件では、1時間の審理で即日結審していたのを、裁判員裁判では何十時間も審理に時間をかける。判決の内容はは以前とほとんど変わらない。
 事実に争いがない事件では、刑は裁判員裁判でも、従来の量刑相場とほぼ同じで変わりがない。なぜ、量刑の違いが生じないのかと言えば、おそらく、裁判員は従来の量刑相場に基づいて判断するからである。量刑相場に反した判決を裁判員が出せば、検察官が控訴して、高裁での裁判官による裁判で、量刑相場に基づく判決が下される可能性がある。
 裁判員だろうと、弁護人だろうと、誰でも、自分の内部に量刑の基準を持っているわけではない。死刑になるような事件における死刑廃止論者は別として。弁護士自身も「正しい量刑」などわかるはずがない。ただし、弁護人は、被告人を弁護するのが任務なので、できるだけ軽い量刑にすることを主張する。弁護人は、執行猶予を付けることが量刑相場ではないことがわかっていても、執行猶予を付けることが相当だと主張する。初犯の窃盗犯で実刑ではなく執行猶予が付くことが多いが、それはそのような普遍的な正義があるからではなく、従来の量刑相場がそうだからに過ぎない。50年後、窃盗罪でも初犯で実刑に処す時代が来ないとは限らない。かつては、覚せい剤の使用で罰金刑になることがあったが、現在ではそれはない。量刑の相場が変わったからである。初犯の窃盗犯で執行猶予をつけるかどうかは、その時代の感覚に左右され、それが量刑相場を形成する。裁判官は、職業柄、量刑相場に基づく量刑感覚を持っている。量刑相場を判断するには、裁判官の裁判で十分である。

 そもそも量刑には理由がない。懲役4年の刑を科す場合、なぜ、懲役3年でないのかと言っても、理由はない。反省していないからだとか、犯行の態様が悪質だから、懲役4年だと言うことがあるが、「反省せず、犯行の態様が悪質だから、懲役3年」という判断でもよいわけである。通常、懲役3年ではなく、懲役4年を科すのは、従来からの量刑相場に基づくからこそ、その数字が出て来るのである。量刑相場に基づく判断であれば、裁判官でも、裁判員でも大きな違いは生じない。
 裁判員裁判では量刑の理由が、裁判官の裁判の場合よりも詳細なことが多い。量刑の理由を詳細に述べたとしても、「それだから、懲役○○年」という論理にはならない。同じ量刑理由から、懲役3年にすることも、4年にすることも可能である。量刑は相場と感覚に左右される。「真摯な反省をしているので、本来懲役6年のところを減軽して、懲役4年」と言うか、「真摯な反省をしていないので、懲役4年」と言うかは、論理の問題ではなく、量刑感覚の問題である。
 被告人が刑に納得するかどうかは、理屈付けによるのではない。理屈に対しては、理屈による反論が可能になり、理屈同士に議論には際限がない。

 裁判員裁判でも、従来の量刑相場とほぼ同じ刑になることは、「従来の裁判官の量刑判断が、一般の市民から支持された」という評価が可能になるが、従来の量刑相場を基準に裁判をすれば、それは当たり前である。

 犯罪事実を認めている事件における裁判員裁判の意味としては、@市民が裁判に関心を持つ教育的機能、A裁判官の市民の量刑感覚を知りたいという要望を満たすという点がある。
 @については、本来、裁判員裁判という形式で多額の税金を使って実現すべきことではないだろう。Aについては、裁判官は量刑判断に悩むことが多く、市民の意見を聞きたいと思うことが多いのだろう。しかし、市民の量刑感覚は、死刑にすべきかどうかときう場合は意味を持つが、ほとんどの事件では、裁判員自身がよくわからないというのが実情である。裁判員は、裁判官から量刑相場を聞いて、「そういうものか」と誘導されやすいのではないか。
 現在の裁判員裁判は、もっぱら裁判所に都合のよい制度になっている。裁判所のための裁判員制度になっている。被告人からみれば、裁判員裁判は長い時間をかけて従来と同じような刑になるのだから、まったくメリットがない。

 裁判員は事実認定だけを行い、量刑判断は裁判官が行うべきである。アメリカでも、基本的に陪審員は事実認定だけを行い、量刑判断はしない。裁判員裁判は、「犯罪事実を争う事件」に限るべきである。
 

2011年2月10日
弁護士のトラブル急増
 昨日のNHKのニュースで、「過払金請求が増加し、弁護士と依頼者との間のトラブルが増えた」と報道していた。
 実際には、過払金請求は以前よりも減少している。弁護士と依頼者との間のトラブルが増えたのは、弁護士が急増したことにある。  過払金請求事件は弁護士が確実に報酬を得ることができる事件なので、過払金請求事件をめぐる弁護士間の競争が激しくなっている。事件の取り合いである。また、弁護士は確実に報酬の得られる事件からできるだけ多くの報酬を得る傾向が生じる。
 
 この点は、過払金請求に限らず、他の確実に報酬が見込める事件でも、着手金0、報酬3割などといったケースが起こる。そのためには、途中での弁護士への委任の解約を禁止したり、弁護士が「途中で委任契約を解約するのであれば、今までかかった経費を払え」と言ってトラブルになりやすい。また、「着手金0円。費用は一切かかりません」などの広告をして、高額の報酬をとると、「報酬のことは最初に聞いていなかった」などの苦情が出やすい。
 法テラスも報酬をめぐるトラブルが多いようで、現在の法テラスの説明書には、過払金請求の報酬が15〜20パーセントになることが明記されている(この点は、以前の法テラスの説明書ではあいまいに記載されていた)。
 アメリカでは報酬は3〜5割と言われているが、おそらく詳細な委任契約書を交わせば、契約したのだから5割の報酬は当然だという文化があるのだろうが、日本ではそうではない。日本では、3割も報酬をとると、たとえ委任契約書に明記していても、「不当である」と考えられやすい。
 そのため、日弁連は、過払金請求の報酬額は25パーセント以下、任意整理の報酬は1社5万円以下、債務減額報酬は減額分の10パーセント以下という基準を作った。それでも、かなり高額であるが、あとは自由契約の範囲とし、「弁護士に依頼する側が、自分で考えて弁護士を選択しなさい」ということになった。


2011年2月9日
行政における法曹資格者の役割
 大阪府が過払金請求事件を援助するという新聞報道があった。
橋本知事は弁護士会と仲が悪いので、「仕返し」のような気がしないでもないが、行政が司法に関して支援することは、消費者相談、公害相談などでも見られ、珍しいことではない。
 行政が法的紛争の解決に関与することは、それでよいのだが、問題は、行政や企業が大量の法曹資格者を必要としているという前提で、司法試験合格者を大幅増員したこととの関係にある。企業や行政が法曹資格者を雇用することが司法改革の趣旨であり、行政は消費者行政などに関して法曹資格者を雇用する必要がある。行政が本気で消費者行政に関与するのであれば、法曹資格者に担わせる必要がある。
 しかし、現実には、行政に雇用される法曹資格者は、「任期2年の短期雇用」などが多いのが現実であり、これでは法曹資格者の使い捨てである。法律事務所を退職して役所に雇用されても、2年で任期が終わり、次の就職先がないというのでは、弁護士は応募しないだろう。


2011年2月6日
学生の就職難
 学生の就職難を競争で解決しようとしても、うまくいかない。つまり、面接訓練や就職活動によって、自分を他人よりも就職面で有利
な立場に置く手法には限界がある。
 私は今まで何人もの事務員を雇用してきたが、人を雇う側から言えば、もっともすぐれた人材を雇用したい。面接訓練や就職活動によるみかけ上のテクニックではなく、その人の本当の能力、個性、資質を知りたい。しかし、短時間の面接ではそれを把握するのは難しい。面接訓練などをして表面的なテクニックを見せられても、雇う側としては困る。面接訓練や熱心な就職活動をする人は、それだけで「熱意」があることを意味し、そのような「熱意」を高く評価する企業もある。本人の能力や資質よりも、就職活動上の熱意を買う企業はそれを重視すればよいだろう。しかし、一般的に言えば、就職活動上の熱意が仕事上の能力を意味するとは限らない。
 仕事が「できる」かどうかという基準でいえば、できる者とできない者がいる。競争という点では人間には必ず能力差がある。30人の者がどんなに努力しても、採用人員が1人であれば、もっともすぐれた人材を雇用する。30人が猛烈に努力すればするほど、雇用する側に都合がよい。
 一定の賃金、待遇、生活が保障されることが必要であり、それが競争を穏やかなものにする。それなりの仕事ができなくても、一応安定した仕事につけるためには、最低限の賃金補償や労働条件の法律上の規制が重要になる。あまりにも労働条件の悪い企業は存続しえなくなるが、その方が低賃金による過度の競争を制限することになり、企業活動も安定する。労働条件の悪い零細企業が自由に存続できる今の状態が、企業間の競争を過激なものにし、就職活動を厳しくしている。
 

2011年2月4日
行政訴訟は法の支配のバロメーター
 行政訴訟のあり方はその国の法の支配のレベルのバロメーターである。
「お上」を訴えることができる社会であるかどうかということ。
 市民の中には、国や自治体に対し裁判を起こす人に対し腹を立てる人もいる。特に年配の人にその傾向がある。「お上を訴えるとは何ごとか!」
 日本では行政訴訟は年間3000件程度しかない。行政訴訟は地裁の本庁でしか扱わない。三次の裁判所でも扱わない。
 行政訴訟は手続きがわかりにくい。民事裁判を起こして、何年も裁判をした後に、最高裁が「これは民事訴訟ではできない。行政訴訟でやりなさい」と言って却下するが、その時には、6か月の出訴期間はとっくに経過している。逆に、行政訴訟を起こすと、裁判所が「これは民事訴訟でやりなさい」と言って却下することがある。まるで、たらい回しである。あるいは、「県」を被告とする裁判を起こすと、裁判所が、被告は「県」ではなく、「県知事」であるとして、訴訟を却下していた。法律の理屈をこねまわせば、何とでも言える。県=県知事=県民と大雑把に考える人も多いが、厳密には異なる。裁判の相手が、県警本部なのか、県警本部長なのか、県なのか、わかりにくい。それを間違えると、それを理由に裁判を却下された。出訴期間経過後に却下すれば、もはや裁判ができなくなり、裁判所の負担が減る。摩訶不思議、魑魅魍魎。カフカの「審判」のような世界が日本にも現実にある。間違いは誰にでもある。人間の細かいミスを徹底的に取り上げて不利益を課すのが、日本の法律と裁判である。そんなことばかりしていると、次第に人間のミスを見つけることが快感になってくるのではないか。
 なお、平成16年の行政訴訟法の改正で、抗告訴訟の被告は国や自治体などに改正された。また、処分庁の教示制度、被告を間違えた場合に被告の変更を認めるようになったので、一歩前進である。
 
 裁判所の案内では、民事事件や刑事事件の説明は丁寧にするが、行政訴訟の説明はほとんどない。何か、避けているようだ。「フツーの人は行政訴訟を起こさない」と考えているのだろう。確かに、日本ではフツーの人間は行政訴訟を起こせない。行政訴訟に対し、裁判所自体が「緊張し」、「構えてしまう」のだ。
 日本では、ありとあらゆる方法を駆使して、行政訴訟を起こしにくくしている。戦前は、行政訴訟は東京でしか起こせないことにして、ほとんどの人に行政訴訟を諦めさせていた。あるいは、行政官を裁判官にすえて、勝訴率を低くして、裁判は諦めさせる手法もあった。国家が間違いを犯すことはないので、国が責任を負うこともないとされた。
 できるだけ訴訟の間口を狭めるか、間口を緩やかにするかは、司法の理念の問題である。できるだけ裁判の間口を狭くして、裁判所の負担を減らすというのが従来の日本の司法の方法である。多くの国民も、「裁判所の負担が減れば、それだけ税金を使うこともないし、自分らも弁護士費用に無駄な支出をしなくてすむので、裁判を起こせなくてもかまわない」という人が多かったのだろう。
 弁護士も、フツーの庶民から行政訴訟を引き受けると、通常、採算がとれないので、非常に困る。弁護士が1件の行政訴訟に1人で真面目にとりくむと、経済的に事務所がつぶれてしまいかねない。
 日本の人口あたりの行政訴訟の件数はドイツの700分の1であり、日本では行政訴訟は、「ほとんどない」に等しい。行政訴訟は法の支配のバロメーターである。

 最近、行政訴訟法の改正や原告適格、訴えの利益の緩和など若干の改革の動きがある。


2011年2月3日
高額な弁護士費用
 今日の無料相談の時に、弁護士費用に関する相談があった。
 三次市内に住む女性の老人が広島市内の弁護士に依頼して、地裁三次支部で裁判を起こしたが、着手金が100万円以上で、その他、裁判の交通費や日当などを、弁護士から「金をくれ」と言われるままに払ってきた。最初に費用の説明がなく、老人は請求されるままに払ってきたという。もちろん、委任契約書などは交わしていない。裁判を起こしてすぐに、弁護士から「裁判を取り下げろ」と言われたことがあるらしい。報酬計算書では170万円くらいの報酬額になっているが、裁判の結果はよくわからない。きちんとした説明がない。いくらか金が入ってくるらしいが、相談者はよく知らない。相談者は耳が遠いので、弁護士から言うなりである。
 弁護士がこんなことをやっているようでは・・・・・・・この弁護士は多くの消費者事件を手がけている、少しは名の知れた弁護士である。
 消費者事件の被害者が弁護士によって2次的被害を受けることがある。もともと騙されやすい人は、弁護士にも騙されやすい。今後、消費者事件の中に、弁護士や司法書士による被害事件の類型を考える必要がある。
 
 以前は、司法書士が個人再生事件で150万円くらいの報酬をとるケースがあったが(通常は30〜40万円程度)、今後はアメリカ並みの高額な報酬を取る弁護士が増えるかもしれない。これも弁護士増加の影響か? なぜ、高額な報酬をとるかと言えば、扱う事件数が少ないからである。扱う事件数が減少すると、1件あたりの単価が高くなければ、事務所を維持できず、生活できない。アメリカなどでは、5件くらいしか事件を持っていない弁護士は珍しくない。1件の事件を数年かけて処理して何千万円もの報酬を受け取る弁護士がいる。逆に言えば、そのような弁護士は、報酬の少ない事件を扱う経済的、時間的余裕がない。日本は、アメリカほどではないにしても、弁護士と司法書士に似たような傾向が現れている。仕事のない弁護士が巷に溢れた結果、「弁護士が市民に身近になった」というのでは余りにも情けない。仕事のない弁護士でもタダでは仕事はしないので、どのようにしても弁護士に依頼するには金がかかる。

 先日、相手方からの3000万円の財産分与請求に対し、約1000万円を支払う内容で和解が裁判所で成立した。訴訟件数2件。審理期間2年。経済的利益は3000万円-1000万円=2000万円。報酬は経済的利益の1割という委任契約を交わしているので、報酬は200万円になりそうである。しかし、私が依頼者に請求した報酬額は20万円である。依頼者は金がないので、相手方に1000万円を約7年かけて分割払する。それで報酬額を20万円に減額したのである。
 以前は、このような事案で私は報酬をもらわないことが多かったが、最近は、少しは報酬をもらうことが多い。以前は、あまりに忙しすぎて、報酬のことを考える時間がなく、バタバタしている間に報酬を請求し忘れることあった。とにかく3、4年前までは、三次にいる時間が限られるため、事務所では、「何かを考える時間がない」くらい忙しかった。あるいは、依頼者から、「報酬はいくらになりますか」と尋ねられた時、多くの似たような事件を抱えていると、経済的利益が500万円だと勘違いして、「報酬は30万円」と答えると、依頼者が「え? それでいいんですか」と驚いたことがある。後で、事務所に帰って記録を見てみたら、依頼者の受け取る経済的利益が1500万円の事件だった(家裁の審理期間1年半)。経済的利益が1500万円の事件で30万円の報酬を請求したことになるが、依頼者は30万円とは別に、「お礼」と書いた封筒に10万円を入れて持ってきた。東京の弁護士であれば、報酬として150万円〜300万円くらい取るだろう。報酬を請求し忘れていたら、依頼者の方が自主的に報酬を持ってくるケースもあった。
 他方で、報酬の合意があっても報酬を払わない人、経済的に報酬を払えない人は多い。

 弁護士は、経済的に事務所を維持するのに汲汲としたり、収入を増やす欲望に取り憑かれると、優れた仕事はできない。


2011年2月1日
「苦役列車」西村賢太を読む
 この作品は、今年度の芥川賞受賞作品である。
 その日暮らしの日雇作業員の屈折した心理と絶望的、閉塞的な人生を描いている。ただ1人の日雇い仲間の友人に対する嫉妬、葛藤、屈折した心理などが見事に書かれている。ほとんどの若者は、ここまで極端ではないにしても、似たようない挫折感や敗北感を持つことが多いのではないか。
現在の社会の閉塞感を象徴しており、共感を呼ぶのだろう。
 それで、芥川賞を受賞の理由はよくわかるのだが、同時に物足りなさも感じる。
 まず、作品全体の視野が狭いこと、主人公の置かれている状況をもっと多様な視点から見れば、見方も多様になるのではないか。社会的な視点がないこと、これが、この作品のスケールを小さなものにしている。そのため、この作品が個人的な挫折感に満ちた小世界で完結し、それだけで終わっている。小世界で完結する個人の物語で終わるところが、また、この作品の意味深いところでもある。つまり、個人的な小世界から一歩も外でに出ることができない閉塞観自体がこの小説のテーマであり、この小説のスケールの小ささを感じること自体を、この小説は意図したとも言える。


2011年1月31日
弁護士の過剰な広告
 東京の法律事務所が三次で借金に関する法律相談会を開催するという新聞折り込みチラシの3回目が入っていた。3回もチラシ配布をするのは、滅多にないことである。弁護士がすぐれた仕事をするためには、弁護士が過剰な広告活動に追われているようでは困るのだが・・・・・
 この地域では司法書士の広告も多い。現在では、弁護士、司法書士の宣伝合戦の観がある。この地域の堅実な市民の財布の紐は堅く、弁護士費用の負担を「家計上の災難」と感じる。庶民は、できるだけ弁護士費用を支出するような事態を避けたいと考えている。庶民は、誰もが精一杯のところで生活しており、弁護士費用を捻出する余裕がない。子供の塾の費用と弁護士費用とどちらを優先させるかと言えば、ほとんどの人が子供の塾の費用を優先させる。現実には、それも適わず、子供の塾の費用を借金でまかなう人も多い。
 
 現在のように法律扶助相談が一般化し、無料相談会の機会が増えれば、今後、弁護士会を含めて、法律相談会や○○110番の開催をする手法に頼ることを再検討した方がよいのではないか。○○110番だらけになると、インパクトに乏しく、市民もそれに慣れてしまう。いつでも弁護士に相談に行ける状況が生まれれば、わざわざ指定された日時に相談に行くのは面倒である。この地域では、ほとんどの人が法律扶助相談を利用して相談をしているので、いつでも無料相談が受けられると言ってよい。また、法律事務所に電話をすれば、ほとんどの場合に、その日か、少なくとも2、3日中には、相談可能である。そうだとすれば、わざわざ無料相談会まで待って相談に行く必要性に乏しい。相談者にも自分の相談したい日時があるが、○○110番は「弁護士の日時の都合に合わせて相談者に来い」と言うのと同じではないか。
 また、○○110番が増えすぎると、本当に必要な時に、マスコミが取り上げなくなる


2011年1月29日
本人訴訟の増加

 マスコミ報道によれば、
 「司法制度改革によって弁護士の数が10年前の約1・8倍に増加したにもかかわらず、原告または被告に弁護士が付かない「本人訴訟」が地裁の民事裁判に占める割合が14ポイントも増え、73%に上っていることが最高裁の集計で明らかになった。訴訟が定型化している過払い金返還請求訴訟が増えたのが大きな要因だが、同訴訟などを除いても、本人訴訟の割合は10年前と同じ約6割で推移していた。」

 弁護士が増えても、弁護士を利用しない人が多いという現実がある。それは弁護士を利用しやすい制度がないからである。建築業者の数が増えても、それだけでは建築戸数は増えない。現在の日本は、住宅建築業者の数をどんどん増やしているが、住宅建築戸数が減少している状況と同じである。住宅ローンなどの制度を作ることで、庶民が住宅を取得できるようになったが、司法には、住宅ローンに相当する制度がない。それを当然だと考える弁護士の業界の文化が庶民感覚からずれている。ある日弁連の幹部は、「弁護士費用にクレジットを適用しても、利用する人なんかいないでしょ。相談料をカードで支払うくらいですかねえ」と述べたが、それが弁護士の感覚を象徴している。彼らは、今まで弁護士費用を即金で払うことができる依頼者しか相手にしてこなかったのである。日弁連や弁護士の業界がこのような体質を持っている限り、問題の解決はできない。現在の弁護士業界の問題を解決するためには、弁護士業界の体質が変わることが必要である。
 弁護士会は、弁護士費用にクレジットを利用することに反対しているが、弁護士会は、弁護士費用のための低利のクレジット制度の構築に努力すべきである。

 私は15年前から、弁護士への依頼は弁護士費用の負担がネックになること、弁護士費用を利用しやすい制度(法律扶助、低利のクレジット)などが必要だと述べてきたのだがが、当時から法曹関係者の関心は非常に低かった。

 私は、15年前に、弁護士過疎地で開業した時、弁護士が傍にいても、弁護士に相談するが、弁護士に依頼することなく、事件の処理をする人たちがたくさんいる現実を知り、驚いた。とにかく、弁護士に依頼しないのである。当時は、法律扶助の適用範囲も狭かったし、それを利用しても扶助費を返還しなければならない(この点は現在も同じである)。
 弁護士に相談しながら、30万円程度の請求する訴訟を自分で行う人がいる。30万円の請求でも、事件処理に15時間くらいかかれば、弁護士費用は10万円程度にはなる。これでも、弁護士の単位時間あたり売り上げは6600円であり、事務所経費を控除すれば、弁護士の手取り収入は1時間で1600円である。これは事務員の時給よりも低い。この種の事件は弁護士にとって割に合わないが、依頼者にとっても、10万円を経費をかけたのでは、割に合わない。30万円の請求に、弁護士が15時間の所要時間が必要だとすれば、企業の社員が行えば、勉強する時間を含めて50時間くらいの所要時間がかかる。まともな企業では、30万円の経済的利益に社員に50時間の時間をかけさせるという企業活動は合理性を持たない。企業活動は合理性が基準になるが、この点は企業も弁護士も同じである。
 庶民のレベルでは、訴額50万円以下の紛争が非常に多い。 
 アメリカでは、弁護士は50万円以下の事件を扱わず、document prparerという別の職種の人間が文書作成などを請け負うらしい。アメリカでは、弁護士費用は日本よりも高い。アメリカでも本人訴訟は多いはずだが、アメリカでは、「本人が、本人訴訟を選択したのだから仕方ない」、「弁護士費用がかかるのは当たり前である」 と考える。日本で、「本人訴訟が多い」ことが問題になることは、日本の社会文化を象徴している。アメリカ型の規制緩和をしながら、同時にヨーロッパ型の司法を追及するのは無理である。ヨーロッパ型の利用しやすい司法を考えるのであれば、ヨーロッパのように弁護士費用を負担しやすい制度を作る必要がある。


2011年1月27日
東城町での無料法律相談会開催
 3月12日(土) 13時〜17時 
 主催 広島弁護士会
 共催 庄原市、法テラス
 場所 庄原市東城町東城文化会館1階
 弁護士3人が対応し、無料法律相談をする。
 連絡先 
   庄原市東城支所市民生活室 08477-2-5126
   広島弁護士会法律相談センター 082−225−1600)
     当日相談受付。ただし、082−225−1600で事前に時間の予約も可


2011年1月20日
原稿書き
 1月10日締め切りの「岳人」の原稿を書き、弁護士会の会報の原稿の締め切りが1月20日なので、それを書き(タイトルは「選択の文化」)、1月30日までに提出予定の月刊国民生活の原稿を書いている。タイトルは「ツアー登山の現状と問題点」。それが終わると、次の「岳人」の原稿を2月10日までに書かなければならない。山岳文化学会の次の論集に何か書きたいと考えているが、締め切りが4月である。



2011年1月19日
相談の減少
 
三次民主商工会の無料相談会は、雪のせいもあるが、相談者は0件。
3、4年前は、3時間の相談で6〜8件の相談があったのだが。三次での各種無料法律相談会は
、月に計6回くらいあるが、いずれも相談者が減少している。
 毎週、どこかで無料相談会が開催されている。同じ日に複数の無料相談会が開催されることも多い。三次市の相談と県の相談が重なることが多いが、これはどちらも木曜日に実施するからである。県の相談は以前は満杯状態だったが、現在は、3時間で1〜2件の相談しかない。県の相談室は相談員を減らし、組織を縮小する方向にある。他方で、三次市の無料相談は多い。三次市が無料相談を木曜日に実施していることが影響して、県の相談が減ったのではないか。
 各団体が無関係にバラバラに無料相談を実施している。その結果、相談日が重複したり、相談者が少ない相談会がけっこうある。情報不足から、「三次で法律相談の機会が少ない」と思いこむ人がいるが、そうではない。
 三次市街は狭いので、複数の団体が無料相談を実施する場所は車で2〜3分程度しか離れていない。相談日の日程調整や情報管理、広報を統一的に管理することが望ましい。

1月20日13時〜16時 三次市相談(みよしまちづくりセンター)
1月21日18時〜20時 三次民主商工会(三次市、三次文化会館) なんでも相談会
1月21日18時〜20時 三次民主商工会(安芸高田市、三次民商高田事務所) なんでも相談会
1月27日13時〜16時 備北法律相談センター相談(みよしまちづくりセンター)

2月3日13時〜16時 三次市相談(みよしまちづくりセンター)
2月10日13時〜16時 備北法律相談センター相談(みよしまちづくりセンター)
2月17日13時〜16時 県民相談室(三次市、広島県備北事務所)
2月17日13時〜16時 三次市相談(みよしまちづくりセンター)
2月23日13時〜17時 三次民主商工会(三次市、三次事務所) 法律相談会
2月24日13時〜16時 備北法律相談センター相談(みよしまちづくりセンター)

3月3日13時〜16時 三次市相談(みよしまちづくりセンター)
3月4日18時〜20時 三次民主商工会(三次市、三次文化会館) なんでも相談会
3月4日18時〜20時 三次民主商工会(安芸高田市、三次民商高田事務所) なんでも相談会
3月12日 13時〜17時 広島弁護士会、庄原市、法テラス共催無料相談会(東城町)
3月17日13時〜16時 三次市相談(みよしまちづくりセンター)
3月17日13時〜16時 県民相談室(三次市、広島県備北事務所)
3月24日13時〜16時 備北法律相談センター相談(みよしまちづくりセンター)
3月29日 9時〜16時 中国財務局相談(みよしまちづくりセンター)
3月31日13時〜16時 備北法律相談センター相談(みよしまちづくりセンター)
3月(日は未定)13時〜17時 三次民主商工会(三次市、三次事務所) 法律相談会
 
 これ以外にも、つくしの会や社会福祉協議会(三次、庄原、安芸高田)、商工会議所なども無料相談を実施しており、とても書ききれない。

 従来、「無料相談の機会を増やすことが、市民のためになる」と信じられてきたが、考え直す必要がある。医療機関への無料診察の機会をいくら増やしても、肝腎の治療を受けることが難しければ意味がない。


2011年1月18日
山岳救助ヘリの有料化問題
 「山と渓谷」の2011年2月号の「救助ヘリコプター有料化問題の是非」(谷山宏典)というタイトルの論考に、僕のコメントが掲載されている。僕の意見は、一般的な有料化はできないが、悪質なヘリの利用に対し制裁金を課し、損害賠償金を請求することは可能だというものである。
 この制裁金は、行政上の賦課金、課徴金、反則金と同じであり、罰則ではない。条例に規定を設ければ、可能である。


2011年1月17日
法律事務所の個性化、専門化
 弁護士の急増の結果、今後は、法律事務所の個性に応じて、市民が弁護士を選択するようになるだろう。
 利用者は、@弁護士費用の額、A弁護士が特定分野に詳しいかどうか、B裁判に勝てるかどうか、C弁護士が自分とウマが合うかどうかなどを気にする。

@については、法律事務所で差があるが、これは利用者にわかりにくい。着手金が0でも報酬が高い事務所。報酬の減額率に違いがある場合は、事件が終了しないと減額率がわからない。報酬額を減額しない弁護士もいる。事件終了時の経済的利益が1000万円の場合、1割の100万円を報酬として取る弁護士もいれば、それを減額して30万円を報酬とする弁護士もいる。弁護士のクチコミの評判で判断するしかないだろう(この点は医院などの場合と同じである)。

Aについては、特定分野に詳しいという点は、取り扱い事件数が多いという意味、その分野で論文等を書き、詳しいという意味、裁判で勝訴できる意味などさまざまである。法律的に詳しければ、裁判で勝てるというものではないし、うまく事件処理できるというものでもない。法律学者が弁護をしても、経験がなければ事件処理は無理である。特定分野に詳しいことは、他の分野に疎いことや、視野の狭さを意味する場合がある。特定分野に詳しいだけでなく、事件処理に優れているかどうかが重要である。事件処理の能力は、野球選手の投球術や打撃の技術のようなもので、言葉で表現することの難しい技術である。ピッチャーの球が速ければ試合に勝てるというものではないし、ピッチャーの知識で試合に勝てるわけではない。ピッチャーの経験だけで試合に勝てるわけもない。ピッチャーには、球の速さ、変化球のキレ、球質、経験、体力、知識、知恵、度胸、考え方、性格などをすべて含めたものが技術につながる。弁護士も同じである。
 東京などの大都会では弁護士は専門化する場合があるが、地方では専門化するほど同種の事件がない。例えば、欠陥住宅事件などがそうである。私は、20数年間で、欠陥住宅事件を約10件扱ったが、何十件も扱う弁護士は日本中でも多くないだろう。かつて、私は、広島過労死問題研究会の事務局次長をしていた時期があるが、扱った過労死事件は3件程度しかない(オタフクソース事件、広島テレビ事件など)。それでも、広島では「多い」方である。当時、マスコミの取材を受けることが多かった。
 他方で、破産、過払金、離婚、刑事事件などは、ほとんどどの弁護士が多く扱っており、どの弁護士でも扱うことができる。しかし、その中でも、相対的な詳しさの程度が弁護士によって微妙に異なる。このあたりになると、弁護士を選択する者の好みの問題になるだろう。時々、「離婚専門の弁護士」、「刑事専門の弁護士」を探す人がいるが、これは「風邪専門の開業医」、「胃がん専門の総合病院」を探すようなものである。これは好みの問題だろう。
 医療過誤事件などは専門化しやすいが、医療過誤訴訟は日本では年間1000件以下であり、大都市の裁判所でなければ扱わない。医療過誤の相談はあっても、医療過誤訴訟は、日本では、「ない」に等しい。行政訴訟も日本で年間3000件以下でありく、三次の裁判所では扱わない。行政事件は地裁本庁でしか扱わない。これは、「できるだけ行政訴訟を起こしにくくする」ための法的なテクニックである。その結果、普通の人は行政訴訟を起こしにくい。戦前は、行政訴訟は日本では東京でしか起こせなかった。私は今まで医療過誤訴訟を1件、保全処分事件を2件、行政訴訟を1件、行政審査請求事件を2件扱ったことがある。医療過誤事件、行政事件、労働事件、国賠事件などは、日本での事件数が少ないために、地方では弁護士が専門化しにくい(人口あたりの行政事件数は、日本はドイツの700分の1である)。

Bについては、裁判で勝つためには、弁護士に知識や経験が必要だが、それらがあれば裁判に勝てるということではない。裁判に勝っても満足度が高いとは限らない。迅速に処理する事件で、裁判に何年もかけて、当事者が亡くなった後に、裁判で勝ってもあまり意味はないだろう(訴訟中に高齢の当事者が亡くなるケースは珍しくない)。5年かけて離婚判決を得るよりは、すぐに金を払って協議離婚できる方がよいという場合は多い。裁判で勝訴できる能力が、示談や和解の能力を意味するわけではない。事件処理に3年かけて、300万円の経済的利益と60万円の弁護士費用をかける場合と、6か月の事件処理で250万円の経済的利益と25万円の弁護士費用をかける場合で、どちらが満足度が高いか? 裁判で負ければ利益は0円であり、示談や和解で少しでも金を得ることができればその方がよい。弁護士の事件の筋を見通す力が重要だが、これは、その分野で論文等を書き、詳しいということや、裁判で勝訴できる能力とは異なる。一般的には、弁護士の事件の筋を見通す力、紛争解決の能力は、取り扱い事件数と比例することが多いが、必ずしもそうでもない面もある。

 過疎地の弁護士は、あらゆる法律問題を処理できることが求められる。しかも、個々の分野に詳しいことも必要である。弁護士に依頼する者は、「自分が抱えている問題にもっとも詳しい弁護士」に依頼したがる。生死にかかわる手術を医師に依頼する時、患者は、もっとももすぐれた医師に手術を依頼したいのと同じである。それで、金のある患者は都会の病院に入院したがるが、都会の医師にも当たり外れがある。田舎の病院でも都会の大病院でも新米の若い医師がいる。新米医師は、誰でも必ず手術経験を積みながら、技術を身につけるのである。大学病院などの方が若い医師の比率が高いかもしれない。若い医師でも優秀な医師は多いが、経験不足からミスをするかもしれない。ベテランの医師でもミスを犯す場合がありうる。地方病院のベテランの医師と、都会の大病院の若い医師と、どちらで手術を受けたいか?
 「あらゆる法律問題についてもっとも詳しい」ことは、不可能だが、依頼者はそれを望むものだ。弁護士の努力目標ということだろう。


2011年1月16日
弁護士増加の影響
 東京の法律事務所が三次で借金に関する法律相談会3日間開催するという新聞チラシが入っていた。相談の対象は借金のみ。過払金請求事件や破産事件などの受任のための相談会である。わざわざ東京から三次まで事件の受任をしに来るのは、よほどの理由があるのだろう。
 最近、三次地区の弁護士と司法書士が増えた。司法書士会なども三次や東城町で無料相談会を開催している。  
 これに対し、三次地区の弁護士は、3月に東城町で無料法律相談を実施する予定であり、できればこれを定例化したいと考えている。安芸高田市や他の町村でも無料相談会の開催を考えている。昨年から、備北法律相談センターの相談担当弁護士を三次地区の弁護士だけで担当するようにした。安芸高田市社会福祉協議会の法律相談についても、今後、三次地区の弁護士だけで担当することになった。
 弁護士の業務の拡大の努力は必要だが、それでも全体としての弁護士需要は減少傾向にある。
 弁護士の数が増えても、弁護士を利用しやすくなったという感覚は市民になく、以前と大差ないだろう。医院の数が増えれば便利になるが、それは医療保険制度があって、誰でも医療を利用しやすいからである。弁護士の数が増えれば、選択の幅が増えるが、債務整理、離婚、交通事故などの一般的な事件であれば、どの弁護士に依頼しても大差ない。経済的に弁護士に依頼しにくい人にとって、弁護士の数は関係がない。

 弁護士が増えれば訴訟が増えると感覚的に考える人がいるが、人間の感覚は実にいい加減なものである。そのようなことを述べた学者もいる。しかし、実際は、弁護士の数が増えても訴訟事件数は減少している。医療過誤事件は日本で年間1000件以下しかなく、医療過誤訴訟の確率は宝くじに当たる確率よりも低い。年間1000件以下という数字は、1億という人口から見れば、「ほとんどない」に等しい。しかし、巷では、「弁護士の数が増えると、医療過誤訴訟が増える」と信じられている。行政訴訟も日本で年間3000件程度しかなく、制度として考えた場合、行政訴訟はないに等しい。



2011年1月3日

 同窓会のことなど
 中学校の同窓会に出席。東広島市(旧賀茂郡高屋町)立高屋中学校。1学年160人中24名が出席。中学校卒業時までに生きた期間15年をはるかに超える40年の人生を経ているのだから、同窓会にまったくの別人がいてもおかしくない。時間が経てば人格も変わる・・・・

                      

 同窓会で同級生から、当時親友だった花井一夫君の所在を尋ねられた。彼の兄の花井一典さんは北海道大学の哲学の教授をしていた。僕は小学生の頃から、花井一典さんを知っている。花井一夫君の家は僕の家から500mくらいの距離であり、彼の家に泊まったことがある。
 大学に入った頃、花井一典さんのアパートへ行き、何度もおごってもらったことがある。花井一典さんにフランス語の参考書を買ってもらったが、不勉強な僕は、その参考書を開くことなく、たぶんそのまま古本屋に売ったような気がする。後で、花井一典さんが7〜8か国語をマスターしたことを聞いた。当時、花井一典さんは東大の大学院に在籍し、博士論文がなかなか書けないと言っていた。当時、ラテン語でイリアスなどを読んでいると聞いて、すごい人だと思った。僕が知っているのは、25歳〜26歳くらいまでの花井一典さんである。その後は会っていない。
 その花井一典さんは2010年8月に癌で亡くなった。享年60歳。僕の故郷に関係した思い出の1つが消えた。花井一夫君はお兄さんの死を知っているのだろうか。彼の両親はいずれも既に亡くなっている。歳月の経つのは早い。

 たまたま、インターネットで検索していたら、高校、大学の同級生の田部美博君が、4前前の2007年に亡くなっていることがわかった。享年、51歳。(財)日本都市センター研究室長という肩書になっていた。東大などで非常勤講師や客員教授などもしていたようだ。彼は旧自治省(総務省)に入省した。田部美博君とは大学の1年の頃、一緒に映画を見たり、他の大学の学園祭に行ったりした。大学卒業後、疎遠になっていた。卒業後、彼と会うことはなかった。30代の頃、僕が仕事を放り出して登山に熱中している頃、彼は、仕事のうえで着々と実績を積んでいたようだ。残念である。
      
                        
2011年1月1日
新年
 とうとう2011年。
 何とか55年間生きることができた。10代の頃は、信じられなかったこと。
 30年間山に登っていたのに、今日まで生きることができた。これまた実に幸運なことだ。