調停における利害構造



はじめに
 私は、平成10年から現在まで民事調停委員と家事調停委員をしている。調停委員と調停の当事者代理人の立場はまったく異なる。以下、この異なる立場の経験をもとに、調停のあり方について考えてみた(以下、単に調停という場合は、家事調停と民事調停の両方をさす)。

弁護士の意識と調停委員の意識の違い
他の調停委員から、しばしば、「弁護士が調停の成立に協力してくれない」、「弁護士が当事者を説得してくれない」などの言葉を聞くことがある。弁護士が当事者の利益を実現することを任務とすること、弁護士が自営業者であること、紛争当事者の利益構造、弁護士と依頼者の関係などを理解しなければ、代理人弁護士の行動を理解しにくい。調停の関係者の行動のメカニズムを理解することが、調停を進めていくうえで重要である。
 調停において、調停委員が考える「利益」と当事者の代理人としての弁護士が考える「利益」は異なる。調停委員は第三者的な観点から当事者の利益を考えるが、通常、それは合理性の基準に基づく「利益」である。
 しかし、当事者の考える「利益」は、本質的に主観的なものである。他人の立場では「よい」と思えることでも、当人にとってはそうではないことが多い。例えば、法律家や調停委員は「早期解決のメリット」を当然視するが、ほとんどの当事者にとって、紛争の「早期解決」よりも「解決内容」の方が重要である。解決内容に利益を感じなければ、「早期解決」は意味を持たない。また、解決が遅れてその間の遅延損害金が増えることを期待する者や、内容に不満な解決をできるだけ引き延ばしたい者もいる。訴訟で何年もかかった段階では、「早期解決」は現実味を持つが、調停の段階では、「早期解決」は当事者への説得力を持ちにくい。
 また、金銭=利益と考える人が多いが、感情的対立を伴う土地の境界争いなどでは、金銭的な解決は当事者にとって無意味なことが多い。調停委員が当事者に、「あなたにとって○○の利益があるから、合意したらどうですか」と言っても、利益かどうかに関する当事者の価値観が違えば、水掛け論になる。
 宗教対立や民族対立に基づく国際紛争では、それぞれの利益と価値観が多元的であることが紛争の根底にある。このような利益と価値観の実現は、関係者にとって「正義」であることが多い。法的紛争も国際的紛争も、程度の違いはあるが、本質は同じである。司法の場では、裁判所の価値観が支配しやすい。 
 人間は誰でも、譲歩することに何らかの「利益」を感じなければ、譲歩しない。ここでいう「利益」は経済的なものと心理的なもの双方を含み、人によって判断の基準になる価値観が異なる。
 現実を認識することが問題の解決の出発点であり、調停における対立の構造を理解することが重要である。また、調停委員が当事者や代理人弁護士の意識と行動のメカニズムを知ること、逆に、代理人弁護士が調停委員の考え方を理解することが、調停を進めるうえで必要である。

弁護士、当事者、調停委員の関係
 ほとんどの調停事件に弁護士が代理人としてついていない。弁護士が代理人になる調停事件は、一定の金銭的対価のある事件と対立の激しい事件が多い。一般に、調停のあり方に関する議論は、調停に弁護士が代理人としてつかないことを念頭に置いてなされることが多い。
 弁護士が調停事件の代理人になれば、調停での合意が得やすくなる場合もあれば、逆に合意が難しくなる場合もある。調停委員の立場では、財産関係の複雑な事件を除き、調停を進めるうえで必ずしも代理人の弁護士は必要ではない。弁護士が代理人になると、調停がやりにくくなると感じる調停委員もいるようだ。弁護士が当事者の代理人になるのは、あくまで当事者の権利の保護のためである。
 調停において、申立人、相手方、裁判所の利害はそれぞれ異なり、それが調停の出発点である。
 弁護士は、@社会的正義の奉仕者と、A依頼者の利益を実現する自営業者という2つの顔を持ち、弁護士のこの2面性がしばしば人々に誤解を与える。@は、社会的正義のために無償で奉仕する弁護士のイメージを与えるが、弁護士の日常業務のほとんどはAに属する。
 児童虐待事件などでは、加害者の親の代理人弁護士は親の主張を擁護する。子供の取り合いの事件では、調停委員は子供の福祉の観点から考えるが、弁護士は依頼者の利益のために行動する。子供の福祉の観点から社会的正義に適っていると調停委員が考える調停案について、@のイメージの弁護士は調停成立に協力して、当事者を強く説得することを期待される。しかし、現実の弁護士は依頼者の利益の観点から行動する。ここでいう依頼者の利益は、前記のとおり主観的なものである。依頼者が調停の成立を望んでいなければ、調停不成立にすることが弁護士の任務になる。このような代理人弁護士の行動を理解できない調停委員が少なくない。
 調停委員の任務は調停での話し合いを進めることにあり、本来、調停で合意するかどうかは当事者の自己決定に委ねられる。しかし、調停において、しばしば、当事者の自己決定よりもパターナリズムが重視される。調停委員が考える「望ましい解決」は当事者にとっても「利益」であり、正義に適っていると調停委員は考えるが、当事者にとって必ずしもそうではない。
 調停委員は、裁判所という権力機関の一員であり、調停委員の発言を「裁判所から言われた」と理解する当事者が多い。裁判官、調停委員、書記官を区別できない人や、裁判所から呼び出されるだけで威圧感を感じる人もいる。弁護士が代理人についていない調停事件では、当事者が法律的なことを正確に理解することに限界がある。法律相談の時に、相談者が調停で同意したとされる調停条項の意味を理解していないケースにしばしば遭遇する。
 調停の申立の意図を把握することが重要である。「調停における合意と説得」(草野芳郎、調停時報176号、75頁)も、この点を指摘している。当事者の立場や意図を理解しなければ、調停の「落としどころ」はわからない。調停申立の代理人弁護士が申立の意図を正直に言うとは限らない。申立の意図を秘匿することが弁護士の守秘義務に含まれる場合、申立人が申立書記載の申立の理由とは別の動機に基づいて申立をする場合などがある。
 調停委員は、代理人である弁護士と調停委員が合意に向けて協力する形が望ましいと考え、裁判所の意向に沿って当事者を説得する弁護士を期待する。しかし、現実の弁護士と依頼者の関係は複雑で微妙である。
 代理人弁護士が調停委員の考えに反対する時、通常、弁護士は依頼者の意向に沿って行動している。しかし、調停委員の目には、弁護士が反対するために、当事者が同意しないように見えることがある。ものごとを現象面から見れば、現象が実体であるかのように見えやすい。離婚や境界紛争などの感情的な紛争において、弁護士が当事者の意思や感情を無視して調停を進めることはありえない。調停委員は、「代理人の弁護士が調停に前向きでないから、調停が進まない」と考えやすいが、弁護士は依頼者の意向に反して行動できない。当事者の意向に反する調停案を弁護士が熱心に説得すれば、当事者は「金を払ってそんな弁護士を雇う必要はない」と考えることがある。
 他方で、経済的な紛争の事件では、当事者が弁護士にすべてを一任することがあり、この場合には弁護士が調停での決定権を持つ場合が多い。
 調停において、弁護士と当事者のどちらに問題解決の決定権があるのかが重要である。それによって調停委員が、弁護士と当事者のどちらをメインに説得をするかが違ってくる。経済的な紛争では弁護士を説得すれば調停が成立することが多いが、感情的な紛争では弁護士を説得してもあまり意味がない。
 時には、依頼者が弁護士に支払った着手金の額や、調停終了後に弁護士に支払う報酬の額が調停や和解の成否に影響することがある。弁護士が当事者を強く説得すれば、弁護士が当事者から報酬をもらいにくいことがある。このような弁護士と依頼者の関係は、裁判所側に見えくい。

当事者の譲歩
 調停において当事者が譲歩するには、それなりの理由が必要である。当事者に訴訟になった場合の見通しを示すことが、調停での譲歩をもたらしやすい場合と、逆効果になる場合がある。
交通事故、貸金、売買、一定規模以上の企業間取引などにおいて、当事者双方が経済的合理性を追及する姿勢があれば、訴訟になった場合の見通しを述べることで調停での合意を得やすい。  
 しかし、感情的な紛争では、訴訟での見通しを述べれば当事者が譲歩するとは限らず、むしろ、逆効果になることがある。離婚調停で、調停委員が一方当事者に、「訴訟になればあなたは負けますよ。調停で離婚したらどうですか」と言えば、多くの場合、それを言われた当事者は、反論し、調停委員との間で激しい議論になることがある。自分が正しいと確信している当事者にとって、調停委員は「正義」の実現の妨害者のように見える。離婚理由を羅列する「説得」では、離婚を拒否する決意を強固にしやすい。「どうせ裁判で負けるのであれば、調停で譲歩した方がよい」と考える物わかりのよい人間は、調停をすることなく協議離婚するだろう。子供の親権の取り合いの事件なども同様である。「子供の親権者としてふさわしくない点」や「審判になれば負けること」を説明すれば、当事者は激しく反発しやすい。当事者と調停委員の間で議論が生じるようなケースでは、当事者は、「調停委員が相手方の味方をしている。不公平である」といった不信感を抱き、話し合いが進みにくい。  
 田舎の土地紛争は人格的な紛争であることが多いので、当事者双方が、それぞれ相手よりも自分が優位に立ったと感じなければ合意しないことが多い。そういう人にとって、訴訟で予想される結果など関係ない。
経済的な紛争と感情的な紛争を区別することが重要であるが、現実には両者が混在していることが多く、経済的な側面と感情的な側面の程度を考える必要がある。
 交互対話方式では、調停委員が、申立人と相手方に話す内容を変えて、当事者の「互譲」を引きだそうとすることが多い。欧米では、このような方式は公正さを疑わせるものとされ、否定的に考える傾向が強い(「民事調停制度改革論」、廣田尚久、信山社、60頁、「和解技術論」、草野芳郎、信山社、40頁)。交互対話方式は、代理人の立場では手続的にフエアーでないと感じることがあるが、調停委員の立場では非常に便利である。当事者の代理人に弁護士がついていれば、交互対話方式でも当事者の権利保護に欠けることはない。
 息子を事故で亡くし、親が損害賠償請求訴訟を起こしたケースがあった。私は代理人として和解するように親を説得したが、事実関係に争いがあり、親は頑なに和解を拒否した。和解期日に、裁判官はその親から2時間話を聞き、「あなたの気持ちはよくわかります」と述べた。すると、その親は「自分の言い分を裁判所に十分聞いてもらったので、和解に応じます」と言ったので、驚いたことがある。すべての和解がこのようにはいかないが、このケースでは、裁判官は「カウンセリングの基本」を実践したのである。この当事者は、後日、「あの裁判官はすばらしい裁判官だ」と言っていた。その裁判官はかなり事件を滞留させて転任していったと聞いているが、最高裁の評価はともかく、調停委員の間では非常に評判がよかった。
 法律相談の時に弁護士が相談者から2時間くらい話を聞いても、最後に、「訴訟で勝てる可能性が低い」と説明をすると、相談者が「弁護士にまったく話を聞いてもらえなかった」と不満を持つことがある。当事者が、「自分の話を聞いてもらいたい」というのは、「自分の言い分を認めてもらいたい」という心理にほかならない。カウンセリングでは相談者の言い分を受け入れるという「受容」と「承認」が必要とされるが(「カウンセリングの技法」、國分康孝、誠信書房、34頁)、法律相談では、弁護士は最後に「法律的な回答」を述べなければならない。この回答が相談者に不利な内容であれば、相談者は「自分の話を聞いてもらえなかった」と考えやすい。
 調停の場合には、調停委員は法律的な回答を言う必要がないので、カウンセリング的な受容が可能である。カウンセリングでは「受容」だけでなく「承認」が必要とされるが、調停で「承認」を行うと、当事者の譲歩が得られにくくなることがある。調停では、「承認」は別として、「受容」は重要である。訴訟上の和解でも「受容」の重要性が指摘されている(「和解技術論」、草野芳郎、信山社、63頁)。この「受容」があれば、当事者と調停委員の間で穏やかな話ができるが、「受容」がない場合には、当事者と調停委員の間で議論になりやすい。調停委員は当事者の話を聞いたうえで、話し合いの方向を当事者に選択させる必要がある。ほとんどの当事者が紛争を解決したい気持ちを持っており、当事者の主体性に依拠することが大切である。
 経済的な紛争では、当事者は経済的に得か損かで考えるので、負けるとわかっている訴訟はしない。しかし、感情的な紛争では、当事者は負けるとわ言われても訴訟をすることがある。訴訟をする目的が、訴訟の勝敗とは別のところにあるのである。金銭的に困っている当事者は金銭的な計算が和解の動機になりやすいが、「裁判にいくら金をかけてもよい。相手に謝罪をしてもらいたい。真相を究明したい」という当事者は、金銭的な和解に応じにくい。
 裁判に対し、その勝敗とは別に、「真相究明」や「制裁」を期待する者が多い。重大な事件に関する判決が出る度に、裁判で「真相究明」がなされなかったことに失望する市民が多い。マスコミも客商売なので世論に迎合的な論調になりやすい。もともと裁判は「真相究明」を目的とする手続ではないが、この点が市民に理解されにくい。現在でも、裁判所に対し大岡越前的な期待を持つ市民は多い。大岡越前的な司法の発想では弁護士は無用である。その結果、日本では、テレビドラマに登場する弁護士がボランティアで「真犯人捜し」をするのでなければ、視聴率を稼げない。
 ラートブルフは法が想定する人間像の重要性を指摘したが(「法における人間」、ラートブルフ、東京大学出版会)、法律は経済的合理性に基づいて行動する人間像を前提としているので、そのような人間像を考える法律家が多い。しかし、現実の人間は必ずしもそうではない。調停や訴訟では、しばしば、経済的合理性を無視して行動する人間が登場する(「和解技術論」、草野芳郎、信山社、64頁も同様の指摘をしている)。離婚、遺産分割、境界争いなどの調停は、しばしば、感情の調整の場になる。人間の感情はもともと不条理なものであり、人間は理屈では動かない。
 当事者の自主的な選択に基づく紛争解決が、ADRとしての調停の本質である。ロックやルソーが考えた、生まれながらにして自由な存在としての人間像はあくまで理念であって、現実の人間はさまざまなものに支配され、自由ではない。人間の意思決定も、経験、感情、偏見、権威、教育、利益、マスコミなどに支配され、厳密には自由ではありえない(「不自自由」論、仲正昌樹、ちくま新書)。「自由な」意思決定はしばしば賢明ではない判断をもたらす。これが、従来、「裁判所や法律家が当事者に代わって決めることが当人の利益になる」というパターナリズムをもたらしていた。これが調停裁判説的な考え方に結びつきやすい。しかし、国民の意識が変わりつつある。たとえ法律家の目には不合理な判断であっても、法律的な説明を受けたうえで当事者がそれを強く望むのであれば、それは当事者が負うべきリスクに属する。人間が生きることは不条理な選択の連続であり、誰もがそのリスクを背負って生きている。
 法律家が「訴訟になれば負ける」、「訴訟になれば金がかかる」と述べて強引に当事者を説得することは、ある種の外的強制である。外的強制は、たとえそれが「賢明な判断」だとしても、司法に対する信頼に結びつかない。価値観の多元性は、「賢明」かどうかの判断を当事者に委ねる。
 離婚調停では、当事者が過去と決別する決断をすることを援助することが必要になる。「自分のやりたいこと」のある人は、離婚の決断が早い。アインシュタインやピカソは何度も離婚しているが、彼らの離婚の決断は早かったはずだ。未来の展望がなければ、過去との決別は難しい。離婚調停では未来に対する展望を語ることが重要である。
 当事者をある程度説得しても合意が無理であれば、訴訟や審判に委ねるしかない。裁判所の価値観と当事者の価値観の間の隔たりを、十数時間の調停で埋めるのは難しい。また、世の中には判決や審判の結果に納得しない人や、「法律が間違っている」と考える確信犯がいる。その種の和解協議に何年もかけるのは時間、労力、税金の無駄である。自分の意思では過去と決別できない人でも、強制力の後押しがあれば、意外と簡単に過去と決別できることが多い。
 ドイツでは、裁判官の和解での説得に「迫力」がなく、日本の法律家の目には「呆れる」ほどあっさりと裁判官が和解を諦めるようだ(「和解技術論」、草野芳郎、信山社、36頁)。そこには当事者の主体性に関わる日本とドイツの文化の違いがあるように思われる。

調停に対する国民の意識
 従来、弁護士は、訴訟を中心に考える傾向があり、調停は弁護士の主たる業務ではないという意識が強かった。調停は弁護士に依頼されない事件が多く、それほど報酬を見込めないことが多い。また、裁判所が職権的に審理する審判事件では、弁護士が果たす役割が低い。
 裁判官も訴訟が裁判官の主な仕事だという意識が強い。また、ほとんどの裁判官は調停に同席せず、調停での話し合いの実情を知らない。3時間かけた調停の話し合いの内容を経験するには、3時間かかる。「生の経験」が重要である。
 歴史的に見れば、調停は市民の紛争解決のうえで重要な役割を果たしてきた。明治8年の第1審の民事訴訟件数は32万5837件であり、多すぎる訴訟への対策として、明治政府は勧解(調停のような制度)の制度を作った。明治16年の勧解の件数は109万4659件だった(明治16年の民事訴訟件数は23万9675件)。当時の日本の人口は3000万人程度であり、司法を利用する人が多かった(「日本の法を考える」、利谷信義、東京大学出版会、12頁)。ちなみに、平成21年の民事調停の新受件数は10万8611件、家事調停の新受件数は13万8240件である。この事態に驚いた明治政府は明治23年に勧解の制度を廃止し、民事訴訟に印紙制度を導入した。その結果、勧解がなくなり、訴訟件数が大幅に減少した。
 その後、社会的な需要に伴い、大正11年の借地借家調停法、大正13年の小作調停法などによる民事調停の制度ができ、昭和14年に人事調停法による家事調停制度ができた。調停は、権利義務の関係ではなく、情義、温情、道義に基づいて紛争を解決するものとされ、紛争を法律に基づくことなく素人の常識に基づいて解決するために、法律家ではない調停委員に調停が委ねられた(当時から、裁判官は調停にほとんど同席しなかったようである)。
川島武宜は、日本人の権利意識の弱さが、調停において権利義務関係ではなく、「和の精神」に基づく解決を促したと述べるが(「日本人の法意識」、川島武宜、岩波書店)、それだけが、調停が利用される理由ではないだろう。調停制度ができた当時の法律の内容は、公平、正義、平等をもたらさないことが多かったために、法律に基づく解決がしばしば社会的弱者に対し過酷な結果となることが多かったという事情がある。例えば、当時、小作争議に関して、「訴訟による争議解決の妥当性に対する深い疑問」があった(「民事調停と和解の研究」、小山昇、6頁、信山社)。地主に有利な法制度のもとでは、訴訟になれば地主に有利な判決が出る。また、小作調停を法律に基づいて行ったのでは、地主に有利な調停が行われやすい。当初、小作調停制度に対し、地主側は歓迎し、小作人側は反対していた(「日本人と裁判、川嶋四郎、法律文化社、161頁)。そこで、調停において、法律に基づくことなく、情義に基づいた解決が必要になったのではないかと推測される。
 戦前には、「法規が不合理な場合は、調停が原則になる」との主張さえあった。逆に言えば、法律の内容が正義に合致していれば、調停において法律と異なる内容の合意をすることは正義に反することになる。
 現在、調停が利用されるのは、@調停前置主義がとられていること(家事調停など)、A訴訟に較べて費用がかからないこと、B訴訟よりも話し合いによる解決が適した事件があることなどがその理由だろう。
 弁護士としての経験では、例えば、10万円の貸金の返還請求の相談があれば、費用的に受任するメリットがないので、本人申立で調停をすることを勧めることが多い。また、法律扶助基準を超え、どうしても弁護士費用の分割払ができない人に、本人申立の調停を勧めることがある。また、相手が無資力であることが明らかな人に対する請求のように、回収の見込みのない事件では、相談者は弁護士費用をかけるつもりがない。そこで、本人申立で調停をすることを勧めることがある。かつて、弁護士費用を負担できる人は弁護士に債務整理を委任し、弁護士費用の負担をしたくない人が、本人申立で特定調停の申立をする傾向があった。
しばしば、「日本人には互譲の精神があり、調停を好む」と言われるが、この点は検証されていない。経験から言えば、訴訟を敬遠する人は調停も敬遠する傾向がある。つまり、裁判所や司法を嫌う人は、調停もある種の裁判のようなイメージがあり、敬遠する。他方で、自分の権利を実現したいと考える人にとって、調停でも訴訟でもどちらでもよいことが多い。
 最近、調停の当事者に互譲の観念が衰退し、互譲から権利へという意識の変化のあることが指摘されている(「互譲の衰退」、鈴木康久、調停時報163号、80頁)。人間の意識は社会的な関係を反映する。市場経済が浸透すれば、人間の等価交換的な意識が強まる。人々の生活を法律が規律する場面が増えれば、人間の権利、義務関係に関する意識が高くなる。
 「互譲の精神」や「日本人は話し合いによる解決を好む」という発想は、多分に人々の願望と裁判所の都合に基づく面がある。前記のように、明治8年当時、人口3000万人の日本で1審の民事訴訟件数が32万5837件あったことを考えれば、「日本人は話し合いによる解決を好む」ということは当てはまらないだろう。
 
調停のあり方
 かつては、調停委員に対し「正しい基本の法感覚は必要であるが、実定法の技術的な知識は要求しなくてよい」という意見があった(「民事調停と和解の研究」、小山昇、56頁、信山社)。しかし、現在では、調停は素人の常識に基づいた解決であればよいという考え方は、国民から受け入れられない。現在では、調停委員にさかんに法的知識の研修等が行われているが、法律の知識のないことで苦労する調停委員は多い。もともと、法律の素人である調停委員が法律に基づいた調停を行うことに限界がある。この問題は、調停に、裁判官、代理人弁護士、調停官のいずれかが同席すれば解決される。そうすれば、法律の素人の調停委員は、法的知識以外の場面で安心して自分の能力を発揮できる。
 欧米でも部分的に調停制度があるが、その多くは裁判官が行う調停である。法律家が行う調停でなければ、司法と呼ぶことはできず、法的な正義は実現できない。それが先進国では一般的な考え方だろう。フランスには、法律家以外の者が調停人を務める調停人制度があるが、これは社会の平和を実現するための司法外の制度とされている(「民事調停と和解の研究」、小山昇、236頁、信山社)。
司法としてのADRは調停の専門家や法律家が行うことが前提である。ADR はAlternative Dispute Resolutionの略であり、「代替的紛争解決」と訳すのが正確である。代替的というのは、「裁判の代替」という意味である。ADRを「裁判外紛争解決」と訳したのでは、裁判の代替という意味が表示されない。ADRは、裁判の強制力ある公正な解決を背後に持つからこそ意味を持ち、裁判と切り離された制度ではない。ADRでは、裁判での解決の見通しを前提としたうえで、法律家や専門家が話し合いを進めることで、司法的な解決を実現できる。
 あるフランス人の学者は、日本の調停委員が徳望良識の法律の素人である理由が理解できなかったそうだ(「民事調停と和解の研究」、小山昇、243頁、信山社)。ここで問題となるのは、「徳望良識」と「法律の素人」の2つの点である。法に基づいて紛争を解決するという意味では、調停に法律の専門家が立ち会うべきである。また、司法に市民の意見を反映させるのであれば、調停委員は陪審員のように一般市民から選出されるべきだろう。なぜ、「徳望良識の法律の素人」なのか、その点をフランス人学者は理解できなかった。また、民事調停法1条にある「条理」の意味をフランス人学者は理解できなかった。条理をフランス語に翻訳することができず、「JYORI」と記述して紹介したそうだ。
 「裁判官不在の調停」(「家事調停論」、高野耕一、信山社、228頁)が言われてから久しい。その理由としては、@絶対的な裁判官の数が不足しており、裁判官が調停に同席することが物理的に不可能であること、A裁判官が調停での話し合いに必ずしも熟練しているわけではないので、民間人である調停委員に調停の進行を任せた方がよいという考え方が強いことがあげられる。
 上記Aに関して、「調停は調停委員が進めた方がよい。裁判官が調停に同席しても調停はうまくいかない」と考える調停委員が少なくない。調停に不慣れな裁判官が多いのは、裁判官が普段調停に同席せず、調停での話し合いに立ち会う経験がないからである。「経験」は、時間をかけなければ得られない。現実には裁判官の数が大幅に増えない限り、裁判官が調停に同席するのは無理である。
 本来、ADRとしての調停では、経験や法的知識だけでなく、調停官として専門的に訓練を受けることが必要であるが、日本にはそのような養成システムがない。
 開業弁護士は事務所経費がかかるので、年金などの固定収入がなければ、現在の調停委員の報酬額では多くの調停事件を抱えることが難しい。東京では弁護士などの法律的な知識のある調停委員や調停官(非常勤裁判官)の数が多く、調停官制度に対し、「調停に2人の船頭はいらない」といった意見がベテランの調停委員から出ることがある。地方の小さな裁判所では、法律的知識のある調停委員の数が少なく、調停官制度の対象にならない。東京と地方の間の格差が大きいが(「調停法学のすすめ」、石川明、信山社、109頁)、この点は司法に限ったことではない。調停官の制度は、調停の充実という点よりも、弁護士任官の推進という点の方が重視されている。また、弁護士であれば円滑に調停委員や調停官ができるわけではなく、それに応じた経験や訓練が必要である。
 制度のあり方によって、紛争の解決のあり方が変わる。アメリカには裁判所外の協議離婚の制度がなく、離婚はすべて裁判所を通さなければならないことが、離婚訴訟の多さをもたらしていると考えられる。フランスの農民が調停をよく利用すると言われているが(「民事調停と和解の研究」、小山昇、236頁、信山社)、これは調停に費用がかからないからだろう。明治16年に勧解(調停)が100万件以上あったのは、勧解に費用がかからず、利用しやすかったからだろう。その後、民事訴訟件数が減少したのは、訴状に印紙を貼らなければならなくなったためだと考えられる。
 その国の司法制度を決定するのは国民である。しかし、日本では国民の司法に対する関心が低く、明治以降一貫して、国民ではなく司法を運営する側が司法制度を決定してきた。従来の調停は、当事者の自己決定を重視する司法的紛争解決手続というよりも、条理とパターナリズムに基づく話し合いの結果に司法的な強制力を付与する制度だった。それが国や司法関係者にとって都合がよかったことが、日本型の調停制度を定着させたのだと考えられる。しかし、日本でも国民の調停に対する意識が変化しつつある。今後、調停がその機能を果たすためには、専門的な調停人や法律家が調停を進めることと、当事者の主体性的な意思決定を重視することが必要である。
(2012年3月、広島弁護士会会報92号)