いい加減さの効用


 裁判の前提としての「事実」を「知る」、「見る」、「憶えている」などと言う時、「事実」が客観的に存在しているように思いがちである。しかし、現実の時間は刻々と変化し、「事実」はすべて瞬間的に生じ、瞬間的に消える。継続した事実状態は瞬間的に消える事実が積み重なったものに過ぎない。したがって、事実はすべて過去の出来事である。裁判での証言は人間の記憶を再現する作業であり、法律相談や依頼者との打ち合わせ、裁判での主張、立証など弁護士の仕事のほとんどは、法律の解釈を除き人間の記憶が前提になる。人間の日常生活そのものが記憶のうえに成り立っている。もし、人間に記憶できる能力がなければ、「何かをしよう」と考えてもそれをすぐに忘れてしまい、何をすればよいかわからなくなる(これは作業記憶と呼ばれる)。
 感覚記憶は数秒、短期記憶は30秒程度しか保持できず、長期記憶については長期間正確に記憶していることはかなり難しい。たとえば、1か月前のその日その時間に何をしていたかを記憶している人はほとんどいない。通常は他人からの情報、勤務先のスケジュール、手帳の記載などを参照して、「思い出す」のであるが、それは様々の情報をもとに1か月前の出来事を再現するのであって、再現したものはあくまで「加工品」である。
被害者や証人が過去の出来事を正確に供述できるのは、記憶を再現する作業を行うからである。昨日、自分がどこへ行ったかという程度の記憶であれば、記憶の再現は容易だが、そこで自分が見たことを再現するとなると、途端に再現作業は困難になる。まして、1年前の記憶を再現することは至難の作業である。
 記憶は、映像、音、言葉、感覚などの情報を対象とするが、音や感覚の記憶は変化しやすい。音そのものは存在せず、存在するのは空気の振動であり、音は人間の感覚に過ぎない。したがって、同じ空気の振動に対し各人が感じる音は異なり、その記憶にも個人差がある。感覚の記憶は本質的に頼りない。
 記憶の再現過程でしばしば理屈が用いられる。記憶している情報は基本的に断片的なものであり、人間は無意識のうちに、記憶している情報の隙間を推論で補う。例えば、1か月前のその日、出勤カードで会社に出勤していることが確認されると、「その日の朝、いつものように午前7時に起きて、いつもの電車に乗って会社に出勤しました」という供述調書が作成される。しかし、その日、朝起きてから会社に行った過程をすべて克明に記憶しているわけではない。
 また、記憶の再現過程で心理的なものが強く影響し、期待感が記憶に大きく反映すると言われている。予期には、文化的予期、経験からくる予期、個人的偏見、一時的予期があるとされる(注1)。記憶に対する質問方法として、個別的に質問をする方法(制限話法)、自由に語らせる方法(自由報告形式)、いくつかの選択肢から選択する方法(選択報告形式)がある。自由報告形式がもっとも正確に記憶の再現ができるが、思い出せる量は少ない。選択報告形式はもっとも多くの記憶を引き出せるが、記憶の誤りがもっとも多い(注2)
 人間の意識は常に変化しており、記憶も時間の経過とともに変化する。山や川がいつも同じように見えても常に変化しているのと同じであり、人間の意識や身体を含めた万物は流転する。「変わることのない記憶」とは、常に変化している人間の記憶が、ある時点と他の時点で一致していることを意味するに過ぎない。記憶が再現される時に、どのような手段や過程を経て再現されるのかが重要であり、その点が検証されなければならない。記憶の再現過程を記録しておく必要があるのは、そのためである。
 記憶の再現方法によってはまったく別の記憶ができることがある。これは、一般に、見間違い、記憶間違いなどと呼ばれる。アメリカで、7人の目撃者が事件直後に同一人物を犯人だと特定したにもかかわらず、その後、別の真犯人が犯行を自供した事件が紹介されている(注3)
 記憶のいい加減さの程度は、教育、職業、生活環境、性格などの個人差が影響するが、記憶時の状況が大きく関係する。記憶には、獲得、保持、再現(検索)の3段階があり、記憶はどの段階でも変形する。
             
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 人間の認識の過程は、目で見たり耳で聞いた内容をそのまま認識するわけではない。人間の網膜に映った情報は複雑な視覚経路の中を伝達されていく間に、自分にとって意味のある情報に変換される(注4)。網膜に映った映像そのものは意味のない情報であり、自分にとって意味のない情報は脳に伝達されないか、伝達されても脳が認識しないことがある。関心がなかったり、内容を理解できなかったり、あるいはそれを受け入れる心理的受容がなければ、たとえ見ていても認識としては「見えない」ことがある。「心で見なければ、かんじんなことは目に見えない」(注5)というのは、単にメルヘンの世界のことではない。
 また、人間が目で見た情報が変換されて認識されることから、人によって同じものを見ても違って見えることがある。同じ絵を見ても、見る人によって別のものが見えているのだが、他人が見ている内容を認識することはできない。一般に専門的な知識や経験があるほど、より多くのものが見える。
 同じ犬を見ても、厳密には各人が認識する内容は同じではないが、「犬」という記号化された言葉を使用することで、共通の認識を得たと考える。しかし、具体的な点では「あの犬は毛が茶色だった」、「いや、黄色だった」など「犬」の認識内容が異なっている。色については、色そのものは存在せず、存在するのは光の波長であり、人間が光の波長を色として感じているだけである。人間の認識には個人差があるので、同じ光の波長の反射を見ても、厳密には各人が認識する色は同じではない。

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 人間の行動には、痛みに対して咄嗟に手を引っ込める反射のような無意識的なものと、意識的なものがある。神経科学者のアントニオ・R・ダマシオは、「情動」は意識に依存せず、人間は「情動」を意図的にコントロールできないと述べている(注6)。「情動」が神経的に表象されたものが「感情」であり、人間は「感情」に基づく行為をコントロールできるだけである。加害者が「なぜ、こんなことをしたのかわからない」という事件は、激しい「情動」が意識されないまま衝動的な行為をもたらすのかもしれない。行為者が情動を意識していなければ、自分の行動を制御することが難しくなるだろう。無意識的な行為でも刑事責任における故意があるとされることが多いが、他方で、夢睡眠中の行為のように意識のあることが直ちに故意を意味するわけではない。「死」が生物学的には時間的・内容的な連続性を持つ過程であるのと同じく、故意は時間的・内容的な連続性を持つ意識過程であるが、人間の意識のメカニズムはよくわかっていない(注7)
 判断は、欲求、知識、経験、推論、価値観などに基づいてなされる。「証人の供述は具体的で詳細であり、信用できる」とか、「証人は敢えて虚偽の供述をするはずがないので、その供述は信用できる」と判断することがあるが、これらの判断は合理的なことも多いが、それが合理性を持たない場合もある。悪意に基づくことなく、具体的で詳細な供述が事実ではないこともある(注8)
 「証人の供述は具体的で詳細であり、信用できる」と考えたとしても、通常は、「証人の供述が具体的で詳細であること」から直ちに「信用できる」と判断しているのではなく、「供述が具体的で詳細であること」以外の諸事情もすべて考慮して判断をしている。しかし、人間がある判断をする思考過程をすべて言葉で表現することは不可能である。人間の論理的な思考は頭の中で言葉を用いて行われるが、言葉で表現できない脳の活動部分がある。そのような脳の活動は感覚的なものであるが、感覚的なものも人間の判断の一部である。経験に基づく判断は感覚的なものであり、それは言葉では表現できないことが多い。
 被告人、被害者、証人の供述や証言の信用性について、理屈だけでなく感覚的な判断が重要な役割を果たしている。人間の確信は、客観的な証拠がある場合でも、それがない場合でも可能であり(注9)、確信は感覚の産物である。アインシュタインによれば、時間は相対的なものであって運動と重力によって「伸びる」(遅くなる)が、これは明らかに、時間が普遍的で確定的なものだという人間の感覚と長年の常識に反する。もともと人間の感覚と常識に科学的根拠はなく、本質的にいい加減なものである。アインシュタインは、「常識とは18歳以前に心の中に植えつけられた偏見の層である」と述べている(注10)
 同一性の判断は、数学の「イコール」と異なり、人間の推測、属性や状況の判断を伴っている。人は、ある千円札と別の千円札を「同じ」だと考えることができるが、あるリンゴと別のリンゴが「同じ」だと考えないのは、「紙幣は人工物なので同じものを作ることができるが、リンゴは自然物なので同じものは存在しない」ことを知っているからである。このように、同一性の判断は無意識のうちにあらゆる知識に基づいた状況判断を伴うのであり、人物の同一性の判断も同様である。すなわち、人物の同一性の判断も、無意識のうちに記憶や判断の文脈、その時の状況などを前提として行われる。その際、これらの知識の影響を排除して純粋に容貌という物理的属性だけに基づいて判断することは不可能である。これらの知識の影響は無意識に生じるので、人物の同一性の判断に物理的属性以外の要素が混入しているかどうかの判断も難しい。この同一性の判断は、基本的に論理的な判断ではなく感覚的な判断である。
 人はだれでも、感覚などの自分に関することは「わかっている」と考えているが、それは、感覚などが意識の支配下にあり、「わかっている」と判断するのは自分の意識だからである。しかし、人間の意識自体が感覚や記憶などの頼りないものによって形成されている。
 感覚的なものは環境の影響を受けやすいという性質があり、感覚的判断は「慣れ」によって簡単に「麻痺」する。「慣れ」によって、物事は普段知覚されるように知覚され、それに反することは見過ごされることがある。見過ごした結果が顕在化する場合は稀で、むしろ、「見過ごした」ことに気づかないことの方が多い。感覚は人間の生育過程や生活環境、経験、社会経済状況、その場の雰囲気などに影響され、本質的に頼りない。アメリカでは陪審員の判断が証人の証言時の癖や態度、雰囲気などに影響されやすいことが指摘されているが、陪審員に特有の問題というわけではない。

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 意識や感覚は言葉が生まれる前から存在するが(注11)、高度な思考は言葉を用いて行われる。犬は言葉を持たないので、「死」を感じることはあっても「死」について考えることはない。しかし、人間は「死」という言葉を知っているので、「死」について考え、悩む。ブータン語(ゾンカ語)には「幸福」や「不幸」という言葉がないので、かつてのブータンの人々は「不幸」がどういう状態なのか理解できなかった。逆に言えば、言葉が人間の思考を(その結果、行動も)限界づける。勾留、取調、証拠、裁判、自白、被疑事実、検察官、弁護人、起訴、供述調書などの言葉を理解していない被疑者は、自分がとるべき行動を考えることが難しい。
 言葉によらない思考はイメージによることになるが、人間が言葉に頼らずにイメージできるもの(例えば、映像、音声、痛さなど)は過去の経験によって規定され、過去に経験したことがないものは、想像することはできても正確にイメージできない。裁判の経験がなく、テレビや映画などで裁判を見たことがまったくなければ、裁判のイメージを形成できない。通常は、ほとんどの者に裁判に関する雑多な知識が少しはあるので、「言葉」で裁判の説明を受ければある程度のイメージを形成できるが、認識の程度に大きな個人差がある。
 また、知覚や記憶そのものが言葉を媒介として行われる面がある(注12)。例えば、本人訴訟で、「原告」と「被告」、「債権者」と「債務者」の区別ができなければ、法廷での会話が記憶に残らないことがある。本人訴訟の当事者に、「裁判の時、よくわからないまま座っていたら、誰かが難しそうなことを話していました」という程度の記憶しか残らないことがあるのはそのためである。言葉で「分ける」ことは「分かる」ことに結びつくが、「分からない」ことは見えにくく、記憶に残りにくい。意識と記憶は言葉によって強化されるのである。同時に、言葉でラベル付けされたものに関する記憶の再現では、逆に言葉によって記憶が形成される傾向がある(注13)
 言葉による表現は本質的に「現物」を抽象化する。例えば、日常生活のうえで、「犬」という言葉は、「犬とは犬科のけだものである」という犬の定義の意味で用いられるわけではない。ほとんどの人は「犬」という言葉に対応する多くの情報を記憶として持っていて、一定のイメージに基づいて「犬」という言葉を用いる。しかし、「犬」という言葉は犬の属性が切り捨てられ抽象化されている。また、「恐い」という言葉は複雑極まる人間の多様な感情を抽象化、単純化する。交通事故の被害者が加害者に対し少し強い口調で損害賠償請求をすると、加害者が「被害者から脅された」といって弁護士に相談することがある。また、訪問販売などで「販売員から買うように要求され、恐かったので買いました」という時の「恐さ」はその時の状況に応じて様々であり、微妙な心理の違いを「恐さ」という言葉で表現することは不可能である。
 言葉による表現には「現物」の抽象化があり、それを受け取る人は自分の経験や知識に基づいて言葉の内容を補充しながら認識し、そこに「加工」が生じる。すなわち、他者の「恐い」という言葉を、自分の経験や知識に基づく自分の「恐い」という感覚に置き換えて理解する。そこでは他者の感覚「A」とは別の「A'」が定立されるのだが、他人は「A」を感じることができないので、両者が近似的なものかどうかの判断は不可能である。しかし、両者が異なるという証明もまた不可能なので、同じ言葉を用いれば同じ内容を意味するという暗黙のルールのうえに、社会的コミュニケーションが成り立っている。人の感覚は千差万別であり、「A'」は推論する人の数に応じて、「A'1」、「A'2」、「A'3」、「A'4」・・・・が生じ、これらは厳密には異なる。多くの場合はこれらは近似的であるが、微妙な事案では、同じ言葉を用いて話しても、各人が考えている内容はバラバラという事態が起こりうる。脅迫罪や恐喝罪に関する微妙な否認事件では、しばしばこの点について考えさせられる。「その時あなたはどのように感じましたか」「恐かったです」「どのように恐かったのですか」「とにかく恐かったです」ここでは、感覚とその記憶、言葉とそのイメージが一人歩きをして人間の脳という空中楼閣を飛び交う。哲学者のウィトゲンシュタインは、「思考は言語で偽装する」と書いているが(注14)、言葉で表現できるのは、「言葉で語ることができるもの」だけである。
 「見ること」「聞くこと」「話すこと」「書くこと」は言葉を用いて「現物」を抽象化し、情報化する過程である。「万物は流転する」が、情報化することで「現物」は固定され、扱いやすくなる。ある事実を見た時に言葉によって認識が整理され、認識は時間の経過とともに言葉を用いて整理された記憶になる。それは話し言葉(パロール)で供述するという行為によって整理され、書き言葉(エクリチュール)化することでさらに整理される。話し言葉は言葉の受け手とのコミュニケーションが同時的であるが、書き言葉は隔時的である。書き言葉で整理された情報は、基本的に「現物」とかけ離れたものと考えておいた方がよい。言葉で整理する前の「現物」が重要だが、残念ながら、それは言葉では表現できない。したがって、言葉で情報化された結果よりも、言葉で情報化する過程の記録の方が重要である。

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 フランツ・カフカの小説は、世の中のすべては変化し、明確なものは何もないことを言いたいかのようである。人々が当たり前だと考えていることが、必ずしも当たり前のことではなく、ある日突然、正常が異常とされ、異常が正常とされてしまう社会。自分が正しいと確信したとたんに、その根拠や確信がすべて崩壊していく不可思議な状況。
 カフカの「変身」(1916年)は主人公がある日突然、「虫」に変身するというストーリーであるが、「人間をやめてしまいたい」という心理は、何となく今の社会に通じるものがある。「変身」するのは主人公であるが、同時に周囲の人間の心理や感覚も「変心」する。人間は深い愛情や同情を持っていても、その直後に残酷な行動を平気で行うことがある。これを「不条理」と呼ぶことは可能だが、人間の感覚、心理、感情などは環境が変われば簡単に変わる。長年連れ添った夫婦の一方の愛情が薄れても、人間の心理や感情は変化するのが当たり前なので、腹を立ててはいけないのだ。「不条理」は、「人間性」や「いい加減さ」、「弱さ」を言い換えたものに過ぎない。
 カフカの「審判」(1925年)は、主人公がある日突然正体不明の容疑で起訴され、正体不明の容疑のまま処刑されるというストーリーである。そこで描かれているものは、裁判の不条理ではなく人間が構築した社会の虚構性であり、裁判はその象徴に過ぎない。何かもやもやとした曖昧で無意味な空中楼閣の中に社会が構築され、人々が慌ただしく生き、姿の見えない裁判が進行していく。「みんな作りごとよ」(注15)という小説中のある女性の言葉は意味深い。
 人間の心理や行動が研究され、かなり解明がされたが、それでもほとんど何もわかっていない。アリストテレスの時代と較べて人間の理解がそれほど進んだとは思えず、依然として人間はよくわからない存在である。
 人間の細胞は常に死滅と生成を繰り返しているので、数年で人間の身体は物理的に別人になる。人は長い年月の間に性格や考え方が変わるが、物理的に人間の同一性が失われるのだから当然ともいえる。むしろ、有機体が情報や意識によって「自己」の同一性や安定性を維持するシステムを持っていることは、考えてみれば実に不思議である。「自己」の安定性は意識という、はなはだ頼りないもののうえに成り立っているので、「自己」は些細なことで損壊、拡大、縮小しやすく、それが心疾患や人格障害などの原因になる。
 人間の行動は理屈に基づいていないことが多いので、人間の行動の多くが理屈では説明できない。「何故、犯人でないのに自白したのか」という質問は、「何故、山に登るのか」
という質問と同じくらい愚問である。被疑者は無実であっても自白するような状況に追い込まれたから自白したのである。行動分析学の助けを借りるまでもなく、人間は、理屈で考える将来の利益よりも直面している現実の苦痛から逃れる方を選択する傾向がある。自白時の心理状況を言葉という抽象的手段で説明することには限界がある。
 今の社会は、世の中が整合性と合理性で満たされた予定調和の世界であることを求め、それを担保するものが理屈である。しかし、整合性と合理性に基づいた賢明な行動をとる人間はそれほど多くない。多くの者がその時の気分でいい加減な行動をとって後で後悔したり、あるいは、何かを「考える」文化的・時間的余裕がないために、結果的に常識や感覚に流される。1923年に法学者の末弘厳太郎は、従来の法学が人間の研究を怠り、未知数的な部分の多い人間を「既知数」と考えて、正確な答えを求める傾向のあることを批判している(注16)。法律は人間に適用されるので、自然科学、人文科学、社会科学に基づく人間の理解が必要になるが、それでも人間に関してわからないことが余りにも多い。
 人間がミスや勘違い、物忘れをするのは、人間が生物的な意味でいい加減だからである。しかし、そのようないい加減さは、恐らく人間が生物として生存していくうえで必要なことであり、有機体のシステムとしては整合的である。

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 映画「それでもボクはやっていない」(周防正行監督)の中で、被告人が電車内でいた位置からは手を後ろに引っ込めることができないことを実演して、無罪を主張する場面がある。これに対し、裁判官は、「被告人が手を後ろに引けなくても、上に手を引くことが可能である」と判断して被告人を有罪にするのだが、理屈で考えればいろんな可能性を考えることができる。加害者が狭い場所で手を引く動作が理論的に絶対に不可能だという証明は難しいかもしれない。再現実験も理屈で考える1つの態様である。
 微妙な事実認定に関しては、理屈だけではなく経験や感覚的なものに基づいて判断がなされることが多いのだが、前記のような人間の認識や記憶、言葉を過信することは危険である。しかし、そのことがわかっていても、無意識のうちに記憶や言葉という固定された「情報」に基づいて理屈で考えてしまう。
 養老孟司は、社会は人間の脳が生みだしたと書いているが(注17)、最近の人間の脳と社会は記憶や言葉、理屈に基づいて「ああすれば、こうなる」という解釈を好む。すなわち、ある事実があり、続いて他の事実が起きた場合、現実世界は事実の流れがあるだけであり、物理や化学の法則と違って、因果法則が「実在」するわけではない。現実世界で生起する多くの事実の中から事実を取捨選択して「ああすれば、こうなる」という関係を見つけ出すのは人間の意識であり、因果法則は人間の意識の産物である。離婚事件では相手方の愛情が失われた「理由」があるはずだと考え、雪崩事故ではその「原因」を探そうとする。人間の意識にとって意識できるものがすべてであり、人間の意識は聖書や古事記の世界のように万物を因果法則で支配しようとする。
 人間の判断は記憶、言葉、理屈、経験、感覚によるしかなく、「それらが当てにできなければ裁判などできない」ことになるが、それがカフカの世界である。もとより人間の意識や判断は完全ではありえないが、あくまで現実の人間を前提に考えることが必要である。生身の人間は生物的な意味でいい加減なので、人間の行動についてどんなに緻密な理屈を適用しても、やはり、わからないことが多く、人間の行動を判断することは難しい(広島弁護士会会報85号、2008年に掲載)。


(注1)「目撃者の証言」38頁、エリザベス・ロフタス、誠信書房
(注2)「目撃者の証言」93頁以下、エリザベス・ロフタス、誠信書房
(注3)「目撃証言」15頁、エリザベス・ロフタス外、岩波書店
(注4)「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる」藤田一郎、化学同人
(注5)「星の王子さま」103頁、サン・テグジュペリ、内藤濯訳、岩波書店
(注6)「無意識の脳 自己意識の脳」66、71頁、アントニオ・R・ダマシオ、講談社
(注7)「意識とはなにか」茂木健一郎、筑摩書房
(注8)「証言の心理学」17頁、高木光太郎、中央公論社
(注9)「自白の心理学」60頁、浜田寿美男、岩波書店、「取調室の心理学」58頁、
    浜田寿美男、平凡社、「目撃者の証言」104頁、エリザベス・ロフタス、誠信
    書房
(注10)「時間について」98頁、ポール・デイヴィス、早川書房
(注11)「無意識の脳 自己意識の脳」142頁、アントニオ・R・ダマシオ、講談社
(注12)「わかるとはどういうことか・認識の脳科学」38頁、山鳥重、筑摩書房
(注13)
「目撃者の証言」82頁、エリザベス・ロフタス、誠信書房
(注14)「論理哲学論考」39頁、ウィトゲンシュタイン、岩波書店
(注15)「審判」148頁、フランツ・カフカ、原田義人訳、新潮社
(注16)「嘘の効用」上、56頁、末弘厳太郎、冨山房
(注17)「唯脳論」248頁、養老孟司、筑摩書房、「人間科学」100頁、養老孟司、
    筑摩書房など

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