事実を認識するということ
                     

事実の認識と判断
 私は今まで30年近く登山をしてきたが、些細なミスによって私の知人が何人も山で命を落とした。どんなに知識や経験があっても、人間は認識を間違える。登山における自然の状況や危険性に対する認識上のミスは事故を引き起こし、裁判における事実認定上の誤りは間違った判決をもたらす。危険な登山でも裁判でも、人間の事実の認識の誤りが重大な結果をもたらす点は同じである。
 認識における楽観論は、「知識や経験によって人間の認識能力が高まり、正しい認識に近づく」と考える。従来、日本で、裁判での事実認定は専門家である裁判官の役割だとされてきたのは、このような考え方が根底にあった。
 他方で、「知識や経験があってもなくても正しい認識は難しく、裁判における事実認定は1人の裁判官ではなく、多数の一般市民に委ねた方がよい」というアメリカの陪審制の考え方(「現代アメリカの司法」、浅香吉幹、東京大学出版会、30頁、「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」、コリン.P.A.ジョーンズ、平凡社、175頁など)は、人間の認識に関する懐疑論が根底にある。
 人間の認識過程は、@事実の認識と、Aそれに基づく判断に大別できるが、通常、@とAが同時に行われる。すなわち、人間は五感の作用を通して事実を認識する際、既存の知識や経験則などを用いて判断を行う。例えば、遠方に見える人が走っていることを認識する時、人間や動物の形状、姿勢、動作や、「歩いている場合」と「走っている場合」に関する無数の知識や経験則が用いられ、その物体が人間であり、走っていると判断し、事実を認識する。もし、頭の中に「人」の観念がなければ、網膜に映った映像を「人」だとは認識できない。事実を認識するにはそれに対応した観念が必要であり、それは、人間の誕生以降の経験と知識によって形成される。事実の認識の際行われる判断は、多くの場合、無意識的である。
 登山では、例えば、「懸垂下降」(ロープを使って岩場などから下降すること)を認識するためには、懸垂下降の観念が必要である。しかし、懸垂下降の観念がなくても、「人」、「岩」の観念さえあれば、「人間が岩場から降りている」という事実を認識でき、このような「生の事実」はもっぱら五感の作用によって認識される。一般に「生の事実」を認識するだけであれば、それほど知識は必要ないが、事実の意味を認識するためには、それに見合った観念が必要になる。
 平成12年に文部科学省登山研修所主宰の研修中に起きた北アルプスの大日岳の事故では、日本を代表する登山家たちが講師を務めていたが、講師が、雪庇(せっぴ。稜線に発達する地山から空中にせり出た雪塊)の規模を遠方から見て10メートル程度だと誤認し、雪庇の吹き溜まり部分が外観から見えないために雪庇の上に乗り、雪庇の吹き溜まり部分の崩落事故が起きた。この事故で2名の研修生が死亡し、裁判になった(富山地方裁判所平成18年4月26日判決、判例時報1947号75頁)。講師は過去の登山経験から、「通常の雪庇の規模は大きくてもせいぜい10メートル程度である」という経験則を持っていた。大日岳では雪庇の庇部分ではなく吹き溜まり部分が崩落し事故になったのであり、庇部分は10メートル以下だったと思われる。したがって、雪庇の庇部分に関する限り、上記経験則は妥当する。従来、一般に雪庇の庇部分に較べて吹き溜まり部分に対する登山家の関心が薄く、雪庇の吹き溜まり部分の危険性が認識されにくい傾向があった。もし、講師に登山経験が少なければ、経験則に基づいて判断することなく、可能な限り雪庇に近づかないという選択が可能だっただろう。
 知識や経験の豊富なことや多くの経験則を有することが、この種の事実の認識では役に立たず、むしろマイナスに作用することがある。植村直己(冒険家)、山田昇(登山家)、星野道夫(写真家)、高見和成(登山家)らが、彼らにとって比較的困難度の低い場所で亡くなったのは、豊富な経験と知識がマイナスに作用した面がある。星野道夫は1996年にカムチャッカ半島で熊に襲われて亡くなったが、アラスカで長年、熊と共存した経験は事故の時には通用しなかった。他方で、事故当時、そのような経験のない他の取材スタッフは山小屋に避難していて難を免れた。過去の経験から得た経験則は、過去の経験に類似したケースでは妥当しても、未知の経験に対しては妥当しない。社会的・歴史的事実については、過去の出来事と同じ事実は生起せず、類似していても必ずどこかが異なる。
 事実の認識には知識や経験に基づく判断が伴うが、知識や経験がなくても人間の五感の作用は機能する。「岩場から人が降りている」、「積雪の量」、「雪庇の規模」の認識のようにもっぱら人間の五感の作用によって事実を認識する場面では、人、岩場、下降、量、大きさなどの観念が頭の中にあれば足りる。
 登山ではいろんな現象や徴表から距離、傾斜、大きさ、方角、危険性などを認識するが、それらは現実の登山によって検証される。医者は検査数値や症状などから疾患を認識するが、その認識が正しいかどうかは患者が治癒するかどうかで検証できる。登山や医療では、時には人間の死によって人間の認識上のミスが明らかになる。しかし、裁判では文書や人間の供述を通して事実を認識したとしても、最新のDNA鑑定などによる検証を除き、認識が正しいかどうかを検証できない。認識した内容が正しいかどうかを検証できなければ、「正しく認識する」とか、「人間の認識能力を高める」という発想は意味をなさない。
 人類の歴史は、裁判における人間の認識に関する懐疑を教訓として蓄積し、陪審制を生み出した。「事実を認識するために特別の知識や経験、訓練は必要ではなく、事実の認識に関して裁判官も一般市民も大差ない」という考え方が陪審制の根底にある。

事実の認識と知識、経験の関係
 法的な事実認定は、事実の認識と事実の法的評価から成り立っており、事実を法的に評価しながら事実認定をする。特に、故意、過失、予見可能性、因果関係などの規範的事実については、規範的要素が含まれるため規範的判断が必要になる。法的な事実以外の日常生活上の事実の認識の構造も基本的に同じであり、事実を評価しながら認識をする。
 法的な事実認定をする場合、頭の中に法的事実に関する観念が必要であり、過失の認定では、頭の中に過失の観念を形成し、それに基づいて事実を評価して認識する。人間は言葉で思考し表現するが、観念は心的イメージを含む知識構造であり、言葉だけでは観念を正確に表示できない。観念が記憶として蓄積されたものが知識である。観念や知識を言葉で表示するとき、何らかの「誤差」が伴うことは避けられない。故意、過失、因果関係などについて、言葉で定義をし、まったく同じ事実を認定しても、頭の中の観念が異なれば、それに基づく認識が異なる。人を死に至らしめる行為を事実として認識しても、殺人と傷害致死のいずれを認識するかは、それぞれの観念による。登山という言葉の観念には個人差があり、多くの日本人の登山の観念と欧米での登山(mountain climbing)の観念は異なる。単純な観念は経験に基づいて形成され、単純な観念が複合されて故意、過失、予見可能性、因果関係などの複雑な観念が形成される。
 事実の認識に関して、「五感の作用に基づく認識」と「知識や経験に基づく高度な認識」がある。単純な雪の観念さえあれば、誰でも五感の作用で雪を認識できるが、それだけでは、積雪の意味を認識できない。雪に関する専門的・体系的な知識や経験があれば「知識や経験に基づく高度な認識」が可能になり、雪崩の危険性を認識しやすくなる。
 「岩場から人が降りている」ことの認識は「五感の作用に基づく認識」であるが、それが懸垂下降であること、肩がらみ法なのか下降器を使用した方法なのか、その懸垂下降の安全性や巧拙の認識は「知識や経験に基づく高度な認識」である。「岩」や「人」の観念があれば、「岩場に人がいる」ことは簡単に認識できるが、懸垂下降の観念がなければその人が何をしているかわからない。懸垂下降、ユマーリング(ロープに登行器をセットして登ること)、ロアーダウン(ロープを支点に通して、ロープで確保されて岩場を下降すること)の認識は、頭の中にそれぞれの観念がなければ無理である。
 人間が認識するのは人間の行動や供述、音などの現象であり、現象そのものに意味はない。人間が現象に意味を与え、意味のある事実として認識する。同じ現象を犬が見れば、犬は人間とはまったく異なる意味を現象に見い出すだろう。「岩場に人がいる」という生の事実は意味のない現象であり、「登攀中である」、「休憩している」、「確保中である」、「懸垂下降中である」などの意味を付与するのは人間の観念に基づく。意味を付与されない現象は、おそらく人間が認知しても、ほとんど記憶に残らないだろう。
 観念がなければ人間の行動の意味を認識できないが、意味は文脈の中で認識されるので、認識のうえで文脈が重要である。文脈が異なれば、同じ事実がまったく別の意味をもって認識される。文脈とはその中に経験がはめ込まれる全体的状況をいい(「情報処理心理学入門U」P.H.リンゼイ外、サイエンス社、20頁)、どのような文脈で認識するかは経験に左右される。
遠方から眺めて懸垂下降をユマーリングやロアーダウンと勘違いしたり、クライマーがロアーダウンするつもりなのに、確保者が懸垂下降だと勘違いをして確保を解除するために起きる事故がある。懸垂下降、ユマーリング、ロアーダウンの観念がなければこのような勘違いはありえず、ある程度の知識や経験のあることが、この種の事故が起きる前提になる。知識や経験が事実の認識のうえでマイナスに作用することがあり、過信、思い込み、早とちり、慣れからくるミスなどはその例である。
 素人がレントゲン写真を見ても、医学的知識や経験がないために、通常は異常に気づかない。しかし、医者がレントゲン写真を見て、別の疾患と勘違いをすることがある。「知識や経験に基づく高度な認識」は「五感の作用に基づく認識」が前提であり、これが不十分であれば、いくら高度な知識や経験があっても砂上の楼閣である。知識や経験は事実の認識のうえで有用であるが、知識や経験があっても「五感の作用に基づく認識」が不十分であれば、経験者も素人も違いがない。登山中の道迷いに関して、経験や知識の有無に関係なく迷うことが実験で実証されており(「山岳遭難の構図」、青山千彰、東京新聞出版局、106頁)、道に迷った場合、知識や理屈では解決できないことが多い。それは、道迷いが人間の五感の作用の過誤によって生じることが多いからである。
 過失の観念に法律的に難しい内容を盛り込めば、過失を認定するうえで高度な法的知識が要求され、法律の素人が過失の有無を判断するのは困難になるが、簡略な過失の観念で足りるのであれば、誰でも過失を認定できる。他方で、高度な法的知識があっても、「五感の作用に基づく認識」が容易になるわけではない。本来、市民に適用される法律概念は簡略さが求められるが、研究の対象としての法律概念は高度化、複雑化する傾向がある。民事、刑事を問わず陪審制を採用するアメリカでは、日本のように複雑な法律理論は裁判で用いられないようであり(「アメリカ人弁護士が見た裁判員制度」、コリン.P.A.ジョーンズ、平凡社、182頁)、陪審制が法律概念の高度化、複雑化に歯止めをかけているように思える。

事実の認識と証明
 事実の証明の程度として、「通常人が疑いをさしはさまない程度の真実らしさ」が必要とされ(最判昭和50年10月24日など)、これは英米法でいう「合理的疑いを超えた証明」(beyond a reasonable doubt)と同義と解されている。しかし、日本とアメリカでは、同じ基準を用いても現実の運用は相当異なる。人間には他人の感覚はわからないので、「通常人」は自分の知識や経験から推測するしかなく、それは自分の感覚に近いものになる。したがって、100人の判断者の頭の中には100人の「通常人」が存在する。
 裁判における真相の解明は市民の当然の期待であるが、裁判には、供述などの人為的に加工された証拠という物理的制約、当事者主義、黙秘権、厳格な訴訟手続などの制度的制約、経済力の差や心身の障害などの立証上の格差、そして、人間の認識上の制約があり、真相を解明することは保障されていない。裁判では真実よりも証拠の有無や証拠価値の方が意味を持つのが現実である。状況証拠しかない場合に、どの程度の証拠で「通常人が疑いをさしはさまない程度の真実らしさ」があるかという判断は、人によって異なり、感覚の世界である。事実は人間の頭の中の物差し(観念)次第でまったく異なるものとして認識される。
 「通常人」がフィクションであり、事実認定が「正しいかどうか」を誰も判定できないとすれば、陪審制のように、「市民がこのレベルで殺意があると考える(あるいは殺意を否定する)のであれば、それでよいではないか」という考え方が生まれるのは自然である。ロックに代表される民主主義の思想の根底には、認識の有限性と可謬性を有する生物的な人間像があると同時に、社会的な存在としての人間は認識の誤謬を最小のものにすることができるという人間に対する信頼がある。
 参審制と陪審制を併用するデンマークでは、参審裁判の判決書は日本風に言えば理由の骨子だけであり、陪審裁判の判決書には事実認定に理由の記載はない(「デンマークの参審制・陪審制」日弁連司法改革推進センター外編、現代人文社)。アメリカでは刑事事件でも民事事件でも陪審員は陪審の評議結果に理由を付さないが、刑事の場合は陪審員の全員一致、民事の場合は一定数以上の陪審員の賛成があることが事実認定の最大の「理由」になる。

事実の間接的認識
 法的な事実認定は文書や供述から事実を認識する過程であり、過去の事実を間接的に認識する過程である。日常生活においても書物やテレビなどを通して事実を間接的に認識する場合は多く、日常生活における間接的な事実の認識は、裁判における事実の認識と同じ構造を持つ。本多勝一が「主観的事実こそ本当の事実である」と述べたのは(「事実とは何か」、朝日文庫)、報道における事実の選択の際に人間の主観が混入することを問題にしたのだが、それにとどまらず、言葉や映像による表現とその認識には必ず内容の「誤差」が伴う。
 医者が患者に触り、目で見て炎症や熱の有無を直接確認できるが、頭痛や腹痛の有無は、患者の言葉が介在するので間接的な認識になる。科学的な数値やデータによる認識も数値等による間接的なものである。カントやロックは、経験で認識できるのは「現象」であり、ものごとの「実体」は認識できないと言う。数値やデータは「現象」であり、疾患を数値という抽象的なもので表示すれば疾患の「実体」から遠ざかる。数値やデータと実体の近似性が高ければ数値等に基づく認識の信頼性が高いが、人間は実体を認識できないので、その近似性を判断できない。数値やデータは「客観的」であるとされ、しばしば「学問」を装うが、それが実体や実態を反映しているかどうかの検証が重要である。登山において危険性そのものは目に見え耳で聞こえるものではないので、その時の状況や現象から間接的に認識することになる。危険性が現象として現れれば危険性を認識しやすいが、そうではない場合に事故が起きることが多い。
自分の感覚は自分でわかるが、他人の感覚は当人以外にはわからない。五感の作用を言葉で説明することは難しく、五感の作用を通して形成される観念を他人に正確に伝達することは難しい。また、経験の記憶化は、経験者本人の観念を曖昧にする。
現在の社会は、機械や器具などの人工物に依存した生活がなされ、人間関係が稀薄になる傾向があるために、人間の五感の作用による直接経験の機会が減少する傾向がある。
 人間は経験や感覚に規定されるだけの単なる受動的存在ではなく、思考する存在であり、経験を抽象化して言語化し、さらに言葉を組み合わせて新たな観念を生み出すことができる。人間のこの能動性が高度な文化を生み出すと同時に「現実から遊離した認識」を可能にし、さまざまな問題を引き起こす。観念は経験から形成されるが、抽象化された言葉で表示することで経験との関係が稀薄になる。
 明治になって欧米のmountain climbingの影響のもとに日本の近代登山が始まったが、それまでの日本にmountain climbingの経験はなかった。それまで日本に存在した登山とmountain climbingは形態も思想も異なるが、mountain climbingを「登山」と翻訳したことから認識、観念、思考、思想上の混乱が始まった。また、明治よりも前の日本に権利という言葉が存在しなかったので、福沢諭吉は欧米の権利(right)に相当する言葉として「権義」や「権理」を造語したが(「学問のすすめ」)、権利に関わる経験がなければ、権利の観念の形成は難しい。異なる経験を同じ言葉で表現することは認識の混乱をもたらす。ウィトゲンシュタインは「思考は言語で偽装する」と述べたが、思考だけでなく事実とその認識も言葉で偽装する。言葉と観念はオウムのように現実とかけ離れた虚構の世界を簡単に構築する危険があり、「経験−認識−−検証」という過程が重要である。
 事実の認識が間接的になればなるほど、事実の認識が困難になる。刑事裁判での供述調書や民事裁判での陳述書などの常態化は、事実の偽装に対する人間の正常な感性を麻痺させる。利害関係のない証人(正確に言えば、利害関係のあることが裁判所にわからない証人)でも法廷で嘘を言い、意図的な演技や演出、勘違い、思い込み、物忘れなどがあり、これらの「現象」から事実を推測するのが裁判である。
人間は「現象」を五感の作用で認識するので、裁判における表現の巧拙が影響する。アメリカの陪審裁判は「演出」だと言われるが、日本の裁判も程度の差はあるが似たようなものである。しかし、日本では、裁判が「演出」であることを認めることはタブーとされてきた。裁判、スポーツ、演劇などはいずれもplayであるという見解(「ホモ・ルーデンス」ホイジンガ、中公文庫)は真理の一部をついている。
 裁判における適正な事実認定のためにはそれにふさわしい経験と訓練が必要だとしばしば言われるが、このような発想は日本特有のもので、アメリカではそのような発想は稀薄なようである(「刑事事実認定の基本問題」、木谷明、成文堂、387頁)。
 一般に、間接経験によって得た認識は、直接経験によって検証される。登山において事前に収集した情報に基づく認識は間接的なものであるが、実際の登山によって検証される。言葉や映像による事前のイメージと現実は異なることが多く、「自分の目や耳などの五感で確認しなければ判断できない」と考える登山家が多い。直接経験による認識の過程は同時に検証の過程でもあるが、そこでの検証は経験の範囲に限定され、経験の対象は「現象」に限られるという限界がある。医者によって診断内容や経験則が異なるが、患者が治癒するかどうかで医者の認識や経験則が検証される。登山や医療に関する認識の検証手段が限られ、事故が起きることによって初めて検証される場合もある。このような「経験−認識−検証」という過程を通じて人間の認識能力が高まる。しかし、裁判に関しては、認識した内容を検証できないので、裁判における経験と訓練によって事実の認識能力が高まるわけではない。日常生活においても、多くの書物や映像から事実を認識することを繰り返しても、認識を検証する過程がなければ、認識能力が高まることはない。
 認識科学はかなり前から人間の認識の問題性を指摘してきたが、「人間の認識能力を磨く」ことにほとんど関心を持たなかった。これは、人間の認識のメカニズムが解明されていないことや、「人間の認識能力を磨く」ことが科学の対象ではないと考えられているからだろう。 危険な登山でパーティーを編成するのは、人間の認識能力に限界があることが編成の理由の1つである(ただし、引率型のパーティーでは、メンバーが増えてもパーティーとしての認識はほとんど影響を受けない)。

事実の認識と経験則
 事実を認定する際、さまざまな経験則が用いられ、経験則は経験に基づいて形成される。その場合の経験は、直接経験もあれば間接経験もある。経験則は自らの経験によって検証できる場合もあるが、それは自分自身の過去の1回限りの経験に限られる。経験則は根拠があるようで、実際にはそれほど根拠のないことが多く、実態はあやふやである。
 人間の判断過程は論理的でなければならないが、認識過程は感覚や経験則に基づき、論理的ではない。人間の供述や行動はあくまで現象であり、人間は経験則や感覚を通して現象に意味を与える。意味を伴う現象が事実として認識されるが、意味を付与する経験則や感覚には生物的ないい加減さがある。人間に限らず高等哺乳動物は、現象を受け取る側の認識を考えて意図的に現象を演出できるだけの知能がある。「賢い供述者」は論理的に整合性のあるストーリーの方が裁判所に受け入れられやすいことを知っているが、「弱い人間」は内容の真偽に関係なく供述を変遷させやすい。
 人間は認識や判断過程で自覚することなく無数の経験則を用いるが、経験則は過去の経験の範囲でのみ妥当する。遠方から雪庇の規模を判断する時、無意識のうちに、「通常の雪庇の規模は10メートル以下である」という経験則が物差しとして作用し、この経験則はほとんどの場合に妥当するが、必ず例外がある。経験則は1000回の冬山登山で妥当しても、1001回目の登山で妥当しないことがある。
 「保険契約書のような詳細な契約書を除き、通常の契約書の場合には内容を理解して署名するのが通常である」という経験則(「民事訴訟における事実認定」、司法研修書編、法曹会、132頁でこの種の経験則が取り上げられている)は、妥当する場合もあればそうではない場合もある。
 人間は誰でも比較的狭い部分社会で生活しており、その中で行動様式や観念、経験則を学習する。「通常の契約書の場合には内容を理解して署名する」という経験を持つ人は、そのような経験則を持つが、そうではない経験を持つ人もいる。企業社会や契約社会で生活している人や大学生などは、比較的、「契約書の内容を理解して署名するのが当たり前」という経験則を持ちやすいが、契約社会で生活していない人は、「相手が信用できれば契約書を読まずに署名する」という経験則を形成しやすい。日本人の契約観念の有無は法社会学的研究の対象とされるが(「日本人の契約観」加藤正信外編、三省堂、「日本人の法意識」川島武宜、岩波書店など)、職業、階層などや人によって異なるので、裁判ではあまり意味がない。
 他方で、契約社会では、「保険契約書のような詳細な契約書を除き、通常の契約書の場合には内容を理解して署名する」のでなければ取引の安全が害されるので、この経験則が正当化されなければならないという社会経済的要請がある。裁判では社会経済的要請に基づいて、規範的観点から複数の経験則の中から特定の経験則の選択がなされることを否定できない。アメリカの判例・学説に、人間は合理的選択行動をするはずだという考え方に基づいてハンド・フォーミュラ(最適な事故防止費用をかけたかどうかを過失責任の基準にする考え方)があるが、これは陪審員に理解されないと言われてきた(「アメリカ不法行為法」平野晋、中央大学出版部、277頁)。合理的選択行動の経験則は市場経済上の要請に基づくものであり、アメリカの一般市民の経験則に反するのだと思われる(最近のアメリカの認知心理学の研究は、人間の合理的選択行動という考え方を否定しつつある)。
 経験則が上述のようなものだとすれば、「(法律家は)日々の仕事の中で経験則を獲得すべく努力すること、そのようにして獲得した経験則を意識して活用することが、正しい事実認定のためにいかに重要であるかを再認識させてくれます」(「事実認定の考え方と実務」田中豊、民事法研究会、169頁)という記述を読むと、非常に奇異な感じがする。
 また、「経験則の体系化」が必要だという意見(「事実認定の基礎」、伊東滋夫、有斐閣、88頁)があるが、これについて、「労多くして功少ない」という批判がある(「事実認定の構造と訴訟運営」吉川愼一、自由と正義、1999年9月号62頁)。経験則が認識の困難さを解決してくれるわけではなく、経験則は経験の裏づけがあって初めて意味を持つので、それを一般化、抽象化することは危険である。
 多くの弁護士は、「裁判官は世間知らずである」という言葉を好むが、これは、弁護士が、自分の負けた裁判の言いわけを依頼者にするときに使う言葉でもある。テレビドラマの影響からか、弁護士や裁判官が真犯人を捜してくれると勘違いする人が少なくなく、法曹以外の人には、裁判官、弁護士、検察官は程度の差はあっても基本的に「同じ人種」に見える。人は誰でも限られた部分社会で生活しており、生育過程や生活環境における経験を通して経験則や価値観を形成する。それらが人間の認識に大きな影響を与えるが、それがどのように影響するかはわからない。裁判において知識や経験がプラスに作用するのかマイナスに作用するのか検証できない。
 経験に対する自信のなさが経験や経験則に対する期待を生みやすく、また、五感によって事実を認識することが困難になればなるほど、知識や経験、理屈に頼ろうとする。しかし「五感の作用に基づく認識」に関する限り、知識や経験、理屈はほとんど役に立たない。市民は、司法の判断に市民の価値観が反映すれば信頼を寄せやすく、司法の判断が市民の生活実態に基づくことを期待するが、「市民感覚」があっても事実の認識は難しい。したがって、1人の専門家に多様な知識や経験、市民感覚を求めるよりも、多数の人間の多様な判断に委ねる方が賢明である。
 ラートブルフは、法律は社会的、歴史的関係のもとで一定の人間像を前提とすると述べているが(「法における人間」、ラートブルフ、東京大学出版会)、市場経済はそれに適合する人間像を要請する。規範の世界では、現実の人間よりも、あるべき人間像の方が重視される。また、日本の司法は明治以降、一貫して同質的な部分社会を構成し(これは、司法に限ったことではないが)、結果的に、司法が想定する人間像はフィクションとしての傾向があった。他方で、人間科学は自然物である人間を十分解明できていないために、司法に対する影響力をほとんど持たなかったが、科学の対象としての人間と無関係な人間像はありえない。
 司法に市民の価値観が反映することは重要であるが、市民の価値観には歴史的社会的な制約があり、それが「正しい」ということではない。アメリカの陪審制のもとで多くの誤判が生まれたことを見ればわかるように、市民が事実認定をしても事実を正しく認識できるとは限らない。裁判員制度は、人間の多様性が人間の認識の誤りを最小限に止める可能性を持つという限度で意味がある(広島弁護士会会報に掲載、2009年)。

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