自己決定と司法 


自己決定とは何か
 自分のことは自分で決めるという自己決定は当たり前のことであり、誰もが、自分の意思や行動は自分で決めていると考えている。しかし、人が何かを決める時、多くの情報や他人の意見を参考にし、環境や文化の影響を受けるのであって、誰もが他者の影響を大きく受けている。患者が治療方法を選択する時、医学的な情報や医師の意見を聞いて決定することが多いが、一般の患者が医師と同レベルの医学的知識を得ることは無理である。自分で決めたと思っても、医師の意見に従っただけの場合が多い。
 そもそも、自分で決めるという場合の「自分」は社会の中で他人からの影響を受けながら形成されるので、厳密に考えれば完全な自己決定はありえないが(注1)、大雑把な意味では、選択の後に生じる事態を予測しながら自分で十分に考えて決定していれば、自己決定があったと考えることができる。その選択について自分で納得できるかどうか、すなわち自己責任を負うことができるだけの主体的な意思形成過程の有無が重要である。
 自己決定は、私法上の私的自治の原則の前提であり、自己決定は価値観の多様性や民主主義の前提である。自己決定が権利として構成されたものが自己決定権であり、喫煙の自由や輸血拒否の自由などがよく議論される(注2)。従来、法律家の関心は、個人の自由にどこまで介入できるかというパターナリズムの問題(注3)や、自己決定を権利として構成できるかという問題に向けられていたが、その前提として自己決定のあり方が重要である(注4)。
 自己決定は自己の内面の価値観に基づく価値判断であり、人間の内面の価値観は「これが自分である」というアイデンティティと結びついている。アイデンティティは、自分に対する信頼感や自己肯定感に基づいており、これは他者との関係を通じて形成される(注5)。他者への依存や他者からの支配が強い場合には、自分に対する信頼感や自己肯定感が生まれず、アイデンティティを不安定にする。また、価値観の多様性が認められにくい社会では、自分に固有の価値観が形成されにくく、アイデンティティに問題が生じやすい。アイデンティティの未熟さと自己決定の不十分さは密接に関係している。
 何事も自分で決定するからこそ意欲が湧き、自己実現が可能になるのであって、自己決定は、意欲、自立心、幸福感、創造性、生きる力の源である(注6)。自己決定が意欲や生きる力をもたらすのは、それが動物としての人間の本能だからである。野生動物は、いつ、どこで、どのように獲物を獲るか、どこが安全なねぐらであるかなどを、すべて自分で判断して決めなければ生きていけない。野生の場面では、自己決定は生きるために当然のことであり、無気力は存在しない。また、動物としての個体の違いが、アイデンティティと価値観の多様性をもたらす。
 自己決定というと難しそうに聞こえるが、野生の本能から派生するもので、そんなに高尚なものではない。たとえば、今日の夕食のメニューを決めることも、自分の嗜好というアイデンティティに根ざしており、自己決定である(注7)。夕食のメニュー程度のことは野生のライオンでも考える。人間も野生のライオンも夕食のメニューを気まぐれで決めることがあり、自己決定はもともと気まぐれやいい加減さを含んでいる。野生の人間の自己決定は自己中心的であるが、それでだけではホッブズの言う「万人の万人に対する戦争状態」になってしまう。人間は他の動物と違って理性や考える能力があるので、人間の社会を形成し、「野生」を規律するようになった。野生人間の自己決定と社会的な存在としての人間の自己決定の違いは理性に基づいているかどうかであるが、現実の人間はいつも理性的に行動するわけではない。他方で、理性をもたらした人間の文化が人間の動物的な能力を喪失させる面があり、人間が動物である以上、生存するうえで「野生」が必要である(注8)。
 自己決定の欠如は、さまざまな法的紛争や事件をもたらし、精神的な疾患の原因になる。
  
自己決定の稀薄な日本の社会
 自己決定について考えるうえで、その実態が重要である。
 返済できるかどうか十分に考えずサラ金から金を借り、勧められるままに高価な商品を購入し、他人の意見通りに進路や就職などを決め、責任を自覚することなく債務の保証人になり、納得できなくても退職に応じる人は多い。
 自分が欲しいと思ったものを買っても、テレビのコマーシャル、流行、噂、他人の意見、セールストーク、誇大表示、商品の外見などに影響されていることが多い。派手な宣伝や頻繁なモデルチェンジ、付加価値をつけるための商品の過剰な機能、流行から取り残されたくないという不安感などに惑わされ、消費者は常に過剰な消費刺激にさらされる。法律相談の時に、「○○させられた」という受動的な表現をする相談者が多いのは、自分で考えて行動していないからである。また、あたかも、「受動的であることは、責任が生じない」と考えているかのような傾向がある。
 契約書をよく読まずに署名をする人は相変わらず多く、契約書を読んだとしても内容を理解していない人が多い。中には、「契約書に名前を書け、と言われたから書いただけで、内容は知りません」と言う大人がいる。高校を卒業していても少数や分数の計算ができず、利息について理解できないまま金を借りる人がいる。
 ギャンブルや酒、遊興などの誘惑に負ける人間は多く、自己責任を自覚したうえで賢明な行動ができる者はそれほど多くない。
 知人から頼まれて「義理」や「しがらみ」から仕方なく保証人になる場合などは、大きなストレスや法的トラブルにつながりやすい(注9)。
 日本では毎年3万人以上が自殺している。
 これらについて、自己決定を単なる「意思」だと考えれば、これらの行為に意思はあるので、自己決定があることになる。自己決定を「意思」や「わがまま」の意味で理解する人は多い(注10)。その結果、「子供に一流大学をめざすように自己決定させたい」、「自分のやるべきことをやれば、子供の自己決定を認めてもよい」、「自己決定を認めると規範を守らなくなり、怠ける」などの言葉が出てくる。
 しかし、自己決定は、自己実現やアイデンティティと結びついた主体的な意思形成過程の問題であり、親や教師が指示して子供に決めさせることは子供の自己決定ではない。人間が怠けるのは、人間の快楽欲や意欲の欠如などに基づいており、自己決定を認めても認めなくても、怠けたい者は怠ける。
 例えば、親の勧めに従って進路を決めた場合、その後、何らかの障害が生じると「親が進路を決めた」という不満が生じることがある。ここでは自分の内面に、選択した結果を納得できるだけの精神的活動があったかどうかが問題であり、自己決定は自分が納得するための「過程」に他ならない。現実には、子供は判断力が未熟で親への依存があるので、子供の自己決定といっても親の意向が反映する。親が決めたことであっても子供が自分で納得すれば、「親の考えに従う」という自己決定があったことになる。その納得の過程が重要である。
 自己決定が不十分でも、それだけでは法律的には無効・取消の対象にならない。消費者に対する説明義務、販売業者や貸金業者に対する規制や消費者保護立法だけでは、自己決定の不十分な法律行為を救済するには限界がある。
 子供を学習塾に通わせないと、「取り残される」という不安にかられる親は多く、日本の親の教育熱は、競争と格差社会が生み出す不安の結果である。現在、学校の新卒時に安定雇用のレールに乗らないと一生不安定雇用に翻弄される恐れがあり、親のこのような不安は的を射たものである。しかし、教育熱心な親の言うとおりに育てられ、素直だった子供が、家庭内暴力、非行、不登校、引きこもりになるケースが少なくない。
 子供は親や教師からの承認や評価に敏感であり、親や教師が強制しなくても、子供は親や教師の意向を敏感に感じ取る。「賢い子供」は親や教師の考えや価値観に自分を合わせてしまう傾向がある。人間は他者との関係で生きているので、他者からの評価で自分を評価するが、親や教師からの評価だけで生きることは自己決定の欠如をもたらす。自己のアイデンティティに対する不安が内に向かうと鬱病などの精神疾患となり、外に向かうと他人への攻撃性につながる(注11)。
 「誰でもよいから人を殺してみたかった」という殺人事件には、多くの場合、社会に対する激しい憎悪がある。そこには社会から見捨てられ疎外されているという被害感情があり、社会を騒然とさせる事件を起こすことは、社会に対する自己顕示と復讐であり、「自己のゆがんだ存在証明」である。もし、人生に自分で納得できるような自己決定の過程があれば、「自己のゆがんだ存在証明」は必要ない。自己決定は社会や学校に対する肯定感をもたらし、その欠如は他人や社会に責任を転嫁する傾向を生む。2008年の秋葉原の無差別殺傷事件では、派遣労働という不安定雇用に翻弄される生活が加害者の自己決定の結果ではないこと、加害者の生育過程が親から与えられた限られた価値観に支配されていたことなどの影響があるように思える。
 不安定雇用者といえども自分の意思で就業しており、自己決定があるという主張があるが、選択の余地がない状況下でやむを得ず派遣労働などに就くのであって、自己実現のための主体的な意思形成に基づいて不安定雇用に就業したわけではない。
 日本では「空気が読めない」ことが否定的に見られ、「その場の空気に合わせる」傾向を生むが、それは他者からの承認を得ようとする努力である。他者からの承認の有無が自分の価値を決めることは、自己決定を阻害し、価値観の多様性を排除する。結果的に、その集団の空気と異質な雰囲気や個性を持つ者は集団の承認を得にくく、不登校や引きこもり、イジメにつながる(注12)。
 
自己決定と自己責任
 自己決定は自己責任が前提であり、同時に、自己決定がなければ自己責任は成り立たない。神が因果律を支配する世界でない限り、生じた結果を受け入れることを正当化する根拠は自分以外にはない。日本では、自己決定は「わがまま」のイメージで理解される傾向があり、自己責任は非難の意味で用いられる傾向がある。しかし、自己決定や自己責任は個人の内面的活動に関して分析のために用いる概念であって、他人から言われる言葉ではない。
 日本では、自己責任という言葉がもっぱら自己決定のないケースで用いられる傾向がある。プロの写真家をめざすために会社を辞めてフリーターになった者に、「あなたの今の生活は自己責任である」と言う人はいない。そんなことはあまりにも自明のことだからである。会社をリストラされた場合のように、自分の選択の結果ではなく、しかも、当人に不利益が生じる場合が、日本的自己責任論の対象になる。過労死は、当人が「休まない」ためであり、当人の不適切な自己管理が原因だとする自己責任論も同じである。自己主張をしないことは、自己責任を意味しない。
 フィンランドでは大学の数と定員が少なく、学部によっては合格率3パーセント程度の大学合格率も珍しくない。しかし、大学の授業料は無料で生活費が授与されるので、能力と努力によって誰でも大学をめざすことができる。そこでは能力と努力があれば大学に入学できるが、逆に言えば、能力と努力がなければ大学に入れない。しかし、価値観の多様性と生活の保障があれば、高校や大学に行かなくても落伍感が少ない。フィンランドでは勉強するかしないかは個人の自由であり、自己責任である。その結果、フィンランドの高校進学率は高くなく、勉強したい者だけが高校に進学する(注13)。フィンランドの競争社会では日本以上に就職難やリストラの不安があり、失業率も高いが、社会保障が行き届いているので、失業しても新しい資格をとるための勉強意欲と楽天性がある(注14)。価値観の多様性は同質的な競争を排除し、競争の結果が生活の困難を意味しなければ、競争は穏やかになる。フィンランドでは、自己決定と自己責任が受け入れられやすく、やり直しのきく社会的なシステムと価値観の多様性が、人々に学習意欲、労働意欲、生きる意欲をもたらしている。
 日本では、勉強するかしないかは個人の自由ではなく、高校までの勉強はほとんど義務に近い。将来の生活への不安からやむを得ず経済的に無理をして大学に入り、何となく大学を出ても就職できるとは限らない。半ば義務のように勉強をして大学を卒業しても、安定した生活を得られなければ、それまでの「頑張り」に疑問が生じる。半ば強制されても結果さえよければ納得できないことはないが、結果がうまくいかなければ、親、学校、社会に対する不信感が芽生える。自己決定の欠如は他人への責任の転嫁をもたらしやすい。さらに、やり直しのきかない社会的なシステムと価値観の多様性の欠如が、競争からドロップアウトした者を絶望に追い込みやすい。
 公共交通機関での携帯電話の使用を禁止することは、日本では「当然のマナー」とされるが、欧米ではそうではない。ニューヨークの地下鉄の電車内ではワーカホリック(仕事中毒者)携帯電話をかけまくっている。フランスでは携帯電話は非常に普及しているが、携帯電話が「遊び」で用いられることは少ない。これについて日本の携帯電話会社の営業マンは、「フランス人は遊び心がないので困る」と言うが、そうではなく、フランス人は、「子供の遊び」をしないだけなのだ。ドイツ人やオランダ人は元来ものすごくケチなので、携帯電話で遊ぶような無駄な支出をしない。
 問題は、「なぜ、日本では電車内での携帯電話の使用がマナー違反だとされるのか」であり、私は、20年前からこの点が理解できなかった。携帯電話での会話がうるさいのであれば、電車内での騒がしい会話を禁止すべきではないのか。携帯電話の電源を切らない限り、ペースメーカーへの影響が懸念される。広場やデパート、待合室、公共の場所での騒がしい携帯電話の使用を禁止しないのはなぜか。
 本来、携帯電話の使用は個人の自由に属するが、それを日本で規制せざるを得ないのは、自由の無節操な行使振りが余りにひどいからだろう(あるいは、ストレスが充満した日本の通勤電車では、他人の携帯電話の使用に「切れる」人間が多く、殺傷事件を防ぐため、と考えられなくもない)。自由や権利の意味を理解し、自由の行使に成熟した大人としての自己決定ができれば、自由の制限は必要ない(注15)。自己決定は他者との関係の反映でもある。日本では、大人でも子供並みのレベルで「携帯電話で遊ぶ」という無節操の結果が、電車内での携帯電話の使用の制限につながるのである。役所に対する「クレーマー」や「モンスターペアレント」も同じ問題であり、責任を伴わない自己決定はわがままにつながる(注16)。
 人間の自己決定が動物としての自己中心性に由来することから、人間の自己決定は本質的にエゴイズムを含んでいる。すべての動物にはエゴイズムがあり、人間もその例外ではない。しばしば、報道、虐待、差別、解雇、喫煙、自然破壊などが自己決定の名のもとに行われる。「他人のプライバシーを知りたい」、「誰もが大学に入りたい」という欲求が、テレビのワイドショーを生み、日本に大学や進学塾を乱立させた(フィンランドにはテレビのワイドショーやバラエティー番組、進学塾はない)。有史以降の快適さと経済的利益に対する人類の自己決定の歴史は、自然破壊の歴史でもある。年中無休の24時間営業の便利さを追及すれば、全ての職種でコンビニ化を招くことになり、国民全体が時間の奴隷になってしまう。「国民のニーズ」という言葉が単なる人間のエゴイズムでしかないことがある。
 野生人間の自己決定と違って、近代市民社会における自己決定は、自由、責任、正義、公正などの法の理念に基づいて賢明な判断ができることが前提である。「賢明な市民」は社会の中でそのように育てられることで、始めて育つ。
 しばしば、「人間の格差」、「社会経済制度による格差」、「格差がもたらす貧困」が混同される。努力や意欲の差は自己責任の部分があるが、社会経済的な格差は人間の意欲の格差をもたらす(注17)。
 自己決定に基づかない格差を自己責任とし、その格差が貧困に直結する社会は、競争からドロップアウトした者を自殺や鬱病、凶悪事件などに追い込みやすい。また、そのような社会では、責任を他人に転嫁し、無責任な権利主張をする人が増える。
 競争は必ず格差をもたらすが、貧困を生み出さない制度、価値観の多様性、やり直しのきくシステム、経済的・精神的共助などがある社会では、格差のあること自体はそれほど問題にならない。

自己決定のあり方は社会を反映する
 人間が社会を形成し、文化や規範、制度、組織を形成すると、それに応じて個人の自己決定が制約される。自己決定は他者との関わりの中で行われ、自己決定は社会における他者との関係の反映という側面がある。自己決定の枠組みは社会的に規定され、また、自己責任の内容も社会的に規定される。
 オランダ、フィンランド、スウェーデン、デンマーク、ドイツなどでは、自分のことは自分で決めること、答えを知ることよりも、問題解決能力や論理的に考える力、筋道を立てて意見を言えることなどが重視される(注18)。
 世界有数のケチで有名なオランダ人や、基本的にケチで環境に強い関心を持つドイツ人などと較べれば、日本人の消費における自己決定はルーズである。金がなくても簡単にモノを買い、強引な勧誘や派手な宣伝に弱いのは、高金利を規制しない制度や、小さい頃から消費欲を刺激され続けて育つ社会環境の結果である。
 先進国の中で日本だけが選挙期間中の戸別訪問を禁止していることは、戸別訪問を拒否できず、戸別訪問で買収されやすい日本人像が想定されている。欧米では、「戸別訪問に問題があれば拒否すればよいではないか。戸別訪問を禁止することは、政治活動の自由の侵害であるだけでなく、訪問を受ける側を幼児扱いするものだ」と考え、日本の選挙制度を理解できないだろう。自己決定のできる自立した人間にとって、戸別訪問の禁止は「余計なお世話」である。
 選挙権年齢が18歳というのが世界の大勢であり(2007年の資料では、世界の182か国中 159の国で選挙権年齢が18歳以下になっている)、ドイツ、デンマーク、オランダ、スウェーデンなどの国勢選挙の投票率はだいたい80〜90パーセントである。日本の多くの若者が政治における自己決定を嫌うのは、成人してもなお「子供」として扱われる社会の結果である。そこには、若者が「子供」であることを自覚したうえで、なおも「子供」を続けたいという甘えがある。人間には、野生動物の環境と異なって、自立に向けた意識的な教育と訓練がなければ、生涯、自立しないまま過ごせる生活環境が存在している。
 働き過ぎはアメリカやイギリスなどでも蔓延しているが(注19)、「過労死」は日本や中国に特有な現象だと言われている。長時間労働は、長時間労働を認める労働法制のもとで生じるのであって、日本人が長時間労働を好むわけではない。有名なドイツの閉店法(レストラン等を除き、平日は午後6時以降の営業禁止、日曜・休日は営業禁止)は、休日に休むという自己決定を保障するためにドイツ人が考え出したものである。
 不安定雇用を認める労働法制のもとでは、不安定雇用を選択せざるを得ない状況が生まれる。日本で解雇が自主退職という形態をとることが多いのは、解雇を拒否しにくい社会状況と制度の結果である。
 アメリカの多くの親は子供に対し、自己主張や社会性、責任を求めるが、日本の親は子供に素直で抑制された協調性を期待する(注20)。これは、日本の社会ではそのような人間の方が高い評価を受けるからである。
 自己決定のあり方は、親子、友人、学校、職場、地域などにおける人間関係を通じて形成される。子供は直接、間接を問わず人間関係を通してものごとを考え、自己決定を学習していく。
 社会的階層によって学歴が世代間で再生産され、社会的階層が人間の能力の形成に大きな影響を与えることが指摘されている(注21)。自己決定の能力も世代間で再生産される面がある。
 誰もが経済的に弁護士に依頼できる制度がなければ、司法に関する自己決定が制限される。ドイツでは、労働裁判所、社会裁判所、行政裁判所で職権探知主義を採用していること、弁護士を利用しやすい制度、弁護士強制主義、裁判所の数が多いことなどが司法における自己決定を容易にしている(注22)。
 自己決定のあり方は社会を反映するが、逆に、市民の自己決定によって社会が変わる(注23)。
 
自己決定と意欲
 自己決定は素質や環境の影響を受けるが、人間の意欲や意志が自己決定に大きく影響する。
 平成3年の私の最初のヒマラヤ遠征でポベーダ峰(7439メートル)などに一緒に登った近藤和美氏は、その後、定職に就くことなく、写真撮影、雑誌記事の執筆、山岳ガイド、登山講習会の講師などの「フリーター」をしながら登山を続け、8000メートル峰に7回、7000メートル峰に13回登頂し、日本でもっとも有名な登山家の1人になった。冒険家の故植村直己は、有名になる前は日本でまともな仕事をしたことがなく、「ニート」だった。
 環境や制度、格差に関係なく、強い意欲と意志があれば自己実現に向けた自己決定が可能であり、困難を克服できる。日本では、「誰でも頑張ることができる」という人間観に基づいて、頑張り偏重の学校価値観が生まれ、これが社会を支配している。その結果、一般に「頑張らない人間」は「怠けている」とされ、否定的に見られる(注24)。しかし、人間の意欲や意志に大きな格差があり、現実には、「少ししか頑張ることができない」者が多い。日本では、「誰もが同じように頑張ることができる」と考える人が多いが、どれだけ努力できるかという点の個人差は大きい。人間の限界に挑戦するスポーツなどではこの点が明らかであり、努力する力は人間の能力の一部である。
 「頑張る」かどうかは、個人のアイデンティティに関わる内面的自由の領域に属し、これを強制することはできない。重要なことは頑張ることではなく、意欲であり、意欲が自己実現につながる。義務感や責任感から頑張ることは可能であるが、意欲を伴わなければ幸福感はない(意欲と義務感は両立する)。
 フィンランドでは、学校の授業時間が短く、教師も生徒も管理されずのんびりしているが、日本よりも学力が高い。自己実現に向けた自己決定が意欲を生み出すのであり、強制や管理からは意欲は生まれない(注25)。
 現実の世界は予測不可能なことが多いが、人間の意識のうえでは、養老孟司の言う「こうすれば、ああなる」社会である。そのため、あらゆる領域で決定過程のマニュアル化が進み、社会のシステムとして自己決定の範囲が狭められる傾向がある。最初から結果がわかっていれば、自己決定の余地がなく意欲は湧かないが、意欲によって自己決定のできる範囲を拡大することができる。
 他方で、社会経済的格差が意欲の格差をもたらすという問題がある(注26)。
 結果がわからず、リスクがあるから自己決定が必要になるのだが、結果に致命的なリスクが伴う場合には自己決定が回避される傾向が生じる。多少の失敗は大目に見る寛容な社会、失敗しても再起可能な社会が夢や希望に向けた創造的な自己決定を可能にする。
 意欲を含む人間の能力には格差があり、これが社会経済的格差をもたらすことは否定できない。しかし、格差が貧困をもたらさなければ、固有の価値観に基づく「自己」を持っている者にとって能力の差は問題ではない。

自己決定と司法
(1)近代市民法は合理的な判断のできる人間像を想定しているが、前記のように、@現実の社会は自己決定のうえで大きな制約があり、A現実の人間は適切な自己決定ができるほど「強く」ない。
 日本は、長い間、個人の自己決定を軽視する一方で、個人と集団の未分離に基づく「会社主義」や「日本型福祉」、「集団行動志向」などが競争の結果を緩和してきた。しかし、近年の新自由主義に基づく競争と規制緩和の結果、旧来の日本型システムが崩壊し、生存を脅かされる人が増えている(注27)。このような状況がアイデンティティの不安定な人間を生み出しやすい。
 自己決定が軽視される社会では、自己決定を権利として構成すべき場面が増える。
(2)市民の要求や不満が法的ルールに基づいて解決される過程がなければ、市民の不満が暴力として暴発しかねない。法治国家では市民の自己決定は法的ルールに則って行われ、司法が重要な役割を果たす。
 弁護士は法律相談や個別的事件の処理を通して、市民の自己決定を援助する役割を担う。
 自己決定の不十分な消費者に対し、消費者関係法等を活用して、どこまで救済の範囲を広げることができるかが問題である。
 雇用の場面では、多くの労働者は労働条件やリストラ、転勤、降格など法的な不満があっても、ほとんど自己主張ができない実態があり、弁護士の援助が必要である。
 弁護士が代理人になることで生活保護の申請がスムーズにいくことがある。本来、生活保護の申請は、申請するかしないか、取り下げるかどうかは申請者自身が決定すべことであり、役所の窓口で、申請者の意思に反する取下はありえないはずだが、それが存在するのが日本の現実である(恐らく、ドイツでは、窓口で申請を取り下げるように言われれば、申請者と役所の担当者の間で理屈同志の議論が始まり、不満があれば社会裁判所へ不服申立をするのだろう)。
 長年、年金について情報の開示請求がなされなかったこと、納得できない場合の不服申立をしないまま放置してきたことが、現在の年金記録の問題の背景にある(恐らく、ドイツでは、市民が自分の年金記録に関心を持ち、徹底した情報公開と裁判所への簡単な不服申立手続の結果、日本のような深刻な事態は起こり得ないだろう)。一般の市民が自分でこれらの手続をすることは困難であり、市民の行政に対する要求や不満に関して弁護士の援助が必要である。
 相続や金銭、貸借、扶養、親の介護、婚姻、離婚などに関して、不満があっても自己主張をしない人が多く、不満が蓄積し突然爆発することがある。隣人間の刑事事件や、日本で親族間の殺傷事件が多いとされていることは、このような事情が関係していると思われる。自己主張をすることは絶えず小さな紛争をもたらすが、その方が結果的に致命的な事件を回避できる。
 日本の企業は法的トラブルを隠蔽する傾向があるが、弁護士が関与して法に則った処理をすることが企業の健全な発展に役立つ。企業や役所における個人の自己決定や、企業や役所の健全な自己決定のために法律家の関与が必要である。
 市民が自分の意思で判断し決定するうえで法的知識が必要であり、弁護士がその点の援助をすることが期待される。弁護士がこの役割を果たすためには、あらゆる法的な場面で弁護士に相談や依頼ができることが必要であり、経済的に弁護士への依頼を可能にする制度が必要である。
(3)自己決定は法的な場面に限らず社会生活全般で重要な意味を持つ。自己決定は人間の幸福や生きる意欲に結びつき、社会の健全性と経済、文化、学問の発展の前提である。
 自己決定が重視される社会を構築するうえで、「法」の理念や価値観が普及することが重要な役割を果たす。「法」の持つ正義、公平、平等、自由、民主主義などの価値観が社会に広まることが、自己を確立させ、自己と他者、権利と義務、自由と責任を理解し、多様な価値観を尊重する成熟した法治社会を実現する。
 「法」の普及という観点から、弁護士が、企業や役所、各種団体、地域社会などで多様な活動をすることが期待される。また、市民が司法に参加することは、市民が「法」の理念や価値観に触れる重要な機会になる。(広島弁護士会会報掲載、2009年)


(注1)「『不自由』論―『何でも自己決定』の限界」筑摩書房、仲正昌樹、192頁
(注2)自己決定権について、「法哲学講義」東京大学出版会、笹倉秀夫、145頁、「私事と自己決定」日本評論社、山田卓生
(注3)パターナリズムについて、「パターナリズムの研究」成文堂、中村直美、「私事と自己決定」、日本評論社、山田卓生、7頁、「現代社会とパターナリズム」ゆるみ出版、澤登俊雄編
(注4)ミルは、「個人は彼自身に対して、すなわち彼自身の肉体と精神とに対しては、主権者なのである」と述べ(「自由論」岩波書店、J.S.ミル、25頁)、各人の各人に対する戦争状態を克服するために国家を考えたホッブズも、本源的に自由で自立した人間像を前提にしている(「世界の名著 リヴァイアサン」中央公論社、ホッブズ、159頁)。自己決定は、ホッブズ、ミル、ロック、ルソーなどの自由な存在という人間像から導かれ、憲法13条はそのような考え方を含んでいる。自己決定の歴史について、「自己決定の系譜と展開」小柳正弘(「自己決定論のゆくえ」九州大学出版会・所収)
(注5)「アイデンティティ」金沢文庫、エリクソン、130頁
(注6)「無気力の心理学」中央公論社、波多野誼余夫外、68、71、111、127頁、「人間性の心理学」産業能率大学、マズロー、241頁。自己決定だけで十分ということではなく、自己決定に基づく達成感が必要である。自己決定に基づく達成感が「効力感」である。
(注7)自己決定という言葉には、生物的な意味の意思決定、法律的な意味の意思決定、ミルの言う成熟した知性の持主の意思決定、カントの言う道徳的な「自律」、無意識的、衝動的、感覚的、理性的な意思決定、自己実現のための意思決定、リスクの選択、意欲、エゴイズムなど多様なものを含めることが可能であり、これが議論の混乱の原因になる。
(注8)「子どもと自然」岩波書店、河合雅雄、158 頁。
(注9)義理の観念は欧米や中国には存在せず、日本特有のものである。「菊と刀」社会思想社、ルース・ベネディクト、155頁、「甘えの構造」弘文堂、土居健郎、53頁
(注10)例えば、「新エゴイズムの若者たち」PHP研究所、千石保、「自己決定権は幻想である」洋泉社、小松義彦など
(注11)「決められない!−優柔不断の病理」筑摩書房、清家洋二、「カウンセリングの理論」誠信書房、國分康孝、83頁、「うつと神経症の心理療法」朱鷺書房、黒川昭登、104頁。アイデンティティは自己の同一証明であり、その安定は「自分が自分であることの安定感」である。自己の同一性をもたらすのは人間の意識であるが、人間の意識は環境によって絶えず変化する。
(注12)「『生きづらさについて』貧困、アイデンティティ、ナショナリズム」光文社、雨宮処凛外、14、30、36頁、「不登校という生き方」日本放送出版協会、奥地圭子、26頁。社会的引きこもりは日本固有の現象だと言われている。「社会的ひきこもり」PHP研究所、斎藤環、88頁
(注13)「競争やめたら学力世界一」朝日新聞社、福田誠治、70、84、126頁。フィンランドの高校進学率は55パーセント、職業訓練を行う職業学校への進学率が35パーセントである。進学率の低さに対し、日本では「選別だ」という大非難が生じそうだが、フィンランドでは、学士レベルの高等職業学校、大学、大学院への進学の道がいつでも保障されている。フィンランドの大学に入学する学生の平均年齢は23歳であり、就業経験のある者も多い。
(注14)「フィンランドの豊かさのメソッド」集英社、堀内都喜子、93頁
(注15)オランダでは、電車内での携帯電話の使用が迷惑であれば注意すれば足り、自己責任の問題であって規制は問題にならない(「残業ゼロ授業料ゼロで豊かな国オランダ」光文社、リヒテルズ直子、210頁)。
(注16)かつての日本の役所は市民が服従すべき「お上」だったが、服従関係が弱くなると、役所に依存して自己中心的な要求をする者が増えた。学校を攻撃する親は、アメリカでは、「ヘリコプターペアレント」、イギリスでは「フリーガンペアレント」と呼ばれている(「バカ親って言うな!」角川書店、尾木直樹、「親たちの暴走」朝日新聞社、多賀幹子)。アメリカの「ヘリコプターペアレント」は大学生の親であり、経済的効率性に基づいた過剰な権利主張の傾向があり、イギリスの「フリーガンペアレント」は教師に対し暴力を振るう。最近のイギリスでは些細なことで「切れる」人間が増え、公務員が暴力や攻撃の対象にされる事件が多い。格差社会における親のプレッシャーとストレスが学校や公務員に向けられる傾向があり、日本、イギリス、アメリカなどの社会的格差の大きい国では、親がモンスター化しやすい。また、「自己」が希薄で、子供に依存傾向のある親がモンスター化しやすいと考えられる。
(注17)「軋む社会」双風社、本田由紀、128頁。日本では、人間の個体差や能力差を認めることに抵抗を感じ、それを「差別」だと考える人がいるが、人間の個体差や能力差は生物的事実であり、それを前提としたうえで教育や生活の実質的な保障を考える必要がある。社会保障が充実した社会では、人間の能力差や個体差を認めることに抵抗感が少ない。
(注18)「残業ゼロ授業料ゼロで豊かな国オランダ」光文社、リヒテルズ直子、40頁、「競争やめたら学力世界一」朝日新聞社、福田誠治、54、125頁、「フィンランドに学ぶ教育と学力」明石書店、庄井良信外、70頁、「デンマークの子育て・人育ち」大月書店、澤渡夏代ブラント、206頁、「スウェーデンの分権社会」新評論、伊藤和良、154頁など。かつて、イギリスの学校は「子供主体の自己表現の場」と言われたが(「ヨーロッパの教育現場から」春風社、下條美智彦、76頁)、新自由主義、市場原理主義に基づくサッチャー改革以降、イギリスの学校は厳しい管理の対象となり、生徒とその親の問題行動が急増した(「競争しても学力行き止まり イギリスの教育の失敗とフィンランドの成功」朝日新聞社、福田誠治、24、212頁)。イギリスの「フリーガンペアレント」が出現したのはこの時期からだと言われている。
(注19)「窒息するオフィス」岩波書店、ジル・A・フレイザー
(注20)「家族心理学」東京大学出版会、柏木惠子、178頁、「新しい家族社会学」、培風館、森岡清美外、126頁。ただし、最近はアメリカの大学生の自立が薄れ、「大学生の子供化」傾向がある(「親たちの暴走」朝日新聞社、多賀幹子、125頁)。
(注21)「不平等社会日本」中央公論社、佐藤俊樹、78頁、「階層化日本と教育危機」、有信堂高文社、苅谷剛彦、148頁など
(注22)「人間の尊厳と司法権」日本評論社、木佐茂男、39、362頁
(注23)1700年代にカントは、当時のドイツ人の自律性の欠如を「家畜以下」、「未成年状態」だと批判したが(「パターナリズムの研究」成文堂、中村直美、251頁)、その後のドイツの社会とドイツ人の意識は大きく変化した。
(注24)日本の社会は「頑張る」ことを要求するが、自己決定に基づく努力や意欲は「頑張る」ことを意味しない。頑張り偏重の発想は、「上昇志向がなければ意欲に欠ける」という発想や「自己実現しなければならない」というプレッシャーを生みやすい。自己決定や自己実現を迫られる状況は、それができないと感じる者に大きな不安をもたらす。勘違いする人が多いが、登山家や冒険家は、「自分のやりたいこと」に対する強烈な意欲があるだけで、「頑張る」、「努力する」という意識はない。そのため、登山家や冒険家の中には、勉強や仕事では「頑張る」ことができなかった人が少なくない。この点で、多くの教育関係者や企業関係者が好んで植村直己に講演の依頼をしたことは、逆説的な意味を持っていた。フィンランド人には「頑張る」意識が希薄だと言われているが、フィンランド語に、日本語の「頑張る」に相当する言葉がないことは興味深い(「フィンランドの豊かさのメソッド」集英社、堀内都喜子、182頁)。
(注25)厳しい指導よりもあたたかさや権威的でない方が子供のやる気を引き出せること、自分の意思で制御可能な場合にやる気が起きることが指摘されている(「やる気の心理学」創元社、宮本美沙子、68、140頁)。競争が意欲をもたらすと考える人が多いが、競争する意欲は一定レベル以上の環境と能力を前提としており、環境や能力が極端に劣る場合には競争は無力感をもたらしやすい。また、競争の結果が「外的成功」である場合には、その効力感は一時的なものに過ぎない(「無気力の心理学」中央公論社、波多野誼余夫外、79、137頁)。意欲は動物的な欲求が人間化されたものであり、食う、寝る、遊ぶ意欲のように、もともと誰でも持っている。社会的に期待される意欲は、「その文化において優れた目標であるとされる事柄」に向けられた意欲であり(「やる気の心理学」創元社、宮本美沙子、11頁)、その内容は国や時代によって異なる。現在、社会的に期待されるのは、勉強、仕事、経済的利益と結びついた文化的活動などの意欲であり、仕事をせずに「世界の辺境や紛争地域を自分の目で見たい」という意欲などは、一般に評価されない。意欲は、自分のやりたいことが出発点であるが、これは自己の内面の価値観、すなわちアイデンティティに根ざしている。
(注26)「希望格差社会」筑摩書房、山田昌弘、「階層化日本と教育危機」有信堂高文社、苅谷剛彦、「意欲格差」中経出版、和田秀樹など
(注27)「若者の労働と生活世界」大月書店、本田由紀外、49頁、「下流にならない生き方」講談社、真壁昭夫、60頁、「『日本的経営』の崩壊とホワイトカラー」新日本出版社、牧野富夫、「働きすぎの時代」岩波書店、森岡孝二、112頁など