司法における科学性
広島弁護会会報98号、2015

                           
                                                    弁護士 溝手 康史
       
1、規範は科学と無縁であり、司法の世界では、科学的であることが軽視されやすい。自然科学の分野では、実験や現実による検証が可能だが、司法はそれができない。そのため、司法における科学性が何なのかがよくわからない。

2、事実の認識
 法律家は、事実を認識し、それに法律を適用することを仕事にする。法律論が主な争点になる訴訟もあるが、多くの訴訟で、当事者の事実の認識の違いが法的な主張の違いになることが多い。法律実務家にとって、事実の認識は非常に重要な課題である。
 事実を認識する過程は、科学的であることが必要である。それが、人間の判断ミスを最小限にすることを可能にする。法律の知識が多ければ、事実を認識しやすいかといえば、そうではない。心理学や脳科学の知識についても、同様である。。
 日本の裁判の判決文は、世界一緻密だと言われることが多いが、それが、判決における事実の認識の科学性を意味するわけではない。判決文に、裁判における供述や証言が信用できる理由や信用できない理由が詳細に述べてあるが、違和感を感じることが多い。たとえば、判決に、「供述に一貫性があるから信用できる」という記載がなされることがあるが、供述に一貫性があっても嘘を言う者はいるし、場当たり的な嘘が供述の一貫性のなさになることもある。確信者の供述は、その真偽に関係なく、だいたい一貫している。人間は、簡単に誤信し、それが確信になることを、さまざまな研究が指摘している(「目撃者の証言」、E.F.ロフタス、誠信書房など)。多くの民事裁判が、「朕こそ正義なり」と主張する確信者同士の争いである。
 供述の変遷は、それが直ちに供述の真偽に関係するわけではない。供述の変遷の理由はさまざまであり、それだけで、「信用できる」とか「信用できない」と言うことはできない。供述の変遷の経過と理由を分析することが重要である。時々、当事者の頭の中で、金を貸したのか、贈与したのかよくわからないケースがある。貸借と贈与の区別のできない人や、「返してもらわなくてもよいという気持が半分はありました」と言う人。現実には条件付の贈与や「限りなく贈与に近い貸借」と評価すべきケースがあるが、黒か白かで割り切る裁判官はそれを受けつけない。当事者の供述内容が、贈与から貸借に変遷した途端に、裁判官から「信用できない」として一蹴されやすい。知的能力の低い者ほど、勘違いや言い間違い、筋の通らない供述が多い。同じ事情から事実を認定したり、否定することが論理的に成り立つことがある。
 供述の一貫性と供述の真偽性の関係を検証するのは無理である。したがって、「供述に一貫性があるから信用できる」とは限らないと考えるほかない。
「自分に不利益なことを認める供述は信用性が高い」、「誰でも自分に不利益なことは認めたがらない」、「人間は、不合理なことはしない」、「非常に重要な出来事は、日時を忘れるはずがない」などの経験則も、そういう場合もあればそうではない場合もあるとしか言えない。人はさまざまである。
 ある人間の供述が信用できるかどうかの判断は、ある種の価値判断である。その判断にさまざま理屈を使用しても、それは説明のための理屈でしかないように思われる。仮に、理屈を用いたとしても、「理屈だけで」、信用できるかどうかを判断するのは無理である。
 人間は、判断に迷った時に、理屈やマニュアルに頼ろうとしがちである。「供述に一貫性があるから信用できる」、「自分に不利益なことを認める供述は信用性が高い」などの経験則に頼ることもその例である。自分の判断に対する自信の欠如が、理屈の偏重をもたらしやすい。もし、「こうすれば、ああなる」という確立した経験則や理屈があれば便利だが、そのような便利さには、複雑なメカニズムを持つ人間の認識過程を単純化し、間違った判断をするリスクが高い。
 経験則の体系化を試みた人がいるが(「事実認定の基礎」、伊藤滋夫、有斐閣)、それを読むと「壮大な無駄」という印象がする。経験則を体系化しても、結局、それらは、そのままでは使えないからである。
 この点は、自然災害に対処するために詳細なマニュアルを作ることに似ている。詳細なマニュアルはいくらでも作ることができるが、災害時にたいてい役に立たない。現実の災害は千差万別であり、臨機応変に考えることが必要だからである。東北大震災の大川小学校の事故(訴訟中。「あのとき、大川小学校で何が起きたのか」、青志社)では、マニュアルを作るとすれば、「大きな地震が起きたら、すぐに高い場所に逃げる」というマニュアルだけでよい。それさえ実行していれば、多くの生徒の命が助かった。指定された避難場所でも、100パーセント安全ではない。マニュアルは人間の思考を停止させやすい。詳細なマニュアルは、作成者の自己満足、政治的パフォーマンス、責任回避(現実の災害に対処できなかった時に、関係者が「マニュアルが悪かった」という言い訳ができる)に終わることが多い。
 現実に生起する事実(事件、事故、災害)は、ひとつひとつ皆、異なり、現実に起きた事象に対し、柔軟に対処できる能力が必要である。この能力は、マニュアルを覚えることでは身につかない。そのような能力を養うトレーニングや経験が必要である。
 事実は、考えることによって初めて認識できる。地震そのものが人間の目に見えるわけではなく、建物などが揺れる状況から地震を推論する。雪の斜面を見るだけでは、雪崩の危険性は見えない。知識と経験に基づいて考えることで初めて、雪崩の危険性を認識できる。多くの事実は、事実そのものを五官で感じるのではなく、事実の徴表から人間が推論をして事実を認識することが多い。雪は、視覚に入った情報を雪に関する知識と照合して、考えることで初めて認識できる。雪を見たことがない人は、雪を認識できない。過去の事実のほとんどは、推論によって認識される。
事実の認識は、人間の認識能力に左右される。この能力は知識と経験によって養われるが、そこでは理屈や論理はそれほど必要ではない。事実の認識に限らず、ものごとを認識する場合に、理屈や論理だけで認識することはない。頭の良し悪しもほとんど関係ない。「雨が降れば、地面が濡れる」という簡単な理屈に基づいて事実を認識する場合でも、必ず、理屈を経験や洞察や価値判断によって補う過程がある。人の供述が信用できるかどうかについても、理屈だけでは判断できない。そこでは、経験則を用いたとしても、それは言葉で表現できないような微妙な経験則であり、洞察や価値判断が行われる。この点で、生の供述を聞くことと、それを文字で調書化した文章を読むことは、まったく異なる作業になる。
 人間の認識能力は、長年の経験と訓練によって養われ、この点に、理屈やマニュアルという「王道」はない。法律実務家の事実の認識能力は、法律実務家としての長年の経験を通して訓練される。その過程で、誰でも多くの判断ミスをするが、判断ミスに気づかないことがある。自然科学では、判断ミスがあれば、実験がうまくいかない。しかし、法曹は、判断ミスをしても、それに気づかないことが多い。
 日本の裁判では、判決文に詳細な事実認定の理由が記載されることが多い。「ニッポンの裁判」(瀬木比呂志、講談社)には、「日本の弁護士は長くて細かい判決を好む傾向が強い」(28頁)と記述されているが、必ずしもそうではない。先例的価値のある事件を除き、勝った裁判では、詳細な判決文は必要ない。負けた裁判で控訴理由を書くのが気の重い事件では、判決文が詳細であれば、判決理由の揚げ足取りで控訴理由書を書きやすい。しかし、簡略な判決文でも、「理由の記述が欠けている」点を控訴の理由にすることができないわけではない。裁判に負けた当事者は、判決の結論に対し不満を持つのであって、判決理由が詳細に書いてあれば、ますます腹を立てるだけである。理由の記載が詳細であっても簡略であっても、判決の結論は変わりがないし、裁判官の価値判断をすべて文字で記述することには限界がある。 
 アメリカの陪審裁判では、事実認定の理由が述べられることはないが、それは、事実認定に理由を書けないからだろう(陪審裁判に対し控訴できないので、弁護士が控訴理由書を書く必要性もない)。日本の裁判員裁判において、判決文に事実認定の詳細な理由が書けるのは、実に不思議である。事実の判断過程は、裁判員がひとりひとり異なるのではないだろうか。
  
3、長年の登山の経験から、知識・経験と人間の認識・判断の関係について、以下のように考えることができる。
(1)知識・経験がまったくなければ、ミスを犯しやすいが、知識・経験があれば、ミスを犯さないというものではない。
(2)経験と知識に基づく意識的な訓練によって、ミスを最小限にすることができる。読む、見る、聞くことも経験の一部だが、自分の身体を動かす経験の方が、大きな効果が得られる。
 小説、映画、ドラマ、アニメ等から得られる間接経験は、「判断力」に関してほとんど役に立たず、むしろマイナス面も大きい。例えば、新田次郎の山岳小説から学んでクライミングをすれば、簡単に遭難する。小説等は、現実から遊離した疑似体験ができる点が、その魅力のひとつである。
(3)あるがまの情報が人間の脳に伝達されるのではなく、人間の認知メカニズムを通して脳に情報が伝達される間に情報が変換される(「「見る」とはどういうことか」、藤田一郎、化学同人、など)。その過程で情報の分析、分解、再構成がなされる。登山では、この点をいつも実感する。
 事実の認識の過程は素因数分解とその統合に似た過程のように思われる。例えば、山の雪の斜面には無限の情報が含まれており、その中から、どういう情報をどういう形で脳に伝達させるかは、人によってまったく異なる。「素晴らし景色だ」と感じる人は、景観に関する情報だけを脳に伝達している。登山家は、雪の斜面から、雪崩の危険性に関する情報を得ようとする。氷雪の研究者には、雪の結晶の結合状態にしか目に入らないかもしれない。雪の斜面にまったく関心を持たない人は、雪の斜面を見たことをすぐに忘れるか、あるいは、最初から記憶しない。人の視覚に入った情報でも、脳に伝達されなければ、認識されない。
 この情報の選択、伝達、分析、統合の過程は、観察者の知識、経験、感情、能力、価値観などに左右される。見る人が違えば、ものごとはまったく違ったものに見える。人間は、「物自体」を認識できない。ものごとは、その情報を分析し統合しなければ、何も見えない。雪に関する情報をまったく持たない人は、雪を認識できない。ものごとを認識するには、人間の知識と考える力が必要である。
 情報の選択、伝達、分析、統合は、瞬時に行われる場合と、時間をかけて行う場合の2種類がある。瞬時の情報の選択・統合等は「直感」の形をとるが、これは、瞬時に頭がフル回転して経験と知識に基づく思考が行われる。この直感によって、優れた登山家は危険を察知し、事故を回避する。知識、経験、思考の裏づけのない直感は単なるヤマ感であり、これは事故を招く。弁護士にも知識と経験に基づく直感が重要である。
(4)事故や紛争が起こる時には、たいてい誰でも不合理な行動をとっている。
(5)注意の選択性。注意していなければ、何も、見えず、聞こえないことを、登山でしばしば経験する。
(6)科学を無視すれば、文学のように自由奔放に何でも考えることができるが、危険な登山では、非科学的な考え方は自分や他人の死につながる。
 今後、人間科学の発展によって、人間の認知メカニズムが解明されることが期待されるが、現在、法律実務における人間の認知のメカニズムについて、科学的に確立されたものはほとんどない。しかし、常に、科学を意識することが、判断ミスを防ぐための慎重さにつながる。それが判断上の謙虚さにつながり、ミスを最小限のものにしてくれる。登山では、自信を持ちすぎることが事故につながることが多いが、法曹の仕事も似た面がある。

4、医師は医学的知識だけでは治療はできない。医師は、医学的な知識を現実の人間に当てはめる経験がなければ、治療ができない。同様に、弁護士も法律の知識を現実の人間に当てはめる経験が必要である。医療も司法も、その対象は人間であり、現実の人間の理解が欠かせない。
 医師、教師、パイロット、山岳ガイドなどは、技能の養成に何年もかかる。山岳ガイドがミスをすれば、客が命を失う。外科医が手術でミスを犯せば、患者が死ぬ。パイロットがミスを犯せば、飛行機が墜落する。しかし、法律家は、ミスをしても、それが気づかれにくい。弁護士のミスはいくらでもゴマカシがきく。外科医は、1年や2年の経験では1人前に手術ができないが、内科医や精神科医は、医師の国家試験に合格したその日から患者を診察しても未熟さが露呈しにくいかもしれない。しかし、医療の世界では研修医の制度やその後の養成過程がある。
 弁護士は、生身の人間の生きた紛争を扱うことで経験を積み、紛争解決の能力を養う。弁護士の仕事は、紛争予防、研究、書類作成、各種の行政委員、事故・事件の検証、監査など多様だが、それでも、紛争を解決することは、弁護士の仕事の中心であり続けるだろう。弁護士にとって、紛争解決能力が重要であり、これは実務経験によって養われる。

5、日本のかつての法曹養成は、フランスの山岳ガイドの養成方法に似ていた。フランスの山岳ガイド資格は国家資格であり、国立スキー登山学校(ENSA)で、年間40人程度の山岳ガイドが養成される。ここに入学するには約10倍の競争がある。国立スキー登山学校の生徒には給料が支給され、身分は公務員である。登山学校を卒業し、試験に合格すると、ガイド補の資格を得る。数年間ガイドの補助者として仕事をした後に、試験に合格すれば正ガイドになることができる。登山学校終了者40人のうち、約10人が国家機関で働き、民間の山岳ガイドになるのは、年間30人程度である。
 山岳ガイドの資格取得にこのような厳しい過程を課すのは、山岳ガイドが人の命を守る重要な職種だからである。スイス、ドイツなどでも似たような制度を持っている。ヨーロッパの山岳ガイドは、公的に養成され、「公的な職業」として市民からの信頼が厚い。ドイツでは、民間人の山岳ガイドの「公的な義務」が議論されている。
 しかし、日本では、山岳ガイドの資格は、100万円くらいの金と多少の登山経験があれば取得できる。山岳ガイドの訓練を受けることなく、ガイド業ができ、資格者の数に制限がない。山岳ガイドは過剰であり、資格を得ただけでは仕事がない。運がよければツアー会社から仕事をもらえるが、山岳ガイドは身分が不安定である(契約社員が多い)。2009年に北海道でツアー登山中に8人が死亡し、2012年に中国でツアー登山中に3人が死亡した事故など、ツアー登山中の事故が多い。
 ヨーロッパの山岳ガイドと日本の山岳ガイドは、平均的な質でいえば、プロと素人ほどの違いがある。もちろん、日本にもすぐれた山岳ガイドは多いが、これは平均的な質の話である。日本の山岳ガイドは、救助技術よりも顧客獲得の営業力の方が重要である。日本では、客が崖から転落してもロープを使って救助できない山岳ガイドがたくさんいる。天気図の読めない山岳ガイドや登山経験のあやしい山岳ガイドもいる。
 ヨーロッパの山岳ガイドは、ツアー会社に対して、安全管理上の権限と権威があるが、日本では、ツアー会社は、激しい競争のもとでやむを得ず低料金の強行日程のツアーを実施し、山岳ガイドはそれに逆らえない。
 日欧の山岳ガイドのあり方の違いは、資格にphilosophyがあるかどうかの違いを示している。日本では、philosophyよりも「必要性」が重視されやすい。

6、弁護士と経済法則
 私は、平成8年に、当時、日弁連が「ゼロワン地域」(地裁の支部所在地で弁護士が1人以下の地域)と呼んだ場所で開業し、平成12年に、「裁判過疎地の現状」というタイトルで弁護士会報に文章を書いた(www5a.biglobe.ne.jp/~mizote/で閲覧可能)。この文章の要点は、「経済的な格差の結果、田舎では経済的に弁護士に依頼しにくい。そういう地域は裁判過疎地であり、それが、弁護士過疎地をもたらしている」というものである。「裁判過疎」は、裁判に限らず、法的紛争があっても弁護士に依頼されない状況を意味している。地裁支部管内の人口が14万人いるのに(現在は、12万人)、地裁支部の民事訴訟事件が70件程度しかないのは(現在は、60数件)、異常である。経済的に弁護士に依頼できないことが、弁護士過疎の大きな原因だった。「弁護士過疎地」でも、開業医がたくさんいる(老人の多い地区には、医院が多すぎるくらいある)のは、医療の分野でそれを可能とするシステムがあるからである。
 当時、田舎の多少の金になる事件(件数は少ないが)は都会の弁護士が取り合いをし、弁護士費用を払えない人が田舎に取り残されるという「植民地的な構図」があった。しかし、平成18年に司法支援制度ができ、「植民地」の所得の少ない人でも、多少は弁護士に依頼しやすくなった。それでも、広島地裁三次支部の民事通常事件新受件数は、平成10年が68件、平成26年は過払金請求事件を含めても60数件であり、かつて300件近くあった破産事件は、現在は50件程度である。弁護士の数が増えても、この地域の事件数は減っている。安芸高田市内に公設事務所を設置する動きに対し、三次地区の弁護士が全員反対するのは、理由がある。
 裁判所の事件数が減少しているのは、全国的な傾向であるが、その要因について、科学的観点からの分析がない。
 他の先進国と違って日本で弁護士への依頼が少ないのは何故なのか。「日本人は、もともと争いごとが嫌いなのだ」、「弁護士の努力が足りない」という意見があるが、日本では、江戸時代に既に訴訟が7万件あり、明治初期に勧解(調停のような制度。その後廃止された)の申立が100万件以上あった(当時の日本の人口は、現在の3分の1)。日本人は、決して紛争が嫌いではないようだ。
 私の経験では、経済的に弁護士に依頼しやすいシステムのないこと、日本の司法制度が利用しにくいことが大きな障害になっている。弁護士の立場では、訴額を基準にした弁護士費用の金額では、経済的に採算のとれない事件が必ず存在する。弁護士の「事件の掘り起こし」の努力は、市民が経済的に弁護士を利用しやすい制度がなければ、また、弁護士の無償奉仕でなければ、市民にとって「弁護士から金を取られる」ことを意味する。裕福でない市民にとって、20万円、30万円という単位の弁護士への出費は、「不幸な災難」以外のなにものでもない。司法支援制度を利用しても、生活保護受給者を除き、弁護士への依頼に金がかかる点は変わらない。弁護士は、「事件の掘り起こし」を自慢するが、裕福でない市民にとって、弁護士費用の負担は「災難」なのである。
 社会の格差の拡大は、弁護士の無償活動に対する期待を際限なく拡大する。しかし、弁護士の無償奉仕を当てにする司法は展望がない。今の時代は、収入を得る必要のなかった資産家のナイチンゲールのような奉仕活動に頼るのは、無理である(ナイチンゲールの親は、イギリス有数の資産家であり、ナイチンゲールは収入を得る必要がなく、私財を費やして社会活動をした)。フツーの弁護士は、ナイチンゲールと違って、無償活動では生きていけない。弁護士が、無償奉仕とは別のところで「稼ぐ」とすれば、私財を投入して冤罪事件の弁護をした弁護士が、他の事件で市民から悪徳弁護士として非難されたケースのようなことが、しばしば起きる。弁護士は、多様な「顔」を使い分けることが当たり前になる。
 これらの問題を解決するには、弁護士の労働を適正に評価し、事件の軽重に関係なく、弁護士が適正な労働の対価を取得することを可能とするシステムが必要である。国民の8割くらいを対象にした低利の弁護士費用の分割払制度(弁護士費用の分割払制度は、先進国では一般的である)、訴額ではなく弁護士の労力を基準にした弁護士報酬制度、訴訟印紙代の低額化などが必要である。
 現状では、弁護士という職業に、常に金の問題がついて回る。その原因は、弁護士の報酬システムにある。このシステムは、投機的、恣意的であり、いろんな意味でかなり危うい。弁護士の報酬が、都会の訴額の大きな事件では莫大な金額になる一方で、田舎では弁護士の労力に見合わない金額になる。基本的人権を擁護し、社会正義を実現するという弁護士の使命は、この「莫大な金額の報酬額」と「弁護士の労力に見合わない報酬額」という両極端によって脅かされる。相続税率や所得税率などが富の蓄積に与える影響は大きく、経済的な制度が人間行動を左右する(「21世紀の資本」、トマ・ピケティ)。弁護士の行動も、経済的な法則に大きく左右される。医師の仕事も、美容整形などの自由診療の領域では、金がらみの世界になる。弁護士の高額な報酬がその行動を惑わすと同時に、弁護士の経済的な逼迫もその行動を惑わす。訴訟での和解内容よりも報酬の額の方を気にする弁護士。「一見の客」から高額な報酬を取る弁護士など。東京や大阪の弁護士は、話し合いを拒否してすぐに訴訟に持ち込みたがる傾向がある。軽微な事件が、弁護士が代理人につくと、何年もかかる「大事件」になり、多額の弁護士費用がかかる。弁護士が代理人につくと訴訟になりやすいので、訴訟を嫌う堅実な人は弁護士に依頼せず、自分で紛争を解決する。
 市民から見れば不当に高額な弁護士の報酬額を、弁護士が「正当な利益」の追求だと確信することころに、問題の深刻さがある(「アメリカの危ないロイヤーたち」、現代人文社)。過払金請求事件で弁護士が20パーセントの報酬をとることに対する市民の反発が強いが、20パーセントの報酬を「当たり前」だと考える弁護士が多い。もとより、20パーセントの報酬が高いかどうかに関する「正しい基準」はないが、通常、過払金請求事件の依頼者は金のない庶民が多く、そういう人の「市民感覚」と「弁護士の感覚」が異なるだけである。
 アメリカの弁護士は、30〜50パーセントの報酬をとり、訴額50万円以下の事件を扱わないが、アメリカの弁護士にはそれが「当たり前」のようだ。アメリカでは、法曹資格を得た日から、最低でも、ロースクール卒業時の1500〜2000万円の教育ローンの返済額分を稼がなければならない。そのため、アメリカでは、弁護士は、庶民の憧れと嫉妬と侮蔑の対象になっている。裁判慣れした人を除く一般の市民は、適正な弁護士費用の金額がわからないため、自由競争のもとでは、弁護士の報酬額は、契約書さえ作成すれば、弁護士の言い値になりやすい。それを制限するのは、市民の懐具合と弁護士の良心だけである。アメリカでは、芸能、スポーツ、大学、企業などで、競争の激化が報酬の高額化を招いている。弁護士報酬の投機性、恣意性が多くの問題の温床となり、これが競争によって加速される。激しい競争は、弁護士の極端な所得格差をもたらしても、消費者の負担を減らすわけではない。弁護士の倫理規定をいくら強化しても倫理よりも経済的法則の方が勝る。

7、弁護士の自立性
 弁護士が、基本的人権を擁護し、社会正義を実現するためには、自由に考え、自由にものが言えることが必要である。弁護士の自由な行動と判断を制約するものは、経済的な問題と思想信条だけである。弁護士が、依頼者、企業、自治体、裁判所、弁護士会、法テラスなどに強く依存するようになれば、弁護士の自立性が損なわれる。
 かつて、ほとんどの新規登録弁護士はイソ弁として雇用され、何年間か経験を積んで独立するか、パートナー弁護士になるのが慣例だった。かつての弁護士の養成は徒弟制度だった。もともと、弁護士は、顧問先、種々の団体、依頼者、弁護士会の派閥等の影響に縛られる。弁護士会の選挙では、思想信条よりも、弁護士界の人脈や派閥がものを言った(この点は、日本の国政選挙と似ている)。
一般に、日本では、組織に雇用された者には、表現の自由がない。日本で、「自由に言いたいことが言える」のは、弁護士、医師、一部の研究者、売れている作家、年金生活者くらいのものだ。アメリカの経済学者は、資産家である自らに有利な経済理論を構築する傾向があることが指摘されているが(「21世紀の資本」、トマ・ピケティ、みずす書房、537頁)、最近は、日本の大学の研究者も、その傾向があるようだ。
 弁護士の過剰の最大の問題は、弁護士が経済的にさまざまなものに依存するようになり、弁護士の自立的な行動と判断が損なわれる点にある。これが、人権保障と正義の実現を妨げる。弁護士の利益の保護が問題なのではなく、弁護士の過剰が問題なのだ。それを解決するには、現実の科学的な分析が必要である。
 単に法律の専門家が必要であれば、弁護士である必要はない。役所や企業には、個々の法律に関して弁護士よりも詳しく優秀な人材がいくらでもいる。彼らは、弁護士のように屁理屈は言わず、組織と体制に忠実であり、扱いやすい。相続や遺言の知識を得るだけであれば、銀行に相談すればよい。離婚、相続、労働、借金などの庶民の日常的な法律相談は、司法書士が対応できる。弁護士よりも司法書士の方がよほど「敷居」が低い。登記は法務局、税金は税務署、労働法規は労基署の職員が詳しい。行政法規は弁護士よりも役人の方が詳しいうえに、相談はすべて完全無料制である。弁護士が他の法律職と違う点は、一部の訴訟手続の実務経験と法律業務の代理人になれるという資格だけだろう。
 しかし、弁護士の自立性や独立性が、人権保障のうえで、他の法律職にはない重要な意味を持っている。この点を理解しなければ、弁護士はすべて自治体、法テラス、弁護士会で雇用すれば弁護士の利用が「便利で、安い」といった考えを持つ市民が出てくる。現実にこれらに雇用される弁護士が増えている。弁護士の短期雇用が多いのは、山岳ガイド(契約社員が多い)と同じである。かつての中国では弁護士は全て公務員だったが、それが多くの中国人の支持を得ていたのだろう。弁護士とは何かというphilosophyが重要である。
 多くの場合に自立性の喪失は「無意識的」である。競争、効率、必要性、利益などに基づく「当たり前の行為」をしている間に、いつの間にか自立性が失われる。誰でも、長いものにまかれた方が楽である。第二次世界大戦前に、大多数のドイツ人が、ヒトラーを支持し、ユダヤ人の排除に賛成したのは、ヒトラーに洗脳されたからではない。彼らは、自分らの考えとヒトラーの政策が一致したので、ヒトラーを自発的に(民主的な選挙制度を通して)支持したのである。
 2009年に北海道でツアー登山中に8人が死亡する事故を起こした広島の山岳ガイド(死亡)は、ツアーガイドとしての長年の経験の中で、無意識のうちに、ツアー会社のやり方を受け入れることが「生きるためのノウハウ」になっていたのだろう。その山岳ガイドは、サービス精神が旺盛で客に慕われる人柄のよさがあったようだ。他者への依存と自分自身への欺瞞が、歴史上、大きな過ちを犯してきたとの指摘(「イェルサレムのアイヒマン」、「責任と判断」、アンナ・ハーレントなど)は、重要である。戦前の弁護士のほとんどはさまざまなものに従属し、それが「当たり前」だった(その点では一般の日本人と同じだった)。
 かつては、法曹養成数を年間500人前後に固定した時代が長く続き、法曹の既得権益が維持された。その後、経済の流動化の高まりとの間に矛盾が生じた結果、法曹養成数を年間2000人以上に増やした。平成13年の司法制度審議会意見書は、規制緩和と自由競争の一里塚であり、弁護士の養成方式は徒弟制度から自由競争に変わりつつある。
 弁護士の需要を検証し、需要に応じて弁護士を増やすことが科学的な態度だが、科学よりも経済的利害と政治的思惑が優先される。法曹養成数年間500人と2000人以上という数字のいずれも、これらの産物である。この傾向は、日本では司法に限ったことではない。科学性がなければ、経済的利害と政治的思惑に基づく教条が支配しやすい。教条のもとでは、あるべき姿がすべてであり、現実を見ても、情報を取捨選択する結果、現実が見えない。都合のよい事実と数字さえ使用すれば、教条に合致する理論を簡単に構築できる。それは、時には学問の形をとることもある。危険性の高い登山では、科学に反する教条は人間の死をもたらす。自然の中ではものごとは単純で明快だが、司法の場合には、それはカフカの世界になる。
 世界中で格差が拡大しており、弁護士も例外ではない。都会と地方の格差、地方都市と田舎の格差が拡大している。巨大な富が都会に集中し、田舎で生じる僅かばかりの経済的利益は都会に吸い取られる。弁護士の過剰は、弁護士の格差の拡大をもたらし、弁護士界に新たな経済的・政治的なヒエラルキーを構築する。
ものごとがうまくいかなければ、マニュアルと管理が増える。社会全体で、問題が発生する度に管理が強化される。弁護士界でも、弁護士会や法テラスなどによる管理が強まっているが、管理の強化は、弁護士の自立性を弱める。あるいは、弁護士の自立性の弱体化が管理の強化をもたらすのか。自立性よりも経済的利益の方が重視されやすい。弁護士が抱える問題には、それなりの要因があり、それらは、マニュアルと管理では解決できない。弁護士会の倫理規定をどんなに強化しても、弁護士が経済的に困窮すれば弁護士の不祥事が増える。問題発生の原因を検証し、原因の根本的な解決を考えることが必要である。

8、人間の行動に関する科学的な知見が重要だが、この点は科学的に確立されておらず、経験に頼るのが実情である。
 人間行動の理解は、弁護士と依頼者との関係、交渉、調停、和解、研究などにおいて重要である。現実の人間行動に基づかない理論は、登山経験の少ない小説家が書く山岳小説のようなものだ。それは、知識、論理、描写、ストーリーなどがどんなにすぐれていても、経験者にはその不自然さがすぐにわかる(新田次郎の小説で、これを感じることが多い)。裁判官、弁護士、検察官は、それぞれの行動原理があまりよくわかっていない。
 研究者も含めた法曹一元の有用性は、科学的な根拠がある。

9、弁護士会、弁護士界、そして、研究者を含めた司法界全体が、閉鎖的で非科学的である。
 日本では、企業や役所内の法曹資格者を「組織内弁護士」と呼んでいる。しかし、弁護士登録をしていない法曹は、弁護士ではない。ドイツでは、既に、パートタイムで働く弁護士や弁護士の兼業、企業や役所で働く法曹が一般化している。企業や役所で働く法曹は弁護士であることもあるが、弁護士とは限らない。
 世界一高額な日本の弁護士会費が、弁護士の多様な就業形態の障害になっている。人権活動と正義の実現は、もともと、収入に結びつきにくいため、高額な弁護士会費が弁護士への就業の障害になる広島弁護会会報98号、2015