社会的格差と弁護士

社会的格差の拡大
 日本では、最近のジニ係数に表れているように、社会的格差が拡大している。違法な社会的格差は法律の規定によって是正できる。しかし、最低賃金法に違反しない低賃金や、合法的な派遣労働、パート、採用の自由に基づく不採用、合法的な解雇、事故、病気、離婚などが合法的な社会的格差をもたらしている。
 社会的格差の程度の拡大だけでなく、その範囲や対象も拡大している。かつて、大学を卒業すれば、安定した生活が保証された時代もあったが、現在では大学を卒業しても、就職難と不安定雇用、企業倒産、リストラなどのリスクがある。今では、博士号取得者や法曹資格取得者を含めて、高学歴者も就職難である。大学院を出ても就職できない人は多い。ドイツやアメリカでは、弁護士の失業や破産が珍しくない。他方で、アメリカの大手法律事務所では、弁護士の初任給年俸が約1600万円であり、億単位の収入のある弁護士もいる。大学も格差の対象になっており、アメリカでは、かなり前から大学教員の収入格差が大きい。日本の大学でも非常勤講師などの不安定雇用者が増え、収入格差が拡大している。大学や大学院が増えているが、潰れる大学、大学院もある。教師、保母、公務員、銀行員、病院職員、研究者なども、臨時採用、嘱託、派遣労働が増え、格差が拡大している。
 社会的格差を問題にする時、ワーキングプアや不安定雇用、貧困などが取り上げられることが多い。しかし、競争が拡大すれば、あらゆる階層、職業が格差の対象となる。かつて、格差の問題は、障害者、高齢者、失業者、ジェンダーなどが取り上げられることが多かったが、今では、高学歴者を含めて、多くの国民がグローバル化した競争がもたらす社会的格差のリスクにさらされている。弁護士も、法科大学院と司法研修所で多額の借金を背負い、若い弁護士の収入確保の困難さだけでなく、高齢、事故、病気などにより、簡単に生活困難に陥る。もともと、弁護士は保障が少なく、リスクを伴う職種だが、競争と格差の拡大がリスクを増大させる。
 現在、経済的格差だけでなく、格差の内容が多様化し、希望、生き甲斐、文化、価値観などの格差にまで拡大している点が重要である。ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは、価値ある生き方を選択する自由における格差を問題にし、必要最低限の基礎的機能を実現する「潜在能力」を欠く状態が「貧困」だという。自分の進路や職業を自由に選択できるだけの環境と能力に恵まれた者もいれば、職業を選択する自由どころか就業すらできない者もいる。自己決定の自由における格差は、個人の幸福の追求を妨げる。
 格差という日本語には独特のニュアンスがある。「格差」という言葉に英語のdifferenceが当てられるが(ロールズの「difference principle」は「格差原理」と和訳されている)、differenceでは日本語の「格差」のニュアンスを正確に表現できない。「格差」という言葉には、等級の違いというニュアンスがあり、この言葉を人間に使用すれば、「人間に等級をつけて差別的扱いをする」という否定的なニュアンスが生じる。
 社会的格差は、債務整理、破産、解雇、離婚、DV事件、児童や高齢者の虐待、刑事事件などの原因になるだけでなく、労働環境、生活環境、人間関係、家族関係、意欲、希望などの格差をもたらし、さまざまな法的紛争をもたらす。
 社会的格差が意欲や希望の格差をもたらす。人間は、希望や展望がまったく持てなければ、生きることが難しい。意欲や希望の格差が、努力の差となり、格差の拡大につながるという悪循環が生じる。
 最近、スネップ(SNEP)という言葉が誕生した。これは、20歳〜59歳の孤立した無職者をさしている。日本の公的な定義では、ニートの対象者を15歳〜34歳としており(この点で、イギリス発祥のNEETとは概念が異なる)、彼らは10〜20年経てば、ニートの対象からはみ出てしまうので、スネップという概念が必要になった。不安定雇用者はスネップの予備軍になりうる。希望や展望の欠如は、個人のレベルでは意欲の喪失やさまざまな法的紛争をもたらし、社会的なレベルでは国の健全な発展を妨げる。
 弁護士は、依頼者から金をもらって成り立つ職業であり、依頼者の社会的格差の影響を受ける。 平成13年の司法制度審議会意見書は、法曹界に競争と格差の拡大をもたらす役割を担った。弁護士の競争が激しくなれば、一般の庶民にとって、一見便利になったように見えるが、実態はそうではない。競争の激しいアメリカの弁護士は5000ドル以下の少額事件を扱わず、少額事件の訴状や書面を作成するdocumennt preparerという職種が弁護士とは別に存在する(「入門アメリカの司法制度」、丸山徹、現代人文社、192,196頁、「現代アメリカの司法」、浅香吉幹、東京大学出版会、169頁)。公正の実現を積極的に妨げるのが、アメリカの弁護士の典型的なイメージのようである(「アメリカの危ないロイヤーたち」、リチャード・ズィトリン外、現代人文社)。
 弁護士の顧客層の社会的格差は、そのまま弁護士の社会的格差につながる。弁護士の偏在は、単なる弁護士の人口比の問題ではなく、弁護士が社会的富の偏在の影響を受けるために生じる問題である。都会と田舎の格差の拡大が弁護士の地域的偏在をもたらすが、都会でも階層間の弁護士の偏在がある。社会的富の偏在が、弁護士の偏在と弁護士間の格差をもたらす。

社会的格差と能力
 社会的格差の内容はさまざまであり、格差という言葉の意味が多義的で曖昧なため、議論が混乱する。
 社会的格差が生じる要因の第1に、資産、環境、機会の不平等があげられる。資産の違いが環境や機会の不平等を生み、社会的格差を拡大する。この点は、依然として大きな課題であるが、仮に、競争の機会の平等が実現されたとしても、人間の能力の差が社会的格差をもたらす。現実の社会的格差は、機会の不平等と人間の能力差の両方によってもたらされている。かつては、資産の有無が学歴の格差と社会的格差をもたらしたが、現在では、大学に行ったとしても、安定した生活は保障されない。資産や学歴がなくても、能力さえあれば、起業、スポーツ、芸術、芸能、文学などの分野で社会的成功を得ることが可能である。能力には生まれつきのものと後天的なものがあり、後者は、資産、機会、努力、資質などが大きく影響する。
 ロールズは、社会的格差の要因として、資産の不平等とともに、生まれつきの能力(natural talents、natural endowment、natural capacity)の不平等をあげている(「正義論」、ジョン・ロールズ、紀伊国屋書店)。古くは、ルソーも、能力や体力などの人間の自然的な不平等と政治的不平等を取り上げ、自然的な不平等が政治的なものによって強化されることを問題にした(「人間不平等起源論」、ルソー)。
 人間には生物としての個体差があり、能力の差がある。資産や機会の不平等は大きなハンディキャップになるが、能力があれば、そのハンディキャップを乗り越えることが可能になる。
 アメリカでは、能力差がもたらす社会的格差が容認されるようだ。アメリカでは、大リーグの選手の億単位の高額な年俸、有名ロースクールの教授の年俸が3000万円〜5000万円であること(「アメリカ・ロースクールの凋落」、ブライアン・タマナハ、花伝社、71頁)、巨大ローファームの弁護士の初任給年俸が1600万円、トップクラスの企業の法務職(弁護士)の初任給年俸も1600万円であること(同書143頁)、トップクラスの勤務医の年俸が1億円近いこと、弁護士の高額な弁護士費用が当たり前になっている。
 他方、日本では、能力差が格差をもたらすことに多くの人が反発する。そのため、医師、公務員、大学教授などの収入格差が小さく、従来、横並びの賃金体系が維持されてきた。日本では、「頑張れば、誰でもできる」、「人間に能力の差はない」という言葉が好まれる。それが、「できない」のは「怠けている」からだという自己責任論をもたらしている。しかし、現実には、生まれつきの能力差があり、資質の差が後天的な能力形成に大きく影響している。
 北欧などでは、義務教育課程で、個人別、進度別の教育が当たり前であるが、日本の世論はそのような教育を「差別」だとみなす。しかし、先天的な能力と後天的な能力に関係なく(その点を区別する意味がない)、人間に個体差があり、それを無視するのは非科学的である。
 ヒマラヤなどでの登山では、人間の個体差、能力差に応じて行動しなければ、簡単に命を失う。過酷な環境では、人間の身心の能力の差が現れやすい。高山では、強い者は「より強く」、弱い者は「より弱く」なる。しかし、高山では人間の能力差が経済的格差に結びつくことはない。都会では人間の生物的な能力差が人工物で補完されて見えにくいが、高山では人間の能力差は、単純で明快である。
 社会的格差の多くは、資産と機会の不平等以外に、知的能力の格差によって生じる。また、心身の障害、病弱、高齢などの身体能力の格差も社会的格差につながりやすい。

能力の多様性
 もっとも、人間の能力は多様であり、人間の能力をすべて把握することはほとんど不可能である。登山では、危険性の予知能力、空間認知能力などの知的能力や、高所順応力、身心のバランス、ストレス耐性、免役力などが必要だが、これらを科学的に測定するのは難しい。これらの能力は先天的なものもあれば、後天的なものもある。これらの能力は経済的利益と結びつかないので、ほとんどの人は関心を持たないが、登山の経験を通じて、人間に多様な未知の能力があること、日常生活で使用する能力は、人間の能力のほんの一部であることがわかる。
 人間の能力の差が社会的格差をもたらすという時、そこでもっぱら問題になるのは、経済的利益の獲得に関する能力である。現在生じている職業をめぐる格差は、もっぱら経済的観点に基づくことが多い。
 A・H・マスローも述べるように、衣食住が満たされて初めて、より高次の欲求が生まれる。生活が成り立たなければ、意欲や希望を持ちにくい。いかなる能力が経済的利益をもたらすかは、時代と社会によって違う。今の時代は、知的能力の差が社会的格差につながりやすい。この能力には、記憶力、理解力、創造力、思考力、忍耐力、コミュニケーション能力、統率力、リスクを予見する能力などが含まれる。
人間の能力が多様であること、人間に能力の個体差があることが生物的事実であることは、本来、差別や偏見とは何の関係もない。しかし、人間の能力の中で、経済的な利益をもたらす能力の差が社会的格差をもたらし、その能力の欠如が人間の生存を困難にする。その結果、経済的な利益をもたらす能力が低いことは、人間としての価値が低いという偏見をもたらしやすい。経済的な利益をもたらす能力が低いことを認めることは、人間としての価値の否定であり、誰もが受け入れがたいものとなる。
 人間の能力差を認めないことは、非科学的な頑張りを強要する精神主義をもたらしやすい。ルソーが、人間の知識の中で最も必要なのに最も進んでいないものは人間に関する知識だと書いたのは、1753年のことである(「人間不平等起源論」)。その後の260年間の人間科学の発達は著しいが、それでも人間に関して大切なことはほとんど何も理解されていない。日本では、相変わらず非科学的な精神主義が蔓延している。義務教育の場で、生徒の能力差を無視して同じ内容を教えることは、教える側も、学ぶ側も「労多くして、効少ない」。生徒の進度や能力に応じて教えれば、生徒も理解でき、勉強する意欲につながりやすい。苦労することなく簡単に正解に達する生徒と、どんなに努力しても正解に達しない生徒では、置かれている条件が余りにも不公平である。
 
社会的格差の偶然性
 社会的な格差をもたらす資産、環境、先天的能力、後天的能力の格差は偶然的事実に左右される。たまたま、その人が資産や能力に恵まれた個体として生まれるかどうかは、偶然に左右される。事故や病気による能力の喪失も、運、不運による。
 ロールズは、人間が誕生する前の資産や才能、境遇等が一切決定されていない理念上の原初状態を考え、それが誕生と同時にさまざまな条件が与えられることを指摘した。原初状態の人間は「無知のヴェール」で覆われ、自分が何者であるかが未決定である。たまたまその人が、資産や能力に恵まれて生まれるか、それらに恵まれることなく生まれるかが、社会的格差につながる。理解力、判断力、注意力、統率力、協調性などが、採用や昇進のうえで重要な役割を果たす。このような能力や資質は、先天的なものと後天的なものの両方が混在し、両者を区別するのは無理である。
 いかなる属性の人間として生まれるかは自然の気まぐれに左右され、それが社会的格差につながる。自然の偶然性がもたらす格差を解消することが公平、公正である。ロールズは、生まれつきの才能は共通の財産(common asset)であり、分配が必要だと述べる。これは、かなり大胆な主張である。
 
能力と努力
 能力主義や業績主義は、能力差の由来に関心を持たない。経済モデルの多くは、人間の努力と意思決定の差が達成度の違いをもたらすことを想定し、人間の能力差を考慮しない。このような考え方は、機会さえ平等であれば公平を実現できるとし、自由競争を正当化する。しかし、個人が支配する資源(資産、環境、能力)は「自由の手段」として重視な意味を持ち、これらが後天的な能力の獲得を左右し、社会的格差をもたらす。
 日本では、極端な能力差、障害者、事故の後遺障害、精神疾患などに由来する能力差は認知されるが、それらを除けば、人間の能力差が無視されやすい。人間の能力差を認めることは、人間の価値をランクづけすることであり、「差別」とみなす風潮がある。しかし、現実には、能力の違いが持つ意味は大きい。
 人間の行動は、遺伝子が決定するのか、環境や教育が決定するのかが議論されているが、その両方が人間の行動に関係していると考えられる(「やわらかな遺伝子」、マット・リドレー、紀伊国屋書店、「遺伝子の不都合な真実」、安藤寿康、筑摩書房など)。人間に生来の能力差があり、IQの数値に遺伝の部分が大きいことが、科学的に確認されている。ただし、このような先天的な能力は、その後の環境、教育、努力に左右され、生まれつきの能力と後天的な努力に基づく能力を区別することは難しい。
 大学の同級生の中に、狙った方角にボールを投げることのできない者がいた。投げたボールがどの方角に向かうかは、筋肉と神経の気まぐれに左右され、投げた本人にもわからない。ほぼ100パーセントの確率で当人の狙った方角と違う方角にボールが向かう光景は、私にとって非常に不思議な現象だった。しかし、その学生は、英語の辞書を1度引くだけで英語の単語を完全に記憶することができた。単語や固有名詞を覚えるのが苦手な私には、これまた、非常に不思議な現象なのだった。人間の記憶のメカニズムは完全には解明されておらず(「遺伝子が明かす脳と心のからくり」、石浦章一、羊土社)、人間の能力の個体差は、実に神秘的である。同程度の能力の者の間の競争では、努力の差と資産の差が成果に反映しやすいが、現実には、人間の能力には先天的に多様な格差がある。
 国民栄誉賞を受賞した冒険家の植村直己の行動は、教育・企業関係者から、その「頑張り」が取り上げられることが多かったが、多くの困難な冒険を支えたのは、植村直己の身心の頑健さである。これは素質+トレーニングによる。80歳でエベレストに登頂した三浦雄一郎の場合も、同様である。酸素ボンベを使用すれば、8000メートルも平地と同じであるが、他方で、胃腸や心肺などの内蔵の強さがなければ、過酷な登山活動ができない。身心の頑健さは先天的な資質が関係する。
 「頑張るかどうか」は、意思や気持ちの問題だとみなされやすいが、人間の能力や資質が大きく関係する。同じ過重な業務に従事しても、身心へのストレスの少ない者もいれば、過労死する者もいる。身心のストレス耐性の個人差は、厳しい労働や勉強、過酷な生活、激しいスポーツ、高所登山などで明瞭に現れる。高所登山では、身心のストレス耐性がなければ、「頑張る」ことができない。そこでは、「頑張る」ことは、意思や気持ちだけの問題ではなく、身心のメカニズムの強さ(それは素質による部分が大きいが、科学的に解明されていない)の問題だということがよくわかる。しかし、平地での生活では、この点が見えにくい。
 実業家、企業の幹部、官僚、政治家、弁護士、研究者、スポーツ選手、冒険家などの中には、厳しい競争の中で驚異的な努力をする人がいる。彼らは、「頑張れば、夢は必ず実現できる」という言葉を好む。しかし、適性がなければ、どんなに頑張っても成果が出ない。
 また、いつの時代でも、どこの国でも、ほんの少しの競争にも耐えることができない種類の人間がいる。それは能力の欠如、意欲の欠如、性格的な弱さ、身体的虚弱、障害、病気や事故の後遺症、運・不運、生活環境の悪さ、知識の欠如などが影響する。この点は、生物的な資質の多様性と環境の影響の結果である。
 能力の有無が人間の意欲を左右しやすい。まったくの運動オンチに厳しい野球の練習を課しても、展望が見えず、ヤル気が起こらないが、才能に恵まれた者が練習すれば、成果がもたらす充実感によって意欲が生じやすい。能力の差は「希望格差」(「希望格差社会」、山田昌弘、ちくま文庫)をもたらしやすい。能力のある者がいっそう努力し、能力のない者は意欲を喪失しやすく、それが格差を拡大する。
 また、格差の大きい社会では、失敗した場合のリスクが大きく、それがリスクを伴う行動を抑制する。自分の能力や資質に自信のある、限られた者はリスクに挑戦するが、多くの者はリスクを回避しようとするのが通常である。オランダのように、「同一労働同一賃金」が保障された社会では、さまざまな挑戦をしやすい。日本の司法界にも、リスクに挑戦しにくい閉鎖的な構造がある。
 機会、能力、努力は密接に関連しており、これらは「機能」と総称することができ、「機能」の差が社会的格差をもたらす。アマルティア・センは、人間のcapability(「潜在能力」と訳されている)が価値ある生き方を選択する自由をもたらすと述べる。アマルティア・センのいうcapabilityは「機能」(functionings)の集合を意味し、厳密には、日本語の「潜在能力」と意味が異なる。
 人間の先天的・後天的な能力差を認めても、人間の能力の多様性を認めるならば、能力や資質の差はそれほど問題ではない。むしろ、その人の適性を見つけ、その能力を伸ばすことが重要である。人間の多様性を認めることは、努力しなくてよいということではない。努力しなければ進歩しないのは当然である。しかし、日本では、適性や資質に関係なく誰もが同じ方向に向かって、非科学的で無駄な頑張りをする場面が、あまりにも多い。
 頑張れば誰でも、「あらゆる夢を実現できる」わけではないが、頑張れば誰でも、「自分にふさわしい夢」を実現することができる。機会と能力の差が格差をもたらすとしても、人間の多様性に基づいて誰でも自己実現や幸福の追求をすることが可能である。

社会的公正と法律
 人間の生物的な個体差や能力差は必ず格差をもたらす。機会の均等が実現されても、能力差に基づく格差が生じる。人間の個体差が格差をもたらすことそのものが問題なのではなく、格差が個人の生存を危うくし、自己実現や幸福の追求を困難にすることが問題である。アマルティア・センは、必要最低限の基礎的機能を実現するcapability(「潜在能力」)を欠く状態が「貧困」だという。資産や機会の欠如だけでなく、文化や家族の機能の喪失、希望や意欲の喪失も貧困に含まれる。社会的に不遇な人たちの事件を多く扱った経験から言えば、貧困のこの定義は、実態と実感に合致する。経済的困窮者を含む生活困難者の多くが、何らかのcapabilityの問題を抱えている。この意味の「貧困」を解消し、社会的格差を是正することが、人間の幸福追求の実現をめざす憲法の理念に合致する。
 一般に、法律は、社会的格差の解消をめざす性格と、それを維持、拡大する性格を合わせ持つ。法の支配のもとでは、「合法的な社会的格差」の範囲は司法が画する。労働契約、消費者契約、約款、念書、免責同意書などの解釈、解雇、各種の正当事由、権利濫用、注意義務の認定、破産手続の運用、成年後見、家事事件、刑事裁判などで、社会的格差が多くの問題をもたらす。雇う側と雇われる側はもともと対等ではないが、社会的格差の拡大は公正な契約の前提を喪失させる。契約の場面では、環境、知的能力、経済力などの格差が意思決定を左右する。一般の庶民は、分厚い保険約款を読まないし、仮に読んでも正確に理解できない人が多い。雇用契約や消費者契約の場面などで、現実に存在しない当事者の対等性や意思決定の自由があると考えるのは、法的な擬制に過ぎない。
 当然のことながら、法律家は、最低賃金法、労働基準法などの実定法や、過去の判例、学説などの枠の中で考えるという制約を課される。現実には、実定法や判例では解決できない問題が多く、そこに「悩み」が生じる。通説、判例に従って法律を適用し、事実を認定することは、行政も行っている。社会的格差は、役所が行う紛争解決に重要な機能を担わせる。庶民にとって、時間と金のかかる司法よりも、タダで利用できる行政による紛争解決の方が都合がよい。福祉、労働、教育などに関わる法的紛争は、弁護士ではなく、役所の窓口に相談が持ち込まれることが多い(役所の窓口に持ち込まれる公害紛争は、年間約10万件あると言われている。「裁判と社会」、ダニエル・H・フット、NTT出版、78頁)。
しかし、スタッフの法的能力の点で、国、大きな自治体と小さな自治体では雲泥の格差がある。国には、優秀な国家公務員法律職、裁判官・検察官の出向者がいる。また、税法は国税庁の職員、消費者法は消費者庁の職員、労働法や年金は厚生労働省の職員、環境法は環境省の職員、登記関係は法務局の職員が、それぞれ弁護士以上に専門的な知識を有している。他方、小さな自治体には法律の専門家がいない。自治体間で、財政力だけでなく、職員の能力における格差が大きい。自治体の消費者、公害、障害者、高齢者、教育などの問題解決に弁護士が従事することが増えているが、役所に雇用される弁護士はその独立性を期待できない。行政と市民が対立する場面では、行政に雇用される弁護士や行政の代理人の弁護士が、市民に対し公平に行動することを期待できない。ドイツで年間約15万件、フランスで年間約10万件、アメリカでは無数(民事訴訟と行政訴訟の区別がない)の行政訴訟があり、日本でも潜在的にはそれに近い紛争が存在する(現実には、日本の行政訴訟件数は年間3000件程度である)。行政と市民の間の紛争を公正に解決するには、弁護士が行政から独立していることが必要である。
 弁護士が、行政上の委員会などで第三者的に行政と関わる場合、弁護士は公正を実現すべき役割を担う。国や自治体は、個々の職員の意思に関係なく政治の影響を強く受ける。弁護士は、無意識のうちに行政を追認する役割を果たすことがある。弁護士が行政から自立するためには、社会的・政治的・経済的な自立性が必要である。この点は大学の研究者も同じである。弁護士の競争と格差は、弁護士の自立性をいっそう危うくする。
 社会的格差は証拠に対する無知と立証上の格差をもたらし、能力のない者は本人訴訟で不利である。知的能力の欠如が冤罪事件をもたらしやすい。うつ病や障害等のために当事者尋問・証人尋問を実施できなければ、裁判で不利に扱われる。雇用上の格差は休暇取得の格差、訴訟活動上の格差につながる。
 法律が実現しようとする「正義」の中に「公正」の観念が含まれる。自由競争の社会において、個人の格差が司法上の格差をもたらすことは避けられないが、それは「公正」に反するものであってはならない。「公正」は、結果だけでなく、手続や過程にも必要である。法律家が「常時」立会しない調停は、「話し合いの過程」に「公正」が担保されない恐れがある。
 公正の実現のためには、法律の解釈や運用が現実社会で持つ意味を考えなければならない。一般に、あらゆる理論は、際限なく細分化、緻密化することが可能であるが、細分化、緻密化すればするほど視野が狭くなり、現実から遊離する。現実から遮断された理論の世界は、価値判断から解放され、同時に、現実が提起する「悩み」からも解放される。狭い専門領域の中で「ガラパゴス化」した理論は、多様な人間の一部を切り取って顕微鏡で観察して、人間を論じるようなもので、結局、ものごと(全体)がますますわからなくなる。
 現実の人間行動は多様であり、それをすべて認識することは不可能である。災害防止マニュアルは、大災害がある度に細分化、緻密化され、際限なく分量が増えていく。しかし、現実の災害と人間行動の多様性を把握することは不可能であり、マニュアルを緻密にすればするほど、災害時に役に立たなくなる。社会理論は、人間と社会が持つ多様性のうち、特定の要素を重視する(例えば、経済学における「効用」など)。しかし、人間の能力や個性を無視して財が持つ「効用」を考えても意味がない。人間の能力や個性は多様である。ラートブルフも述べるように、法律は必ず一定の人間像を想定する。合理的な人間像は、人間関係を効率よく処理するための、ある種のテクニックである。
 どのような人間像を想定しても、理論と現実の間にギャップがある。リスクの高い行動や津波災害、原発事故などの法的問題を考える場合には、ミスを犯しやすい現実の人間像を想定する必要がある。リスクの認識能力や「こうすれば、ああなる」を考える能力には、社会的格差が反映する。環境や能力に恵まれない者ほど、先入観、洗脳、不合理な慣習、権威、マスメデイアなどの影響を受けやすく、賢明な自己決定ができない。
 医師は、生身の患者を診ることなく検査数値と理屈に依拠するだけでは、適切な治療はできない。同様に、法律家は、現実の社会と人間を認識したうえで解釈、運用し、その結果の検証が必要である。医療は患者を通して検証でき、その点に科学性があるが、法律の解釈・運用の検証は難しい。
 弁護士は、常に、社会的格差との関わりの中で仕事をしている。解雇、リストラ、賃金未払、債務整理、破産事件、生活保護、年金などはもちろんだが、賃貸借、離婚、交通事故、相続なども社会的格差と無関係ではない。離婚、DV、虐待などの家族内の紛争も、その根底に社会的格差の問題が影響していることが多い。児童虐待、高齢者虐待、親族間の紛争の多くが生活環境の問題を抱えている。介護や親子関係をめぐる悩みから親族間の殺傷事件が後を絶たない。ニートや引きこもりは、社会的機能の欠如という意味で、アマルティア・センのいう「貧困」の定義に該当する。社会的機能の欠如は意欲を喪失させ、「希望格差」をもたらしやすい。
 ヘイストスピーチ、モンスターペアレント、インターネットでの名誉毀損、誹謗中傷などについては、社会的格差がもたらすストレスや不満の発散のはけ口になりやすい。過度に抑圧されてストレスを抱える人は、他人への非難や攻撃に快感を感じることがある。学校で些細なトラブルがあった時、親がモンスターになるかどうかは、親の経済状況や生活環境が大きく影響する。
 かつては、資産がなければ、法的紛争と無縁だったが、今では、それらの欠如が法的紛争の原因になる。資産があれば、その取り合いをめぐる紛争が生じる。 社会的格差が、紛争解決を難しくするケースが少なくない。社会的格差が事件の内容に大きく影響し、富の偏在が弁護士の偏在と格差をもたらす。弁護士という職業は、意識すると意識しないとに関わらず、社会的格差との関わりを避けることができない。弁護士は、どのような事件を扱うにしても、事件や紛争の根底にある社会経済的な構造を理解することが必要である。そのうえで社会的公正を実現することが、「社会正義を実現することを使命とする」(弁護士法1条)弁護士の職務に含まれる(広島弁護士会会報96号、2014年)。