過疎地から見た弁護士偏在 青年法律家368号,2001
                               
                                 弁護士  溝手康史

 弁護士の偏在問題が取り上げられ、日弁連や弁護士会が法律相談センターや公設事務所を設置し、司法制度改革審議会は法曹の大幅増員を提言している。
 私は、九年近く広島市内で弁護士をした後、五年前に、当時ゼロワン地域と呼ばれていた広島県三次(みよし)市に移転し、三次市に新たに法律事務所を開設した。
 ここで、私は、弁護士過疎地の実態をふまえたうえで弁護士の偏在問題について若干の提言をしたい(ただし、あくまで私の経験に基づくものだというという制約を免れない)。
 三次市は人口約4万人、広島地裁三次支部管内の人口は約14万人、管内の面積は広島県の約三分の一に及ぶが、管内の弁護士は現在二名である。
 開業後、一か月くらいしてから相談がけっこう入るようになり、1年も経てば、この地域での事件の収入により事務所経営は安定するようになった。
 現在、私は、この地域で年間300件以上の相談を処理し、年間30回以上の当番弁護士出動、月1〜2回の法律相談、多くの国選事件、破産管財事件、民事・家事調停委員、後見人就任、各種公的委員などのほか、破産、民事、刑事事件、債務整理、交渉事件を処理し極めて忙しい。5年前、広島地方裁判所三次支部の破産事件は年間約30件だったが、昨年は年間約120件であり、そのうち、半分近くは私が増やした事件である。私の車の走行距離は年間約4万5000キロになる。
 
 なぜ、弁護士過疎地で開業する弁護士が少ないのか。
まず、前提としてこの地域の司法の実情を明らかにする必要がある。
 開業当初、私は、この地域では5000円の相談料を払えない人がけっこういることに驚いた。
 大量の借金や破産の相談が押し寄せ、破産申立を依頼したいという人は多いが、弁護士費用を用意できない人が多い。そこで、私は、破産の本人申立を指導したり、低額の費用で破産申立書類の作成の代行をしたりして苦労している。それでも、費用を用意できないために、破産申立を断念する人は多い。この地域における破産予備軍のうち、実際に破産申立できる人は全体の一割程度ではないかと思っている。
 調停事件は多いが、ほとんど弁護士が付いていない。また、弁護士が付いていない民事訴訟も多い。それは、弁護士が少ないからと言うよりも、当事者が弁護士費用を用意できないか、弁護士費用をかけるメリットがないと感じるからだと思われる。
 民事訴訟や行政訴訟を起こしたいという相談は多いが、実際に訴訟を起こす人は少ない。この地域では、破産事件(年間約120件)や調停事件(年間100件以上)は多いが、訴訟事件数は人口に較べて多くないという実情がある(年間約60件)。
この地域で訴訟事件が少ないのは民事紛争が少ないからではない。この地域では、ほとんどの人に持ち家があり、多くの人が宅地や農地、山林を所有しているから、土地に関する紛争は多い。しかし、弁護士費用、測量費用、鑑定費用、印紙代などの負担が障害になって裁判を起こせない人が多い。ほとんどの民事紛争の訴額が小さいために、弁護士費用をかけるメリットが少ないということがある。都会と田舎の所得の格差という問題もある。市民の経済的格差が、そのまま司法へのアクセスの格差になっているのが現実である。
 法律扶助の対象外の人でも、たいていは住宅ローンなどを抱え経済的余裕のない人が多く弁護士費用をすぐに用意できない。その結果、本人訴訟をするか、訴訟を断念するかしかない。
 他方で、感情的対立が激しい事件は、経済的採算を無視して訴訟を起こす傾向がある。
 行政事件や労働事件の相談も多いが、裁判に要する労力、費用、時間を聞くとほとんどの人が裁判を断念する。
 どのように考えても、この地域では、訴訟事件に関する限り、裁判所が紛争解決機能を十分果しているとは思えない。言い換えると、多くの市民は法的紛争があっても法律や裁判所をあてにしない(それでも、裁判所の職員は極めて忙しいという実態がある)。田舎で、民事紛争に「事件屋」、「暴力」、「実力行使」がまかり通っているのは、それなりの理由がある。
 このことが、多くの市民の弁護士、裁判所や司法に対する無関心を生んでいる。
 映画「日独裁判官物語」をこの地域で2回上映したが、「日本の裁判の現実に失望した」とショックを受けた人が多かった。そのような感想を聞くと、いかに裁判所や司法が市民から縁遠いものかを痛感させられる。
 司法にアクセスできない市民の存在はどこでも生じる問題であるが、地方や田舎になるほど問題がより顕著に現れるだけのことだろう。この問題は、都会では多くの事件に紛れて曖昧になってしまうが、弁護士が少ない地域では、比較的、その地域全体の司法の状況を把握しやすいということからより切実に感じるのである。

 この地域では、弁護士が代理人としてつかない民事訴訟、破産申立、調停申立が多く、また、国選事件の弁護人、破産管財人、後見人、調停委員などに就任する弁護士が不足し、裁判所はその選任にいつも苦労している。三次支部の多くの事件に、広島市内の弁護士など他地域の弁護士が代理人や管財人などになっている。そういう意味で、この地域の弁護士が足りないことは明らかである。
 また、被疑者公選弁護人制度の確立は必要であるが、制度の前提として、過疎地で弁護人を確保できるかという問題がある。裁判所から弁護士会に対し、過疎地の国選事件の弁護人も足りないのに、被疑者公選弁護人になる弁護士を確保できますか、という質問が出されるだろう。
 昨年私は当番弁護士として33回出動したが、管内の警察署は3つあり、そのうち二つの警察署は私の事務所から車で往復1時間30分、広島市内から車で往復3、4時間の距離にある。被疑者弁護人制度ができれば、恐らくこの地域で年間40件以上は被疑者弁護人が選任されることになるだろうが、この地域の弁護士の数が不足することは明らかである。
 ところで、この地域で弁護士が不足するというのは、国選事件、少額の破産管財事件、後見人、調停委員、法律扶助事件、弁護士費用をすぐに用意できない破産事件、少額の民事訴訟、当番弁護士、法律相談、債務整理、交渉事件、調停事件などに関して典型的に表われる。一定規模以上の民事訴訟、私選の刑事事件に関し(これらの件数はそれほど多くない)、弁護士費用をすぐに用意できるような階層の市民や企業は、広島市内の弁護士に簡単に依頼できるため(車で一時間余りの時間)それほど弁護士に不自由はしていない。
 弁護士過疎の問題は、これらの「実入りの少ない事件」を引き受ける弁護士が足りないという実情となって表われるが、これは、都会でも同様に生じている問題である。ただ、都会では弁護士の数が多いために弁護士の負担は分散されるが、弁護士が少ない地域では一人の弁護士の負担が極めて大きいという違いがある。
 交通機関が発達した現在では、弁護士過疎地といえどもほとんどの地域で(例外はあるだろうが)、資力のある企業や市民にとって都会の弁護士にアクセスするのはそれほど困難ではない。それができないのは、結局、経済的余裕のない一般市民ということになるのだろう。かつて、「自由と正義」で、交通機関が発達した今日では、過疎地の市民が都会の法律事務所まで来ればよいので、過疎地の弁護士は不要だと主張するある弁護士の文章を読んだことがあるが、確かに、弁護士にとってはその方が楽である。
大都市に人口や経済活動が集中している現在、弁護士の仕事そのものが大都市に多く存在し、大都市に弁護士が多いのは当然である。しかし、「弁護士の偏在」と言う時、人口や経済活動の差以上に弁護士が大都市に集中していることが問題となる。そして、過疎地では現実に前記のように多くの「実入りの少ない」仕事が残されている。

 私は、この問題の解決のためには、弁護士にかかる費用の問題を根本的に検討し直すことが必要だと感じている。
 国選事件、破産管財事件、後見人などの事件の報酬は、実際に要する労力や時間に応じた報酬にすることが必要である。
弁護士費用の負担が訴訟提起を断念させる大きな原因になっているので、平均的な所得の市民を法律扶助の対象とすること、弁護士費用を労力に比例させること、経済的採算のとれる弁護士費用にすること、法律扶助費の返還免除が不可欠である。地方では訴額の小さい事件が多いので、将来的には、例えば、地方において法律扶助専門の法律事務所が経済的に存立しうるような扶助費を設定する必要がある。
また、日弁連の報酬基準のように訴額を基準とした弁護士費用の制度は、地方で開業する弁護士が少なくなる傾向をもたらす。訴額によって弁護士費用に差を設ければ、弁護士は、自然に、訴額によって事件に軽重を付けてしまうのだろう。大都市に弁護士が集中する原因の一つに日弁連の報酬規定がある。
 現在、司法書士は、人口に応じて地方でも結構開業しているが、司法書士の手数料は不動産等の課税価格により若干の差はあるが、固定手数料に近い。もし、これが土地の価格に応じて累進的に手数料が増えていくとすれば、恐らく、司法書士は地価の高い大都会に偏在するという現象が生じるだろう。現在、司法書士については「偏在」はほとんど問題となっていない。
 また、私の事務所は三次市内でもとりわけ老人が多く居住する地区にあるが、近隣の医院の多さに驚かされる。もし、医療保険制度がなく、医者の収入が患者の経済力等に左右されれば、所得の少ない老人が多く住む地区に、これだけ多くの医院は存在していないだろう。他方で、私は、かつて貧富の差の激しいインドのデリーで金持ちの居住区に医院が集中しているのを見て驚いたことがある。
 法律扶助の基準も訴額を基準にしているが、これも労力、時間に応じた費用にすべきである。法律扶助の基準について訴額を基準にしているのは、扶助費の返還を原則としているために訴額に応じた本人負担という考え方があると思うが、法律扶助費の返還が不要になればそのような考え方をとる必要がなくなる。また、広大な土地が訴訟の対象の事件の場合、同じ内容の訴訟なのに、その土地が都会に近いかどうかで扶助費に差が生じるのは不合理である。
 また、弁護士が、市民の法的需要に応えるべく大量の事件を処理しようとする時、訴額によって着手金に細かい差があることは不合理である。
 例えば、交通事故の裁判で、弁護士の労力に差がないのに請求額によって着手金に差があれば、一般の市民は不合理だと感じるだろう。消費者破産事件について、ほとんどの弁護士が費用を定額にし、破産債権額に応じた着手金や報酬をもらっていないと思うが、消費者破産ではそれが当然だという感覚が弁護士にも市民にもある。
 弁護士の報酬基準、特に訴額に応じて着手金に細かい差があることは、一般の市民を対象とした事件では不合理である。日弁連の報酬基準に基づいて、高額な訴額の訴訟で高額な着手金を要求しても、そのような大金を一般の市民が払えるはずもないし、弁護士に対する信頼を増すことにはならない。
 私は、着手金については、訴訟の規模、予想される労力などに応じて、三、四段階程度に区分けすれば十分だと考えている。訴額に応じて高額な着手金を支払う制度は、一部の特権的な階層の人しか弁護士に依頼できなかった時代の、前近代的な弁護士制度の残滓の臭いがしてならない。弁護士の報酬規定が制定された当時、今日のような地価の高騰を予想してなかったはずである。市民の中に弁護士費用がわかりにくいという声が多いが、当然である。私自身、事件を受任する時、日弁連の報酬規定とは関係なく着手金の金額を決めることが多い。
成功報酬の考え方は長い間日本の弁護士の業界に根付いているので、ドイツのようにこれを禁止することは現実的ではないだろう。また、極めて困難な訴訟で、現実にそれだけの経済的利益が得られれば、現在のような成功報酬は不合理ではない。田舎の人も裁判に勝てば喜んで成功報酬を払ってくれる。
 弁護士偏在の原因には、日本の訴訟制度そのものに関わる問題があると思っているが、弁護士費用の問題も弁護士偏在の一つの原因になっていると私は考えている。
 一般に、弁護士の少ない地域の弁護士といえども一般市民に較べればはるかに高額の収入を得ているので、弁護士費用を問題にしても市民の共感を得にくい。また、弁護士費用の問題はどちらかというと触れることがタブー視される傾向があるが、事実は事実として指摘しないわけにはいかない。現状のままでは、弁護士人口が大幅に増えたとしても、弁護士の少ない地域で一部の奇特な弁護士が開業することはあるだろうが、ドイツのように「全国の津々浦々に弁護士がいる」状況とはほど遠いだろう。
 法律相談センターは一定の役割はあると思うが(三次市にも備北法律相談センターがある)、担当弁護士が自分が受けた相談の解決に責任を持たないという傾向があり、この地域の紛争の解決に責任を持つためには開業する弁護士が増えることが必要である。
 大量の破産予備軍をどうするか。この問題の解決のためには、全ての破産事件、民事再生、債務整理事件を法律扶助の対象にすることが必要である。破産事件が法律扶助の原則対象となると、確実に、破産事件は現在の数倍に増える。そうなると、裁判官、裁判所職員の大幅増員が必要となり、弁護士も必要になる。
 日本の司法改革は、今、ようやく始まったばかりだと私は思っている。