登山における危険性の認識
      Recognition of Risk of Mountaineering

 登山事故を回避するためには、事故の危険性を認識できることが重要である。事故の危険性の認識は、事実相互の因果法則や事故の蓋然性の程度を認識することである。それらは危険性に関する知見に基づいて行われるが、危険性に関する知見は情報に基づいて適用され、情報が的確に分析されることが必要である。情報は的確な文脈で分析する必要があり、そのためには一定の登山経験が前提になる。今まで経験したことがない未知の危険性を認識するためには、既に知っている危険性の知見を応用しなければならない。危険性に関する知見の応用範囲を広げ、危険性を認識する能力を高めるためには、意識的な訓練が必要である。その1つに危険予知トレーニングがあり、危険予知トレーニングを実際の登山の中で実践的、集団的に行うことが効果的である。


1、はじめに
 不可抗力による事故を除き、登山事故は登山者の不適切な行動によって生じる。登山道に鎖などを設置して転落事故を防止し、登山道の標識を整備することで道迷い事故を防止するなどのハード面での対策では、自然を対象とする登山では限界がある。登山者が事故の危険性を認識できれば、適切な行動、すなわち事故を回避する行動をとることが可能なので、事故の危険性を認識できるかどうかが重要である1)
 そこで、登山における危険性の認識とは何か、危険性を認識するために必要なことは何かといった点について以下に検討したい。

2、登山における危険性の認識
 登山における危険性は、一連の事実が生起する過程の中で事故が起きる蓋然性を意味する。いくつかの事実が引き続いて生じる時、ある事実が結果を引き起こす蓋然性が高いと評価されれば、原因と結果という因果法則が認められる。そして、その結果が人間に損害を与える場合に、原因とされる事実と結果との関係性が危険だと評価される。危険性を問題にする場合は、必ず、結果に至るまでの事実関係を想定しているのであって、結果だけを取り上げて危険性を問題にすることはありえない。
 したがって、危険性を認識することは、結果に至る事実相互の関係、及び、諸事実が結果をもたらす蓋然性の程度を認識することを意味する。危険性の認識が事実相互の関係性や蓋然性の認識であることは、事故に至る過程で生じる事実をどのように認識、分析、評価するかという点が重要であることを意味する。
 一般に、登山者に事故が生じる因果法則そのものを認識することは期待しにくい。「こうすれば事故が起きる」という関係を認識していないからこそ、事故を回避する行動をとらず、事故に至るのである。しかし、通常、登山者は事故に至る因果の過程で生じる種々の事実を認識しており、それらの事実が事故の蓋然性を有していることを認識できれば、危険性を認識し事故を回避するとが可能である。
 例えば、1989年10月8日に、北アルプスの立山を縦横中の10人が急激な天候悪化と吹雪のために8人が凍死した事故2)のケースでいえば、事故パーティーは、そのまま吹雪の中を行動すれば、途中で体力を消耗して動けなくなり、凍死するかもしれないことを認識していなかった。しかし、事故パーティーは、「一ノ越山荘に到着した時に既に降雪があった」、「その後、降雪が激しくなり、遅れる者が出始めた」、「一ノ越山荘から雄山の間を歩くのにコースタイムを大幅に上回る時間がかかった」、「雄山では相当疲労している者、食欲のない者、足に痙攣を起こす者、目眩がする者などがいた」などの事実や、自分たちの登山経験や体力のレベル、年齢を認識していた。これらの事実はこのパーティーにとって遭難をもたらす蓋然性のある事実だったのであり、それを認識できるかどうかが重要だった。
 また、2000年3月5日に、北アルプスの大日岳で開催された文部科学省登山研修所主催の大学山岳部リーダー冬山研修会で、雪庇の吹き溜まり部分が崩落して、研修生2名が死亡した事故がある3)。講師は雪庇の規模を10メートル程度と誤信し、雪庇の先端から10数メートルの位置で休憩したために、雪庇が崩落して事故になった。「雪庇の先端から10数メートルの位置で休憩する」ことは、雪庇が崩落する蓋然性を含む行為だった。講師は雪庇が崩落する蓋然性を認識していなかったが、「雪庇の先端から10数メートルの位置で休憩する」ことに雪庇崩落の蓋然性があることに気づけば事故を回避することが可能だった。
 道迷い遭難では、道を間違えたことや道を見失ったことを認識していなくても、「道が不明瞭である」、「山頂の見え方がおかしい」、「標識がまったくない」などの事実を認識していれば、遭難の蓋然性を認識することが可能になる。
 危険性そのものは目で見たり、耳で聞こえるものではない。山の稜線での吹雪は目に見えるが、危険性そのものが見えるわけではない。危険性が見慣れた光景として生じたり、山での吹雪や雷鳴のように危険性が映像や音に結びついている時は、危険性を認識しやすい。しかし、山の斜面の突然の大崩落やヒドンクレバスのように、事故が起きるまでは危険性が明確な映像を伴わない場合があり、その場合には思考によらなければ危険性を認識できない。危険性は「考える」ことで始めて認識できる。
 冬山で非常に気温が高い時、何日も雨が降り続いている時、非常に疲れている時、自分の技術や経験に不安がある時、降雪時などは、危険性を特定できないが漠然とした不安を感じることがあるが、それらも危険性の認識の1つの形態である。一般に、山の斜面の突然の大崩落を具体的に予見することは困難であるが、何日も雨が降り続いていれば、どこかの山域で、土砂崩れ、地滑り、落石、登山道の崩壊、土石流、雪渓の崩落などが生じるかも知れないと考えることは可能である。
 危険性を明確に認識できる場合とそうではない場合があるが、微かな危険性の兆候を見逃さないことが重要である。

3、危険性の程度
登山では事故の危険性がゼロということはありえず、登山における危険性は、「あるか、ないか」ではなく、「それがどの程度か」という問題である。一般に、事故が生じる蓋然性が低い場合は安全だとされ、高い場合に危険だとされるが、事故が生じる蓋然性を数字で表すことは困難である。統計数字で事故の確率を示すことはできるが、統計数字に基づく事故の確率は個別的条件が捨象されており、当該登山における事故の蓋然性ではない。
 登山者は、自分の頭の中にある危険性の尺度に基づいて、事故が生じる蓋然性の程度を考えて「危険である」とか「危険ではない」と判断するが、その判断が客観性をもつかどうかの検証は、通常、事故が起きるまで行われない。また、この判断を間違えても事故が起きなければ、一般に、判断ミスは見過ごされる。
 大日岳雪庇崩落事故のケースでいえば、雪庇が崩落したということは、雪庇崩落の蓋然性が高かったことになる。従来、雪庇の吹き溜まり部分を登行ルートに使用したり、雪庇の吹き溜まり部分を利用して雪洞を掘ることを紹介した本もあったが4)、それは雪庇の吹き溜まり部分が崩落する蓋然性がそれほど高くないと考えていたからである。雪庇の吹き溜まり部分が崩落する蓋然性は庇部分が崩落する蓋然性よりも低いことは間違いないが、その蓋然性の程度を測定することは不可能である。現実に雪庇の吹き溜まりが崩落して事故になったのだから、雪庇の吹き溜まりが崩落する危険性が高かったことになる。
 危険性の程度は諸事実の関連性やコントロール可能性の有無によって定まる。例えば、「雪の斜面の傾斜がきつい」ことが直ちに滑落の危険性をもたらすのではなく、危険性の程度は斜面の傾斜、地形、雪面のクラストの有無、気温、登山者の技術、装備、経験、慎重さの程度などによって規定される。地形上の危険度が高くても登山者に技術があれば、地形上の危険度をある程度コントロールでき、滑落の蓋然性は相対的に低下する。
 登山では危険性をまったく認識していないわけではなく、登山事故の多くは危険性の程度の判断を間違った場合である。滑りやすい登山道では、登山者はそれなりの注意をするが、滑りやすさの程度が注意のレベルを上回れば転倒する。雪崩事故の多くは、雪崩の蓋然性の程度の判断を間違えた結果である。
 
4、事実の関連性の認識 
 危険性を認識するためには、諸事実と事故という事実相互間の原因、結果の蓋然性の程度を予測することが必要である。人間は、ある事実や行為を認識した時、その事実が次にどのような事態をもたらすかを考え、その蓋然性の程度を予測し、事故の蓋然性が一定レベル以上であると判断される場合に、危険だと判断する。
 歴史的、社会的事実の事実相互の間には当然には原因、結果の関係はなく、原因、結果の関係は人間による事実相互の関係の評価に他ならない。この点で、歴史的、社会的事実における因果法則は、物理や化学の実験や数学の因果法則とは異なる。例えば、岩稜からの転落事故では、「その場所が細い稜線だった」、「岩が濡れており滑りやすかった」、「荷物が重すぎた」、「日没が迫っており、時間的にあせっていた」、「天候が悪かった」、「転落者の技術不足、不注意、体力不足、筋力不足」、「高齢だった」、「リーダーが危険個所で注意を喚起しなかった」、「登山道に転落防止用の鎖が設置されていなかった」などの事実が事故に関連している。これらの中から、一定の価値基準に基づいて特定の事実を選択し、事故をもたらす蓋然性の程度を判断することになる。
 登山中に道が不明瞭になった時、それを気にとめることなくそのまま進み、完全に道に迷ってしまう場合がある。「道が不明瞭」な場合、登山道からはずれていないこともあれば、「道迷い」の場合もある。ここでは「道が不明瞭」という事実から「遭難」、「死亡」に至る蓋然性の程度を予測することが必要になる。「道が不明瞭」という事実は、蓋然性の程度はさまざまだとしても、その次に「道迷い」や「遭難」、「死亡」をもたらす蓋然性を少なからず含んでいる。
 山の中で道に迷えば「遭難」の危険があることは誰でも知っているので、「山の中での道迷い→遭難」という因果法則の認識は容易である。しかし、「登山道が不明瞭→道迷い→遭難」という点を認識しなければ、「登山道が不明瞭」という事実がもたらす危険性に気づかない。
 前記のとおり、危険性は事実相互の関係性であるが、一般に、危険性を認識する時、「こういう場合に危険である」という法則ないし知見が用いられる。危険性を認識する時、ある事実の次にどのような事態が生じるかを予測し、生じる事態が人間に害悪を及ぼす蓋然性の程度を予測するが、そのような経験や知識を定型化したものが危険性に関する知見である。
 日常生活上の危険については定型化された知見が形成され、それを当てはめることで簡単に危険性を判断できる。「ナイフで手を切る危険がある」ことは日常生活上の危険であり、小さな子供以外は誰でもわかる。 しかし、「冬山での滑落や雪崩の危険」や「雪盲の危険」は日常生活からかけ離れた危険であり、日常生活上の知見から判断しにくい。仮に、冬山未経験者が滑落や雪崩の危険を認識するとしても、それは抽象的なレベルの認識にとどまる。「岩場や細い稜線から転落する危険」は日常生活の延長上の危険なので、比較的判断しやすい。
 危険性に関する知見は、経験や学習を通して社会的に獲得され、生活環境が知見の内容に影響する。登山に関して、@日常生活上の危険性に関する知見を登山に応用できること、A登山特有の危険性に関する知見を獲得することが必要であり、これが、登山における危険性の認識能力を規定する。
 初めて経験することについては誰でも危険性に関する知見を持っていないが、既に持っている危険性の知見を類推することによって、未知の危険性を認識できる。10月上旬の北アルプスの立山での事故と同じ経験や冬山経験がなくても、無雪期の登山経験に基づく知見に照らして、激しい風雪の中をパーティーが相当疲労して時間的にコースタイムから大きく遅れて歩くことの危険性を予測することが可能である。しかし、初めて岩登りをする者が、日常生活上の危険性の知見から岩登りの危険性をすべて認識することは無理である。岩登り特有の危険性の知見を獲得する過程が必要であり、それが経験である。
 事故はいくつもの原因となる事実が重なって起きるのであり、危険性は重層的、複合的な構造を持つ。1つ1つの事実は、事故を引き起こす蓋然性が低くても、それらが積み重なって事故の蓋然性が高くなる場合があり、危険性を減少させる事実もある。危険性は多くの事実の関係性で定まる相対的なものであり、関係性を分析して危険性を判断する能力を身につけるためには、そのような知識、経験、訓練が必要である。

5、情報の分析
危険性に関する知見を適用するためには一定の情報が前提になるが、情報を的確に分析しなければ知見を正しく適用できない。
 前記の立山での遭難事故のケースでは、登山者は、「激しい降雪の中を歩いた」、「コースタイムを大幅に上回る時間がかかった」、「疲労のために遅れる者が続出した」などの情報を把握していたが、遭難の危険性を認識できなかった。道迷い遭難の場合、「途中から道が不明瞭になった」、「山頂の見え方がおかしい」、「標識がまったくない」、「地形や景色がおかしい」、「他の登山者が歩いた形跡に乏しい」などの情報をどのように分析するかが重要である。
 この場合、情報の分析をどういう文脈の中で行うかが重要である。重要な情報を得たとしても、分析する文脈が正しくなければ、重要な情報が無意味になる。例えば、登山中に、丹念に地図を見て「地図にない分岐点や登山道がある」ことに気づいたとしても、地図の正確性という文脈で考えれば、「登山地図に記載されていない道がある」、「この地図は正確ではない」と考えてしまうかもしれない。「地図にない分岐点や登山道がある」という情報を「ルートは正しいか」という文脈で分析して始めて、「道を間違えたのかもしれない」ことを認識できる。
 文脈とは、その中に経験がはめ込まれる全体的状況をいい5)、登山に関して的確な文脈で情報を分析するためには、全体的な視野から考察できるだけの登山経験が必要である。「地図にない分岐点や登山道がある」事実を、登山道、分岐点、地図、方角、道迷いなどの関係という登山の全体的状況から分析することが必要であるが、それは経験による。
 「登山道が不明瞭になった」ことに気づくためには、登山道が不明瞭かどうかを判断できる基準を持っていなければならないが、それは多くの登山道を歩く経験をすることによって得られる知見である。
 1つの事実はいくつもの情報を含んでおり、情報の分析は、重要な情報とそうではない情報を選別する作業である。沢の傍にテントを張ることは、テントを張りやすく、水を得やすいが、同時に沢の増水時の危険性がある。天気予報ではその日は雨が降る可能性が少なくても、それは平地での予報であり、山では雨が降る可能性が皆無ではない。また、沢の上流で雨が降る可能性、数日前の雨のために沢が増水する可能性があり、これらが重要な情報である。
 人間の網膜に映った情報は複雑な視覚経路の中を伝達されていく間に変換されるので6)、人間は「見える」通りに認識するわけではない。ものごとは「自分が見たい」ように見えることがある。沢登り用の踏み跡や沢水の流れた跡を登山道だと思いこめば、登山道のように見える。
 また、人間は1つのことに注意している時、他のことはたとえ目で見たとしても(したがって、網膜に映像が映ったとしても)認識できない(注意の選択性)。崖沿いの登山道では、登山道から転落しないことに注意を向けている時は、崖の上からの落石の危険性を認識できない。崖の下と上の危険性を同時に認識することはできないが、崖の下を見た後に崖の上を見ることを瞬時に行えば足り、それは経験による。自分の体力や技術のレベル以上の登山をすると、目の前の危険に対処することに精一杯で別の危険に気づきにくいが、これも注意の選択性の結果である。
 冬山で沢を下山コースにとって雪崩に巻き込まれる事故があるが7)、「沢は雪崩の危険がある」ことを知っていても、「早く下山したい」というあせりと願望が、「雪崩れない」という判断に結びつくことがある。人間は根拠があってもなくても確信することが可能であり、確信は感覚の産物である。基本的に、感覚にはいい加減な面がある。
 人間が得る情報はすべて人間の五感を通しており、基本的に感覚に基づいている。したがって、人間の認識過程自体に感覚に頼る面があるうえに、さらに、思い込み、過信、自信の欠如、不安、あせり、プライド、依存心などの心理的要素や、時間的制約、経済的制約、パーティーの人間関係などの社会的要素が的確な情報の分析の妨げとなる。
 人間はこれらの影響から完全に免れることはできないが、自分の判断を他人の判断や過去の多様な経験によって検証することが必要である。ある判断についてパーティーの他のメンバーと議論したり、自分や他人の経験を参考にしたり、他の登山者からの情報収集などにより、危険性の判断における独善性を最小限に抑えることができる。登山パーティーの同質性は迅速な意思決定や効率をもたらすが(引率型のパーティーも同じ)、パーティーのメンバーの経験や考え方の多様性は、安全な登山のために必要である。

6、知見等の認識のレベル
危険性の認識の前提となる危険性の知見が実際の登山で役に立つかどうかについては、認識のレベルが重要である。
 1999年8月に神奈川県の玄倉川の川原でキャンプ中の18人が増水した川の中洲に取り残され、14人が水死した事故がある8)。この事故については、「事故前日の夕方から雨が降っていた」、「事故前日に増水の放送がなされた」、「事故前日の夜間に、警察署員が撤収の勧告を行った」などの事実があり、キャンプをしていた人たちは、これらの情報を把握していた。また、常識として「川が増水すれば危険である」ことを知っていたはずだが、事故を回避できなかった。
 他方で、沢登りをする登山者は、通常、雨が降っていなくても、沢が増水することを考慮して幕営地を沢よりも高い場所にするのが一般的である。それでも、夜中に雨が降れば、沢の水位の監視が必要になる。また、いつでも上方に逃げることができる退避路を確保しておかなければならない。
 両者を対比した場合、増水による沢登り中の事故がないわけではないが、沢登り経験者は、雨によって沢がどのように増水するかを経験的に知っているので、増水による危険を現実のものとして真剣に考える。しかし、玄倉川のキャンパーは、「川が増水すれば危険である」ことを知っていても、それが経験に裏づけられたものでなければ、現実の危険として受けとめることがなかったのだろう。言葉のうえの知識と経験に基づく知識では、行動という局面では決定的な違いがある。前者は抽象的レベルの認識であり、後者は具体的レベルの認識だということができる。
 川で流された経験がなくても、普段は細流となっている都会の水路が降雨のために激流になることを目撃すれば、増水の危険性を認識できる。あるいは、都会の水路を、「もし、増水した水路に子どもが落ちたらどうなるか」という観点から観察すれば、そこに大きな危険が潜んでいることに気づく。コンクリートで固められた都会の水路は、そこに落ちると簡単に脱出できない構造のものが多く、水路に落ちた者の脱出方法や激流に流されないための退避場所まで考えていない。このような視点で水路を観察せず、漫然と水路を眺めるだけでは危険性は見えない。都会の水路は日常生活と関係がないので、多くの人は水路の水量や構造に関心を持たないが、沢登りでは嫌でも沢の水量や形状に敏感になる。この違いが、降雨による危険性の認識の仕方の違いになる。「川が増水すると危険である」ことを言葉のうえで知っていることと、経験を通して知っていることは、認識のレベルが異なる。実際の登山で活用できるのは、経験に関連づけられた知見である。
 もちろん、書物や映像、伝聞などを通して得る知識が登山で必要ないということではない。むしろ、雪崩のメカニズムや登山用具に関する情報、登山記録など書物等を通して得る知識が危険性の知見の前提になる場合は多い。

7、未経験の危険
過去に類似の経験のある事態については、危険性を認識し事故を回避しやすいが、それまで経験したことのない事態については危険性を認識しにくい。
 前記の北アルプスの立山での事故のケースでは、事故パーティーは悪天候と風雪、疲労を認識していたが、それが凍死をもたらす蓋然性を認識できなかった。過去に夏に悪天候で苦労した経験があっても、「夏は悪天候でも歩けたので、今回も大丈夫」と考えれば経験を生かすことができない。
 事故パーティーにとって、秋の北アルプスにおける凍死は未経験の危険だったが、ここでは、類似の経験はなくても他の経験から危険性を類推できるかどうかが重要である。ここで必要とされる判断は、長時間の歩行による疲労、強風による体力の消耗、歩くペースの低下、食欲不振、痙攣、目眩などの疲労の兆候から、途中で歩けなくなる事態を予測することだった。これは、稜線で風雪に見舞われた経験や冬山経験の有無に関係のない、無雪期の登山経験に基づく危険性の判断である。これを経験したことのない風雪の中の縦走に応用することができるかどうかが重要である。
 登山道の登り降り、ガレ場、岩場、岩稜の通過などは歩くという行為に伴う種々の危険性の知見が応用される。過去の経験に基づいて、登山道がどういう状態の時にスリップしやすいかを判断して、登山道での一歩を踏み出すが、それは足の置き方の応用力による。
 登山の危険性は、その山の困難度やその時の天候、登山者の技術、体力に左右されるので、過去の登山とまったく同じ危険性はありえず、危険性の内容のどこかに違いがある。程度の差はあっても登山では必ず未経験の危険が伴うのであって、過去の経験や知識に基づく危険性の知見を応用できることが必要になる。この点は個人差が大きく、危険性の知見の応用力の違いがその人の登山の安全度の違いになる。
 山での降雨や強風、降雪はその時の状況に応じて千差万別であり、登山者の体力や体調、技術もさまざである。その時の状況に応じて、危険性に関する知見を応用して、臨機応変に対応しなけばならない。
 登山は危険性の認識の訓練の機会を提供するが、危険性を伴わない登山を繰り返すだけでは、認識と経験はその範囲を出ることがない。その場合でも、いろんな危険性を想定し危険性を予測することによって、危険性に関する知見の応用の範囲が広がる。ハイキングの時に、途中で道に迷う可能性を想定しながら歩けば、いたる所に「道迷いの危険個所」が見えることが多い。そのような経験は、ハイキングで道迷いしかけた時や、より困難な山歩きをする時に役に立つ。
冬山の危険性を予測しながら残雪期の登山を行うことで、その登山で得た知見を冬山登山に応用することが可能になる。
 危険性の知見を応用する際、認識可能な危険性と認識不可能な危険性を区別する必要がある。自然には人間がどんなに努力しても「わからない部分」があり、危険性の知見を応用しても、やはり「わからない」ことが多い。ものごとがわかるためには、「わかること」と「わからないこと」を区別できることが前提になる9)。例えば、雪渓が崩壊するかどうかは、雪渓の内部を科学的に探査しなければ正確に判断できない。雪渓が崩壊する危険性があるかどうかわからないと考えれば、雪渓に近づかないという選択が可能である。岩登りなどでは、岩場の取付きまで雪渓を登らざるを得ないことがあるが、これは、ある意味では雪渓が崩壊する危険性を承認したうえでの行動である。そのような危険性を承認できない登山者は、雪渓に近づかないという選択をすべきである。
 登山経験の蓄積とともに危険性に関する知見の範囲が広がるが、登山経験の範囲を広げることは、それ自体に未知の危険にさらされるリスクが伴う。特に、山歩きから登攀へとか、無雪期の登山から積雪期の登山へといった登山内容のグレードアップ時に、未知の危険というリスクが伴う。登山経験の範囲を少しずつ広げながら、危険性に関する知見を少しずつ広げていくことが必要である。中高年になってから登山を始めた人は、「後がない」という意識からか、一気に効率よく経験をグレードアップしようという傾向があり、そのため危険性の認識能力が追いつかないことがある。

8、危険性の認識とパーティーの形態
 パーティーの形態はパーティーの危険性の認識能力を規定するので、登山の安全性の観点からパーティーの形態は非常に重要である。
 見間違いや勘違い、思いこみ、主観的判断、経験、技術、判断力は人によって異なるので、リーダーだけでなくメンバー全員で危険性について検討することで人間の偏った判断をある程度排除できる。危険性の高い登山では登山中の危険性について参加者全員で判断することが望ましい。危険性の高い登山におけるパーティー編成の意味は、集団による技術・体力・経験・精神面などの強化、集団で危険性を判断する集団的安全チェック機能などにある。
 引率型のパーティーでは、パーティーの危険性の認識能力は引率者の能力によって規定される。そのようなパーティーでは、メンバーの数が増えてもパーティーの危険性の認識能力に影響がなく、むしろ、メンバーの数が増えれば、危険性の判断対象が増す。ツアー登山のように危険性の判断をすべて引率者に委ねる形態のパーティーは、対象とする登山を危険性の低いものに限ることが望ましい。

9、危険性の認識能力の訓練
雪崩の危険性を認識するためには積雪や雪崩に関する知識が必要であり、さらに情報を分析して危険性を判断できることが必要である。注意、すなわち精神の緊張によって、雪崩の危険性を認識できるというものではなく、雪崩の危険性を認識できるかどうかは、そのような能力があるかどうかの問題である。
 日常生活からかけ離れた登山特有の危険性については、一定の経験や訓練によりそれを認識できるだけの能力を身につけなければ、認識することが困難である。
沢の増水の危険性のような日常生活の延長にある危険性については、誰でも認識できないことはない。しかし、人間の危険性の認識能力は社会のあり方を反映し、それを必要としない社会的環境のもとでは危険性の認識能力は退化する。現在の都会的文化は人工的な生活環境に対し安全であることを要求し10)、人間の危険性の認識能力が低下する傾向がある。登山に関しては、環境に対し安全であることを求めるよりも、危険性の認識能力を高めることが必要である。
 登山経験によって危険性の認識能力を高めることができるが、それを意識的に行うのが危険予知トレーニングである。
 危険予知トレーニングは、実際の登山の「現物」に近い状況で行うほど高い効果が得られる。登山をしたことがない人が図上の危険予知トレーニングを行うよりも、登山をしながら危険予知トレーニングをした方が効果を期待できる。また、危険予知トレーニングは集団的に行う方が大きな効果が得られる。
 「秋の北アルプスで天候が急変したらどうなるか」、「今日は、吹雪などの天候悪化の可能性がどの程度あるか」、「もし、稜線で吹雪に遭ったらどのような危険が生じるか」、「この登山道の上方から落石が生じる危険はどの程度あるか」などを考えながら歩けば、危険予知トレーニングができる。
 冬山登山中に、「ルート上の雪崩や滑落の危険個所はどこか」、「視界が効かない場合に、ルートを間違えやすい場所はどこか」、「万一、ルートを間違えた場合、どのような事態が想定され、どのような危険が生じるか」などを考えながら登ることは、危険性の判断であると同時に危険予知トレーニングでもある。
 危険予知トレーニングでは、予知できることとできないことの区別が重要である。現在、登山中に雪庇の吹き溜まり部分の規模を判別する方法は確立されていないので、登山中に雪庇の危険性を正確に把握することはほとんど不可能である。大日岳雪庇崩落事故では、雪庇の規模を10メートル程度と判断したことが事故につながったが、もし、講師が「雪庇の規模はわからない」と考えていれば、雪庇の先端から可能な限り離れるという選択をしていただろう。未知の危険性がわかったつもりでも、そのほんの一部しかわかっていないことが多い。安全な登山をめざす場合には、あらかじめ「わかること」と「わからないこと」を区別し、明確に予見できないことは「わからないもの」として事故の回避方法を検討する必要がある。
 前記のとおり人間の感覚には生物的な「いい加減さ」があり、認識は感覚に左右される。
また、心理や感情などの影響が危険性の認識の障害になるが、それらを危険予知トレーニングの対象とすることは意味がある。例えば、どのような場合に登山者の思い込み、不安、あせりなどが生じ、それらがどのような危険性をもたらすのかを具体的に想定し、検討することは有用である。

[注記]
1)2008年7月に、神戸市で急に増水した河川で5人が死亡する事故があったが、警報設備の設置、監視体制の強化、退避路の数、親水公園や都会の河川の設計のあり方、危険表示方法などが問題とされている。都会の人工的設備ではこれらは必要であるが、それだけでは事故の防止に限界がある。登山のように人工的な管理のなされない自然の中での行為については、人間が危険性を認識できるかどうかが重要である。
2)1989年10月8日に、46歳〜66歳の10人パーティーが北アルプスの立山を縦走中に、急激な天候悪化と吹雪のために8人が凍死した。このパーティーが一ノ越山荘に到着した時には吹雪になっていた。その後、パーティーは雄山に向かったが、降雪が激しくなり、疲労から遅れる者がいた。雄山では相当疲労している者、食欲のない者、足に痙攣を起こす者、目眩がする者などがいたが、雄山から剣御前小屋に向かう途中で風雪の中で歩けなくなり、稜線で8人が凍死した(羽根田治、ドキュメント気象遭難、山と渓谷社、2003、p.145)。
3)北アルプスの大日岳で開催された文部科学省登山研修所主催の大学山岳部リーダー冬山研修会で、大学の山岳部員等32名を対象にして4泊5日の予定で入山したが、2000年3月5日に、大日岳の山頂付近で休憩中に、40メートル以上の規模の雪庇の先端から約15メートルの地点で雪庇の吹き溜まり部分が崩壊して、研修生2名が死亡した。
4)北海道雪崩事故防止研究会、最新雪崩学入門、山と渓谷社、1996、p.50
5)P.H.リンゼイ外、情報処理心理学入門U(第2版)、サイエンス社、1984、p.20
6)藤田一郎、見るとはどういうことか脳と心の関係をさぐる、化学同人、2007、p.123
7)その例として、泉京子、いまだ下山せず、宝島社、1994
8)村越真、子どもたちには危険がいっぱい、山と渓谷社 、2002、p.119
9)山鳥重、「わかる」とはどういうことか、ちくま書房、2002、p.191
10)現代人は基本的に人工物の中で生活しており、人工物については法的に安全であることが要求される(国家賠償法2条、民法717条、製造物責任法など)。安全性に対する国民の意識(社会通念)は強まる傾向があり、これは裁判所の判断に反映する。奥入瀬渓流落木事故の裁判(判例時報1931号、判例時報社、2006、p.83)などはその例である。

(日本山岳文化学会論集第6号、2008年、掲載)