危険社会と予見可能性

 2011年の東日本大震災や福島原発事故以降、リスクがとりあげられることが増えた。原発事故は人間の科学技術がもたらすリスクが現実化した事故である。ウルリヒ・ベックは1986年に既に、原発のような科学技術がもたらす危険が人類の階層や国籍に関係なく地球規模で生じる点で、産業社会・階級社会に対置して「危険社会」という言葉を用いた(「危険社会」、ウルリヒ・ベック、法政大学出版会)。
 科学技術が進歩する前は、誰もが、自然界にさまざまな危険やリスクがあると考えていた。科学技術の進歩は人々に安全性に対する信頼をもたらしたが、同時に、新たなリスクをもたらした。また、人類の認知能力の向上により、昔から存在するリスクが初めてリスクとして認知されることがある。建築技術の進歩が大量の高層建築物をもたらし、巨大地震による高層建築物倒壊のリスクをもたらした。航空機、自動車、原発などの発明が、人類に航空機事故、自動車事故、 原発事故などのリスクをもたらした。医療の発展が医療過誤のリスクを増加させる。
皮肉なことだが、用具や技術の進歩によって安全性が高くなると同時に、事故が増加することがある。クライミング用具と技術の進歩はクライミングの安全性を高めたが、同時に、クライミング事故を増加させた。用具と技術の進歩が安全性に対する信頼を生み、それがクライミング人口を増やした(ヨーロッパではクライミングの人気が高く、オリンピック種目の有力候補と言われている)。同時に、それがクライマーのリスクの意識を欠如させやすい。どんなに用具や技術が進歩しても、クライミングが持つ潜在的なリスクが減るわけではない。クライミング用具と技術の進歩が、用具の操作ミスや、かつては考えられなかったような初歩的なミスによる事故をもたらしている。他方で、用具と技術の進歩が安全性に対する人々の意識を高め、事故による法的紛争をもたらしやすい。
 同様のことは、ヨット、釣り、スキューバダイビング、パラグライダー、登山などのリスクを伴うレジャーにも当てはまる。用具と技術のない時代には、海に潜るのは素潜りしかなかなく、潜水中の事故はほとんどないが、現在では、スキューバダイビング中の事故は多く、訴訟が少なくない。
  弁護士の世界では、差止請求などを除き、事故が起きて初めてリスクを問題することが多いが、国民はリスクが現実化することを回避することに関心を持つ。事故を回避するうえで、リスクを予見することが重要である。不法行為に基づく損害賠償請求における注意義務は、裁判規範と同時に行為規範として、リスクの現実化の防止という点で重要な機能を果たす。

 医師、パイロット、山岳ガイド、スキューバダイビングのガイドなどは、もともとリスクの高い内容の仕事をしているので、些細なミスが重大な事故をもたらしやすい。彼らは常に事故のリスクを認識しており、事故が起きれば事故の予見可能性が認められやすい。
 ウルリヒ・ベックが述べる「危険社会」では、社会のあらゆる分野の危険が問題になる。かつてはリスクとして認識されることのなかった事柄が、現在はリスクとして認識される。40、50年前、学校や職場でのイジメや体罰、児童虐待や高齢者虐待などが蔓延していたが、それほど問題視されていなかった。しかし、現在ではそれらがもたらすリスクが深刻な問題として認識されている。
 国民全体のリスクの認識が高まれば、リスクの予見可能性も高くなる。現在では、学校や職場でのイジメや体罰、児童虐待や高齢者虐待がもたらす結果は、以前よりも予見しやすい。原発事故が起きる前と起きた後では、原発事故に対する予見可能性が異なるだろう。登山の安全性が高くなり、安全性に対する登山者の要求が高くなれば、山岳事故の予見可能性が高まる。50年前は事故の責任が問題にならなかったような山岳事故について、現在では「なぜ事故を避けることができなかったのか」という非難が生じる。津波被害についても、現在では、「被害は予見できたはずだ」という世論が生じる。
 不法行為に基づく損害賠償に関して必ず問題になる「予見可能性」という不可思議な概念について、法律家は悩み、市民は翻弄される。

 予見可能性に関する判決として、落雷事故に関する最高裁平成18年3月13日判決(判例時報1929号41頁)がある。この事故は、高校のクラブ活動としてのサッカーの試合中の落雷事故であり、事故前に雷雲、雷鳴、雷雨があり、雷注意報が出ていた。最高裁は、教育活動の一環として行われる学校の課外のクラブ活動では、教師は事故の危険を予見し、その予見に基づいて事故の発生を防止する注意義務があり、落雷事故発生の危険を具体的に予見可能だったと判断した。
 一般論としては、雷雲や雷鳴があっても地上に落雷することは稀である。また、落雷があるとしても、事故のあった場所に落雷するとは限らない。一般に、街中では、「雷が落ちることは稀であり、仮に雷が落ちるとしても、自分には落ちないだろう」と考え、それほど心配しない人が多い。自分に雷が落ちるとすれば、よほど運が悪いと誰もが考える。
 しかし、最高裁がこの事故について落雷の予見可能性を認めたのは、教育活動の一環として行われる学校の課外のクラブ活動では、教師は、雷雲や雷鳴があれば落雷がありうることを予想して、生徒を保護すべきだという考え方に基づくと思われる。この判決は、「教育活動の一環として行われる学校の課外のクラブ活動」に関するものであり、最高裁は教育活動における教師の注意義務を特別に重いものとして考えている。最高裁は、この判断が従前の平均的なスポーツ指導者の認識に反するとしても、それは関係ないと述べる。
 この判決に関して、興味深い経験をした。以前、私は、文部科学省の冬山登山研修・安全検討会の委員をしていたことがある。委員の中に大学の教育学部で心理学を教えている先生と工学部の機械工学の先生がおられた。会議の時にこの2人の先生が、「この最高裁の判決の落雷の予見可能性の考え方がどうしても理解できない」と言う。「予見可能性があるかないか」という発想は、工学者や心理学者には受け入れがたいようだ。機械工学の先生は、「工学では解析ソフトを使って可能性を計算するが、機械の作動に関して絶対に100パーセントの可能性という数字は出ない。事故の確率が何パーセント以上であれば予見可能性が認められるのか」と言う。確率という点で言えば、雷雲や雷鳴がある場合に雷がそのグラウンドにいる人に落下する確率は、航空機が墜落する確率よりも低いかもしれない。予見可能性を数値化すれば、1パーセントから99パーセントまでの可能性がありうるが、そのような数字は意味がない。予見可能性の程度が低くても、結果回避義務を課すべき場合がある。1パーセント程度の予見可能性は、恐らくあらゆる場合に認められるだろう。私は、2人の先生に「予見可能性は損害賠償責任を判断するための技術的概念であり、最高裁がそのような価値判断をしたということです」と述べた。すると、2人とも、一瞬、あっけにとられたような表情で、「そんなものなんですか」と驚き、同時に納得された。
 現実に落雷事故が起きたということは、落雷の危険があったことを意味する。教育現場では生徒の安全確保のために万一の事態に備えることが国民の期待であり、それが法的要請でもある。そこでは、予見可能性の判断は自然科学的な判断とは別のものであり、関係者が現実に落雷を予見できたかどうかは意味をなさない。
 国が実施した冬山登山研修会における雪庇(稜線の吹き溜まり部分及び庇部分)の崩落事故に関する富山地方裁判所平成18年4月26日判決(判例時報1947号75頁)も、同様の観点から理解できる。判決は、雪庇の崩落ではなく、雪庇の規模を予見可能性の対象とする方法を用いて損害賠償責任を認めた。一般に、稜線の巨大な吹き溜まりが崩落する確率は低いが、その規模は事前の調査で予見可能である。雪庇が崩落したということは、その危険があったのであり、裁判所は、国が実施する冬山研修会ではそのような場所に近づくべきではないと判断した。裁判所は、稜線の吹き溜まり部分を含めた雪庇の規模の調査義務を課すことで、雪庇の規模の予見可能性を認定した。雪庇の規模を予見すれば、崩落場所に近づくことを回避することが可能になり、崩落事故を免れるというのが判決の論理である。この場合の予見可能性は、結論を導くための技術的概念の色彩が強い。
 もともと、損害賠償責任における予見可能性は、予見できないことについて注意義務を課すことはできないという考え方に基づいている。しかし、事故を予見できるかどうかの議論はほとんど禅問答に近い。落雷、雪庇崩落、巨大地震のような自然現象の予見可能性の判断は難しい。人間の判断ミスに基づく事故についても、人間という自然物の行動の予見は難しい。自然は、「何が起きるかわからない」ことに本質があり、「何が起きるかわからない」ことを予見することは難しい。この場合、「通常人」という基準を持ち出しても基準にならない。国民の多くは雷鳴が鳴っても自分に雷が落ちるとは考えない。ほとんどの登山者は稜線にある巨大な吹き溜まりは予想できても、その崩落までは予想できない。稜線にある巨大な吹き溜まりは、通常、人が乗った程度では崩落しない。それがどのような自然のメカニズムで崩落するかは、誰にもわからない。誰もが、巨大な地震が「いつかは到来するかもしれない」と考えるが、「いつ到来するか」は誰にもわからない。しかし、社会の多くの場面で、国民の安全確保に対する強い期待に応える場面が増えている。

 他方で、予見可能性の有無は人間の行動の自由の範囲を画し、予見可能性の判断のあり方は人間の行動を萎縮させやすい。医療や登山などはもともとリスクを伴う業務であるが、その中でも、特別にリスクの高い場面がある。成功するかどうかが50パーセントという手術や、冬山やクライミングなどのガイド登山では、些細なミスが重大な事故をもたらしやすい。
 日本の実務では、アメリカ不法行為法のような危険の引受法理は基本的に採用されていない。アメリカでは、野球観戦時にファウルボールが当たって観客が怪我をした場合などに危険の引受法理が適用される。もっとも、アメリカでは州による違いがあり、最近は危険の引受法理ではなく、比較過失の法理を採用する州が多いとされている(「アメリカ不法行為法」、樋口範雄、弘文堂、219、231頁)。比較過失は、被害者と加害者の同質の過失を比較して損害賠償額を算定する考え方であり、日本の過失相殺とは異なる。
 リスクの高い登山における山岳事故について、被害者がリスクを承認していたかどうかは問題にされないことが多い。最近、エベレストでのガイド登山がけっこう実施されており、エベレスト登山での死亡率は約10パーセントである。ほとんどの事故は人間のミスによって生じる。エベレストなどの高山では、誰もが事故のリスクを認識しており、事故が起きれば、ガイドの予見可能性や注意義務違反を認定することは容易である。欧米で山岳事故に関する民事・刑事裁判がほとんどないのは、「もともとリスクを承認して登山をしているので、事故が起きても法的問題にならない」と考えられているからだろう。しかし、日本では、山岳ガイドが民事・刑事責任を問われる裁判例が少なくない。日本では、エベレストでの事故に関して、山岳ガイドが法的責任を問われることが起こりうる。
 同様の問題は、ダートトライアル(荒地等に設置したコースで車両の走行タイムを競うスポーツ)にもある。ダートトライアル中の事故に関して、千葉地裁平成10年9月25日判決(判例時報1673号119頁)がある。この事故は、ダートトライアル競技場において、初心者が練習中に運転操作を誤って車を柵に衝突させ、ベテランの同乗者が死亡したというものである。裁判所は、ダートトライアルにおいては過去に転倒や衝突事故は珍しくないが、死亡事故がなかった等の理由から、運転者に被害者の死亡の予見可能性がないとして運転者の損害賠償責任を否定した(刑事裁判も無罪)。
 しかし、死亡事故は転倒事故や衝突事故の延長上にあるので、過去に死亡事故がなかったことから予見可能性がないという判旨はおかしい。被害者がダートトライアルの危険性を了解したうえで助手席に同乗していたことを理由に、法的責任を否定すべき事案だったと考えられる。仮に、ベテランの運転者が初心者の同乗者を死亡させたとすれば、運転者が損害賠償責任を負った可能性がある。本来、初心者であろうとベテランであろうと、運転者が負う注意義務は同じはずなのだが。
 同様に、2人のクライマーが北アルプスの危険な大岩壁で岩登り中に1人のミスで他方が怪我をした場合に損害賠償責任は生じないと考えられるが、この場合に、事故の予見可能性がないという構成は無理がある。通常、クライマーは事故を予想しており、事故を怪我程度にとどめるためにロープを使用する(運がよければ、事故が起きても無傷ですむ)。ヨットの初心者3人で太平洋横断に出かけ、リーダーである初心者の操作ミスでヨットが転覆した場合の扱いなども同様である。これらは関係者がリスクを承認して行動しており、安全確保義務を課すことができないケースである。

 日本では、被害者側の態様を正面から取り上げてその当否を判断することは、国民から受け入れられにくいようだ。過失相殺では被害者側の態様を考慮するが、それは加害者の責任を認定した後の処理なので、国民から受け入れられやすい。世論は、加害者と被害者に二分し、加害者を非難の対象とし、被害者を保護の対象とする傾向がある。アメリカでは、危険の引受法理や比較過失の法理において、被害者側の態様の当否の判断が明確である。
 ウルリヒ・ベックが指摘するように、社会のあらゆる場面にリスクがあり、危険か安全かはリスクの程度の違いでしかない。リスクに関する被害者の対応は重要な意味を持つ。リスクの存在を直視するならば、被害者になりうる人を含めて誰もが、リスクを正確に認識し、それに基づいて行動することが求められる。しかし、日本では、リスクを表示する側も受け取る側もリスクの表示を敬遠する傾向がある。アメリカでは、当初、電力会社は原子力発電事業への参入に消極的であり、プライス・アンダーソン法によって電力会社の損害賠償額を制限することによって初めて市場に参入した経緯がある(「原発事故はなぜくりかえすのか」高木仁三郎、岩波新書、50頁)。彼らは原発事故のリスクを現実のものとして真剣に考えていた。しかし、日本では、原発事故のリスクと責任をあいまいにすることで原発事業が可能になったようだ。
 リスクに対する考え方は国によってかなり異なる。以前、カナダの北方の北極圏にあるバフィン島のアニュイトゥック国立公園で高さ1,000メートルの岩壁でクライミングをしたことがある。私たちは、国立公園の管理官から公園のリスクについて説明を聞くことを「強制」された。私たちはこの管理官に、「リスクは十分に理解している。我々は英語が苦手なので、難しい説明を受けてもよくわからない」と言って説明を免れようとしたが、管理官は許してくれなかった。女性の管理官が延々と1時間にわたって、「公園内に道や橋は一切ない。公園内では何十か所も川を徒渉しなければならない。時々、川の渡渉に失敗して死ぬ人がいる。川の水量が多い時は、何日か川岸で待機しなければならない。樹木がまったくないので嵐の時に逃げ場がない。低体温症で死亡することがある。氷河には多くのクレバスがあり、ヒドンクレバスは上から見えない。クレバスに落ちたら永久に遺体が出てこない。白熊に食べられたトレッカーがいる。僻地なのでヘリは来ない。人家から歩いて1週間かかる」などの説明をした。これらの説明内容は私たちが知っていることばかりだったが。
 この国立公園の管理官の仕事は、1人100ドルの入園料を徴収すること、クライマーやトレッカーにリスクを説明すること、公園内に一切の人工物を残させないことなどだった。アニュイトゥック国立公園には、トイレと避難シェルター以外の一切の人工物がない。避難シェルターは人がしゃがんで入れる程度の文字通りの小さなシェルターであり、日本のような「避難小屋と称する宿泊小屋」といったあいまいさはない。日本であれば、危険箇所に橋や柵がなければ、営造物責任が問題になる。アニュイトゥック国立公園に道や橋がないのは、それらを設置すれば初心者のハイカーが入園して事故が増えること、自然破壊を防止することなどを考慮したものだろう。カナダでは、自己責任の領域とそうではない領域が明確に区別され、国民がそれに基づいて行動できるようだ。
 日本では、一般に、自然公園等の管理者は利用者が減ることを恐れて、リスクの説明をあまりしない。たとえリスクを説明しても形だけのことが多い。利用者の側も、リスクの説明はあくまでタテマエであって、本当に危ないと考えない人が多い。そして、自然公園内で事故が起きれば、管理責任を問う声が生じやすい。日本では、アニュイトゥック国立公園のような危険な場所は、下手に管理すれば管理責任が生じるので、管理せず、放置するのが一般的である。これは、事実上の黙認を意味する。日本の登山は、山の管理権者の事実上の黙認のもとに行われていることが多い。しかし、事故が起きれば、管理責任者があわてて「立入禁止」にしたり、自然破壊を伴う「安全化」を経て、部分的に国民に利用させたりする。
 ドイツでは、州の法律で、公有林であると私有林であると問わず、森林のアウトドア利用の自由が保障され、同時に、森林の管理者に管理責任のないことが法律に明記されている(「ドイツ林業と日本の森林」、岸修司、築地書館、45頁)。森林内の歩道は可能な限り、自然状態が維持される。これに対し、日本では、公有林であると私有林であると問わず、立入禁止が原則であり、その代わり森林内で事故が起きると森林の管理責任が問題になる。国立公園内の奥入瀬渓流の歩道の休憩場所で上から落ちてきた木の枝で観光客が負傷した事故について、国と県の管理責任が認定された(東京高裁平成19年1月17日判決、判例タイムズ1246号122頁)。この事故の背景に、歩道のリスクを一切告知せず、多くの観光客を呼び込もうという公園の管理方法があった。この判決後、自然公園等では、安全管理のための自然破壊と立入禁止の範囲が拡大した。自然保護は、自然の中での自己責任が前提である。
 日本では、社会のあらゆる場面で、責任の発生を恐れて禁止の範囲が際限なく広がる傾向がある。自由な行動がなければ、自己責任の自覚や自立心は育たない。責任回避を重視する禁止社会では、自由で大胆な創造的活動が萎縮する。ある程度のリスクを犯さなければ進歩はない。同時に、失敗に対し寛容な社会的システムのあることが、リスクに挑戦する意欲につながる。
 激流でのラフティング、スキューバダイビング、パラグライダー、ダートトライアル、クライミングなどのリスクの高いレジャーは、リスクの承認があって初めて成り立つ。しかし、日本では、リスクの承認が重視されない傾向がある。リスクの説明ーリスクの承認ー自己責任が成り立つためには、リスクを自覚し、自分の行動を規律できることが前提になる。
 原発を稼働させるかどうかは、本来、原発のリスクを正確に表示し、国民がそれを理解したうえで、選択すべき問題である。しかし、しばしば、原発が安全であるかどうかという議論がなされ、それが再稼働の基準にされる。「安全であるか、安全でないか」という二者択一的な考え方は、原発のリスクの程度を正確に認識することを妨げる。「きちんと安全管理するので、安全である」という立論は、人間がミスを犯すリスクと自然現象がもたらすリスクを忘れている。人間は必ずどこかでミスを犯すというのが、人類の歴史的経験である。また、自然のメカニズムをすべて人間が把握し、自然を完全にコントロールするのは無理である。その意味で、どんなに安全管理をしても、原発事故のリスクはなくならない。議論できるのはその程度の問題である。
 社会のあらゆる場面にリスクがあり、リスクを正確に認識して賢明に行動することが求められる。人が生まれた時から病気や事故などのリスクがある。結婚すれば離婚のリスクがあり、会社に就職すれば倒産やリストラされるリスクがある。あらかじめ婚姻破綻のリスクを認識すれば、婚姻関係が破綻しないように努力することが可能になる。人間の生存に常に死のリスクが伴うことを自覚すれば、健康に注意し、事故に遭わない努力が可能になる。ただし、離婚、倒産、病気などのリスクを認識することは、それらを承認することとは異なる。病気や事故、自然災害のリスクを自覚すれば、生きていることや自然に対する感謝と畏敬の気持ちが自然に湧いてくる。それが自然保護の思想につながる。
 事業者と消費者の関係では、事業者にリスクの説明を義務づけることが必要である。リスクを承認した範囲では自己責任であるが、リスクの承認は、選択可能な状況下で選択することが前提である。失業やリストラ、病気などは自ら選択したことではないので、自己責任は問題にならない。
 新しいことに挑戦するには必ずリスクが伴う。創造的な活動や学問・文化の発展には必ずリスクが伴う。あらゆることにリスクがあることを承認し、リスクとの「賢明な付き合い方」を確立することが、社会の発展につながる。リスクを法的にどのように扱うかという点も、そのような「賢明な付き合い方」のひとつである。

(広島弁護士会会報94号・2013年掲載)