幸福な日々

  

 以前から、大自然の中で何も考えず何もしないで暮らしたいと思っていた。
その年の夏、私たちは今はカザフスタン共和国と呼ばれる国の奥深くにある氷河の上のモレーン(氷河が運んできた砂礫が積み重なったもの)が平らになった場所でキャンプをしていた。私たちは天山山脈の七〇〇〇メートル峰を一つ登った後にここで過ごしていた。
私は毎日毎日何もせず六〇〇〇メートルから七〇〇〇メートルくらいの峰々が刻々と変化する様子を朝から晩まで眺めて過ごしていた。
 七〇〇〇メートル峰に朝日が差すと山は黄金色に輝き、時間の経過とともにそれは次第に白銀に変わり、夕方には峰々の山頂の白い雪が赤く染まる。そして、夜になると峰々の頂が暗闇の中に白く浮かび上がり、幻想的な光景が出現する。
 時折、白い雲がピラミッドの形をした山頂付近をたなびいていった。雲は峰々の手前の斜面で突然発生しゆっくりと山頂の方へ流れ、やがて雲は山頂から過ぎ去り、しばらくするとまた次の雲がいつのまにか発生して山頂に近づき、その雲が山頂を覆い、そして去っていく。雲の形は細長いもの、楕円形のもの、筋状のものなど二つとして同じ形のものはなかった。雲は何かの形に似ていると思ってみればそのように見えるのだが、何にでも似ているようにも思えた。様々な形や表情をした雲が同じ方向に流れては去っていく。皆で、雲を眺めながら、雲の形が何に見えるかを言い合ったりした。無邪気な童心のひととき。
 一日中テントの前の適当な石に座って飽きもせず雲を眺めていた。何もすることがなかった。ぼんやりと過ごすことが何にも代え難いほど楽しかった。私は、なぜか無性に懐かしい気分がし、とっくの昔に忘れてしまった古い感覚を思い出していた。子供の頃、こういうのんびりした時間を過ごしたことがあったような気がする。その頃は時間の歩みはひどくのろく、時間は無限にあると思っていた。その頃、自分の知らない未知の世界は無限に広がり、未来は限りない可能性を秘めていた。  我々のいる場所から氷河の起伏が数キロメートル続き、そこから急峻な岩壁が天空をめざしてそそり立っている。岩壁は尾根へと続き、尾根は次第に傾斜を増しながらピークへと続く。そのピークの上にはさらに高いピークが待ちかまえ、連綿と続くピークの果てに主峰の山頂が控えている。このような山々が無数に連なって、氷河を屏風のように取り囲んでいる。
 人家のある集落からここまで歩けば恐らく一〇日くらいはかかるだろうが、我々はヘリで一気にここまで運んでもらっていた。
 ここは標高四〇〇〇メートル。既に初期の二日酔のような高度障害と反省期間も過ぎ、薄い空気のために不要な脳細胞も適度に死滅し、単純な生活に必要な最低限の脳細胞だけを残して脳味噌は身軽になり、都会のぜい肉をそぎ落として身体も身軽になっていた。
ロシア、ウクライナ、オーストリア、リトアニア、イギリス、ドイツ、イタリア、ノルェイなどから来た人たちが、登山やトレッキング(山歩きのこと)の途中でここに立ち寄り、ここでキャンプをしていた。 彼らはここで何もすることなく一週間、二週間と過ごしている。一日中日光浴をしながら本を読んでいる人もいれば、一日中何もせず、ただぼんやりと山を眺めている人もいた。彼らにとっては「何もしないこと」が最高の休暇なのだろう。彼らは本当の遊び方を知っていた。
 ここでは、彼らは太陽が少しでも現れるとすぐに裸になって日光浴を始める。氷河の上と言っても太陽が照りつければ暑い。太陽の日差しに対する彼らの渇望は大変なものだ。おかげで、目の前で若い女性がビキニ姿で日光浴を始めると私たちは目のやり場に困り、そう思いつつも横目でちらりちらりと彼女らを眺めていたのだった。
 ロシアのカムチャッカ出身だという老婦人は毎日一日中外で毛糸で編み物をしていた。 ここに遊びに来ていたロシア人のドクターがいた。このドクターは国際キャンプに駐在する医師、というのが本来の任務のようだったが、毎日毎日、若い女性を周りに侍らせて、いや、本当は若い女性が自然にドクターの周りに集まっていただけなのだが、ギター片手に歌を歌い、昼間から酒を飲んでいた。彼は、たまに、ロシアのただの酔っぱらいから医者に戻る時があったが、診察もせずにすぐに薬をくれ仕事は非常に早かった。このドクターはなかなかハンサムで人気者だった。たぶん、彼は都会ではロシア人の若い女性から相手にされないのだろう。
 我々の通訳をしてくれたのはモスクワの女子学生だった。通訳と言っても彼女は日本語が全くできないので、ロシア語を英語に翻訳して早口の英語でまくし立て難しいことは我々には理解できないことがあった。しかし、時には、我々の和製英語を由緒正しい英語の発音に「翻訳」して相手に伝えてくれたり、ロシア人式英語を和製英語に「翻訳」してくれ、通訳としての任務を十分果たしていた。
 彼女はしきりに我々に日本語を教えろと言って纏いついた。彼女は常にノートを片手に耳にした日本語を片っ端からメモしていた。「なるほど語学の秀才は、あのようにして常に努力しているのだ」と感心するだけの我々は、「ドープラエ、ウートラ」(おはよう)や「ダスビィダーニャ」(さようなら)からいっこうにロシア語が上達しないのだった。誰かが、「感心するだけならサルでもできる。努力こそが大切なのだ」と言い、我々はまた感心して頷くのだった。
 ここにいるロシアやカザフの人たちは金があるというわけではなかった。当時、ロシアやカザフスタンなどの旧ソ連の各国は混乱と困窮にあえいでいた。彼らは金はなくても、時間と生活と自然を楽しむだけの心のゆとりを持っていた。ここでは金は必要ない。金があっても店もなければ買うものが何もないからだ。
 腹が減れば飯を食い、酒を飲み、眠くなれば眠る。日の出とともに起き日が沈めば寝る。単純だが充実した生活だった。そこには、テレビもラジオもなく娯楽施設など一切なかった。ここではストレスを解消するための娯楽は必要ない。世界のいくつかの辺境を旅した私の経験から言えば、人間はストレスの生じる生活環境にいるほど、「激しく刺激のある娯楽」を必要とするようである。
 私の所持品は大きなザック一つに入る程度のものしかなく、生活に必要な最低限の所持品しかなかったが、単純な生活にはこれで十分だった。日本から持参した本は皆で回し読みし、不要になれば燃やした。不要なものを持っていれば荷物になるだけだからだ。持ち物が増えればそれだけしがらみが増え、身軽になれない。不要なものはどんどん捨てるのがよい。
 高価な装飾品やりっぱな身なりもここでは必要ない。いくら高価でも役に立たないものよりも、役に立つもの、必要なものが重視される。地位や肩書きなどここでは何の意味もなかった。ここは、実用本位、実力の世界である。
 同じモノを見ても幸福な気分になれる人と何も感じない人がいる。少ないモノで満たされる人は幸せである。
 もし、世界の人々が全てここにいる人たちのような生活をすれば、きっと戦争は起こらないのだろう。何故なら、ここでは富や財産が意味をなさず、それらの奪い合いもありえないからである。貨幣が生まれたことで富を効率よく蓄積できるようになったのだが、それまでは富の蓄積は土地や奴隷などの現物で行われていた。ここでは、金があっても買えるものがなく、氷河や山岳などの土地は利益を生まないので富の蓄積の対象にならない。もっとも、日本の観光資本であれば、この地域全部を購入してリゾート開発をしようと思いつくかもしれないが。
 ロシア人たちに、私が日本で弁護士をしていると言うと、「どんな仕事をしているのか」と尋ねるので、一〇センチメートル食い違う境界争いの裁判の話をすると、「日本人は面白い」と言って皆で大笑いした。
 何もしなかったが、腹はよく減りよく眠った。だいたい、私は周囲の者から「眠りが早い」といつも言われている。しかし、かつて一度だけ眠りの早さで負けたことがある。その時、奴は北アルプスの涸沢のテントの中でシュラフに入るなり三秒後には眠っていた。私は「負けた」と思った。私が眠ったのはそれから一〇秒後である。
 仕事のことは飛行機が日本の空港を飛び立った瞬間に全て忘れてしまっていた。一度だけ、このキャンプ中に、仕事のことで何か気にかかることがあったような気がして思い出そうとしたことがあるが、「何を思い出そうとしているのか」を思い出せなかった。たぶん、空気の薄さのために私の脳細胞の三分の一くらいは確実に死んでいたのだろう。 
 
 その後、私たちはまた過酷な登山活動を強いられ(好きでやっていたことではあるが)、二つ目の七〇〇〇メートル峰に登頂し、下山後にまた至福の生活に戻った。
 ヘリコプターで二時間ほど運んでもらって、氷河湖の湖畔でロシア人たちと一緒にキャンプをした。この時は、迎えのヘリが悪天候のために何日も遅れたため、何もすることがなかっただけではなく食料も枯渇していった。何日か経つ頃にはガスの燃料もなくなったので木を集めて燃料にした。空腹を我慢しながら、ロシア人たちと一緒に歌を歌ったりして過ごした。
 そこは、もっとも近い集落まで歩いて七日くらいはかかるような場所だったので、もし、食料が枯渇し迎えのヘリが来なければ大変困った事態に追い込まれるはずだった。しかし、この時既に私の頭は高度の影響で心配するだけの脳細胞が死滅していたのか、「まあ、なんとかなるだろう」、「そいういう細かいことを言うべきではない」というロシア式のいい加減さの境地から、やがて「生あるものはいつかは滅ぶ」というインド的瞑想の境地になった。何千年も前から変わることのないこの大自然の中では、一人の人間の生死などごく些細なことでしかなく、「この大自然の中でどうしろと言うのか。なるようにしかならないではないか」という悟りの境地になった。
 毎日、朝から晩まで空を見上げて過ごした。ここでは天候は一日のうちにめまぐるしく変化し、晴れているかと思うと、すぐに曇り、やがて雨から霰となり、雪が降り始めるが、しばらくするとまた晴れた。このような天候が毎日繰り返された。恐らく、この場所は地形的に気流の流れが速く天気の変化が早かったのかもしれない。一日中空を見ていても飽きないくらい空は変化した。
 自然はひとときとして同じ表情をしていなかった。自然には計り知れない神秘の生命力があると思え、自然に生命や魂が宿っていると信じ自然を信仰の対象とした昔の人々の気持ちがわかるような気がした。
朝、起きると、皆で集まって焚火を囲んでお茶を飲み、乏しくなった食料を分け合って食べ、おしゃべりをしているとやがて昼になり、またお茶を飲み、午後のおしゃべりをしているとあっという間に夜になる(そんな馬鹿なと思うが、本当である)。そして焚火を囲んで歌を歌う。
 それまではまずいと思っていたロシア製の固いパンのひとかけらでも、ここでは美味しかった。料理を美味しく食べるには金をかける必要などないのだ。普段は大食いのロシア人女性たちは食料が乏しくなると我々に優先して食料を分けてくれた。お世話になった彼女らの名前はもう忘れてしまったが、今頃どこでどうしているのだろうか。
 そこでは時間と空間が何ものにも邪魔されることなく、ゆっくりと流れていた。悠久の時間と広大な空間。時間と空間は永遠に無限に続くのではないかと思えた。
 そこにはモノは何もなかったが至福のひとときを過ごすことができ、人が幸福になるためには、家族、友人、健康や平和といったものは当然必要だとしても、モノは必要ないのだということをぼんやりと考えていた。もっとも、食料がなくなって空腹になると、人は幸福な気分ではいられないということもよくわかった。したがって、人が幸福になるためには食料と水以外のモノは必要ないと、訂正しなければならない。
 日本を離れていたのは僅か四五日程度だったが、この至福のひとときが永遠に続けばよいと思った。そのためなら仕事や家族を捨ててもよいと、ほんの一瞬、本気で考えた。こういう場所には人生を狂わす魔力が潜んでいるのかもしれない。チベットやインド、南米などに放浪の旅に出た若者で何年も戻ってこない者が時々いるが、そういう若者の気持ちはよくわかる。
 しかし、ついに迎えのヘリがやってきてこの至福の生活は終わりを告げ、現実の世界に戻る時がやってきた。私たちはあわただしく日本へ帰国し、帰国の途中で妻が二人目の子を出産したことを知り、再び日本での時間に追われる生活が始まった。
 
 あれからもう何年も経ったが、この時生まれた子供は、小学生の時に重病を患い、1年間学校に行けなかった。その子の病気が緩解して2年経ち、何とか生きていけると自信を持ち始めたころ、今度は私が生死に関わる大病に罹ってしまった。そういうこともあって、当時のことが特別に大切な時間だったと思える(広島弁護士会会報に掲載)。


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