三次からの近況報告


    「広島弁護士会会報」63号,1997、「自由と正義」、日本弁護士連合会、1998年49巻

                     
                                                  弁護士 溝手康史

 三次市に事務所を設けて数か月経ちました。
 事務所開設にあたり、広島弁護士会の会員の皆さんからは種々のご支援をいただきありがとうございました。
 三次に事務所を開設したことについて、「思い切ったことをしたものだ」、「また、どうして三次なんかに?」、「三次でやっていけるんですか」、「面白いことを思いついたものだ」などと言われた。
 私の場合、三次と何かのつながりがあるとか、知人がいるとかいうこともなく、開業時、広島地方裁判所三次支部での事件は全くなかったし、今まで私がいた事務所でも三次の事件はほとんどなかった。「それで、よく三次で開業する気になったなあ」と前の事務所の相良弁護士からも言われたが、自分でも全くその通りだと思っている。 
 私が、三次で開業したのは、簡単にいえば、漠然とした好奇心からのような気がする。
 私の趣味である探検とか冒険を追い求めて世界中を放浪して一生を過ごすことができればそれが理想であるが、現実はそうはいかない。事務所を転々とさせ放浪するわけにもいかず、せいぜい、私が広島市内の住居や裁判所、三次、福山、呉、浜田あたりまで足を伸ばして移動することができるくらいである。
 私は、以前から、できるだけ自然の中で生活したいという考えを持っており、それで、わざわざ田舎に畑を取得して時々「お百姓」をしている某弁護士の話を聞くと、よく納得できるのである。
 現在の住居は広島市内にあるが、将来は、田舎に引っ越して、弁護士と農業を兼業しようと思っている。それなら、私の実家のある東広島市のはずれで農業をしている母親が、息子が実家に帰ることを期待して実家の近くに宅地を取得して待っているのだから、そこに住めばいいようなものであるが、人間は我侭なもので、私はそれは厭なのだ。
 私の知人で、信州の白馬でペンションを経営し、営業は冬のスキーシーズンだけで、他の時期は店を閉鎖して海外遠征など好き勝手なことをしている人がいる。もっとも、この優雅な生活は、妻と離婚し、子供も成人して相手にしてくれないからこそできるのであり、気楽な生活にはこういうことがなければできないのだろう。
 考えてみるに、私の知り合いには、ずいぶん「変な人」が多い。 天山山脈遠征に一緒に行った近藤さんは、五〇代にもかかわらず、山岳ガイドであり、写真家であり、雑誌編集者であり、著述業などをして生活しているが、要するに定職を持たない。それでも奥さんがいるからりっぱなものだと変に感心したりしている。
 オートバイでアジア大陸を横断した広島の通称「畑ヤン」は二、三年後の放浪に備えて今は仕事に励んでいる。
 ヒマラヤのアクタシ峰に一緒に登った山本は遠征の前に公務員を退職していたが、その後もアルバイトをしながらヨセミテやスペインで岩登りをし、今でも定職にはついていない。
 遠征に一緒に行った岡本はプロの写真家であり、写真集も何冊か出しているが、結婚式を比婆山の山頂近くで挙行し(山頂で挙式する予定だったが、当日は、降雨、寒さ、強風のため、やむを得ず山頂の少し下で挙式した)、ウェディングドレスで上がった花嫁はりっぱだが、何も知らず正装で参列した親族はいい迷惑だったと思う。
 かと思うと、四〇歳近くになって設計技師として長年勤めていた会社を突然退職してフリーのカメラマンに転職し、住居も三倉岳の麓に移し、周囲を驚かせた人がいる。
 夏に、北アルプスから帰る電車の中で、靴下の臭い較べをしたことがある。もちろん、登山靴の中で何日も履いていた靴下が対象である。二〇代の女性が、「私のが一番臭い」と自慢した時、周囲の乗客が顔を背けていたことを私は知っている。
 二〇代から五〇近いオジサンまで数名、毎週、土、日曜日には必ず、三倉岳や帝釈峡の岩場で岩登りをしている人たちがいる。岩登りの好きな私でさえ彼らを見ていると、余程の物好きだと呆れてしまうのだ。
 これらの人の中で離婚経験者は、すぐに五、六人が思い浮かぶが、我侭な生活にはそれなりの覚悟が必要だ。
 現在、私の住居は広島市内にあり(安佐南区)、広島市内から三次の事務所まで通勤している。妻は広島市内で教師をしているから住居を広島市外に移すことには猛反対だ。子供たちも学校や友達の関係で同様に反対している。今は家族の中の力関係では私は弱いが、「既成事実の積み重ね」によってこれを崩そうというのが私の狙いである。
 そういうことを知ってか、妻は、「広島市からよそへ行くのなら一人で行ってくれ」言っている。それも仕方あるまい。
 元来、私はどこかあてのない所を放浪したいという願望があり、以前インドに行った時に、インドを放浪して親の知らない間に結婚までしている広島の出身の若者に会い、彼を羨ましく思ったりしたものだ。
 しかし、現実の仕事や生活は、時間に追われ、「今日、事務所についたら、○○に電話をして打ち合せを入れなければ」とか、「○○の事件の立証をどうしようか」などということを常に考え、およそ、私の願望とはかけ離れたものである。法律を扱う仕事は、どうもロマンというものがない点がよくない。
 現在の仕事については、三次支部以外の広島地裁本庁等での事件があるので、時間のかなりの部分は三次にいないというのが現在の実情である。また、広島市内で事件の処理のために、二、三日、三次の事務所に顔を出さないことはよくあるし、一週間くらい事務所に不在のこともある。
 たまに事務所に出てみると、扉に、「ただ今外出中です。今日は弁護士は来ません」という張紙をしたまま事務員がおらず、結局、その日は事務員と連絡がつかなかったということもあった。
 三次での事件も次第に増えたが、広島と三次に仕事がまたがることからくる時間のロス、通勤時間上のロスは実に大きく、毎日時間に追われている。昼食は、移動する車の中で運転しながら食べることが多い。三次に行った日は、まとめて仕事をするので、広島市内の自宅へ帰る時間はだいたい午後一〇時から一一時になる。三次で酒を飲んだ時は車の中で寝ることにしている。
 ほとんんど値打ちのない農地、山林の境界争いが実に多いこと、不渡りを出した後も営業を続け債務整理を依頼するケース、筋の悪い個人の金融業者相手の交渉、私の車が事務所に停めてあるのを見ていつも相談にくる近所の人、何かあるとすぐに事件の相手方が事務所に来るなど、骨が折れる事件が多いことは確かだ。弁護士費用をすぐに払えない依頼者が多くその処理に苦労していることは以前と同様である。 
 事務所を開設したことは多くの市民から歓迎されているようであり、裁判、法律相談といった弁護士の本来の仕事とは別に、その地域の発展や改革のために弁護士が果たす役割や期待には大きいものがある。
 「三次は雪が降るので大変ではないですか」とよく言われるが、四輪駆動車にスタッドレスタイヤ(スパイクタイヤの代わりに製造された冬用タイヤのこと)を装着していれば、雪のない路面とほとんど変らない運転ができ、オフロード感覚で雪道の運転を楽しめる。
 ところで、私は平成三年と平成五年にヒマラヤに遠征したが、その後も、夏には穂高の滝谷・屏風岩、剣岳のチンネなどでの岩登り、冬の穂高・甲斐駒ケ岳・八ケ岳の大同心などの他、夏期は天応烏帽子岩山や三倉岳での岩登り、冬期は大山北壁の登攀を中心に岩登りを行い、相変わらず飽きもせず岩登り三昧の日々を送っている。 
 この一年間を振りかえると、剣沢で大型台風の直撃を受けテントのポールが折れないよう全員で二四時間同じ姿勢でポールを支え続けたり、チンネの三の窓で濡れた身体で一晩中一睡もせず震えながらのビバーグをしたり、沢登りの時にマムシに咬まれ一〇日間入院したり、正月にハワイで泳いだその数日後に八ケ岳の零下二〇度の中でアイスクライミングをしたり、冬の大山屏風岩で目の前で起こった滑落事故の救助作業のために家に帰ったのが朝の七時になったことや、広島国体登攀競技の競技役員をし一週間現地にカンヅメになったことなどが思い出される。
 来年、広島のメンバーでバフィン島(カナダの北方の北極圏にあり、大岩壁がたくさんある)への遠征の計画がある。こういう大岩壁を所謂「ビッグウォール」と呼ぶが(要するに日本語を英語に変えただけのことだが)、「ビッグウォール」は、高さ五〇〇メートルから二〇〇〇メートルくらいの大岩壁を一般的に指す言葉である。
 登山の面白さはその登攀ルートの難しさにあると私は思っているが、最近はこういう大岩壁が脚光を浴びている。バフィン島付近は以前は極地探険の対象だったが、現在では探険の時代は終り、世界の中で未登の大岩壁がたくさん残されている数少ない地域の一つとして、岩登りの対象として注目されるようになった。しかし、現在でも、付近にはわずかにイヌイットと呼ばれるエスキモーの集落があるだけで、この地域に関する資料は少なく、岩壁の麓までのアプローチ自体に探険的要素がある。
 予定されている遠征の期間は二か月であるが、私も一応参加の意思表示はしているものの、「さて、その間、事務所はどうしたものか」、「その間、事務所がつぶれないですむ方法があるか」などの問題があり、現在、思案中である。
 誰か、名案を考えてくれませんか(
広島弁護士会会報63号,1997、「自由と正義」、日本弁護士連合会、1998年49巻)