「自分の思い通りにしたい」人たち
  
 
 世の中には、「自分の思い通りになる」ことに異常に執着する人がいるが、これはある種の人格の偏りである。
 人格に偏りがあっても、社会に害悪を及ぼしトラブルを起こさなければ問題はなく、「自分の思い通りになる」ことに執着して自分で苦しむだけなら弊害は少ない。また、人格の偏りが創造的な活動の原動力となることがあり、「自分の思い通りにしたい」という執着が前向きの自己実現に向かえば、すぐれた業績と結びつく。植村直己は、若い頃から密入国や外国での不法就労、放浪と冒険を繰り返し、日本ではまともに働いたことはない。植村直己は知名度が高かったので国民栄誉賞を受賞したが、日本では、仕事をせず一生放浪と冒険に明け暮れる人間は、その人格や性格の偏りが問題視され、非難の対象となることが多い。社会の激動期には人格に偏りのある者がリーダーとなることがしばしばあり、織田信長には反社会的人格障害の特徴があったと言われている。
 他方で、世の中には、性格や人格に偏りがあるために、対人関係のうえで「自分の思い通りにする」ことに異常に執着し、常にトラブルを起こす人間がいる。統合失調症や躁鬱病などの精神疾患のある者が法律事務所を訪れることがしばしばあるが、性格や人格に偏りがある人は精神に異常はなく、精神疾患のある者と明確に区別できる。性格や人格に偏りがある者は多くの法的なトラブルを引き起こし、再三法律事務所を訪れ、事件の相手方となることが少なくない。
 10数年前、離婚後に元妻や親族に対する暴力や嫌がらせを繰り返す元夫がおり、ストーカー行為取締法やDV防止法制定以前だったので、裁判所の仮処分命令(「元妻に近づいてはならない」という内容の仮処分命令)で対処したが、結局、元妻が「蒸発」した事件がある(「蒸発」の前に仮処分を取り下げて仮処分保証金を精算し、代理人を辞任した)。元夫の元妻に対する暴行や器物損壊に対し110番通報しても、警察はなかなか元夫を逮捕しないし、元夫が逮捕されても罰金を払えばすぐに釈放された。司法の生ぬるい対応よりも、「蒸発」という自力救済の方がよほど意味のある方法だった。その元夫が、元妻の蒸発から8年くらい経ってもまだ諦めずに私の事務所に来て居座り、「妻がいなくなって困っている。どうしてくれるのか。責任をとれ。警察を呼べるものなら呼んでみろ」と言うので、警察に110番通報をしたら、パトカーが2台も私の事務所に来たので驚いた。警察は「法律事務所で大事件発生」とでも思ったのかもしれない。私としては、既に辞任している事件なので、事件の相手が何を言っても対処のしようがない。私は警察官にその男を「不退去罪で逮捕してくれ」と言ったが、警察官は逮捕することなく、その男に対し退去するように説得を始めた。その間、私は「さっさと逮捕すればいいのに」と思いつつ、警察官と元夫が大声で怒鳴りあっている傍らで別の仕事をしていたが、結局、警察官は2時間くらいかけてその男を説得して退去させたので、そのねばり強さに少しだけ感心した。
 職場の同僚の女性に対し、「私生活が乱れている」と言って干渉や付きまといを繰り返す男性が、10数回私の事務所を訪れ、毎回1時間以上相談したことがある。その男性の相談内容は、「自分はその女性から精神的苦痛を受けたので慰藉料を請求したい」、「女性が間違っていることを気づかせたい」といった内容である。この男性は女性に対する恋愛感情はなかったが、「その女性の行動の間違いを是正する」ことに異常に執着していた。他人から見れば、その女性の行動など「どうでもよいこと」に思えるが、その男性にとってはそうではなかった。その男性の頭の中では、「その女性の行動の間違いを是正する」かどうかは、その女性の私的な事柄ではなく、その男性に関わる重要な問題だったのである。その女性に関することは、男性の拡張された「自己」の一部になっていた。この男性は本人申立で何件もの民事訴訟などを行った。
 ストーカーの特徴は、@人間関係における「自分の思い通りにしたい」という異常な執着、A他人や社会に対する攻撃性、B「自分は自分、他人は他人」という「自己」の自立性の欠如、C「他者」への依存性と思い通りにいかない場合の被害意識(加害行為をしていながら、被害意識を持つのが人格障害の特徴とされる)、D問題解決の展望の欠如などであるが、「他者」との関係で「自分の思い通りにしたい」という感情から出発し、あらゆる理屈が自分の感情の正当化のために用いられる(注1)。したがって、自分を妨害する相手方、弁護士、警察、裁判所、社会は不正の象徴となる。ストーカーが好んで法律事務所を訪れるのは、自分は正しいと確信しているので、司法は自分を「救済」してくれるはずだと無邪気に思い込むからである。「池田小学校事件」の加害者も、事件前に、元妻の親族に対する慰藉料請求訴訟を起こしている。
 前記のストーカーの元夫は、「いっそのこと妻が自分を殺してくれれば、自分がこのようなことをしなくてもすむ。自分が死なない限り、自分のこの感情を抑えられない」と言っていた。元夫は、ストーカー行為を繰り返しても妻が戻ってくることがないこと、妻が戻ってきても以前のような生活ができないことは自分でもよくわかっている。ストーカー行為を続けても自分が望む結果が得られないことがわかっていながら、それでもストーカー行為の欲求を抑えることができない自分に苦しんでいる。このようなニヒリズムは、自分か相手の死による「解決」をめざすことが少なくない。ストーカーは「他者」との関係でしか「自分」を考えることができないので、「他者」との関係を遮断されれば、自分が無価値になると感じる。人間は「自己」が無価値になるという喪失感に堪えることはできない。ストーカーは自分の力では自分の行動をコントロールできないので、その暴走を止めるには法律の強制力しかない。現在、ストーカー行為取締法やDV防止法が適用される範囲では法律の強制力が期待できるが、それらの適用場面以外でも法律の強制力が必要である。日本でも、夫婦喧嘩で暴力を振るえば、110番通報ですぐに警察官が来て被疑者に手錠を掛ける欧米諸国を見習うべきである。
 このようなストーカーとは別に、最近は、「ストーカー的行為」が増えており、弁護士がこの種の相談を受けることは多い。これらはストーカー規制法やDV防止法の対象外なので、法律的に対処しにくいという問題がある。
 自分が経営する医院で実習をしている女性の看護士が、医師からの「セクハラ」を理由に医院を辞めたことに腹を立て、「今まで出してやった学費や小遣いを返せ」と言って看護士を追い回した医師がいる。看護士への尾行、看護士の住居への夜間の取立、多数回に及ぶ電話などがあり、弁護士からの内容証明による警告は完全に無視された。しかし、ある先輩の医師が「そんなことをしていたら医者ができなくなるぞ」と忠告したら、看護士への嫌がらせがピタリと止んだ。この医師にとって、それまで自分が面倒を見てやった看護士は自分が支配する対象であり、自分の行動は「正当な権利行使」だと考えていた。この医師の場合は、たまたま、「ストーカー的行為」を繰り返すことによって自分が失うものが大きかったので規範が作用した。
 自分の愛弟子に反旗を翻されて激怒し、弟子に暴力を振るい、慰藉料請求訴訟を起こした高名な武道家がいるが、この医師に似ている。個人間の貸金返還請求が「ストーカー的行為」になるケースは多い。隣人との人間関係がこじれると、隣人が日常的に使用している通路の通行を妨害したり、隣地にゴミや妨害物を置く事件が時々ある。最近は、売買代金や貸金の取立、交通事故の示談をめぐるトラブル、土地の紛争などをめぐる他人への嫌がらせがしばしば起こる。これらはすべて「自分は正しい」という確信犯である。
 「ストーカー的行為」は、相手を自分の思い通りにしようとして嫌がらせをする点や、自分の行動は正しいという思い込み、「自己」の自立性の欠如などの点でストーカーと共通性がある。そこでは「自己」が「他者」の行動に関する領域まで拡張されており、「他者」に対し「自分の思い通りにしたい」という支配と干渉が生じる。
 しかし、根底に民事紛争がある「ストーカー的行為」の場合は、民事紛争が解決されれば「ストーカー的行為」が中止されることが多い。失うべきものを持たないストーカーと違って、多くの「ストーカー的行為」者には失うべきものがあるので、その弱点を突くことが違法行為を中止させるために効果的である。金銭に執着する「ストーカー的行為」の場合には、金銭的な制裁が効果がある。大学教授の妻が、夫の不倫相手の住居の周辺に中傷ビラを配るなどの嫌がらせを行った事件では、「夫が大学を追われるかもしれない」という点をほのめかすだけで、簡単に嫌がらせが中止された。
 「ストーカー行為」か「ストーカー的行為」かを問わず、「解決の展望のないニヒリズム」に対しては、逮捕などの強制力によるしかない。逮捕されてマスコミを賑わした「騒音おばさん」のような激情に基づく確信犯については、恐らく仮処分や損害賠償請求は意味をなさないと思われる。このような確信犯は刑務所を出たら、またストーカー的行為を行う恐れがあるが、また逮捕して刑務所に入ってもらうしかない。日本では相当極端なストーカー的行為をしない限り、刑法の適用がない点や、ストーカー規制法は、「恋愛感情その他の好意の感情」を前提とするという問題がある。恋愛感情と無関係の、失うべきものを持たないストーカー的行為に対しては、ストーカー規制法の適用対象を広げなければ、問題は解決できない。
 人格の偏りが思い込みの強さをもたらしているために、「自分の思い通りになる」ことに執着する人がおり、そういう人は法律や理屈と親和性があり、好んで法律事務所を訪れる。弁護士は「法律を扱う」前に、「人間を扱う」ことが求められる。
 ある30代の無職の男性は、購入した自動車に欠陥があるということで何度も相談に来ていたが、いつも、一方的にメーカーや役所、法律、弁護士を攻撃していた。ある時、その自動車で事故を起こして裁判になり、「勝訴の見込みなし」として法律扶助申請を却下されたので、本人訴訟で最高裁まで争ったそうである。最高裁への上告申立が多すぎる点がしばしば指摘されているが、「自分の思い通りにする」ことに執着する人たちの心理を考えれば、上告制度がある限り上告申立の数は減らないだろう。この男性は、その後も別の事件で何度も法律相談に訪れ、別件で本人訴訟をしている。今後一生、裁判と縁の切れない人生を送ることになる。
 飲み屋で些細なことから傷害事件を起こした被告人の国選弁護人になった時のこと、判決は20万円の罰金だったが、被告人は判決内容に激怒し、「お前らそれでも人間か」と怒鳴りながら裁判所内を練り歩いた。その被告人が裁判所から帰り際に裁判所職員の車に疵を付けたことを、後に裁判所関係者から聞いた。被告人が判決に激怒した理由は、「執行猶予付の懲役刑にならなかった」点にある。??? つまり、執行猶予付の懲役刑であれば経済的負担がないが、罰金刑だと経済的負担があることが不満だったのである。その被告人はものすごくケチな人間だったので、「余分な金の支出」に我慢ならなかったのだ。その被告人は、「罰金刑は間違っている。執行猶予付の懲役刑が相当である」(!)という理由で控訴した。その被告人は貸金業を営んでおり、金がないのではなく、単に異常なほどケチだっただけである。
 業者に自宅の一部を壊されたとか、1億円近い金を業者に騙し取られたとして何度も相談に来たある女性は、いつも突然私の事務所を訪れて1時間くらい一方的にしゃべり続ける。相談日を予約しても予約した日には来ないで、いつも予約なしに突然法律事務所にやってくる。こういう人は、たいてい、他人の都合は一切考えない。この女性も法律扶助の申請をして「勝訴の見込みなし」として申請を却下されたので(法律扶助の審査委員はこの女性から5、6時間話を聞かせられたらしい)、本人訴訟をしたが、思い通りにならない裁判に腹を立て、裁判所内で書記官に暴力を振るったと聞いている。
 裁判が自分の思い通りにならない場合に裁判所内で暴力を振るう人は、裁判所に対する依存性とそれが受け入れられない場合の攻撃性という点で、ストーカーに似た心理的構造がある。思い込みの強い確信犯にとって、自分の法的正当性を否定されることは自分の人格の否定を意味する。そういう人は、弁護士を「自分の思い通りにする」ために法律事務所を訪れており、弁護士が「自分の正当性を認める」まで何時間でも一方的に話し続ける。ただし、思い込みが強いというだけでは、ストーカーのような「解決の展望のないニヒリズム」はないので、法的手続に基づいて対処することが可能である(注2)
 一般に、ストレスと「自分の思い通りにすること」は密接な関連があり、人間はストレスを強く感じると「自分の思い通りにしたい」という傾向が強まると言われている(注3)。子育てにストレスを感じる母親が赤ん坊を自分の思い通りにしようとし、それができない場合に赤ん坊を虐待することがあることなどはその現れである。
 最近、些細な交渉事件でも、自分の要求を相手方が呑まないことに大きなストレスを感じ、そのストレスに苦しむ人が増えている。相手方が自分の要求を呑まない時に、「それはあくまで相手の考えである」、「相手は相手。自分は自分」と考えればそれほどストレスを感じないが、「他者」によって影響されない「自己」の稀薄な人は、相手方が自分の要求を呑まない場合に自分の人格が否定されたと受けとり、大きなストレスを感じる。そのような人の「自己」は、「他者」との関係でしか成り立たないような脆弱なものであり、「他者」との関係でしか成り立たないような「自己」は、「他者」の動向によって常に翻弄される。
 対人関係における「自分の思い通りにする」ことに対する執着は、人格の形成過程で「自己」を確立しにくい日本の社会状況と、計算可能性や予測可能性の偏重、人工的管理、マニュアル的文化、ストレス社会の影響を受けて、強まっているのではないかと思われる(注4)
 「他者」に対する支配欲の強い人間はどこにでもいるが、ほとんどの人は、相当偏執的な者でも、通常、常識的なルールに基づいて「自分の思い通りにならない」場合に諦めるという柔軟さを持っている。しかし、確率的にこのような柔軟性を欠く人間が必ずおり、それはある種の人格の偏りである。この人格の偏りは、人格の幼児性、自立性の欠如、他者への依存と甘え、対人関係における「ギブ・アンド・テイク」の欠如などと表現できるが、幼児期以降の人格の形成過程に重大な問題があったと思われる。しかし、人格形成に問題のある子供でも集団の中で目立つことなく与えられた課題さえこなしていれば、親や学校、社会から「普通の子供」と見られ、重大事件を起こすまで誰もその異常性に気づかないことが多い。
 人格の偏りのために「自分の思い通りになる」ことに執着する人にとって、「自分の思い通りにならない」ことはすべて法的紛争になり、法律や司法は自分の正当性を実現するための格好の手段となる。
 裁判で負けた場合、法律によって自分の意思に反することを強要されることは、誰でも大きなストレスになるが、ほとんどの人は判決に不服があっても、やがて諦める。裁判に勝つ者にとって裁判は権利を実現する過程であるが、裁判に負ける者には裁判は「自分にあるはずの権利」を諦める過程である。「自己」を確立している人は、裁判で負けても「裁判だけが人生ではない」と考えるが、「自己」の未成熟な人は、裁判で負ければ自分の人格が否定されたと受けとる。裁判で負けた程度のことで否定されるような人格は、その程度の人格でしかなかったことになる。一般に、法律や判決の内容が「正しい」とは限らないが、それを無視すれば法治国家は成り立たない。どんなに法律や判決に不満があっても、一応、それらにしたがったうえで、別の手段や領域で自己実現を考えるのが、「オトナ」である。
 最近、自分の車にほんの少し疵がついたり、進路の譲り合いのトラブルから簡単に人を殺傷する事件があるが、車は自分の思い通りに動く道具であり、車の進路はその延長にある。車とその走行は自分の支配に属するものとされ、拡張された「自己」の一部になっている。車の進路を妨害されることを「自己」の否定と受けとり、腹を立てる日本人は多い。
 地位や肩書き、金銭、装飾品などが拡張された「自己」の一部になっている人や、自分の子供が拡張された「自己」の一部になっている人がいるが、人間は自分の所持品や属性を「自己」に取り込む傾向がある(注5)。養老孟司が言う「こうすれば、ああなる社会」では、「自己」が拡大する傾向がある。恋人や夫婦の場合には、深層心理において交際相手や配偶者が「自己」の一部になる(注6)
 前記の「飲み屋で些細なことから傷害事件を起こした被告人」の場合は、「金への執着」が「自己」の大きな部分を占めていた。また、前記の元妻を追い回したストーカーは、「妻との関わり」が「自己」のすべてであり、妻との関係を遮断されれば、その後には「空っぽの自己」しか残らない。仕事が「自己」の大部分を占め、仕事を取り除いた後の「自己」を無価値と感じる人は「過労死」予備軍である。現在、安易に「他者」の価値観を受け入れることや、直接体験に基づかない疑似経験によって価値観が形成されることが多いために、「自己」が現実から遊離する傾向があり、そのような「自己」が拡大すればするほど「本当の自分」がわからなくなる(注7)。若者の間で「自分探し」が流行するのはよく理解できる。狂信的な宗教的集団が成り立つ背景に、このような「自己」の未熟さがある。
 「自己」の拡大は、誰でも無意識のうちに「ストーカー的行為」に陥る危険をもたらし、「自己」の未成熟な人間の場合は異常行動に結びつき、重大事件に発展しやすい。
 対人関係における「自分の思い通りにする」ことに執着する人は、「自己」の拡張として「他者」に対し「自分の思い通りになる」ことを要求するが、「引きこもり」は、対人関係を遮断することで「自己」を防衛しており、「自分の思い通りにする」ことに消極的に執着しているといえる。
 異常な重大事件が起きる度に、加害者の「行為障害」や「人格障害」(注8)が問題となるが、これらはいずれも精神異常ではなく、人格に偏りがあるケースである。人は「行為障害」や「人格障害」のレッテルを貼ってそれらを社会から「排除」することで安心を得ようとするが、レッテルを貼る対象が増えると「排除」が追いつかなくなる。「行為障害」の診断基準は非常に広範囲のものを包摂するので、非行少年のほとんどがその診断基準を満たすと言われている。また、人格障害者のすべてが事件を起こすわけではなく、犯罪や法的トラブルを起こすことなく社会に適応している潜在的な人格障害者も多いので、「人格障害者」というレッテルを貼ることにそれほど意味はない。
 人格に偏りのある人間が重大事件を引き起こして初めて「人格の異常」が問題とされるが、そういう人間は、通常、それまでに学校や行政の現場、企業、近隣などで頻繁にトラブルを起こしている。神戸児童殺傷事件や佐世保女児殺害事件などの加害者も、事件の前に異常な行動が見られるが、親や学校、社会はそれを異常だと思っていなかった。凶悪事件を起こす子供は事件の前から「おかしい」のだが、親や学校、社会がそれに気づかないとすれば、親や学校、社会の感性が「おかしく」なっているのである。人間の感覚には一定の刺激が続くと麻痺するという性質があるが、同様に、人間や社会の異常性に対する人間の感性も、それに慣れてしまえば麻痺する。私はかつて犯罪がほとんどなく、子供の凶悪事件がおよそ考えられないブータンで2週間過ごしたことがあるが、その時、日本は社会の進歩の過程で、進むべき方向を根本的に間違えつつあると感じないわけにはいかない。
 人間は社会的な動物であり、人格の形成過程で社会の影響を敏感に受ける。人格はその成因においても結果においても社会的なものであり、現代社会のひずみが人格障害者の増加をもたらしている(注9)。このような社会状況に対し弁護士がどのように対応すべきかという点は、正解のない困難な問題であるが、重要な課題である(広島弁護士会会報83号に掲載)。



(注1)日本では、ストーカー規制法を始めとして、ストーカーに恋愛感情またはそれに関わる怨恨を要件とする考え方が強いが、人間が執着する感情を恋愛感情だけに限定しなければならない理由はない。ストーカー行為が当初は恋愛感情から出発しても、やがて憎しみに変わるので、強いて「恋愛感情」を要件としてあげる意味がない。恋愛感情が幼児的退行をもたらしやすいとしても、人間は恋愛感情以外の感情からもつきまといや嫌がらせを行うことが多く、それらも社会に大きな害悪を及ぼす。アメリカでは、ストーカーについて、法律で「計画的に、故意に、反復して、他人をつけ回し、嫌がらせを行う行為」と定義している州がある。
(注2)このような相談者は、法的紛争とは別のところに心の悩みを抱えている人が多い。例えば、前記の交通事故の裁判をした30代の男性の場合には、人間関係を作れないために就職できず、生活保護を受給していた。社会からの孤立感が強く、社会に対する不満が企業や行政などに対する攻撃に転化し、あらゆる出来事が法的紛争に結びついていた。現在、こういう類の法律相談が少なくない。社会の中での存在感や自分が生きているという実感が持てれば、本当は法的紛争などどうでもよいのかしれない。現在の「格差社会」は経済的格差だけでなく、人間の精神面でも大きな「格差」をもたらしている。このような悩みを解決するためには何時間でもねばり強く話を聞くこと(カウンセリング)が必要であるが、法律扶助の相談料では十分なカウンセリングを行うことは無理である。
(注3)「親子ストレス」(汐見稔幸、平凡社)69頁
(注4)「ストーカーの心理学」(福島章、PHP研究所)14頁は、ストーカーの顕在化の背景に現代の都市化、情報化がもたらした人間関係、コミュニケーション、自我意識の変化があるとし、ストーカーは都市に典型的な犯罪だとする。しかし、現在では都会的な価値観が全国的に浸透しているので、ストーカーに関して都会かどうかは重要ではない。また、同書では、自我が確立していない、未熟なパーソナリティの人はストーカーになるリスクが高いとされている(同187頁)。
(注5)「決められない!優柔不断の病理」(清家洋二、筑摩書房)153頁
(注6)「ストーカーの心理学」(福島章)228頁。コフートは、自己愛を映し出す鏡のような存在である「自己対象」は、対象であって、同時に、それ自体に主体性を認められた存在ではなく、自己の一部のように感じられる、と述べている。
(注7)「誇大自己症候群」(岡田尊司、筑摩書房)は、異常な行動を「誇大自己」の概念で説明している。「自己」の拡張と同時に、「自己」の希薄化も大きな問題をもたらす。もともと、「甘えの構造」(土居健郎、弘文堂)などが指摘するように、日本人には自立性の稀薄な傾向があるが、これは日本の社会的、歴史的、文化的、制度的な要因の結果であって、国民性という曖昧な概念で説明すべきではない。現在は、テレビ、新聞、書物、会話を通じて、文字や映像によってえられる知識が圧倒的に多く、それによって個人の価値観が形成される傾向がある。つまり、直接体験がなくても、テレビ、新聞、書物を通じてすべて体験したような気になるが、それらはすべて疑似体験であり、得られる知識は間接的なものである。疑似体験ではなく自分が直接体験したこと、すなわち、幼少期以降の、自分が直接見たり、聞いたり、感じるという喜怒哀楽を伴う体験を通じて、人間は、価値観や人格、自我同一性(これが自分だという実感)を形成すると思われる。エーリッヒ・フロムは、自己の空虚さに対する不安が他者への同調性を生み出すと述べたが、同時に、自己の空虚さは他者への攻撃性と関係がある(「若者たちに何が起こっているのか」中西新太郎、花伝社、285頁)。自己の未成熟な者が、他者との関係で強者になることを自己の確証としようとするとき、いじめと結ぶつく。そこでは競争的価値観の影響を無視できない。
(注8)「人格障害」は、日常生活や社会生活に支障をきたすほどに著しく偏った内的体験及び行動を持続的に示す状態をいう。「人格障害」は、以前は「精神病質」と呼ばれていたが精神病とは関係がない。授乳期の子供は、自分の思い通りにならない周囲を「悪者」とみなし攻撃的対応をするが、自我が未分化な大人にこれが発現すると人格障害と呼ばれる(「人格障害の時代」岡田尊敬司、平凡社、37頁)。ストーカーは人格障害と関係が深い。
(注9)多くの臨床家やソーシャルワーカーが、人格障害者が増えていることを指摘しているが、日本での人格障害に関する統計数字は存在しない。「人格障害先進国」のアメリカでは全人口の10〜15パーセントが人格障害者だと推測されている。「人格障害の時代」(岡田尊司)は、自己愛的な精神構造、社会構造が、人格障害を生み出す培養装置となっていること、現代社会の「操作性」と「幻想性」が自己愛に奉仕し、生の現実に接触することを回避させ、疑似現実が自己が支配する傀儡としての他者を生み出す点などを指摘している。オウム事件などの凶悪事件における「他者の観念的消失」を指摘する人もいる。少年犯罪を防止するうえで 生活体験、自然体験などの現実体験の重要性がしばしば指摘されている(「少年の凶悪犯罪・問題行動はなぜ起きるのか」玉井正明ほか、ぎょうせい、など)。

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